2025年度 大学入学共通テスト 本試験 歴史総合・日本史探求 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解3

<問題要旨>
19世紀半ばまで東アジアで広く見られた冊封体制と、それに対抗する近代的な主権国家体制の概念の違いを問う問題です。また、18世紀末にイギリスが自国船での利用を公式に認められた港がどこか、という地理的知識も求められています。

<選択肢>
①【誤】
「冊封と冊封によって結びつけられた秩序(あ)」を指摘している点は、中国皇帝を中心とした従来の東アジア国際秩序を表す内容ですが、その後ろで指定している港(a)が、18世紀末にイギリスの自国船が利用を公認された港とは一致しにくいと考えられます。

②【誤】
「冊封と冊封によって結びつけられた秩序(あ)」と、もう一方の港(b)の組み合わせですが、bの位置も同様に18世紀末のイギリスとの関連では整合性に欠けます。

③【正】
「諸外国が、外部の干渉を受けずに、国境内の統治権を認め合う秩序(い)」は近代的主権国家の考え方を示しており、あとの図で示される港aは、当時イギリスによる船舶利用が公認されていた広州(またはその周辺)に相当すると考えられます。冊封体制ではなく、対等な主権国家関係を前提とした秩序を選ぶ必要があるため、この組み合わせがもっとも適当です。

④【誤】
「諸外国が、外部の干渉を受けずに~(い)」自体は近代的秩序を表していますが、選択肢④の港(b)の位置がイギリスの公認港としては史実と合わず、18世紀末に認められた港としては適切ではありません。

問2:正解2

<問題要旨>
19世紀後半の東アジア情勢をめぐる「条約」や「事件」に関する時系列・背景知識を問う問題です。資料では、日清間で境界が明確に定められなかった状況や台湾出兵(1874年)などが取り上げられ、その前後関係がどの戦争より先か後かといった知識が求められています。

<選択肢>
①【誤】
「我が国と貴国との条約」として下関条約(1895年)を想定しているかのような文ですが、資料で言及されている当時はまだ下関条約締結以前であり、該当条約ではない可能性が高いので誤りです。

②【正】
「事件」が起こったのが清仏戦争(1884~1885年)より前である、という内容は、台湾出兵(1874年)などを念頭に置くと史実と符合します。よって資料の状況に合致する最も妥当な内容です。

③【誤】
19世紀後半の日本では、依然として外国人居住地の制限や領事裁判権などの問題があり、どこにでも自由に居住できる状態ではありませんでした。そのため資料の背景とも合いません。

④【誤】
「事件を契機に、日本と朝鮮が領事裁判権を相互に認め合う対等条約を結んだ」というのは、1876年の江華島条約ではむしろ日本が一方的に有利な立場を認めさせた側面があり、“対等”とは言いがたい内容です。

問3:正解2

<問題要旨>
コレラなどの伝染病対策としての「検疫」と、それによる船や物資の流通制限が国際協調・貿易に与える影響を問う問題です。会話文の中で、どの国がどのような理由で検疫や水際対策を主張・反対しているかという対応関係を読み取る必要があります。

<選択肢>
①【誤】
「ア=イギリス、イ=コレラの国内侵入を水際で阻止し、人的被害を抑制する必要がある」という組み合わせですが、19世紀以降のイギリスは自由貿易を重視する立場が強く、伝染病封じ込めに積極的かどうかは文脈にずれが生じます。

②【正】
「ア=イギリス、イ=一国家が、船の通行や入港を制限することで、貿易を妨げるべきではない」という組み合わせは、当時のイギリスが自由貿易路線をとり、検疫の強化による取引停止に否定的であった態度を表すので、会話の内容と合致します。

③【誤】
「ア=スペイン、イ=コレラの国内侵入を水際で阻止し、人的被害を抑制する必要がある」という組み合わせ。問題文の会話からは、スペインが検疫を強く主張する脈絡が乏しく、また国名の対応関係にも不自然さがあります。

④【誤】
「ア=スペイン、イ=貿易を妨げるべきではない」という組み合わせ。スペインが検疫による制限に対して強い反対を示すイメージは史実と合致しにくく、会話文の流れでも不適切といえます。

問4:正解4

<問題要旨>
国際的な政治対立や戦争期にもかかわらず、国際保健協力などで協力がなされた事例を示す際、どのような国の行動が例として挙げられるかを読み取る問題です。会話中の「ウ」に当てはまる具体的事例が、どの国・どの時期の動向かを問うています。

<選択肢>
①【誤】
「イギリスが『光栄ある孤立』政策を堅持していた」というのは、19世紀末から20世紀初頭のイギリス外交を指し、国際保健協力が“かかわらず”進んだ事例として挙げられるには時期的にずれがあります。

②【誤】
「パレスチナに建国されたイスラエルが、アラブ諸国との間で対立を深めていた」という事例は中東情勢ですが、問題文で語られる当時の国際保健分野での協力事例とは直接結び付けにくいです。

③【誤】
「日本が、満州事変をめぐる調査に反発し、国際連盟を脱退した」というのは1930年代の出来事で、国際保健協力が続けられたという例にはならず、むしろ対立が深まった事例として知られます。

④【正】
「第二次世界大戦で敗戦国となったドイツが、当初国際連盟に加盟できなかった」という事例は、政治対立があるにもかかわらず、保健などの分野では協力が進められた例を想起させます。実際に国際連盟自体は第一次世界大戦後に成立したものであり、ドイツの加盟が遅れたり制限されたりした一方で、保健事業については段階的に協力を模索したり参加したりする動きが見られました。

問5:正解1

<問題要旨>
1858年のアメリカ軍艦ミシシッピ号の寄港地と、その後のコレラ流行の時期・広がりを地図から読み解く問題です。メモ1・メモ2に書かれているコレラ流行の伝播経路と時期の相関を踏まえて、どのメモが正しいかを判断します。

<選択肢>
①【メモ1のみ正しい】
問題文では「関東地方でのコレラ流行が近畿・中国地方より早いのは、下田から感染が広がったからだと考えられる」とするメモ1は、下田入港のタイミングが地図に示されている流行開始時期と合致し、妥当といえます。

②【メモ2のみ正しい】
メモ2では「近畿地方・中部地方のコレラ流行拡大の起点は、流行時期から見て京都であったと考えられる」とありますが、地図や時系列からは京都が起点とは言い切れない可能性があり、メモ2単独では正しいとはいえません。

③【二つとも正しい】
メモ1とメモ2が両方とも正しい、という主張ですが、メモ2には疑問が残るため両方同時に正しいとはみなしにくいです。

④【二つとも誤っている】
メモ1は史料や地図の示す流行の早さから見て正しそうなので、両方誤りにはなりません。

問6:正解3

<問題要旨>
アメリカ合衆国への移民の推移を示すグラフを読み取り、時期ごとにどの地域から移民が多かったか、何を契機に増減したかを把握する問題です。1900~1999年の各年代における南北アメリカ・アジア・ヨーロッパなどからの移民数が比較されており、その数値から誤った読み取りを排除します。

<選択肢>
①【誤】
「1900~1929年の時期では、ヨーロッパからの移民が最も多い」という読み取りは、グラフを見るかぎりおおむね正しいため、これは適切な読み取りです。よって“誤り”とは言い切れませんが、選択肢として「適当でないもの」を探す問題なので注意が必要です。

②【誤】
「世界恐慌が始まってからの10年間で、移民の総数が急激に減少している」点は、1930年代のグラフが大きく落ち込んでいることと一致します。これは妥当な読み取りです。

③【正】
「ベトナム戦争を契機に、アジアからの移民が急激に増えている」という文言は、グラフからはベトナム戦争(1960年代~1975年頃)を境に、アジア系移民がそこまで顕著に激増しているとは見えないケースも多く、むしろ1970~1980年代以降の移民拡大は他の要因が大きいといえます。そのため“適当でない読み取り”として該当します。

④【誤】
「冷戦終結後の10年間には、南北アメリカ大陸からの移民数は400万人を超えている」という内容は、1990年代の棒グラフを見ると、南北アメリカ出身者がかなりの人数にのぼっており、400万人規模はありうる範囲と考えられます。

問7:正解5

<問題要旨>
20世紀後半の冷戦下を含む国際情勢と、アメリカ合衆国を含む西側諸国との間で人やモノの流れに影響を与えた歴史的出来事を時系列で整理する問題です。メモI~IIIに書かれた事件について、どれが古い順かを正しく並べる必要があります。

<選択肢>
(記載されたメモの概要)

  • メモI:チェコスロヴァキアでの民主化運動がソ連の介入(ワルシャワ条約機構軍)によって抑圧された(いわゆるプラハの春、1968年)。
  • メモII:鄧小平の「四つの現代化」基本方針決定(1978年以降)。
  • メモIII:カストロによる社会主義政権樹立(1959年のキューバ革命)。

こうした史実を年代順に並べると、(1)キューバ革命→(2)プラハの春→(3)中国の改革開放、となるのが正しい時系列と考えられます。

<選択肢>
①【誤】 メモI→メモII→メモIII
 プラハの春(1968)→鄧小平(1978)→キューバ革命(1959)の順番になっており、時系列がずれています。
②【誤】 メモI→メモIII→メモII
 (プラハの春)→(キューバ革命)→(中国の改革開放)も正しい年代順ではありません。
③【誤】 メモII→メモI→メモIII
 (中国改革開放1978)→(プラハの春1968)→(キューバ革命1959)の順となり、これも前後が逆です。
④【誤】 メモII→メモIII→メモI
 これも同様に前後が逆になります。
⑤【正】 メモIII→メモI→メモII
 (キューバ革命1959)→(プラハの春1968)→(中国の改革開放1978)が年代順として正しく、史実に合致します。

問8:正解4

<問題要旨>
「人やモノの移動が国境を越えて促進された場合の影響」をテーマに、さらに探究するための具体的な問いと学習活動例(W, X, Y, Z)を組み合わせる問題です。ここでは、ベルリンの壁崩壊後や明治政府の海外知識導入などの問いと、ドイツ統一や国際会議の調査などの学習活動をどのように対応させるかを考えます。

<選択肢>
(問題文からの問い)

  • あ:「ベルリンの壁が崩壊したことによって、人やモノの移動はどのような影響を受けたか」
  • い:「明治政府が海外から知識や技術を導入したことで、人びとの生活はどのように変化したか」

(学習活動例)

  • W:ドイツ関税同盟が成立した前後の物流の違いを比較する。
  • X:1988年と1990年の東西ドイツにおける人口の流動を記した資料を比較する。
  • Y:第一次世界大戦の講和会議における日本政府の外交方針を調べる。
  • Z:お雇い外国人が関わった産業施設を見学し、労働環境について調べる。

「ベルリンの壁崩壊後の人・モノの移動(あ)」を探究するためには東西ドイツの人口流動(X)が適切。また「海外から知識や技術を導入(い)」を探究するには、当時のお雇い外国人が関わった産業施設等(Z)を調べるのが有用です。

<選択肢>
①【誤】 あ=W、い=Y
 あ(ベルリンの壁崩壊)にW(ドイツ関税同盟前後の比較)は時代がかなり異なり、対応しにくいです。いとYも、明治政府の海外知識導入と第一次大戦後の外交方針では主題がかみ合いにくいです。

②【誤】 あ=W、い=Z
 あにWの組み合わせは不自然です。いにZは合っていますが、前半が合わないため全体として不適切です。

③【誤】 あ=X、い=Y
 あ(壁崩壊)にX(東西ドイツの人口流動比較)は妥当ですが、い(明治政府の海外導入)にY(大戦後の日本外交)は結びつきが薄いです。

④【正】 あ=X、い=Z
 あ(壁崩壊)とX(東西ドイツの人口流動)、い(明治政府の外来技術)とZ(お雇い外国人関連施設)はそれぞれ直接関連する内容で、探究活動として自然な組み合わせです。

第2問

問9:正解2

<問題要旨>
江戸時代中期の砂糖の輸入・消費に関する「資料1」をめぐり、著者が何を問題視しているのか、またその意見書を受け取った人物がどのような施策を試みたかを読み取る問題です。提示された4つの文(あ・い・う・え)のうち、正しい2つの組み合わせを選ぶ形式になっています。

<選択肢>
①【誤】(あ・う)
 「あ」は商人資本を用いた事業計画という点で、当時の財政再建策と合致しやすく正しい内容ですが、「う」は「輸入される中白砂糖の大部分が江戸の菓子屋で使われている」と主張している点が、資料1の具体的数値(江戸で消費されるうちさらに菓子用に使われるのは一部)とは異なり過剰な解釈です。よってこの組合せは誤りです。

②【正】(あ・え)
 「あ」は上述の通り、商人の資金を活用した経済政策の例を示しており史実と整合します。「え」は「庶民による贅沢な輸入消費を問題視している」という記述が、資料1に書かれた見解(下級の者まで砂糖を口にしていることへの批判)と符合します。したがって、この組合せがもっとも適当です。

③【誤】(い・う)
 「い」は、同業者組織を解散させて幕府財政を増収しようとする動きがあったのかどうかが不明瞭で、資料1から読み取れる意見書の受け取り手(工藤平助や田沼意次など)とは方向性が合いません。また「う」も前述のように不適当です。

④【誤】(い・え)
 「い」は誤りであり、「え」は正しいものの、組合せとしては正解になりません。

問10:正解1

<問題要旨>
「資料2」は森永製菓の菓子輸出に関する情報、「図1」は1913年の新聞広告(ミルクキャラメル)を示しています。ここから第一次世界大戦の影響による輸出拡大の可能性や、キャラメル広告の対象が子どもだけでなく大人にも向けられていた点を読み取れるかどうかが問われています。

<選択肢>
①【正】(あ=正・い=正)
 「あ」は、欧州諸国の輸出停滞が見込まれる戦時下で、日本企業が海外需要を取り込めた事情を示唆し、資料2と合致します。
 「い」は、図1の広告文が「疲労回復」「腸の調和」など大人の健康にも効能を謳っている点から、子ども以外の層にも訴求していることが読み取れます。

②【誤】(あ=正・い=誤)
 「あ」は正しい内容ですが、図1の広告は大人にも向けられているので「い」を誤りとするのは不適切です。

③【誤】(あ=誤・い=正)
 「あ」を誤りとするのは、資料2にある大戦期の輸出拡大可能性に反しています。よってこの組合せは成り立ちません。

④【誤】(あ=誤・い=誤)
 両方とも誤りと判断する根拠はなく、資料・広告の内容に合いません。

問11:正解2

<問題要旨>
「下線部⑨(またはⅳなど)に関して述べた文として適当でないもの」を選ぶ問題です。ここでは唐から新しい仏教が伝わった経緯や、貴族の住居・文化・記録作成の理由などが提示され、史実と照合してどれが不適切かを見極めます。

<選択肢>
①【正】
 「唐で学んだ僧侶が開いた新しい仏教が加持祈禱や現世利益を説いて貴族層に広がった」という点は、平安時代の密教(真言宗や天台宗)を想起させ、史実としておおむね適当です。

②【誤】
 「貴族の多くは、広い御所や書院などを備え、ふすまや明障子で間仕切りされた住居に居住した」とあるが、いわゆる書院造や襖・明障子のような形態は中世~近世以降の住居様式に近く、平安時代の貴族邸宅(寝殿造)とは合致しにくいと考えられます。よって“適当でない”文にあたります。

③【正】
 「漢詩や和歌に関する教養が重視された」ことや「天皇の命令による漢詩集・和歌集の編纂」が行われたのは史実で、内容も大筋で適切といえます。

④【正】
 「貴族が日記を記した理由の一つは、儀式や行事に関する経験を子孫に伝えるため」というのも、貴族の日記(『御堂関白記』など)に見られる通り、実際の朝儀や宮廷儀礼の知識を記録し相続する目的があったと考えられ、妥当な説明です。

問12:正解4

<問題要旨>
「下線部C」に関連して、日中の外交や文化交流のかたちを読み取る問題です。五山の僧侶がどのように外交に関わったのか、あるいは長崎での居住地制限や外国人への対応、戒律を伝えた中国僧などが示されるなか、もっとも適当な選択肢を選びます。

<選択肢>
①【誤】
 長崎で唐人屋敷を設置し清国人の居住を制限した事例は史実ですが、内容としては江戸幕府期の対中貿易管理を表しており、下線部Cの文脈と必ずしも合致するかは不明です。

②【誤】
 「大韓田神を修験して~」という文面は不自然で、歴史的事実としても確認しにくい表現です。

③【誤】
 「善の永の末に中国から渡来した高僧が日本に初めて戒律を伝えた」というのは鑑真(唐招提寺)に関するエピソードを思わせますが、“善の永”という時代表記があてはまらないなど問題があり、やや混乱した記述です。

④【正】
 「五山の僧が外交文書の作成を担い、中国との外交にも携わった」というのは、室町幕府期に五山僧が日明貿易(勘合貿易)などの文書作成や外交顧問として活躍した史実と合致します。

問13:正解3

<問題要旨>
砂糖がもたらされた時期や、砂糖を利用した菓子文化の進展など、日本における砂糖普及の歴史を概観する問題です。4つの選択肢のうち、もっとも史実と合致するものを選ぶ形式になっています。

<選択肢>
①【誤】
 奈良時代に中国から砂糖が伝来したという記録はありますが、「古代から中世にかけて砂糖は甘葛(あまづら)と呼ばれていた」という部分は疑問があり、実際には「甘葛」はツタ類の樹液そのものであって砂糖とは区別されるなど、用語の混同が見られます。

②【誤】
 室町時代に「カステラ」と呼ばれる菓子が普及したかどうかは疑わしく、カステラは南蛮菓子の一種として16世紀以降にポルトガル人によって伝えられたのが定説です。ここで「中国の菓子」とする点も誤りです。

③【正】
 江戸時代には中国や東南アジアなどからの砂糖輸入が増大する一方で、薩摩など国内各地で製糖を始める動きが本格化し、砂糖が庶民にも普及していく過程が見られます。国産化と多用途化が同時に進んだ史実とも合致します。

④【誤】
 第二次世界大戦中に配給制・切符制が導入された結果、むしろ砂糖の消費は著しく制限されました。よって「消費量が増加した」というのは逆の内容です。

第3問

問14:正解4

<問題要旨>
古代の九州北部には、中国大陸や朝鮮半島から種々の文物が伝来しました。そのうち3世紀までに伝わった可能性があるかどうかを問う問題です。選択肢の文物が、それぞれどの時期・地域に由来するかを史実と照合し、3世紀以前に大陸・半島から渡来したとは考えにくいものを選びます。

<選択肢>
①【正】
「楽浪郡で作られた土器」は、楽浪郡(前漢末期~3世紀初頭)が朝鮮半島北部に置かれた郡県の一つであり、この時代に九州北部にも伝わっていた可能性があります。

②【正】
「『漢委奴国王』と刻まれた金印」は、57年に倭の使者が後漢より授けられたと伝えられるもので、1世紀初頭に大陸からもたらされた可能性が高い文物です。

③【正】
「前漢で作られた貨幣」は、紀元前2世紀から紀元1世紀にかけて鋳造された前漢の銅貨などが、朝鮮半島や倭に流通した例が見られます。3世紀までに渡来したと考えられます。

④【誤】
「新羅で作られた馬具」は、新羅という呼称が一般化するのは4世紀頃以降で、3世紀以前の有力国としては“辰韓”など異なる名称が使われていました。よって3世紀までに“新羅製”の馬具がもたらされた可能性はきわめて低く、この選択肢がもっとも不適切です。

問15:正解3

<問題要旨>
唐および朝鮮半島諸国(新羅など)と日本の関係・人的交流について、8~9世紀を中心に整理する問題です。具体的に留学僧や官人の活動、国交の途絶などを念頭に、4つの選択肢から適切なものを選びます。

<選択肢>
①【誤】
「日本が唐から冊封(さくほう)を受け、定期的に唐に使節を送った」という表現は、当時の日本は唐の冊封を受けていません。遣唐使を送るなど外交関係はありましたが、“冊封”とは性質が異なります。

②【誤】
「日本は8世紀を通して新羅とは対等な外交関係を望んでいた」というのは、白村江の戦い(7世紀末)後の日朝関係には緊張もあり、一方的な対等関係とはいえない状況でした。

③【正】
「唐への留学経験がある吉備真備や玄昉が、帰国後に政府で活躍した」というのは史実に合致します。彼らは奈良時代に唐で学んだ知識を背景に政界でも重要な役割を果たしました。

④【誤】
「日本と新羅との関係が悪化したため、9世紀には新羅商船も来航しなくなった」というのは、9世紀以降も新羅の商人が訪れる例があり、完全な途絶は確認されていません。

問16:正解2

<問題要旨>
「渤海を『高麗』と記す資料がある」という話題を受けて、4つの資料(史料1~4)のうち、どれが渤海のことを『高麗』と呼んでいるかを探る問題です。史料文中の外交文書や遣使の記述から、渤海が自国をどのように称していたかを読み取る必要があります。

<選択肢>
①【誤】
史料1には「天皇が太宰府に大宰(おおむかえ)の文書と高麗国の外交文書を示した」などの説明がありますが、書きぶりからは渤海を指しているかどうかが明確ではなく、内容に不自然さがあるため確証が持てません。

②【正】
史料2には「高麗の使者の外交文書に『高麗国王の勅教が申し上げます…』」とあるように、自らを「高麗」と称して日本に遣使していることが読み取れます。渤海はしばしば自国を「高麗(こうらい)」と呼んだ例があり、この史料が該当すると考えられます。

③【誤】
史料3は「高麗の場帝が…」「逆にわが軍が…」などと異民族の攻撃を述べていますが、内容が渤海の国情と合うかは疑問で、仮に渤海使節であれば表現に不一致がありそうです。

④【誤】
史料4は、難波津を訪れた外国人技術者や仏僧のエピソードらしき記述ですが、そこに「高麗」と名乗る文言が見られず、渤海を指す内容とも判断しにくいです。

問17:正解1

<問題要旨>
大宰府を置いた九州北部が軍事上どれほど重要だったか、8世紀から11世紀にかけての出来事を踏まえ、提示された2つの文(あ・い)の正誤を組み合わせる問題です。

<選択肢>
①【正】(あ=正・い=正)
 あ:「8世紀末に兵制改革が行われ、軍団と兵士が廃止されたが、九州は廃止対象外だった」は、坂上田村麻呂らの征討政策などの文脈で、九州には対外防衛上の軍備が継続された例が見られます。
 い:「11世紀前半に沿海州の女真族が九州北部を襲撃したが、大宰府の役人であった藤原隆家らによって撃退された」というのは、刀伊の入寇(1019年)のことで、史実とおおむね合致します。

②【誤】(あ=正・い=誤)
 あは正しいが、いを誤りとする理由はなく、刀伊の入寇があったことは確かです。

③【誤】(あ=誤・い=正)
 あを誤りとすると、8世紀末の軍団制廃止が九州にも及んだということになりますが、対外警備のために西海道が特例とされていた史実と合わないため妥当ではありません。

④【誤】(あ=誤・い=誤)
 両方とも誤りとするのは、刀伊の入寇などの事実を無視しており不適切です。

問18:正解4

<問題要旨>
遣唐使が派遣されなくなった後の外交・文化の展開に関する新たな問いをまとめたメモと、それぞれに添えられた図が同時代のものかどうかを見極める問題です。サクラさんとタケシさんが提示したメモと図を比較し、その成立時期の整合性を考えます。

<選択肢>
①【誤】「二人とも、メモと図とが同時期である」
 サクラさんの図(唐風文化を示す琵琶など)が8世紀ごろの所蔵品と推測される一方、メモは唐との交流の衰退以降を扱っている可能性があり、同じ時代とは限りません。

②【誤】「二人とも、メモと図とが同時期ではない」
 タケシさんの図(唐から僧が来日するイメージの仏画など)が、まさに遣唐使時代を反映するものであれば、メモの内容とほぼ同時代の可能性があり、一括して“同時期ではない”とは断定できません。

③【誤】「サクラさんのみ、メモと図とが同時期である」
 サクラさんの図が正倉院宝物など8世紀中心のものとすれば、そのメモが後世の状況を扱う場合、同時期とは言いにくいです。

④【正】「タケシさんのみ、メモと図とが同時期である」
 タケシさんのメモは遣唐使派遣の終末期前後~それに近い時代の僧侶の往来を指し示す内容として理解でき、図も同じ頃の仏教絵画を指していると考えられます。一方、サクラさんのメモと図は時代に齟齬がある可能性が高く、これが最も適切です。

第4問

問19:正解3

<問題要旨>
鎌倉時代の御家人の活動をめぐる資料や当時の輸入品などについて問う問題です。唐物と呼ばれた中国製の品々を入手した武家、評定衆や引付衆など幕府での役職に参画した御家人、幕府による守護職や地頭職の拡大等、京都との交流に関わった御家人などの記述が提示されています。その中で、事実と合わない(適当でない)説明を選ぶ必要があります。

<選択肢>
①【正】
「唐物を入手する御家人がいた」というのは、鎌倉時代中期以降、宋や元などから輸入された高級品を武家や寺社が手に入れた史実と合致します。

②【正】
「評定衆や引付衆として幕府の政務に参加する御家人がいた」というのも、鎌倉幕府で創設された合議制の職に御家人が関わる例として正しいです。

③【誤】
「幕府の出した半済令によって荘園の支配を拡大する御家人がいた」は、半済令は南北朝期(14世紀半ば)に室町幕府が出したもので、鎌倉幕府の時代とは時期がずれます。よって鎌倉時代の御家人に直接かかわる制度とは言えず、この記述は不適当です。

④【正】
「京都との文化的つながりをもとに和歌をたしなむ御家人もいた」というのは、鎌倉武士にも和歌・連歌など宮廷文化に関心を示す者が存在したことが知られ、史実として妥当です。

問20:正解4

<問題要旨>
図に描かれた蒙古襲来(元寇)時の博多湾岸をめぐる様子と、資料2にある徴発や費用負担に関する取り決め(いわゆる石築地などの防塁整備)を念頭において、X・Yの考察内容がそれぞれどう対応しているかを問う問題です。選択肢のあ(図の説明)・い(図の説明)と、X・Y(資料2の考察)が組み合わされ、最適な一致を選びます。

<選択肢>
①【誤】(あ=X)
 「あ」を「一度目の襲来時の博多湾岸の様子」、Xを「蒙古襲来に対応するための負担を免除された」と組み合わせるのは、史料や絵巻などの状況と整合性が薄いです。

②【誤】(あ=Y)
 「あ」を一度目の襲来時、Yを「二度目の襲来後も、さらに備えていた」などの内容としても整合しない可能性があります。

③【誤】(い=X)
 「い」を「二度目の襲来時の博多湾岸」、Xを「負担の免除」とする組み合わせは、設定として確実性に欠けます。

④【正】(い=Y)
 「い」を「二度目の襲来時の博多湾岸の様子を描いている図」、そしてYを「鎌倉幕府は、二度の蒙古襲来の後も三度目に備えて警戒を続けた」とする内容は、史実や図の描写とも合致します。結果、この組合せがもっとも適当と考えられます。

問21:正解1

<問題要旨>
空欄「ア」と「イ」に入る語句の組み合わせを問う問題です。鎌倉~室町期にかけての宗教観や思想の展開に触れながら、どの宗教・宗派が一神教に当たるか、またどの教義が日本在来の宗教かを読み取ります。

<選択肢>
①【正】(ア=唯一神道、イ=キリスト教)
 中世・近世日本で「唯一神道」という呼称が現れ、神道を一神教的に解釈しようとする動きがあった一方、キリスト教は西洋の一神教です。二つの語句を入れ替えても不自然ではないか検討する必要がありますが、日本国内で興った「唯一神道」を「ア」、海外由来の「キリスト教」を「イ」とする組み合わせとして妥当です。

②【誤】(ア=唯一神道、イ=儒教)
 儒教は一神教とは言えず、道徳・倫理体系である点から、一神教の枠組みにあてはまりません。

③【誤】(ア=伊勢神道、イ=キリスト教)
 日本で成立した伊勢神道そのものに「唯一神教」的要素を強く見出すのは別問題で、さらにイをキリスト教とすると前後の文脈とズレる可能性があります。

④【誤】(ア=伊勢神道、イ=儒教)
 いずれも一神教ではなく、「一神教かつ海外の宗教」という指摘には合致しません。

問22:正解2

<問題要旨>
下線部などで指摘された「ウ」に入る文を選ぶ問題。戦国大名が領内の経済や貨幣流通をどう管理していたか、あるいは軍資金をどう確保していたかという背景知識を問います。選択肢には銭貨の大量流通に伴う質の問題、税や年貢の徴収と土地生産力の数値化、対外貿易などが示されています。

<選択肢>
①【誤】「貨幣不足を解消するために、戦国大名が領内のみで通用する漆札を発行していた」
 戦国時代に領内通用の紙幣的存在があったかというと、ほとんど実例がなく、公家の私札や寺社領などの例外はともかく、広域で流通するような漆札は史実として確かとは言い難いです。

②【正】「品質の悪い鋳銭が増加し、商取引の際に銭の選別が行われていた」
 この時期、明銭・私鋳銭などが混在し、撰銭令などによって良質な銭と粗悪な銭を区別する動きがあったのはよく知られています。

③【誤】「税や年貢の課税基準を上げて、土地の生産力を銭数で表示するようになった」
 土地の石高制が整えられるのは豊臣政権の検地以降であり、“戦国大名の段階で貨幣換算表示”が一般化していたとは言い切れません。

④【誤】「対外貿易が活発に行われ、日本産の銀が大量に流出していた」
 銀の流出・流入については、南蛮貿易や後の朱印船貿易期に議論がありますが、“戦国大名の政策”としては直接関連が不明瞭です。

問23:正解4

<問題要旨>
中世の武士について探究した内容をまとめるうえで、主に平安末期から戦国期に至る武士の台頭、あるいは守護大名から戦国大名への変化を示す出来事を年代順・要点とともに確認する問題です。提示された選択肢がどの時期・政権・動向を指すかを検討し、もっとも妥当なものを選びます。

<選択肢>
①【誤】「1150年代に京都で発生した戦乱によって地位を高めた武家の権威が、楊合丹や中国王朝との貿易を推進した」
 1150年代の京都の戦乱は保元の乱や平治の乱ですが、それが直ちに中国との貿易政策に結び付いたとするのは不自然です。

②【誤】「1180年代の全国的な内乱を通じて成立した武家政権は、独自の法典を定めて権令の効力を否定した」
 1192年に幕府を開いた源頼朝の政権は、独自の法典(御成敗式目)を定めるのは鎌倉時代中期(1232年)であり、“権令”を否定という表現は不正確です。

③【誤】「14世紀になると、武士たちは近隣の武士よりも遠隔地の一族との縁組を重視して集団を統括するようになった」
 南北朝時代から守護大名の家臣団成長は見られますが、“遠隔地の一族との縁組を特に重視”というのは不確かです。むしろ同地域での結び付きが多いケースも多々あります。

④【正】「15世紀後半以降、守護代や国人のなかから、実力に基づき家臣を領国に支配する戦国大名が現れた」
 応仁の乱(1467年~)以降、守護代・国人領主が下克上によって戦国大名化する動向が顕著になります。戦国大名が領国を統合し、独自の政策を進めるようになった点は史実とも合致します。

第5問

問24:正解4

<問題要旨>
近世の検地や百姓身分に関する下線部①・②について述べた文「あ・い」、および百姓の力や雑用役に関する下線部③・④について述べた文「X・Y」から、もっとも適当な組合せを選ぶ問題です。石高制や土地支配の仕組み、百姓が負担すべき雑役などを整理し、各選択肢が史実に合致するかを判断します。

<選択肢>
①【誤】
「あ=X、い=Y」という組合せ。あ(石高を算定した検地において、検地帳に登録された者がその土地の所持を認められる)とX(百姓が武力を行使することを認められたのは領主間の紛争解決の際のみ)を関連付けるのは根拠に乏しく、い(土地権利関係の明確化)とY(本年貢以外にも河川・山野利用の雑役を負担)との対応もうまくいきません。

②【誤】
「あ=Y、い=X」という組合せ。あの内容(検地により年貢対象地を画定)をY(山野や河川の副業負担)と結び付けるのはずれており、いの方(複雑な権利関係を整理)とX(武力行使の認否)も矛盾が多くなります。

③【誤】
「い=X、あ=Y」の順序となる組合せ。いが「領主ごとに大きさや容積が異なる検地基準」の文意ならば、それをX(百姓の武力行使)に直結させるのは不自然です。あとYの対応も同様に成立しにくいです。

④【正】
「い=Y、あ=X」という組合せ。い(検地で複雑な権利関係を整理した結果、その土地利用者を公式に認める)とY(百姓は石高に応じた様々な副業や雑役を担わされた)をそれぞれ対応させると、史実と比較して整合しやすいです。結果として、この組合せがもっとも適切です。

問25:正解3

<問題要旨>
ある村が1669年に定めた村掟(村法)の内容から、当時の村落社会における秩序維持や処罰の仕組みを読み取る問題です。罰金や連帯責任の規定が明記されており、領主による直接処罰ではなく、村による独自の運用が示唆されています。

<選択肢>
①【誤】
「処罰の内容は、罪によって違いがなかったことが分かる」は、資料に複数の違反行為とそれぞれに応じた罰金額が挙げられているので誤りです。罪の種類ごとに処罰が異なっています。

②【誤】
「罪を犯した者の処罰は領主が行うと定められていることが分かる」は、資料中では村が罰を決め、五人組による連帯責任などを科している様子が示され、領主が直接裁くとは書かれていません。

③【正】
「自分が罪を犯していなくても、連帯責任により罰せられる場合があったことが分かる」は、五人組の制度が明記され、違反者が出た際には本人だけでなく組の者も罰金を負担することが述べられています。

④【誤】
「幕府が農民の生活を規制するような法令を発布しなかったことが背景だ」という指摘は誤りです。江戸幕府は各種法令を通じて百姓生活を管理しており、村掟が制定されたのはそれを補完する村側の取り決めとも解釈できます。

問26:正解6

<問題要旨>
I・II・IIIの三つの文(近世~江戸中期の救済策や農村統制策など)を、時代の古い順から並べる問題です。年貢減免や流民対策、飢饉への備えなどの施策がいつ行われたのかを把握し、正しい時系列を判断します。選択肢が6通りあるため、その中からもっとも妥当な順番を選びます。

<選択肢>
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I
⑤ III → I → II
⑥【正】 III → II → I
 - IIIは、重い年貢や失役を緩和する政策から、緻密な農村支配へ転換していく動きを指し、比較的早期の例と考えられます。
 - IIは、青木昆陽を登用して甘藷栽培を普及するなど、享保期(18世紀前半)以降に行われた対策が中心です。
 - Iは、天保期(19世紀前半)の打ちこわし・流民対策などを示唆する内容で、いちばん後の時代と見なせます。

問27:正解2

<問題要旨>
幕府領の鎹原村(かすがいはらむら)に関する被災と復興の資料(メモ3)を比較し、それらの内容を総合してもっとも正しい組合せを選ぶ問題です。天明3年(1783年)の災害と慶応2年(1866年)の実態調査から、石高や人口の推移をどう解釈するかが問われます。

<選択肢>
①【誤】 あ=う
 「あ」では「鎹原村の被災は遠隔の噴火によるもの」とし、「う」で「荒地となったままではない」とする組合せは資料と合わず、火山の噴火や耕地流出の程度などの描写とも相反します。

②【正】 あ=え
 あ(災害の原因が噴火や流出によるもので、村は大きく被害を受けた)と、え(幕末期になっても被災前の状態には回復しなかった)を組み合わせると、1783年に荒地化したまま残り、1866年段階でも復旧が十分に進んでいないという資料内容に合致します。

③【誤】 い=う
 い(被災後も~年貢は減らなかった)と、う(荒廃状態が改善された)を組み合わせるのは、メモ3の状況(石高が下がったまま)と食い違いが生じます。

④【誤】 い=え
 い(年貢負担継続のまま)と、え(回復しなかった)を合わせても、メモ3中の具体的な人数減少や田地流失の記述との連動が曖昧で不整合です。

問28:正解3

<問題要旨>
近世の村に関する考察をまとめるにあたって、石高と年貢高の関係性、外部との関係、あるいは新田開発の影響などを総合的に問う問題です。提示された4つの選択肢が、村落の実態に合致するかを検討し、もっとも適切なものを選びます。

<選択肢>
①【誤】
「村の運営は独立した住民が担い手となり、耕地を持たない住民の参加は制限されていた」というのは、近世村落では様々な身分の住民が寄合などに参加するケースも見られ、必ずしも耕地主体だけとは限りません。

②【誤】
「村の生活は村内で完結しており、他村とのつながりは基本的になかった。災害時にも協力がなされることはなかった」というのは実情と異なります。他村からの援助・融通などが記録される事例も多く、完全に閉鎖的ではありません。

③【正】
「グラフによると、幕府領の石高と年貢高は連動して変化しており、これは年貢率が17世紀後半から19世紀初頭まで固定されていたからだと考えられる」という主張は、石高が増減すれば年貢高も変動するという一般的な理解と一致します。また江戸中期以降、検見法や定免法などで一定期間、年貢率をほぼ固定した地域も多くみられ、グラフの動きと整合します。

④【誤】
「グラフをみると17世紀から18世紀半ばにかけて幕府領の石高が増加しているのは新田開発による耕地拡大だという見方が挙げられる」とあるが、新田開発が本格化するのは主に17~18世紀前半なのは確かでも、それを裏付けるだけではなく、年貢高との関連には他の要因(検地の見直し・人口増など)も大きく絡むため、この断定的な書きぶりは不正確だとみなされます。

第6問

問29:正解1

<問題要旨>
松本清張の歴史小説『西郷札』に関連して、その小説のあらすじから読み取れる内容「あ・い」と、西南戦争と同時期の政府の政策「X・Y」をどう組み合わせるかを問う問題です。西南戦争の頃に、政府が地租改正反対一揆や経済政策をどのように進めたか、また当時の私札(「西郷札」と呼ばれた金券)にどのような運命があったかを踏まえ、最も適当な対応関係を選びます。

<選択肢>
①【正】 あ=X、い=Y
 「あ」は「西郷札を称する金札は、西郷隆盛の命運とともに価値が下落してしまった」という趣旨で、Xは「政府は地租改正反対一揆などを抑えつつ進めた」等の政策を指す可能性が高く、整合します。一方、「い」は「西郷札を称する金札を領地交換などに活用しようとする者がいた」といった内容が「Y」の政策(免貨紙幣や通貨改革など)と結び付き、当時の状況に沿った組み合わせになります。

②【誤】 あ=Y、い=X
 逆の組み合わせでは、小説が示す西郷札の価値喪失(あ)と政府政策(Y)との関連が曖昧になり、い(交換の試み)とXの整合も崩れます。

③【誤】 い=X、あ=Y
 いが「西郷札を交換しようとする行為」をX(地租改正反対一揆)と直結させる根拠が薄く、あをYとすることで西郷札の価値喪失との対応にも無理があります。

④【誤】 い=Y、あ=X
 一見似通った形ですが、資料に照らし合わせると両者の時期と政策にずれが生じ、最適解とはいえません。

問30:正解4

<問題要旨>
松本清張の自伝的著作『半生の記』や、当時の朝鮮半島に関する回想が書かれた資料2をもとに、「この頃の朝鮮」について誤った記述を選ぶ問題です。1930年代~1945年前後の朝鮮統治下でどのような政策が行われていたか、実体験を含む文章から読み取り、正しい史実との食い違いを見抜くことが求められます。

<選択肢>
①【正】
「資料2から、松本清張にとって軍隊での仕事は単調でやりがいがないように感じられたことが読み取れる」という文言は、内務班や雑用などの記述に合致します。

②【正】
「資料2から、松本清張は軍隊での処罰を恐れて、交戦国の言語を学べなかったことがうかがえる」は、彼が勝手に“敵性語”の本を読んでいて処罰対象になるのではと不安を抱いた件に照らして、ある程度妥当と言えます。

③【正】
「この頃の朝鮮では、皇民化が進められ、神社参拝などが強制された」というのは、1930年代~1940年代前半の朝鮮統治政策として知られる史実で、ほぼ正しい指摘です。

④【誤】
「この頃の朝鮮では、土地調査事業が始められ、所有権の不明確を理由に土地が接収された」というのは、土地調査事業自体は1910年代(韓国併合直後)に主に実施されたものであり、1930~40年代の状況を説明する文脈としてはずれがあります。また“新規に始まった”わけではなく、さらに「所有権不明を口実に接収」が全面的に行われたという表現には誤解が含まれるため、これが誤りと判断できます。

問31:正解6

<問題要旨>
松本清張の年譜に関連して、マスメディアの歴史を年代順に並べる問題です。文I~IIIとして提示された「全国紙の発行」、戦時下の言論統制、「漫画・アニメ文化の普及」などの出来事を古い順に正確に配列できるかを問われます。

<選択肢>
I:手塚治虫の漫画が大きく読まれ、漫画・アニメ文化の基礎が築かれた。
II:戦時体制の強化により思想・言論が統制され、政府はマスメディアに対して検閲を行った。
III:「朝日新聞」や「毎日新聞」のように、全国で100万部超え発行が広がり、新聞事業が拡大した。

これを年代順で考えると、まず近代的全国紙が明治後期から大正期にかけて発展(III)、その後に第二次世界大戦期の統制(II)、さらに戦後の漫画文化普及(I)が続くため、III→II→I が最も自然な時系列です。

<選択肢>
① I→II→III
② I→III→II
③ II→I→III
④ II→III→I
⑤ III→I→II
⑥【正】 III→II→I

問32:正解4

<問題要旨>
松本清張の年譜中にある下線部に関連し、近現代の社会運動(労働運動・ストライキ・政治活動)についての記述を4つ提示し、そのうち誤っているものを選ぶ問題です。戦後日本で実際に展開されたストライキや内閣の動向を整理し、どれが事実と合致しないかを判別します。

<選択肢>
①【正】
「官公庁の労働者を中心にゼネラルストライキが計画され、実施直前で中止された」
 戦後、1947年に予定された“二・一ゼネスト”がGHQの指示で中止された史実に符合します。

②【正】
「声問労分の巾軋(権力への抗議)で組織された~逮捕者を出しつつ撤退した」
 “下山事件”“三鷹事件”など労働運動に関連した大きな混乱があった事例が想起されますが、詳細は不明瞭でも、労使対立が激化した当時の状況を示すなら大筋であり得る記述と判断できます。

③【正】
「農業をめぐって下山事件などが続発し、労働組合に嫌疑がかけられた」
 表現にやや混合が見られるものの、鉄道労働組合や炭鉱など各業種で闘争があった事例を思えば、ぎりぎり該当しうる範囲と言えなくもありません。

④【誤】
「吉田内閣期は、破壊活動防止法を制定して治安体制を強化しようとした」
 破壊活動防止法(破防法)が制定されたのは1952年(鳩山内閣が成立する直前)ではあるものの、それに至る政治的経緯や法施行の状況を“吉田内閣が主体的に制御した”というのは史実とややずれがあります。また破防法が「吉田内閣期に制定された」というのは誤りで、公布自体は1952年の第4次吉田内閣末期ですが、正式には翌年施行されるなど微妙な時期差があり、「戦後直後からの労働運動抑圧策」とは一概に結び付けられません。この文が誤りとして扱われるのが妥当です。

問33:正解2

<問題要旨>
長谷川町子の漫画『意地悪ばあさん』で描かれた場面と、そこに松本清張が登場した経緯(資料3)に関して、あ(女性の政治参加度)・い(長谷川町子が松本清張を登場させた理由)という2つの疑問を設定し、それぞれどの調べ方(W・X・Y・Z)を行うと適切かを選ぶ問題です。

  • あ:「資料3の時期に、女性の政治参加はどの程度進んでいたのだろうか?」
  • い:「資料3で長谷川町子が松本清張を登場させたのはなぜだろうか?」

(調べ方の候補)
W:その時期までの国政選挙における投票率を男女別に調べる。
X:近い時期の国政選挙における各政党への投票率を男女別に調べる。
Y:主要な政治制度の規制緩和や構造改革に関する松本清張の主張を調べる。
Z:『サンデー毎日』をはじめとする主要な週刊誌における松本清張の社会的評価について調べる。

<選択肢>
①【誤】 あ=W、い=Y
 あ(女性の政治参加)をWにしているのは一見良さそうですが、い(松本清張を登場させた理由)をY(清張の政治制度改革主張)に結びつけるのはやや筋が違います。

②【正】 あ=W、い=Z
 あは「女性の投票率などを男女別で調べる」ことにより女性の政治参加度を把握でき、いは「長谷川町子が松本清張を漫画に取り上げた背景」を、当時の週刊誌・社会の清張に対する評価など(Z)を調べることで探る筋が通ります。

③【誤】 あ=X、い=Y
 Xは政党別投票率を男女で比較する方法ですが、女性参加度全体を把握するならWの方が直接的です。Yも清張の政治論が主眼となり、漫画登場の理由を探るには不十分です。

④【誤】 あ=X、い=Z
 あにXを当てはめると的がややズレ、いはZでもよいが前者が適切でありません。

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