解答
解説
第1問
問1:正解3
<問題要旨>
オスマン帝国における近代化改革の名称(空欄ア)と、その改革がどのような方向性(空欄イ)をもって進められたかを問う問題。19世紀前半から始まるオスマン帝国の近代化は、完全な世俗化を急激に推し進めたわけではなく、イスラームの伝統と折り合いをつけつつ西洋化を図ろうとした点が特徴である。
<選択肢>
①【誤】
「ア」にタンジマートを当てつつも、「イ」に急速な世俗化政策を入れる組み合わせは、むしろ共和政期(アタテュルク時代以降)の方針に近く、19世紀半ばのタンジマート期の施策とは合わない。
②【誤】
「ア」にドイモイ(ベトナムの改革)を当てはめるのは誤り。ドイモイは20世紀後半のベトナムでの経済改革政策であり、オスマン帝国の近代化とは無関係。
③【正】
「ア」にタンジマート、すなわち19世紀前半からのオスマン帝国近代化改革を置き、「イ」にイスラームの儀礼への配慮をしながら西洋化を推進する施策を当てる内容は史実に即している。タンジマートでは、衣服や軍制の西洋化を図りつつも、イスラーム社会の基盤を全否定はしなかったため、この組み合わせが正しい。
④【誤】
「ア」にドイモイを当てる時点で誤り。さらに「イ」のイスラームの儀礼への配慮という点も、オスマン帝国とは関係しない。
問2:正解1
<問題要旨>
下線部(ア)の年代を推定する手がかりとして「中国の辮髪が広く見られた時期(あ)」と、「日本の政治家や軍人が洋装を取り入れた時期(い)」を調べる問題。さらに、その時期をW〜Zの選択肢から絞り込み、最も適切な組み合わせを見極める。
<選択肢>
①【正】 あ→W、い→Y
- Wは「清が滅亡する契機となった辛亥革命までの時期」を示すため、広く辮髪が存在していた清朝時代と合致する。
- Yは「近代的軍隊が創設される契機となった明治維新以降の時期」を示し、日本の政治家や軍人が公的に洋装を導入した時代に対応する。
②【誤】 あ→W、い→Z
- Zは「日本が第一次世界大戦に参戦以降の時期」を示しており、洋装普及の初期段階としては遅すぎる。よって「い→Z」は不適切。
③【誤】 あ→X、い→Y
- Xは「満州国が建国されるまでの時期」で、辮髪が一般化した清朝時代を全体的にカバーするにはやや食い違いがある。
④【誤】 あ→X、い→Z
- X・Zいずれも上記の理由で、「辮髪の時期」と「日本洋装化の時期」の組み合わせとしては適切ではない。
問3:正解3
<問題要旨>
ドイツ(プロイセン)の使節団が1860年に来日して修好通商条約締結交渉を始めた経緯などをまとめたノートI・IIについて、どの記述を正しく評価できるかを問う問題。当時の日本はすでに欧米諸国と通商条約を結んでいた(安政の五カ国条約など)ため、プロイセンとの条約もその延長上に位置づけられる。
<選択肢>
①【誤】 Iについて「当時ヴィルヘルム2世が積極的な対外政策を進めていた」という内容を挙げているが、1860年当時はまだヴィルヘルム2世即位のはるか前であり、史実とずれる。
②【誤】 Iについて「当時シンガポールはドイツ(プロイセン)の植民地であった」という指摘は誤り。シンガポールは19世紀にはイギリスの支配下にあった。
③【正】 IIについて「日本は、ドイツ(プロイセン)との条約以前に、他国と修好通商条約を結んでいた」は事実。1858年の安政の五カ国条約などが既に締結されており、プロイセンとの交渉はその後の一例に当たる。
④【誤】 IIについて「当時、諸外国との条約締結交渉にあたったのは朝廷であった」は誤り。1860年当時の条約交渉は幕府が主体で進めたものであり、朝廷が直接交渉の中心にはなっていない。
問4:正解4
<問題要旨>
日本と中国における綿糸生産量と自給率(1890〜1910年)に関するグラフをもとに、「綿糸生産量の推定方法(あ or い)」と「グラフから読み取れること(X or Y)」を組み合わせる問題。綿糸の生産を把握するには“紡績”工程の設備台数(紡績機の錘数)が重要で、織布工程(力織機台数)とは直接的に対応しない。また日本の綿糸生産量は明治期に急増し、中国の生産量は消費量を上回るほどにはならなかった点などが論点になる。
<選択肢>
①【誤】 あ=「綿糸の生産量は力織機の台数から推計できる」、X=「1910年の中国では国内生産量が国内消費量を上回っていた」
- 綿糸の生産は紡績機(紡錘数)が基準。力織機は布を織る段階なので不適切。また中国の国内生産が消費を上回るかどうかについても、当時の水準ではそうならない。
②【誤】 あ=「力織機台数で推計」+Y=「帝国議会開設後の10年間で日本の国内生産量は5倍以上に増加」
- 「あ」がそもそも誤りなので、この組み合わせも適切でない。
③【誤】 い=「綿糸の生産量は紡績機の錘数から推計できる」、X=「中国では1910年の時点で国内生産量が国内消費量を上回っていた」
- 「い」は正しいが、「X」が誤り。
④【正】 い=「紡績機の錘数から生産量を推計」+Y=「帝国議会開設後10年の間に日本の国内生産量が5倍以上に増加」
- 「い」は綿糸生産の推定方法として妥当であり、明治期の日本の紡績業は急激に拡大したため「Y」の指摘と合う。
問5:正解2
<問題要旨>
1920〜1930年代の東アジアにおける女性の服装(モダンガールなど)を取り上げたパネル文をもとに、地域や政治体制を超えて都市部で見られたモダンガールの存在などを読み取る問題。日本・中国(上海や天津)などで西洋風の服装や髪型が流行したことが背景にある。
<選択肢>
①【誤】 「日本のモダンガールはロングヘアが特徴だった」というのは誤り。1920年代後半にはボブカットなど短髪も広まっており、モダンガールの代表的イメージはむしろ短髪・洋装である。
②【正】 「東アジアでは、独立国・植民地・租界といった政治形態を問わず、モダンガールの装いが見られた」という内容は、当時の上海や京城(ソウル)、天津、さらには東京や大阪などで同様の洋風スタイルが流行した事例と一致する。
③【誤】 「1930年代の京城に統監府が設置されていた」とするのは年代が食い違う(統監府の設置は1906年〜1910年)。1930年代の朝鮮半島は既に朝鮮総督府の時期。
④【誤】 「『玲瓏』が創刊された当時の中国は、中華人民共和国である」というのは誤り。中華人民共和国の成立は1949年であり、1930年代は中華民国の時代。
問6:正解2
<問題要旨>
1920〜1930年代のイタリアで、ファシズム体制下のムッソリーニ政権が国産衣服の生産や市場支配を奨励しながら、海外とくにフランスの流行にも影響を受けていたことを示す資料を扱う。ここでは当時のフランスがファシズム体制ではなかった事実なども踏まえ、どの記述が正しいかを問う。
<選択肢>
①【誤】 あ=「ファシズム体制下で国産衣服の生産が奨励された」を誤りとするのは史実と反する。ムッソリーニ政権は国内産業を保護する政策を推進していたため、この点は誤りではなく正しい記述。
②【正】 あ=正、い=誤
- あ:ファシズム体制下でイデオロギーが統制され、国民経済の自給自足や国産衣料の奨励が進められたのは事実。
- い:フランスもファシズム体制だったわけではない。当時のフランス第三共和政であり、イタリアのような独裁体制ではない。そのため「フランスもファシズム国家だったので歓迎した」というのは誤り。
③【誤】 あ=誤、い=正
- 上記の理由とは逆の組み合わせとなるため、史実に合わない。
④【誤】 あ=誤、い=誤
- あを誤りとする点でやはり史実と食い違う。
問7:正解4
<問題要旨>
20世紀後半のイランにおける女性の装いの変化に関するパネル(コーランの規定、イラン・イスラーム革命の影響など)をもとに、掲載された挿絵1と挿絵2の時代順と、革命の結果について問う問題。1979年のイラン・イスラーム革命後は、女性にヴェール着用が義務づけられ、男女別学などのイスラーム的規範が導入された一方、西欧化を推進する政体は倒れた。
<選択肢>
①【誤】 あ=「挿絵を古い順に並べると挿絵1→挿絵2」、う=「革命の結果、西洋化が推進された」
- イラン・イスラーム革命の結果はむしろイスラーム色の強化であり、「西洋化を推進」とは逆である。
②【誤】 あ=「挿絵1→挿絵2」、え=「革命の結果、イスラームに基づく共和国が成立」
- 時代的に見ると、革命前のほうが女性がより洋装化していた場合もあり、挿絵1・2の描写と逆転する可能性がある。
③【誤】 い=「挿絵2→挿絵1」、う=「革命の結果、西洋化が推進された」
- 「い」自体は挿絵の並びを古い順に2→1とする部分で当たっていても、「う」は誤り。
④【正】 い=「挿絵を古い順に並べると挿絵2→挿絵1」、え=「革命の結果、イスラームの教えに基づく共和国が成立」
- 1979年の革命でパフレヴィー朝(近代化を進めていた王制)が倒れ、イスラーム共和制が成立した。挿絵の順序としても、革命前を示す方が西洋化の度合いが強く、革命後はよりヴェールが定着しているため2→1となると考えられる。
問8:正解6
<問題要旨>
第二次世界大戦後の女性の社会的地位や性役割意識の変化に関するメモI〜IIIを、年代順(古い→新しい)に並べる問題。アメリカ合衆国での公民権運動・女性解放運動(ウーマン・リブ)は1960〜70年代、日本の男女雇用機会均等法制定は1980年代、そしてジェンダー平等の理念が国連サミットのSDGsに採択されたのは21世紀に入ってからである。
<選択肢>
①【誤】 メモI→メモII→メモIII の順は、SDGs(メモI)が最初になってしまい年代の逆転が起きる。
②【誤】 メモI→メモIII→メモII も同様にSDGsが先に来るため時系列に合わない。
③【誤】 メモII→メモI→メモIII では、日本の均等法(1985年)が最も古い扱いになるが、公民権運動やウーマン・リブ(1960年代)が前に来るはず。
④【誤】 メモII→メモIII→メモI でも、米国の女性解放運動(メモIII)の順番が日本の均等法(メモII)より後になってしまい、年代が合わない。
⑤【誤】 メモIII→メモI→メモII では、ウーマン・リブの次にSDGsが来るが、そのあとに1980年代の日本の均等法が来ることになり、やはり時系列が乱れる。
⑥【正】 メモIII→メモII→メモI
- メモIII(アメリカにおける女性解放運動:1960年代〜)
- メモII(日本の男女雇用機会均等法の制定:1985年)
- メモI(SDGsへの「ジェンダー平等を実現しよう」採択:2015年)
この流れが年代的に正しい。
第2問
問9:正解4
<問題要旨>
14世紀半ばに大流行した疫病が記された資料から、当時の都市[ア]と病名[イ]を推定する問題である。史料の中で「地中海交易圏の都市」とされ、しかもヨーロッパでも同時期に猛威を振るった疫病を指すことから、都市[ア]はイスラーム世界の大都市であるカイロが有力となり、病気[イ]は当時「黒死病」と恐れられたペストが該当すると考えられる。
<選択肢>
①【誤】「ア=ダマスクス,イ=梅毒」
- ダマスクスも中東の都市ではあるが、14世紀半ばの大規模疫病として梅毒を挙げるのは誤り。梅毒が大流行するのは15世紀末〜16世紀以降のヨーロッパであり、問題文の時期や規模と合わない。
②【誤】「ア=ダマスクス,イ=黒死病(ペスト)」
- 黒死病そのものは時期的に合うが、資料中で言及される「地中海交易圏の都市」としてダマスクスはやや方向性が異なる。広域で交易の要衝となり、ペスト流行時に深刻な被害を受けた都市はカイロのほうが史料に適合する。
③【誤】「ア=カイロ,イ=梅毒」
- 都市がカイロという点は有力だが、疫病として梅毒をあげるのは時代に合わない。14世紀半ばの大流行は黒死病(ペスト)である。
④【正】「ア=カイロ,イ=黒死病(ペスト)」
- 14世紀半ば、イスラーム世界も含む広範囲でペストが猛威を振るった。カイロは人口の集中度が高い都市であり、深刻な被害が記録に残っていることから妥当だといえる。
問10:正解3
<問題要旨>
同じ資料に登場する都市[ア]を支配していた王朝について問う問題。奴隷軍人を基盤に権力を構築し、モンゴルの侵攻を食い止めたことで知られる王朝は、マムルーク朝(1250〜1517年)に比定されることが多い。
<選択肢>
①【誤】「ベルベル人が中心となって成立し、北アフリカとイベリア半島を支配した王朝」
- ベルベル人を主体とする王朝はムラービト朝やムワッヒド朝で、イベリア半島にも進出したが、カイロを都にしたわけではない。
②【誤】「北アフリカに興ったシーア派の王朝で、君主はカリフを称した」
- 代表的にはファーティマ朝などが該当するが、奴隷軍人主体の王朝とは異なる。
③【正】「奴隷軍人が中心となって成立し、モンゴル軍の西進を阻止した」
- カイロを拠点としたマムルーク朝は、奴隷身分出身の軍人が台頭して作り上げた政権であり、1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を破るなど、西進を食い止めたことで知られる。
④【誤】「クルド系の軍人が創始した王朝で、十字軍からイェルサレムを奪回した」
- これはサラディン(サラーフッディーン)によるアイユーブ朝を指すが、奴隷軍人主体ではないため該当しない。
問11:正解4
<問題要旨>
作家プーシキンやゴーゴリ、ドストエフスキーが住んだとされる都市[ウ]に関する準備メモから、この都市で起こった出来事の背景を推測し、もっとも適切な内容を選ぶ問題。メモには「1905年に『血の日曜日事件』が起こった」「1918年に他の都市に首都が移された」「1991年に都市の名称が改められた」とある。こうした年表に合致するのはサンクトペテルブルク(ペトログラード、レニングラード)であり、1991年に「レニングラード」から「サンクトペテルブルク」へ名称変更が行われた。
<選択肢>
①【誤】「この都市が急速に繁栄したのは、その当時の君主がギリシア正教に改宗し…」
- ギリシア正教への改宗を契機に聖堂が建てられた事例はキエフなどの歴史とも関連し得るが、1905年の血の日曜日事件などとは繋がらない。
②【誤】「この都市が首都となったのは、その当時の君主が初めてツァーリの称号を名乗り…」
- ツァーリの称号を正式に用いたのはイヴァン4世(モスクワ大公国)に始まるが、サンクトペテルブルクが首都になったのはピョートル1世のとき。表現が不正確かつ1905年以降の情勢との整合性に疑問がある。
③【誤】「この都市から1918年に首都が移されたのは、臨時政府が、自分たちと従来の体制との断絶を明示したかったから」
- 1918年にロシアの首都がペトログラードからモスクワに移転されたのは、新政権(ソビエト政権)による事情が大きい。臨時政府そのものは1917年の段階で倒れており、表現としてややずれている。
④【正】「この都市の名称が1991年に変更されたのは、…改革政策を通じて自由化が進み、過去の歴史的経緯の批判的な議論が可能になったから」
- ソ連崩壊期にレニングラードからサンクトペテルブルクへ名称が戻されたのは、時の改革路線(ペレストロイカなど)や歴史的見直しの動きと結びついており、この説明が最も適切である。
問12:正解1
<問題要旨>
ヨーロッパにおける時代ごとの文化的特徴をまとめた文が4つ提示され、そのうち誤っているものを選ぶ問題。
<選択肢>
①【誤】「17世紀には、トスカネリが地球球体説を主張するなど…」
- トスカネリは15世紀の人物であり、コロンブスへ影響を与えた説として知られる。17世紀とずれているので誤り。
②【正】「18世紀には、ディドロが『百科全書』を編纂するなど…」
- フランス啓蒙思想を代表する動きとして正しい時期設定。
③【正】「19世紀には、モールスが電信機を開発するなど、情報伝達技術が発達した」
- 19世紀中葉にモールス信号が実用化され、通信革命が進んだ時期と合致する。
④【正】「20世紀には、胡適が口語に基づく文体を提唱するなど、中国で文化を通じた社会変革が目指された」
- 中国では1910年代以降に白話運動が展開され、知識人らによる改革・革命の動きと関連するため正しい。
問13:正解1
<問題要旨>
バンコクや東南アジアの歴史をめぐる会話の中で登場する空欄[エ]に入る文として、アユタヤ朝がどのような経緯で滅ぼされたか、または東南アジア諸地域の征服や併合に関する内容を問う問題。
<選択肢>
①【正】「コンバウン朝によって、アユタヤ朝が滅ぼされた」
- 18世紀後半、ビルマ(コンバウン朝)の侵攻によりアユタヤ朝は滅亡した事実があるため、歴史的に適合する。
②【誤】「阮福暎が、西山政権(西山勢力)を滅ぼした」
- ベトナム史における内戦状況を示すが、アユタヤ朝やバンコクの成立と直接は結びつかない。
③【誤】「イギリス=ビルマ戦争によって、ビルマがインド帝国に併合された」
- これはビルマ側の動向であり、タイのアユタヤ朝滅亡には関わらない。
④【誤】「ナポレオン3世が、インドシナに出兵した」
- フランスによるインドシナ進出を示すが、アユタヤとの関係ではない。
問14:正解2
<問題要旨>
20世紀初頭のバンコクの地図(図2)を例に、城壁外部への拡大と外国領事館の存在、それらがタイの近代化政策とどう関わるかを考察する問題。「あ」「い」の文章が正しいか誤っているかを組み合わせて答える形式となっている。
<選択肢>
①【誤】「あ=正,い=正」
- 両方が正しいわけではない。特に水上交通の扱いなどで不正確な点が生じる。
②【正】「あ=正,い=誤」
- 「あ」は、城壁外の南東部に外国領事館が多く存在することを欧米諸国との外交関係確立の結果とする説明であり、19世紀後半からの通商条約や不平等条約が影響を及ぼしたため妥当。
- 「い」で述べられている「陸上交通網の発達により水上交通がただちに衰退した」「それはラーマ5世の近代化である」という見方は、当時のバンコクにおいて依然として水上交通が主要手段として機能していた史実とやや食い違うため誤りと考えられる。
③【誤】「あ=誤,い=正」
- 上述のように「あ」の説明は正しいため、これとは合わない。
④【誤】「あ=誤,い=誤」
- あは正しいので両方誤りにはならない。
問15:正解2
<問題要旨>
複数のグループが発表した都市の例を引き合いに、ある生徒(佐藤さん)のメモと別の生徒(中原さん)のメモのどちらが正しいかを判定する問題。佐藤さんは「インドシナ戦争の休戦協定締結の会場と、第二次世界大戦中の対日処理会談が同じ都市で行われた」とする一方、中原さんは「バンコクと都市[ウ]の歴史をめぐり、西欧との結びつきを意識して建設されたことなど、対外貿易が都市発展の一因になった」と記している。どちらが事実に合致するかを検討する。
<選択肢>
①【誤】「佐藤さんのみ正しい」
- 佐藤さんのメモには、インドシナ休戦協定(1954年)と第二次大戦中の対日処理会談(カイロ会談など)が同一都市とされているが、それは史実と一致しない。
②【正】「中原さんのみ正しい」
- 中原さんのメモにある、バンコクの発展における対外貿易や西欧との関係が都市計画に影響した点は広く知られた事実であり妥当。佐藤さんの記述は前述のように事実誤認がある。
③【誤】「二人とも正しい」
- 佐藤さんのメモが誤りのため、両者とも正しいとはいえない。
④【誤】「二人とも誤っている」
- 中原さんの内容は正しいので、両方誤りにはならない。
第3問
問16:正解2
<問題要旨>
アクティウムの海戦を題材とした資料1から、勝利した側がアントニウスをどう評価しているかを読み取りつつ、16~17世紀初頭のイングランドで劇作を行った人物〔空欄ア〕を特定する問題。劇作『アントニーとクレオパトラ』を著したのはシェークスピア(Shakespeare)であり、そこから勝利側が示すアントニウス像にも言及している。
<選択肢>
①【誤】 あ=シェークスピア,X=「この海戦はローマ人同士ではなく、真の敵はセレウコス朝の女王だった」
- アクティウムの海戦はローマ内部の争い(オクタウィアヌス対アントニウス)であり、セレウコス朝(古代シリアの王朝)とは無関係。この見方は史実と合わない。
②【正】 あ=シェークスピア,Y=「アントニウスは既に軍人としての能力を欠いており、指導者としてふさわしくなかった」
- 資料1からは、勝利側がアントニウスを“指揮官として迷走した人物”として描こうとしている様子がうかがえる。『アントニーとクレオパトラ』を著したシェークスピアの名と、アントニウスに対する低評価の観点を組み合わせると符合する。
③【誤】 い=ラブレー,X=「真の敵はセレウコス朝の女王」
- 劇『アントニーとクレオパトラ』を著したのはフランスの作家ラブレーではない。また海戦の主眼もセレウコス朝の女王ではないため、不適切。
④【誤】 い=ラブレー,Y=「アントニウスは指導者としてふさわしくなかった」
- ラブレーは『ガルガンチュアとパンタグリュエル』などで知られる16世紀フランスの作家であり、アントニウスを描いた戯曲は執筆していない。
問17:正解3
<問題要旨>
下線部⑦(問題文中では「女性オピニオンなどを否定的に描写している」旨)に関連して、「あ」と「い」の史実を正誤判定する問題。ここではあ=武則天、い=マリア=テレジアに関する内容が提示され、どちらの記述が正しいか(あるいは誤っているか)を見極める。
<選択肢>
①【誤】 あ=正,い=正
- あの記述「武則天が九品中正を導入した」という点は、九品中正が三国時代の魏から始まる制度であり、武則天による新規導入ではないため誤り。一方マリア=テレジアがシュレジエンを奪われた後、フランスと同盟した事実は正しいので「あ=正」にはならない。
②【誤】 あ=正,い=誤
- あは前述のとおり誤りであるし、いは「シュレジエンを奪われたあと、長年対立関係にあったフランスと同盟を組んだ」点が外交革命として知られるため正しい。よってこの組み合わせも誤り。
③【正】 あ=誤,い=正
- 「あ」で武則天が国号を周と改めたのは事実だが、九品中正の制度は武則天によるものではないため誤り。
- 「い」でマリア=テレジアがシュレジエンをプロイセンに奪われたあと敵対していたフランスと結んだことは“外交革命”として知られ、正しい。
④【誤】 あ=誤,い=誤
- あが誤りである点は事実だが、いは正しいため、両方誤りにはならない。
問18:正解4
<問題要旨>
唐代における『五経正義』の編纂過程を巡り、注釈を統一した学者〔空欄イ〕と、『五経正義』を編纂した理由について選択する問題。古代中国で五経解釈を公認・統一して官学で使う流れに関わった主要人物は孔穎達として知られ、目的は科挙において統一の見解を用いるなど、解釈の整合性を図る点にある。
<選択肢>
①【誤】 あ=董仲舒,X=「金属活字を用いて印刷し、学生たちに使用させようとしたから」
- 董仲舒は前漢の儒学官僚であり、『五経正義』の編纂(唐代)に直接かかわっていない。印刷技術の普及や受験生への頒布が大きな理由とする点も不十分。
②【誤】 あ=董仲舒,Y=「科挙の実施を踏まえ、五経の本文と解釈の統一を図ろうとしたから」
- Yの内容自体は五経正義の主たる目的に合致するが、“あ=董仲舒” が唐代編纂の中心とはならない。
③【誤】 い=孔穎達,X=「金属活字を用いて印刷し、学生たちに使用させようとしたから」
- い=孔穎達は正しいが、Xの金属活字云々は唐代にはまだ本格的ではない。五経正義の編纂理由としては筋が違う。
④【正】 い=孔穎達,Y=「科挙の実施を踏まえ、五経の本文と解釈の統一を図ろうとしたから」
- 唐代に太宗が命じ、孔穎達らが編集した『五経正義』は官学や科挙の基準となるための統一的注釈書である。人物・理由ともに正しい組み合わせとなる。
問19:正解3
<問題要旨>
図示された『礼記集注疏』などの書物には明よりも前の時代に書かれた注釈や記録がそのまま取り込まれており、従来の注(ちゅう)部分・疏(そ)部分を照合すれば漢代や唐代の研究も可能になる。この選択肢は、「あ(注を用いた漢代研究)」「い(疏を用いた唐代研究)」の両方が可能かどうかを問うものである。
<選択肢>
①【誤】 あのみ可能
- 注の部分のみを用いて漢代について研究することは可能だが、疏の部分から唐代の学説や注釈も読み取れるため、いも研究に活用できる。
②【誤】 いのみ可能
- 逆に疏の部分だけで唐代研究が可能というのも一面では正しいが、注の部分が漢代の学者の見解を伝える可能性を否定できず、あも可能である。
③【正】 二つとも可能
- 注の部分からは漢代の注釈者の言説を、疏の部分からは主に唐代の注釈者の言説を読み取れるため、両方とも研究に使える。
④【誤】 二つとも可能ではない
- 実際には両方とも活用できるため、誤り。
問20:正解1
<問題要旨>
『大唐西域記』などを参照しながら、7世紀の中国人巡礼者〔ウ〕が訪れた時代のインドの状況を問う問題。7世紀前半にインド北部をまとめ上げた王として知られるのはハルシャ王(ハルシャ・ヴァルダナ)である。
<選択肢>
①【正】「ハルシャ=ヴァルダナが、北インドの大部分を統一していた」
- 7世紀前半のハルシャ王が北インドを統一し、玄奘三蔵(巡礼者)がその王朝を訪れた。当時の史料とも整合する。
②【誤】「チャンドラグプタが、パータリプトラを都として王朝を建てた」
- これはマウリヤ朝の創始者チャンドラグプタ1世や2世などに関する言及だが、時代は紀元前後から4〜5世紀にかけてであり、7世紀玄奘の時代とは異なる。
③【誤】「刑罰や生活規範などを記した『マヌ法典』が成立した」
- マヌ法典はさらに古い時代に伝わる伝承であり、7世紀インド固有の情況とは直接結びつかない。
④【誤】「ナーガールジュナが、大乗仏教の教理を体系化した」
- ナーガールジュナ(龍樹)は2〜3世紀頃の人物であり、ハルシャ王の時代よりも早い時期。よって7世紀の状況ではない。
問21:正解4
<問題要旨>
イギリス人カニングハムのインド古代史研究が、7世紀に仏教遺跡を巡った中国人巡礼者の記録〔ウ〕を用いたのと同じように、ほかの地域の研究でも同様に旅行記や巡礼記を史料として活用できるかを問う問題。さらにテキストには「イギリスがインドの人々を[ I ]から救い出した」と位置づける見方が示唆されており、それがムスリム政権支配からの“解放”とされがちな点を踏まえて選択肢を検討する。
<選択肢>
①【誤】 あ=「グプタ朝の下での仏教徒による支配」,X=「『死者の書』を用いた古代エジプト研究」
- グプタ朝支配を「仏教徒による支配」と一括りにするのは不正確であり、インドの人々をそこから解放するという文脈には合わない。また『死者の書』を使ったエジプト研究は旅行記というよりは葬祭文書の分析で、カニングハムの手法(巡礼記を活用)と必ずしも同型ではない。
②【誤】 あ=「グプタ朝の下での仏教徒による支配」,Y=「ルブルックが残した記録を用いたモンゴル帝国研究」
- あが前述の理由で誤り。Y自体は巡礼(宣教師)記録でモンゴル帝国を研究する方法論としては近いが、あが不適切。
③【誤】 い=「ムガル帝国の下でのムスリムによる支配」,X=「『死者の書』を用いた古代エジプト研究」
- イはインドを「ムガル帝国の下でのイスラーム支配」ととらえる点は、植民地時代のイギリス史観に沿う。しかしXはカニングハムと同じ手法かどうか疑問がある。『死者の書』は旅行記というより宗教文書であり、同様の比較には適さない。
④【正】 い=「ムガル帝国の下でのムスリムによる支配」,Y=「ルブルックが残した記録を用いたモンゴル帝国研究」
- インドにおけるイギリスの見方(ヒンドゥー社会をムガル帝国のイスラーム支配から救ったとする理解)が、近代イギリス史観に見られる。これが「い」に合致する。
- ルブルック(13世紀のフランシスコ会宣教師)が残したモンゴル帝国の旅行記は、カニングハムのように現地の記録・旅の体験を歴史研究に活用する好例であり、「Y」に相当する。よってこの組み合わせが最適。
問22:正解6
<問題要旨>
スタインの中央ユーラシアにおける調査に関する資料4から、当時の現地政府が外国人調査をどう考えていたか(あ or い)と、その時代の政治的背景(X, Y, Z)を組み合わせて解釈する問題。スタインの活動はおおむね清朝末期から中華民国初期にかけて行われており、列強の干渉が進む中、文化財の国外流出に対する警戒や、国内統一の必要が叫ばれた時期の状況が示唆されている。
<選択肢>
①【誤】 あ=X
- 「あ」は「現地政府が外国人学術調査を奨励し、文化財の保護を考えていた」。資料4では、むしろ国外流出への警戒心が見られるため「あ」は不適切。
②【誤】 あ=Y
- 同上の理由で「あ」を採るのは難しい。
③【誤】 あ=Z
- 「Z」は「全国の統一的支配の実現を目指して、北伐が進められていた」などを示唆するかもしれないが、現地政府が警戒しているという文脈と噛み合わない。
④【誤】 い=X
- 「い」は「外国の調査による文化財流出を危惧し、自国で保護する必要があると考えていた」とする観点。Xは「明治維新に倣って立憲制をめざした…」のような内容で、中国の当時の政治状況としてはややずれる。
⑤【誤】 い=Y
- Yが「国家主導の下で、改革開放的な近代化政策が進められていた」などであれば、外国人調査への姿勢として合わない。
⑥【正】 い=Z
- 「い」で示される「外国人が文化財を持ち出すことに警戒を抱いている」という見方は、列強の干渉により国権が脅かされていた清末~中華民国初期の地方政権の姿勢に合致する。
- 「Z」は「全国の統一的支配の実現を目指し、北伐が進められていた」など、軍閥割拠を克服しようとする時期の中国を示唆する。スタインが活動したのはこの混乱期と重なるため、この組み合わせが最も妥当と考えられる。
第4問
問23:正解1
<問題要旨>
イギリスの綿花輸入量のグラフ(1850年と1880年を比較)から、空欄アに入る文言と、その背景としてどのような要因が考えられるかを問う問題。産業革命期のイギリスでは、綿工業のために海外から大量の綿花が求められるようになり、輸入量が著しく増加した。
<選択肢>
①【正】 あ=「輸入総量が、2倍以上に増加しています」
X=「産業革命によって、マンチェスターなどを中心に大量の工業原料が必要になった」
- 1850年と1880年をグラフで比較すると、全体の輸入総量が2倍以上に拡大していることが確認できる。その背景として、紡績・織物工業が集中した北部イングランドにおける原料需要の増大(産業革命)が挙げられる。
②【誤】 あ=「輸入総量が、2倍以上に増加しています」
Y=「第1次囲い込みによって、イングランドの畑の一部が牧草地に転換された」
- 確かにイギリスでは牧羊地拡大などの農業変化があったが、それが直ちに綿花の輸入量2倍増加の直接の背景とは言いにくい。
③【誤】 い=「アメリカ合衆国からの輸入量が、3倍以上に増加しています」
X=「産業革命によって~」
- グラフを見ると、1850年から1880年までにアメリカからの輸入が「3倍以上」かどうかは文面ほど大きな割合変化にはならず、全体としての伸びと比べると過大評価となる可能性が高い。
④【誤】 い=「アメリカ合衆国からの輸入量が、3倍以上に増加しています」
Y=「第1次囲い込みによって~」
- 「い」の記述と囲い込みの要因づけはいずれも的外れ気味であり、アメリカからの輸入のみが3倍以上増えたわけではない。
問24:正解2
<問題要旨>
1862~1865年の南北戦争により、アメリカ合衆国からイギリスへの綿花輸入が激減したことをグラフから読み取り、それに関する2人のメモ(木村さん・加藤さん)の正誤を問う問題。
<選択肢>
①【誤】「木村さんのみ正しい」
- 木村さんのメモでは「1862~65年、アメリカ合衆国からの輸入が激減したが、インドからの輸入で1860年の水準を維持した」という趣旨。しかしグラフを見ると、インド綿花の増加では部分的に補われたものの、トータルが完全に1860年水準を維持できたわけではない可能性が高い。木村さんの内容はやや誤りを含む。
②【正】「加藤さんのみ正しい」
- 加藤さんは「1862年にアメリカ合衆国からの綿花輸入量が激減し、65年までの間もその前後と比べ少ない。これは南北戦争の影響による一時的現象である」と述べており、グラフの動向と整合的である。
③【誤】「二人とも正しい」
- 木村さんのメモに不正確な点があるため、両方正しいとは言えない。
④【誤】「二人とも誤っている」
- 加藤さんの説明は妥当なので、両方誤りにはならない。
問25:正解3
<問題要旨>
ヴァイキングの活動範囲を示す地図とメモから、空欄イ(aで活動したグループの動向)・空欄ウ(bでの動向)の正しい組み合わせを問う。西フランク王国内に定住しノルマンディー公国を形成した一派(ロロの率いる集団)と、東方では川を下ってビザンツ帝国との接触(ヴァリャーグの道)を果たした事例などが論点となる。
<選択肢>
①【誤】 イ=「イングランドを征服した」,ウ=「ビザンツ帝国と接触した」
- “イングランド征服”はノルマン朝(ウィリアム征服王)が1066年に起こしたものであり、直接ヴァイキングのaの動き(ロロがノルマンディーを獲得する)とは異なる。
②【誤】 イ=「イングランドを征服した」,ウ=「ブルガリア王国を建てた」
- 同上の理由でイが誤り。ブルガリア王国はスラヴ系とアジア系ブルガール人との関係があり、ヴァイキング活動とは結びつかない。
③【正】 イ=「ノルマンディー公国を建てた」,ウ=「ビザンツ帝国と接触した」
- aの地点でロロが率いたヴァイキングが西フランク王国内に定住し、911年にノルマンディー公国を成立させた事実と合致。東方ではヴァイキング(ルス)が川を下ってコンスタンティノープルに至り、ビザンツ帝国と交易・傭兵契約(ヴァリャーグ近衛隊)を結んだ。
④【誤】 イ=「ノルマンディー公国を建てた」,ウ=「ブルガリア王国を建てた」
- ブルガリア王国はヴァイキングとは無関係であり、ウは誤り。
問26:正解4
<問題要旨>
北米大陸で発見されたヴァイキングの遺跡(ランス・オー・メドーともされる)について、空欄「エ」に入る考古学的な発見を問う。ヴァイキングが船や家屋を鉄釘で組み立てていた形跡などが手がかりとなる。
<選択肢>
①【誤】「この遺跡から、ジャガイモが見つかっている」
- ジャガイモは南米原産で、ヴァイキングの北米到達と直接結びつく遺物ではない。
②【誤】「この遺跡から、牛や馬を飼っていた形跡が見つかっている」
- ヴァイキングの一時的な拠点でそこまで大規模な家畜飼育の痕跡が見られるかは不確実。
③【誤】「この遺跡から、トウモロコシが見つかっている」
- トウモロコシはアメリカ大陸原産だが、ヴァイキングの短期滞在遺跡で出土したという報告は一般的でない。
④【正】「この遺跡から、鉄の釘が見つかっている」
- ヴァイキングの船造りや木造建築には鉄釘が使用されており、北米の遺跡からそうした金属製品が出土していることは、欧州由来の集団が訪れた確証の一つとされる。
問27:正解2
<問題要旨>
ヨーロッパ人の海外進出に関する事柄(IとII)と、下線部④を含む計3つの事柄を年代順に正しく並べる問題。Iは「ポルトガルのアフリカ西岸への進出開始」(15世紀前半~中頃)、IIは「アメリカ大陸の銀をアカプルコからマニラへ運ぶ航路の開拓」(16世紀後半~)。これらの間に他の出来事(下線部④)が含まれる順序を問う。
<選択肢>
①【誤】「I → II → 下線部④」
- ポルトガルの航海(15世紀前半~)のあと、16世紀半ば以降にマニラ航路が開けるが、下線部④をその後に置くと時系列が合わない可能性がある。
②【正】「I → 下線部④ → II」
- 最初にポルトガルがアフリカ西岸へと進出し(15世紀中頃)、次にコロンブスやスペインなどの動向があり(これが下線部④に相当し得る)、その後フィリピンと新大陸を結ぶ“ガレオン貿易”が整備される(16世紀後半)という流れになる。
③【誤】「II → I → 下線部④」
- マニラ航路の確立(16世紀後半)が、ポルトガルのアフリカ西岸進出(15世紀中頃)に先立つのは史実と反する。
④【誤】「II → 下線部④ → I」
- IIを最古に置くと時系列が逆転してしまう。
⑤【誤】「下線部④ → I → II」
- ポルトガルの15世紀中頃の大航海が後になるのは矛盾する。
⑥【誤】「下線部④ → II → I」
- 同様に時系列が破綻するため誤り。
第5問
問28:正解4
<問題要旨>
朝鮮半島の扶余で出土した木簡に、618年にあたる年号(当時の中国王朝の年号)が記されていたことなどを手がかりに、7世紀初頭の状況を探る問題。木簡の使用地域や、当時の唐律令・日本律令との比較から、「ア」「イ」「ウ」にそれぞれどの名称を当てはめるかを判断する。扶余付近は百済の領域であったこと、利息付きの穀物貸付制度が唐にも見られたが、現存する唐律からは明確な利息規定が見いだせない等の指摘から、ア=百済、イ=朝鮮半島、ウ=唐が最も妥当となる。
<選択肢>
①【誤】 ア=新羅 イ=唐 ウ=朝鮮半島
- 扶余近辺は百済の版図に属しており、新羅とは位置が異なる。また「ウ」に朝鮮半島を当てるのも不自然である。
②【誤】 ア=新羅 イ=朝鮮半島 ウ=唐
- 扶余が新羅領であるとはいえず、アに新羅を置くのは適切ではない。
③【誤】 ア=百済 イ=唐 ウ=朝鮮半島
- イを唐、ウを朝鮮半島とすると木簡の律令比較の文脈と合いにくい。
④【正】 ア=百済 イ=朝鮮半島 ウ=唐
- 扶余一帯が百済であった史実に合致し、唐の律令との比較を示す流れにも整合する。
問29:正解1
<問題要旨>
16世紀イングランドの漁業政策や海軍の強化策を扱うパネル文をもとに、ヘンリ8世やエリザベス1世の時代に肉食を特定の曜日に禁じたり、船員や漁船を戦時利用することで海軍力を充実させた点などを読み取り、提示された4つの選択肢を検討する。
<選択肢>
①【正】「16世紀のイングランドでは、漁業者も戦争に参加していたと考えられる」
- エリザベス1世が漁業振興を図った背景には、戦時に船や船員を投入して海軍力を強化する狙いがあったため、漁業者が一定の軍事的役割を担った可能性が高い。
②【誤】「肉食を禁じる布告には、カトリックを復活させようとする狙いがあった」
- 実際にはカトリック復活というより、漁業を活性化し海軍力を育成する経済・軍事政策的側面が強い。宗教改革の流れとも矛盾が生じる。
③【誤】「エリザベス1世がスペイン漁船を攻撃した時、オランダ独立戦争でオランダとも対立していたと考えられる」
- 1585年ごろ、イングランドはスペインと緊張関係にあった一方、オランダ独立戦争(対スペイン)を支援しており、オランダとも対立していたわけではない。
④【誤】「16世紀末のイングランドと他国との貿易には、クロムウェルが制定した航海法が適用されていた」
- 航海法(ナビゲーション・アクト)はクロムウェル政権下の1651年に制定されたため、16世紀末とは時代が異なる。
問30:正解2
<問題要旨>
北米先住民の食文化を扱ったパネルで、小麦粉をこねてラードで揚げる「フライブレッド」がなぜ先住民の伝統料理となったのか、その歴史的経緯(保留地への強制移住や政府による安価な小麦粉・ラードの配給)が論点となる。空欄イは先住民の強制移住政策、空欄オは「自給自足」か「供給された食材への依存」かを選ぶ問題。
<選択肢>
①【誤】「イ=保留地に隔離,オ=自給自足」
- 先住民は保留地に移住させられたのは正しいが、その後自給自足が成り立ったわけではなく、配給に頼らざるを得ない状況だった。
②【正】「イ=保留地に隔離,オ=供給された食材に依存」
- 西進運動の過程で先住民は強制的に保留地へ追いやられた上、政府の配給するラードや小麦粉などを用いて食いつないだという経緯と合致する。
③【誤】「イ=自営農として公有地を無償供与,オ=自給自足」
- 実際には先住民は好き勝手に公有地を与えられたのではなく、制限付きの保留地に押し込められたため、誤り。
④【誤】「イ=自営農として公有地を無償供与,オ=供給された食材に依存」
- そもそも「自営農としての無償供与」の事実はなく、移住先でも農耕に適さない土地が多く、配給に頼らざるを得なかったのが実情。
問31:正解1
<問題要旨>
第一次世界大戦中のドイツにおける食料価格と配給制度を表やメモで示し、その結果として物価高騰や闇市利用が広がったこと、食料不足や配給制への不満がドイツ革命の一因になった点などを問う問題。選択肢の文「あ~え」を組み合わせて正しいものを選ぶ。
<選択肢>
①【正】 あ=「配給制の導入は、総力戦体制構築の一環であった」
・う=「表2の(a)と(b)を比べると、牛肉よりライ麦粉の方が値上がり率が大きい」
- 政府が軍需を優先し、兵糧の確保をめざして民間にも配給制を敷いたのは総力戦の一貫。価格比較を見ると、ライ麦粉の価格が大戦で特に急騰しており、牛肉より上がり幅が大きい。
②【誤】 あ=「配給制の導入は、総力戦体制構築の一環であった」
・え=「メモ2からは、配給制によって食料を無料で入手できたことが分かる」
- 実際には配給でも切符が必要で一定量しか買えないうえ、無料ではなく政府が決めた価格で購入し、不足分は闇市を利用するしかなかった。
③【誤】 い=「ドイツ革命の結果、立憲君主制が実現した」
- 実際には革命により帝政が倒れ、共和政(ヴァイマル共和国)が成立した。立憲君主制ではない。
④【誤】 え=「配給制によって、食料を無料で入手できたと分かる」
- 前述の通り、無料ではないため誤り。
問32:正解3
<問題要旨>
第5問全体のテーマ「α」をさらに追究するための例(X~Z)を組み合わせる問題。「あ=政治権力が食事事情に与えた影響」「い=産業の発達が食事事情に与えた影響」に、それぞれX(バイオテクノロジーによる品種改良)、Y(中世ヨーロッパにおける気候寒冷化のもたらす凶作)、Z(大躍進政策による中国の飢饉)をどう当てはめるかを問う。大躍進政策は国家の政治的スローガンのもと進められ、結果的に大規模飢饉を招いたため、「政治権力による影響」に分類される。
<選択肢>
①【誤】 あ-X
- X(バイオテクノロジー品種改良)は現代的な産業発達・企業活動に関わる要素が強く、政治権力による直接の影響ではない。
②【誤】 あ-Y
- Y(中世ヨーロッパの気候寒冷化による凶作)は気候的要因であって、政治権力というより自然環境による影響の範疇。
③【正】 あ-Z
- Z(大躍進政策)は中国政府の政治的指導で農業政策が変わり、大飢饉が発生した例。まさに「政治権力が食事事情に与えた影響」である。
④【誤】 い-X
- 産業の発達が食料事情に与えた影響をXに割り当てると、バイオテクノロジーの視点としては plausible だが、本問の正解は③であるため整合しない。
⑤【誤】 い-Y
- 気候寒冷化は産業発達ではなく自然環境要因。
⑥【誤】 い-Z
- 大躍進政策は産業発達ではなく国家政策による強制的な農業集団化が原因。よって政治権力の影響と見るのが正しい。