2025年度 大学入学共通テスト 本試験 歴史総合 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問101:正解3

<問題要旨>
近世から近代にかけての国際秩序の変化(朝貢・冊封関係から近代的主権国家体制への移行)と、18世紀末のイギリス船の港湾利用に関する史料を読み取り、どのような秩序観と港が該当するかを組み合わせる問題である。

<選択肢>
①【誤】
「朝貢と冊封によって結びつけられた秩序」と、18世紀末にイギリス人が自由航海で利用を公認されていた港を組み合わせているが、当時のイギリスは東アジアの伝統的な朝貢関係とは別の原理(近代的な主権国家体制)を背景として港湾開港を求めていたため、論旨にそぐわない。

②【誤】
①と同様に、「朝貢と冊封」に関わる秩序観を港bに結びつけているが、問題文が示す史料の文脈からして、港bよりも港aのほうが18世紀末からイギリス利用が公認されていた事例に合致しやすい。このため史料との整合性が取れない。

③【正】
「諸国が外部からの干渉を受けずに国境内の統治権を互いに認め合う近代的な主権国家の秩序」と、18世紀末にイギリスが航海利用を認めさせた港aを組み合わせた内容。イギリスが自由貿易を求め、清朝との伝統的な冊封関係を否定しつつ条約で港を利用するようになった歴史的事実と整合する。

④【誤】
近代的な主権国家体制を表す文章と港bを結びつけているが、史料から読み取れる具体的な港の位置やイギリスの動向を踏まえると、港aが自由航海の公認港に当たるとみるのが自然であり、選択肢としては不適切である。

問102:正解2

<問題要旨>
19世紀後半における東アジア諸国の国境や国際関係に関する資料・パネルを用いて、その「事件」の時期や背景を正しく読み取る問題である。

<選択肢>
①【誤】
「我が国と貴国との条約」が下関条約だとする見方は、年代や内容の符合が取れない。下関条約(1895年)は日清戦争後であり、資料文中の「事件」が起こった時期とは異なる。

②【正】
資料中の「事件」が起こった時期は、清仏戦争(1884~1885年)よりも前と考えられる史実に合致する。たとえば朝鮮をめぐる19世紀後半の紛争として江華島事件(1875年)などが存在し、これは確かに清仏戦争前である。

③【誤】
「外国人が自由にどこにでも居住できた」状況は、当時の日本の条約改正の経緯や居留地制度を踏まえると誇張が大きい。実際は明治初期には外国人居留地が限定されており、自由な居住は認められていなかった。

④【誤】
「事件を契機に、日本と朝鮮が相互に領事裁判権を認め合う対等な条約を結んだ」というのは史実と異なる。朝鮮との不平等条約(朝鮮側にとって不利な内容)を結んだ事例はあっても、対等な関係を相互に認めたわけではない。

問103:正解2

<問題要旨>
1851年の国際衛生会議などで論じられた検疫の是非や、その背後にある列強諸国の利害(貿易の自由・隔離政策への反対)を踏まえ、会話文中の空欄Aに入る国名と、空欄Iに入る主張の内容を組み合わせる問題である。

<選択肢>
①【誤】
Aをイギリスとしつつ、Iを「コレラの国内侵入を水際で阻止し被害を抑制する必要がある」とする組み合わせ。イギリスは当時、海上貿易の利益を重視して検疫強化に反対する立場が強かったため、このような“徹底的な水際対策”を推進したとは考えにくい。

②【正】
A=イギリス、I=「国家が船の通行や入港を制限することで、貿易を妨げるべきではない」という組み合わせ。イギリスは当時“自由貿易”を重視し、検疫強化に反対する動きも大きかった史実と合致する。

③【誤】
Aをスペインとする選択肢だが、1851年の国際衛生会議で強く検疫に反対した中心的国はイギリスであったことが広く知られており、スペインに置き換えるのは史料から見ても根拠が薄い。

④【誤】
③と同じくAをスペインに設定したうえで、検疫制限に反対する論を当てはめたもの。検疫に対する反対運動の代表格だったイギリスとは整合しないため、歴史的背景に合致しない。

問104:正解4

<問題要旨>
第一次世界大戦から第二次世界大戦勃発までにかけて、国際社会では政治的対立があっても保健衛生面などで協力が行われた例がある。その具体例として空欄「ウ」に入る国際情勢が、どの選択肢と一致するかを問う問題である。

<選択肢>
①【誤】
イギリスの「光栄ある孤立」政策は19世紀後半から20世紀初頭にかけての外交姿勢を表すが、国際保健協力の文脈で「にもかかわらず」という表現を導く事例としてはやや不適切。

②【誤】
パレスチナに建国されたイスラエルとアラブ諸国の深刻な対立は第二次大戦後の話であり、国際連盟時代(戦間期)と直接対応させるのは難しい。また衛生協力のエピソードとも結びつきにくい。

③【誤】
日本の国際連盟脱退(1933年)は満州事変をめぐる摩擦が原因だが、当該脱退以降に国際連盟と保健事業での協力があったかという点とは整合しにくい。

④【正】
「第一次世界大戦で敗戦国となったドイツが、当初国際連盟に加盟できなかった」が、後に加盟が認められ、保健衛生面では協力が行われたという史実がある。戦間期における国際連盟の保健事業にはドイツも後に参画し、科学・医学の分野で国際協力が見られた。このため「にもかかわらず」という表現と整合する。

問105:正解1

<問題要旨>
1858年のミシシッピ号来航とコレラ流行の時期や地域の広がりを示す地図、そしてメモ1・メモ2の内容から、どちらのメモが正しいかを判断する問題である。

<選択肢>
①【正】
「メモ1のみ正しい」という判断。メモ1にある「関東地方でのコレラ流行が近畿・中国地方よりも早いのは、下田から感染が広がったと考えられる」という見解は、史料の地図で示される流行時期・経路とも符合しやすい。

②【誤】
「メモ2のみ正しい」とするが、メモ2にある「近畿・中国地方のコレラ流行拡大の起点が京都だった」という点は、地図から考えた流行ルートと時期を踏まえると確証に乏しい。

③【誤】
「両方とも正しい」とするが、メモ2の内容にやや疑義があり、2つとも正解にはならない。

④【誤】
「両方とも誤っている」とするのは、メモ1に関しては流行経路と時期の記述が地図と合致しているため誤り。

問106:正解3

<問題要旨>
アメリカ合衆国への時期別移民数を地域別に示したグラフをもとに、1900年代から冷戦終結後までの移民動向を概観し、与えられた選択肢のなかで「グラフから読み取れない(不適当な)内容」を選ぶ問題である。

<選択肢>
①【正】
1900~1929年頃までヨーロッパからの移民が大きな割合を占めていたことは、アメリカの移民史上広く知られた事実であり、グラフにも現れやすい。

②【正】
「世界恐慌が始まってからの10年間に移民総数が急激に減少している」というのは、1930年代の移民規制強化や経済的混乱による移動の鈍化を示すため、史実とも合致する。

③【誤】
「ベトナム戦争を契機にアジアからの移民が減少している」というのは誤りで、むしろベトナム戦争終結前後に東南アジア難民が急増し、米国への移民は増加していった。また1960~1970年代にかけてアジア移民全体の比率も上昇傾向が見られる。

④【正】
「冷戦終結後の10年間に南北アメリカ大陸からの移民が400万人を超えている」というのは、ラテンアメリカからの移民増加などを踏まえればグラフ上でも大きな数値が示されることが多く、妥当性が高い。

問107:正解5

<問題要旨>
20世紀後半の時期に注目し、西側諸国と社会主義圏、あるいはアメリカ合衆国を含む地域間の人やモノの流れに影響を与えた出来事(メモI~III)を年代順に並べ替える問題である。

<選択肢>
(メモI)チェコスロヴァキアにおける民主化運動(1968年のプラハの春)
(メモII)鄧小平による「四つの現代化」政策(1970年代末)
(メモIII)カストロによる社会主義政権樹立(1959年キューバ革命)

これらを古い順から並べると「1959年→1968年→1970年代末」となるので、III→I→II の順。

①【誤】 I→II→III は年代が逆。
②【誤】 I→III→II も順番が異なる。
③【誤】 III→I→III は同じ項目を二度繰り返しており成立しない。
④【誤】 II→I→III も年代順がおかしい。
⑤【正】 III→I→II が史実に即した正しい年代順。
⑥【誤】 メモIII→II→I は1968年より1970年代末が先になるため誤り。

問108:正解4

<問題要旨>
「人やモノの移動が国境を越えて促進された場合の影響」を探究するにあたり、(あ)「ベルリンの壁崩壊による人やモノの移動の変化」、(い)「明治政府が海外から知識や技術を導入したことで人々の生活がどう変化したか」という二つの問いに対し、どの学習活動を組み合わせるとより深く考察できるかを問う問題。

<選択肢>
(あ)ベルリンの壁崩壊による人口移動の影響 → 1988年と1990年の東西ドイツにおける人口動態比較などが適切
(い)明治期の海外知識・技術の導入による生活変化 → お雇い外国人が携わった産業施設などを見学し、労働環境を調べる活動が該当

①【誤】 あ-W, い-Y は、Wが「ドイツ関税同盟成立前後の物流比較」なので時代が大きくずれ、ベルリンの壁崩壊とは関連しにくい。
②【誤】 あ-W, い-Z は、あにWを当てる点が不適切。
③【誤】 あ-X, い-Y だと、(い)にY(第一次大戦の講和会議における日本外交)を充てるのは明治期の技術導入の考察としてはズレがある。
④【正】 あ-X, い-Z の組み合わせは、あ(ベルリンの壁崩壊後の人口移動)をX(1988年と1990年の東西ドイツの人口動態比較)で探り、い(明治期の海外技術導入の影響)をZ(お雇い外国人の関わった産業施設見学など)で調査するという流れになり、最も筋が通る。

第2問

問109:正解3

<問題要旨>
オスマン帝国の近代化改革に関する用語(空欄A)と、その改革の方向性(空欄I)を正しく組み合わせる問題である。19世紀前半から後半にかけて、オスマン帝国は伝統的イスラーム社会を保ちながらも、西欧列強との関係や国内改革の必要性から近代化を目指した。この改革の呼称や、イスラームの儀礼・慣習との兼ね合いがポイントとなる。

<選択肢>
①【誤】
Aに「アータンジマート(タンジマート)」、Iに「急速な世俗化政策により西洋化を推進」とした組合せ。タンジマートはオスマン帝国の近代化改革を指す用語だが、「急速な世俗化」というよりは、イスラーム的要素も考慮しつつ近代化を図った面が強い。

②【誤】
Aに「アードイモイ(ドイモイ)」、Iに「急速な世俗化政策により西洋化を推進」とする組合せ。ドイモイは20世紀末のベトナムで行われた経済改革の呼称であり、オスマン帝国の19世紀改革とは無関係。

③【正】
Aに「アータンジマート(タンジマート)」、Iに「イスラームの儀礼に配慮しつつ西洋化を推進」とする組合せ。オスマン帝国では伝統的なイスラーム社会を維持しながら軍制や服装などを西欧化した史実に合致する。フェズ(トルコ帽)の導入などは、礼拝の邪魔とならないよう考慮したうえで近代化を図った点を示す好例である。

④【誤】
Aに「アードイモイ(ドイモイ)」、Iに「イスラームの儀礼に配慮しつつ西洋化を推進」とする組合せ。ドイモイが指すのはベトナムの改革であり、オスマン帝国の近代化改革には当てはまらない。

問110:正解1

<問題要旨>
図版に見られる人物の髪型・服装などから「図1の会談が行われた時期」を推定する方法(あ・い)と、その方法によって絞り込まれた時期(W~Z)を正しく組み合わせる問題。清朝や日本の近代化における髪型・服装の変化が起きた年代をヒントに、いつ頃かを特定するのがポイントとなる。

<選択肢>
①【正】
(あ)「中国の官吏の間で弁髪が広く見られた時期を調べる」 → 清朝滅亡の契機となった辛亥革命(1911年)までの時期(W)。
(い)「日本の政治家や軍人が洋装を取り入れていった時期を調べる」 → 明治維新(1868年)以降に近代的軍制が整いはじめた時期(Y)。
これによって、19世紀末~20世紀初頭頃の外交の場だった可能性を導き出している点が妥当である。

②【誤】
(あ)をWとしながら、(い)の方をZ(日本の第一次世界大戦への参戦以降)と結びつけると、日本の政治家が洋装を導入していた時期よりだいぶ遅くなるため、図1の会談時期と合いにくい。

③【誤】
(あ)をX(満州国が建国されるまで)とするのは、弁髪の広い普及との対応がずれる。満州国建国(1932年)は辛亥革命以降であり、弁髪が公的に廃止され始める時期と食い違う。

④【誤】
(あ)をX、(い)をZとする組合せも、中国や日本の服装変化のタイミングからは的外れとなる。

問111:正解3

<問題要旨>
ドイツ(プロイセン)と日本の間で修好通商条約が結ばれた経緯に関するノート(I・II)を読み、当時の国際関係と条約締結の順序について正しく言及している選択肢を選ぶ問題。安政の五カ国条約(1858年)など、すでに欧米諸国と日本の間に通商条約があった史実との対応が鍵となる。

<選択肢>
①【誤】
Iについて「当時ヴィルヘルム2世が積極的な対外政策を進めていた」と述べるが、ヴィルヘルム2世の即位は1888年であり、1860年当時とは時代が異なる。

②【誤】
Iについて「当時シンガポールはドイツ(プロイセン)の植民地であった」とあるが、シンガポールは当時イギリス植民地であった。プロイセン植民地ではない。

③【正】
IIについて「日本はドイツ(プロイセン)との条約以前に、他国と修好通商条約を結んでいた」という内容。1858年に安政の五カ国条約(米・蘭・露・英・仏)を締結しており、1860年にドイツと交渉を始める時点ですでに複数の欧米国と条約関係があったことと一致する。

④【誤】
IIについて「当時、諸外国との条約締結交渉にあたったのは朝廷であった」。実際には幕府が安政条約の交渉・締結を行っており、朝廷は外交の主導的立場にいなかった。

問112:正解4

<問題要旨>
日本と中国における綿糸の生産量・自給率を比較したグラフをもとに、「生産量の推計方法」に関する文(あ・い)と「グラフから読み取れる事柄」(X・Y)の正誤を組み合わせる問題である。紡績業の指標として「紡績機の錘(スピンドル)数」、さらには日本の綿糸生産量の著しい増加時期などを読み取るのがポイント。

<選択肢>
①【誤】
(あ)「綿糸の生産量は力織機の台数から推計できる」+ (X)「中国では1910年時点で国内生産量が国内消費量を上回っていた」とする組合せ。綿糸の生産量を力織機の台数のみで正確に推計するのは難しく、また中国が1910年に自給を十分達成したかどうかには疑問が残る。

②【誤】
(あ)「綿糸の生産量は力織機の台数から推計できる」+ (Y)「帝国議会開設後の10年で日本の国内生産量は5倍以上になった」。力織機の台数に頼る主張(あ)の部分が不適切。

③【誤】
(い)「綿糸の生産量は紡績機の錘数から推計できる」+ (X)「中国では1910年時点で国内生産量が国内消費量を上回っていた」。紡績機の錘数からの推計は妥当だが、中国の1910年時点の状態に関しては正確性を欠く。

④【正】
(い)「綿糸の生産量は紡績機の錘数から推計できる」+ (Y)「帝国議会開設後の10年間(1890年代)に日本の国内生産量が5倍以上に増加した」。紡績機の錘数は綿糸生産の目安として歴史的に使用されており、またグラフから日本の綿糸生産量が1890年代に急増したことが確認できる。

問113:正解2

<問題要旨>
1920~1930年代の東アジア各地における女性の服装変化を取り上げたパネルから、その背景事情を読み取り、もっとも適切な記述を選ぶ問題。いわゆる「モダンガール」の登場やその名称が各地に波及した流れに注目する必要がある。

<選択肢>
①【誤】
「モダンガールの特徴的ヘアスタイルがロングヘアー」であったとするが、むしろ断髪やショートボブなどがモダンガールの象徴的スタイルとされることが多い。

②【正】
「東アジアでは、独立国・植民地・租界を問わず、モダンガールの装いが見られた」という内容。日本や中国(上海や天津など)、朝鮮半島の都市部でも西洋風ファッションを取り入れた女性がいた史実と合う。

③【誤】
「モダンガールが広まった1930年代の京城(ソウル)には、統監府が設置されていた」。統監府は日韓併合前の韓国統監を置いた機関で、1905~1910年にかけて存在したものであり、1930年代の時点で統監府は既に廃止されている。

④【誤】
「『玲瓏』が上海で創刊された当時の中国は、中華人民共和国である」。1931~1937年の上海は中華民国時代であり、中華人民共和国の成立は1949年。よって時期が合わない。

問114:正解2

<問題要旨>
1920~1930年代のイタリアにおけるファシズム体制下の服飾政策と、同時期にフランスからの影響が見られたかどうかを問う問題。提示された資料によると、国内産業の保護とファッションへの外部影響との関係性が焦点。

<選択肢>
①【誤】
あ=正(ファシズム体制下で国内衣服生産は奨励された)、い=正(フランスもファシズム体制であったので、フランスからの影響は歓迎された)という組合せだが、フランスは当時ファシズム体制ではなく、第三共和政下であった。

②【正】
あ=正「思想や言論を統制するファシズム体制下で国内衣服産業が奨励された」
い=誤「フランスもファシズム体制だったため影響が歓迎された」は誤り。フランスはファシズム国家ではなく、イタリアのような体制下にはなかった。よってここが正しい組合せ。

③【誤】
あ=誤、い=正の組合せは成り立たない。あ(イタリアでの国内産業奨励)は史実に合致するため誤扱いできない。

④【誤】
あ=誤、い=誤も、あが誤りだとはいえないので不適切。

問115:正解4

<問題要旨>
1979年のイラン=イスラーム革命による女性の服装や社会制度の変化、および学校教材に掲載された指導者の写真の違いから、「挿絵1」と「挿絵2」の年代順や、イスラーム革命の結果を述べた文を正しく選ぶ問題。女性の服装がむしろ伝統的イスラーム規範(ヴェール着用)に回帰した点が重要。

<選択肢>
①【誤】
(あ)挿絵1 → 挿絵2が古い順とし、(う)「イラン=イスラーム革命の結果、西洋化が推進された」を組み合わせるが、革命後はむしろ西洋化の逆方向に進んだ(女性にヴェール着用が義務化)。

②【誤】
(あ)挿絵1 → 挿絵2とし、(え)「イスラムの教えに基づく共和国が成立」を組み合わせるが、挿絵の古い順が誤っている場合が多い。

③【誤】
(い)挿絵2 → 挿絵1が古い順とし、(う)「イスラーム革命の結果、西洋化が推進」を併せるが、革命後に西洋化が進む主張は逆である。

④【正】
(い)挿絵2 → 挿絵1が古い順とし、(え)「イスラームの教えに基づく共和国が成立」。イランでは革命前(旧体制)を挿絵2、革命後(新体制)を挿絵1とするのが妥当であり、革命の結果、イスラーム共和国として新たな体制が発足した史実にも合致する。

問116:正解6

<問題要旨>
第二次世界大戦後の女性の社会的地位やジェンダー平等に関する出来事を時系列に並べる問題。メモI~IIIにそれぞれ、「SDGsでのジェンダー平等目標」「日本における男女雇用機会均等法と女性の昇進」「アメリカ合衆国での公民権運動や女性解放運動(ウーマン・リブ)」が書かれている。これらの始まりが古い順に並ぶかが論点。

<選択肢>
①【誤】
I→II→IIIの順だと、SDGs(21世紀)の取り組みが最初になるため歴史的に逆転。

②【誤】
I→III→IIでも、同じくSDGs関連が最初になるため不自然。

③【誤】
II→I→IIIも、日本の男女雇用機会均等法(1980年代)よりSDGs(2010年代)のほうが後ろになるのはよいが、アメリカの女性解放運動(1960年代~1970年代)が抜け落ちている順序。

④【誤】
II→III→Iだと、日本の法整備がアメリカのウーマン・リブ以前になるため、時系列が合わない。

⑤【誤】
III→I→IIは公民権運動→SDGs→日本の男女雇用機会均等法となり、1980年代の日本国内施策がSDGs(2015年)より後になってしまう点が不整合。

⑥【正】
III→II→Iが「アメリカ合衆国での女性解放運動(1960年代~1970年代)→日本の男女雇用機会均等法(1985年施行)→SDGsでジェンダー平等目標が掲げられた時期(2010年代)」という流れとなり、実際の年代と合致する。

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