2025年度 大学入学共通テスト 追試験 世界史B 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解②

<問題要旨>

アッシリア滅亡後からイスラーム勢力の台頭前までの、イラン高原を支配した王朝に関する知識を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

リディアは、紀元前7世紀頃にアナトリア半島(現在のトルコ)西部に建国された国家です。イラン高原を支配したわけではありません。

②【正】

ササン朝は、3世紀にイラン高原に成立した王朝です。東ローマ帝国と抗争を続けましたが、7世紀にアラビア半島から勢力を拡大してきたイスラーム勢力と衝突し、642年のニハーヴァンドの戦いで決定的な敗北を喫しました。これにより、ササン朝は事実上崩壊し、イラン高原はイスラーム世界の領域に組み込まれていきました。

③【誤】

サファヴィー朝は、16世紀初頭にイランを統一した王朝です。国教としたのはゾロアスター教ではなく、イスラーム教シーア派の十二イマーム派です。この政策は、現在のイランがシーア派中心の国であることの源流となりました。

④【誤】

カージャール朝は、18世紀末から20世紀初頭にかけてイランを支配したトルコ系の王朝です。ロシアとは、その南下政策をめぐってゴレスターン条約やトルコマンチャーイ条約を結ぶなど度々争いましたが、クリミア領有をめぐるクリミア戦争(1853~1856年)は、ロシアとオスマン帝国・イギリス・フランスなどの連合軍との間の戦争であり、カージャール朝は直接関与していません。

問2:正解①

<問題要旨>

11世紀半ばにマラケシュを都として成立したイスラーム王朝、すなわちムラービト朝に関する歴史的知識を問う問題です。

<選択肢>

①【正】

ムラービト朝は、ベルベル人が建国した王朝で、北アフリカからイベリア半島南部を支配しました。その過程で南方に進出し、当時サハラ交易で栄えていたガーナ王国を11世紀後半に攻撃し、滅亡させました。この出来事は、西アフリカにおけるイスラーム化を促進する大きな契機となりました。

②【誤】

ムラービト朝はイベリア半島に進出し、キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)に対抗しました。「東方植民」は、12~13世紀にドイツ人諸侯や騎士団がエルベ川以東のスラヴ人地域へ植民した活動を指す言葉であり、イベリア半島の文脈とは異なります。

③【誤】

イクター制は、軍人や官僚に対し、その給与(俸給)として一定の土地の徴税権を与える制度です。この制度を創始したのは、10世紀にバグダードを支配したイラン系のブワイフ朝です。

④【誤】

グラナダに壮麗なアルハンブラ宮殿を造営したのは、13世紀にイベリア半島最後のイスラーム王朝として成立したナスル朝です。

問3:正解⑥

<問題要旨>

イスラーム世界を介してヨーロッパに伝わった文物と、問題の文章・図から読み取れる情報の正誤を判断し、正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

・ヨーロッパにもたらされたもの

あ「カボチャ」、い「ジャガイモ」は、いずれもアメリカ大陸が原産の作物です。ヨーロッパには、15世紀末以降の大航海時代にスペイン人などによってもたらされました。したがって、イスラーム世界から伝わったものではありません。

う「コーヒー」は、エチオピアが原産とされ、アラビア半島のイエメンなどを経由してイスラーム世界に広まりました。その後、オスマン帝国を通じて16~17世紀にヨーロッパへ伝わり、コーヒーハウスなどの新しい文化を生み出しました。したがって、これはイスラーム世界からヨーロッパにもたらされたものとして正しいです。

・事柄

X:会話文中で中野さんが「アラビア半島東部にはササン朝時代に、カナートの技術が導入されたと言われています」 と述べています。ササン朝は3世紀から7世紀半ばまで存在した王朝であり、イスラーム時代(7世紀以降)よりも前の時代です。したがって、「イスラーム時代以降のことである」という記述は誤りです。

Y:会話文中で内田さんが「イスラーム勢力の拡大は、さらに西側のイベリア半島にまで、カナートの技術の伝播を促しました」 と述べています。図を見ても、北アフリカからイベリア半島にかけては「イスラーム時代以降」を示す〇印が分布しており、この記述と合致しています。したがって、この記述は正しいです。

・組合せ

以上より、正しい組み合わせは「う」と「Y」になります。

問4:正解③

<問題要旨>

紀元1~2世紀のローマ帝国と中国(後漢)との間の海上交易における、中国からの主要な輸出品を特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

象牙は、主にアフリカやインドの産物であり、ローマ世界でも珍重されましたが、中国(ティーナイ)からの主要な輸出品ではありません。

②【誤】

金貨は、主にローマ帝国から絹などの東方の物産を購入するために、インド方面へ流出していました。中国から西方へ運ばれたものではありません。

③【正】

絹(生糸、絹織物)は、古代中国の最も重要な特産品でした。ローマ帝国では非常に高価で取引され、上流階級の人々を魅了しました。この絹を運んだ交易路が、後に「シルク=ロード(絹の道)」と呼ばれるようになったことから、空欄 ア が「絹」であると判断できます。

④【誤】

ガラス製品は、ローマ帝国の特産品であり、地中海世界からインドや東南アジア、中国など東方へ輸出されていました。

問5:正解④

<問題要旨>

後漢の時代(特に「大秦王安敦」の使者が来航した2世紀後半頃)の、中国と西方との交流に関する知識を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

仏典の漢訳で知られる僧の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が、中央アジアの亀茲(クチャ)から長安に来たのは、5世紀初頭の五胡十六国時代(後秦)のことです。

②【誤】

前漢の武帝が、匈奴を挟撃するために張騫を大月氏へ派遣したのは、紀元前2世紀のことです。

③【誤】

明の永楽帝の命により、鄭和が南海への大遠征を行ったのは、15世紀初頭のことです。

④【正】

後漢の時代、西域都護として活躍した班超は、西域経営を安定させ、部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)へ派遣しようとしました。甘英はパルティア(安息)の妨害でペルシア湾岸までしか到達できませんでしたが、これは後漢が西方との交通に積極的であったことを示す出来事であり、1世紀末のことです。「大秦王安敦」の使者来航(166年)とも時代が近く、この時期の状況として最も適当です。

問6:正解③

<問題要旨>

問題文Bの内容を正確に読み取り、紀元1~2世紀の歴史的状況と照らし合わせて、記述の正誤を判断する問題です。

<選択肢>

あ【誤】

紀元1~2世紀にエリュトゥラー海(紅海、アラビア海、ペルシア湾を含む海域)の沿岸に並立していた大国は、西方のローマ帝国、インドのクシャーナ朝、そしてイラン高原のパルティアです。ササン朝ペルシアが成立するのは3世紀前半であるため、この記述は誤りです。

い【正】

問題文に「ローマ帝国に莫大な利益をもたらした。しかし、商人の社会的地位は決して高くなく、ローマ帝国の最上層身分に当たる元老院議員の者たちは、土地の経営を重んじた」 とあります。元老院議員などの支配階層が奴隷を用いて経営した大土地所有制がラティフンディアであり、彼らは商業活動よりも土地経営を重視していました。したがって、この記述は正しいです。

以上より、正しい組み合わせは「あ-誤、い-正」となります。

問7:正解③

<問題要旨>

唐代に中央アジアを拠点として東西交易で活躍したイラン系の民族、すなわちソグド人に関する知識を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

世界で初めて金属貨幣(鋳造貨幣)を使用したとされているのは、紀元前7世紀のアナトリア半島の国家リディアです。

②【誤】

交鈔は、元の時代に使用された紙幣です。ソグド人が活躍した唐代ではありません。

③【正】

ソグド人は、中央アジアのオアシス都市であるサマルカンドやブハラなどを拠点に、陸路の「オアシスの道」を通じて中継貿易で活躍しました。

④【誤】

ソグド人は、アラム文字から発展したソグド文字を使用していました。インド系の文字(ブラーフミー文字など)を基に独自の文字を制定したのは、例えばインドのクシャーナ朝やアショーカ王、東南アジアの諸王朝などです。

問8:正解②

<問題要旨>

8世紀の中央アジアで起きた大きな情勢変化に関する知識を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

サーマーン朝は、9世紀末から10世紀末にかけて中央アジアを支配したイラン系のイスラーム王朝です。8世紀の出来事ではありません。

②【正】

ウマイヤ朝は、7世紀半ばから8世紀半ばにかけて存在したイスラーム王朝で、その支配領域を西方・東方に大きく拡大しました。8世紀前半には、将軍クタイバの遠征によって中央アジアのソグディアナ地方に進出し、この地域を支配下に置きました。これは、この地域の情勢を大きく変化させる出来事でした。

③【誤】

エフタルは、5世紀から6世紀にかけて中央アジアから北インドにかけて勢力を誇った遊牧民です。突厥やササン朝に挟撃されて滅亡しました。8世紀には既に存在しません。

④【誤】

751年のタラス河畔の戦いは、中央アジアの覇権をめぐって唐とアッバース朝(ウマイヤ朝を倒して成立)が衝突した戦いです。この戦いに勝利したのはアッバース朝であり、唐は敗北しました。この敗北により、唐の中央アジアへの影響力は後退しました。

問9:正解①

<問題要旨>

唐代のソグド人と安史の乱に関する二つのメモの正誤を判断する問題です。

<選択肢>

・金森さんのメモ【正】

唐代に「胡人」と呼ばれたソグド人が、「オアシスの道」で活躍したこと、北方の遊牧国家である突厥の領域内でも商業活動を行っていたこと、唐の朝廷で軍人や官僚として活躍したことは、いずれも史実と合致します。問題文にも、安禄山が軍事・政治面で重用された例として挙げられています。したがって、このメモは正しいです。

・安部さんのメモ【誤】

安禄山が胡人(ソグド人)の商業ネットワークを利用して反乱の資金を蓄えたことは問題文から読み取れます。しかし、安史の乱(755~763年)の鎮圧にあたって唐を援助したのは、トルコ系の遊牧国家であるウイグル(回紇)です。突厥は、安史の乱が起こる前の744年にウイグルによって滅ぼされており、唐を援助することはできませんでした。したがって、このメモは誤っています。

以上のことから、正しいのは金森さんのメモのみです。

第2問

問1:正解④

<問題要旨>

7世紀から13世紀にかけて海上交易で繁栄したシュリーヴィジャヤ王国についての問題です。

<選択肢>

①【誤】

シュリーヴィジャヤ王国の中心地は、スマトラ島南東部のパレンバンでした。ジャワ島ではありません。

②【誤】

中国(東晋)の僧である法顕が、インドからの帰途に暴風に遭い、立ち寄ったとされる「耶婆提(ヤーヴァドヴィーパ)」は、5世紀初頭のことです。これはシュリーヴィジャヤ王国が成立(7世紀)する前の出来事です。シュリーヴィジャヤを訪れ、その繁栄を伝えたのは、7世紀後半の唐の僧・義浄です。

③【誤】

13世紀末に元(モンゴル帝国)軍の侵攻を受けたのは、ジャワ島のシンガサリ朝です。この侵攻を撃退したシンガサリ朝の王女の婿が、後にマジャパヒト王国を建国しました。シュリーヴィジャヤは元の侵攻以前に勢力を失っていました。

④【正】

シュリーヴィジャヤは、インド洋と南シナ海を結ぶ海上交通の要衝であるマラッカ海峡を支配下に置き、そこを通過する商船から関税を徴収したり、中継貿易を行ったりすることで莫大な利益を上げ、繁栄しました。

問2:正解②

<問題要旨>

東南アジアにおける様々な宗教の受容と展開について、誤っている記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

ジャワ島中部に8世紀から9世紀にかけてシャイレーンドラ朝が建設したボロブドゥールは、大乗仏教の立体的なマンダラ(仏教的世界観を表す図)ともいわれる巨大な石造仏教遺跡です。

②【誤】

マジャパヒト王国は、13世紀末から16世紀初頭にかけてジャワ島を中心に栄えた国家で、主にヒンドゥー教と仏教が信仰されていました。イスラーム教が本格的に広まるのは、マジャパヒト王国の衰退後です。

③【正】

東南アジアの島嶼部(マレー半島、インドネシア、フィリピン南部など)では、13世紀頃からイスラーム化が進展しました。これは軍事的な征服によるものではなく、主に港市を訪れたインドやアラブのムスリム商人や、イスラーム神秘主義者であるスーフィーたちの平和的な布教活動によって広まりました。

④【正】

フィリピンは、16世紀後半にスペインの植民地となりました。スペインはマニラを拠点として、強力なカトリックの布教活動を行い、一部のイスラーム化が進んでいた南部を除いて、住民の大多数がカトリックに改宗しました。

問3:正解③

<問題要旨>

問題文の内容を基に、チャンパーに関する二人の学生のメモの正誤を判断する問題です。

<選択肢>

・野田さんのメモ【正】

問題文に、チャンパーでは「国家が民に香木を伐採させ」 、「チャンパーの経済では、特産品の香木が重要な役割を果たしていました」 とあります。また、チャンパーを建てたのがチャム人であることは歴史上の事実です。したがって、このメモは正しいです。

・川口さんのメモ【正】

問題文に、チャンパーの領域に含まれる「ヴィジャヤやパーンドゥランガなどそれぞれの港市には「王」がおり」、さらに「パーンドゥランガの王が、997年に単独で中国に朝貢したという記録もあります。また、他の王もしばしば独自に朝貢していました」 とあります。このことから、チャンパーは複数の港市からなる連合体のような国家であり、中央集権的な統制は緩やかであったと推測できます。中国で「占城」と呼ばれていたことも知られています。したがって、このメモは正しいです。

以上のことから、二人とも正しいと判断できます。

問4:正解④

<問題要旨>

19世紀後半の欧米の工業化(文あ・い)と、空欄ア(ベーメン)の歴史(文X・Y)に関する知識を正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

・下線部ⓖについて述べた文

あ【誤】

プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に勝利し、1871年に成立したドイツ帝国では、宰相ビスマルクが国内の重工業を育成・保護するために、1879年に保護関税法を制定しました。保護関税政策を「放棄した」のではなく、「採用した」のです。

い【正】

20世紀初頭のアメリカ合衆国では、セオドア=ローズヴェルトやウィルソンといった大統領の下で、独占資本の弊害を是正し、社会的な公正を目指す「革新主義」の改革が進められました。独占禁止法の強化などがその一例です。

・空欄 ア の国の歴史について述べた文

空欄 ア は、会話文の内容「10世紀末以来神聖ローマ帝国の一部で、チェコ人が多数派」 から、ベーメン(ボヘミア)を指します。

X【誤】、Y【正】

三十年戦争(1618~1648年)は、神聖ローマ皇帝によるカトリック化政策に反発したベーメンのプロテスタント(新教徒)貴族が、皇帝の使者をプラハ城の窓から投げ捨てる事件(プラハ窓外放出事件)を起こしたことから始まりました。したがって、反抗したのはカトリック派ではなくプロテスタント派です。

・組合せ

以上のことから、正しい組み合わせは「い」と「Y」になります。

問5:正解④

<問題要旨>

19世紀から20世紀にかけての社会主義思想や国際的な労働運動について、誤っている記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

マルクスとエンゲルスは、サン=シモンやフーリエ、オーウェンらの初期社会主義を「空想的社会主義」と批判し、唯物史観と剰余価値説に基づいて資本主義の必然的な崩壊と社会主義への移行を説いた自らの理論を「科学的社会主義」と呼びました。

②【正】

第二インターナショナルは、フランス革命100周年を記念して1889年にパリで、世界各国の社会主義政党や労働組合の代表が集まって結成された国際組織です。

③【正】

コミンテルン(第三インターナショナル)は、1919年にモスクワで結成されました。当初は世界革命を追求しましたが、1935年の第7回大会では方針を転換し、台頭するファシズムに対抗するため、社会民主主義勢力などとも協力する「反ファシズム人民戦線」の結成を各国の共産党に呼びかけました。

④【誤】

ロバート=オーウェンは、イギリスの工場経営者であり、労働者の待遇改善や協同組合の設立を試みた空想的社会主義者です。あらゆる政治権力を否定する無政府主義(アナキズム)を唱えたのは、フランスのプルードンやロシアのバクーニン、クロポトキンらです。

問6:正解①

<問題要旨>

問題文の内容に基づき、19世紀のパリとウィーンの都市の特徴に関する二つの文の正誤を判断する問題です。

<選択肢>

う【正】

問題文に「当時のウィーンでは、パリのように、都市改造が本格化していました」 とあります。19世紀半ば、第二帝政期のフランスでは、皇帝ナポレオン3世のもと、セーヌ県知事オスマンによってパリの大改造が行われ、広い並木道や公園、上下水道などが整備されました。

え【正】

問題文で、ウィーンの煉瓦工場には、神聖ローマ帝国の一部であったベーメン出身のチェコ人が多く働いていたことが述べられています 。このことから、ウィーンの労働者階級には、ドイツ系だけでなくチェコ人など、異なる民族的背景を持つ人々が含まれていたことがわかります。

以上のことから、う、え、ともに正しい記述です。

問7:正解②

<問題要旨>

中国国民党と中国共産党の関係史における三つの出来事を、年代の古い順に並べる問題です。

<選択肢>

あ:国民党が、共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認めたのは、ソ連のコミンテルンの指導のもと、1924年に実現した第一次国共合作の際の方針です。

う:共産党が中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立したのは、第一次国共合作が崩壊(1927年、上海クーデタ)した後、江西省の瑞金を首都として1931年のことです。

い:国民党と共産党が再び協力する第二次国共合作が成立したのは、1937年に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が全面化した後のことです。

以上の出来事を年代順に並べると、「あ(1924年) → う(1931年) → い(1937年)」となります。

問8:正解②

<問題要旨>

香港の新界租借に関する条約(空欄イ)と、1970年代以降の国際通貨制度に関連する記述(空欄ウ)の正しい組み合わせを選ぶ問題です。

<選択肢>

・空欄イ

会話文で「イギリスが香港の「新界」と呼ばれる地域を1997年まで99年間租借する」 と決められた条約について言及されています。この条約(展拓香港界址専条)は1898年に締結されたものであり、相手は中華民国(1912年成立)ではなく清朝です。したがって、「イー清朝の時代に結ばれた条約」が正しいです。

・空欄ウ

会話文で「主要先進国がドル=ショック後の1973年から採用した通貨制度」 とあります。これは、固定相場制から変動相場制への移行を指します。一方、香港は1983年に、自国通貨である香港ドルを米ドルに連動させる固定相場制(ドルペッグ制)を導入しました。これは主要先進国が採用した変動相場制とは異なる制度です。したがって、「ウー香港は採用しなかった」が正しいです。

・組合せ

以上のことから、正しい組み合わせは②です。

問9:正解①

<問題要旨>

会話文の内容を基に、鄧小平と「前店後廠」に関する二人の学生のメモの正誤を判断する問題です。

<選択肢>

・引間さんのメモ【正】

会話文に「1982年は46%に上っています。香港がこれほど多くの水を中国に依存していたことに驚きました。教授:よく調べてきましたね。46%を占めたその年は、イギリスと中国との間で香港の帰属をめぐる交渉が始まった年です」 とあり、交渉開始が1980年代前半であることがわかります。また、「中国は、鄧小平を中心に強硬な姿勢で交渉に臨みました」 ともあります。鄧小平は文化大革命期に「走資派」や「実権派」として批判され、二度失脚した経歴を持つ人物です。したがって、このメモは正しいです。

・須山さんのメモ【誤】

「前店後廠」とは、会話文にあるように「香港の企業が、人件費の安い中国に製造拠点を設け、香港を通じて製品が世界に輸出される」 という、香港と中国本土との分業関係を指す言葉です。香港が「店」(フロントオフィス)の機能を、中国本土が「工場」(バックオフィス)の機能を担うモデルです。したがって、「香港を経由せずに直接日本へ輸出された」ケースは、このモデルには当てはまりません。このメモは誤っています。

以上のことから、正しいのは引間さんのメモのみです。

第3問

問1:正解④

<問題要旨>

屏風絵が制作された下線部ⓐ「17世紀初頭」のアジア全体の状況について問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

薩摩藩が1609年に攻撃し服属させたのは琉球王国です。台湾ではありません。台湾では17世紀にオランダやスペインが進出し、その後、鄭成功政権が支配しました。

②【誤】

勘合(勘合符)を用いた日明貿易は室町時代に行われ、16世紀半ばには断絶しています。17世紀初頭の徳川家康は、朱印状を海外渡航船に与える朱印船貿易を奨励しました。

③【誤】

ポルトガル商人が、明朝からマカオへの居住権を得たのは16世紀半ばの1557年のことです。17世紀初頭の出来事ではありません。

④【正】

女真(満洲)の首長であったヌルハチが、諸部族を統一して1616年に後金(アイシン)を建国しました。これは17世紀初頭の出来事として正しいです。後金は後に国号を清と改め、中国全土を支配することになります。

問2:正解③

<問題要旨>

レパントの海戦(1571年)時のスペイン国王、すなわちフェリペ2世の事績について問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

コロンブスのアメリカ大陸への航海を財政的に支援したのは、15世紀末のスペイン女王イサベルです。

②【誤】

フェリペ2世が派遣した無敵艦隊(アルマダ)は、1588年にアルマダの海戦でイギリス海軍に敗北しました。

③【正】

1580年、ポルトガル王家が断絶すると、フェリペ2世は母がポルトガル王女であったことから王位継承権を主張し、軍隊を送ってこれを実現しました。これにより、スペインはポルトガルとその広大な海外植民地を併合し、「太陽の沈まぬ国」と称される最盛期を迎えました。

④【誤】

フェリペ2世は敬虔なカトリック教徒であり、当時スペインの支配下にあったネーデルラント(オランダ)でプロテスタント(カルヴァン派)の独立運動が起こると、これを厳しく弾圧しました。独立を支援したのは、スペインと対立していたイギリスなどです。

問3:正解④

<問題要旨>

カール5世のチュニス征服を、古代ローマのザマの戦いになぞらえた文章の空欄を埋める問題です。

<選択肢>

ザマの戦い(紀元前202年)は、第二次ポエニ戦争における決戦で、ローマの将軍大スキピオが、象部隊を率いたカルタゴの将軍ハンニバルを破った戦いです。

会話文では、カール5世が「新しいイと讃えられた」 とあり、勝利者であるカール5世は、ザマの戦いの勝利者である「スキピオ」になぞらえられたと考えるのが自然です。

一方、敗北したオスマン帝国は、ザマの戦いの敗者である「カルタゴ」になぞらえられていることになります。屏風絵の「象」 は、カルタゴ軍を象徴するハンニバルの象部隊を想起させます。

したがって、イには「スキピオ」、ウには「カルタゴ」が入ります。

問4:正解①

<問題要旨>

カタラウヌムの戦いで敗北した人物、すなわちフン人の王アッティラの事績について問う問題です。

<選択肢>

①【正】

アッティラは、5世紀半ばに現在のハンガリーにあたるパンノニアに大帝国を築き、周辺のゲルマン諸部族を従え、東西のローマ帝国を脅かしました。

②【誤】

イタリア半島に王国を建てたのは、東ゴート族のテオドリック王や、ランゴバルド族などです。アッティラはイタリア半島に侵攻しましたが、王国は建設していません。

③【誤】

476年に西ローマ皇帝を退位させ、西ローマ帝国を滅亡させたのは、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルです。

④【誤】

キリスト教のアタナシウス派に改宗したのは、フランク王国のクローヴィス(5世紀末)などが有名です。アッティラはキリスト教徒ではありませんでした。

問5:正解③

<問題要旨>

会話文の内容を正確に読み取り、小説『ドラキュラ』に関する記述として最も適当なものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

会話文に「トランシルヴァニアって、どこにある地域なのかな。田中:現在のルーマニアの西部だよ。『ドラキュラ』が発表された当時は、オーストリア=ハンガリー帝国の一部で」 とあります。したがって、発表当時はルーマニアの一部ではありませんでした。

②【誤】

ドラキュラのモデルとなったヴラド串刺公は「ワラキアの君主」 です。ワラキア公国は、オスマン帝国とハンガリー王国の間に位置し、神聖ローマ帝国の領内ではありませんでした。

③【正】

ドラキュラは「ロンドンに土地と住宅を購入することになり」 、「そこを拠点にイギリスへの侵略を計画していた」 とあります。ロンドンでは、1851年に世界で最初の万国博覧会が開催されました。

④【誤】

会話文で佐藤さんが「英仏間の海峡トンネルの完成は20世紀末だから、荒唐無稽な設定だね」 と述べています。『ドラキュラ』が発表されたのは1897年 なので、同じ世紀には完成していません。

問6:正解①

<問題要旨>

19世紀末のイギリスの社会不安(空欄オ)とその歴史的背景(下線部ⓑの根拠)の正しい組み合わせを選ぶ問題です。

<選択肢>

・空欄 オ に入れる文

会話文では『ドラキュラ』のように「イギリスが侵略されるといった内容の小説が流行した」 とあります。このことから、当時の人々の間には「あ 自分たちを脅かす敵が現れ、自分たちを攻撃してくるのではないか」という漠然とした不安があったと推測するのが最も自然です。「い 世界大戦が再び勃発して」という表現は、第一次世界大戦(1914-18)を経験した後の時代の発想であり、19世紀末の文脈には合いません。

・下線部ⓑの根拠として考えられる歴史的事象

下線部ⓑは、『ドラキュラ』が発表された19世紀末頃の「イギリスの国際的な地位が動揺していた」状況を指します。

X【正】

19世紀半ばまで「世界の工場」として圧倒的な工業生産力を誇ったイギリスですが、19世紀末には第二次産業革命を推進したアメリカ合衆国やドイツが急速に工業力をつけ、工業生産高でイギリスを追い抜きました。これはイギリスの経済的地位の相対的な低下を示す事象です。

Y【誤】

アイルランド自由国が成立したのは、第一次世界大戦後の1922年のことです。19世紀末の出来事ではありません。

・組合せ

以上のことから、正しい組み合わせは「あ」と「X」になります。

第4問

問1:正解③

<問題要旨>

パナマ運河建設の歴史上の人物(空欄ア)と、米西戦争の結果(下線部ⓐ)に関する知識を正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

・空欄 ア に入れる人物の名

問題文に「パナマ運河の建設は、スエズ運河の開設で知られるフランス人のアによって始まった」 とあります。スエズ運河建設プロジェクトを主導したのはフランスの外交官レセップスです。したがって、アには「い レセップス」が入ります。

・下線部ⓐについて述べた文

米西戦争(アメリカ=スペイン戦争、1898年)の結果、アメリカはパリ条約によって、スペインからプエルトリコ、グアム、フィリピンを獲得しました。したがって、「X アメリカ合衆国は、プエルトリコを領有した」は正しい記述です。一方、キューバは独立が認められましたが、プラット条項によってアメリカの事実上の保護国となり、領有されたわけではありません。

・組合せ

以上のことから、正しい組み合わせは「い」と「X」になります。

問2:正解①

<問題要旨>

20世紀初頭のアメリカによる中南米・カリブ海地域への介入強化(棍棒外交)に対し、同時期に起きた中南米諸国の反応を問う問題です。

<選択肢>

①【正】

メキシコでは、ディアス大統領が長期にわたる独裁政権を維持し、アメリカをはじめとする外国資本を導入して経済開発を進めましたが、国民の不満が高まり、1910年にマデロらが蜂起してメキシコ革命が始まりました。これによりディアス政権は打倒されました。これは20世紀初頭のアメリカの帝国主義的進出に対する反発の一例です。

②【誤】

キューバでアメリカの支援を受けたバティスタ独裁政権が、カストロやゲバラが率いるキューバ革命によって打倒されたのは1959年のことです。時代が異なります。

③【誤】

チリで選挙によってアジェンデ社会主義政権が成立したのは1970年です。この政権はアメリカの介入もあり、1973年の軍事クーデタで崩壊しました。時代が異なります。

④【誤】

アギナルドは、フィリピンの独立運動の指導者です。米西戦争後、アメリカがフィリピンを植民地化したため、アメリカに対して武力闘争を展開しました。中南米の出来事ではありません。

問3:正解①

<問題要旨>

問題文の内容に基づき、パナマ運河返還の歴史に関する二つの文の正誤を判断する問題です。

<選択肢>

う【正】

問題文に「「人権外交」を推進していた当時のアメリカ合衆国政府は、運河のパナマへの返還を約束する条約を締結した」 とあります。「人権外交」を外交の柱に掲げたのは、1977年から1981年まで大統領を務めたカーターです。カーター政権は1977年に新パナマ運河条約を締結し、1999年末までの運河返還を約束しました。したがって、この記述は正しいです。

え【正】

問題文の最後に「1999年末、パナマは運河地帯の主権を回復した。現地の新聞は、これを国民的な出来事ととらえ、「第3の独立」と表現した」 とあります。パナマの歴史における「第1の独立」はスペインからの独立(コロンビアの一部として)、「第2の独立」はアメリカの支援によるコロンビアからの独立を指します。それに次ぐ画期的な出来事として運河返還が認識されたことを示しており、この記述は正しいです。

以上のことから、う、え、ともに正しい記述です。

問4:正解②

<問題要旨>

16世紀末から18世紀にかけての東アジアの国際秩序の変遷について、文章の時期区分(「戦争の時代」「平和の時代」)とその根拠となる出来事を正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

・あ 16世紀末から17世紀前半は、「戦争の時代」であった。

この時期の東アジアでは、豊臣秀吉による朝鮮侵略(壬辰・丁酉の倭乱、1592-98年)や、明から清への王朝交代、それに伴う清の朝鮮侵攻(丁卯・丙子の乱、1627年、1636年)など、大規模な戦争が相次ぎました。したがって、根拠として「X 朝鮮は、清の侵攻を受けた」は適切です。

・い 17世紀後半から18世紀は、相対的に「平和の時代」であった。

清朝の支配が安定し、日本では江戸幕府の体制が固まると、東アジアの国際関係は比較的安定した時期を迎えました。日朝間では、将軍の代替わりなどを祝して朝鮮から通信使が江戸へ派遣され、平和的な外交関係が維持されました。したがって、根拠として「Z 朝鮮は、将軍の代替わりの際に、通信使を江戸幕府に送った」は適切です。

・Y 李成桂は、倭寇を打ち取って名声を高めた。

これは14世紀後半、高麗末期の出来事であり、李氏朝鮮の建国につながるものです。問題の時期区分とは合いません。

・組合せ

以上のことから、正しい組み合わせは「あ-X」と「い-Z」です。

問5:正解②

<問題要旨>

江華島事件の場所(空欄イ)と、その結果結ばれた条約の内容(空欄ウ)に関する知識を、地図情報と結びつけて問う問題です。

<選択肢>

・空欄イの位置

江華島事件(1875年)は、日本の軍艦雲揚号が朝鮮の首都漢城(現在のソウル)の玄関口にあたる江華島沖で挑発行動を行い、朝鮮側の砲台と交戦した事件です。地図上で首都「漢城」 に最も近い沿岸の要衝は「a」の地点です。したがって、イの位置は「a」です。

・空欄ウに入れる文

江華島事件を口実として、日本は朝鮮に開国を迫り、翌1876年に日朝修好条規を締結しました。この条約は不平等条約であり、朝鮮は釜山のほかに新たに2港を開くことを認めさせられました。したがって、「ウー釜山を含む3港を開港する」が正しい内容となります。「大院君が失脚し、閔氏が権力を掌握する」のは江華島事件よりも前の1873年の出来事です。

・組合せ

以上のことから、正しい組み合わせは「イ-a」と「ウ-釜山を含む3港を開港する」です。

問6:正解⑤

<問題要旨>

韓国併合(1910年)に至る過程の三つの出来事(下線部ⓒ、う、え)を、年代の古い順に並べる問題です。

<選択肢>

下線部ⓒ:「大韓帝国は、日本の保護国とされた」

これは、日露戦争後の1905年に締結された第二次日韓協約(乙巳保護条約)により、大韓帝国の外交権が日本に奪われ、統監府が設置されたことを指します。

う:安重根によって、初代韓国統監であった伊藤博文がハルビンで暗殺されたのは、1909年の出来事です。

え:朝鮮全域で、日本の植民地支配からの独立を求める三・一独立運動が起こったのは、第一次世界大戦後の1919年のことです。

以上の出来事を年代順に並べると、「下線部ⓒ(1905年) → う(1909年) → え(1919年)」となります。

問7:正解③

<問題要旨>

アメリカ合衆国の建国から20世紀初頭にかけての対外戦争に関する知識を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

アメリカがハワイを併合したのは1898年ですが、これはスペインとの戦争の結果ではなく、ハワイ王国の親米派クーデターを経て実現したものです。

②【誤】

フランス革命戦争期、アメリカはワシントン大統領のもとで中立を宣言し、ヨーロッパの紛争に巻き込まれることを避けました。対仏大同盟には参加していません。

③【正】

「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」を掲げて領土拡大を進めていたアメリカは、1846年にメキシコと戦争を始め(アメリカ=メキシコ戦争)、勝利しました。その結果、1848年のグアダルーペ=イダルゴ条約で、カリフォルニア、ネヴァダ、ユタの全域とアリゾナ、ニューメキシコなどの一部地域を獲得しました。

④【誤】

米西戦争の結果、フィリピンの領有権を得たアメリカに対し、独立を求めてフィリピン人が起こしたのがアメリカ=フィリピン戦争(1899-1902)です。アメリカはこの戦争に勝利し、フィリピンを植民地として支配下に置きました。フィリピンの独立を認めたのは、第二次世界大戦後の1946年です。

問8:正解②

<問題要旨>

グラフを読み解き、アメリカが枢軸国と戦った戦争(エ:第二次世界大戦)に関する記述と、その際の軍人数の規模(オ)を正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

・エについて述べた文

グラフの軍人数の推移を見ると、1940年代前半に急激なピークが見られます。これは、アメリカが参戦した第二次世界大戦(1941-45年)の時期と一致します。

あ【正】

第二次世界大戦に敗北したドイツは、戦後、ヤルタ協定に基づき、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国によって分割占領されました。

い【誤】

航空機が「新兵器」として戦争に本格的に導入されたのは、第一次世界大戦です。第二次世界大戦では、航空機の重要性はさらに増し、戦略爆撃や航空母艦の活用など、戦争の様相を決定づける兵器となりましたが、「新兵器として」という表現は第一次世界大戦により適合します。

・オに入れる文

グラフのピーク値を見ると、縦軸の目盛りが「10000」(単位:1000人)を超え、「12500」に迫っています 。これは、10000×1000人=1000万人を超えたことを意味します。したがって、「Y 1000万人を超えた」が正しいです。

・組合せ

以上のことから、正しい組み合わせは「あ」と「Y」になります。

問9:正解④

<問題要旨>

グラフで示された第二次世界大戦後のアメリカ軍兵員数の推移について、二つの文の正誤を判断する問題です。

<選択肢>

う【誤】

グラフを見ると、1950年代は、1950年から53年にかけて急増し(朝鮮戦争)、その後は減少に転じています。「一貫して増加している」という記述は、グラフの読み取りとして誤っています。朝鮮戦争(1950-53年)で、アメリカ軍を主体とする国連軍が組織されたことは事実ですが、それが50年代を通じての兵員増加にはつながっていません。

え【誤】

グラフを見ると、1970年代は、ベトナム戦争の終結(1973年和平協定、1975年サイゴン陥落)とデタント(緊張緩和)の進展を背景に、兵員数は減少傾向にあります。しかし、その根拠として挙げられている「中距離核戦力(INF)全廃条約」は、ソ連のゴルバチョフとアメリカのレーガンとの間で締結されたもので、1987年の出来事です。1970年代の兵員数減少の理由としては不適切です。

以上のことから、う、え、ともに誤っている記述です。

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