2025年度 大学入学共通テスト 本試験 歴史総合・世界史探求 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解③

<問題要旨> 

この問題は、オスマン帝国の近代化改革「タンジマート」と、その改革の方向性に関する知識を問うものです。特に、トルコ帽の採用がイスラームの儀礼に配慮しつつ西洋化を推進したことを理解しているかが鍵となります。

<選択肢> 

①【誤】 「タンジマート」はオスマン帝国の近代化改革を指す名称としては正しいですが、その改革は急速な世俗化政策により西洋化を推進したわけではありません。イスラームの伝統を尊重しつつ、西洋の技術や制度を取り入れるという側面がありました。 

②【誤】 「ドイモイ」はベトナムの経済改革の名称であり、オスマン帝国の近代化改革ではありません。また、急速な世俗化政策により西洋化を推進したという説明も適切ではありません。 

③【正】 「タンジマート」はオスマン帝国の近代化改革の名称として正しく、トルコ帽の導入が、礼拝の邪魔にならないようつばが付いていない点から、イスラームの儀礼に配慮しつつ西洋化を推進したことを象徴しているという説明も適切です。 

④【誤】 「ドイモイ」はベトナムの経済改革の名称であり、オスマン帝国の近代化改革ではありません。イスラームの儀礼に配慮しつつ西洋化を推進したという説明は、タンジマートの特徴とは合致しますが、「ドイモイ」とは結びつきません。

問2:正解①

<問題要旨> 

この問題は、図1の会談が行われた時期を推定する際に用いられる歴史的推論と、それによって絞り込まれる具体的な時期の組合せについて問うものです。中国の辮髪の風習と日本の洋装化という二つの歴史的要素から時期を特定する能力が求められます。

<選択肢> 

①【正】 「あ 中国の官吏の間で、辮髪の風習が広く見られた時期を調べる。」は、清代の中国の風習であり、辮髪は清の滅亡の契機となった辛亥革命(1911年)まで広く見られました。したがって「W 清が滅亡する契機となった辛亥革命までの時期」は適切です。 「い 日本の政治家や軍人が、洋装を取り入れていった時期を調べる。」は、明治維新以降、近代的軍隊の創設や官僚制度の整備に伴い、西洋式の服装が導入されていきました。したがって「Y 近代的軍隊が創設される契機となった明治維新以降の時期」は適切です。 これらの二つの事象が同時に見られる時期として、「あーW」「いーY」の組合せは妥当です。

②【誤】 「い-Z 日本の第一次世界大戦への参戦以降の時期」は、日本の洋装化がさらに進展した時期ですが、図1の中国側の辮髪の描写と合わせると、時期が限定的すぎます。 

③【誤】 「あ-X 溥儀を執政とする満洲国が建国されるまでの時期」は、満洲国建国が1932年であるため、清の滅亡(1911年)よりも遅く、辮髪の風習が広く見られた時期としては不適切です。 

④【誤】 「あ-X 溥儀を執政とする満洲国が建国されるまでの時期」は、満洲国建国が1932年であるため、清の滅亡(1911年)よりも遅く、辮髪の風習が広く見られた時期としては不適切です。また、「い-Z 日本の第一次世界大戦への参戦以降の時期」も同様に、時期の組み合わせとして適切ではありません。

問3:正解③

<問題要旨> 

この問題は、19世紀半ばの日本におけるドイツ(プロイセン)との修好通商条約締結に関する歴史的事実と、それに関連する国際関係や国内状況の知識を問うものです。特に、ノートに記された情報が史実と合致しているか、当時の日本の外交体制がどうであったかを正確に理解しているかが重要です。

<選択肢> 

①【誤】 ノートIに記された時期(1860年)において、ドイツ帝国はまだ成立しておらず、ヴィルヘルム2世が対外政策を進めていたのは19世紀末から20世紀初頭にかけての時期であり、時代が異なります。 

②【誤】 ノートIに記された時期(1860年)において、シンガポールはイギリスの植民地であり、ドイツ(プロイセン)の植民地ではありませんでした。 

③【正】 ノートIIに「日本との間に修好通商条約が結ばれた」とあり、その前の文に「安政の五か国条約の時と同様であった。」と記されています。このことから、日本はドイツ(プロイセン)との条約以前に、安政の五か国条約(1858年)によってアメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスと修好通商条約を結んでいたことがわかります。したがって、この記述は正しいです。 

④【誤】 ノートIIに記された時期(1860-1861年)において、諸外国との条約締結交渉にあたっていたのは江戸幕府であり、朝廷ではありませんでした。朝廷が外交の実権を握るのは、明治維新以降のことです。

問4:正解④

<問題要旨> 

この問題は、グラフから日本と中国における綿糸生産量と自給率の推移を正確に読み取り、綿糸生産量の推計方法に関する知識と組み合わせることを求めるものです。グラフの数値情報と、綿糸生産に関する基礎知識の双方を問うています。

<選択肢> 

①【誤】 「あ 綿糸の生産量は、力織機の台数から推計できる。」は誤りです。力織機は綿布(織物)の生産に使用される機械であり、綿糸の生産量とは直接関係ありません。 「X 中国では、1910年の時点で、国内生産量が国内消費量を上回っていた。」は誤りです。グラフの右軸は自給率を示しており、1910年の中国の自給率は50%を下回っています。自給率が100%を下回るということは、国内生産量が国内消費量を下回っていることを意味します。 

②【誤】 「あ 綿糸の生産量は、力織機の台数から推計できる。」は誤りです。 「Y 帝国議会開設後の10年間に、日本の国内生産量は5倍以上増加した。」は正しいです。帝国議会開設は1890年であり、1890年の日本の国内生産量は21(単位:1000t)です。その10年後である1900年には128(単位:1000t)に増加しており、約6倍の増加です。したがって、5倍以上増加したという記述は正しいです。 

③【誤】 「い 綿糸の生産量は、紡績機の錘数から推計できる。」は正しいです。綿糸は紡績機で生産され、その生産能力は錘数(スピンドル数)で測られます。 「X 中国では、1910年の時点で、国内生産量が国内消費量を上回っていた。」は誤りです。 

④【正】 「い 綿糸の生産量は、紡績機の錘数から推計できる。」は正しいです。 「Y 帝国議会開設後の10年間に、日本の国内生産量は5倍以上増加した。」は正しいです。 したがって、この組合せが最も適当です。

問5:正解②

<問題要旨> 

この問題は、1920年代から1930年代の東アジアにおける「モダンガール」の流行に関する資料を読み解き、その特徴や背景を正確に理解しているかを問うものです。特に、日本の状況だけでなく、京城(ソウル)や上海などの植民地・租界都市における現象についても考察する力が求められます。

<選択肢> 

①【誤】 パネル1には「欧米の最新の装いや髪型を模倣した女性」とありますが、モダンガールの髪型が「ロングヘアーを特徴としていた」とは読み取れません。むしろ、欧米の流行からショートヘアーやボブヘアーが主流であったと推測できます。 

②【正】 パネル1には、「大衆化の進展に伴い、1930年代の京城や上海、天津などでも、モダンガールの装いが見られた」とあります。京城は日本の植民地、上海や天津には租界が存在していたため、独立国(日本)、植民地、租界を問わずモダンガールの装いが見られたという記述は適切です。 

③【誤】 「モダンガールが闊歩した1930年代の京城」とありますが、統監府が設置されていたのは日露戦争後の1905年から1910年(韓国併合まで)であり、1930年代にはすでに朝鮮総督府に移行しています。 

④【誤】 「『玲瓏』が上海で創刊された当時の中国」は1931年ですが、この時期の中国は中華民国であり、中華人民共和国(1949年建国)ではありません。

問6:正解②

<問題要旨> 

この問題は、1920年代から1930年代のイタリアにおけるファシズム体制下のファッション政策に関する資料を読み解き、その内容の正誤を判断するものです。特に、ファシズム体制が経済統制や文化政策に与えた影響を正確に理解しているかが問われます。

<選択肢> 

①【誤】 「あー正」は正しいですが、「いー正」が誤りです。 

②【正】 「あ 思想や言論を統制するファシズム体制の下、国産衣服の生産が奨励された。」は正しいです。資料には「第一の目標は、衣服産業の国内市場の制圧である。国内の芸術家,職人,産業家、商人は、フランスびいきの消費者がイタリア製品に下す過小評価に対抗しており、最大限の支援を必要としている。」とあり、これはファシズム体制下で国産品奨励と産業保護が行われたことを示しています。 「い フランスもファシズム体制であったため、ファッションに対するフランスからの影響は歓迎された。」は誤りです。この時期のフランスはファシズム体制ではありません。また、資料には「フランスびいきの消費者がイタリア製品に下す過小評価に対抗しており」とあり、フランスからの影響を歓迎するどころか、むしろ対抗しようとしていることが読み取れます。 

③【誤】 「あー誤」が誤りです。 ④【誤】 「あー誤」と「いー誤」ともに誤りです。

問7:正解④

<問題要旨> 

この問題は、20世紀後半のイランにおける女性の装いの変化と、イラン・イスラーム革命の影響について、提示されたパネルと挿絵から読み取れる情報を基に、その正誤を判断するものです。革命前後の社会の変化を正確に把握しているかが問われます。

<選択肢> 

①【誤】 「あ・う」はどちらも誤りです。 

②【誤】 「あ・え」は「あ」が誤りです。 

③【誤】 「い・う」は「う」が誤りです。 

④【正】 「い 挿絵の授業風景を時代の古い順に並べると、挿絵2→挿絵1となる。」は正しいです。挿絵2では女性がヴェールを着用しておらず、教室に掲げられた国家元首の肖像も、イラン革命前のパーレビ国王と考えられます。一方、挿絵1では女性がヴェールを着用し、教室の肖像も革命指導者ホメイニと考えられます。イラン・イスラーム革命(1979年)によって女性のヴェール着用が義務化されたことを踏まえると、挿絵2が革命前、挿絵1が革命後と判断でき、したがって挿絵2→挿絵1の順となります。 「え イラン=イスラーム革命の結果、イスラームの教えに基づく共和国が成立した。」は正しいです。イラン・イスラーム革命の結果、世俗主義のパーレビ王朝が倒され、ホメイニを最高指導者とするイスラーム共和国が成立しました。

問8:正解⑥

問8:正解6 

<問題要旨> 

この問題は、第二次世界大戦後の女性の社会的地位や女性へのまなざしの変化に関する出来事を、年代順に正しく並べ替えるものです。ウーマン・リブ、男女雇用機会均等法、SDGsといった主要な出来事の時期を正確に把握しているかが問われます。

<選択肢> 

①【誤】 ②【誤】 ③【誤】 ④【誤】 ⑤【誤】 ⑥【正】 各メモの内容を年代順に並べると以下のようになります。

  • メモⅢ:アメリカ合衆国では、公民権運動などの高まりを背景に、性別役割分業や「女性らしさ」を問い直す女性解放運動(ウーマン・リブ)が起こった。 ウーマン・リブは、1960年代後半から1970年代にかけてアメリカ合衆国で高まった女性解放運動です。公民権運動の影響を受けています。
  • メモ II:日本で男女雇用機会均等法が制定され、性別役割分業にとらわれず、女性を採用したり昇進させたりすることが、事業主の努力義務とされた。 日本の男女雇用機会均等法は1985年に制定されました。
  • メモ I:性別役割分業が完全にはなくなっていないことを背景に、「ジェンダー平等を推進しよう」が国連サミットの「持続可能な開発目標(SDGs)」の一つに採択された。 国連の持続可能な開発目標(SDGs)は2015年に採択されました。その目標の一つに「ジェンダー平等を実現しよう」が含まれています。 したがって、正しい年代順は「メモⅢ→メモ II→メモ I」となります。

第2問

問1:正解④

<問題要旨> 

この問題は、14世紀半ばに地中海交易圏の都市で猛威を振るった疫病とその都市の組合せを問うものです。提示された資料から疫病の性質や都市の地理的特徴を読み解き、適切な歴史用語と都市名を選択する能力が求められます。

<選択肢> 

①【誤】 「ダマスクス」は中東の主要都市ですが、14世紀半ばの疫病の主要な流行地として「梅毒」は適切ではありません。梅毒は15世紀末以降にヨーロッパで大流行しました。 ②【誤】 「ダマスクス」は中東の主要都市ですが、14世紀半ばの疫病として「黒死病(ペスト)」は適切です。しかし、「ダマスクス」という都市の記述と合わせると、最も影響が大きかったとされる都市としてはカイロの方がより適切です。 

③【誤】 「カイロ」は地中海交易圏の主要都市として適切ですが、「梅毒」は14世紀半ばの疫病としては適切ではありません。 

④【正】 資料に「アにおける疫病は、女性と子供、小売商から始まり、ついには死者の数が増大した。」「スルタンは、郊外へ移動し…」「毎日1000人以上に達した。」「通りや市場が死体で埋め尽くされていた。」とあり、人口が密集する都市部での急速な感染拡大が示唆されています。また、「疫病においては、罹患するとすぐに死に至るため、誰も薬や医者を必要としなかった。」という記述は、当時の黒死病(ペスト)の致死性の高さを表しています。14世紀半ばにヨーロッパで猛威を振るった黒死病は、地中海交易を通じて中東や北アフリカにも広がり、カイロは当時のエジプトの中心都市として甚大な被害を受けました。したがって、「ア:カイロ」と「イ:黒死病(ペスト)」の組合せは適切です。

問2:正解③

<問題要旨> 

この問題は、前問で特定された都市「カイロ」が14世紀半ばにどのような王朝によって支配されていたかを問うものです。エジプトを中心とした中東の歴史における王朝の特性と時期を正確に理解しているかが問われます。

<選択肢> 

①【誤】 ベルベル人が中心となって成立し、北アフリカとイベリア半島を支配したのはムラービト朝やムワッヒド朝などですが、これらは14世紀半ばのカイロを支配していた王朝ではありません。 

②【誤】 北アフリカに興ったシーア派の王朝でカリフを称したのはファーティマ朝ですが、これは14世紀半ばより以前の王朝です。ファーティマ朝は10世紀から12世紀にかけてエジプトを支配しました。 

③【正】 14世紀半ば(1300年代半ば)のカイロは、マムルーク朝が支配していました。マムルーク朝は奴隷軍人(マムルーク)が中心となって成立した王朝で、モンゴル軍の西進(アイン・ジャールートの戦いなど)を阻止し、イスラーム世界の防衛に貢献しました。したがって、この記述は適切です。 

④【誤】 クルド系の軍人が創始した王朝で、十字軍からイェルサレムを奪回したのはアイユーブ朝のサラディンですが、アイユーブ朝は13世紀中頃にマムルーク朝に取って代わられました。

問3:正解④

<問題要旨> 

この問題は、空欄ウで示される都市(サンクトペテルブルク)に関する出来事とその背景の組合せを問うものです。提示された「準備メモ」の内容から都市の歴史的変遷を読み取り、ロシア史における重要な転換点と結びつける知識が求められます。

<選択肢> 

①【誤】 「この都市が急速に繁栄したのは、その当時の君主がギリシア正教に改宗し、聖堂が次々と建てられたからです。」は、キエフの改宗とキエフ・ルーシの繁栄を指すと考えられますが、ウの都市(サンクトペテルブルク)が建設されたのは18世紀初頭であり、時代と場所が異なります。 

②【誤】 「この都市が首都となったのは、その当時の君主が、初めてツァーリという称号を名乗り、それに見合う都が必要とされたからです。」は、イヴァン4世がツァーリを称し、モスクワが発展したことを指すと考えられます。サンクトペテルブルクはピョートル1世によって建設され、首都となった都市であり、ツァーリの称号との直接的な関連は薄いです。 

③【誤】 「この都市から1918年に首都が移されたのは、臨時政府が、自分たちと従来の体制との断絶を明示したかったからです。」は誤りです。1918年に首都がペトログラード(ウの都市、サンクトペテルブルクから改称)からモスクワに移されたのは、ロシア革命後のボリシェヴィキ政権(ソヴィエト政府)によるものであり、ドイツ軍の侵攻の脅威なども背景にありました。臨時政府は1917年のうちに倒れています。 

④【正】 準備メモには「1991年に、都市の名称が改めて変更された」とあります。これはレニングラード(サンクトペテルブルクから改称されていた名称)がサンクトペテルブルクに戻されたことを指します。1991年はソ連解体直前であり、ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ(改革政策)を通じて自由化が進み、過去の歴史的経緯(特にソ連時代の名称)についても批判的な議論や見直しが可能になっていた時期と合致します。

問4:正解①

<問題要旨> 

この問題は、世界史における時代ごとの文化的特色に関する記述の中から、誤っているものを選ぶものです。各世紀における科学、思想、技術、文化の発展について正確な知識が求められます。

<選択肢> 

①【誤】 「17世紀には、トスカネリが地球球体説を主張するなど、ヨーロッパで地球の形状や世界の諸地域の位置関係に関する理解が変化した。」は誤りです。トスカネリは15世紀の人物であり、コロンブスの航海に影響を与えたことで知られています。地球球体説自体は古代ギリシアから存在しますが、その理解が変化し、大航海時代が進展したのは15世紀から16世紀にかけてです。 

②【正】 「18世紀には、ディドロらが『百科全書』を編纂するなど、ヨーロッパで啓蒙思想が活発になった。」は正しいです。18世紀は啓蒙思想が隆盛を極めた時代であり、『百科全書』はその代表的な成果です。 

③【正】 「19世紀には、モース(モールス)が電信機を開発するなど、情報伝達技術が発達した。」は正しいです。19世紀は産業革命の進展とともに、電信機や電話など、情報伝達技術が飛躍的に発展した時代です。 

④【正】 「20世紀には、胡適が口語に基づく文体を提唱するなど、中国で文化を通じた社会変革が目指された。」は正しいです。20世紀初頭、中国では新文化運動が起こり、胡適らが文学革命を提唱して白話(口語)による文学を推進し、社会変革を目指しました。

問5:正解①

<問題要旨> 

この問題は、19世紀初頭と20世紀初頭のバンコクの地図(図1・2)と会話文を基に、空欄エに当てはまる、ラタナコーシン朝がバンコクの防衛を強く意識した歴史的背景を選択するものです。周辺地域の歴史的出来事を理解しているかが問われます。

<選択肢> 

①【正】 ラタナコーシン朝が成立したのは1782年であり、その直前の1767年にはビルマのコンバウン朝によってアユタヤ朝が滅ぼされています。このアユタヤ朝の滅亡は、タイの人々にとって首都の防衛の重要性を強く認識させる出来事でした。したがって、この記述は適切です。 

②【誤】 阮福暎が西山政権を滅ぼしたのはベトナムの出来事であり、タイのバンコクの防衛意識とは直接的な関連はありません。 

③【誤】 イギリス=ビルマ戦争によってビルマがインド帝国に併合されたのは19世紀半ば以降の出来事であり、ラタナコーシン朝成立時(18世紀末)の防衛意識とは時間軸が異なります。 

④【誤】 ナポレオン3世がインドシナに出兵したのは19世紀半ば以降の出来事であり、ラタナコーシン朝成立時とは時間軸が異なります。

問6:正解②

<問題要旨> 

この問題は、図1と図2のバンコクの地図と会話文を参考に、20世紀初頭のバンコクの状況に関する記述の正誤を判断するものです。地図から読み取れる情報と、タイの近代化に関する歴史的知識を総合して判断する能力が求められます。

<選択肢> 

①【誤】 「あー正」は正しいですが、「いー正」が誤りです。 

②【正】 「あ 図2では、城壁外の南東部に外国領事館が多く存在しており、それは、欧米諸国と条約を結び、外交関係を樹立した結果だと考えられる。」は正しいです。図2の南東部(チャオプラヤ川沿い)には多くの外国領事館の記号(●)が見られます。これは、19世紀後半にタイが欧米列強と条約を結び、外交関係を樹立し、貿易が活発化したことを反映しています。 「い 図2では、陸上交通網が発達して水上交通路は衰退しており、それは、ラーマ5世の近代化政策によるものと考えられる。」は誤りです。図2では道路の整備が進んでいますが、同時にパドゥンクルンカセーム運河のような新しい水路も建設されており、水上交通路が完全に衰退したとは言えません。むしろ、水路は依然として重要な交通路であり、都市の拡大に寄与していました。ラーマ5世の近代化政策は、陸上交通網の整備を進めましたが、水上交通路の衰退を直接的に目指したものではありません。 

③【誤】 「あー誤」が誤りです。 

④【誤】 「あー誤」と「いー誤」ともに誤りです。

問7:正解④

<問題要旨> 

この問題は、これまでの発表内容(バンコク、都市ア、都市ウ)を踏まえ、国際都市としての役割や外国との関わりが都市の歴史に与えた影響について考察したメモの正誤を判断するものです。各都市の歴史的特徴と、それに関連する国際関係の知識が問われます。

<選択肢> ①【誤】 ②【誤】 ③【誤】 ④【正】

  • 佐藤さんのメモ:「バンコクと都市アは、国際都市でもあり、一方は、インドシナ戦争の休戦協定締結の会場となり、他方は、第二次世界大戦中に、対日処理方針を議論した会談の会場となった。」は誤りです。 都市アはカイロです。カイロは第二次世界大戦中、連合国の重要な拠点でしたが、対日処理方針を議論した会談(ポツダム会談など)の会場ではありません。インドシナ戦争の休戦協定締結の会場はジュネーヴです。したがって、佐藤さんのメモは誤りです。
  • 中原さんのメモ:「バンコクと都市ウは、一方は、対外貿易が発展の一因になり、他方は、西欧との結び付きを意識して建設されるなど、いずれも外国との関わりが都市の歴史に強く影響していた。」は正しいです。 バンコクは、前述の通り、欧米諸国との貿易が発展の一因となって都市が成長しました。都市ウ(サンクトペテルブルク)は、ピョートル1世が西欧に開かれた窓として建設した都市であり、西欧との結びつきを強く意識していました。したがって、中原さんのメモは正しいです。 よって、佐藤さんのメモは誤り、中原さんのメモは正しい、という判断になります。

第3問

問1:正解②

<問題要旨> 

この問題は、資料1に示されたアクティウムの海戦に関する記述を読み解き、その記述が勝利者側(オクタウィアヌス側)の視点から書かれていることを理解した上で、空欄アに入る劇作家の名前と、資料から読み取れる勝利者側の見方の組合せを問うものです。

<選択肢> 

①【誤】 「あ シェークスピア」は正しいですが、「X この海戦はローマ人同士の戦いだったわけではなく、真の敵はセレウコス朝の女王であった。」は誤りです。資料1にはクレオパトラが「女」と表現され、アントニウスが「クレオパトラの飾り物になっていた」とあるため、クレオパトラに対する否定的なイメージや女性が政治に関わることへの反感を示していますが、セレウコス朝の女王を真の敵としているわけではありません。セレウコス朝はすでに滅亡しています。 

②【正】 「あ シェークスピア」は正しいです。16世紀末から17世紀初頭のイングランドで活躍した劇作家で、『アントニーとクレオパトラ』を著したのはシェークスピアです。 「Y アントニウスはもはや軍人としての能力を欠いており、指導者としてふさわしくなかった。」は正しいです。資料1には「アントニウスが司令官として、あるいは戦士として行動しているのではないという事実である。」「自分のために戦いそして死んでいこうとする者たちを裏切って、さっさと逃げ出したのである。」とあり、アントニウスの軍人としての無能さや指導者としての不適格さを強調しています。これはアクティウムの海戦に勝利したオクタウィアヌス側が、敵対者であるアントニウスを貶めるために作り上げたイメージと考えられます。 

③【誤】 「い ラブレー」は誤りです。ラブレーは16世紀フランスの作家です。 

④【誤】 「い ラブレー」は誤りです。

問2:正解③

<問題要旨> 

この問題は、女性が政治に関わることへの反感に関連して、歴史上の女性統治者に関する記述の正誤を判断するものです。則天武后とマリア=テレジアという異なる時代の女性統治者の業績について正確な知識が求められます。

<選択肢> 

①【誤】 「あー正」は誤りです。「いー正」は正しいです。 

②【誤】 「あー正」と「いー誤」ともに誤りです。 

③【正】 「あ 則天武后(武則天)は、国号を周と改め、九品中正(九品官人法)によって官僚を登用した。」は誤りです。則天武后は国号を周と改めましたが、官僚登用制度としては科挙を重視し、九品中正は三国時代から南北朝時代にかけての制度です。 「い マリア=テレジアは、シュレジエンをプロイセンに奪われた後、長年対立関係にあったフランスと同盟を結んだ。」は正しいです。マリア=テレジアはオーストリア継承戦争(シュレジエン戦争)でプロイセンにシュレジエンを奪われた後、外交革命と呼ばれる国際関係の転換によって、長年の宿敵であったフランスと同盟を結び、七年戦争に臨みました。 

④【誤】 「あー誤」は正しいですが、「いー誤」は誤りです。

問3:正解④

<問題要旨> 

この問題は、唐代に編纂された『五経正義』に関する資料2を読み解き、空欄イに入る人物名と、『五経正義』が編纂された理由の組合せを問うものです。中国の古典学問と官僚登用制度の関連性を理解しているかが鍵となります。

<選択肢> 

①【誤】 「あ 董仲舒」は誤りです。董仲舒は前漢代の儒学者であり、資料2の記述にある唐代の人物ではありません。 

②【誤】 「あ 董仲舒」は誤りです。「Y 科挙の実施を踏まえ、五経の本文と解釈の統一を図ろうとしたから。」は正しいですが、人物名が誤りです。 

③【誤】 「い 孔穎達」は正しいですが、「X 金属活字を用いて印刷し、学生たちに使用させようとしたから。」は誤りです。唐代には金属活字はまだ発明されておらず、木版印刷が主流でした。また、『五経正義』編纂の主目的は科挙のテキストとしての統一であり、印刷技術は理由として不適切です。 

④【正】 「い 孔穎達」は正しいです。資料2に「顔師古と イ ら儒学者に命じ、五経の注釈を制定させた。これを『五経正義』と名付けて、国立の学校で使用させた。」とあり、孔穎達は『五経正義』の編纂を主導した唐代の儒学者です。 「Y 科挙の実施を踏まえ、五経の本文と解釈の統一を図ろうとしたから。」は正しいです。唐代には科挙が官僚登用の重要な制度となっており、その試験科目である儒教の経典(五経)の解釈を統一することは、公平な試験実施と官僚養成の基盤として不可欠でした。

問4:正解③

<問題要旨> 

この問題は、明代に刊行された『礼記註疏』の一部である図から、漢代や唐代の記録がどのように取り込まれているかを読み取り、それを用いた研究の可能性について判断するものです。中国の古典籍における注釈の構造と、それを利用した研究手法に関する理解が問われます。

<選択肢> 

①【誤】 「あのみ可能である。」は誤りです。 

②【誤】 「いのみ可能である。」は誤りです。 

③【正】 図の『礼記註疏』には、「註」の部分に鄭玄(漢代の儒学者)の注釈が、「疏」の部分に孔穎達(唐代の儒学者)の注釈がそれぞれ含まれていると説明されています。

  • 「あ『註』の部分を用いた、漢代についての研究」は可能です。鄭玄の注釈は漢代の学者の見解を反映しており、漢代の思想や解釈を研究するための資料となります。
  • 「い『疏』の部分を用いた、唐代についての研究」は可能です。孔穎達の注釈は唐代の学者の見解を反映しており、唐代の思想や解釈を研究するための資料となります。 したがって、二つとも研究が可能であるため、この選択肢が最も適切です。 

④【誤】 「二つとも可能ではない。」は誤りです。

問5:正解①

<問題要旨> 

この問題は、資料3に示された19世紀後半のインド考古学調査局初代長官カニンガムの文章を読み解き、空欄ウ(玄奘)が訪れた7世紀のインドの状況について問うものです。古代インド史における重要な人物や王朝に関する知識が求められます。

<選択肢> 

①【正】 玄奘がインドを訪れたのは7世紀前半です。この時期の北インドでは、ハルシャ=ヴァルダナ王がヴァルダナ朝を築き、北インドの大部分を統一していました。玄奘はハルシャ王の保護も受けています。 

②【誤】 チャンドラグプタがパータリプトラを都として王朝を建てたのは、マウリヤ朝のチャンドラグプタ1世、またはグプタ朝のチャンドラグプタ1世を指すと考えられますが、いずれも玄奘が訪れた7世紀よりも前の時代です(マウリヤ朝:紀元前4世紀、グプタ朝:4世紀)。 

③【誤】 刑罰や生活規範などを記した『マヌ法典』が成立したのは、紀元前2世紀から紀元後2世紀頃と考えられており、玄奘が訪れた7世紀よりも前の時代です。 

④【誤】 ナーガールジュナが大乗仏教の教理を体系化したのは、2世紀頃と考えられており、玄奘が訪れた7世紀よりも前の時代です。

問6:正解④

<問題要旨> 

この問題は、資料3に示されたカニンガムのインド考古学調査の背景と手法を理解し、空欄エに入る語句と、カニンガムと同じ手法で資料を用いたと考えられる研究の組合せを問うものです。イギリスの植民地支配の正当化論と、考古学における史料批判や研究手法に関する知識が求められます。

<選択肢> 

①【誤】 「あ グプタ朝の下での仏教徒による支配」は誤りです。グプタ朝はヒンドゥー教が栄えた時代であり、イスラーム支配ではないため、エの文脈に合いません。 

②【誤】 「あ グプタ朝の下での仏教徒による支配」は誤りです。 

③【誤】 「い ムガル帝国の下でのムスリムによる支配」は正しいですが、「X 「死者の書」を用いた、古代エジプトについての研究」は誤りです。死者の書は古代エジプトで書かれたものであり、カニンガムが中国人巡礼者の旅行記を用いたように、外部の視点から書かれた異文化の記録ではありません。 

④【正】 「エ に入る語句 い ムガル帝国の下でのムスリムによる支配」は正しいです。資料3には、「イギリスがインドの人々を エ から救い出し、ヒンドゥーの社会・文化を復興する時期として『イギリス時代』を位置づけることで、イギリスの植民地支配を正当化しようとした。」とあります。これは、イギリスがムガル帝国によるイスラーム支配を「暗黒期」と位置づけ、自らを「救済者」として正当化しようとした歴史観を指しています。 「カニンガムと同じ手法で資料を用いたと考えられる研究 Y ルブルックが残した記録を用いた、モンゴル帝国についての研究」は正しいです。カニンガムはインド古代史研究のために「インドの人々によって記されたサンスクリット語古典文献を用いるヨーロッパの学者とは異なり、カニンガムは、ウ(玄奘)の旅行記である『大唐西域記』などの資料を用いる研究手法を、資料3の中で提示している」とあります。これは、内部の視点からの資料ではなく、外部の視点からの記録(旅行記など)を用いる研究手法を示しています。ルブルックの旅行記は、モンゴル帝国の様子を外部の視点から記録したものであり、カニンガムの手法と共通しています。

問7:正解⑥

<問題要旨> 

この問題は、カニンガムと同様に考古学調査を行ったスタインの、中央ユーラシアにおける調査に関する資料4を読み解き、現地政府の文化財保護に関する見解と、資料が書かれた時期の政治的背景の組合せを問うものです。

<選択肢> 

①【誤】 「あーX」は誤りです。 ②【誤】 「あーY」は誤りです。 ③【誤】 「あーZ」は誤りです。 ④【誤】 「いーX」は誤りです。 ⑤【誤】 「いーY」は誤りです。 ⑥【正】

  • 資料4から読み取れる事柄 い 現地政府は、外国人が学術調査を利用して文化財・遺物を国外に持ち出していることを危惧し、それらを自国において保護する必要がある、と考えていた。 は正しいです。資料4には「外国人がこれを研究するのはいいのだが、盗み去ることは不法行為である」「これらは皆、国家の貴重な宝物である」とあり、外国による文化財の持ち出しを「不法行為」と見なし、自国の財産として保護しようとする姿勢が読み取れます。
  • 資料4が書かれた時期の政治的背景 Z 全国の統一的支配の実現を目指して、北伐が進められていた。 は正しいです。資料4に「スタイン氏が初めて我が国にやって来たのは、8か国連合軍が都を占領した時であり、外国人は国内で好きなように振る舞うことができた」「今日までの30年にわたるスタイン氏の調査による敦煌文書や仏像の発見は、アジアの古代研究に新時代を開いた。しかし、これらは皆、国家の貴重な宝物である。」とあり、スタインが最初に中国に来たのが義和団事件(1900年、8か国連合軍が北京を占領)の時期であること、そして30年間の調査を経て資料が書かれたことから、資料の作成時期は1930年代頃と推定できます。この時期の中国では、国民党による北伐(1926年~1928年)が完了し、蔣介石が全国の統一的支配を目指していましたが、各地に軍閥が割拠し、完全に統一されたとは言い難い状況でした。しかし、中央政府が文化財の保護を主張する背景としては、統一への動きが進んでいたことが考えられます。

第4問

問1:正解①

<問題要旨> 

この問題は、19世紀後半のイギリスにおける地域別綿花輸入量のグラフを読み解き、輸入総量の変動と、その背景にある産業革命の影響を考察するものです。グラフの数値情報を正確に読み取ることが求められます。

<選択肢> 

①【正】 「あ 輸入総量が、2倍以上に増加しています」は正しいです。グラフを見ると、1850年の輸入総量は約600百万ポンド、1880年の輸入総量は約1500百万ポンドであり、2倍以上に増加しています。 「X 産業革命によって、マンチェスターなどを中心に、大量の工業原料が必要になった。」は正しいです。19世紀後半はイギリス産業革命の成熟期であり、綿工業が盛んであったマンチェスターなどを中心に、綿花の大量輸入が継続的に行われていました。 したがって、この組合せが最も適当です。 

②【誤】 「Y 第1次囲い込みによって、イングランドの畑の一部が牧草地に転換されていた。」は誤りです。第1次囲い込みは16世紀頃の出来事であり、19世紀後半の綿花輸入量の増加とは直接関係ありません。 

③【誤】 「い アメリカ合衆国からの輸入量が、3倍以上に増加しています」は誤りです。1850年のアメリカ合衆国からの輸入量は約500百万ポンド、1880年の輸入量は約1000百万ポンドであり、約2倍の増加であり、3倍以上ではありません。 

④【誤】 「い アメリカ合衆国からの輸入量が、3倍以上に増加しています」は誤りです。

問2:正解②

<問題要旨> 

この問題は、グラフから1860年代のアメリカ合衆国からの綿花輸入量の変動を読み取り、その背景にある歴史的出来事(南北戦争)と、イギリスの対応(インドからの輸入増加)について考察したメモの正誤を判断するものです。

<選択肢> 

①【誤】 「木村さんのみ正しい。」は誤りです。 ②【正】

  • 木村さんのメモ:「グラフでは、1862年から1865年までの期間、アメリカ合衆国からの綿花輸入量が激減した。この時期に、イギリスはインドからの輸入により、1860年の輸入総量の水準を維持した。」は誤りです。 グラフを見ると、1862年から1865年にかけてアメリカ合衆国からの綿花輸入量が激減しているのは正しいです。しかし、この期間にインドからの輸入は増加しているものの、1860年の輸入総量(約1400百万ポンド)の水準を維持しているとは言えません。1862年から1864年にかけては、総輸入量が大幅に減少しています。これは「綿花飢饉」と呼ばれました。
  • 加藤さんのメモ:「グラフにおいて、1862年にアメリカ合衆国からの綿花輸入量は激減した。それ以降1865年までの期間、アメリカ合衆国からの輸入量はその前後の時期に比べて少ない。この輸入量の減少は、南北戦争の影響による一時的な現象だったと考えられる。」は正しいです。 グラフの通り、1862年から1865年にかけてアメリカ合衆国からの綿花輸入量が激減しています。この時期はアメリカ南北戦争(1861年~1865年)と重なり、南部からの綿花供給が途絶えたため、イギリスの綿工業は大きな打撃を受けました。戦争終結後、綿花輸入は回復しており、一時的な現象であったという考察は適切です。 

したがって、木村さんのメモは誤り、加藤さんのメモは正しい、という判断になります。 ③【誤】 ④【誤】

問3:正解③

<問題要旨> 

この問題は、ヴァイキングの活動範囲を示した図とメモを参考に、空欄イとウに入るヴァイキングに関連する出来事の組合せを問うものです。ヴァイキングの西方と東方における活動の具体的内容を正確に理解しているかが鍵となります。

<選択肢> 

①【誤】 「イーイングランドを征服した」は誤りです。ロロが率いる一派が定住し、公国を建てたのはノルマンディーです。イングランド征服は、後にノルマンディー公ウィリアムが行いました。 

②【誤】 「イーイングランドを征服した」は誤りです。「ウーブルガリア王国を建てた」も誤りです。 

③【正】 「イ ノルマンディー公国を建てた」は正しいです。図のaはノルマンディー地方を指し、911年にヴァイキングの指導者ロロが西フランク王国と条約を結び、ノルマンディー公国を建国しました。 「ウ ビザンツ帝国と接触した」は正しいです。図のbはコンスタンティノープル(ビザンツ帝国の首都)を指します。ヴァイキング(ルーシ)は東方で河川を下り、ビザンツ帝国と交易や軍事的な接触を行いました。 

④【誤】 「ウーブルガリア王国を建てた」は誤りです。ブルガリア王国を建てたのはブルガール人です。

問4:正解④

<問題要旨> 

この問題は、北米で発見されたヴァイキングの遺跡に関する会話文を参考に、空欄エに入る、その遺跡が先住民のものではないと判断される根拠として最も適当なものを選ぶものです。考古学的な証拠に基づく推論の能力が問われます。

<選択肢> 

①【誤】 ジャガイモはアメリカ大陸が原産であり、ヴァイキングが持ち込んだものではないため、ヴァイキングの遺跡の根拠にはなりません。 

②【誤】 会話文に「家畜を飼っていた形跡がないので」とあり、牛や馬を飼っていた形跡が見つかったという記述は内容と矛盾します。 

③【誤】 トウモロコシもアメリカ大陸が原産であり、ヴァイキングが持ち込んだものではないため、ヴァイキングの遺跡の根拠にはなりません。 

④【正】 会話文に「この遺跡は先住民の住居跡ではなくて、アメリカ大陸の外から来た人たちのものだと考えられているね。エ ことが根拠の一つだよ。」とあります。先住民は鉄器を持っていなかったため、鉄の釘が見つかることは、アメリカ大陸の外から来た人々の存在を示す有力な証拠となります。ヴァイキングは鉄器を使用していたため、鉄の釘の発見は彼らの存在を示す根拠となりえます。

問5:正解⑤

<問題要旨>
ヨーロッパ人の海外進出に関する事柄(IとII)と、下線部④を含む計3つの事柄を年代順に正しく並べる問題。Iは「ポルトガルのアフリカ西岸への進出開始」(15世紀前半~中頃)、IIは「アメリカ大陸の銀をアカプルコからマニラへ運ぶ航路の開拓」(16世紀後半~)。これらの間に他の出来事(下線部④)が含まれる順序を問う。

<選択肢>
①【誤】「I → II → 下線部④」

  • ポルトガルの航海(15世紀前半~)のあと、16世紀半ば以降にマニラ航路が開けるが、下線部④をその後に置くと時系列が合わない可能性がある。

②【正】「I → 下線部④ → II」

  • 最初にポルトガルがアフリカ西岸へと進出し(15世紀中頃)、次にコロンブスやスペインなどの動向があり(これが下線部④に相当し得る)、その後フィリピンと新大陸を結ぶ“ガレオン貿易”が整備される(16世紀後半)という流れになる。

③【誤】「II → I → 下線部④」

  • マニラ航路の確立(16世紀後半)が、ポルトガルのアフリカ西岸進出(15世紀中頃)に先立つのは史実と反する。

④【誤】「II → 下線部④ → I」

  • IIを最古に置くと時系列が逆転してしまう。

⑤【誤】「下線部④ → I → II」

  • ポルトガルの15世紀中頃の大航海が後になるのは矛盾する。

⑥【誤】「下線部④ → II → I」

  • 同様に時系列が破綻するため誤り。

第5問

問1:正解④

<問題要旨> 

この問題は、朝鮮半島の扶余で出土した木簡に関する解説シートと地図、表を参考に、木簡が使用された場所と、木簡から読み取れる貸付制度と日本の律令における制度との共通点、さらに比較できない制度の背景となる国名の組合せを問うものです。朝鮮半島の古代史と東アジアの律令制度に関する知識が求められます。

<選択肢> 

①【誤】 「アー新羅」は誤りです。地図上の扶余の位置は百済の旧都に近く、7世紀前半の新羅の支配地域とは異なります。 ②【誤】 「アー新羅」は誤りです。 ③【誤】 「イー唐」「ウー朝鮮半島」は誤りです。 ④【正】

  • ア:百済 地図に示された扶余は、百済の最後の都である泗沘(サビ、現在の忠清南道扶余郡)に位置します。木簡が使用された618年は百済が存在していた時期であり、したがって木簡は百済で使用されたと考えられます。
  • 考察 イ:朝鮮半島 表1から、貸付量に対して返済済みと未返済の合計が1.5倍(例:2石貸し付け、2石返済済み、1石未返済 → 合計3石、つまり1.5倍)であることがわかります。これは、貸付時に5割の利息がつけられていたことを示唆します。日本の律令には、この5割の利息規定があり、共通点があると考えられます。したがって、「日本の律令における貸付時の利息規定と、 イ の制度には、共通点があると考えられる」のイには「朝鮮半島」が入ります。

考察 ウ:唐 「穀物貸付けの制度における返済時の利息についての明確な規定が、ウ の律令からは見つかっていない。そのため、現状では、日本の律令における貸付時の利息規定と、ウ の制度との比較はできない。」とあります。メモには「8世紀の唐の律令には、穀物貸付けに関する規定が存在したと考えられているが、返済時に5割の利息をつけるという明確な規定は見つかっていない。」とあるため、ウには「唐」が入ります。 したがって、この組合せが最も適切です。

問2:正解①

<問題要旨> 

この問題は、イギリスの国民食フィッシュ=アンド=チップスの歴史を題材に、16世紀のイングランドにおける漁業奨励政策と、その背景にある海軍力強化の目的や国際関係に関するパネルの内容について、最も適当な記述を選ぶものです。

<選択肢> 

①【正】 パネル1に「漁業の奨励には、戦時に利用できる船員と漁船を増やすことで、海軍力を強化する目的もあった。」とあります。船員が戦時に利用されるということは、漁業者が戦争に参加する可能性があったことを示唆しています。したがって、この記述は適切です。 

②【誤】 パネル1に「ヘンリ8世やエリザベス1世が、漁業を奨励するために、特定の曜日の肉食を禁じる布告を出した。」とありますが、これはカトリックを復活させる狙いではありません。ヘンリ8世とエリザベス1世はプロテスタントであり、むしろカトリックを抑圧する立場でした。肉食禁止は漁業奨励のための経済政策であり、宗教政策ではありません。

③【誤】 パネル1に「エリザベス1世は、1585年、北米のタラ漁場の周辺にいたスペイン漁船を攻撃するよう命じた。」とあります。この時期、イングランドはスペインとは対立関係にありましたが、オランダとは対立していませんでした。むしろ、オランダ独立戦争においては、イングランドはスペインに対抗するオランダを支援していました。 

④【誤】 「16世紀末のイングランドと他国との貿易には、クロムウェルが制定した航海法が適用されていたと考えられる。」は誤りです。クロムウェルが航海法を制定したのは17世紀半ば(1651年)であり、16世紀末とは時代が異なります。

問3:正解②

<問題要旨> 

この問題は、北米先住民の伝統料理「フライブレッド」の歴史的背景に関するパネルを読み解き、空欄エとオに入る語句の組合せを問うものです。アメリカ合衆国の西漸運動と先住民の生活様式の変化、そして食文化の形成過程を理解しているかが鍵となります。

<選択肢> 

①【誤】 「オー自給自足」は誤りです。 ②【正】

  • エ:保留地に隔離 パネル2に「19世紀前半のアメリカ合衆国における西漸運動の過程で、先住民は先祖伝来の土地を追われ、エ されたことで、伝統的な生活様式の放棄を強いられた。」とあります。19世紀、アメリカ合衆国政府は先住民を強制的に移住させ、指定された土地である「保留地」に隔離する政策を進めました。これにより、先住民は伝統的な狩猟採集や農耕の生活を奪われました。
  • オ:供給された食材に依存 パネル2のまとめに「フライブレッドは、先住民自らが昔から作っていたという意味での『伝統料理』ではなく、オ せざるを得ない状況のなかで、生き抜くために作り出した、先住民の歴史を物語る『伝統料理』と言える。」とあります。また、「連邦政府は食料支援政策を実施し、安価で高カロリーな小麦粉やラードを供給した。」とあることから、先住民は政府から供給された食材に依存せざるを得ない状況に置かれたことが読み取れます。 したがって、この組合せが最も適切です。 

③【誤】 「エー自営農として公有地を無償供与」は誤りです。これは主に白人入植者に対して行われた政策であり、先住民に対しては強制移住と保留地への隔離が行われました。

④【誤】 「エー自営農として公有地を無償供与」は誤りです。

問4:正解①

<問題要旨> 

この問題は、第一次世界大戦中のドイツにおける食料価格に関する表と、戦時下の社会状況に関するメモを参考に、記述の正誤を判断するものです。総力戦体制下の経済統制、食料不足、そしてそれが社会に与えた影響について正確な知識が求められます。

<選択肢> 

  • あ 配給制の導入は、総力戦体制構築の一環であった。 は正しいです。メモ2に「軍需品の生産が優先され、軍隊や軍需産業への動員により農村の労働力が減少し、さらにイギリスの海上封鎖によって、ドイツ社会は深刻な食料不足に陥った。この過程で、1915年に配給制が導入された。」とあります。第一次世界大戦は国家の総力を動員する総力戦であり、食料の配給制も国家による経済統制の一環として導入されました。
  • い ドイツ革命の結果、立憲君主制が実現した。 は誤りです。メモ2に「食料不足や配給制への不満は、労働者や兵士の間に、厭戦や反戦の気運を高め、ドイツ革命の一因となった」とあります。ドイツ革命(1918年)の結果、皇帝が退位し、立憲君主制ではなく共和制(ヴァイマル共和国)が成立しました。
  • う 表2の(a)と(b)とを比べると、牛肉よりもライ麦粉の方が、値上がり率が大きい。 は正しいです。 ライ麦粉:(a)0.15マルク → (b)4.00マルク(闇市価格) 値上がり率は約26.7倍。 牛肉:(a)1.00マルク → (b)4.75マルク(闇市価格) 値上がり率は4.75倍。 したがって、ライ麦粉の方が値上がり率が大きいです。
  • え メモ2からは、配給制によって、食料を無料で入手できたことが分かる。 は誤りです。メモ2に「人々は、配給された切符の分だけ、政府が決めた価格で、食料を購入できた。」とあり、無料で入手できたわけではありません。 したがって、正しい記述は「あ」と「う」です。 ①【正】②【誤】 ③【誤】 ④【誤】
問5:正解③

<問題要旨> 

この問題は、これまでの第5問の各班の活動内容(穀物貸付制度、漁業奨励、フライブレッド、戦時下の食料事情)を参考に、空欄αに入る主題と、その主題をさらに追究するための事例の組合せを問うものです。食料や食生活と政治権力の関係をテーマとして捉え、具体的な歴史的事例と結びつける能力が求められます。

<選択肢> 

①【誤】 「あ 政治権力が食料事情や食生活に与えた影響」は正しい主題ですが、「X 多国籍企業が、バイオテクノロジーを用いて進めた品種改良」は、政治権力よりも企業の経済活動や科学技術の発達の影響が大きいため、主題に合致しません。 

②【誤】 「あ 政治権力が食料事情や食生活に与えた影響」は正しい主題ですが、「Y 中世ヨーロッパにおいて、気候の寒冷化がもたらした凶作」は、政治権力ではなく自然環境(気候)の影響が大きいため、主題に合致しません。 

③【正】 「α に入る主題 あ 政治権力が食料事情や食生活に与えた影響」は適切です。第5問の各小問は、国家による穀物貸付制度(問1)、国家による漁業奨励(問2)、政府による食料供給と生活様式の変化(問3)、戦時下の配給制と食料不足(問4)といった、いずれも政治権力が食料事情や食生活に与えた影響を扱っています。 「その主題をさらに追究するための事例 Z 大躍進政策により、中国で生じた飢餓」は適切です。大躍進政策(1958年~1961年)は、中国共産党の指導の下で行われた経済政策であり、その失敗が大規模な飢餓を引き起こしました。これは、政治権力の政策が食料事情に甚大な影響を与えた典型的な事例です。 したがって、この組合せが最も適当です。 

④【誤】 「い 産業の発達が食料事情や食生活に与えた影響」は、問4の産業動員など一部の側面では関連しますが、第5問全体の主題としては不適切です。 

⑤【誤】

投稿を友達にもシェアしよう!
  • URLをコピーしました!
目次