2026年度 大学入学共通テスト 本試験 歴史総合・世界史探求 解答・解説

2026年度 大学入学共通テスト 本試験「歴史総合・世界史探求」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。

目次

解答

解説

「歴史総合,世界史探究」は大問5題・全問必答、設問数32問、満点100点、試験時間60分です。配点は第1問25点・第2問21点・第3問18点・第4問18点・第5問18点で、第1問は8問、第2問は7問、第3問と第4問は各6問、第5問は5問という構成になっています。なお第1問は「歴史総合」(「地理総合,歴史総合,公共」の歴史総合分野)の第2問と同一の問題で、リード文・図版・グラフ・パネル・選択肢の文言まで共通しています。

扱う範囲は、第1問が近現代における都市の変容(第二帝政期パリの都市改造と江戸・東京の近代化、サイゴン・京城・香港という植民地都市の住民構成)、第2問が世界史上の法のあり方とその運用(唐代の律と白居易の模擬問答、13世紀北フランスの慣習法と農奴、19世紀末東アフリカのイスラーム法廷、古代ローマのコロヌスに関する法)、第3問が歴史に触れるきっかけと歴史を伝える手段(フランス革命を描いたマンガ、史書と絵画・風刺画、カザフスタンの記念像)、第4問が歴史上の「帝国」のあり方(ローマの「インペリウム」、ムガル帝国のグジャラート、スペイン帝国とキューバ独立)、第5問が税制度と社会変容(明清時代の銀納と納税代行、オスマン帝国の徴税請負、リストの関税論、第二次世界大戦直後の通商協定、元代の商税)です。

用語の知識だけで即答できる設問は多くありません。柱になるのは、図表の目盛りから数値を出して選択肢の言い切りを検算する設問(パリの住み分け、公定歩合と住宅着工戸数、三都市の住民構成、カザフスタンの人口)、出来事の年代を一つずつ確定してから並べる配列問題、そして史料のどの一文が根拠になるかを特定する史料問題です。地図問題では「どこが塗られているか」ではなく「どこが塗られていないか」で時代が決まる形が出ており、誤答の作り方は時期の前後・主体の入れ替え・因果の逆転・似た語句のすり替えという型にほぼ集約されます。読み取りの方向を一度誤ると選択肢が2つに絞れてしまうため、図と本文のどちらが何を示しているかを最初に決めてから選択肢に向かうのが安全です。

第1問 近現代における都市の変容(配点25)

「近現代における都市の変容」を主題とする班別学習の報告という枠組みで構成されています。Aは第二帝政期パリの都市改造と江戸・東京の近代化を、集合住宅の図版・地区別の階層分布図・パネル・グラフで比較する内容、Bは植民地化されたアジアの都市(サイゴン・京城・香港)を取り上げ、会話文・地図・円グラフから住民構成と都市の性格を読み取らせる内容です。

問1:正解 ④(解答番号1/配点3)

<問題要旨>

19世紀前半のパリの集合住宅を階ごとに描いた図版と、1872年のパリで地区ごとの社会階層の構成を円グラフで示した分布図、そしてそれらをまとめたノートが与えられます。ここから読み取れる事柄やその背景について述べた文として、最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

二つの図が示す「住み分け」の軸が入れ替わっていることに気づけば決まります。集合住宅の図版は、同じ建物の中で2階・3階が間取りも広く調度も豪華、4階・5階は狭く調度も少ないという上下の差を描いており、これは建物内での垂直的な住み分けです。一方1872年の分布図は、地区ごとに労働者層・中間層・富裕層の構成が異なることを示しており、こちらは地域的な住み分けにあたります。ノートは都市改造の結果として前者のあり方が「次第に姿を消していった」と述べているので、変化の方向は垂直的から地域的へ。背景は19世紀半ばに進んだ工業化であり、高度情報化社会は20世紀後半以降の現象なので当てはまりません。

<選択肢>

①【誤】

変化の方向(地域的から垂直的へ)が逆であるうえ、背景を「高度情報化社会が成立するなかで」としている点も時期が合いません。高度情報化社会は20世紀後半以降の現象で、19世紀半ばの都市改造の背景にはなりえません。

②【誤】

変化の方向(垂直的から地域的へ)は正しいのですが、背景を「高度情報化社会が成立するなかで」としているのが時期の誤りです。

③【誤】

背景の「工業化が進展するなかで」は正しいのですが、変化の方向が逆です。集合住宅の図版が示すのが垂直的な住み分け、1872年の分布図が示すのが地域的な住み分けであり、姿を消していったのは前者です。

④【正】

工業化が進むなかで、同一建物内の上下による住み分け(垂直的)から、地区ごとの住み分け(地域的)へ移行した、という二つの図とノートの読み取りに一致します。

正解【④】

集合住宅の図版が垂直的な住み分け、1872年の分布図が地域的な住み分けを示しており、姿を消したのが前者だと押さえれば変化の方向が確定します。

問2:正解 ②(解答番号2/配点3)

<問題要旨>

ノート中に登場する「フランス皇帝」が在位している間に起こった、フランスの対外関係上の出来事について述べた二つの文の正誤の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

まず「フランス皇帝」がだれかを確定します。19世紀半ば以降に積極的な対外政策とともにパリの大規模な都市改造を主導したのはナポレオン3世で、在位は1852年から1870年までです。あとは二つの文が述べる出来事の年代を一つずつ確定し、この範囲に収まるかどうかで判定します。長州藩への報復砲撃は1863年から1864年、イギリス・ロシアと結んでオスマン帝国領の分割を取り決めた協定は第一次世界大戦中の1916年です。

<選択肢>

あ【正】

1863年に長州藩が下関海峡で外国船を砲撃したことへの報復として、フランスは砲撃と陸戦隊の上陸を行いました。翌1864年の四国艦隊下関砲撃事件にも、イギリス・アメリカ合衆国・オランダとともに加わっています。いずれもナポレオン3世の在位中の出来事です。

い【誤】

イギリス・フランス・ロシアがオスマン帝国領の分割を取り決めたのはサイクス=ピコ協定(1916年)で、ナポレオン3世の退位(1870年)より半世紀近く後のことです。時期の前後による誤りです。

正解【②】

皇帝をナポレオン3世(在位1852〜1870年)と特定し、1863〜64年の下関砲撃は在位中、1916年の協定は在位後と年代で切り分けます。

問3:正解 ④(解答番号3/配点3)

<問題要旨>

江戸・東京における都市構造の変化を、江戸の状況・旧町人地での文明開化・旧武家地での都市計画・郊外の宅地化という4項目でまとめたパネルが与えられます。その中の四つの下線部から、誤っているものを選ぶ設問です。

<考え方>

下線部が指す事象の時期をひとつずつ確定するのが最短です。郊外に建てられた文化住宅は、和風の住まいに洋風の応接間を組み込んだ住宅で、都市の中間層が郊外へ移り住んだ大正期(1920年代)に広まったものです。日露戦争(1904〜05年)までにはまだ現れていません。残る三つは、物資の輸送路、煉瓦街の建設時期と場所、鹿鳴館の目的と立地のいずれも実態に合っています。

<選択肢>

①【正】

18世紀に人口100万人を超えた江戸へは、大坂から江戸へ向かう南海路の菱垣廻船・樽廻船や、東北地方から太平洋を回る東廻り航路によって、各地の物資が運ばれていました。

②【正】

1872年の大火の後、東京では銀座に煉瓦街が建設され、文明開化の象徴となりました。そうした動向が旧町人地の中でもごく一部の地域に限られたという記述も実態に合っています。

③【正】

鹿鳴館は1883年に旧武家地に建てられ、欧米諸国との条約改正の実現をねらう欧化政策の一環でした。市区改正という都市計画事業で道路が整備され、旧武家地の都市化が進んだという記述も正しいです。

④【誤】

文化住宅が郊外に広まるのは大正期(1920年代)で、日露戦争(1904〜05年)までではありません。時期を前にずらした誤りです。

正解【④】

文化住宅は大正期の郊外住宅であり、「日露戦争までに」という時期の指定が誤っています。

問4:正解 ③(解答番号4/配点3)

<問題要旨>

公定歩合(日本銀行が市中銀行に貸し出す際の金利)と東京都の新規住宅着工戸数を、1955年から2000年まで重ねて示したグラフが与えられます。そこから読み取れる事柄二つと、その背景の説明二つとの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

二本の線をどちらの軸で読むのかを先に決めます。実線が公定歩合で右側の%の目盛り、破線が新規住宅着工戸数で左側の千戸の目盛りです。左の250と右の10が同じ高さに並んでいるので、実線の高さを25で割れば%に直せます。実際、1955年の実線は180の高さ、すなわち7%台で、1995年以降は12前後の高さ、すなわち0.5%前後と読めます。この読み方で1970年代を追うと、1971〜72年は公定歩合が下がる一方で着工戸数は増えて22万戸台の山をつくり、1973〜74年は公定歩合が9%まで上がる一方で着工戸数は12万戸前後まで落ちています。つまり両者は逆向きに動いており、「同じ向きに変化した」は成り立ちません。1990年代は公定歩合が6%前後から0.5%前後まで下がり続けるのに対し、着工戸数は15万〜17万戸で横ばいです。背景は、地価・株価の急落から始まる低成長期が1990年代、「列島改造」を掲げた内閣の公共投資が1970年代前半の話だという時期の区別で決まります。

<選択肢>

あ【誤】

1970年代は、公定歩合が下がると着工戸数が増え、公定歩合が9%まで上がると着工戸数が12万戸前後まで落ちるという逆向きの動きになっています。「同じ向きに変化した」は読み取りとして成り立ちません。

い【正】

1990年代は、実線の公定歩合が6%前後から0.5%前後まで下がり続けるのに対し、破線の着工戸数は15万〜17万戸の幅で横ばいのまま推移しています。金利が下がっても着工が伸びなかったという読み取りです。

X【正】

地価や株価の急落による低成長期、いわゆる平成不況は1990年代の状況です。金利を下げても住宅着工が伸びない背景として、読み取り「い」に対応します。

Y【誤】

「列島改造」を掲げた内閣が公共投資を拡大したのは1970年代前半で、1990年代の横ばいの背景にはなりません。時期のずれによる誤りです。

正解【③】

1990年代に公定歩合が下がっても着工戸数が伸びなかったという読み取り「い」に、低成長期という背景Xが対応します。

問5:正解 ③(解答番号5/配点3)

<問題要旨>

「東南アジア各地は、ヨーロッパ諸国によって植民地化されています」という発言の下線部について述べた文として、最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

選択肢ごとに、宗主国と植民地の対応、そして品物や人の流れの向きを確かめます。ビルマは3度のビルマ戦争を経て1886年にイギリスに併合され、英領インドの一部として統治されました。残る三つは、貿易の流れの向き、拠点をおいた国、独立を保った国のいずれかが入れ替えられています。

<選択肢>

①【誤】

オランダが強制栽培制度でインドネシアに導入したのは、コーヒーやサトウキビなどを本国へ輸出するための単一栽培でした。「オランダから輸入される農産品への依存」では流れの向きが逆になります。

②【誤】

マラッカを拠点としたのはポルトガル、続いてオランダ、さらにイギリスで、スペインではありません。スペインがアジアで拠点としたのはマニラです。主体の入れ替えによる誤りです。

③【正】

ビルマはビルマ戦争の結果1886年にイギリスに併合され、英領インドの一部として植民地統治を受けました。

④【誤】

英仏植民地の緩衝地帯として独立を保ったのはタイ(シャム)です。カンボジアは1863年にフランスの保護国となり、のちにフランス領インドシナに編入されています。主体の入れ替えによる誤りです。

正解【③】

ビルマが英領インドに組み込まれたという対応が正しく、ほかは貿易の向きや宗主国・独立国が入れ替えられています。

問6:正解 ①(解答番号6/配点3)

<問題要旨>

1930年代半ばの京城(現ソウル)の中心部を示した地図と、人口構成・地名の付け方・総督府の建物についての説明を並べたパネルが与えられます。これに関して述べた四つの文について、正しいものの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

地図の中央を東西に流れる河川を境に、南北で地名の型と人口構成が分かれていることを押さえます。パネルは、朝鮮人が多い居住地には朝鮮式の「洞」、日本人が多く居住する地区には日本式の「町」の名称が使われたと述べ、1936年の日本人の割合を南部52%、北部8.7%と示しています。地図では河川の南側に日本式の町名と日本の百貨店の支店が並び、北側には「洞」の地名と、王宮の敷地内に新しく建てられた総督府があります。年代の判定は、三・一独立運動が1919年、政府開発援助(ODA)が第二次世界大戦後の枠組みであることから機械的に決まります。

<選択肢>

あ【正】

地図では河川の南側に日本式の町名が並び、日本の百貨店の支店も置かれています。日本人が多く居住する地区には日本式の「町」の名称が使われたというパネルの説明とも一致します。

い【誤】

総督府の建物が新たに建てられたのは王宮の敷地内、すなわち河川の北側で、日本人の割合が8.7%の地域です。移転前の建物が南側にあったのですから、移転先は日本人住民の割合が小さい地域になります。割合の大小を取り違えた誤りです。

う【正】

三・一独立運動は1919年で、1930年代半ばはその後の時期にあたります。

え【誤】

政府開発援助(ODA)による援助は第二次世界大戦後の枠組みで、1930年代半ばには存在しません。時期の誤りです。

正解【①】

河川の南側に日本式の地名と百貨店が見えること、1930年代半ばが三・一独立運動より後であることの二つが成り立ちます。

問7:正解 ②(解答番号7/配点3)

<問題要旨>

第二次世界大戦後の香港の経済発展を支えた背景として、1950年代に着目してまとめたノートが与えられます。ノート中の二つの空欄に入る語句の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

一つめの空欄は「中国の人民義勇軍が介入した」戦争を問うものです。人民義勇軍が参戦したのは朝鮮戦争で、1950年のことです。二つめの空欄はノート全体の結論にあたるので、ノートが挙げている事実を数えます。ノートは、人口が1945年8月の60万人から1955年の250万人へ急増したことと、繊維製品やプラスチック製品を生産する労働集約型製造業が発展したことを挙げており、豊富な労働力が発展を支えたという筋になります。重工業への優先投資はノートのどこにも出てきません。

<選択肢>

ア=朝鮮戦争【正】

人民義勇軍が介入したのは1950年の朝鮮戦争です。これを受けてアメリカ合衆国がイギリスに対中貿易の停止を求め、香港と中国との貿易が途絶えたという流れもノートに合います。ベトナム戦争が本格化するのは1960年代以降で、1950年代に着目するノートの枠組みと合いません。

イ=周辺からの労働力の流入【正】

ノートが挙げているのは人口の急増と、繊維・プラスチックという労働集約型製造業の発展です。安価で豊富な労働力の流入が発展を支えたという結論になります。「重工業への優先投資」は資本集約型の産業の話で、ノートの記述とは方向が逆です。

正解【②】

人民義勇軍の介入から朝鮮戦争を、人口の急増と労働集約型製造業の発展から労働力の流入を選びます。

問8:正解 ②(解答番号8/配点4)

<問題要旨>

1880年代のサイゴン、1930年代の京城、1950年代の香港の住民構成を示す三つの円グラフが与えられ、どのグラフがどの都市にあたるかを推定した二つのメモが示されます。それぞれのメモの正誤について述べた文として、最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

三つの円グラフの数値と、会話文・ノート・パネルが示す数値を突き合わせます。1936年の京城は人口約68万人のうち日本人が約13万人で、割合にすると19%前後。これは宗主国の人が18.7%を占めるグラフに対応します。香港については、1931年の調査で非中国人が人口全体の約3%にとどまり、その後も内戦から逃れた中国人が流入して人口が急増しているのですから、現地の人の割合は減っていません。現地の人が98.1%を占めるグラフが1950年代の香港にあたります。残る一つ、華僑・華人が38.2%を占めるグラフがサイゴンで、華僑・華人が植民地官僚や商人であったフランス人より多かったという会話文の指摘とも一致します。

<選択肢>

メモ1【誤】

宗主国の人が18.7%を占めるグラフは、1936年の京城(人口約68万人のうち日本人約13万人で19%前後)に対応します。また香港では1931年に非中国人が約3%にとどまり、その後も中国からの流入で人口が急増しているので、現地の人が占める割合が1931年より減少しているという前提そのものが成り立ちません。もっともらしい理由づけが実際とは逆向きになっています。

メモ2【正】

華僑・華人が38.2%で宗主国の人7.9%を上回るグラフは、華僑・華人の方が主に植民地官僚と商人であったフランス人よりも多かったという1889年のサイゴンの人口構成に一致します。残る二つのグラフに華僑・華人の区分がないことも根拠になります。

正解【②】

宗主国の人18.7%が京城、現地の人98.1%が香港、華僑・華人38.2%がサイゴンという対応が数値から決まり、メモ2だけが正しいことになります。

第2問 世界史上の法のあり方とその運用(配点21)

「世界史上における様々な法のあり方とその運用」をテーマにした班別学習という枠組みです。Aは唐代の夜間通行に関する法と白居易が自作した裁判の模擬問答、Bは13世紀北フランスの『ボヴェジの慣習法』から見る中世農村と農奴の立場、Cは19世紀末の東アフリカ・ブラヴァでカーディーが司った法廷の記録とアフリカ分割の地図を扱い、最後に古代ローマのコロヌスに関する法を各班の学習内容と結びつけます。

問1:正解 ④(解答番号9/配点3)

<問題要旨>

夜間の通行を禁じ違反者への処分を定めた唐代の法(資料1)と、それに基づいて白居易が作成した裁判の模擬問答(資料2)が与えられます。資料1が何の一部であるかと、資料2の「答」に見られる白居易の考えとの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

唐の法体系では、罪と刑罰を定めるのが「律」、行政上のきまりを定めるのが「令」です。資料1は夜間に通行した者をむち打ち20回とするという刑を定めているので「律」にあたります。白居易の考えは「答」の結び方で決まります。「答」は、甲が公務への尽力ばかりを考えてその時間を考えることにうかつであったと述べ、朝廷への参内は色が識別できる時刻に行い夜間通行禁止の規則に従うべきだと結んでいますから、甲の釈明を正当な理由とは認めていません。

<選択肢>

ア=律【正】

資料1は夜間通行という行為とそれに対する刑罰を定めており、罪と刑を規定する「律」にあたります。行政上のきまりを定める「令」には刑罰の規定は置かれません。会話文が「違反した場合の処分を定めています」と述べていることが直接の手がかりです。

Y(甲の釈明は正当ではなく、夜間の通行禁止に違反する)【正】

「答」は甲が時刻に無配慮であったことを責め、参内は色が識別できる時刻に行うべきだと結んでいます。資料1の「公務で急ぐ時」という免責の条件を、白居易はこの事案には当てはめていません。Xのように釈明を正当と認めたのであれば、こうした結論にはなりません。

正解【④】

刑罰を定める資料1は「律」の一部であり、白居易は甲の釈明を正当と認めず、夜間の通行禁止に違反するとみています。

問2:正解 ③(解答番号10/配点3)

<問題要旨>

会話文を参考にしつつ、唐代の官僚の特徴について述べた文として最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

会話文が手がかりを置いています。先生は、当時の官僚には儒学の知識や詩文の素養だけでなく判決文の作成能力なども要求されたと述べ、韓愈や柳宗元がそのような点を評価されて官僚になった人々だと言っています。この二人は駢文を退けて古文の復興を唱えた文人であり、その活動は唐代の出来事です。残る選択肢は、いずれも王朝がずれています。

<選択肢>

①【誤】

文治主義を掲げ文人官僚が政治の中心を担ったのは宋です。唐では節度使など武人の力も大きく、文治主義の語は当てはまりません。時代の入れ替えによる誤りです。

②【誤】

封建制の下で世襲の諸侯が政治を担ったのは周です。唐は科挙と律令に支えられた官僚制の王朝です。

③【正】

韓愈・柳宗元は儒学の教養を身につけた官僚であり、古文の復興を主張しました。会話文がこの二人を挙げていることが直接の手がかりになります。

④【誤】

中央アジアや西アジア出身の色目人が財政面で用いられたのは元です。唐にこの身分区分はありません。

正解【③】

会話文に挙げられた韓愈・柳宗元が、古文復興を唱えた儒学の教養をもつ官僚であることから決まります。

問3:正解 ①(解答番号11/配点3)

<問題要旨>

13世紀北フランスの慣習法から、麦を播種すべき土地や牧草地・囲い地・森の利用時期を定めた条文(資料3)が与えられます。11世紀頃からの農村のあり方を述べた空欄に入る文と、「新しい農具が普及し、耕地利用の仕方が変わっていった」ことの根拠が表現されている図との組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

資料3は、麦の播種地や牧草地・森について、誰がいつ立ち入れるかを村全体のきまりとして定めています。個々の農民が自由に使うのではなく、村の取り決めに従って耕作地や牧草地を共同で利用する姿であり、三圃制の下での開放耕地に対応します。大地主が村の共有地を囲い込んで大農場にするのは近世以降のイギリスで進んだ動きなので、11世紀頃の説明にはなりません。図の方は、牛が車輪のついた犂を引いて深く耕す場面を描いたものが重量有輪犂の普及を表しており、収穫後の落穂を拾う農婦を描いた19世紀の絵画は農具の変化を示しません。

<選択肢>

あ(耕作地や牧草地が共同で利用されていた)【正】

資料3が村全体のきまりとして立ち入りの時期や禁区を定めていることは、耕作地や牧草地が共同で利用されていたことの現れです。三圃制の下での開放耕地の姿に対応します。

い(大地主が村の共有地を手に入れ、大農場にしていた)【誤】

共有地を囲い込んで大農場にするのは近世以降のイギリスで進んだ動きです。11世紀頃から農村で見られた状況の説明としては時期が合いません。

X(牛が有輪犂を引いて耕す図)【正】

車輪のついた犂を牛に引かせて深く耕す場面であり、重量有輪犂という新しい農具の普及を示します。耕地利用の仕方が変わっていったことの根拠になります。

Y(落穂を拾う農婦を描いた絵画)【誤】

収穫後の落穂拾いを描いた19世紀の絵画で、農具の普及や耕地利用の変化とは結びつきません。

正解【①】

共同利用を定めた資料3から「あ」、重量有輪犂を描いた図からXが決まります。

問4:正解 ③(解答番号12/配点3)

<問題要旨>

ボヴェジの農奴が、慣習で定められた貢納の義務を果たす限りにおいて、領主の裁判権の及ばない所へ奉仕に行き移り住むこともできると述べた条文(資料4)が与えられます。中世ヨーロッパの農奴について述べた文として最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

一般的な説明と資料の内容を二段構えで確かめます。荘園の農奴は領主に人格的に従属し、移住の自由を持たないのが教科書的な説明です。一方で資料4は、貢納の義務を果たすという条件付きで移り住むことを認めています。したがって「一般には移住の自由がなかったとされるが、この地方では条件付きで認められていた」という組み立てになります。会話文で「授業で学んだ荘園における農奴の立場とは、異なる立場が見て取れる」と言われていることも、この方向を裏づけます。

<選択肢>

①【誤】

荘園の農奴に移住の自由があったという前提が誤りです。農奴は領主の土地に縛られ、移動には領主の許可が必要でした。

②【誤】

前提が誤っているうえ、資料4の読み取りも逆です。資料4は条件付きで移り住むことができると述べています。

③【正】

荘園の農奴は移住の自由を持たないのが一般的な説明であり、資料4は貢納の義務を果たす限りにおいてという条件付きで移住を認めています。会話文が資料4に「異なる立場」を見て取っていることとも合います。

④【誤】

前提は正しいものの、資料4から移住の自由がなかったと読むのは誤りです。資料4は移り住むことができると明記しています。

正解【③】

一般の農奴像と資料4の内容が食い違うという構図をつかめば決まります。

問5:正解 ⑤(解答番号13/配点3)

<問題要旨>

エチオピア周辺の植民地をa・b・cで塗り分けた地図と、その解説パネルが与えられます。aをフランス領とした上で、bとcにあたる国名の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

地図上の位置と実際の植民地の配置を照らし合わせます。aは紅海がアデン湾へ抜ける出口にあたる小さな領域で、フランス領ソマリランド(現在のジブチ)です。bは紅海沿岸のエリトリアと、ブラヴァを含む東側の長い海岸地帯の二か所に分かれており、この両方を領有したのはイタリアです。cはエチオピアの西方(スーダン)、aの東隣(英領ソマリランド)、南方(英領東アフリカ)の三か所に分かれており、イギリス領です。さらにパネルは、資料6に出てくる領事の国、ブラヴァの位置する地域を保護領としていた国、そして地図のbを同じ記号で示しているので、この三つが同じ国になるかを確かめると確認が取れます。

<選択肢>

ウ=イタリア【正】

紅海沿岸のエリトリアと、ブラヴァを含む東海岸のイタリア領ソマリランドを領有したのはイタリアです。ブラヴァに領事を置いていた国、ブラヴァの位置する地域を保護領としていた国も同じイタリアで、パネルの三つの空欄が無理なく整合します。

エ=イギリス【正】

エチオピア西方のスーダン、アデン湾に面する英領ソマリランド、南方の英領東アフリカはいずれもイギリス領で、地図上で三か所に分かれて現れるcに対応します。ドイツが東アフリカで領有したのは地図の範囲より南の地域なので、エには入りません。

正解【⑤】

紅海沿岸と東海岸の二か所を持つbがイタリア、三方に分かれるcがイギリスと決まります。

問6:正解 ③(解答番号14/配点3)

<問題要旨>

ブラヴァのカーディーが司った法廷の記録二点、すなわち住民間の金銭をめぐる係争の判決(資料5)と、領事による家屋購入を証明する記録(資料6)が与えられます。この法廷の運用についてまとめた二つのメモの正誤について、最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

記録のどの一文が根拠になるかを特定します。金銭の係争の記録は、原告側の2人の証人が「私」(カーディー)の面前で証言し、その証言が承認された結果、被告に支払いを命じる判決が下されたという流れを述べています。もう一点の記録は、宗主国の領事による購入をムスリム5人が証言し、末尾に『クルアーン』の一節が定型表現として引かれています。いずれもイスラーム法に基づく裁定の手続きであり、宗主国の法律によるものではありません。

<選択肢>

メモ1【正】

金銭の係争の記録では、2人の証人の証言が承認されたことを受けて支払いを命じる判決が下されています。証人の証言が判決の根拠にされていたと読み取れます。

メモ2【正】

カーディーはイスラーム法に基づいて裁定を下す裁判官であり、宗主国の領事が関わる家屋の売買についても、ムスリムの証言と『クルアーン』の定型表現を用いた文書が作られています。宗主国の法律ではなくシャリーアに則した運用です。

正解【③】

証人の証言が判決の根拠とされ、宗主国の領事が当事者となる取引もシャリーアの手続きで処理されているので、二つとも正しいことになります。

問7:正解 ②(解答番号15/配点3)

<問題要旨>

他人の権利に属するコロヌスを原籍地に還すことを命じ、逃亡をもくろむコロヌス自身は鉄鎖で奴隷の状態へ縛り付けるのが適当だと定めた古代ローマの法(資料7)が与えられます。この法を発布した皇帝の名と、「農業に従事した人々への制約」を比較できる班との組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

皇帝は、コロヌスを土地に縛りつけてその地位を法的に固定しようとした政策から特定します。小作人であるコロヌスの移動を禁じて原籍地に固定したのはコンスタンティヌス帝で、カラカラ帝は帝国内の全自由民にローマ市民権を与えた皇帝であり、コロヌスの緊縛とは別の政策です。比較対象の班は、テーマの重なりで決まります。農業に従事した人々の移動や義務を扱ったのは、慣習法から農奴の立場を読み取った班です。

<選択肢>

オ=コンスタンティヌス【正】

コロヌスを原籍地に固定し、その地位を法的に確定させようとしたのはコンスタンティヌス帝です。カラカラ帝の代表的な立法は全自由民へのローマ市民権付与であり、コロヌスの土地緊縛とは内容が異なります。似た時期の皇帝名を入れ替える型の選択肢です。

カ=2班【正】

資料7は農業に従事するコロヌスの移動を制限する法であり、貢納の義務と移住の可否を扱った『ボヴェジの慣習法』を調べた班の学習内容と比べられます。唐代の夜間通行を扱った班、ブラヴァの法廷を扱った班は、いずれも農業に従事した人々への制約を扱っていません。

正解【②】

コロヌスの土地緊縛はコンスタンティヌス帝の立法で、比較できるのは中世の農奴を扱った2班です。

第3問 歴史に触れるきっかけと歴史を伝える手段(配点18)

生徒たちが、歴史に触れるきっかけや歴史を伝える手段について考えるという枠組みです。Aはフランス革命を描いたマンガをめぐる放課後の会話、Bは文字・絵画・風刺画といった媒体と発信者の意図についての教室でのやり取り、Cはカザフスタンの都市アルマティに立つ女性兵士像を調べたパネルを扱います。

問1:正解 ④(解答番号16/配点3)

<問題要旨>

「武器を!」と呼びかけながら民衆側に立って襲撃に加わる場面を描いたマンガの一こまと、フランス革命に関連する二つの文が与えられ、古いものから年代順に配列する設問です。

<考え方>

三つの出来事の年代を一つずつ確定してから並べます。マンガの場面は「バスティーユへ」と呼びかけながら加わる襲撃で、会話文が「革命の発端とされる襲撃」と説明しているとおり、バスティーユ牢獄襲撃の1789年7月14日です。Ⅰのロベスピエールらが公安委員会を通じて反対派を粛清したのは恐怖政治の時期で1793年から1794年。Ⅱのフランスがアメリカ独立戦争に参戦して財政難に陥ったのは1778年の参戦とその後のことで、この財政難が三部会の招集につながりました。したがって1778年、1789年、1793〜94年の順になります。

<選択肢>

Ⅱ(アメリカ独立戦争への参戦と財政難)=1778年【最も古い】

フランスは1778年にアメリカ独立戦争に参戦し、戦費の負担が財政難を深刻にしました。革命前の出来事であり、三つの中で最も古いものです。

図の場面(バスティーユ牢獄襲撃)=1789年【2番目】

革命の発端とされる襲撃で、1789年7月14日の出来事です。

Ⅰ(公安委員会を通じた反対派の粛清)=1793〜1794年【最も新しい】

ロベスピエールらによる恐怖政治の時期にあたり、三つの中で最も新しいものです。

正解【④】

1778年の参戦、1789年のバスティーユ牢獄襲撃、1793〜94年の恐怖政治の順に並びます。

問2:正解 ①(解答番号17/配点3)

<問題要旨>

「現実の革命の過程でも、女性が大きな役割を果たす場面があった」という発言に関して述べた二つの文と、革命後にナポレオン法典が家父長権をどう扱ったかを述べた空欄に入る文との組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

前半は、女性が主体となった具体的な事件を思い出せるかで決まります。1789年10月のヴェルサイユ行進は、パンを求める女性を中心とした民衆がヴェルサイユへ行進し、国王一家をパリへ連行した出来事です。オランプ=ド=グージュは「人権宣言」が男性のみを念頭に置いていることを批判し、独自に「女性および女性市民の権利宣言」を発表した人物で、「人権宣言」の起草には関わっていません。後半は、会話文が「当時の貴族の女性は、家父長である父親や夫に対して、従属的な立場に置かれていた」と述べた直後に置かれる空欄です。ナポレオン法典は夫権・父権を明文化し、家父長権を肯定しました。

<選択肢>

あ【正】

1789年10月のヴェルサイユ行進は、女性を中心とした多数の民衆がヴェルサイユに行進し、国王一家をパリへ連行した出来事です。革命の過程で女性が大きな役割を果たした場面にあたります。

い【誤】

オランプ=ド=グージュは「人権宣言」に女性が含まれていないことを批判して「女性および女性市民の権利宣言」を発表した人物であり、ラ=ファイエットらとともに「人権宣言」を起草した事実はありません。人物の役割を入れ替えた誤りです。

X(家父長権は肯定された)【正】

ナポレオン法典は所有権の不可侵や法の前の平等を掲げた一方、家族に関しては夫権・父権を明文化し、妻の法的な行為能力を制限しました。家父長権を肯定した内容であり、直前の会話の流れにも合います。

Y(家父長権は否定された)【誤】

ナポレオン法典が家父長権を否定したという評価は成り立ちません。女性の従属的な立場は、この法典によってむしろ法的に固定された面が大きいです。

正解【①】

ヴェルサイユ行進が「あ」に対応し、ナポレオン法典は家父長権を肯定したと判断します。

問3:正解 ②(解答番号18/配点3)

<問題要旨>

「過去や同時代の出来事を伝える手段としては、文字と文章が広く用いられてきた」という発言の具体例について述べた文として、誤っているものを選ぶ設問です。

<考え方>

著作の言語・形式・著者をひとつずつ確かめます。『集史』はイル=ハン国の宰相ラシード=アッディーンがペルシア語で編纂したモンゴル史・世界史であって、モンゴル語で著されたものではありません。残る三つは形式・内容ともに正しい記述です。

<選択肢>

①【正】

『史記』は司馬遷が編んだ紀伝体の史書で、帝王の年代記である本紀と、その他の人物の伝記である列伝などを組み合わせた形式で記述されています。

②【誤】

『集史』はラシード=アッディーンがペルシア語で著しました。モンゴル語で著されたとするのは、記述言語のすり替えによる誤りです。

③【正】

ラス=カサスは『インディアスの破壊についての簡潔な報告』で、エンコミエンダ制の下での先住民の酷使を告発しました。

④【正】

ランケは残された史料の批判的検討に基づいて事実を確定することを重んじ、近代歴史学の方法を確立しました。

正解【②】

『集史』の記述言語はペルシア語であり、モンゴル語とするのが誤りです。

問4:正解 ②(解答番号19/配点3)

<問題要旨>

都市への空爆を題材とした絵画(図3)と、アフリカをまたぐように足を広げた人物を描いた風刺画(図4)が与えられます。会話文を参考にしつつ、そのような絵画や風刺画に関連する内容について述べた文として最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

会話文の結論と、二つの図の同定という二点で切ります。会話文で先生は「どのような手段に関しても、作者など、発信者側の意図や立場にも留意する態度が求められる」と述べており、意図を考慮する必要がないという方向とは正反対です。空爆を題材とした絵画はスペイン内戦におけるゲルニカへの空爆を描いたもので、コソヴォ紛争ではありません。アフリカをまたぐ人物の風刺画は、ケープタウンからカイロまでを結ぶ構想を進めたイギリスの人物を描いたもので、フランスではありません。残る一つが、会話文に登場する大統領の事績の説明です。

<選択肢>

①【誤】

会話文で先生は、どのような手段についても発信者側の意図や立場に留意する態度が求められると述べています。考慮する必要がないという見解は、会話文の結論と逆です。

②【正】

会話文に登場するのは棍棒外交を展開したセオドア=ローズヴェルトです。パナマやカリブ海諸国など、ラテンアメリカへの干渉を進める一方で、1905年に日露戦争の講和(ポーツマス条約)を仲介したことでも知られます。

③【誤】

この絵画はスペイン内戦の際のゲルニカへの空爆を題材としたものです。コソヴォ紛争に伴う空爆は1999年で、作品の成立時期より後になります。事件と時期の入れ替えによる誤りです。

④【誤】

アフリカを南北にまたぐ姿で描かれているのはイギリスの人物で、両足先はケープタウンとカイロにあたります。フランスの自信を象徴するとするのは主体の入れ替えによる誤りです。

正解【②】

会話文の「棍棒外交」の大統領がセオドア=ローズヴェルトであり、ラテンアメリカ干渉と日露戦争の講和仲介の両方が当てはまります。

問5:正解 ③(解答番号20/配点3)

<問題要旨>

1926年から1939年までのカザフスタンの人口を、農村人口と都市人口の積み上げで示したグラフが与えられます。グラフから読み取れる事柄二つと、その背景として考えられる文二つとの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

目盛りから値を読み、割り算と引き算で確かめます。都市人口は棒の下側の濃い部分で、1926年が50万人台、1939年が170万人前後です。170を55で割れば3倍程度で、10倍には届きません。総人口は棒全体の高さで読み、1931年が670万人前後、1933年が490万人前後。差は180万人前後になり、100万人以上の減少にあたります。背景については、1930年代前半に大規模な農業集団化が行われたことがパネルに示されており、これが農村の混乱と大量の餓死者を生みました。世界恐慌は資本主義諸国を襲った不況で、五か年計画を進めていたソ連の人口動態を説明する背景にはなりません。

<選択肢>

あ【誤】

都市人口は1926年の50万人台から1939年の170万人前後へ増えていますが、倍率は3倍程度です。「10倍以上増加した」は数値に合いません。

い【正】

棒全体の高さで読む総人口は、1931年の670万人前後から1933年の490万人前後へ減っています。減少幅は180万人前後で、100万人以上の減少にあたります。

X【正】

パネルは1930年代前半に大規模な農業集団化が行われたことを挙げています。遊牧民の定住化を含む集団化が農村を混乱させ、大量の餓死者と人口の激減を招きました。総人口の急減の背景として対応します。

Y【誤】

世界恐慌は資本主義諸国を襲った不況であり、五か年計画を進めていたソ連の人口動態を説明する背景にはなりません。また失業者が都市へ流入したという説明では、総人口の減少そのものを説明できません。

正解【③】

総人口が2年で180万人前後減ったという読み取り「い」に、農業集団化による混乱と餓死者という背景Xが対応します。

問6:正解 ③(解答番号21/配点3)

<問題要旨>

アルマティの女性兵士像と、ソ連期のカザフスタンについてまとめたパネルをもとに作られた二つのメモが示されます。それぞれのメモの正誤について述べた文として最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

パネルの記述と、メモが用いている言い換えを照らし合わせます。パネルは、女性兵士像が設置された場所に1957年以来レーニン像が置かれていたこと、1940年代末以降の数百回の核実験で住民の健康被害が多発したこと、像のモデルとなった二人がレニングラードを防衛する戦いのなかで1943年と1944年に戦死したことを示しています。十月革命の指導者はレーニンであり、レニングラード防衛戦は独ソ戦の戦闘ですから、どちらの言い換えも成り立ちます。

<選択肢>

メモ1【正】

十月革命の指導者はレーニンです。パネルは1957年以来レーニン像が設置されていたと述べており、ソ連期のアルマティに十月革命の指導者の像が建てられたことになります。核実験による住民の健康被害の多発もパネルの記述どおりです。

メモ2【正】

モデルとなった二人はレニングラードを防衛する戦いのなかで1943年と1944年に戦死しています。レニングラード防衛戦は独ソ戦の戦闘であり、独ソ戦で命を落としたと言い換えられます。

正解【③】

レーニン像と核実験、レニングラード防衛戦と独ソ戦という置き換えがいずれも成り立ちます。

第4問 歴史上の「帝国」のあり方(配点18)

歴史上に見られた様々な「帝国」のあり方を、資料に基づいて探究するという枠組みです。Aは『ガリア戦記』と五賢帝時代の著作から「インペリウム」という語の意味の変化とローマの領域をたどり、Bはムガル帝国期のグジャラートについて書かれた本からヒンドゥー教とイスラーム文化の関係を、Cはホセ=マルティの論説からキューバ独立とアメリカ合衆国の台頭を扱います。

問1:正解 ④(解答番号22/配点3)

<問題要旨>

スガンブリ族が「ローマ人のインペリウムはライン川までだ」と返答した『ガリア戦記』の一節(資料1)と、アウグストゥス帝が征服した王国の王位を元の王に返却し、それらを「あたかもインペリウムの一部とみなして」扱ったと述べる資料2が与えられます。会話文の空欄に入る文と、資料2から読み取れる内容との組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

空欄は、「ローマ人の『帝国』の領域はライン川までだった」という一度目の用法を領域の意味で理解した直後に置かれています。資料1はカエサルの『ガリア戦記』、つまり共和政末期の記録ですから、その時点ですでに領域としての「帝国」が語られていることになります。元首政の開始は後のことなので、「共和政の時代から」の側が入ります。資料2の読み取りは、王位をどう扱ったかで決まります。アウグストゥス帝は奪っていた王位を元の王に返却するか他の王国に併合させており、諸王国の多くを直轄領として集権的な体制を確立したとは読めません。一方で、それら全ての王国を「あたかもインペリウムの一部とみなして」気を配ったとあるので、復活させた王国も帝国の一部とみなしていたことになります。

<選択肢>

い(共和政の時代から、「ローマ帝国」と呼べる存在だった)【正】

資料1は共和政末期のカエサルの記録であり、その時点で「ローマ人のインペリウム」が領域の意味で語られています。空欄の直前で領域としての理解が確認されていることとも合います。

あ(元首政の開始とともに、初めて「ローマ帝国」となったと言える)【誤】

資料1の時点は元首政の開始前です。この文では、共和政期の記録に領域としての「インペリウム」が現れていることを説明できません。時期の前後を取り違えた選択肢です。

Y(復活させた諸王国についても、帝国の一部とみなしていた)【正】

資料2は、王位を元の王に返却したそれらの王国を「あたかもインペリウムの一部とみなして気を配り」、幼い王には後見人を指名したと述べています。帝国の一部とみなしていたという読み取りに一致します。

X(諸王国の多くを直轄領とし、集権的な体制を確立した)【誤】

資料2は王位を元の王に返却するか他の王国に併合させたと述べており、直轄領化とは逆の内容です。資料の因果と方向を反転させた誤りです。

正解【④】

共和政末期の資料に領域としての「インペリウム」が現れることから「い」、王位を返しつつ帝国の一部とみなしたという記述からYが決まります。

問2:正解 ②(解答番号23/配点3)

<問題要旨>

ローマ人やローマ皇帝の「インペリウム」が直接及んだ領域を塗り分けた二つの地図(図Ⅰ・図Ⅱ)が与えられ、資料2が書かれた時代の領域とあわせて、古いものから年代順に配列する設問です。

<考え方>

この種の地図は、どこが塗られているかではなくどこが塗られていないかで時代が決まります。図Ⅰは、イベリア半島とガリア南部の細い帯、イタリア、バルカン半島とギリシア、小アジア西部、北アフリカの一部が塗られている一方で、ガリアの大部分・エジプト・シリアが塗られていません。ガリアの征服もエジプトの属州化も前1世紀後半の出来事ですから、図Ⅰはそれ以前の共和政期にあたります。図Ⅱは、イタリア・バルカン半島・小アジア・シリア・エジプト・北アフリカの海岸部が塗られているのに、ガリア全域とイベリア半島の内陸部が塗られておらず、イベリア半島は南端だけが塗られています。かつて属州だったガリアとイベリアの大半を失いながら、イタリアと北アフリカ、イベリア南端を保つという形は、会話文の先生が触れた東西分裂より後の東ローマ帝国の領域です。資料2は五賢帝時代に書かれた著作の一節なので2世紀。したがって図Ⅰ(共和政期)、資料2(2世紀)、図Ⅱ(東西分裂後)の順になります。

<選択肢>

図Ⅰ(共和政期)【最も古い】

ガリアの大部分・エジプト・シリアが塗られていません。ガリアの征服とエジプトの属州化はいずれも前1世紀後半なので、それ以前の領域と判断できます。

資料2(五賢帝時代・2世紀)【2番目】

会話文に「資料2は、五賢帝時代に書かれた著作の一節です」とあります。この時期はガリアもエジプトもすでに帝国内にあり、領域は最大に近い状態です。

図Ⅱ(東西分裂後の東ローマ帝国)【最も新しい】

ガリア全域とイベリア半島の内陸部が塗られておらず、イベリア半島は南端だけが塗られています。かつての属州を失いながらイタリア・北アフリカ・イベリア南端を保つ形は、東西分裂後の東ローマ帝国のものです。

正解【②】

塗られていない地域に注目して、図Ⅰが共和政期、資料2が2世紀、図Ⅱが東西分裂後と判定し、この順に並べます。

問3:正解 ④(解答番号24/配点3)

<問題要旨>

「アウラングゼーブの治世においては、ムガル帝国の文化や政治を考える上で、重要な変化があった」という下線部について述べた文として、最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

アウラングゼーブの治世(1658〜1707年)に限って当てはまる事柄を探します。この時期、デカン地方への征服によって帝国の領土は最大となる一方、厳格なスンナ派の立場からジズヤを復活させ、ヒンドゥー寺院の破壊を命じたため、マラーター王国やシク教徒、ラージプートなどの抵抗が各地で強まりました。残る選択肢は、いずれも別の時代の出来事です。

<選択肢>

①【誤】

タージ=マハルを建立したのはシャー=ジャハーンです。会話文でも、シャー=ジャハーンの治世はアウラングゼーブの即位より前として語られています。時期の前後による誤りです。

②【誤】

ナーナクがシク教を創始したのは16世紀初めで、ムガル帝国の成立前後の時期です。アウラングゼーブの治世より150年ほど前になります。

③【誤】

デリー=スルタン朝最後のロディー朝を倒したのは、1526年のパーニーパットの戦いでのバーブルです。ムガル帝国成立にあたる出来事で、アウラングゼーブの治世ではありません。

④【正】

アウラングゼーブの治世に帝国の領土は最大となりましたが、ジズヤの復活やヒンドゥー寺院の破壊が反発を招き、マラーター王国やシク教徒など各地の対抗勢力が強まりました。

正解【④】

領土の最大化と各地の対抗勢力の強まりが同時に進んだのが、アウラングゼーブの治世の特徴です。

問4:正解 ①(解答番号25/配点3)

<問題要旨>

グジャラートで栄えたヒンドゥー教ヴィシュヌ派の教団が祭る神の豪華な聖衣について述べた資料3と会話文をもとに、ムガル帝国期に見られた宗教や文化について述べた二つの文の正誤の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

それぞれの文が資料や会話文のどの一文に対応するかを確かめます。資料3は、神の豪華な聖衣や装飾に「イラン=イスラーム文化がインドにもたらした美しい影響が示されている」と述べており、ヒンドゥー文化とイラン=イスラーム文化の融合という指摘に対応します。もう一つの文は、ダーラー=シコーが共通性を見いだした二つの思想を言い換えたものです。会話文は「スーフィズムとウパニシャッド哲学とが共通している」と述べており、スーフィズムは神との一体感を求める神秘主義、ウパニシャッド哲学はブラフマンとアートマンの同一性を悟ろうとする古代インドの思想ですから、どちらの言い換えも正しいことになります。

<選択肢>

あ【正】

資料3は、ヒンドゥー教のヴィシュヌ派教団が祭る神の聖衣や装飾に、イラン=イスラーム文化がインドにもたらした影響が示されていると述べています。二つの文化の融合を示すという読み取りに一致します。

い【正】

アッラーとの一体感を求める思想はスーフィズム、ブラフマンとアートマンの同一性を悟ろうとする古代インド思想はウパニシャッド哲学です。ダーラー=シコーがこの二つの共通性を考え、ヒンドゥー教の経典をペルシア語に翻訳したことは会話文に述べられています。

正解【①】

どちらも資料3と会話文の記述の言い換えとして成り立ちます。

問5:正解 ③(解答番号26/配点3)

<問題要旨>

ホセ=マルティが1891年に雑誌に寄稿した論説(資料4)が与えられ、そこで用いられる「我らのアメリカ」が指す内容と、アメリカ=スペイン戦争の結果としてアメリカ合衆国が領有した場所との組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

資料4の語の使い分けを押さえます。資料4は「我らのアメリカ」と「北のアメリカ」を対比し、「我らのアメリカ」を軽んじる強国が親密な関係を要求しつつ近づいてくる、「強大この上ない隣国」の軽率な行動が我々の最大の危険だと述べています。「北のアメリカ」がアメリカ合衆国を指すのですから、「我らのアメリカ」はそれに対抗する側、すなわちキューバを含むラテンアメリカです。合衆国と連合するという内容では、論説の警戒の筋が通りません。領有した場所は、1898年のアメリカ=スペイン戦争でスペインから獲得したフィリピンです。アラスカは1867年にロシアから買収した土地で、戦争の結果ではありません。

<選択肢>

い(アメリカ合衆国の脅威に対抗する、キューバも含むラテンアメリカ)【正】

資料4は「北のアメリカ」つまりアメリカ合衆国を「強大この上ない隣国」として警戒しており、「我らのアメリカ」はそれに対抗する側にあたります。

あ(スペインの覇権に対抗する、キューバとアメリカ合衆国との連合)【誤】

資料4が危険とみているのはアメリカ合衆国の接近そのものです。合衆国との連合を「我らのアメリカ」と呼ぶのでは、論説が警戒している対象と矛盾します。

X(フィリピン)【正】

1898年のアメリカ=スペイン戦争の結果、アメリカ合衆国はスペインからフィリピン・グアム・プエルトリコを獲得しました。

Y(アラスカ)【誤】

アラスカは1867年にロシアから買収した土地で、アメリカ=スペイン戦争の結果ではありません。獲得の相手国と時期の両方が異なります。

正解【③】

資料4の「北のアメリカ」との対比から「い」、米西戦争での獲得地としてフィリピンが決まります。

問6:正解 ②(解答番号27/配点3)

<問題要旨>

「帝国」のあり方について探究した結果をまとめた三つのメモが与えられ、それぞれのメモの正誤について述べた文として最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

三つのメモが立てている「類似点」が、実際の運動や制度の性質に合っているかを一つずつ検討します。宗教政策の不寛容が帝国の衰退の要因になったという比較は、フェリペ2世とアウラングゼーブの双方に当てはまります。一方、古代末期の諸民族の動きは国民国家の建設を目指したものではなく、マンサブダール制も地方分権を進める制度ではないので、この二つは前提そのものが崩れます。

<選択肢>

メモ1【誤】

キューバの独立運動がナショナリズムに支えられていたのは正しいのですが、古代のローマ帝国の支配が終わった時代の諸民族の動きを「国民国家建設を目指す独立運動」と呼ぶことはできません。国民国家は近代に成立した枠組みで、時代の異なる概念を当てはめた誤りです。

メモ2【正】

フェリペ2世はネーデルラントでカルヴァン派を弾圧してオランダ独立戦争を招き、アウラングゼーブはヒンドゥー寺院の破壊などを命じて各地の反発を招きました。不寛容な宗教政策が帝国衰退の要因の一つとなった点で、両者は重なります。

メモ3【誤】

アウグストゥス帝が諸王国に王を復位させたことは資料2に合います。しかしマンサブダール制は、官位に応じて給与地を与え軍役を義務づける中央集権的な官僚制度であり、地方分権を進める制度ではありません。制度の性格を逆にした誤りです。

正解【②】

宗教政策の不寛容という比較だけが成り立ち、国民国家という概念の時代錯誤とマンサブダール制の性格の取り違えで他の二つは崩れます。

第5問 税制度と社会変容(配点18)

「税制度と社会変容」というテーマで各班が発表に向けた班別学習を行うという枠組みです。明清時代の中国の銀納と納税代行、17世紀オスマン帝国の徴税請負制、19世紀ドイツにおけるリストの関税論、第二次世界大戦直後の通商協定を順に扱い、最後に元代の商税をめぐる二つの資料をもとに、どの資料や事例と組み合わせて探究を進めるかを判断させます。

問1:正解 ②(解答番号28/配点3)

<問題要旨>

明清時代の中国で指定の純度の銀での納税が求められるようになったこと、農民が納税のために高額な経費を負担したこと、地域有力者が納税代行に従事して富を蓄積したことをまとめたパネルが与えられます。パネルから読み取れることやその背景について述べた文として、最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

パネルが述べる登場人物の立場を整理します。パネルの「官僚経験者や科挙合格者をはじめとする地域有力者」は郷紳にあたり、県の行政事務に協力することで商人・職人・役人よりも優位に立ち、納税に関わる高額な経費を支払う必要がなかったうえ、納税代行に従事して富を蓄積したとあります。ここから、納税手続きに関与することが蓄財の機会になったと言えます。残る選択肢は、紙幣が使われた時代、税制が創始された時代、経費の負担者のいずれかがずれています。

<選択肢>

①【誤】

交子・会子は宋で用いられた紙幣です。明清時代の中国では銀が主要な支払い手段であり、交子・会子が利用されたとするのは時代の誤りです。

②【正】

パネルは、地域有力者が県の行政事務に協力する立場を利用して納税代行に従事し、富を蓄積するようになったと述べています。この地域有力者が郷紳であり、納税手続きへの関与が蓄財の機会になっていました。

③【誤】

両税法が創始されたのは唐代の780年です。明代に創始されたとするのは時期の誤りで、明代に始まった代表的な税制は一条鞭法です。

④【誤】

パネルは、農民が生産物を商人に売却して銀を手に入れ、銀の純度の調整を職人に依頼し、県の役所まで自分で出掛けて納入する必要があり、「いずれも高額な経費が必要だった」と述べています。経費は農民の負担であり、政府が負担したのではありません。

正解【②】

納税代行によって富を蓄積した地域有力者が郷紳であることを押さえれば決まります。

問2:正解 ①(解答番号29/配点4)

<問題要旨>

徴税を請け負った者が請負期間の短さを理由に収穫物の全てを奪おうとし、農民の逃亡と村々の荒廃、税収の減少を招いたと述べるオスマン帝国の勅令(資料1)が与えられます。徴税請負制に変わる前の制度を指す空欄と、資料1から分かる新たな問題を述べた空欄との組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

前半は、17世紀に徴税請負制(イルティザーム)へ移行する前の制度を答えます。オスマン帝国は、騎士に一定の農地の徴税権を与えて軍役を義務づけるティマール制をとっており、火器の普及による戦争形態の変化で騎兵の役割が低下し、財政も悪化したために徴税請負制へ移りました。非ムスリムに課す人頭税はジズヤで、徴税の請負に置き換えられる性質の制度ではありません。後半は資料1のどの一文が根拠かで決まります。資料1は「自分の請負期間は1年または2年であると言って、収穫物の全てを奪おうとする」と述べており、短い請負期間のうちに取れるだけ取ろうとする行動が問題になっています。会話文で帝国政府が請負期間を終身にしたという対応策も、この読み取りを裏づけます。

<選択肢>

ア=農地の徴税権を分与する制度【正】

徴税請負制の前にオスマン帝国がとっていたのはティマール制で、騎士に農地の徴税権を分与し軍役を課す制度です。非ムスリムに人頭税(ジズヤ)を課す制度は宗教別の課税の仕組みであり、徴税の請負に置き換わる対象ではありません。

イ=短期間に利益を最大化しようとした結果、激しい収奪が行われた【正】

資料1は、請負人が自分の請負期間を1年または2年と言って収穫物の全てを奪おうとしたと述べています。政府が請負期間を終身に改めたという対応も、短期の請負が収奪を生んだという理解に合います。「長期的に利益を確保しようとした」では、期間の短さを口実にした収奪という資料の記述と噛み合いません。

正解【①】

前の制度はティマール制、資料1から読み取れる新たな問題は短期の請負による激しい収奪です。

問3:正解 ④(解答番号30/配点4)

<問題要旨>

ドイツでは関税と通行税を取る38の境界線が域内の交通を麻痺させていると訴え、域内関税の廃止と、通商の自由原則を承認しない諸国民に対する共通関税の設定を求めた請願書(資料2)が与えられます。リストの主張に合致すると考えられる文と、それと同様の考えや背景があると推測される事例との組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

資料2の要求の二項目を分けて読みます。第1項はドイツ域内の関税の廃止、第2項は「ドイツ以外の諸国民がヨーロッパで通商の自由原則を承認するまで、彼らに対して共通の関税を設定すること」です。つまり内は自由に、外には共通の関税をかけるという立場であり、諸外国が通商の自由を認めていないことを理由に対外関税を求める側になります。同様の考えの事例は、自国の工業を保護するために関税を求めた動きを探します。コブデンやブライトが主張したのは穀物法の廃止、すなわち自由貿易の推進で方向が逆です。南北戦争直前のアメリカ合衆国北部諸州は、自国の工業を保護するため高関税を求め、自由貿易を求める南部と対立していました。

<選択肢>

い【正】

資料2の第2項は、通商の自由原則を承認しない諸国民に対して共通の関税を設定することを求めています。後発国のドイツ諸邦が、ドイツ以外の国々に対して共通して関税をかけるべきだという主張に一致します。

あ【誤】

資料2は、諸外国が通商の自由を認めていないことを理由に対外関税を求めています。「諸外国が通商の自由を認めているので関税を撤廃すべき」では、前提と結論の両方が資料と逆になります。

Y(南北戦争直前のアメリカ合衆国北部諸州で主張された貿易政策)【正】

北部諸州は自国の工業を保護するために高関税を求め、自由貿易を望む南部と対立しました。後発の工業を関税で保護するという考えと背景が重なります。

X(コブデンやブライトらによって主張された穀物輸入に関する政策)【誤】

コブデン・ブライトらは穀物法の廃止を主張して自由貿易を推進しました。保護関税を求める立場とは方向が逆です。

正解【④】

内は自由・外は共通関税という資料2の立場から「い」、保護関税を求めた合衆国北部の事例Yが対応します。

問4:正解 ③(解答番号31/配点3)

<問題要旨>

一つの締結国が輸出入される産物に対して有する利益・恩恵・特権は、他のあらゆる締結国にも即刻かつ無条件に認められると定めた協定の第1条(資料3)が与えられ、それについてまとめたノートの二つの空欄に入る語句の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

まず資料3がどの協定かを確かめます。無条件の最恵国待遇を全締結国に及ぼす規定であり、第二次世界大戦直後に締結された「関税及び貿易に関する一般協定」(GATT、1947年)にあたります。そうすると反省の対象は、1930年代に各国が高関税と特恵で市場を囲い込み、世界経済を分断したブロック経済になります。成立を推進した国は、帝国特恵の維持にこだわったイギリスと対比される国を選びます。戦後の自由貿易体制づくりを主導したのはアメリカ合衆国であり、ソ連はこの協定に参加していません。

<選択肢>

ウ=ブロック経済の成立によって、世界経済が分断されたこと【正】

1930年代、世界恐慌の後に各国が高関税と本国・植民地間の特恵で市場を囲い込み、世界経済が分断されました。無条件の最恵国待遇で締結国を等しく扱う協定は、この分断への反省の上に立っています。アジア通貨危機は1997年で、第二次世界大戦直後に締結された協定の背景にはなりえません。

エ=アメリカ合衆国【正】

戦後の自由貿易を柱とする国際経済秩序づくりを主導したのはアメリカ合衆国です。帝国特恵の維持を重んじたイギリスが消極的だったのと対照的でした。ソ連は計画経済をとり、この協定には参加していません。

正解【③】

無条件の最恵国待遇という規定からGATTと特定し、背景はブロック経済への反省、推進役はアメリカ合衆国と決まります。

問5:正解 ③(解答番号32/配点4)

<問題要旨>

クビライの治世に上都と大都の商税の率を引き下げた命令(資料4)と、高麗で作成された漢語会話文集の一節で、仲介人が買い手の商税を役所で払ってくると申し出る場面(資料5)が与えられます。参照する資料やパネル及び事例と、探究活動の方針との組合せについて述べた文として、最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

二つの資料の内容を先に確定します。資料4は、上都の商税を通常の取引価格の三十分の一から六十分の一に、大都の商税を三十分の一から四十分の一にするという命令で、いずれも税率の引き下げ、すなわち減税措置です。資料5で仲介人が果たしているのは、買い手が払うべき商税を代わりに役所へ納めるという納税の代行です。そこで、他の班が取り上げた事例のうち、納税や徴税の仕組みに関わるものと結びつくかを確かめます。明清時代の中国で地域有力者が納税代行に従事したこと、オスマン帝国で徴税が請負に委ねられたことは、いずれも納税・徴税を誰がどのように担うかという仕組みの問題であり、資料5の仲介人の役割と直接つながります。

<選択肢>

①【誤】

資料4を減税措置とみる点は正しいのですが、組み合わせる資料が方針と合いません。明清時代の銀納と納税代行をまとめたパネル、オスマン帝国の徴税請負に関する勅令は、いずれも税率の変更が流通に及ぼした影響を論じる材料ではありません。

②【誤】

資料4は三十分の一から六十分の一・四十分の一へ引き下げる命令であり、増税措置ではありません。資料の読み取りそのものが逆になっています。

③【正】

明清時代の地域有力者による納税代行と、オスマン帝国の徴税請負は、いずれも納税・徴税を誰がどのように担うかという仕組みの事例です。資料5で仲介人が買い手の商税を役所に納める役割を果たしていることと重なり、納税や徴税の具体的な仕組みを探究するという方針に合います。

④【誤】

関税を扱った事例と結びつけている点が方針と合いません。また資料5で商税の納付を引き受けているのは仲介人であり、大都の商人はいつ払うのかを尋ねる側です。役割を取り違えています。

正解【③】

資料5の仲介人が担っているのは納税の代行であり、納税・徴税の仕組みを扱った二つの班の事例と結びつきます。

※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

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