2025年度 大学入学共通テスト 追試験 歴史総合・世界史探求 解答・解説

2025年度 大学入学共通テスト 追試験「歴史総合・世界史探求」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。

目次
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解答

解説

2025年度(令和7年度)大学入学共通テスト追試験の「歴史総合,世界史探究」は、大問5題・設問32問、満点100点、試験時間60分です。配点は第1問25点、第2問21点、第3問17点、第4問19点、第5問18点で、解答番号は1から32まで、1設問が1解答番号に対応します。

第1問が歴史総合の範囲、第2問以降が世界史探究の範囲という構成です。第1問は「国際イベントとその影響」を主題に、19世紀の万国博覧会、20世紀前半の日本の博覧会と実現しなかった1940年の万博、アジア競技大会と夏季オリンピックの参加国・地域数を扱います。第2問は共和政ローマの内乱、百年戦争の終結時点、インドとパキスタンの分離独立。第3問は魔女裁判、17世紀アチェの女性君主、セネカ・フォールズの女性の権利大会。第4問は張騫の西域報告、アフリカの奴隷貿易、ロシア帝国と清朝の貿易。第5問は気候の寒冷化、清朝の貿易制限、ポーランドの蜂起、戦後フランスの和解を、班別学習の形で扱います。

この回は、知識だけで即答できる設問が少なく、示された資料・グラフ・表・地図を読み取ってから知識と突き合わせる設問が大半を占めます。とくに第2問問3の地図の年代配列、第4問問3の統計表、第4問問6のグラフは、塗り分けの細部や目盛りの単位を確かめないと選択肢を絞りきれません。年代配列と正誤の組合せは、選択肢を眺める前に各文の年代・地域・主体を確定させてから当てにいくのが確実です。「いずれの世紀においても」「開催されたことはなかった」のような言い切りは、反例を一つ探せば落とせます。

第1問 国際イベントとその影響(配点25)

歴史総合の授業で「国際イベントとその影響」という主題を立て、各班が調べた内容を発表する場面です。Aは19世紀の万国博覧会をめぐる生徒の会話とフランス人経済学者の資料、Bは20世紀前半の日本の博覧会をめぐる会話と1938年の新聞記事、Cはアジア競技大会・夏季オリンピック・国連加盟国数を並べたグラフと発表パネルを素材に、資料の読み取りと近現代史の知識を組み合わせて答えさせます。この第1問が歴史総合の範囲にあたります。

A 問1:正解 ①(解答番号1/配点3)

<問題要旨>

19世紀の万博について話し合う会話文の、二つの空欄を埋めさせる設問です。空欄アは1873年のウィーン万博を見学した岩倉使節団の派遣目的、空欄イは1889年と1900年のパリ万博の様子をまとめた一文で、その組合せを選びます。

<考え方>

アは岩倉使節団の派遣目的に戻れば決まります。1871年に出発した使節団は、不平等条約改正の予備交渉と欧米の制度・産業の視察を目的としていました。イは直前の渡辺さんの発言に戻ります。鉄製のエッフェル塔、きらびやかな電気館、地下鉄の開通、動く歩道と、当時の新技術ばかりが列挙されているので、それを一言でまとめる文を選びます。

<選択肢>

ア=不平等条約改正の予備交渉【正】

岩倉使節団は1871年に出発し、不平等条約改正の予備交渉と欧米視察を目的とした。1873年のウィーン万博を見学したという会話の時期とも一致する。

ア=パリ講和会議への出席【誤】

パリ講和会議は第一次世界大戦後の1919年で、1873年のウィーン万博より半世紀近くあと。時期の前後を取り違えた誤り。

イ=その時代の最先端の技術を公表する場であった【正】

直前でエッフェル塔・電気館・地下鉄・動く歩道が挙げられている。いずれも当時の新しい技術であり、会話をまとめる一文として成り立つ。

イ=参加国間の平和と安全を保障する場であった【誤】

会話に平和や安全保障の話題は出てこない。直後はむしろ植民地館やネイティブ・ビレッジの話に移り、帝国主義や植民地主義との関わりが語られる。会話にない内容へのすり替え。

正解【①】

アは岩倉使節団の派遣目的、イは直前で列挙された新技術をまとめた一文にあたるので、①の組合せになります。

A 問2:正解 ④(解答番号2/配点4)

<問題要旨>

19世紀末のフランス人経済学者ポール・ルロワボーリューが書いた資料1を示し、そこから読み取れる内容あ・いと、下線部「後進諸民族の教育や保護は、資本と文明に富んだ諸民族のなすべきことである」と同様の考えや背景があると推測される歴史的事象X・Yとの組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

資料1は近代世界を、西洋文明が支配する地域、自治を追求する住民の地域、統一的・進歩的な国民を形成していない停滞的な地域、野蛮で未開な諸民族の地域という四つに区分し、文明諸民族には第三・第四の諸民族に干渉する権利があると述べています。上下の序列づけそのものなので、あ・いはここで決まります。下線部は、進んだ側が遅れた側を指導してやるという「文明化の使命」の論理で、これを制度にしたのが第一次世界大戦後の委任統治です。

<選択肢>

あ 近代世界は、対等な関係に基づく多様な諸民族から構成されていると考えられていた【誤】

資料1は四つの地域を上下に並べ、文明諸民族が下位とされた諸民族に干渉する権利を持つとしている。対等どころか序列そのもので、資料の主張を逆に読んだ誤り。

い 近代世界の諸民族は、文明化の度合いに応じて序列化されていると考えられていた【正】

「西洋文明が支配している地域」から「野蛮で未開な諸民族が暮らす地域」までの四区分が、そのまま文明化の度合いによる序列になっている。

X 東南アジア諸国連合(ASEAN)の結成【誤】

1967年に結成されたASEANは、独立した主権国家どうしが対等な立場で結んだ地域協力機構。進んだ側が遅れた側を教育・保護するという発想とは無関係。

Y 日本による南洋諸島の委任統治【正】

委任統治は、まだ自立しえない人民を先進国が指導するという建前で第一次世界大戦後に設けられた制度。下線部の「後進諸民族の教育や保護」という論理と重なる。

正解【④】

資料1の四区分は諸民族の序列化の主張(い)であり、下線部の文明化の使命論と重なる事象は委任統治(Y)なので、④になります。

B 問3:正解 ②(解答番号3/配点3)

<問題要旨>

1922年に東京府が開いた平和記念東京博覧会の名称の由来を話し合う会話で、「このような時代の風潮は ウ という1920年代の国際情勢にも表れています」の空欄ウに入る文を選ばせる設問です。

<考え方>

会話の流れは、第一次世界大戦の教訓を踏まえて「平和記念」という名がついた、というものです。したがって空欄には、1920年代の出来事であり、かつ平和を志向する風潮を示すものが入ります。まず年代で絞り、残ったものを内容で切ります。

<選択肢>

①フランスとベルギーが、ルール地方を占領した【誤】

1923年の出来事で1920年代ではあるが、賠償支払いの遅れを理由とした武力占領であり、平和の風潮を示す例にはならない。時期は合っても内容が会話の流れと逆になる。

②不戦条約が結ばれた【正】

1928年のケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)は、国策の手段としての戦争を放棄することを約した取り決め。第一次世界大戦の教訓を踏まえた1920年代の平和の風潮そのものにあたる。

③ウィーン会議により、ナポレオン戦争前の国境線に戻された【誤】

1814年から15年の出来事で、1920年代の国際情勢ではない。時期の取り違え。

④独ソ不可侵条約が結ばれた【誤】

1939年8月の条約で1930年代末。しかも第二次世界大戦の開戦に直結したもので、平和の風潮の例にはならない。

正解【②】

1920年代で、かつ第一次世界大戦の教訓を踏まえた平和の風潮を示すのは不戦条約なので②です。

B 問4:正解 ⑤(解答番号4/配点3)

<問題要旨>

満洲で20世紀前半に起こった出来事Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に並べさせる配列問題です。

<考え方>

三つとも年が特定できる出来事なので、選択肢を見る前に一つずつ年代を確定させてから並べます。「軍閥指導者が奉天近郊で殺害された」「鉄道爆破事件に関する国際連盟の調査団」「旅順・大連の租借権がロシアから日本へ移った」が、それぞれどの事件を指すかを押さえるのがすべてです。

<選択肢>

Ⅲ 旅順・大連の租借権が、ロシアから日本へ移った【1番目=1905年】

日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で、ロシアが清から得ていた遼東半島南部(旅順・大連)の租借権が日本に譲渡された。

Ⅰ 満洲の軍閥指導者が、本拠地の奉天近郊で殺害された【2番目=1928年】

張作霖爆殺事件。関東軍が奉天郊外で張作霖の乗る列車を爆破した。

Ⅱ 鉄道爆破事件に関して、国際連盟の調査団が派遣された【3番目=1932年】

1931年の柳条湖事件(南満洲鉄道の線路爆破)を受けて、国際連盟がリットンを団長とする調査団を派遣した。

正解【⑤】

1905年、1928年、1932年の順になるので、Ⅲ―Ⅰ―Ⅱの⑤です。

B 問5:正解 ②(解答番号5/配点3)

<問題要旨>

1940年の万国博覧会の延期をめぐる海外の反響を伝える1938年の新聞記事(資料2)を示し、そこから読み取れる事柄や背景を述べた文あ〜えのうち、正しいものの組合せを選ばせる設問です。記事は、南米諸国と北欧諸国が中止・延期に反対し、英・米・独・仏・伊が延期に同意したことを伝えています。

<考え方>

記事の日付が1938年であること、延期に反対する側と同意する側それぞれの言い分を押さえるのが要点です。反対する側は「予定の1940年に不開催の場合は、かえって中国側の逆宣伝に利用される」と述べており、開催しないことこそ日本の不利益だという判断です。記事の冒頭部分は、外務省が諸外国への影響を重視していたことを伝えています。

<選択肢>

あ 延期に反対する国々は、この時点で日中戦争が始まっており、延期は日本の不利益になると考えていた【正】

南米・北欧諸国は、準備や海外宣伝を無視して不開催とすれば中国側の逆宣伝に利用されるとして開催を主張している。延期が日本の不利益になるという判断にあたり、1937年に始まった日中戦争のさなかの記事であることとも合う。

い 延期に同意する国々は、この時点で第二次世界大戦が開戦していたため、延期は日本の不利益にならないと考えていた【誤】

記事は1938年のもので、第二次世界大戦の開戦(1939年9月)より前。英・米・独・仏・伊が挙げている理由も「事変下の非常時」であって大戦ではない。時期の前後を取り違えた誤り。

う 万博の開催準備は終わっていたが、戦争の影響によって延期された【誤】

記事は「各種施設が出来上がらない今のうちに延期を決定するならば」と伝えており、準備は完了していない。事実の改変。

え 日本の外務省は、延期が外交問題になることを懸念していた【正】

冒頭に「外務省でも諸外国に対する影響を重視し、かねてより注目していた」とあり、在外の大使・公使から電報で各国の反応を集めている。

正解【②】

記事の記述に裏づけられるのはあとえなので、②(あ・え)になります。

C 問6:正解 ①(解答番号6/配点3)

<問題要旨>

アジア競技大会と夏季オリンピックの参加国・地域数を横棒で、国連加盟国数を折れ線で示したグラフを示し、そこから読み取れる変化あ・いと、その要因の一つと考えられる事柄X・Yとの組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

あ・いはそれぞれ期間を区切って、二つの系列の増減を同時に確かめます。1958年から1972年までは、国連加盟国数の折れ線も夏季オリンピックの棒も伸び続けています。1986年以降のアジア競技大会はソウル・北京・広島と続きますが、棒は順に長くなっており減っていません。読み取りが決まったら、その時期に合う要因を選びます。

<選択肢>

あ 1958年から1972年にかけて、国連加盟国数は増加している。同じ時期、夏季オリンピックの参加国・地域数も増加している【正】

折れ線は1958年の約85から1972年には約135まで上がり続け、夏季オリンピックの棒も1960年の約85から1972年の約120へ伸びている。どちらも増加している。

い 1986年以降、国連加盟国数は増加している。同じ時期、アジア競技大会の参加国・地域数は減少している【誤】

1986年ソウル、1990年北京、1994年広島とアジア競技大会の棒は順に長くなっており、減少していない。変化の向きを逆に読んだ誤り。

X 「アフリカの年」に、多数の独立国が生まれた【正】

1960年に17のアフリカ諸国が独立し、国連加盟国もオリンピックに参加する国・地域も一気に増えた。あの示す1958年から1972年の期間に含まれる。

Y ソ連の解体に伴って、多数の独立国が生まれた【誤】

ソ連の解体は1991年。1958年から1972年の増加の要因にはならず、あと組み合わせると時期が合わない。

正解【①】

グラフから正しく読み取れるのはあで、その時期の増加の要因は1960年の「アフリカの年」なので①です。

C 問7:正解 ④(解答番号7/配点3)

<問題要旨>

発表パネルの二つの空欄を埋めさせる設問です。空欄エは東西冷戦から距離を置こうとする考えを国際社会に示したもの、空欄オは1980年モスクワ夏季オリンピックのボイコットを招いた、ソ連がアフガニスタンに対して行った行動を指します。

<考え方>

エは「東西冷戦から距離を置く」という非同盟の立場を示すものなので、東側陣営そのものの組織ではありえません。1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で出された平和十原則が、主権の尊重と反植民地主義を掲げた非同盟の主張にあたります。オは1979年のソ連のアフガニスタン侵攻の性格を問うもので、親ソの社会主義政権を支えるための軍事介入でした。

<選択肢>

エ=計画経済を採る国々による、経済協力と地域分業を進める国際機構【誤】

コメコン(経済相互援助会議)を指す。ソ連を中心とする東側陣営の組織そのものであり、東西冷戦から距離を置く考えを示すものではない。立場を取り違えた誤り。

エ=主権の尊重、反植民地主義を謳う平和十原則が出された国際会議【正】

1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)。平和十原則は、米ソどちらの陣営にも属さない非同盟の立場を国際社会に示した。

オ=国際テロ組織を支援する政権壊滅を目的とした軍事介入【誤】

2001年にアメリカ合衆国が行ったアフガニスタン攻撃の説明。1980年のモスクワ大会ボイコットの原因とは時期も主体も異なる。

オ=社会主義政権の支援を目的とした軍事介入【正】

1979年、ソ連は親ソの社会主義政権を支えるためアフガニスタンに侵攻した。これを批判するアメリカ合衆国が主導してボイコットが起きた。

正解【④】

エはバンドン会議の平和十原則、オはソ連のアフガニスタン侵攻の性格を指すので、④の組合せになります。

C 問8:正解 ③(解答番号8/配点3)

<問題要旨>

グラフの開催年・開催都市の欄、参加国・地域数の棒、国連加盟国数の折れ線を踏まえて、パネルに加える内容として最も適当なものを選ばせる設問です。

<考え方>

四つとも、グラフの数値の大小か、年代の前後で機械的に判定できます。「〜を超えていた」は棒と折れ線の高さを比べ、「〜したことはなかった」は反例を一つ探します。言い切りの表現は反例が一つ見つかれば落とせます。

<選択肢>

①1976年の夏季オリンピックに参加した国や地域の数は、当時の国連加盟国数を超えていた【誤】

グラフで1976年の夏季オリンピックの棒は100に届いておらず、同じ時期の国連加盟国数の折れ線は140を超えている。大小関係が逆。

②パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)が結ばれる以前には、中東ではアジア競技大会が開催されたことはなかった【誤】

オスロ合意は1993年。グラフの開催都市欄に1974年のテヘランがあり、それ以前に中東での開催例がある。反例が一つ出るので落ちる。

③日中国交正常化以前には、東側陣営でアジア競技大会が開催されたことはなかった【正】

日中国交正常化は1972年。グラフの開催都市欄をたどると、それ以前は東京・ジャカルタ・バンコク・バンコクで、いずれも東側陣営ではない。東側陣営での開催は1990年の北京が最初である。

④アジア競技大会が、広島で開催された後に、中距離核戦力(INF)全廃条約が締結された【誤】

グラフのとおり広島大会は1994年、INF全廃条約の締結は1987年。前後が逆。

正解【③】

グラフの開催都市欄をたどると、1972年より前に東側陣営での開催は無く、③だけが成り立ちます。

第2問 国家の形成と対立(配点21)

世界史探究の授業で、国家の形成や発展の過程で生じる対立とその影響を、さまざまな資料から考察する場面です。Aは共和政ローマの出来事を記した三つの史料、Bは大陸におけるイングランド領を示した地図と百年戦争の終結時点をめぐる生徒の議論、Cは1946年にイギリスが示したインドの独立案を整理したスライドを素材にします。

A 問1:正解 ③(解答番号9/配点2)

<問題要旨>

ルビコン川を前に「賽を投げよ」と言った人物(空欄ア)の事績として最も適当なものを選ばせる設問です。会話文では、ガリア遠征で勢力を強め、内戦に勝って終身の独裁官となり、紀元前44年に暗殺され、『ガリア戦記』を書いた人物と説明されています。

<考え方>

空欄アはカエサルです。四つの選択肢はいずれもローマ史上よく知られた事績ですが、行った人物が別々なので、選択肢ごとに人物を当てれば決まります。

<選択肢>

①『ローマ法大全』の編纂を命じた【誤】

6世紀のビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世の事績。主体の入れ替え。

②帝国内の全自由民に、ローマ市民権を与えた【誤】

212年のアントニヌス勅令を出したカラカラ帝の事績。カエサルより250年以上あとのこと。

③ポンペイウス、クラッススとともに、第1回三頭政治を行った【正】

紀元前60年、カエサルはポンペイウス・クラッススと私的な政治同盟を結んだ。のちにポンペイウスと対立し、ルビコン渡河から内戦に入る。

④ミラノ勅令で、キリスト教を公認した【誤】

313年のコンスタンティヌス帝の事績。時期も人物も異なる。

正解【③】

アはカエサルであり、その事績にあたるのは第1回三頭政治なので③です。

A 問2:正解 ⑥(解答番号10/配点3)

<問題要旨>

共和政期のローマについて記した資料1〜3を、古いものから年代順に並べさせる設問です。資料1はルビコン川を前にした場面、資料2は兵員名簿への登録の話、資料3は同僚の護民官からの権限剥奪と三人委員の任命、そしてカピトリウムの丘から逃げ下ったところを撲殺された話です。

<考え方>

資料に年は書かれていないので、記述の中身から人物と事件を特定します。「同僚の護民官から権限を剥奪」「農地分配及び植民市建設担当の三人委員」「市民が血を流し剣を振るっても罰せられない最初の事件」はティベリウス・グラックス、「兵役を強く望む者は誰でも受け入れた」はマリウスの兵制改革、ルビコン渡河はカエサルです。

<選択肢>

資料3 護民官の権限剥奪と三人委員の任命、カピトリウムの丘からの逃走中の撲殺【1番目=紀元前133年】

ティベリウス・グラックスの護民官時代。末尾の「市民が血を流した最初の事件」という評価も、この事件が内乱の1世紀の出発点であることを示している。

資料2 先祖たちの流儀によらず、兵役を望む者を誰でも兵員名簿に登録した【2番目=紀元前107年頃】

マリウスの兵制改革。無産市民を志願兵として集める方式で、将軍と兵士の私的な結びつきを生んだ。

資料1 ルビコン川を前にして「賽を投げよ」と言い、川に向かって駆け出した【3番目=紀元前49年】

カエサルがガリアから軍を率いてルビコン川を渡り、ポンペイウスとの内戦を始めた場面。

正解【⑥】

紀元前133年、紀元前107年頃、紀元前49年の順になるので、資料3―資料2―資料1の⑥です。

B 問3:正解 ⑤(解答番号11/配点3)

<問題要旨>

大陸におけるイングランドの主な領土および勢力下にあった主な領域を示した地図Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に並べさせる設問です。地図には年は記されていません。

<考え方>

三つの地図で塗り分けが違うのは二か所、フランス南西部(ギエンヌ)の広さと、ドーヴァー海峡南岸のカレーの有無です。カレーがイングランド領になるのは1347年なので、カレーが塗られていない地図が最も古いと決まります。南西部だけが内陸まで広く塗られ北フランスに塗りが無い地図はブレティニー条約(1360年)の段階、北フランス一帯が塗られた地図はトロワ条約(1420年)後の段階で、会話文の「一時オルレアンの近くまで領土を広げている」がこれにあたります。

<選択肢>

Ⅲ 南西部の細長い沿岸部だけが塗られ、カレーに塗りが無い【1番目=百年戦争の開戦期(1337年頃)】

13世紀のパリ条約以来、大陸のイングランド領はボルドーからバイヨンヌにかけてのギエンヌに縮小していた。カレーはまだイングランド領ではない。

Ⅰ 南西部が内陸へ大きく広がり、カレーにも塗りがある【2番目=ブレティニー条約後(1360年頃)】

1347年にカレーを獲得し、1360年のブレティニー条約でアキテーヌの広大な領域を得た段階。北フランスには領土がない。

Ⅱ ノルマンディからパリ方面にかけての北フランス一帯が塗られ、南西部は細い帯で、カレーにも塗りがある【3番目=トロワ条約後(1420年代)】

1415年のアジャンクールの戦いに勝ち、1420年のトロワ条約でフランス王位の継承権を得て北フランスを支配した段階。1428年からのオルレアン包囲がこの時期にあたる。

正解【⑤】

カレーの塗り分けの有無と南西部の広さで時期が切れ、Ⅲ―Ⅰ―Ⅱの⑤になります。

B 問4:正解 ①(解答番号12/配点4)

<問題要旨>

百年戦争が終結したとされる年あ(1453年)・い(1558年)と、その根拠になると考えられる事象X〜Zとの組合せを選ばせる設問です。会話文には、1453年・1475年・1492年・1558年という四つの候補が挙がっています。

<考え方>

会話文が各年に結びつけている出来事をそのまま拾えば決まります。1453年はボルドーが陥落した年、1558年はフランス北部に残っていたイングランドの所領をフランスが取り戻した年です。Zの「フランス王を自称しなくなった」は、藤原さんの発言で1801年のこととされており、どちらの年の根拠にもなりません。

<選択肢>

あ=1453年 と X フランスの南西部から、イングランド勢力が追い出された【正】

キムさんが「この1453年にボルドーが陥落して百年戦争は終結したとされている」と述べている。ボルドーを含むギエンヌはフランス南西部にあたる。

い=1558年 と Y フランスがカレーを奪い、大陸からイングランド勢力を完全に排除した【正】

浜野さんが「フランス北部の所領は、1558年にフランスが取り戻している」「大陸からイングランドの勢力が完全に排除された」と述べている。フランス北部に残っていた所領がカレーである。

Z イングランド王が、フランス王を自称しなくなった【誤】

藤原さんの発言によれば、イングランド王がフランス王を自称するのは1801年まで続く。1453年とも1558年とも結びつかない。

正解【①】

1453年はボルドー陥落による南西部からの排除、1558年はカレー奪還による大陸からの完全排除にあたるので、あ―X、い―Yの①です。

B 問5:正解 ②(解答番号13/配点3)

<問題要旨>

生徒二人が他の戦争の終結理由を調べて作ったメモの正誤を判定させる設問です。キムさんはポエニ戦争の終結を百年戦争の1475年説と同じだとし、浜野さんはスペイン継承戦争の終結を1492年説と同じだとしています。

<考え方>

会話文で先生が説明した1475年と1492年の中身に戻るのが要点です。1475年は「ボルドー陥落以降、初めて戦争停止の条約が結ばれた」年で、終結の基準は条約によって戦闘を止めたことにあります。1492年は「改めて条約が結ばれ、両国の公式文書でヴァロワ家の君主がフランス王として記された」年で、終結の基準は条約によって王位の帰属が確定したことにあります。この二つの基準と、メモが挙げる戦争の終結理由が一致するかどうかを照らします。

<選択肢>

キムさんのメモ 3回目のポエニ戦争は、ローマがカルタゴを滅亡させて、終結したとされる。これは、百年戦争の終結を1475年とする考え方と同じである【誤】

第3回ポエニ戦争(紀元前149年から前146年)の終結理由は、一方の国家が滅んで戦う相手がいなくなったことであり、条約は結ばれていない。1475年説は条約による戦争停止を基準とするので、基準が食い違う。

浜野さんのメモ スペイン継承戦争は、ユトレヒト条約によってブルボン家の者のスペイン王位が認められて、終結したとされる。これは、百年戦争の終結を1492年とする考え方と同じである【正】

ユトレヒト条約(1713年)は、フェリペ5世のスペイン王位を条約で承認して戦争を終わらせたもの。1492年説も、条約によって王位の帰属が確定したことを終結の根拠とするので、基準が一致する。

正解【②】

条約によって王位の帰属が確定したという基準が一致する浜野さんのメモだけが正しいので②です。

C 問6:正解 ②(解答番号14/配点3)

<問題要旨>

1946年にイギリスが示した英領インドの独立案を整理したスライド(上段に統一連邦、中段にB地区・A地区・C地区、下段に諸州)をもとに、空欄イに入る国名と、空欄ウに入る語句との組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

会話文では、A地区の大部分を占める地域がインドとして、B地区とC地区の主なムスリム多数派地域がイに入る国として独立したとあります。離れた二つの地区のムスリム多数派地域が一つの国になったのだから、西と東の二つの領域からなる国です。ウは、新しい国がスライドのどの段の枠組みを基にしたかを問うもので、三つの地区が置かれているのは中段です。

<選択肢>

イ=パキスタン【正】

1947年にインドとパキスタンが分離独立した。パキスタンはインドの西と東に離れた二つの領域からなり、B地区とC地区のムスリム多数派地域という説明と合う。

イ=バングラデシュ【誤】

バングラデシュは1971年に東パキスタンがパキスタンから分離して成立した国で、1947年の分離独立の時点では存在しない。時期の取り違え。

ウ=中段【正】

スライドで諸州を束ねる三つの地区(A・B・C)が置かれているのは中段。インドはA地区、パキスタンはB地区とC地区という、中段の地区の枠組みを基に成立している。

ウ=上段【誤】

上段は外交・防衛などを担う統一連邦で、インド帝国を一つの国として独立させる案そのもの。受け入れられなかった枠組みなので、新たな国の基にはならない。

ウ=下段【誤】

下段は個々の州。インドもパキスタンも単一の州を基に成立したわけではない。

正解【②】

イはパキスタン、ウは三つの地区が置かれた中段なので②です。

C 問7:正解 ④(解答番号15/配点3)

<問題要旨>

生徒二人がインドを他の国と比較して分類を試みます。神田さんはV(ブラジル、カンボジア)とW(ガーナ)に、川原さんはX(ブラジル)とY(カンボジア、ガーナ)に分けています。インドがどちらに入るかを述べた文あ〜えから、正しいものの組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

分類の基準は選択肢の文に書かれているので、その基準を三つの国に当てはめて、どちらのグループが「あてはまる側」かを確かめます。ブラジルはポルトガルから1822年、カンボジアはフランスから1953年、ガーナはイギリスから1957年に独立しています。インドの独立は1947年です。

<選択肢>

あ 神田さんは、イギリスから独立した国家であるかどうかで分類したので、インドはVに入る【誤】

Vのブラジルはポルトガルから、カンボジアはフランスから独立しており、イギリスから独立したのはWのガーナだけ。インドもイギリスから独立したのでVには入らない。グループの取り違え。

い 神田さんは、イギリスから独立した国家であるかどうかで分類したので、インドはWに入る【正】

Wに入るガーナだけがイギリスから独立した国である。インドも1947年にイギリスから独立したのでWに入る。

う 川原さんは、第二次世界大戦終結後に独立したかどうかで分類したので、インドはXに入る【誤】

Xはブラジル一国で、その独立は1822年と第二次世界大戦の終結よりはるかに前。1947年独立のインドはこちらには入らない。

え 川原さんは、第二次世界大戦終結後に独立したかどうかで分類したので、インドはYに入る【正】

Yのカンボジアは1953年、ガーナは1957年の独立で、いずれも第二次世界大戦終結後。1947年独立のインドもこちら側に入る。

正解【④】

いとえが正しいので、④(い・え)になります。

第3問 世界史のなかの女性の地位(配点17)

世界史における女性の社会的地位について、三つの班が調査を行う場面です。Aは魔女裁判に関する二つの資料と生徒のレポート、Bは17世紀のアチェで女王が続いたことをめぐるメモと仮説、Cはセネカ・フォールズで開かれた「女性の権利のための大会」の記念プレートとメモを素材にします。

A 問1:正解 ①(解答番号16/配点2)

<問題要旨>

魔女裁判の背景をまとめたレポートの空欄アに入る文を選ばせる設問です。空欄は、『魔女への鉄槌』などの書物によって魔女のイメージが浸透した背景として、「〜結果、魔女に関する情報が広く流布した」という形でつながります。

<考え方>

空欄には、情報が大量に出回るようになった条件が入ります。『魔女への鉄槌』は15世紀末の書物で、魔女裁判が流行したのは16世紀以降なので、それに先立つか同時期の出来事でなければなりません。この二つの条件で絞ります。

<選択肢>

①活版印刷術の改良によって、大量の印刷物の作成が可能となった【正】

15世紀半ばのグーテンベルクによる活版印刷術の改良で、書物が安く大量に作れるようになった。『魔女への鉄槌』もこの技術によって各地に広まり、魔女のイメージが流布した。

②クレルモン教会会議で、聖地回復のための十字軍派遣が提唱された【誤】

1095年の出来事で、十字軍の開始にかかわるもの。魔女に関する情報が広く行き渡ったことの説明にならない。

③トマス・アクィナスによって、『神学大全』が著された【誤】

13世紀のスコラ学の大成で、神学の体系化にあたる。情報が大量に流布する条件とは関係がない。

④科学革命によって、自然科学の研究が進展した【誤】

17世紀の出来事で、16世紀以降の魔女裁判の流行の背景としては時期が遅い。内容の上でも、魔女のイメージを広めるのとは逆の方向に働く。

正解【①】

書物によるイメージの浸透を支えた条件は活版印刷術の改良なので①です。

A 問2:正解 ③(解答番号17/配点3)

<問題要旨>

1522年にルターが魔女について書いた資料1と、16世紀後半に南ドイツで行われた魔女裁判の概要を伝える資料2、および生徒のレポートをもとに、読み取れる事柄あ・いの正誤の組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

あは資料1、いは資料2とレポートに照らして判定します。資料1はルターが魔女をどう描いたか、資料2は被告がどのような人で何の嫌疑をかけられたかを見ます。レポートの「当時は出産だけでなく、子守りも主に女性の役割だった」「その頃の乳幼児死亡率は、現在と比べてとても高かった」という二文が、資料2と結びつく手がかりです。

<選択肢>

あ 宗教改革を進めたルターは、魔女を無害なものと捉えていた【誤】

資料1でルターは魔女を「悪魔の淫婦」と呼び、牛乳を盗み、人々を麻痺させ、揺り籠の子供を苦しめる存在として描いている。無害どころか害をなすものと捉えており、資料の内容を逆にした誤り。

い 出産や子守りといった、主に女性の役割とされていた領域で起こった不幸な出来事が魔術の結果と解釈され、魔女として告発される要因になった【正】

資料2のヴァルプルガは産婆として生活しており、40人以上の乳幼児殺害の嫌疑で裁かれている。レポートも、出産も子守りも主に女性の役割で、当時の乳幼児死亡率が非常に高かったと述べており、両者が結びつく。

正解【③】

あが誤、いが正なので③です。

B 問3:正解 ①(解答番号18/配点2)

<問題要旨>

東南アジアの地図中に示されたa〜dのうち、17世紀に女王が4代続いたアチェの位置として最も適当なものを選ばせる設問です。

<考え方>

アチェはスマトラ島の北西端にあり、マラッカ海峡の西の入口を扼する位置です。メモ1の「マラッカの陥落後、アチェはムスリム商人の主要寄港地となった」という記述も、ポルトガルの押さえたマラッカを避けた商人が立ち寄る位置にあることと対応しています。

<選択肢>

①a【正】

スマトラ島の北端にあたり、アチェの位置と一致する。マラッカ海峡の北西の入口を押さえる。

②b【誤】

マレー半島南部からシンガポール海峡にかけての位置で、マラッカやジョホールにあたる。1511年にポルトガルが占領したマラッカはこちら側で、アチェが商人を引き寄せる相手となった港である。

③c【誤】

ジャワ島中部。マタラム王国などが栄えた地域で、スマトラ島のアチェとは別。

④d【誤】

ルソン島。16世紀後半にスペインがマニラを建設した地域にあたる。

正解【①】

アチェはスマトラ島の北端に位置するので①です。

B 問4:正解 ④(解答番号19/配点4)

<問題要旨>

「アチェの貴族たちが女性君主を擁立し続けたのは、男性よりも劣位な存在とされていた女性をあえて君主に据えることで、君主権を弱い状態にとどめて、自分たちの権力を維持しようとしたからではないか」という仮説を示し、その根拠になると考えられる事象を、あ〜えのうちから二つ選ばせる設問です。

<考え方>

仮説を二つの前提に分解します。一つは「女性が男性より劣位とされていた」こと、もう一つは「貴族が自分たちの権力を維持できた」ことです。メモ1の「外来宗教の浸透が、男性優位の規範を強化する傾向にあった」と「君主や貴族層の権力の強化にとって、貿易の利益の掌握が大きな意味を持っていた」という二つの記述が、それぞれの前提を支える手がかりになります。

<選択肢>

あ アチェでは、イスラーム教の影響が弱かった【誤】

メモ1によれば男性優位の規範を強めたのは外来宗教の浸透である。影響が弱ければ女性が劣位とされる根拠にならず、仮説の前提を崩してしまう。アチェがムスリム商人の主要寄港地になったという記述とも合わない。

い アチェでは、イスラーム教の浸透が進んでいた【正】

外来宗教の浸透が男性優位の規範を強めたのだから、イスラーム教の浸透は女性が男性より劣位とされる状況を生む。仮説の第一の前提を支える。

う 君主が、交易の利益を掌握していた【誤】

貿易の利益を握った側の権力が強まるのだから、君主が掌握していれば君主権は強くなる。君主権を弱い状態にとどめたという仮説と逆になる。

え 貴族層が、交易の利益を掌握していた【正】

貴族層が貿易の利益を握っていれば貴族の権力が保たれる。自分たちの権力を維持しようとしたという仮説の第二の前提を支える。

正解【④】

イスラーム教の浸透(い)と貴族層による交易の利益の掌握(え)が仮説を支えるので④です。

C 問5:正解 ④(解答番号20/配点3)

<問題要旨>

1848年に開かれた「女性の権利のための大会」を記念したプレートの図と、生徒が作成したメモ2から読み取れる事柄あ・いと、プレートが設置された時期のアメリカ合衆国について述べた文X・Yとの組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

あ・いは図とメモ2の記述と突き合わせれば決まります。設置時期は、メモ2の「この記念プレートは、大会開催60周年の年に、会場跡に設置された」から、1848年に60を足して1908年と確定させます。年を出してからX・Yの時期を比べます。

<選択肢>

あ フレデリック・ダグラスは、奴隷制廃止運動を推進したが、女性参政権には反対した【誤】

プレートには、スタントンが女性の参政権獲得を求める決議案を提出し、ダグラスがこれに賛成したと記されている。賛成を反対に置き換えた誤り。

い エリザベス・ケイディ・スタントンは、女性であることを理由に、世界奴隷制反対大会への参加を拒否された【正】

メモ2に、1840年にロンドンで開かれた世界奴隷制反対大会に参加しようとしたが、女性であることを理由に拒否されたとある。

X 領土拡大に伴って西部開拓が盛んになり、最初の大陸横断鉄道が完成した【誤】

最初の大陸横断鉄道の完成は1869年で、プレートが設置された1908年より約40年前。時期が合わない。

Y 既に世界最大の工業国であり、独占の規制などの革新主義と呼ばれる諸改革が実施されていた【正】

アメリカ合衆国は19世紀末に世界最大の工業国となり、20世紀初めにはセオドア・ローズヴェルトらによる革新主義の改革が進められていた。1908年の状況にあたる。

正解【④】

読み取れるのはいで、1908年の合衆国を述べているのはYなので④です。

C 問6:正解 ②(解答番号21/配点3)

<問題要旨>

下線部「世界史上で最初の『女性の権利のための大会』」に関連して、19世紀のアメリカ合衆国における女性の活動について述べた文として最も適当なものを選ばせる設問です。

<考え方>

四人とも女性の活動家ですが、活動した国と時期が異なります。「19世紀」と「アメリカ合衆国」という二つの条件で絞れば一つに決まります。

<選択肢>

①オランプ・ド・グージュが、男女同権を主張した【誤】

フランス革命期のフランスで「女性および女性市民の権利宣言」を発表した人物。18世紀末のフランスでの活動で、国も時期も異なる。

②ストウが、『アンクル・トムの小屋』を著した【正】

1852年にアメリカ合衆国で刊行された、奴隷制を告発する小説。奴隷制廃止の世論を高めた、19世紀のアメリカ合衆国における女性の活動にあたる。

③ローザ・ルクセンブルクが、共産主義者による蜂起を指導した【誤】

1919年のドイツでスパルタクス団の蜂起を指導した人物。20世紀のドイツでの活動で、時期も国も異なる。

④ナイティンゲールが、クリミア戦争で傷病者の看護に従事した【誤】

19世紀の活動ではあるが、イギリス人であり、看護に従事したのはクリミア戦争(1853年から56年)の戦地。アメリカ合衆国における活動ではない。

正解【②】

19世紀のアメリカ合衆国での活動にあたるのはストウなので②です。

第4問 交易・貿易とその影響(配点19)

「世界史上の様々な交易・貿易とその影響」という主題について、複数の資料を基に考察する授業です。Aは前漢の張騫の報告と紀元前2世紀から前1世紀のアジアの地図、Bはアフリカから奴隷として連れ出された人数の推計表と1824年のイギリス人探検家の旅行記、Cはロシア帝国の対清朝貿易を示したグラフとメモを素材にします。

A 問1:正解 ①(解答番号22/配点2)

<問題要旨>

会話文に登場する皇帝、すなわち紀元前139年頃に張騫を大月氏へ派遣した皇帝の治世に起こった出来事について述べた文として、最も適当なものを選ばせる設問です。

<考え方>

張騫を大月氏に派遣したのは前漢の武帝です。四つの選択肢について、いつ・誰の時代の出来事かを確定させ、武帝の治世(紀元前141年から前87年)に収まるものを選びます。

<選択肢>

①南越が滅ぼされた【正】

紀元前111年、武帝は南越を滅ぼして南海9郡を置いた。武帝の治世の出来事にあたる。

②班固が、『漢書』を編纂した【誤】

『漢書』は後漢の班固の著作で、1世紀の成立。前漢の武帝の治世より200年近くあと。時期の前後を取り違えた誤り。

③商鞅による変法が行われた【誤】

戦国時代の秦の孝公のもとで行われた改革で、紀元前4世紀。前漢の成立よりも前である。

④呉楚七国の乱が起こった【誤】

紀元前154年、武帝の父にあたる景帝の治世の出来事。武帝の即位は紀元前141年なので、直前ではあるが治世には入らない。

正解【①】

張騫を派遣した皇帝は武帝で、その治世の出来事は南越の滅亡なので①です。

A 問2:正解 ③(解答番号23/配点3)

<問題要旨>

図には、長安から敦煌を経て大月氏・大夏国へ向かうaと、長安から蜀を経てチベット高原の南側を西へ向かうbの二つのルートが描かれています。張騫が皇帝に勧めたルートと、その理由との組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

資料1で張騫は「蜀から大夏国に向かう方が行きやすいと思います。それは、害をなす者もいないからです」と述べています。蜀を通るのは図のbです。「害をなす者」とは、張騫自身が往路と復路で捕らえられた匈奴を指します。もう一方の理由は、紀元前126年頃の漢がタリム盆地を支配していたかどうかを確かめれば切れます。

<選択肢>

a=長安から敦煌を経て西へ向かうルート【誤】

敦煌の西のタリム盆地は当時匈奴の勢力下にあり、張騫はこの方面で匈奴に捕らえられている。「害をなす者もいない」と述べて勧めたルートではない。

b=長安から蜀を経てチベット高原の南側を西へ向かうルート【正】

資料1の「蜀から大夏国に向かう方が行きやすい」に対応する。先生も「蜀を経由すれば容易に大夏国に到達できると誤解していた」と述べている。

あ 匈奴による妨害を避けることができると考えたから【正】

資料1の「害をなす者もいないからです」にあたる。北のルートでは匈奴に行く手を阻まれるが、蜀を経由する南のルートなら匈奴を避けられると考えた。

い 既にタリム盆地を支配していたので、安全が確保できると考えたから【誤】

張騫が帰国した紀元前126年頃、漢はまだタリム盆地を支配していない。西域都護が置かれるのは紀元前60年頃で、時期の前後を入れ替えた誤り。支配していたのなら、そもそも a のルートを避ける理由がなくなる。

正解【③】

張騫が勧めたのは蜀を経由するbで、理由は匈奴の妨害を避けられると考えたから(あ)なので③です。

B 問3:正解 ④(解答番号24/配点3)

<問題要旨>

16世紀から18世紀に、紅海・サハラ砂漠・東アフリカ・大西洋の各ルートを経てアフリカから連れ出された人数の推計と、各世紀に占める割合を示した表を示し、会話文の空欄アに入る文を選ばせる設問です。

<考え方>

表は単位が1000人で、括弧内の数値が各世紀の合計に占める割合です。まず世紀ごとの縦の列を見て、ルート間の大小を比べます。「いずれの世紀においても」のような言い切りは、反例となる世紀が一つでもあれば落ちます。また、あるルートが他の全ルートの合計を上回るかどうかは、残り三つを足すか、割合が50パーセントを超えるかで判定できます。

<選択肢>

①17世紀から18世紀にかけて、モガディシュなどのアフリカの内陸諸都市が発展したため、東アフリカの奴隷貿易の規模は拡大した【誤】

モガディシュは内陸都市ではなく、インド洋に面した海港都市である。事実の取り違え。

②マフディー運動の影響でスーダンへの火器の流入量が増大したため、18世紀になると、紅海を通じて連れ出された奴隷の数は急増した【誤】

マフディー運動は1880年代のスーダンで起こった運動で、18世紀の説明にはならない。表の紅海も16世紀100、17世紀100、18世紀200で、急増とはいえない。時期の前後を入れ替えた誤り。

③いずれの世紀においても、主に南北アメリカのプランテーションの労働力として、大西洋を通じて連れ出された奴隷の数が、他のルートを通じて連れ出された奴隷の数よりも多かった【誤】

16世紀の列を見ると大西洋は338で、サハラ砂漠の550を下回っている。「いずれの世紀においても」という言い切りに対して、16世紀が反例になる。

④サハラ砂漠を往来する交易では隊商が組織されたが、16世紀の時点では、サハラ砂漠を通じた奴隷貿易の規模が、他の全てのルートを通じた奴隷貿易の規模の合計よりも大きかった【正】

16世紀の列はサハラ砂漠が550で、残る三つのルートの合計は紅海100+東アフリカ100+大西洋338=538。割合で見てもサハラ砂漠は50.6パーセントで半数を超えており、他の合計を上回る。

正解【④】

16世紀はサハラ砂漠の550が他の三ルートの合計538を上回るので④です。

B 問4:正解 ①(解答番号25/配点4)

<問題要旨>

1824年に西アフリカのソコト・カリフ国を訪れたイギリスの探検家の旅行記(資料2)をもとに、会話文の空欄イ(イギリスが行っていたこと)と空欄ウ(当時のイギリスとその植民地の状況)に入る文の組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

イは資料2の記述そのものから決まります。ウは、イギリスの奴隷貿易禁止(1807年)と植民地における奴隷制廃止(1833年)という二つの年に戻り、資料の年である1824年がその間にあることを確かめます。会話の最後で「イギリスは、奴隷貿易と奴隷制を明確に区別していた」とまとめられているのも手がかりです。

<選択肢>

イ=大西洋を航行する奴隷貿易船の取締りを行っていた【正】

資料2は、イギリス王が「この貿易に従事する全ての船を拿捕し、その船員を投獄する」ことを目的として沿岸を巡視する大型船を派遣している、と述べている。

イ=解放された奴隷をリベリアに移住させていた【誤】

リベリアへの解放奴隷の移住を進めたのはアメリカ植民協会であってイギリスではない。資料2も、解放した奴隷に土地と家を与えるのは「アフリカにある我々の植民地の一つ」(シエラレオネ)だと述べている。主体の入れ替え。

ウ=奴隷貿易は禁止されていたのに、奴隷制は廃止されていなかった【正】

イギリスは1807年に奴隷貿易を禁止し、植民地の奴隷制を廃止したのは1833年。資料2の1824年はちょうどその間にあたる。

ウ=奴隷制は廃止されていたのに、奴隷貿易は禁止されていなかった【誤】

廃止と禁止の順序が逆。奴隷貿易が禁止されていないのなら、貿易船を拿捕して船員を投獄しているという資料2の記述とも噛み合わない。

正解【①】

資料2はイギリスによる奴隷貿易船の取締りを述べ、1824年は奴隷貿易の禁止後・奴隷制の廃止前にあたるので①です。

C 問5:正解 ②(解答番号26/配点3)

<問題要旨>

メモの空欄エに入る条約、すなわちグラフの示す時期にロシア帝国が清朝と結び、清朝北西側の境界を定めて貿易で有利な条件を得た条約が締結された時期と、二つの文Ⅰ・Ⅱとを、古いものから年代順に並べさせる設問です。

<考え方>

まず空欄エの条約を特定します。グラフの横軸は1850年代から1890年代で、この期間に清朝の北西側の境界を定め、ロシアが新疆などで通商上の有利な条件を得たのはイリ条約(1881年)です。Ⅰ・Ⅱはそれぞれ年代が定まる出来事なので、三つを年表の上に並べれば決まります。

<選択肢>

Ⅰ 清朝は、ジュンガルを滅ぼして、イリ地方に支配の拠点を築いた【1番目=18世紀半ば】

乾隆帝が1758年から59年にかけてジュンガルを滅ぼし、東トルキスタンを新疆として支配下に置いた。

エ 清朝北西側の境界を定めた条約【2番目=1881年】

イリ条約。ロシアはイリ地方の大部分を清朝に返す代わりに境界を画定し、新疆やモンゴルでの通商上の有利な条件を得た。グラフの示す1850年代から1890年代に含まれる。

Ⅱ ロシア帝国は、遼東半島の鉄道利権の一部を他国に譲渡した【3番目=1905年】

日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で、ロシアは長春以南の鉄道と旅順・大連の租借権を日本に譲った。

正解【②】

18世紀半ば、1881年、1905年の順になるので、Ⅰ― エ ―Ⅱの②です。

C 問6:正解 ②(解答番号27/配点4)

<問題要旨>

ロシア帝国の対清朝貿易を10年平均で示したグラフ、すなわち清朝からの輸入総額・清朝への輸出総額・清朝への毛皮および皮革輸出額の三本の棒を1850年代から1890年代まで並べたグラフから読み取れる事柄あ・いと、ロシア帝国や清朝の勢力範囲に関わる事象X・Yとの組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

最初に単位を確かめます。グラフの単位は1万紙幣ルーブルなので、縦軸の目盛りの数字そのものが金額ではありません。目盛りの3000は3000万紙幣ルーブル、目盛りの500は500万紙幣ルーブルにあたります。あは、すべての年代で輸入総額の棒が輸出総額の棒より高いかを確かめ、差が最大になる年代でその差が目盛りのいくつになるかを見ます。いは、毛皮・皮革の棒が増えているか減っているかと、目盛りの500に届くかどうかの両方を見ます。

<選択肢>

あ 19世紀後半のロシア帝国と清朝との間の貿易は、常にロシア帝国側の赤字であった。赤字幅は、多い時期には10年平均で3000万紙幣ルーブルを超えた【正】

1850年代から1890年代までどの年代も、清朝からの輸入総額の棒が清朝への輸出総額の棒より高い。差が最大になる1890年代は輸入が約4200、輸出が約570で、差は約3600。単位が1万紙幣ルーブルなので約3600万紙幣ルーブルとなり、3000万を超える。

い 19世紀後半に、ロシア帝国から清朝への毛皮・皮革輸出が拡大し、輸出額は10年平均で500万紙幣ルーブルを超えることもあった【誤】

毛皮・皮革輸出額の棒は1850年代の約130が最も高く、以後は下がり続けて1890年代には約50になる。拡大していないうえ、500万紙幣ルーブルにあたる目盛りの500には一度も達していない。単位を読み飛ばして目盛りの数値をそのまま万単位と取り違えないこと。

X ロシア帝国とイギリスは、英露協商で、朝鮮での勢力範囲を定めた【誤】

1907年の英露協商が勢力範囲を定めたのはイラン・アフガニスタン・チベットであり、朝鮮は対象ではない。地域のすり替え。

Y 清朝は、理藩院を通じて、モンゴルやチベットを統轄した【正】

清朝は藩部としたモンゴル・青海・チベット・新疆を理藩院に管轄させ、間接的に統治した。ロシア帝国と境界を接した地域の統治のしくみにあたる。

正解【②】

グラフから正しく読み取れるのはあで、勢力範囲についての正しい説明はYなので②です。

第5問 人々が直面した困難と危機(配点18)

人々が直面した困難や危機について四つの班が班別学習を行い、最後に先生が新たな資料を示すという構成です。1班は16世紀から17世紀の寒冷化を描いた絵画とオスマン帝国の年代記、2班は17世紀の清朝の貿易制限を伝える記録、3班はロシア帝国支配下のポーランドで起きた蜂起をまとめたパネル、4班は戦後フランスの和解をめぐる会話を扱います。この大問にはA〜Cの区分はありません。

問1:正解 ②(解答番号28/配点4)

<問題要旨>

1565年に描かれたブリューゲルの絵画「鳥罠のある冬景色」(図)と、1621年にボスフォラス海峡が凍結したことを伝えるオスマン帝国の年代記(資料1)をもとに、パネル1の空欄ア(絵画が描いた人々)と空欄イ(海が凍った結果生じた困難)に入るものの組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

アは図そのものを見て判断します。雪に埋もれた村の家並みと、凍った川の氷上で遊ぶ人々が描かれており、宮殿や宮廷の場面ではありません。イは資料1の因果関係を押さえます。資料1は「この飢饉が生じた原因は、海が凍結したことでイスタンブルに船が近づけず、食糧を搬入できなくなったからである」と原因をはっきり書いています。

<選択肢>

ア=農民や民衆【正】

図は雪の積もった村落と、凍った川で遊ぶ人々を描いた作品。ブリューゲルは農民や民衆の生活を主題とした画家として知られる。パネル1も「図に描かれた人々は氷上で楽しそうに遊んでいる」とし、フランドル地方の厳しい生活に触れている。

ア=王室や宮廷【誤】

図に宮殿や宮廷の人物は描かれておらず、主題は村の家並みと氷上の人々である。絵の内容と合わない。

イ=交通網が麻痺し、物流が滞る【正】

資料1は、海が凍ってイスタンブルに船が近づけず食糧を搬入できなくなったこと、その結果として飢饉と物価騰貴が起きたことを述べている。海上交通の途絶と物流の停滞にあたる。

イ=軍隊を動かせず、反乱を鎮圧できない【誤】

資料1に反乱やその鎮圧の話は出てこない。述べられているのは船の往来が絶たれたことと、それによる飢饉・物価騰貴である。資料にない内容へのすり替え。

正解【②】

アは絵の主題である農民や民衆、イは資料1が述べる海上交通の途絶と物流の停滞なので②です。

問2:正解 ①(解答番号29/配点3)

<問題要旨>

穀物も布も安いのに買えず、取引するための現金がないために商品が売れないという当時の記録(資料2)と生徒のメモをもとに、空欄ウ(康熙帝が厳しい貿易制限を行った相手)について述べた文あ・いと、空欄エに入る語句X・Yとの組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

ウは、康熙帝が貿易制限(遷界令)によって締め上げようとした相手を思い出せば決まります。エは、メモの「銀を輸入に依存していた清朝では、貿易が停止することで」という条件から考えます。銀を貨幣として使う社会で銀の流入が止まれば何が起こるかを、資料2の「取引するための現金がないからである」という一文と結びつけます。

<選択肢>

あ 台湾に拠点を置いて、日本や中国、東南アジアを結ぶ交易を行った【正】

鄭成功とその一族を指す。清朝は鄭氏台湾を孤立させるため、康熙帝の時代に沿海の住民を内陸へ移す遷界令を出し、海上貿易を厳しく制限した。

い マドラスやカルカッタを拠点とし、中国にアヘンを輸出した【誤】

イギリス東インド会社の説明で、中国へのアヘン輸出が本格化するのは18世紀末から19世紀。17世紀の康熙帝が戦った相手ではない。時期の前後を入れ替えた誤り。

X 貨幣の供給が減少【正】

清朝は銀を貨幣として使い、その銀を輸入に頼っていた。貿易が止まれば銀の流入が減り、流通する貨幣が不足する。資料2の「取引するための現金がない」「まとまった現金を一度も見かけない」という記述と一致し、物価の下落にもつながる。

Y 商品の供給が増加【誤】

資料2は、穀物も布も安いのに買えず、商品が売れずに棚ざらしになっていると述べている。問題は商品が増えたことではなく、買うための現金が無いことである。原因と結果を取り違えた誤り。

正解【①】

ウは台湾を拠点とした鄭氏(あ)、エは銀の流入が止まったことによる貨幣供給の減少(X)なので①です。

問3:正解 ④(解答番号30/配点4)

<問題要旨>

ロシア帝国支配下のポーランドで1863年に起きた蜂起を扱うパネル2をもとに、空欄オ(1861年に農奴解放令を発布した皇帝)と空欄カ(1864年にポーランド王国に向けて出された農奴解放令の性格)に入るものの組合せを選ばせる設問です。パネル2には、1861年の農奴解放令の要点と蜂起側の宣言の要点を並べた表が添えられています。

<考え方>

オは1861年の農奴解放令という一点で決まります。カはパネル2の表の対比を使います。1861年令は農民に領主への補償金の支払いを課しますが、蜂起側の宣言は補償なしで即座に土地所有者にするとしています。1864年令は補償負担を課さないので、内容は1861年令ではなく蜂起側の宣言に近く、蜂起のさなかに農民を蜂起から引き離すために出されたと読めます。

<選択肢>

オ=アレクサンドル2世【正】

クリミア戦争の敗北を受けてロシア帝国の近代化に着手し、1861年に農奴解放令を発布した皇帝である。

オ=ヨーゼフ2世【誤】

18世紀後半のオーストリアの啓蒙専制君主で、1781年に農奴解放令を出した人物。国も時期も異なる。主体の入れ替え。

カ=ロシア皇帝が蜂起に対抗する過程【正】

1864年令は領主への補償負担を課さずに農民を土地所有者にするもので、蜂起側の宣言に近い条件になっている。蜂起を支持しかねない農民を引き離すために、皇帝が譲歩して出したと読める。

カ=1861年の農奴解放令と同じ内容【誤】

パネル2の表のとおり、1861年令は農民に領主への補償金の支払いを課すが、1864年令は補償負担を課さない。内容が異なるので成り立たない。

正解【④】

オはアレクサンドル2世、カは蜂起に対抗するなかで出された譲歩という性格なので④です。

問4:正解 ③(解答番号31/配点3)

<問題要旨>

第二次世界大戦中にナチス・ドイツに併合されたアルザス地方と、そこで強制的に徴発された人々「マルグレ・ヌ」をめぐる会話をもとに、空欄キに入る語句あ・いと、会話文から読み取れる事柄X・Yとの組合せを選ばせる設問です。

<考え方>

キは、アルザス地方がフランスに復帰した経緯を問うものです。アルザス・ロレーヌはプロイセン・フランス戦争の結果ドイツ領となり、第一次世界大戦の結果フランスに戻りました。X・Yは会話文の発言と照らし合わせるだけで決まります。

<選択肢>

あ プロイセン・フランス戦争【誤】

1870年から71年のこの戦争の結果、アルザス・ロレーヌはフランスからドイツへ割譲された。フランスに復帰した経緯とは逆で、因果の逆転にあたる。

い 第一次世界大戦【正】

第一次世界大戦でドイツが敗れ、ヴェルサイユ条約によってアルザス・ロレーヌはフランスに返還された。そのうえで第二次世界大戦中にナチス・ドイツが併合した、という会話の流れと合う。

X 「マルグレ・ヌ」とは、第二次世界大戦中に、ドイツ軍によって強制的に徴発されたアルザス地方の人々のことである【正】

野田さんが「ナチス・ドイツに強制的に徴発されたこの地方の人々は、『マルグレ・ヌ(意に反して)』と呼ばれます」と述べており、会話文の記述と一致する。

Y 第二次世界大戦後に出されたこの恩赦は、オラドゥール村の人々に配慮したものであった【誤】

三浦さんは「これは、アルザスの住民の心情に沿った判断でしたが、オラドゥール村の人々は納得しませんでした」と述べている。配慮した相手が入れ替わっている。

正解【③】

キは第一次世界大戦(い)、会話文から読み取れるのはXなので③です。

問5:正解 ③(解答番号32/配点4)

<問題要旨>

先生が新たに示した資料3から読み取れる事例が、各班の取り上げた事例のどれと類似しているかを選ばせる設問です。資料3はアメリカ独立宣言の一部で、注に「現在のイギリス国王」がジョージ3世であることが示されています。

<考え方>

まず資料3が訴えている困難を一言でまとめます。「現在のイギリス国王の歴史は、諸邦の上に絶対的な専制を樹立することを直接の目的として、権利侵害と簒奪とを繰り返し行ってきた歴史にほかならない」とあり、本国という大国の支配のもとで生じた政治的な危機です。そのうえで、1班は気候の寒冷化と飢饉、2班は貿易制限による物価の下落、3班はロシア帝国支配下のポーランドの蜂起、4班は戦後フランスの和解と、各班が扱った困難の型を並べて照合します。

<選択肢>

①気候変動によって食糧危機が起こった点で、1班の事例に類似していると考えられる【誤】

1班は寒冷化と飢饉を扱ったが、資料3に気候や食糧の話は出てこない。訴えているのは国王による専制である。

②デフレーションが経済危機をもたらした点で、2班の事例に類似していると考えられる【誤】

2班は貿易制限による銀の不足と物価の下落を扱ったが、資料3は経済的な困難を述べていない。

③大国の支配によって政治危機が起こった点で、3班の事例に類似していると考えられる【正】

資料3はイギリス国王による専制と権利侵害を告発し、そうした政府を改変あるいは廃止する権利があると述べている。ロシア帝国の支配下で農奴解放令が適用されず不満が高まり蜂起に至ったポーランドの事例と、大国の支配のもとで生じた政治的危機という点で重なる。

④戦争をめぐる歴史認識の違いが和解を困難にしている点で、4班の事例に類似していると考えられる【誤】

4班はオラドゥール村と「マルグレ・ヌ」をめぐる戦後の和解の難しさを扱ったが、資料3は独立を宣言する文書で、戦後の和解や歴史認識の問題は扱っていない。

正解【③】

資料3はアメリカ独立宣言で、本国イギリスの支配による政治的危機を訴えているので、ポーランドを扱った3班の事例と類似する③です。

※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

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