解答
解説
第1問
問1:正解1
<問題要旨>
マラッカ(ムラカ)の歴史や社会を題材に、人・文化・宗教の交流について述べた文を選ぶ問題。本文では、マラッカがイスラームを受容した経緯や、モスク・寺院・教会が混在する多文化都市であったこと、またヨーロッパ勢力による支配を経て多民族社会として発展してきたことが示されている。
<選択肢>
①【正】 「ムスリム商人の活動が盛んになり、マラッカ王国がイスラームを受容した」という説明は、東南アジアにおけるマラッカ王国の成立・発展史と合致する。本文中にもイスラーム教の受容や、モスクがあることなどが触れられており、史実と整合的である。
②【誤】 「南宋に派遣された艦隊を受け入れ、南宋の朝貢国となった」というのは中国の明代における鄭和の遠征を連想させるが、南宋とは時代が合わない。またマラッカが南宋の朝貢国になった史実は確認されていない。
③【誤】 「スペインによって占領され、イエズス会の宣教師が活動した」というのはフィリピンなどのスペイン支配と混同した可能性がある。マラッカはポルトガル・オランダ・イギリスの支配を受けたが、スペインによる直接の占領は史実として認められていない。
④【誤】 「19世紀に植民地化された結果、民族的多様性は失われた」というのは本文の趣旨と逆である。マラッカは植民地化によって東南アジア地域の労働者・移民が流入し、多民族社会が形成されたと説明されているため、「多様性が失われた」という内容は誤りとなる。
問2:正解4
<問題要旨>
マラッカの帰属(どの国の領土となっていたか)の変化について述べた文を選ぶ問題。本文では、マラッカがかつてポルトガルやオランダの支配を経て、1824年の条約によってイギリスに譲渡され、その後現在のマレーシアの一部になっている経緯が示されている。
<選択肢>
①【誤】 「1824年にイギリスからオランダに譲渡され、現在はインドネシアの一部となっている」は、時系列が逆転しており、史実と合わない。マラッカはオランダ→イギリスという順に領有権が移った。
②【誤】 「1824年にイギリスからオランダに譲渡され、現在はマレーシアの一部となっている」も同様に、イギリスからオランダという順序が本文の史実と逆であり誤っている。
③【誤】 「1824年にオランダからイギリスに譲渡され、現在はインドネシアの一部となっている」は、一部まで正しいが、その後マレーシアに帰属している事実と食い違う。
④【正】 「1824年にオランダからイギリスに譲渡され、現在はマレーシアの一部となっている」は、本文の内容や歴史的経緯と一致する。
問3:正解4
<問題要旨>
マラッカ海峡における貿易史・産品の中継状況について、表に示された輸入品・輸出品や本文中の記述を踏まえて、三人のメモの正否を判定する問題。表中の「錫(すず)」「米」「綿製品」などの取引状況から、マラッカ海峡やその周辺地域の貿易ネットワークの実態を読み取る必要がある。
<選択肢>
相川さんのメモ
井上さんのメモ
宇野さんのメモ
などが提示され、それぞれが「正しいか」「誤っているか」を組み合わせた選択肢が並んでいる。
問題文中では、
- 相川さん: 東南アジアの香辛料や、外部商人との卸売港であった点、南シナ海とインド洋の二つのネットワークをもっていた点などを指摘。
- 井上さん: 海峡植民地が中継貿易の拠点となったこと、アヘンの取引を表から読み取っている。
- 宇野さん: 錫が海峡植民地の主要輸出品であることは、マラッカと後背地の関係が弱まったことを示している、といった趣旨。
このうち「相川さんと井上さんの二人が正しい」(④番)が正解となっている。
<選択肢>
①【誤】 「相川さんのみ正しい」とする見方は、井上さん・宇野さんのメモを誤りとするが、井上さんも表の読み取り方として正しい記述があるため誤り。
②【誤】 「井上さんのみ正しい」は、相川さんの指摘も本文内容と合致しているので誤り。
③【誤】 「宇野さんのみ正しい」は、宇野さんが主張する「境界線が引かれたことで後背地との関係が弱まった」という指摘に誤りがあるわけではないが、相川さんや井上さんのメモとの比較で整合性に問題が生じ、単独で正しいとは判定できない。
④【正】 「相川さんと井上さんの二人のみ正しい」は、本文にあるマラッカの貿易都市としての機能や、海峡植民地の中継地としての役割を正しくまとめており、整合性が高い。
問4:正解1
<問題要旨>
20世紀の俳優ユル=ブリンナーの一族や、ウラジヴォストークの商業・政治的背景についてのやり取りのなかで、ロシアが朝鮮半島を狙った時期や動機を推測する問題。本文中では日露戦争や三国干渉後のロシアの極東政策などの歴史的事実に言及し、そこから「ア(空欄)」に入る語を選択する。
<選択肢>
あ:三国干渉以降、ロシアの朝鮮半島への影響力が強まるから
い:日露戦争の結果、ロシアが朝鮮半島の市場を独占できるから
X:義和団事件
Y:五・四運動
問題文の内容からは、ロシアが朝鮮半島を狙う動機としては「三国干渉」以降の南下政策の進展が有力であり、それは義和団事件(1900年ごろ)より前にも進んでいた可能性が高い、という推測が成り立つ。
<選択肢>
①【正】 「あ - X」を組み合わせると、「三国干渉以降、ロシアの朝鮮半島への影響力が強まるから」+「義和団事件以降にロシアが更に積極的に動いた可能性」を示す文脈となり、本文の推測と整合性がある。
②【誤】 「あ - Y」の組み合わせは「三国干渉以降」と「五・四運動(1919年)」を関連づけるが、五・四運動は中国内部の運動であり、ロシアの朝鮮半島政策に直接影響する文脈とはやや異なる。
③【誤】 「い - X」は「日露戦争の結果~」と「義和団事件~」の組み合わせ。日露戦争(1904~05)後に朝鮮半島の市場を独占できる、という推測は必ずしも本文の推測(1900年以前の動き)と食い違う。
④【誤】 「い - Y」も同様に、日露戦争後という文脈に五・四運動を関連づけるため、本文が示す「朝鮮半島を狙う背景」の時期とは整合しない。
問5:正解2
<問題要旨>
ウラジヴォストーク最大の貿易会社主として活躍した人物(アドルフ=ダッシャン)が、第一次世界大戦中に連行・投獄された理由を問う問題。本文からは、1914年に戦争が始まり、翌1915年に彼が「敵国の人間とみなされて」逮捕されシベリア奥地に送られたことが示唆されている。
<選択肢>
①【誤】 「第1次ロシア革命(ロシア第一革命)の際、政府を批判したから」は、1905年前後の話であり、本文の出来事(1915年逮捕)と時期が合わない。
②【正】 「第一次世界大戦の開始後、敵国の人間とみなされたから」は、1914年に勃発した第1次世界大戦の中でドイツ系商人などが拘束された事例と符合し、本文で語られる1915年の逮捕の理由として最も妥当。
③【誤】 「十一月革命(ロシア暦十月革命)の際、ソヴィエト政権を批判したから」は、1917年以降の革命期の話であり、本文中の1915年逮捕と矛盾する。
④【誤】 「独ソ戦の開始後、敵国の人間とみなされたから」は、これは第二次世界大戦期(1941年以降)の状況なので、本文の時期と明らかに食い違う。
問6:正解3
<問題要旨>
1913年のウラジヴォストークにおける船舶来航数(表1)や民族別の来航者数(表2)を示した資料を読み、各表の空欄「イ」「ウ」「エ」などにどの国・地域を当てはめるかを考える問題。本文で「日本の船舶が多い」「中国人・朝鮮人も多い」などの記述をもとに推定する。
<選択肢(組み合わせ)>
1)イ=日本、ウ=中国、エ=朝鮮
2)イ=日本、ウ=朝鮮、エ=中国
3)イ=中国、ウ=日本、エ=朝鮮
4)イ=中国、ウ=朝鮮、エ=日本
5)イ=朝鮮、ウ=日本、エ=中国
6)イ=朝鮮、ウ=中国、エ=日本
本文には「ロシア船の次に多いのが日本の船」「ロシア以外には中国人と朝鮮人が多い」などの説明があり、表1(船舶)では日本の来航数が大きい枠に当たること、表2(民族別)では中国人・朝鮮人の順序にも言及がある。これらを総合すると、イのところが中国、ウのところが日本、エのところが朝鮮、という組み合わせが最も整合的と考えられる。
<選択肢>
①【誤】 イに「日本」を当てると、日本がロシア船に次ぐ多数という箇所と食い違う可能性がある。
②【誤】 イに「日本」、ウに「朝鮮」、エに「中国」も出入り数の大小関係に合わない。
③【正】 イ=中国、ウ=日本、エ=朝鮮と当てはめると、本文の「日本の船が多い」「中国人・朝鮮人も多い」という叙述に合致しやすい。
④【誤】 イ=中国、ウ=朝鮮、エ=日本は、船舶数と民族数の対応が逆転してしまうなど不整合が出る。
⑤【誤】 イ=朝鮮、ウ=日本、エ=中国 も同様に不自然。
⑥【誤】 イ=朝鮮、ウ=中国、エ=日本 も本文の説明と対応が合わない。
問7:正解4
<問題要旨>
冷戦時代のドイツ・ベルリンの歴史に関連し、ブランデンブルク門を背景とする写真I・IIの年代を読み取って、本文で説明される下線部Cの出来事(1953年6月17日の民衆蜂起など)を含め、どの順番が古いか新しいかを並べる問題。
写真I は「壁の開放を祝う人々」(1989年のベルリンの壁崩壊前後)、写真II は「総統の50歳の誕生日を祝うパレード」(ナチス期、1939年頃)を示唆すると考えられる。
<選択肢>
① I → II → 下線部C
…写真Iが1989年頃、写真IIが1930年代後半ごろなので、年代順が逆転する。
② I → 下線部C → II
…写真I(1989年頃)、下線部C(1953年)、写真II(1939年頃)となるので年順が混乱する。
③ II → I → 下線部C
…写真IIが1930年代、写真Iが1989年、下線部Cが1953年となるため年代順がおかしい。
④ II → 下線部C → I【正】
…写真II(ナチス期の1939年前後)→ 下線部C(1953年)→ 写真I(1989年)という年代の流れが正しい。
⑤ 下線部C → I → II
…1953年→1989年→1939年となり順番が合わない。
⑥ 下線部C → II → I
…1953年→1939年→1989年となるので年数の逆転がある。
問8:正解3
<問題要旨>
田中さんが「ヴァーチャル空間で移動した方向」と、「ベルリンの壁」が建設された社会的背景を組み合わせる問題。本文では「田中さんは境目から幹線道路を進んでいくと、6月17日通りに出る」「さらにブランデンブルク門を通り抜けるとウンター・デン・リンデンに達する」とあり、地理的には「西から東へ」向かうのが自然と読める。またベルリンの壁ができた背景には「東側から西ベルリンへ脱出する市民が増えた」ことが大きい。
<選択肢>
あ:東から西に進んだ
い:西から東に進んだ
X:西側へ脱出する東ドイツ市民が増えた
Y:東側へ脱出する西ドイツ市民が増えた
問題文の流れでは、実際には当時のベルリンで大きな問題となったのは「東ドイツから西側へ逃げる人が相次いだ」ことであり、それを防ぐために壁が築かれた。
<選択肢>
① あ-X
…「東から西に進み」「西側に脱出する東ドイツ市民が増えた」となり、方向が本文の描写と逆に読めるため不自然。
② あ-Y
…方向と背景の両方が本文の事実関係と矛盾する。
③ い-X【正】
…「西から東に進んだ」+「西側へ脱出する東ドイツ市民が増えた」という組み合わせは、本文の地理的描写や史実(東から西への脱出が壁建設の契機)と整合する。
④ い-Y
…「西から東に進んだ」のは合うが、「東側へ脱出する西ドイツ市民」という史実は見当たらない。
問9:正解4
<問題要旨>
ベルリン市内の通りや建造物の名称由来、それらが建てられた歴史的経緯について、本文の説明と合致するものを選ぶ問題。たとえば「戦勝記念塔はビスマルク時代の諸戦争を顕彰して作られた」「6月17日通りは1953年の民衆蜂起を受けて改称された」などが紹介されており、そこから正しい歴史的背景を読み取る。
<選択肢>
①【誤】 「戦勝記念塔は、ワーテルローの戦いの勝利を記念して建てられた」
…ワーテルローの戦い(1815年)はプロイセンが大勝した戦いの一つではあるが、本文の説明ではビスマルク首相期における普仏戦争などの勝利を記念して建てられたことが示唆されている。
②【誤】 「『6月17日通り』は、ブラントが首相だった時期にその名に改称された」
…本文では、1953年の民衆蜂起と同年の連邦共和国首相によって改称された旨が書かれている。ビリー・ブラントが首相に就任したのは1969年であり、時期が合わない。
③【誤】 「アウシュヴィッツ強制収容所が置かれていた」は、ポーランド南部の施設であり、ベルリン市内ではないため、本文の内容とも関係がない。
④【正】 「ベルリン大学では、アインシュタインが研究していた」というのは、本文中で「ウンター・デン・リンデンの先にある大学は、かつてベルリン大学と呼ばれ、1910年代に相対性理論を発表した人物が研究していた」とある。これはアインシュタインが1910年代にプロイセン科学院のベルリン大学(現フンボルト大学)で研究活動を行っていた史実と合致する。
第2問
問10:正解4
<問題要旨>
中世ヨーロッパの農業技術(大型の犂や家畜を用いる輪作など)と「三圃制」などの営農法、それらがもたらした社会・経済の変化を「歴史の進歩」とみなすかどうか――近年の歴史学がどのように再評価しているかを問う問題である。本文では、春耕・秋耕・休耕に分ける輪作が行われていたこと、また中世農業革命・大開墾運動が単純に「進歩」とは言い切れないという言及があり、そこから選択肢の組合せを判断する。
<選択肢>
①【誤】「あ‐X」
あ(囲い込み)とX(中世初期の経済生活はリスク分散や自然環境の持続的利用が認められる)という組合せ。本文中では輪作の区分けとして「春耕地・秋耕地・休耕地」が示唆されており、囲い込み(エンクロージャー)を指す文脈ではない。またXの内容自体は本文が示す近年の評価とも合致するが、「あ」の方が本文とそぐわない。
②【誤】「あ‐Y」
あ(囲い込み)とY(中世農業革命や大開墾運動は『歴史の進歩』にほかならず、高く評価されるべき)が組み合わさったもの。囲い込みである「あ」を、本文の大型犂+輪作の説明に当てはめるのは不自然である。さらにYの“単純に進歩とみなす”評価は近年批判されている旨が本文で示唆されている。
③【誤】「い‐X」
い(三圃制)とX(リスク分散など近年高く評価される)という組合せ。三圃制(春耕地・秋耕地・休耕地)自体は本文と一致するが、本文では“単純化しがちな進歩史観”を見直しているとされつつも、その内容の位置づけに関して最終的にXのみを正解とするかどうかは本文上ははっきり断定されていない。
④【正】「い‐Y」
い(三圃制)とY(中世農業革命と大開墾運動の評価)。本文では、中世期における農業技術革新や大規模な耕地拡張が飛躍的に進み、生産力向上をもたらしたこと自体は否定されておらず、従来“進歩”とみなされてきたことが述べられている。近年は単純視への批判こそあれど、“歴史の進歩”として評価する見解の存在にも言及され、最も整合的なのがこの組合せとなる。
問11:正解4
<問題要旨>
下線部(ア)「それって人間と自然環境との関わり方を問い直し、持続可能な開発を目指すSDGsの考え方と似ていますね」に関して、最も適当な具体例を選ぶ問題。要は自然環境への畏敬や持続的利用をうかがわせる内容かどうかがポイントとなる。
<選択肢>
①【誤】「イラク戦争でアメリカ軍が使用した枯葉剤により~」
枯葉剤使用の事例は、環境破壊や人体被害を強調するものであり、“持続可能な開発”や“自然との共生”の文脈とはかけ離れている。
②【誤】「季節風(モンスーン)を利用した船による交易が~」
これは自然条件を利用した航路だが、“環境保護や神性を認めて崇拝”という要素は本文のSDGs的視点とはやや異なる。
③【誤】「地中海と紅海を結ぶために、パナマ運河が開削された」
パナマ運河は大西洋と太平洋を結ぶ運河であり、また“持続的開発”を示す事例ともいいがたい。加えて地中海‐紅海の運河はスエズ運河であるため、事実面でも誤り。
④【正】「アーリヤ人は、自然現象に神性を認めて崇拝し、~ヴェーダにまとめた」
自然現象そのものを神格化し、崇拝対象とする考え方は“自然環境との共生”をうかがわせる。本文の言及するSDGs的視点、すなわち自然環境と人間との新たな関係性を問い直す例として最も適当。
問12:正解2
<問題要旨>
本文で示された「穀倉地帯の移動」を、地図中の矢印a・bと、その背景X・Yの組合せで問う問題。長江デルタ地域の開発や蘇州の商工業化などによって、かつて穀倉地帯であった場所が商業都市へ転化する・あるいはその逆が起こるといった変化を、図と本文から読み取る。
<選択肢>
a – X / a – Y / b – X / b – Y の組み合わせで、 X:明代になって蘇州が商工業都市から穀倉地帯化した
Y:明代になって蘇州が穀倉地帯から商工業都市化した
といった構図が想定される。
①【誤】「a-X」
a方向の移動が商工業から穀倉地帯への転換だとするが、本文や図からの読み取りと合わない。
②【正】「a-Y」
a方向の移動が、穀倉地帯としての性格から商工業都市としての性格を強めたことを示す。本文には、蘇州が農村地帯から製造業や精練織物業などによって商工業都市へと変化していく経緯が記されており、これに合致する。
③【誤】「b-X」
b方向の移動を商工業→穀倉地帯化とするが、本文との整合性に欠ける。
④【誤】「b-Y」
b方向の移動を穀倉地帯→商工業化とする設定で、こちらも本文・図との対応がとりにくい。
問13:正解3
<問題要旨>
世界史上の都市の経済や文化の発展を述べた文が複数提示され、そのうち「誤っている」ものを選ぶ問題。フィレンツェのルネサンス期、第一次世界大戦後のニューヨークの金融中心化、唐代の長安の国際都市ぶりなどは歴史的事実としてよく知られているが、バグダードと地中海交易の関係については注意が必要である。
<選択肢>
①【正】「ルネサンス期のフィレンツェでは、メディチ家の後援によって芸術家や学者が輩出した」
メディチ家の庇護による文芸・美術の隆盛は有名。
②【正】「第一次世界大戦の後、ニューヨークは世界金融の中心としての役割をロンドンから引き継いだ」
実際に戦後アメリカの経済的台頭により、国際金融の重心がニューヨークへ移った。
③【誤】「アッバース朝時代のバグダードは、地中海交易の中心として繁栄した」
バグダードはチグリス川流域に発展した国際都市で、イスラーム世界の交易網の中心地の一つではあったが、典型的に地中海交易の拠点と言えばヴェネツィアなどが挙げられる。バグダードはペルシア湾方面や陸上キャラバン交易の結節点として栄えたため、「地中海交易の中心」とするのは誤り。
④【正】「唐代の長安には、東西各国からの使節や商人、留学生が集った」
唐の都・長安が国際的都市であった史実と一致する。
問14:正解2
<問題要旨>
蘇州(江南地域)が歴史上どのように発展を遂げ、そして最終的に上海に中心地位を奪われるに至ったかを問う問題。選択肢では、元代における旅行記への言及や、明代~清代にかけての繁栄・衰退の要因に関する記述などが混じっている。
<選択肢>
①【誤】「洪武帝の積極的な支援によって、蘇州は大いに発展した」
洪武帝(朱元璋)は明を建国すると江南の官僚・地主を弾圧した面もあり、“積極支援”というよりは一時的に圧制が敷かれたと本文にも示される。
②【正】「元代における蘇州の活況は、『世界の記述(東方見聞録)』に記録された」
本文に、蘇州をマルコ・ポーロが訪れ、旅行記にその経済的繁栄ぶりを記したという趣旨の言及があり、これと合致する。
③【誤】「朱佑などが蘇州の繁栄ぶりを『盛世滋英』(絹織華書)に描かれた」
本文にはそうした書名の直接的言及が見当たらず、確証を得にくい。また明代はたしかに蘇州の綿織業・絹織業が発達したが、選択肢の書名が史実に即しているかも不明瞭。
④【誤】「甲午農民戦争で荒廃した蘇州は、経済の中心的地位を上海に奪われた」
甲午農民戦争という表現は一般に用いられず(甲午戦争は日清戦争)、太平天国の乱などで荒廃したのちに上海が台頭したとあるのが本文の流れであるため、記述が食い違う。
問15:正解3
<問題要旨>
アメリカ合衆国の通商政策について、1899年にアメリカが中国に対して発表した「○○宣言」の名称と、その具体的内容(他国と同等に扱うか、優先的に扱うか)を組み合わせて問う問題。本文に“関税や港湾使用料のくだり”“中国市場でアメリカ商人の流通を目的とする”などの記述があり、「門戸開放宣言」の趣旨と絡めて判断する。
<選択肢>
イに入れる語:
- あ「モンロー」
- い「門戸開放」
ウに入れる文:
- X「アメリカ合衆国の商人を自国の商人と同等に扱う」
- Y「アメリカ合衆国の商人を優先的に扱う」
①【誤】「あ-X」=「モンロー宣言」+「同等に扱う」
モンロー宣言(モンロー教書)は中南米へのヨーロッパ干渉排除を表明したものであり、中国市場の開放を求める1899年の宣言とは別物。
②【誤】「あ-Y」=「モンロー宣言」+「優先的に扱う」
同上、宣言の名称も内容も合わない。
③【正】「い-X」=「門戸開放」+「自国の商人と同等に扱う」
1899年にアメリカが提唱した門戸開放宣言は、“中国領内の通商機会を各国で平等に確保する”ことを求めたものであり、アメリカ商人の優先でなく「同等」原則が柱となる。
④【誤】「い-Y」=「門戸開放」+「優先的に扱う」
門戸開放の理念は“機会均等”であり、“優先的待遇”ではない。
問16:正解3
<問題要旨>
下線部(⊂C)に示される「19世紀末に起こったヨーロッパ諸国や日本による中国分割を挙げ制する動き」について、当時の列強が中国から得た権益に関する具体例を問う問題。ロシア・ドイツ・イギリス・フランス・日本などが清朝政府との不平等な条約を結んでいく流れがポイント。
<選択肢>
①【誤】「ポルトガルが、マカオに居住権を認められた」
マカオにおけるポルトガルの居住はもっと以前(16世紀ごろ)から始まり、19世紀末の‘分割競争’の代表例とはいえない。
②【誤】「ドイツが、威海衛を租借した」
威海衛を租借したのはイギリス(1898年)であり、ドイツは膠州湾(青島)を租借した。
③【正】「ロシアが、東清鉄道の敷設権を得た」
遼東半島還付に伴う三国干渉や列強の北清事変介入などを経て、ロシアは満州方面への鉄道敷設権(東清鉄道)を手中に収めた。19世紀末の対中利権獲得の典型例である。
④【誤】「江華島事件を機に、日本が不平等条約を締結させた」
江華島事件(1875年)を契機に日本が締結したのは朝鮮との間の条約(江華条約)であり、中国との不平等条約ではない。
問17:正解4
<問題要旨>
アメリカ合衆国を含む列強各国の帝国主義的政策の例を問う問題。保護貿易や海外植民地獲得、資源輸出依存、自由貿易の拡大など、19世紀以降の諸国の特徴が選択肢に挙げられている。そのうち“帝国主義”と結びつけて最も適切な記述を選ぶ。
<選択肢>
①【誤】「南北戦争前のアメリカ合衆国北部には、保護貿易(保護関税)を求める声が強かった」
歴史的には概ね正しいが、これは国内政策(農業州vs工業州)に根ざした関税論争であって、帝国主義的政策という点での代表例とは言いがたい。
②【誤】「フランスは、大恐慌に対処するためにフラシー=ブロックを形成した」
“大恐慌”対策でブロック経済を築いたのはイギリスのスターリング・ブロックやフランスなどの通貨ブロック(フラン=ブロック)であるが、選択肢の表記「フラシー=ブロック」は不明瞭だし、帝国主義の文脈ともやや外れる。
③【誤】「独立後のラテンアメリカ諸国の経済は、農産物や地下資源(鉱産物)の輸出に頼った」
これは事実としてよく知られるが、問題文が問う“帝国主義的政策”の具体例とはいえず、ラテンアメリカ側の内的構造に近い内容である。
④【正】「『世界の工場』と呼ばれたイギリスが、自由貿易の拡大に努めた」
19世紀後半、イギリスは植民地・半植民地を世界に広げ、自由貿易体制を押しつける形で勢力圏拡大を図った。これは典型的な帝国主義政策の一環として捉えられる。
第3問
問18:正解3
<問題要旨>
第二次世界大戦後のインドと中国の関係を扱い、1954年に締結された「中印協定」や、その際に中心的役割を果たした両国首脳の名前、さらに当時発表された外交原則(平和五原則)などについて問う問題。本文ではインド首相ネールが中国の指導者をインドに招き、共同声明で「イ(空欄)」を掲げたことが述べられている。
<選択肢>
①【誤】「ア=鄧小平、イ=平和五原則」
鄧小平が中国の主導者として外交の中心に立つのは1970年代後半以降であり、1954年当時にインドとの協定を結んだ当事者ではない。
②【誤】「ア=鄧小平、イ=平和十原則」
上と同様、1954年時点での中国側首脳として鄧小平を当てるのは不適当。平和十原則自体は1955年のバンドン会議などで話題に上るが、当問題の記述とは合わない。
③【正】「ア=周恩来、イ=平和五原則」
1954年にネールと周恩来が会談し、共同声明で平和五原則を打ち出した史実と合致する。
④【誤】「ア=周恩来、イ=平和十原則」
平和十原則は1955年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)で掲げられた趣旨に近いが、本問の文脈(1954年の中印協定)で述べられているのは平和五原則である。
問19:正解5
<問題要旨>
下線部(ア)(1962年のインド・中国間の武力衝突)と、第二次世界大戦以降に起こった別の出来事「あ」「い」を、年代の古い順に配列する問題。
- あ:中ソ国境で武力衝突が発生した(1969年)
- い:イラクがクウェートに侵攻した(1990年)
<選択肢>
① あ → い → 下線部(ア)
…下線部(ア)は1962年なので、本来あ(1969年)・い(1990年)より古いはず。順序が逆になる。
② あ → 下線部(ア) → い
…下線部(ア)(1962年)より前にあ(1969年)がくるので誤り。
③ い → あ → 下線部(ア)
…い(1990年)を最初に置くのは明らかに時系列が逆。
④ い → 下線部(ア) → あ
…これも時系列に反する(1990年が1962年より前に来てしまう)。
⑤【正】「下線部(ア) → あ → い」
下線部(ア)(1962年の中印国境紛争)→ あ(1969年の中ソ国境紛争)→ い(1990年のイラクのクウェート侵攻)の順が正しい。
⑥ 下線部(ア) → い → あ
…1962年→1990年→1969年という逆転が生じるので誤り。
問20:正解2
<問題要旨>
第二次世界大戦期のポーランドに関して、「下線部( b )の時期に起こった出来事は何か」を問う問題。資料には、ポーランドが第二次世界大戦で甚大な被害を受け、領土も大きく変化したことが記されている。本問では、戦時中のポーランドの実態を選択肢から照合する。
<選択肢>
①【誤】「ポーランドへのソ連軍の侵攻によって、第二次世界大戦は勃発した」
1939年9月にドイツがポーランドへ侵攻したのが第二次大戦の勃発要因。ソ連の侵攻はその後。
②【正】「ポーランドの領土が、枢軸国によって全て占領された」
ナチス・ドイツと当初同盟関係にあったソ連による分割占領も含め、戦時中はほぼ全面的に支配下に置かれた。
③【誤】「ティトーが抵抗運動を組織して、ドイツ軍と戦った」
ティトーはユーゴスラビアでパルチザンを率いた人物であり、ポーランドとは無関係。
④【誤】「ワレサを指導者とする自主管理労働組合『連帯』が組織された」
「連帯」の結成は1980年であって、第二次大戦期ではない。
問21:正解4
<問題要旨>
第二次世界大戦後のポーランドの領土と住民構成の変化、また「空欄ウ」に入る文が「当時のポーランド史においてどのような状況だったか」を尋ねる問題。戦後、東側のウクライナ・ベラルーシ人居住地域はソ連へ併合され、逆に西のドイツ領の一部を得た結果、国内のドイツ人を国外追放したことでポーランドは民族的同質性が高まった。しかし、歴史的には多民族状態のほうが普通で、現在のように少数民族がほとんどいないのは異例である、という趣旨が本文にある。
<選択肢>
ウに入れる文として
- あ:少数民族がほとんど居住していない、民族的に同質な国家であった
- い:様々な民族によって構成されていた時期が常態であった
X・Y(戦後ポーランドの領土と住民)
- X:ポーランドとソ連の国境はオーデル=ナイセ線となり、ウクライナ人とベラルーシ人の居住地がソ連に併合された
- Y:ポーランドはドイツ領の一部を獲得し、国内に住んでいたドイツ人を国外に追放した
① あ-X
…ウ = あ(ほぼ単民族状態)と X(国境はオーデル=ナイセ線…)の組合せ。ところがオーデル=ナイセ線は対独国境の西側であり、ソ連との境界線では本来「Curzon線」などが基準。Xの説明中の「オーデル=ナイセ線」は西側国境でドイツと接する線であるにもかかわらず、「ウクライナ人・ベラルーシ人の地域が併合された」というのは東側の話で食い違いがある。
② あ-Y
…ウ = あ(民族的同質)と Y(ドイツ領の一部を獲得しドイツ人を追放)なら、戦後実際に少数民族が減少した事例と合いそうだが、本文で「現在のポーランドは少数民族がほとんどいない状態だが、それは初めてのこと」という主張に照らすと、ウに「少数民族がほとんどいない状態が昔から普通だった」と書くのは齟齬がある。
③ い-X
…ウ = い(様々な民族が共存していた状態が普通だった)と X(オーデル=ナイセ線で…)を合わせると、戦後のドイツとの国境を説明しつつ、ベラルーシ人等の居住地がソ連に連結されたという話を混ぜているが、Xの文中の表現がズレており整合性に問題がある。
④【正】「い-Y」
ウ = い(多民族国家だったのが“かつてのポーランドの常態”)と Y(戦後はドイツ領の一部を得て、ドイツ人を追放)という流れは、本文が述べる「第二次大戦後にほとんどポーランド人だけになるのは歴史上初めて」という趣旨と合致する。戦後にドイツ人・ウクライナ人らが追放・移住して、結果的に少数民族がほぼ存在しない状況になったため、「実はそれまで多民族が普通だった」(い)が埋まるのが自然である。
問22:正解4
<問題要旨>
下線部(©)で成立した戦後ポーランドの政権について述べた文を問う問題。第二次世界大戦後、ポーランドは東欧圏の一国として社会主義体制をとり、ソ連圏と同盟関係を築いた。ワルシャワ条約機構やコメコン(経済相互援助会議)への参加が典型例である。
<選択肢>
①【誤】「ソ連に対抗するために、ドイツと防共協定を結んだ」
防共協定はナチス・ドイツと日本などが1930年代に締結したもので、戦後ポーランドの体制とはかけ離れている。
②【誤】「非同盟諸国首脳会議を主催した」
非同盟運動の中心はユーゴスラヴィアのティトーやインドのネルー、エジプトのナセルら。ポーランドは東欧社会主義陣営に属していたため当てはまらない。
③【誤】「東欧革命以前に、ワルシャワ条約機構から脱退した」
ポーランドがワルシャワ条約機構を離脱するのは1989年以降の東欧民主化期であり、東欧革命以前の脱退はなかった。
④【正】「経済相互援助会議(コメコン)に参加した」
ポーランドは戦後すぐにソ連圏に組み込まれ、1949年設立のコメコンにも加盟した。
問23:正解2
<問題要旨>
ヨーロッパ諸国が海外植民地を巡って拡大を続けた時期(本文中では1740年代~1790年代がピークの一つと説明)の具体的な歴史事例を問う問題。1740年代~1760年代にはオーストリア継承戦争や七年戦争があり、イギリスがインド支配を進める契機となった戦い(プラッシーの戦い,1757年)などが典型例である。
<選択肢>
①【誤】「オランダがアンボイナ事件でイギリス人を殺害した」
アンボイナ事件は1623年であり、17世紀前半に起きた出来事で時期が異なる。
②【正】「イギリス東インド会社がプラッシーの戦いで勝利した」
1757年のプラッシーの戦いに勝利した東インド会社がベンガル地方の支配権を確立し、イギリスのインド経営が本格化した事例。1740~1790年代の大植民地拡大期に合致する。
③【誤】「アメリカ合衆国が、ハワイを併合した」
1898年の出来事であり、19世紀後半~20世紀初頭のアメリカ帝国主義の流れ。18世紀半ばとは時期が合わない。
④【誤】「フレンチ=インディアン戦争の結果、フランスがミシシッピ以東の植民地を獲得した」
1763年のパリ条約により、逆にフランスが北米の大半を失い、イギリスがミシシッピ以東を獲得した。記述が史実と逆である。
問24:正解1
<問題要旨>
19世紀前半に独立を果たしたラテンアメリカ諸国(下線部(e))に関して、その独立運動の中心人物や国を問う問題。シモン=ボリバルやサン=マルティンがスペインからの独立を指導した事例などが代表的である。
<選択肢>
①【正】「シモン=ボリバルが、独立運動を指導した」
南米北部(ベネズエラ、コロンビア、エクアドルなど)でスペインに対する独立運動を指導し、19世紀前半に数多くの国が誕生した。
②【誤】「ペルーが、ポルトガルから独立した」
ペルーの宗主国はスペインである。ポルトガルから独立したのはブラジル。
③【誤】「ワシントンが、植民地地軍の司令官となった」
ジョージ=ワシントンは18世紀後半の北アメリカ(イギリス領北米13植民地)独立戦争の指導者。19世紀前半のラテンアメリカとは別の動き。
④【誤】「パナマが、コロンビアから独立した」
パナマの独立は1903年で、19世紀前半ではなく20世紀初頭の出来事。
問25:正解1
<問題要旨>
20世紀初頭のアフリカ植民地図をもとに、「空欄エの国がアフリカでどの地域を支配していたか」、および「エから独立を果たした東南アジアの国の歴史的政策(あ・い)」について、正しい組合せを問う問題。本文の流れからは、a・b・cのアフリカ分割領域が仏領・英領・蘭領などを表しており、さらに東南アジアの独立後政策として、ベトナムのドイモイ(あ)やインドネシア国民党(い)の例が挙げられる。
<選択肢>
①【正】「a-あ」
地図aはフランスの植民地が多く塗られていると思われ、そこから独立した東南アジアの国として、ベトナムの経済改革(ドイモイ)に言及するのが最も自然。ベトナムは仏領インドシナとして支配を受けていたため、「エ=フランス」とする組み合わせが成立する。
②【誤】「a-い」
「い」はインドネシア国民党を結成したスカルノの事例であり、オランダ領東インドからの独立国と結びつく方が自然。フランスとの関係ではない。
③【誤】「b-あ」
地図bが英国領という可能性が高く、イギリス植民地の東南アジア(マレー半島など)と「ドイモイ(ベトナムの政策)」は直接結びつかない。
④【誤】「b-い」
「インドネシア(オランダ領)と結びつくにはbが蘭領を示している必要があるが、bがイギリス領を示す場合は不適合。
⑤【誤】「c-あ」
地図cがオランダやベルギーなどの領地を示しているなら、ベトナム(仏領)との対応は不明確。
⑥【誤】「c-い」
同様に、地図cとインドネシアの国民党を確定させる根拠が本文からは乏しい。いずれにせよ、設問が想定する組み合わせとは合わない。
第4問
問26:正解1
<問題要旨>
第二次世界大戦後の朝鮮半島で起こった出来事に関し、韓国(大韓民国)と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)がどのように成立したか、その経緯を問う問題。戦後、北はソ連軍が、南はアメリカ軍が進駐し、朝鮮半島は分断状態となった。1948年に大韓民国が成立し、同年に北朝鮮でも朝鮮民主主義人民共和国が成立した。
<選択肢>
①【正】「金日成を首相として、北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立した」
第二次大戦後、北半部を事実上統治していたソ連の後押しで、1948年に朝鮮民主主義人民共和国が成立し、金日成が首相となった史実と一致する。
②【誤】「大韓民国が経済成長を続け、朝鮮民主主義人民共和国とともに、NIES(新興工業経済地域)と呼ばれた」
韓国は80年代以降にNIESの一角とされることはあったが、北朝鮮がNIES扱いされることはない。
③【誤】「北緯17度線付近を境として、北がソ連軍に、南がアメリカ軍に占領された」
朝鮮半島の軍事分割ラインは北緯38度線が一般的であり、17度線はインドシナ(ベトナム)における分割線。
④【誤】「朴正煕と金正日との間で、南北首脳会談が実現した」
朴正煕政権当時に金正日が首脳として会談した事実はなく、南北首脳会談が初めて実現したのは2000年の金大中と金正日である。
問27:正解2
<問題要旨>
1987年に改正された韓国の憲法(「6月民主抗争」を経て導入された大統領直接選挙制など)について述べた文「あ・い」と、世界史上の憲法について述べた文「X・Y」とを正しく組み合わせる問題。本文では韓国が1987年に独裁色の強い体制から民主化へ移行するための新憲法を制定したことが述べられている。
<選択肢>
あ(日本の植民地支配に対する批判的精神を継承しようとしている)
い(初代大統領が行った政治の理念を継承しようとしている)
X(ドイツでは、ナチス=ドイツ政権の成立後、ヴァイマル憲法が制定された)
Y(北米大陸では、アメリカ独立宣言の採択後、アメリカ合衆国憲法が制定された)
① あ-X
…「日本の植民地支配批判の精神」と「ナチス成立後ヴァイマル憲法」という組合せは不自然。ヴァイマル憲法は1919年で、ナチス成立(1933年)より前に制定されているため、Xの記述自体も歴史的には誤り気味。
②【正】「あ-Y」
…「日本の植民地支配批判の精神を継承」と、アメリカ独立宣言→合衆国憲法制定になぞらえた世界史例をセットにする。韓国が“反日独立運動”の伝統を強調した精神を憲法に盛り込んだことは本文に近い。Yは独立宣言(1776)→合衆国憲法制定(1787~88)と史実に合致しており、比較対象として自然。
③ い-X
…「初代大統領の政治理念を継承」+「ナチス後にヴァイマル憲法」が、いずれも史実に大きく反する。
④ い-Y
…「初代大統領の理念を継承」+「アメリカ独立宣言→合衆国憲法」で結び付けるのも、本文とは合わない。
問28:正解3
<問題要旨>
資料2に示された「神聖ローマ帝国の皇帝が選ばれたときに起こった出来事」を問う問題。スペイン王(ハプスブルク家の出身)が神聖ローマ皇帝に選出された背景には、多額の贈賄や各諸侯の利害調整があった。この皇帝即位後に起こった戦争等を考慮し、選択肢を照合する。
<選択肢>
①【誤】「ビザンツ帝国が滅んだ」
ビザンツ帝国の滅亡は1453年(オスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落)であり、16世紀初頭の皇帝選出と直接の関係がない。
②【誤】「スペイン継承戦争が起こった」
スペイン継承戦争は1701~1713年の出来事で、ハプスブルク家の断絶後のスペイン王位継承をめぐる戦争。16世紀前半の神聖ローマ皇帝選出期とは時期が違う。
③【正】「ドイツ農民戦争が起こった」
1524~25年に起きたドイツ農民戦争は、宗教改革などの影響を受け、神聖ローマ帝国内部での諸侯・騎士・農民の対立が深まる中で勃発。スペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世として選出(1519年)された直後の時期に相当する。
④【誤】「四国同盟が結成された」
四国同盟は1718年にスペインの再興策に対抗するために結成された同盟であり、16世紀前半ではない。
問29:正解4
<問題要旨>
百年戦争やイタリア戦争でしばしば対立したフランス王家とイングランド王家・ハプスブルク家などヨーロッパの諸勢力が、利害関係によって敵対・同盟を繰り返す構図を表す問題。本文には「イタリア戦争で対立したフランス王家とハプスブルク家が、皇帝選出の場面においても対抗した」という趣旨がある。また、空欄「ア」に入れる語(あ:封建社会 or い:主権国家)と、本文中で読み取れる内容(X・Y)を組み合わせる。
<選択肢>
アに入れる語:
- あ:封建社会
- い:主権国家
X:百年戦争でフランス王はイングランド王と対立したが、スペイン王位継承問題が起きると、フランスはイングランド王に援助を求めた。
Y:イタリア戦争で対立したフランス王家とハプスブルク家は、皇帝選出の選挙においても対抗した。
① あ-X
…「封建社会」+「百年戦争のあとフランスがイングランドに援助を求めた」という組合せ。本文では主権国家が形成され始める時期のヨーロッパ国際関係を指しているため、“封建社会”は古い段階のイメージが強い。Xの内容にもやや疑問。
② あ-Y
…「封建社会」+「イタリア戦争で対立した勢力が皇帝選挙でも争った」。こちらも“封建社会”というよりも16世紀前後の主権国家形成期がテーマであり、合致しづらい。
③ い-X
…「主権国家」+「フランス王がイギリス王に援助を求める」という話になる。Xはスペイン王位継承問題のあたりを想起させるが、本問の本文は主にイタリア戦争や神聖ローマ皇帝選挙の話が中心。フランスとイギリスの直接的な援助関係は描かれていない。
④【正】「い-Y」
…「主権国家」と「イタリア戦争で対立したフランス王家とハプスブルク家が皇帝選挙でも争った」。16世紀前半はヨーロッパ各国が“主権国家”へ移行しつつあり、かつイタリア戦争や皇帝選挙をめぐってフランスとハプスブルクが繰り返し対立したという本文の内容とも合致する。
問30:正解1
<問題要旨>
下線部(Ⓕ)について述べた文「う」と「え」の正誤を組み合わせる問題。本文ではヨーロッパ列強同士の長年の対立関係が、あるときには同盟へと変化する様子(例えばハプスブルク家のオーストリアがフランスと同盟を結んだ「外交革命」など)も示唆されている。またフランス王政崩壊時に諸外国が対仏大同盟を結成した時期などについても注意が必要。
<選択肢>
う:オーストリアは、長年の敵対関係を解消しフランスと同盟を結んだ後、七年戦争でプロイセンと戦った
え:フランスで王政が廃止されルイ16世が処刑されると、ヨーロッパ諸国はイギリスの呼び掛けにより対仏大同盟(第1回対仏大同盟)を結んだ
①【正】「う=正、え=正」
「う」:1756年に起こった外交革命で、オーストリア(ハプスブルク家)は長年敵対していたフランスと同盟し、プロイセンを相手に七年戦争(1756~63)を戦ったのは史実通り。
「え」:1792年の王政廃止、1793年のルイ16世処刑を受け、ヨーロッパ諸国はイギリスの呼び掛けで第一次対仏大同盟を結成。これも史実と一致。
②「う=正、え=誤」
「え」が誤りである理由は見当たらない。史実と合うため誤り。
③「う=誤、え=正」
「う」は七年戦争期のオーストリア・フランス同盟が事実なので誤りにはならない。
④「う=誤、え=誤」
両方とも成立する史実ゆえ、どちらも誤りではない。