2017年度 大学入試センター試験 本試験 日本史B 解答・解説

2017年度 大学入試センター試験 本試験「日本史B」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。

目次
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解答

解説

2017年度 大学入試センター試験 本試験「日本史B」の解答・解説です。第1問(16点)〜第6問(24点)がすべて必答で、100点満点。解答番号は 1 〜 36 の通し番号です。原始・古代から現代まで、通史で出題されています。

なお第5問・第6問は「日本史A」の第2問・第4問と同一の問題です(設問・選択肢・正解・配点まで一致)。両方を確認したい方は、あわせてご覧ください。

設問ごとにアコーディオンを開くと、<問題要旨><考え方>と、正解の根拠および他の選択肢が誤りである理由が読めます。

第1問 A アジアを巡る旅(平戸と三別抄・瀬戸内地方・海を渡った人々)

大学生の手紙を導入に、江戸初期の商館が置かれた港、原始から近世の瀬戸内、そして中国から渡ってきた人・渡った人を問います。

問1:正解 ②(配点2)

<問題要旨>
空欄[ア][イ]に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ。[ア]は復元された天守閣があり、江戸時代初めにオランダやイギリスの商館が置かれ、寺院と教会が入り混じる町並みをもつ港。[イ]は高麗王朝がモンゴルに服属したあとも済州島を拠点に抵抗を続けた勢力である。

<考え方>
「オランダとイギリス両方の商館」という条件と、高麗の抗蒙勢力の名前です。

[ア]1609年にオランダ、1613年にイギリスが商館を置いたのは平戸。長崎に置かれたのはポルトガル船の来航地としてであり、オランダ商館が長崎の出島に移されるのは1641年。設問文が「江戸時代初め」「オランダやイギリスの商館」としているので平戸。

[イ]三別抄は高麗の特殊部隊で、高麗王朝がモンゴルに服属したあとも珍島・済州島へ移って抵抗を続けた(1270〜73年)。按司は琉球の地方豪族で、地域が異なる。
問2:正解 ③(配点3)

<問題要旨>
原始・古代から近世の瀬戸内地方について述べた文として正しいものを選ぶ。

<考え方>
時代と現象の対応、人物と役割を確かめます。

① 高地性集落がつくられたのは弥生時代。戦乱に備えた見張りや防御のためと考えられており、縄文時代でも「魚群を見張るため」でもない。誤り。
② 瀬戸内で海賊を率いて反乱を起こしたのは藤原純友(939〜941年)。源経基は平将門の乱の際に将門を訴えた側の人物。誤り。
③ 室町時代には、幕府や寺社が兵庫などの港で入港税にあたる津料を徴収した。正しい。 ←
④ 江戸時代に瀬戸内で普及したのは、堤を築いて潮の干満を利用する入浜塩田。揚浜は海水を人力で汲み上げる古い方式。誤り。
問3:正解 ①(配点3)

<問題要旨>
海を渡った人々に関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを選ぶ。
X 留学生として隋に渡った高向玄理は、帰国後に国博士に任じられた。
Y 中国から渡ってきた僧の隠元隆琦(隠元)によって、日本に黄檗宗が伝えられた。

<考え方>
古代の遣隋使随行者と、近世の来日僧を確認します。

X 高向玄理は607年以降の遣隋使に留学生として随行し、長く中国に滞在した。帰国後、大化の改新にあたって僧旻とともに国博士に任じられた。正しい。

Y 隠元隆琦は明の僧で、1654年に来日して黄檗宗を伝え、宇治に万福寺を開いた。正しい。

第1問 B 日本海に沿う旅(石見銀山と新潟・引揚げと戦争の写真・交通と通信)

日本海側をめぐる旅を導入に、銀山と開港場の位置、日本海をめぐる写真資料の年代、そして古代から近代の交通・通信を問います。

問4:正解 ①(配点2)

<問題要旨>
空欄[ウ][エ]と、それらの場所を示した地図上の位置a〜dとの組合せとして正しいものを選ぶ。[ウ]は朝鮮から伝わった新技術によって生産量が増大し、温泉津を積出し港とした銀山。[エ]はアメリカとの通商条約で開港された、日本海側の港である。

<考え方>
銀山の名前と所在地、そして日米修好通商条約で開かれた日本海側の港です。

[ウ]朝鮮から伝わった灰吹法により産出量が飛躍的に増大したのは石見銀山(島根県)。温泉津はその積出し港で、ともに世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成要素。地図では中国地方西部の a。

[エ]日米修好通商条約(1858年)で開港が定められたのは神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)と、すでに開かれていた箱館。このうち日本海側は新潟で、地図では本州中部の日本海側にあたる c。
問5:正解 ⑥(配点3)

<問題要旨>
舞鶴の歴史展で見た写真Ⅰ〜Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを選ぶ。
Ⅰ 船で舞鶴へ到着した大陸からの復員軍人や引揚げ者たち
Ⅱ 満州・内蒙古の開拓への参加を青少年に訴えるポスター
Ⅲ 宣戦布告後、日本海航行に関して出された電報(ロシア軍艦への注意を促す内容)

<考え方>
それぞれの写真が、どの戦争・どの時期のものかを読み取ります。

Ⅲ 「露艦(ロシア軍艦)」への注意を促す電報なので、日露戦争の開戦(1904年2月)直後のもの。
Ⅱ 満蒙開拓青少年義勇軍の募集は1938年から本格化した。日中戦争下の国策移民である。
Ⅰ 大陸からの復員・引揚げは、敗戦後の1945年以降。舞鶴は主要な引揚げ港の一つで、引揚げは1958年まで続いた。

よって Ⅲ → Ⅱ → Ⅰ。
問6:正解 ④(配点3)

<問題要旨>
古代から近代の交通や通信について述べた文として誤っているものを選ぶ。

<考え方>
最後の一つは、鉄道の区間を正確に覚えているかで決まります。

① 律令国家は七道の駅路を整備し、約16 kmごとに駅家を置いて駅馬を配した(駅制)。正しい。
② 中世には、馬の背で運ぶ馬借、牛車で運ぶ車借といった運送業者が活躍した。正しい。
③ 江戸時代には、幕府公用の継飛脚、大名の大名飛脚、民間の町飛脚が書状や荷物を運んだ。正しい。
④ 日本最初の鉄道は1872年に開通した新橋・横浜間。横須賀ではない。誤り。 ←

第2問 A 仏教の受容と国家(蘇我氏と郡司・7世紀後半の諸政策・東アジアからの受容)

仏教の伝来と国家制度への位置づけを軸に、飛鳥寺を建てた氏族、7世紀後半の政策、そして東アジアからの文化・技術の受容を問います。

問1:正解 ④(配点2)

<問題要旨>
空欄[ア][イ]に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ。[ア]は6世紀末に飛鳥寺(法興寺)を建立した氏族、[イ]は律令制下で行政を担うことになる地方豪族の職である。

<考え方>
飛鳥寺の建立者と、律令制下で地方豪族が任じられた官職です。

[ア]飛鳥寺(法興寺)は蘇我馬子が発願し、596年に完成した日本最初の本格的寺院。大伴氏は6世紀前半に失脚しており、寺院建立の中心ではない。

[イ]律令制下で郡(旧来の国造の支配領域を再編したもの)を治めたのが郡司で、多くは在地の豪族が任じられ、終身官であった。国司は中央から派遣される官人なので、「地方豪族が担う」には当たらない。
問2:正解 ②(配点3)

<問題要旨>
7世紀後半の諸政策について述べた文として正しいものを選ぶ。

<考え方>
各事項が7世紀後半(天智・天武・持統朝)に当たるかを確かめます。

① 西大寺の建立は8世紀後半(称徳天皇)、大官大寺は7世紀後半だが西大寺と並べては成り立たない。しかも西大寺は平城京にある。誤り。
② 天智天皇のもとで670年に庚午年籍が作られた。最初の全国的な戸籍で、以後の氏姓の基本台帳とされた。正しい。 ←
③ 冠位十二階の制定は603年で7世紀前半、推古朝の政策。誤り。
④ 『帝紀』『旧辞』の編さんが始まったのは6世紀頃とされ、7世紀後半ではない。誤り。
問3:正解 ③(配点3)

<問題要旨>
古代における東アジア諸国からの文化や技術の受容に関して述べた文a〜dについて、正しいものの組合せを選ぶ。
a 5世紀には、進んだ技術をもつ渡来人が陵戸に編成された。
b 6世紀には、百済から渡来した五経博士をはじめとする諸博士が、儒教や暦法などを伝えた。
c 7世紀には、百済からの亡命貴族の影響もあり、漢詩文が作られるようになった。
d 8世紀には、遣唐使は遭難の危険が少ない朝鮮半島沿岸を通過するようになった。

<考え方>
a は「陵戸」という語の意味、d は遣唐使の航路の変化がポイントです。

a 渡来人は韓鍛冶部・陶部・錦織部などの品部に編成された。陵戸は天皇陵などを守る賤民の一種で、技術者集団ではない。誤り。

b 6世紀、百済から五経博士が交代で派遣され、儒教が伝えられた。医博士・易博士・暦博士も渡来している。正しい。

c 白村江の敗戦(663年)後、多くの百済貴族が亡命してその学識が伝えられ、大友皇子らのもとで漢詩文が作られた。のちの『懐風藻』に収められている。正しい。

d 遣唐使の航路は、7世紀の北路(朝鮮半島沿い)から、新羅との関係悪化により8世紀には南路(東シナ海横断)へ変わった。危険はむしろ増している。誤り。

よって b・c。

第2問 B 御霊信仰と浄土信仰(政治抗争の順序・浄土信仰・9〜10世紀の地方支配)

怨霊への恐れから生まれた御霊会と、10世紀以降の浄土信仰を軸に、8〜9世紀の政治抗争、浄土教の展開、そして地方支配の変容を問います。

問4:正解 ⑤(配点3)

<問題要旨>
あいつぐ政治抗争に関して述べた次の文Ⅰ〜Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを選ぶ。
Ⅰ 造都を主導していた藤原種継が暗殺され、早良親王が首謀者として処罰された。
Ⅱ 三筆の一人として知られる橘逸勢が、謀反を企てたとして流罪になった。
Ⅲ 政権を批判して九州で反乱を起こした藤原広嗣が敗死した。

<考え方>
奈良時代から平安初期にかけての政変を年代順に並べます。

Ⅲ 藤原広嗣の乱… 740年。玄昉・吉備真備の排除を求めて大宰府で挙兵し、敗死した。これを機に聖武天皇は遷都を繰り返した。
Ⅰ 藤原種継暗殺事件… 785年。長岡京の造営を主導していた種継が射殺され、早良親王が首謀者とされて配流の途中に死去。その怨霊が恐れられ、平安京遷都の一因ともなった。
Ⅱ 承和の変… 842年。橘逸勢と伴健岑が謀反を企てたとして配流された。橘逸勢は嵯峨天皇・空海とともに三筆に数えられる。

よって Ⅲ → Ⅰ → Ⅱ。
問5:正解 ③(配点3)

<問題要旨>
浄土信仰の興隆やその背景について述べた文として誤っているものを選ぶ。

<考え方>
仏像の制作技法の名称が決め手です。

① 末法の世に入るとされた1052年前後、藤原頼通は1053年に平等院鳳凰堂を建てた。正しい。
② 空也は10世紀に京の市中で念仏を勧め、「市聖」と呼ばれた。正しい。
③ 定朝が完成させたのは寄木造。複数の材を組み合わせることで大型の像を分業で速く作れるようになり、需要にこたえた。一木造は一本の木から彫り出す古い技法で、逆である。誤り。 ←
④ 院政期には、豊後の富貴寺大堂、陸奥の中尊寺金色堂、陸奥の白水阿弥陀堂など、地方にも阿弥陀堂が建てられた。正しい。
問6:正解 ②(配点2)

<問題要旨>
9・10世紀の地方支配に関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを選ぶ。
X 9世紀前半には、大宰府管内に公営田が設置され、直営方式による財源の確保がはかられた。
Y 10世紀前半には、荘園整理令が発布され、記録荘園券契所(記録所)が設置された。

<考え方>
Y は「記録荘園券契所がいつ置かれたか」で決まります。

X 823年、大宰府管内に公営田が設けられ、国家が直接経営して財源を確保しようとした。879年には畿内に官田(元慶官田)が置かれている。正しい。

Y 記録荘園券契所(記録所)が設置されたのは1069年、後三条天皇の延久の荘園整理令にともなうもの。10世紀前半ではなく11世紀後半である。誤り。
(荘園整理令自体は902年の延喜の荘園整理令が最初だが、記録所の設置とは結びつかない。)

第3問 A 鎌倉幕府と御恩・奉公(関東御領と守護・承久の乱の下知状・建武の新政前後)

将軍と御家人の主従関係を軸に、幕府の経済基盤と守護の職務、承久の乱の恩賞を示す史料、そして鎌倉末から建武の新政期の順序を問います。

問1:正解 ①(配点2)

<問題要旨>
鎌倉幕府の支配の基盤である主従関係に関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを選ぶ。
X 平氏から没収した荘園を含む関東御領は、幕府の経済基盤となった。
Y 守護は、天皇や将軍の御所を警護する京都大番役の催促を職務とした。

<考え方>
幕府の所領の呼び名と、守護の職務(大犯三カ条)を確認します。

X 平氏から没収した約500か所の荘園などが将軍家の所領(関東御領)となり、幕府の経済基盤となった。ほかに関東知行国(関東御分国)もある。正しい。

Y 守護の職務は大犯三カ条、すなわち大番催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕。大番催促とは、御家人に京都大番役(内裏や院御所の警護)を勤めるよう促すことである。正しい。
問2:正解 ③(配点3)

<問題要旨>
鎌倉幕府が幕府側に味方した武士に与えた文書である史料(承久3年7月26日関東下知状。備後国地毗庄について、地頭重俊の子息太郎は京方において死去したが、同次郎は御方において合戦の忠を尽くしたので、重俊の地頭職を安堵する、という内容)に関して述べた文a〜dについて、正しいものの組合せを選ぶ。

<考え方>
「京方」「御方」がそれぞれどちらを指すかを読み取ります。

史料は幕府が出した関東下知状なので、「御方」は幕府方、「京方」は後鳥羽上皇方を指す。

「同次郎、御方において合戦の忠を致しおわんぬ」とあるので、次郎は鎌倉幕府側として承久の乱に参加した。a は誤り、b が正しい。

そのうえで「しかれば重俊の地頭職、相違なく安堵せしむべき」と続く。息子の一人が幕府方に味方したので、父重俊の地頭職はそのまま認められた(安堵された)。c が正しく、d は誤り。

よって b・c。
(一族が敵味方に分かれて参戦し、どちらが勝っても家を残すという中世武士の行動がうかがえる史料でもある。)
問3:正解 ①(配点3)

<問題要旨>
鎌倉幕府の滅亡と建武の新政の前後の出来事に関して述べた次の文Ⅰ〜Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを選ぶ。
Ⅰ 元に建長寺船が派遣された。
Ⅱ 雑訴決断所が設置された。
Ⅲ 北畠親房が『神皇正統記』を著した。

<考え方>
1333年の幕府滅亡を基準に、その前か後かで分けます。

Ⅰ 建長寺船の派遣… 1325年。鎌倉幕府が建長寺の再建費用を得るために元へ送った貿易船。幕府滅亡の前。
Ⅱ 雑訴決断所の設置… 1333年。建武の新政で所領関係の訴訟を扱うために置かれた機関。
Ⅲ 『神皇正統記』… 1339年頃、南朝の正統性を主張して北畠親房が著した。建武政権崩壊後の南北朝期。

よって Ⅰ → Ⅱ → Ⅲ。

第3問 B 足利義満の時代(管領と奉公衆・座と撰銭・室町時代の対外関係)

南北朝の内乱の終息と幕府機構の整備を軸に、将軍を補佐する職と直轄軍、商業の発達を示す語句、そして室町時代の対外関係を問います。

問4:正解 ④(配点2)

<問題要旨>
空欄[ア][イ]に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ。[ア]は将軍を補佐し、足利一門の有力守護が交替で任命された職。[イ]は義満が編成した直轄軍で、地方の幕府直轄領を管理させたものである。

<考え方>
室町幕府の職制と直轄軍の名称です。

[ア]将軍を補佐する室町幕府の職は管領。細川・斯波・畠山の三氏(三管領)が交替で任命された。執権は鎌倉幕府で北条氏が世襲した職。

[イ]足利義満が編成した将軍直轄軍が奉公衆。将軍の護衛にあたるとともに、御料所(幕府直轄領)の管理も担った。評定衆は鎌倉幕府の合議機関の構成員。
問5:正解 ③(配点3)

<問題要旨>
地方での諸産業の発達と商業・流通の活発化に関して述べた次の文X・Yと、それに該当する語句a〜dとの組合せとして正しいものを選ぶ。
X 石清水八幡宮の保護のもと、大山崎を拠点に独占的な販売を行った。
Y 貨幣の需要の高まりによって粗悪な銭が流通し、良銭が求められた。
a 綿座 b 油座 c 撰銭 d 分一銭

<考え方>
大山崎で何を扱ったか、そして銭を選り分ける行為の呼び名です。

X 大山崎の油神人は石清水八幡宮を本所とし、荏胡麻から作る灯油の販売・製造を独占した。これが大山崎油座で、b。綿座は室町後期に三河などで成立したが、大山崎とは結びつかない。

Y 私鋳銭や破損した銭(悪銭)が混じるなかで、取引の際に良銭を選び悪銭を排除する行為を撰銭という。幕府や大名は撰銭令を出して流通を調整した。c。
 分一銭は徳政令に際して債権額・債務額の一部を幕府に納めさせたもので、意味が異なる。
問6:正解 ①(配点2)

<問題要旨>
室町時代の対外関係について述べた文として正しいものを選ぶ。

<考え方>
貿易品の輸出入の向き、義持の対応、画家の時代を確かめます。

① 高麗・朝鮮は倭寇の被害に苦しみ、日本に対してその取締りを繰り返し求めた。足利義満がこれに応じたことから日朝貿易が始まった。正しい。 ←
② 足利義持は明に対する朝貢形式を嫌って日明貿易を中断した。朝鮮との関係を絶ったのではない。誤り。
③ 日明貿易で日本が輸出したのは刀剣・銅・硫黄・扇・屏風など、輸入したのは明銭・生糸・絹織物・書籍・陶磁器など。輸出入が逆である。誤り。
④ 水墨画では如拙・周文・雪舟らが活躍した。藤原隆信は鎌倉時代の似絵の画家で、時代が異なる。誤り。

第4問 A 近松門左衛門と元禄文化(国性爺合戦・近世の上方・美術工芸)

近松門左衛門の経歴を導入に、『国性爺合戦』の題材、経済先進地としての上方、そして元禄期の美術工芸を問います。

問1:正解 ③(配点2)

<問題要旨>
空欄[ア][イ]に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ。[ア]は本名を杉森信盛といい、『曽根崎心中』『心中天網島』『国性爺合戦』を書いた作者。[イ]は鄭成功が再興をめざした、滅亡した中国の王朝である。

<考え方>
浄瑠璃・歌舞伎の作者と、鄭成功が仕えた王朝です。

[ア]『曽根崎心中』『心中天網島』などの世話物、『国性爺合戦』などの時代物を書いたのは近松門左衛門。竹本義太夫に浄瑠璃を、坂田藤十郎に歌舞伎の作品を提供した。井原西鶴は浮世草子の作者で、『好色一代男』『日本永代蔵』などを書いた。

[イ]鄭成功は日本人を母として平戸に生まれ、清に滅ぼされた明の再興をめざして台湾を拠点に戦った。したがって[イ]は明。
問2:正解 ④(配点3)

<問題要旨>
近世の上方について述べた文として正しいものを選ぶ。

<考え方>
人物と事業、問屋仲間の所在地、商品の産地を確かめます。

① 富士川や高瀬川などの整備を行ったのは京都の豪商角倉了以。末次平蔵は長崎の代官・貿易商で、朱印船貿易にかかわった人物。誤り。
② 十組問屋は江戸の荷受問屋仲間。大坂の積問屋仲間は二十四組問屋である。誤り。
③ 江戸時代前半は上方の下り醬油が江戸で優勢だったが、18世紀後半以降は野田・銚子など関東産の醬油が江戸市場を占めるようになった。「幕末まで独占した」は誤り。
④ 蝦夷地の俵物や昆布、日本海側の産物は、西廻り航路を通う北前船によって上方へ運ばれた。正しい。 ←
問3:正解 ③(配点3)

<問題要旨>
元禄期の美術工芸に関して、作品X(後ろを振り返る女性を描いた肉筆浮世絵)・Y(燕子花と八橋を蒔絵と螺鈿であらわした硯箱)と、それに該当する作者名a〜dとの組合せとして正しいものを選ぶ。
a 住吉如慶 b 菱川師宣 c 尾形光琳 d 野々村仁清

<考え方>
浮世絵の祖と、琳派の工芸家を思い出します。

X は「見返り美人図」で、浮世絵の祖とされる菱川師宣の肉筆画(b)。住吉如慶は住吉派を興した大和絵の絵師。

Y は「八橋蒔絵螺鈿硯箱」で、俵屋宗達の画風を受け継ぎ琳派を大成した尾形光琳の作(c)。『伊勢物語』の八橋の場面を意匠化したもの。野々村仁清は色絵陶器(京焼)の名工で、「色絵雉香炉」などを残したが、蒔絵は手がけていない。

第4問 B 1787年の政治と社会(松平定信と尊号一件・打ちこわしの史料・尊王思想)

寛政の改革が始まった1787年を軸に、老中と朝廷との対立、打ちこわしへの対応を示す史料、そして尊王思想の展開を問います。

問4:正解 ①(配点2)

<問題要旨>
空欄[ウ][エ]に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ。[ウ]は1787年に老中に就任し「寛政の改革」を始めた人物、[エ]は光格天皇がのちに幕府との間で引き起こした対立である。

<考え方>
寛政の改革を主導した老中と、光格天皇が起こした事件です。

[ウ]1787年に老中首座となり寛政の改革を進めたのは松平定信。水野忠邦は1841年からの天保の改革を主導した老中で、時期が半世紀ずれる。

[エ]尊号一件(1789〜93年)は、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとし、松平定信がこれを拒んだ事件。朝幕関係が緊張した。紫衣事件は1627年、後水尾天皇と徳川家光の時代の出来事である。
問5:正解 ①(配点3)

<問題要旨>
1787年の江戸の打ちこわしの際に先手組に出された指示の史料(御先手長谷川平蔵ほか宛。「町方騒々しき趣相聞え候に付、組のもの召し連れ、今日より相廻り、暴れ候ものども召し捕え、町奉行へ相渡さるべく候…」)に関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを選ぶ。
X 先手組に、江戸市中の見回りをするよう指示している。
Y 逮捕した者を、町奉行所に引き渡すように先手組に命じている。

<考え方>
史料の一文一文を、そのまま現代語に置きかえて確かめます。

X 「組のもの召し連れ、今日より相廻り」=配下の与力・同心を連れて今日から巡回せよ、という指示。市中の見回りを命じている。正しい。

Y 「暴れ候ものども召し捕え、町奉行へ相渡さるべく候」=暴れている者を捕らえて町奉行へ引き渡せ、という指示。正しい。

(なお「尤も手にあまり候はば、切捨てに致し候ても苦しからず候」とあり、非常時の強硬な姿勢がうかがえる。この長谷川平蔵は、のちに人足寄場の設置を建議した人物としても知られる。)
問6:正解 ②(配点3)

<問題要旨>
尊王思想の興隆に関して述べた次の文Ⅰ〜Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを選ぶ。
Ⅰ 宝暦事件において、京都で公家に尊王論を説いた竹内式部が追放された。
Ⅱ 藤田東湖・会沢安(正志斎)らが、尊王攘夷論を説いた。
Ⅲ 明和事件で、幕政を批判し尊王論を説いた山県大弐が死罪となった。

<考え方>
宝暦・明和という元号の順序と、後期水戸学の時代を押さえます。

Ⅰ 宝暦事件… 1758年。竹内式部が京都で公家に尊王論を講じたとして追放された。
Ⅲ 明和事件… 1767年。山県大弐が『柳子新論』で幕政を批判し尊王論を説いたとして死罪となった。
Ⅱ 後期水戸学… 19世紀前半。会沢安(正志斎)の『新論』(1825年)、藤田東湖らによって尊王攘夷論が体系化され、幕末の志士に大きな影響を与えた。

よって Ⅰ → Ⅲ → Ⅱ。

第5問 幕末から明治期の大坂(大阪)(将軍と天皇・世直し・大久保利通・政商)

幕末から明治期の大阪を軸に、将軍と天皇、幕末の民衆運動、大久保利通の事績、そして明治の政商を問います。

問1:正解 ④(配点3)

<問題要旨>
空欄[ア][イ]に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ。[ア]は1863年以降に西上して大坂城や二条城に滞在し、1866年に大坂城で病死した将軍。[イ]は新政府成立直後に即位したばかりの天皇である。

<考え方>
1866年に大坂城で亡くなった将軍と、明治初年の天皇です。

[ア]1866年に大坂城で病死したのは第14代将軍徳川家茂。第2次長州征討の最中のことで、これを機に幕府は撤兵し、徳川慶喜が将軍職を継いだ。徳川家定は第13代将軍で、1858年に死去している。

[イ]新政府成立直後(1868年)に「即位したばかり」なのは明治天皇。孝明天皇はその前年の1866年末に亡くなっている。大久保利通の大阪遷都論は、若い天皇を守旧的な公家から引き離す意図があった。
問2:正解 ①(配点3)

<問題要旨>
幕末期の民衆の動きに関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを選ぶ。
X 各地で、世直しを求める大規模な一揆が発生した。
Y 「ええじゃないか」とよばれる民衆の乱舞が流行した。

<考え方>
幕末の社会不安のなかで起きた民衆運動を確認します。

X 幕末には物価の高騰や凶作を背景に、年貢の減免や豪商・豪農への打ちこわしを求める世直し一揆が各地で発生した。1866年には武州世直し一揆や信達一揆が起きている。正しい。

Y 1867年、東海・畿内を中心に、伊勢神宮の御札が降ったという噂から民衆が「ええじゃないか」と唱えて乱舞する現象が広がった。これが討幕派に有利な社会状況をつくったとされる。正しい。
問3:正解 ③(配点3)

<問題要旨>
大久保利通について述べた文として正しいものを選ぶ。

<考え方>
出身藩、岩倉使節団での立場、設置した官庁を確かめます。

① 大久保利通は薩摩藩出身。木戸孝允とともに藩の実権を握ったというのは長州藩の話で、誤り。
② 大久保は岩倉使節団の副使として自ら欧米へ渡っている。「送り出したあとの国内政治を担当した」のは西郷隆盛・板垣退助らの留守政府。誤り。
③ 1873年、征韓論政変後に大久保は内務省を設置し、初代内務卿として警察・地方行政・殖産興業を統括した。正しい。 ←
④ 大阪会議(1875年)は大久保が木戸孝允・板垣退助と開いたもの。西郷隆盛は前年に下野しており、参加していない。誤り。
問4:正解 ①(配点3)

<問題要旨>
明治期の政商や実業家に関して述べた文として誤っているものを選ぶ。

<考え方>
どの財閥がどの鉱山・炭鉱を得たかを確認します。

① 三池炭鉱の払い下げを受けたのは三井(1888年)。住友が経営したのは別子銅山である。誤り。 ←
② 五代友厚は開拓使官有物払下げ事件(1881年)の当事者で、同郷の黒田清隆から不当に安く払い下げを受けようとして世論の批判を浴びた。正しい。
③ 岩崎弥太郎は海運業(郵便汽船三菱会社)で成長し、三菱財閥の基礎を築いた。正しい。
④ 古河市兵衛は足尾銅山を取得して鉱山業を営み、のちに足尾鉱毒事件を引き起こした。正しい。

第6問 A 日比谷公園と政治(血のメーデー事件・日比谷公会堂・要人殺害事件)

日比谷公園を舞台とした政治的事件を軸に、戦後の事件、公会堂で開かれた催事の年代、そして近代日本の要人殺害事件を問います。

問1:正解 ②(配点3)

<問題要旨>
空欄[ア][イ]に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ。[ア]は1952年に日比谷公園から皇居前広場に向かったデモ隊が警官隊と衝突した事件、[イ]はその発布二十周年記念祝賀会が1909年に開かれたものである。

<考え方>
1952年の事件名と、1889年に発布されたものです。

[ア]1952年5月1日、独立回復直後のメーデーで、デモ隊が使用を禁じられていた皇居前広場に入ろうとして警官隊と衝突し、死傷者が出た(血のメーデー事件)。三・一五事件は1928年の共産党員の一斉検挙。

[イ]1909年の二十年前は1889年。この年に大日本帝国憲法が発布された。普通選挙法の成立は1925年で、1909年の二十周年にはあたらない。
問2:正解 ①(配点3)

<問題要旨>
日比谷公会堂で開催された催事に関する新聞記事と広告Ⅰ〜Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを選ぶ。
Ⅰ 満州事変二周年記念大会
Ⅱ サイパン奪還国民有志大会
Ⅲ 四党代表立会大演説会(左派社会党・自由党・右派社会党・改進党)

<考え方>
それぞれの出来事の起点となる年を押さえます。

Ⅰ 満州事変の勃発は1931年9月なので、その二周年記念大会は1933年。
Ⅱ サイパン島が陥落したのは1944年7月。「奪還」を叫ぶ大会はその直後の1944年。
Ⅲ 左派社会党・右派社会党が並立していたのは、社会党が分裂した1951年から再統一する1955年まで。また改進党が存在したのも1952〜54年。したがって1952〜54年頃。

よって Ⅰ → Ⅱ → Ⅲ。
問3:正解 ④(配点3)

<問題要旨>
近代日本の要人殺害事件について述べた次の文X・Yと、それに該当する語句a〜dとの組合せとして正しいものを選ぶ。
X 初代韓国統監をつとめたこの人物は、ハルビン駅で安重根に殺害された。
Y この事件では、三井合名会社理事長の団琢磨らが殺害された。
a 原敬 b 伊藤博文 c 虎ノ門事件 d 血盟団事件

<考え方>
初代韓国統監が誰か、団琢磨が殺された事件は何かを確認します。

X 初代韓国統監をつとめ、1909年にハルビン駅で安重根に射殺されたのは伊藤博文(b)。翌1910年の韓国併合の一因ともなった。原敬は1921年に東京駅で暗殺された首相。

Y 1932年、井上日召を中心とする血盟団のメンバーが「一人一殺」を掲げ、前蔵相の井上準之助と三井合名会社理事長の団琢磨を殺害した(血盟団事件、d)。虎ノ門事件(1923年)は難波大助が摂政宮(のちの昭和天皇)を狙撃した事件。

第6問 B 内国勧業博覧会と産業(造船と製鉄・明治の出版と文化・米の生産統計)

上野公園と天王寺公園で開かれた内国勧業博覧会を導入に、工業国家への歩み、明治の出版文化、そして米の生産統計の読み取りを問います。

問4:正解 ③(配点3)

<問題要旨>
工業国家日本の出発に関して述べた次の文X・Yと、それに該当する場所a〜dとの組合せとして正しいものを選ぶ。
X 三菱に払い下げられたこの地の造船所は、大規模造船に取り組み、日清戦争後の日本の造船業を牽引した。
Y 八幡製鉄所は、この地から産出する鉄鉱石を原材料として利用した。
a 兵庫 b 長崎 c 大冶 d 筑豊

<考え方>
造船所の払い下げ先と、八幡製鉄所の原料の産地です。

X 官営長崎造船所は1887年に三菱へ払い下げられ、長崎造船所として大型船の建造を担った。日清戦争後、造船奨励法(1896年)もあって日本の造船業を牽引した。よって b。

Y 八幡製鉄所(1901年操業開始)は、鉄鉱石を中国の大冶鉄山から輸入し、石炭は近くの筑豊炭田から得た。設問は「鉄鉱石」なので大冶(c)。筑豊は石炭の産地なので、混同しないこと。
問5:正解 ③(配点3)

<問題要旨>
明治期の出版や文化について述べた文として正しいものを選ぶ。

<考え方>
掲載紙・法令の年代・雑誌の創刊時期を確かめます。

① 民撰議院設立建白書(1874年)が掲載されたのは『日新真事誌』。『中央公論』は1899年に改題創刊された総合雑誌で、時期が合わない。誤り。
② 横浜毎日新聞は1870年創刊の日本初の日刊紙。新聞紙条例は1875年の言論弾圧法令なので、それに基づいて創刊されたとはいえない。誤り。
③ 北村透谷は1893年創刊の『文学界』を舞台に、人間の内面と感情を重んじるロマン主義(浪漫主義)を唱えた。正しい。 ←
④ 大衆娯楽雑誌『キング』の創刊は1925年(大正14年)で、大正期。明治期ではない。誤り。
問6:正解 ②(配点3)

<問題要旨>
米の生産に関する統計(10年ごとの平均値。1881〜1890年の米生産量4,990千t・田耕地面積2,660千ha・1haあたり1,876kg、1911〜1920年はそれぞれ8,104・2,950・2,747)に関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを選ぶ。
X 1haあたり米生産量の増加率は、田耕地面積の増加率よりも高い。
Y 1901年以降の米生産量の上昇は、農業協同組合(農協)のもとで推進された機械化の結果である。

<考え方>
X は増加率を概算し、Y は農協がいつできたかを考えます。

X 最初と最後の期間で比べると
 1haあたり米生産量:1,876 → 2,747 kg(約1.46倍、+46 %)
 田耕地面積:2,660 → 2,950 千ha(約1.11倍、+11 %)
1haあたり収量の伸びのほうがはるかに大きい。正しい。
(この時期の増産は、耕地の拡大よりも品種改良や肥料の投入による単位面積あたり収量の向上によるところが大きかった。)

Y 農業協同組合(農協)が発足したのは、農業協同組合法が制定された1947年。1901年以降の生産上昇の原因にはなりえない。誤り。

第6問 C 記念の公園(国体の精華・長州藩出身者の内閣)

国家の節目を記念して設けられた公園を導入に、「国体」をめぐる政策と、長州藩出身者が組織した内閣の順序を問います。

問7:正解 ③(配点3)

<問題要旨>
「国体の精華」に関して述べた文として正しいものを選ぶ。

<考え方>
刊行元、法律の目的、改正の内容、宣言の条件を確かめます。

① 『国体の本義』(1937年)を刊行したのは文部省。陸軍省が発行したのは『国防の本義と其強化の提唱』(1934年)。誤り。
② 治安維持法(1925年)が禁止したのは、国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社。「共産主義否認を目的とする結社」ではまったく逆になる。誤り。
③ 1928年、田中義一内閣は緊急勅令により治安維持法を改正し、国体変革を目的とする結社の指導者に対する最高刑を死刑に引き上げた。正しい。 ←
④ ポツダム宣言には国体護持(天皇制の存続)を保証する条項はなく、日本政府はその点を照会したうえで受諾した。誤り。
問8:正解 ⑥(配点3)

<問題要旨>
長州藩出身者が組織した内閣に関して述べた次の文Ⅰ〜Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを選ぶ。
Ⅰ 寺内正毅内閣が、軍隊を出動させて米騒動を鎮圧した。
Ⅱ 桂太郎内閣が、大逆事件を契機に社会主義者を弾圧した。
Ⅲ 山県有朋内閣が、軍部大臣現役武官制を定めた。

<考え方>
三つの出来事の年をそれぞれ思い出します。

Ⅲ 軍部大臣現役武官制の制定… 1900年、第2次山県有朋内閣。同年には治安警察法も制定されている。
Ⅱ 大逆事件… 1910年、第2次桂太郎内閣。翌1911年に幸徳秋水ら12名が処刑され、社会主義運動は「冬の時代」に入った。
Ⅰ 米騒動… 1918年、寺内正毅内閣。シベリア出兵を見込んだ米の買い占めで米価が高騰し、全国に広がった騒動を軍隊で鎮圧したが、内閣は総辞職して原敬の政党内閣が成立した。

よって Ⅲ → Ⅱ → Ⅰ。

※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

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