2026年度 大学入学共通テスト 追試験「歴史総合・世界史探求」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。
解答
解説
2026年度大学入学共通テスト追試験の「歴史総合,世界史探究」は、大問5つ・設問32問、100点満点、試験時間60分の全問必答です。配点は第1問25点、第2問18点、第3問18点、第4問21点、第5問18点で、第1問が歴史総合、第2問以降が世界史探究の内容にあたります。
第1問は「人々にとっての様々な戦争経験」を主題に、近代の徴兵制から現代の「対テロ戦争」までを扱います。第2問は建築物や都市空間の持つ意味と利用方法の変化、第3問は人物や時代、出来事の評価や解釈が変わる場面、第4問は世界史上の知識や情報の伝播、第5問は経済活動と社会の変化がテーマです。いずれも生徒の会話文・ノート・パネルという枠組みの中に、史料や地図、グラフが組み込まれています。
この回は、正解を選ぶまでに2つ以上の要素を同時に確定させる組合せ問題が大半を占めます。史料の設問は記憶している通史ではなく史料の中の語で判定すること、年代や順序の設問は各選択肢に年を当ててから並べること、グラフの設問は目盛りの数値で切ることが、そのまま得点に直結します。誤りの型は、出来事の前後関係の入れ替え(女性参政権の実現時期、日米修好通商条約と会社設立の前後)と、主体や国の入れ替え(遼と金、マニラとバタヴィア、ドミニコ修道会とイエズス会)に集中しています。
資料や図が省略されている設問もありますが、いずれも会話文・ノート・パネルに印刷されている記述と、選択肢の年代・主体の矛盾だけで正解は1つに決まります。
第1問 徴兵制と総力戦——人々の戦争経験(配点25)
歴史総合の授業で「人々にとっての様々な戦争経験」という主題を立てた生徒たちの会話文・資料・メモをもとにした大問です。A(問1〜問4)は近代における軍隊と人々の関係を、フランス・プロイセン・日本の徴兵制、西南戦争での士族徴集をめぐる岩倉具視と木戸孝允の意見、フランス領西アフリカの兵役と市民権、甲午農民戦争から問います。B(問5〜問8)は現代の戦争が各地の社会にもたらした影響を、第二次世界大戦期の風刺画、日米の女性労働、正規軍以外の主体が関わる戦争、探究課題と資料の対応から問います。
問1:正解 ①(解答番号1/配点3)
<問題要旨>
フランス・プロイセン・日本の徴兵制について生徒が話し合う会話文で、プロイセンで1867年に徴兵制を整備した首相の名(ア)と、フランスとドイツの徴兵制の確立について会話文からまとめられる内容(イ)の組合せを選ぶ設問です。
<考え方>
人名は在任した国と時期で、イは徴兵制が広がった歴史的文脈で決まります。ビスマルクは1862年にプロイセン首相となり軍制改革を進めた人物で、1867年という年と在任期間が一致します。イについては、フランスが革命期の導入から第三共和政期の確立へ、ドイツがプロイセン中心の統一からドイツ帝国全体への拡大へと進んだという会話文の流れを、国民国家の形成と結び付けます。
<選択肢>
ア=ビスマルク【正】
1862年からプロイセン首相を務め、議会の反対を押し切って軍制改革を推し進めた人物。1867年という年に在任しており、その徴兵制がドイツ帝国全体へ拡大されたという記述ともつながる。
ア=メッテルニヒ【誤】
ウィーン体制を主導したオーストリアの宰相で、1848年の三月革命で失脚している。国が異なるうえ、1867年にはすでに政治の舞台を去っており、主体と時期の二重の入れ替えになっている。
イ=国民国家の形成に伴って確立された【正】
フランスは革命の際に徴兵制を導入し、プロイセンとの戦争を機としたナショナリズムの高まりの中で第三共和政期に確立した。ドイツも統一の戦争を経てドイツ帝国全体へ拡大しており、どちらも国民国家がつくられる過程と重なる。
イ=植民地帝国が解体する中で確立された【誤】
植民地帝国の解体が本格化するのは第二次世界大戦後であり、19世紀後半の徴兵制確立とは時期が合わない。会話文でも各国は確立した軍隊を用いて植民地獲得に乗り出したとされており、因果が逆になっている。
正解【①】
1867年のプロイセン首相はビスマルクで、フランスとドイツの徴兵制はいずれも国民国家形成の過程で確立したので、①が正解です。
問2:正解 ②(解答番号2/配点3)
<問題要旨>
西南戦争で士族を徴集するかどうかをめぐる岩倉具視の意見(資料1)と木戸孝允の意見(資料2)が示され、そこから読み取れる事柄や背景について述べた4つの文あ〜えのうち、正しいものの組合せを選ぶ設問です。
<考え方>
資料は書かれている語句をそのまま使って判定し、残りは日本の徴兵制と西南戦争の基本事項に戻します。岩倉は、兵員不足となる場合にはやむを得ないとしたうえで、東京で強壮な人員を徴集して訓練し出発させることを提案しており、兵員増強の提案として読めます。木戸が懸念したのは、薩摩を討ってもまた別の小薩摩のような存在を生み出すという国内の問題であり、外国勢力の侵略ではありません。
<選択肢>
あ【正】
岩倉の意見は、にわかに士族を徴募することの危うさを認めつつ、兵員不足となる場合にはやむを得ないとして、東京で強壮な人員を徴集し訓練して出発させることを提案している。士族の徴募による兵員増強の提案という理解でよい。
い【誤】
木戸が挙げた理由は、薩摩を討ってもまた別の小薩摩のような存在を生み出してしまうという国内の反乱勢力の再生産である。懸念の対象を国内から国外へすり替えた誤り。
う【誤】
西南戦争の反乱軍の主力は、私学校に集まった鹿児島の士族であって、徴兵制に基づく軍隊ではない。徴兵制に基づく政府軍と反乱軍を取り違えた、主体の入れ替えによる誤り。
え【正】
1873年の徴兵令は四民平等の理念のもとで、士族と平民の区別なく兵役の義務を課すものであった。だからこそ、士族だけを臨時に徴集することが兵制を破るものとして問題になった。
正解【②】
あと えが正しいので、②が正解です。
問3:正解 ③(解答番号3/配点3)
<問題要旨>
フランス領西アフリカのセネガルの4都市の住民について、市民権と兵役義務の関係をまとめたノートと、1916年9月29日にフランス本国の国会で成立した法律(資料3)をもとに、ノートの空欄に入る語句(ウ)と、ディアニュのような植民地の人々の行動を述べた文(エ)の組合せを選ぶ設問です。資料3は問題冊子では省略されています。
<考え方>
ウは1916年という年と、フランスが兵力不足に直面したというノートの記述で決まります。清仏戦争は1884年から85年で、20世紀初頭に続く記述の流れにも兵力不足という状況にも合いません。エは、兵役義務を果たさなければ市民権を持てない状況が生じていたという条件と、ディアニュが黒人として初めて本国の国会議員となり法律を成立させたという事実を重ねれば、戦争協力を通じて権利を獲得する方向だと決まります。
<選択肢>
ウ=第一次世界大戦【正】
1916年に成立した法律であり、その直前にフランスが兵力不足に直面したという記述と合う。総力戦の下で植民地からの動員が拡大した時期でもある。
ウ=清仏戦争【誤】
1884年から85年の戦争で、1916年という年や20世紀初頭という時期の記述に合わない。時期の入れ替えによる誤り。
エ=政治的権利の獲得のために戦争に協力し【正】
兵役義務を果たさなければ市民権を持てない状況にあったため、兵役を引き受けることが権利の獲得につながる。ディアニュが本国の国会という制度の内側で法律を成立させたという行動とも一致する。
エ=動員に反発して宗主国に対する反乱を企て【誤】
ディアニュは本国の国会議員となって法律を成立させており、宗主国の制度の内側で行動している。反乱を企てたとするのは、行動の方向を正反対にした誤り。
正解【③】
ウは第一次世界大戦、エは政治的権利の獲得のために戦争に協力したという内容になるので、③が正解です。
問4:正解 ④(解答番号4/配点3)
<問題要旨>
甲午農民戦争の性格と、それと同様の性格を持つと考えられる他の事例、その事例が起こった地図中のおおよその地域a〜cの3つを組み合わせて選ぶ設問です。地図には日本列島を囲むa、大陸側の中国北部を囲むb、台湾を囲むcが示されています。
<考え方>
まず甲午農民戦争の経過に戻ります。1894年、朝鮮政府が反乱の鎮圧のため清に援軍を求め、これに対抗して日本も出兵したので、外国軍の軍事介入があった戦争です。同じ性格を持つのは列強8か国の連合軍が出兵した義和団戦争で、戊辰戦争に外国軍の軍事介入はありません。義和団の運動は山東から北京周辺へ広がった中国北部の出来事なので、地図では大陸側のbが対応します。
<選択肢>
①【誤】
甲午農民戦争の性格の判断が誤り。清と日本の出兵を招いており、自国の軍隊のみで終結していない。
②【誤】
性格の判断が誤りであるうえ、外国軍の軍事介入がなかった戊辰戦争は同様の性格を持つ事例にならない。
③【誤】
性格の判断が誤りで、さらに戊辰戦争は日本国内の戦いなので、大陸側のbという地域にも当たらない。
④【正】
甲午農民戦争は外国軍の軍事介入があった戦争であり、8か国連合軍が介入した義和団戦争が同様の性格を持つ。義和団戦争の舞台は山東から北京周辺の中国北部で、大陸側を囲むbに当たる。
⑤【誤】
性格と事例は正しいが、地域の判断が誤り。cは台湾を囲んでおり、義和団の運動の舞台ではない。
⑥【誤】
戊辰戦争に外国軍の軍事介入はなく、事例の選択が誤り。台湾を囲むcも戊辰戦争の舞台ではない。
正解【④】
外国軍の軍事介入という性格、義和団戦争という事例、中国北部のbという地域がそろう④が正解です。
問5:正解 ④(解答番号5/配点3)
<問題要旨>
第二次世界大戦中の1943年4月17日の新聞に掲載された風刺画をもとにしたパネルについて、パネルの空欄に入る文(オ)と、風刺画が描くチャーチルの考え(XかY)の組合せを選ぶ設問です。風刺画は問題冊子では省略されています。
<考え方>
オは、チャーチルの考えを論じる枠組みであることと、2つの文の内容で決まります。「五族協和」を掲げて独立国を建国する趣旨を述べたものは1932年の満洲国に関わるもので、イギリスの首相と結び付きません。戦争目的と戦後世界の共通原則を示し、後に国際連合の礎となったものは1941年の大西洋憲章で、チャーチルがローズヴェルトとともに発表したものです。チャーチルは大西洋憲章の民族自決をドイツの占領下に置かれたヨーロッパに限ると説明し、インドなど自国の植民地への適用を認めなかったので、描かれている考えはYになります。
<選択肢>
オ=「五族協和」を掲げ、独立国を建国する趣旨を述べたもの【誤】
「五族協和」は1932年に建国された満洲国が掲げたスローガンで、イギリスの首相であるチャーチルの考えを論じる枠組みに合わない。主体の入れ替えによる誤り。
オ=戦争目的と戦後世界の共通原則を示して、後に国際連合の礎となるもの【正】
1941年の大西洋憲章にあたる。チャーチルとローズヴェルトが連名で発表し、領土不拡大や民族自決などの原則を示して、後の国際連合憲章につながった。
X【誤】
チャーチルは大西洋憲章の民族自決をドイツの占領下に置かれたヨーロッパの諸民族に限ると説明し、インドをはじめ自国の植民地への適用を認めなかった。普遍的な適用を追求していたとするのは実際と逆である。
Y【正】
イギリス帝国の維持を前提とするチャーチルの立場は、アジア・アフリカの人々を植民地支配から解放することには否定的であった。大西洋憲章を掲げながら植民地支配を続ける姿勢が風刺の対象になっている。
正解【④】
オは大西洋憲章にあたる い、チャーチルの考えはYなので、④が正解です。
問6:正解 ③(解答番号6/配点3)
<問題要旨>
戦争終結に伴う復員者への対策を述べた1945年11月の日本政府の文書(資料4)と、アメリカ合衆国の業種別女性労働者数を1940年・1944年・1950年で比べたグラフが示され、そこから読み取れる事柄や、その背景について最も適当なものを選ぶ設問です。
<考え方>
グラフは数値で切ります。製造業の女性労働者数は1940年の約250万人から1944年には約560万人へと倍以上に増えており、1944年が第二次世界大戦の最中であることを重ねれば、総力戦の下での動員が背景だと判断できます。残りは、日本の女性参政権の実現時期、アメリカ合衆国の女性参政権の実現時期、そして文書が何を目指したものかで判定します。
<選択肢>
①【誤】
日本で女性議員が誕生したのは、女性参政権が認められた後の1946年4月の総選挙である。1945年11月の時点ではまだ誕生しておらず、時期の前後が入れ替わっている。
②【誤】
資料4は、現在就職している女子などを家庭に復帰させ、その代わりに復員者を就職させるという内容で、性別役割分業を前提として強める方向である。目指したものを正反対に読み替えた誤り。
③【正】
製造業の女性労働者数はグラフで1940年の約250万人から1944年には約560万人へ増えている。1944年は第二次世界大戦中であり、男性が軍に動員された分の労働力を女性が担ったという総力戦下の動員が背景と考えられる。
④【誤】
アメリカ合衆国で女性参政権が実現したのは1920年の憲法修正第19条によるもので、第二次世界大戦より前である。総力戦の結果として戦後に実現したとするのは時期の入れ替えになる。
正解【③】
1944年に製造業の女性労働者数が大きく伸びた背景を総力戦下の動員に求める③が正解です。
問7:正解 ⑤(解答番号7/配点3)
<問題要旨>
国家の正規軍以外の主体も関わる戦争の事例を3つのメモにまとめ、そこに書かれている出来事を古いものから年代順に並べる設問です。
<考え方>
それぞれのメモがどの戦争を指すかを特定し、時期を押さえます。メモⅠはアメリカ軍に支援された南部の政権と、北部の政権に結び付いた反政府組織が争ったインドシナ半島の対立なのでベトナム戦争、メモⅡはフセイン政権崩壊後の国内秩序の維持なのでイラク戦争後、メモⅢは国民党とともに抗日民族統一戦線を形成した共産党のゲリラ戦なので日中戦争です。
<選択肢>
メモⅠ=1960年代(ベトナム戦争)
アメリカ合衆国が南ベトナムの反共政権を支援し、北ベトナムと結び付いた南ベトナム解放民族戦線と争った。アメリカの本格的な軍事介入は1965年の北爆以降である。
メモⅡ=2003年以降(イラク戦争後)
フセイン政権が崩壊したのは2003年のイラク戦争によるもので、その後の治安維持に民間の軍事警備会社が広く用いられた。3つの中で最も新しい。
メモⅢ=1937年から1945年(日中戦争)
西安事件を経て国民党と共産党が抗日民族統一戦線を形成したのは1937年で、共産党は農村を拠点にゲリラ戦を展開した。3つの中で最も古い。
正解【⑤】
古い順にメモⅢ(1937年から)、メモⅠ(1960年代)、メモⅡ(2003年以降)となるので、⑤が正解です。
問8:正解 ①(解答番号8/配点4)
<問題要旨>
「現代の戦争が人々に与えた影響」という主題を探究するための2つの課題あ・いと、それぞれの課題を考察するための学習活動に用いる資料W〜Zの組合せとして正しいものを選ぶ設問です。
<考え方>
課題に書かれた出来事と資料の時期・地域が一致するかで決まります。第4次中東戦争は1973年で、アラブ産油国の石油戦略が第1次石油危機を引き起こし、原油価格の高騰が人々の暮らしを直撃しました。アメリカ合衆国の「対テロ戦争」は2001年の同時多発テロ事件を受けたもので、最初の軍事攻撃の対象はアフガニスタンでした。
<選択肢>
あ(第4次中東戦争)=W【正】
1973年の第4次中東戦争を機にアラブ産油国が石油戦略をとり、第1次石油危機が起こった。原油価格の推移を示すグラフは、戦争が人々の暮らしに与えた影響をたどる資料になる。
い(「対テロ戦争」)=Y【正】
「対テロ戦争」を宣言したアメリカ合衆国が最初に軍事攻撃を行ったのはアフガニスタンである。現地で人道支援を行った中村哲の活動記録は、攻撃が引き起こした社会的混乱を知る資料になる。
X【誤】
鉄のカーテン演説は1946年で、冷戦の始まりに関わる資料である。第4次中東戦争の影響を考察する資料としては、時期も主題も合わない。
Z【誤】
第1回原水爆禁止世界大会は1955年に広島で開かれた。核兵器をめぐる運動の資料であり、「対テロ戦争」による社会的混乱を考察する資料にはならない。
正解【①】
あにはW、いにはYが対応するので、①が正解です。
第2問 建築物と都市空間の意味の変化(配点18)
世界史探究の授業で、時代によって建築物や都市空間の持つ意味や利用方法がどのように変化したのかを、班ごとに資料から考察する大問です。A(問1・問2)は中国河北省にある定州開元寺塔のパネルと地図、B(問3・問4)はローマのサンタンジェロ城をめぐる会話文と中世の年代記、C(問5・問6)はメキシコシティのトラテロルコ「三文化広場」の写真をもとに問います。
問1:正解 ④(解答番号9/配点3)
<問題要旨>
定州開元寺塔について調べたパネルの下線部(唐の玄宗が当時の元号に基づき「開元」という寺名を与えたこと)と、中国における仏教の歴史に関連する2つの出来事Ⅰ・Ⅱを、古いものから年代順に並べる設問です。
<考え方>
3つの出来事に年代を与えて並べるだけで決まります。下線部の玄宗の開元年間は713年から741年で8世紀前半、Ⅰの全真教は金の時代に王重陽が開いたもので12世紀、Ⅱの法顕は412年にインドから帰国して『仏国記』を著したので5世紀初めです。
<選択肢>
Ⅰ=12世紀(全真教の成立)
儒・仏・道の調和を説く全真教は、金の支配下で王重陽が開いた新しい道教である。3つの中で最も新しい。
Ⅱ=5世紀初め(法顕の帰国と『仏国記』)
東晋の僧法顕は陸路でインドへ向かい、海路で412年に帰国して『仏国記』を著した。3つの中で最も古い。
下線部=8世紀前半(唐の玄宗の開元年間)
玄宗の治世の元号である開元は713年から741年にあたる。法顕の帰国より後、全真教の成立より前になる。
正解【④】
古い順に法顕(5世紀初め)、玄宗の開元年間(8世紀前半)、全真教(12世紀)となるので、④が正解です。
問2:正解 ②(解答番号10/配点3)
<問題要旨>
パネルにある「敵」について述べた文あ・いと、塔がある定州の位置を示す図2中のa・bの組合せを選ぶ設問です。図2には燕雲十六州の範囲と境界を示す線が描かれ、境界より北側にa、南側にbが置かれています。
<考え方>
パネルに、塔の建設が始まった直後に澶淵の盟が結ばれて定州が宋と「敵」との境界近くに位置することになったと書かれているので、「敵」は1004年に宋と澶淵の盟を結んだ遼です。位置は、定州が「敵」を瞭望できる宋側の都市であることから、境界より南側と決まります。
<選択肢>
あ【正】
遼は916年に耶律阿保機が建国した契丹の国家で、1004年に宋と澶淵の盟を結んだ相手である。燕雲十六州を支配していたことも図2の範囲と一致する。
い【誤】
靖康の変で徽宗・欽宗を捕虜にしたのは1126年から27年の金である。遼と金という王朝の入れ替えによる誤り。
a【誤】
aは境界より北側、燕雲十六州の内部にあたる。ここは「敵」の側の領域なので、宋の都市である定州の位置にならない。
b【正】
bは境界より南側で、宋の領域にあたる。塔から「敵」を瞭望できたという記述は、定州が境界のすぐ内側にあったことを示している。
正解【②】
「敵」は耶律阿保機が建てた遼、定州は境界より南のbなので、②が正解です。
問3:正解 ④(解答番号11/配点3)
<問題要旨>
サンタンジェロ城について話し合う会話文の下線部(ローマ周辺の治安が悪化して5世紀頃から徐々に城塞化が進んだこと)の背景を述べた文あ・いと、8世紀にラヴェンナ地方を寄進した人物(ア)の事績を述べた文X・Yの組合せを選ぶ設問です。
<考え方>
背景は下線部の世紀で切ります。5世紀はゲルマン人の諸部族が西ローマ帝国領内へ移動した時期で、会話文でも西ゴート人がローマを略奪したことに触れられています。アは、8世紀にラヴェンナ地方を教皇に寄進して教皇領形成の出発点をつくった人物なのでピピンであり、その事績を選びます。
<選択肢>
あ【誤】
イスラーム勢力が地中海に進出してローマ近郊を襲うのは9世紀に入ってからで、5世紀頃からの城塞化の背景にはならない。時期の入れ替えによる誤り。
い【正】
5世紀は西ゴート人によるローマ略奪(410年)をはじめ、ゲルマン人の諸部族が帝国領内へ移動した時期である。会話文で西ゴート人の略奪に触れているのも手がかりになる。
X【誤】
正統とされたアタナシウス派キリスト教に改宗したのは、フランク王国を建てたクローヴィスである。8世紀にラヴェンナ地方を寄進した人物ではなく、人物の入れ替えによる誤り。
Y【正】
ピピンはメロヴィング家の王を廃してカロリング朝を開き、その返礼としてラヴェンナ地方を教皇に寄進した。これが教皇領形成の出発点になった。
正解【④】
背景はゲルマン人の進出、アはピピンでその事績はカロリング朝を開いたことなので、④が正解です。
問4:正解 ①(解答番号12/配点3)
<問題要旨>
中世に書かれた年代記の一節(資料)が記述している事件の政治的背景について述べた文として、最も適当なものを選ぶ設問です。資料は『ノルマン人簡略年代記』からの引用で、問題冊子では省略されています。会話文では、その事件の時にも教皇がサンタンジェロ城に避難したことが示されています。
<考え方>
出典がノルマン人の年代記であることと、教皇がサンタンジェロ城に避難したことの2点で絞ります。1084年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマを占領したとき、教皇グレゴリウス7世はサンタンジェロ城に籠城し、南イタリアのノルマン人の指導者ロベール=ギスカールに救出されました。これは聖職者の叙任権をめぐる教皇と皇帝の対立の中で起きた事件です。
<選択肢>
①【正】
聖職叙任権闘争のもとで、1084年にハインリヒ4世がローマを占領し、グレゴリウス7世はサンタンジェロ城に避難した。救援に向かったのが南イタリアのノルマン人であり、ノルマン人の年代記に記されるという出典とも合う。
②【誤】
コンスタンツ公会議は1414年から18年に開かれ、教会大分裂の解消とフスの処断を扱った。教皇がサンタンジェロ城に避難した事件の背景ではなく、時期も大きくずれる。
③【誤】
アナーニ事件は1303年にローマ南東のアナーニで教皇ボニファティウス8世が捕らえられた事件で、舞台がローマではない。対立の相手もフランス王フィリップ4世である。
④【誤】
レオン3世の聖画像禁止令は726年のビザンツ帝国の政策で、ローマ市内で起きた事件ではない。皇帝と教皇の対立という点だけが似ているが、場所も世紀も合わない。
正解【①】
ノルマン人の年代記に記され、教皇がサンタンジェロ城に避難した事件は叙任権闘争下の1084年のローマ占領なので、①が正解です。
問5:正解 ②(解答番号13/配点3)
<問題要旨>
アメリカ大陸のある都市で、建設時期が大きく異なる建築物が並ぶ広場の写真(図4)をもとにした会話文で、広場がある都市名(イ)と、その都市が上に築かれた都の文明(ウ)の説明の組合せを選ぶ設問です。図4の写真は問題冊子では省略されていますが、モダニズム様式の団地群・カトリック教会・遺跡という3つの引き出し線は示されています。
<考え方>
会話文にある記念碑の文面が決め手になります。1521年8月13日、皇帝クアウテモックによって勇敢に守られてきたトラテロルコがコルテスの手に落ちたと記されているので、滅ぼされたのはアステカ王国であり、その都の上に築かれた都市はメキシコシティです。ウがアステカと決まれば、その文明の説明を選びます。
<選択肢>
イ=メキシコシティ【正】
トラテロルコ広場はメキシコシティの中心部から北に位置する。1521年にコルテスがクアウテモックを降伏させて征服したアステカ王国の都テノチティトランの上に築かれた都市である。
イ=クスコ【誤】
クスコはインカ帝国の都で、これを征服したのはピサロである。会話文のコルテス・クアウテモック・1521年という語と合わない。
X【誤】
文字を使用せず縄の結び方で情報を伝達したのはインカのキープである。文明の入れ替えによる誤り。
Y【正】
アステカの都テノチティトランには、ピラミッド状の基壇の上に神殿を築く大神殿が置かれていた。メソアメリカの文明に共通する特徴である。
Z【誤】
馬はコルテスらヨーロッパ人がもたらしたもので、征服以前のアメリカ大陸に家畜としての馬はいない。トウモロコシ農耕に馬を活用したという記述は成り立たない。
正解【②】
イはメキシコシティ、ウのアステカの説明はピラミッド状の構造を持つ神殿なので、②が正解です。
問6:正解 ①(解答番号14/配点3)
<問題要旨>
会話文を参考にしつつ、この広場がある国について述べた4つの文あ〜えのうち、正しいものの組合せを選ぶ設問です。
<考え方>
国がメキシコと確定しているので、メキシコ近現代史と会話文の内容に照らして1つずつ判定します。「三文化」については、会話文で遺跡が征服以前の先住民の文化、カトリック教会が植民地期の文化、団地群が独立して共和国となった後の文化に対応すると説明されています。
<選択肢>
あ【正】
1910年に始まるメキシコ革命によって、長期にわたるディアス大統領の独裁政権が倒された。
い【誤】
NAFTA(北米自由貿易協定)はアメリカ合衆国・カナダ・メキシコの3か国が結んだもので、ブラジルは加わっていない。締約国のすり替えによる誤り。
う【正】
会話文で、遺跡は征服以前の先住民の文化、カトリック教会は植民地期の文化、団地群は独立後の共和国期の文化を象徴すると説明されている。
え【誤】
メキシコの独立運動を最終的に主導し独立を実現させたのはクリオーリョである。先住民が主体となったとするのは主体の入れ替えで、第二次世界大戦後のガーナの独立との類似も成り立たない。
正解【①】
あと うが正しいので、①が正解です。
第3問 評価や解釈が変わる人物・時代・出来事(配点18)
世界史を探究するなかで人物や時代、出来事の評価や解釈が変わる場面を、班ごとに資料から検討する大問です。A(問1・問2)は古代ギリシアの民主政をテーマにアリストファネスの喜劇とソクラテス裁判、B(問3・問4)は「中世=暗黒時代」という見方の由来を扱う会話文とノート、C(問5・問6)はインド大反乱の歴史とその解釈をめぐる会話文と1909年に出版された歴史書を素材にします。
問1:正解 ①(解答番号15/配点3)
<問題要旨>
アリストファネスの喜劇『雲』の一節(資料1)をもとにした会話文で、ソクラテスがどのように描かれていたかを述べた文(ア)と、アテネが敗北して寡頭政の政権が生まれた戦争(イ)に関して述べた文X・Yの組合せを選ぶ設問です。資料1は問題冊子では省略されています。
<考え方>
アは『雲』という作品の性格と会話文の流れで決まります。生徒が「この時代の哲学者について、これまで持っていたイメージとの違いに驚いた」と述べ、そのうえで裁判で有罪とされ死刑に処せられたと続けているので、アには作品中の描かれ方が入ります。イは、敗北直後に寡頭政の政権が生まれ、その最中に『女の平和』が上演され、敗北後に『女の議会』が発表されたという記述から、ペロポネソス戦争と確定します。
<選択肢>
ア=人々を説得する術を教える、ソフィストの一人とみなされていたんですね【正】
『雲』のソクラテスは、弁論の技術を教える人物として風刺されている。真理を問い続けた哲学者という一般的なイメージとの違いが、会話文で驚きとして語られている。
ア=僭主になりそうな人物として、陶片追放の対象になっていたんですね【誤】
陶片追放は僭主の出現を防ぐために国外追放を決める制度である。ソクラテスは民衆裁判で有罪とされ死刑に処せられており、会話文の続きと処遇が食い違う。
X【正】
ペロポネソス戦争の末期、スパルタはアケメネス朝ペルシアの援助を受けて艦隊を整え、前404年にアテネを降伏させた。敗北直後に寡頭政の政権が生まれたという記述と一致する。
Y【誤】
アテネとテーベの連合軍がカイロネイアの戦いで敗れたのは前338年で、相手はマケドニアのフィリッポス2世である。ペロポネソス戦争とは相手も時期も異なる。
正解【①】
アは『雲』の風刺に沿う あ、イのペロポネソス戦争についての説明はXなので、①が正解です。
問2:正解 ②(解答番号16/配点3)
<問題要旨>
民主政期のアテネで起こった出来事について述べた2つの文あ・いの正誤の組合せを選ぶ設問です。
<考え方>
あは会話文の先生の説明に、いは古代アテネの民会の構成に戻せば決まります。アテネの民会に参加できたのは成年男性市民だけで、女性には参政権がありません。『女の議会』は女性が政治を動かすという、現実にはない設定を笑いにした喜劇です。
<選択肢>
あ【正】
会話文で先生は、敗北直後に生まれた寡頭政の政権にソクラテスの弟子たちが関わっていたことも判決に影響していたと述べている。民衆裁判を構成したアテネ市民の心情と結び付けられる。
い【誤】
当時のアテネで民会に参加できたのは成年男性市民のみで、女性は参加できなかった。現実を背景としているとするのは前提そのものの誤りである。
正解【②】
あが正、いが誤なので、②が正解です。
問3:正解 ③(解答番号17/配点3)
<問題要旨>
「中世」という言葉の由来と、中世を暗黒時代とみる見方についてまとめたノートを参考に、ペトラルカとヴォルテールについて述べた文として最も適当なものを選ぶ設問です。
<考え方>
2人が生きた時代と立場で切ります。ペトラルカは14世紀のイタリアで古典古代の文化を尊び、ラテン語の著作と『叙情詩集』などの詩を残した人物、ヴォルテールは18世紀フランスの啓蒙思想家で、ノートにあるとおり中世の野蛮さを教会の責任とみなして批判しました。時代の合わない語が混ぜられている選択肢を落とします。
<選択肢>
①【誤】
人間の個性や感情を重視するロマン主義は18世紀末から19世紀の思潮であり、14世紀のペトラルカには当てはまらない。時代の合わない語を混ぜた誤り。
②【誤】
ヴォルテールは18世紀フランスの啓蒙思想家である。エピクロス派はヘレニズム時代の哲学の学派で、2000年近く時代が離れている。
③【正】
ペトラルカは良質なラテン語文学をローマ文化の象徴として光とみなし、古典古代を高く評価した。自身も『叙情詩集』などの詩を残した詩人である。
④【誤】
「中間の時代」というラテン語の表現はルネサンス期に見られるもので、18世紀のヴォルテールが初めて用いたものではない。会話文の説明とも食い違う。
正解【③】
古代ローマ文化を高く評価し、自らも詩を作ったという③が正解です。
問4:正解 ②(解答番号18/配点3)
<問題要旨>
ノートを基に、中世の社会や文化の特徴について探究するための課題あ・いと、それぞれの課題を考察するための事例W〜Zの組合せとして最も適当なものを選ぶ設問です。
<考え方>
課題が学問と商業のどちらを問うているかで事例を割り当てます。学問の展開にはカロリング=ルネサンスで学芸を指導したアルクイン、商業の展開には北ドイツ諸都市の商業同盟であるハンザ同盟が対応します。残る2つはいずれも政治史の事例なので、課題に対応しません。
<選択肢>
あ(中世の学問)=W【正】
アルクインはカール大帝に招かれ、宮廷の学校でラテン語と古典の学習を指導した。カロリング=ルネサンスと呼ばれる学芸の復興は、「知的な暗さ」という見方を検討する材料になる。
い(中世の商業)=Z【正】
ハンザ同盟は北海・バルト海の交易を担った北ドイツ諸都市の商業同盟で、リューベックを盟主として14世紀に最盛期を迎えた。中世の商業の展開そのものを示す事例である。
X【誤】
シモン=ド=モンフォールは13世紀のイングランドで国王に対抗し、身分制議会を招集した人物である。政治史の事例であり、学問の展開の事例にならない。
Y【誤】
金印勅書は1356年に神聖ローマ皇帝カール4世が発した、七選帝侯による皇帝選挙を定めた文書である。政治制度の事例であり、商業の展開の事例にならない。
正解【②】
あにはW、いにはZが対応するので、②が正解です。
問5:正解 ③(解答番号19/配点3)
<問題要旨>
インド大反乱を「独立戦争」と捉える歴史書が1909年に書かれた時代背景について、下線部に関して述べた文のうち誤っているものを選ぶ設問です。
<考え方>
下線部が指すのは1909年前後、すなわち20世紀初頭にインド人の間で民族主義が高まっていた時期です。誤りを選ぶ設問なので、この時期に当てはまらないものを探します。年代を1つずつ当てていけば、30年以上ずれているものが浮かび上がります。
<選択肢>
①【正】
イギリスは1905年にベンガル分割令を公布し、ヒンドゥーとムスリムを分けることで民族運動の分断を図った。1909年に先立つ出来事で、時代背景に合う。
②【正】
国民会議では1906年から07年にかけて、穏健派に代わりティラクらの急進派が主導権を握った。この時期の民族主義の高まりを示す。
③【誤】
全インド=ムスリム連盟は1906年に結成されたが、ジンナーらがイスラーム国家の樹立を掲げたのは1940年のラホール大会である。1909年という時代背景から30年以上後の主張であり、時期の入れ替えによる誤り。
④【正】
1906年の国民会議カルカッタ大会で、英貨排斥・スワデーシ・スワラージ・民族教育の4綱領が採択された。スワラージを含む点も正しい。
正解【③】
ジンナーらによるイスラーム国家樹立の主張は1940年のことで時代背景に合わないので、誤っているものは③です。
問6:正解 ④(解答番号20/配点3)
<問題要旨>
インド大反乱の歴史とその解釈について3人の生徒が作成したメモの正誤を判定し、正しいメモの組合せを述べた文として最も適当なものを選ぶ設問です。メモが参照する1909年刊の歴史書(資料2)は問題冊子では省略されています。
<考え方>
判定の基準は会話文の先生の発言です。先生は、この本が反乱を植民地支配下のインド人が計画的に行った組織的な「独立戦争」と捉えていることと、昨今では突発的な反乱と計画的な独立戦争という2つの側面を持つダイナミックな運動として捉えるのが一般的であることを述べています。残る1つは反乱の経過そのものの知識で判定します。
<選択肢>
長野さんのメモ【正】
この歴史書は、反乱をインド人が計画的に行った組織的な独立戦争として描く民族主義的な解釈に立っている。イギリスの支配に対して人々が立場の違いを越えて結び付いた画期的な出来事とみる点は、著者の主張と重なる。
小島さんのメモ【正】
1857年に立ち上がったシパーヒーらはデリーに入り、ムガル皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立して戦った。反乱の経過として正しい。
森山さんのメモ【誤】
先生は、昨今では突発的な反乱と計画的な独立戦争という2つの側面を持つダイナミックな運動として捉えることが一般的だと述べている。突発的な反乱と捉えることが一般的だとするのは、会話文の結論を一方に寄せた誤りである。
正解【④】
長野さんと小島さんのメモが正しく、森山さんのメモが誤りなので、④が正解です。
第4問 世界史上の知識・情報の伝播(配点21)
世界史上における知識や情報の伝播をテーマに、グループごとに資料を持ち寄って検討する大問です。A(問1・問2)は14世紀に書かれた旅行記と歴史書の2点を突き合わせてトゥワイジンの移動を追い、B(問3・問4)は新井白石『西洋紀聞』のヨーロッパ情勢の記述、C(問5〜問7)はキプリングの小説と英領インドの鉄道網・電信網のグラフを扱います。
問1:正解 ③(解答番号21/配点3)
<問題要旨>
トンブクトゥにある墓について記した旅行記(資料1)と、マンサ=ムーサのために建物を建てた人物について記した歴史書(資料2)を読む会話文で、『大旅行記(三大陸周遊記)』の著者(ア)について述べた文として最も適当なものを選ぶ設問です。
<考え方>
『大旅行記(三大陸周遊記)』の著者はイブン=バットゥータです。モロッコのタンジールの出身で、メッカ巡礼を出発点にインドや中国をめぐり、さらにサハラを越えてマリ王国のトンブクトゥまで旅しました。選択肢は、旅の方向と身分で他の人物と区別します。
<選択肢>
①【誤】
フランス王ルイ9世の使節としてモンゴル高原へ向かったのはルブルクである。イスラーム世界の旅行家ではなく、人物の入れ替えによる誤り。
②【誤】
喜望峰を回ってインドに到達したのは1498年のヴァスコ=ダ=ガマである。14世紀に書かれた旅行記の著者とは時期も出身も異なる。
③【正】
イブン=バットゥータはモロッコのタンジールを出た後、メッカ巡礼を行い、インドや中国、さらにマリ王国まで旅して『大旅行記(三大陸周遊記)』を残した。
④【誤】
ムスリムの宦官でインド洋に遠征したのは明の鄭和である。永楽帝の命による南海諸国への遠征であり、旅行記の著者ではない。
正解【③】
『大旅行記(三大陸周遊記)』の著者はイブン=バットゥータで、故郷を出た後にメッカやインドを訪れたという③が正解です。
問2:正解 ①(解答番号22/配点3)
<問題要旨>
会話文の空欄(イ)に入る文あ・いと、地図上のトゥワイジンの埋葬地a〜cの組合せを選ぶ設問です。地図にはニジェール川の湾曲部付近のa、ナイル川の河口付近のb、紅海の東岸のcが示されています。
<考え方>
2つの資料を突き合わせます。資料2で、トゥワイジンはマンサ=ムーサのために漆喰を塗り固めた方形ドームの建物を建て、その地にはそれまでそうした建築の技法がなかったとされています。マンサ=ムーサはマリ王国の王なので、伝えたのは建築の技法です。埋葬地は、資料1でトゥワイジンの墓があるとされるトンブクトゥで、決め手はニジェール川の流路に沿う位置であることです。
<選択肢>
あ【正】
マンサ=ムーサはマリ王国の王で、トゥワイジンは彼のために漆喰で塗り固めた方形ドームの建物を建てた。その地にはそれまでそうした建築の技法がなかったとされるので、伝えたのは建築の技法である。
い【誤】
ソンガイ王国が栄えるのは15世紀から16世紀で、14世紀のマンサ=ムーサの時代と合わない。伝えたものも詩の技法ではなく建築の技法である。
a【正】
トゥワイジンの墓があるトンブクトゥは、ニジェール川が大きく北へ湾曲する地点の近くに位置するサハラ交易の中心都市である。ニジェール川の流路に沿う点はaだけである。
b【誤】
ナイル川の河口付近はアレクサンドリアにあたる。資料1でそこに墓があるとされるのは大商人スィラージュ=アッディーンで、トゥワイジンではない。
c【誤】
紅海の東岸はアラビア半島で、マンサ=ムーサがメッカ巡礼を行った方面にあたる。トゥワイジンはそこから随行して西アフリカへ戻る側なので、埋葬地にならない。
正解【①】
イには建築の技法を伝えたという あ、埋葬地はトンブクトゥのaが入るので、①が正解です。
問3:正解 ③(解答番号23/配点3)
<問題要旨>
新井白石が『西洋紀聞』に記したヨーロッパの情勢(資料3)で紹介されている戦争の背景や経緯について、最も適当なものを選ぶ設問です。資料3には、1700年のスペイン国王の死去と遺言をめぐる争いが記されています。
<考え方>
1700年のスペイン国王の死と、遺言でフランス国王の孫が後継者に指名されたことをめぐる争いなので、戦争はスペイン継承戦争(1701年から13年)です。資料3に登場するフランス国王は、孫を後継者としたルイ14世で、戦争の結果は1713年のユトレヒト条約で決まりました。国王を取り違える選択肢と、時期のずれた選択肢を落とします。
<選択肢>
①【誤】
宰相リシュリューを重用したのはルイ13世である。資料3に登場するフランス国王はその孫を後継者としたルイ14世で、王の入れ替えによる誤り。
②【誤】
サンスーシ宮殿を造営したのはプロイセンのフリードリヒ2世である。国も人物も異なり、ルイ14世が造営したのはヴェルサイユ宮殿である。
③【正】
1713年のユトレヒト条約でルイ14世の孫フェリペ5世の即位が認められ、スペインにブルボン家の王朝が成立した。フランスとの合同を禁じる条件が付けられた。
④【誤】
トラファルガーの海戦は1805年で、ナポレオン戦争の一場面である。1701年から13年のスペイン継承戦争とは100年近く離れており、時期の入れ替えによる誤り。
正解【③】
スペイン継承戦争の結果としてスペインにブルボン家の王朝が成立したという③が正解です。
問4:正解 ⑤(解答番号24/配点3)
<問題要旨>
会話文の空欄(ウ)に入る語あ・いと、その活動について述べた文X〜Zの組合せを選ぶ設問です。会話文では、その組織がイグナティウス=ロヨラらにより設立されたことが示されています。
<考え方>
設立者の名で組織が決まり、そのうえで活動の内容を選びます。イグナティウス=ロヨラらが1534年に結成したのはイエズス会で、フランチェスコ修道会は13世紀初めにアッシジのフランチェスコが創設した托鉢修道会です。イエズス会はカトリック改革(対抗宗教改革)の中で海外布教に力を入れ、ラテンアメリカやアジアへ宣教師を派遣しました。
<選択肢>
あ=フランチェスコ修道会【誤】
13世紀初めにアッシジのフランチェスコが創設した托鉢修道会であり、設立者が会話文の記述と合わない。
い=イエズス会【正】
1534年にイグナティウス=ロヨラやフランシスコ=ザビエルらによって結成された。会話文の設立者の記述と一致する。
X【誤】
南フランスのアルビジョワ十字軍は13世紀前半の出来事で、その後の異端審問に関わったのはドミニコ修道会である。16世紀に成立したイエズス会の活動にはなりえない。
Y【正】
イエズス会はカトリック改革(対抗宗教改革)の中で海外布教を担い、ラテンアメリカやアジアでキリスト教を広めた。日本に来たザビエルもその一員である。
Z【誤】
『坤輿万国全図』は明を訪れたマテオ=リッチが作製した世界地図である。清朝を訪れたブーヴェらが作製したのは『皇輿全覧図』で、地図の取り違えによる誤り。
正解【⑤】
ウはイエズス会で、その活動はカトリック改革の中でのラテンアメリカ布教なので、⑤が正解です。
問5:正解 ③(解答番号25/配点3)
<問題要旨>
キプリングの小説「スドゥーの家にて」のあらすじと背景をまとめたパネル、および英領インドにおける鉄道網と電信網の長さを1855年から1920年まで5年ごとに示したグラフから読み取れることについて、最も適当なものを選ぶ設問です。
<考え方>
グラフは目盛りの数値で判定します。電信網は1885年で約2万5000マイル、1895年で約4万4000マイル、1920年で約8万8000マイル。鉄道網は1895年で約2万マイル、1915年で約3万5000マイル、1920年で約3万7000マイルで、全期間を通じて電信網が鉄道網より長くなっています。パネルには1855年にはすでにペシャワールで電信が開通していたと書かれているので、これと出来事の年を突き合わせます。
<選択肢>
①【誤】
小説が初めて発表された1886年ごろの電信網は、1885年の点で約2万5000マイルにとどまる。5万マイルを超えるのは1895年の約4万4000マイルよりさらに後で、数値が合わない。
②【誤】
グラフでは全期間にわたって電信網の線が鉄道網の線より上にある。1920年でも電信網約8万8000マイルに対して鉄道網約3万7000マイルで、関係が逆になっている。
③【正】
パネルに1855年にはすでにペシャワールで電信が開通していたと書かれている。インド帝国が成立したのは1877年なので、その時点では開通済みである。
④【誤】
第一次世界大戦期の鉄道網は1915年で約3万5000マイル、1920年でも約3万7000マイルで、5万マイルには達していない。5万マイルを超えているのは電信網である。
正解【③】
1855年の電信開通とインド帝国成立(1877年)の前後関係から、③が正解です。
問6:正解 ①(解答番号26/配点3)
<問題要旨>
19世紀から20世紀初頭にイギリスとロシアとの間で展開したユーラシア大陸における勢力争いを指す語句(エ)の、具体的な事例として最も適当なものを選ぶ設問です。
<考え方>
空欄に入るのはグレート=ゲームで、条件は「イギリスとロシアの争い」であることと「19世紀から20世紀初頭」であることの2点です。選択肢を、関わった国の組合せと時期の両面から確かめれば絞れます。
<選択肢>
①【正】
イギリスは1838年から42年と1878年から80年の二度アフガニスタンに侵攻した。ロシアの南下に対抗してインドへの通路を確保しようとしたもので、英露の勢力争いの典型的な事例である。
②【誤】
第2次中東戦争(スエズ戦争、1956年)はイギリス・フランス・イスラエルがエジプトと戦ったもので、ロシアとの勢力争いではない。時期も20世紀半ばである。
③【誤】
ポーランド分割は1772年から95年にロシア・プロイセン・オーストリアが行ったものである。イギリスは加わっておらず、19世紀から20世紀初頭という時期にも合わない。
④【誤】
サン=ステファノ条約(1878年)はブルガリアの領土を大きく広げる内容で、これを縮小したのは同年のベルリン条約である。英露の対立が背景にある点は共通するが、条約の内容が逆になっている。
正解【①】
ロシアの南下に対抗した二度のアフガニスタン侵攻が具体的な事例になるので、①が正解です。
問7:正解 ③(解答番号27/配点3)
<問題要旨>
3つのグループの報告を聞いた生徒たちが、世界史上の情報や技術の伝播についてさらに調査するために考えた課題として、最も適当なものを選ぶ設問です。
<考え方>
課題の前提となっている事実が正しいかどうかで判定します。伝播の方向、世紀、地域の3点を確かめれば、前提が誤っているものが落ちます。前提が誤っていれば、その課題は調査として成り立ちません。
<選択肢>
①【誤】
タラス河畔の戦い(751年)を契機に製紙法が伝わったのは、唐からアッバース朝などイスラーム世界へである。伝播の方向が逆になっている。
②【誤】
インターネットの原型は20世紀後半のアメリカ合衆国で使われ始めた。21世紀に初めて使用されたとするのは時期の誤りである。
③【正】
17世紀から18世紀のロンドンでは、コーヒーハウスが新聞や情報をやりとりする場となり、商取引や世論の形成にも関わった。情報の伝播という主題に沿う課題として成り立つ。
④【誤】
ドンズー(東遊)運動はファン=ボイ=チャウらがベトナムで進めた日本への留学運動である。タイで活発化したとするのは地域の入れ替えによる誤り。
正解【③】
前提となる事実が正しいのはコーヒーハウスを扱う課題だけなので、③が正解です。
第5問 経済活動と社会の変化(配点18)
「経済活動と社会の変化」をテーマに、班ごとに発表の準備を進めるという枠組みの大問で、A・B・Cの区分はなく問1〜問5が並びます。問1は楽浪郡と中国商人(1班)、問2は北米の毛皮交易とアシニボイン族(2班)、問3はブルージーンズとカリフォルニアの人口(3班)、問4は17〜18世紀の東南アジアの交易(4班)を扱い、問5では東欧の穀物輸出と農奴制を示す先生のスライドが、どの班の内容と類似しているかを問います。
問1:正解 ③(解答番号28/配点3)
<問題要旨>
楽浪郡の人々の風習の変化を記した『漢書』地理志の一節(資料)と、朝鮮半島西北地域から出土した燕の貨幣についてのノート1が示され、空欄に入る貨幣の写真(ア)と、まとめの空欄に入る文(イ)の組合せを選ぶ設問です。写真あは問題冊子では省略されており、写真いの刀の形をした貨幣は示されています。
<考え方>
アは戦国時代の燕で用いられた貨幣の形で決まります。燕では刀を模した刀銭が鋳造され、反った刀身と柄の端の環という独特の形をしています。イは資料の語をそのまま使って判定します。資料は、商売で楽浪郡を往来するようになった漢の商人が夜ごと盗みを働くに及び、こうした良俗は次第に失われていったと述べており、直接支配がもたらした負の側面は風紀の乱れです。
<選択肢>
ア=あ【誤】
写真あは問題冊子では省略されています。燕の貨幣は刀を模した刀銭であり、その形を備えているのは写真いなので、アに入るのはいのほうです。
ア=い【正】
戦国時代の燕では、刀を模した刀銭が用いられた。反った刀身と柄の端に環があるという形は燕の刀銭の特徴で、朝鮮半島西北部からも出土している。
イ=X【正】
資料は、漢の商人が往来して盗みを働くようになり、決して盗まず戸締まりもしなかったという良俗が次第に失われたと述べている。伝統的な慣習に基づく社会風紀が乱れたという内容に対応する。
イ=Y【誤】
資料では商人が商売で楽浪郡を往来するようになったとされており、商品流通はむしろ活発になっている。停滞したとするのは資料の内容を逆にした誤りである。
正解【③】
アは刀銭の写真い、イは風紀の乱れを述べたXなので、③が正解です。
問2:正解 ③(解答番号29/配点4)
<問題要旨>
1750年頃の北米大陸を示した図1、18世紀から19世紀にかけてのアシニボイン族の居住地域の変化を示した図2、ハドソン湾会社と毛皮交易についてのノート2が示され、そこから読み取れる事柄や背景について述べた4つの文あ〜えのうち、正しいものの組合せを選ぶ設問です。図2は問題冊子では省略されています。
<考え方>
確実に判定できる文から順に落とします。うはノート2の記述でそのまま正しいと分かり、あはクックの太平洋探検の年で切れます。この2つが決まると、うを含みあを含まない組合せは1つしかないので、正解は確定します。いも、図1の斜線部がミシシッピ川以東の五大湖からセントローレンス川流域に及ぶフランスの勢力範囲であることと、1763年のパリ条約の内容で確かめられます。
<選択肢>
あ【誤】
ハドソン湾会社の設立は1670年で17世紀後半だが、クックの太平洋探検は1768年から79年の3回で18世紀後半である。約100年の時期の入れ替えによる誤り。
い【正】
図1の斜線部はミシシッピ川以東の五大湖からセントローレンス川流域に及ぶフランスの勢力範囲を示している。七年戦争を終結させた1763年のパリ条約で、イギリスはこの地域をフランスから獲得した。
う【正】
ノート2に、イギリス人はビーバーを捕獲する技術を持たなかったのでアシニボイン族ら先住民の仲買人と交易したと書かれている。毛皮の入手を先住民に依存していたと考えられる。
え【判定材料なし】
図2は問題冊子では省略されています。ノート2にはアシニボイン族がバッファローの多い南方に進出したとありますが、a・bのどちらが先の居住地域かは図2を見なければ決まりません。ただし、うが正しくあが誤りである以上、うを含みあを含まない組合せは1つしかないので、正解は確定します。
正解【③】
いと うが正しいので、③が正解です。
問3:正解 ④(解答番号30/配点4)
<問題要旨>
リーヴァイ=ストラウスの経歴とブルージーンズの製造開始までをまとめたノート3と、1850年から1900年までのカリフォルニアの人口を10年ごとに示したグラフから読み取れる事柄や、そこから考えられることについて最も適当なものを選ぶ設問です。
<考え方>
年と数値を並べて判定します。グラフのカリフォルニアの人口は1850年約9万人、1860年約38万人、1870年約56万人、1880年約86万人、1890年約121万人、1900年約149万人。ノート3の年は、生年1829年、渡米1847年、サンフランシスコでの会社設立1853年、ブルージーンズの製造販売開始1873年です。これらとアメリカ史の出来事の年を突き合わせます。
<選択肢>
①【誤】
カリフォルニアがアメリカ合衆国に割譲されたのは、1848年にアメリカ=メキシコ戦争を終結させたグアダルーペ=イダルゴ条約による。割譲した国はメキシコであって、スペインではない。
②【誤】
フロンティアの消滅が宣言されたのは1890年で、グラフのカリフォルニアの人口はこの年に約121万人である。100万人に達していなかったとするのは数値が合わない。
③【誤】
会社設立は1853年、日米修好通商条約の締結は1858年で、設立が条約より5年前である。後の出来事を動機とすることはできず、時期の前後が逆になっている。
④【正】
ホームステッド法は1862年、大陸横断鉄道の開通は1869年で、いずれも1873年の製造販売開始より前である。グラフでもカリフォルニアの人口は1860年の約38万人から1880年の約86万人へ増えており、西部の人口増と販路の拡大を見込んだという推測が成り立つ。
正解【④】
ホームステッド法と大陸横断鉄道開通による西部の人口増を背景と見る④が正解です。
問4:正解 ④(解答番号31/配点3)
<問題要旨>
17世紀と18世紀の東南アジア諸島部における輸出産品と交易の変化をまとめたパネルについて、オランダ東インド会社の交易拠点の名(ウ)と、まとめの空欄に入る文(エ)の組合せを選ぶ設問です。
<考え方>
ウはオランダ東インド会社の拠点で決まります。オランダ東インド会社は1619年にジャワ島にバタヴィアを建設し、アジア交易の本拠としました。エはパネルの記述をたどります。18世紀の中国市場向け産品は多くの地域で生産・収集が可能で、より多くの港で交易されるようになったとあるので、取引は集中から分散へ向かう方向です。
<選択肢>
ウ=バタヴィア【正】
オランダ東インド会社は1619年にジャワ島にバタヴィアを建設し、アジア交易の本拠とした。香辛料の生産と交易の独占を図り、流通を集中させた拠点である。
ウ=マニラ【誤】
マニラは1571年にスペインが築いたフィリピンの拠点で、アカプルコとの間の太平洋交易の結節点である。オランダ東インド会社の拠点ではなく、国の入れ替えによる誤り。
エ=様々な港に分散して行われるようになった【正】
パネルに、18世紀の中国市場向け産品は多くの地域で生産・収集が可能だったため、より多くの港で交易されるようになったと書かれている。17世紀の集中と対照的な変化である。
エ=一つの港に集中して行われるようになった【誤】
一つの拠点に流通を集中させたのは、17世紀にオランダ東インド会社が香辛料の独占を図った側の特徴である。17世紀と18世紀の特徴を入れ替えた誤り。
正解【④】
ウはバタヴィア、エは様々な港に分散して行われるようになったという内容なので、④が正解です。
問5:正解 ③(解答番号32/配点4)
<問題要旨>
16世紀以降の東欧の穀物輸出と農奴制の強化、ポーランド貴族のドニエプル川流域への進出、17世紀のコサックの反乱をまとめた先生のスライドが示され、その内容が各班のまとめた内容とどのように類似しているかについて述べた文として最も適当なものを選ぶ設問です。
<考え方>
まずスライドの筋道を1行にまとめます。西欧の穀物需要の高まりによる輸出の拡大が、穀物増産の必要から農奴制の強化を招き、領主支配への不満とコサックの反乱に至っています。つまり交易活動の拡大や変容が対立や混乱の原因になったという筋です。次に各班の内容を確かめると、1班は漢の商人の往来によって楽浪郡の良俗が失われたこと、2班は毛皮交易の変容によってアシニボイン族とダコタ=スー族ら南方の先住民との軍事的対立が増えたことを扱っています。
<選択肢>
①【誤】
スライドには穀物増産の必要性から農奴制は強化されたとあり、生産者に対する統制は弱まるどころか強まっている。読み取りの前半が逆になっている。
②【誤】
統制が弱まったという読み取りが誤りであるうえ、3班のブルージーンズと4班の東南アジアの交易は、いずれも対立や混乱を主題としていない。
③【正】
スライドは穀物輸出の拡大が農奴制の強化とコサックの反乱を招いた経過を示しており、交易活動の拡大や変容が対立や混乱の原因になったと読める。1班の楽浪郡での良俗の喪失と、2班のアシニボイン族と南方の先住民との軍事的対立の増加が、同じ筋道で説明できる。
④【誤】
スライドの読み取りは正しいが、対応させる班が誤り。3班は西部の人口増と販路の拡大、4班は交易の分散化を扱っており、対立や混乱を論じていない。
正解【③】
交易活動の拡大や変容が対立や混乱を生んだという読み取りと、1班・2班の内容が重なるので、③が正解です。
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