2026年度 大学入学共通テスト 追試験「歴史総合・日本史探求」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。
解答
解説
2026年度大学入学共通テスト追試験の「歴史総合,日本史探究」は、大問6つ・小問33問、満点100点、試験時間60分で全問必答です。配点は第1問が25点、第2問〜第6問が各15点となっています。
第1問は歴史総合の範囲で、「歴史における旅とその役割」を主題とした探究学習の記録を読み進めます。第2問以降は日本史探究の範囲で、第2問が争いごとの裁定と法の整備、第3問が漆を手がかりにした古代の国家支配と税制、第4問が藤原定家と「和歌の家」、第5問が江戸時代の人々の世界認識、第6問が近現代の社会的弱者の権利獲得と待遇改善を扱います。
この回の特徴は、図・系図・分布図・グラフ・表・ノート・メモといった資料を2つ以上突き合わせないと決まらない設問が多いことです。つまずきやすいのは、①割合しか示されない表から実数を出す設問(渡航者の表)、②出来事の前後関係(英仏協商と国王訪問、日韓協約の次数、南北朝の動乱の順序)、③主体の入れ替え(裁判を担った役所、法改正を行った内閣の党派)、④「分布していない」「すべて」といった言い切りの4点。史料・資料の中の語をそのまま使って判定するのが最短路です。
第1問 「旅」からたどる宗教・指導者・移動の自由(配点25)
「歴史における旅とその役割」を主題とした探究学習の記録を読み進める大問です。A(問1〜問2)は博物館「宗教と旅」の展示から江戸時代の伊勢参りと近代のメッカ巡礼を、B(問3〜問5)はイスラーム指導者イブラヒムとダライ=ラマ13世の旅、および王族・皇族の訪問と外交関係を、C(問6〜問8)は戦後日本の海外旅行自由化とヨーロッパの域内移動自由化を扱い、最後に班活動全体のまとめを問います。
問1:正解 ①(解答番号1/配点3)
<問題要旨>
江戸時代の伊勢神宮参詣(伊勢参り)を描いた図、博物館の展示見学用ワークシート、江戸を出発する伊勢参りの旅程例の3点が与えられ、これらに関する文あ・いの正誤の組合せを選びます。ワークシートは「一般的に女性の関所の通過は取り締まられていました」と前置きしたうえで、伊勢参りではどうだったのかを図から読み取るよう促しています。旅程例は江戸→伊勢神宮(伊勢)→住吉大社(摂津)→金刀比羅宮(讃岐)→厳島神社(安芸)→北野天満宮(山城)→善光寺(信濃)→江戸という順路です。
<考え方>
資料の読み取りなので、あ・いのそれぞれについて「どの資料のどこを見れば言えるか」を分けて確かめます。あは図に描かれた参詣者の姿を見ればよく、女性の髪型と装いをした人物が一団の中に複数描かれています。ワークシートがあえて女性の関所通過に注意を向けているのも、図から女性の参詣を読み取らせる誘導です。いは旅程例の行き先の広がりを見ればよく、伊勢のほか摂津・讃岐・安芸・山城・信濃と広範囲に及んでいます。
<選択肢>
あ【正】
図には女性の髪型と装いをした参詣者が一団の中に描かれています。ワークシートが「一般的に女性の関所の通過は取り締まられていました」としたうえで「伊勢参りではどうだったのか、図から読み取ってみましょう」と促しているのも、この読み取りへの誘導です。取り締まりが一般的であっても、伊勢参りには女性も加わっていたことが図から分かります。
い【正】
旅程例は江戸を出て伊勢神宮(伊勢)だけでなく、住吉大社(摂津)・金刀比羅宮(讃岐)・厳島神社(安芸)・北野天満宮(山城)・善光寺(信濃)と各地の名所をめぐって江戸に戻ります。五街道や脇往還、宿駅の整備を背景に、伊勢神宮以外の広範囲の名所を訪れる者がいたことが読み取れます。
正解【①】
あ・いはともに正しく、あ―正、い―正の組合せとなる①が正解です。
問2:正解 ③(解答番号2/配点3)
<問題要旨>
「近代のメッカ巡礼」の解説文が与えられ、空欄アには18世紀末にエジプトを混乱させた出来事、空欄イには西洋主導の近代化・グローバル化を阻んだものが入り、その組合せを選びます。解説文は、19世紀にヨーロッパの旅行会社がインドからのメッカ巡礼のパック旅行を始めたものの、高額だったことや地理に不案内だったことから、昔からメッカに拠点を置く巡礼旅行の仲介業者との競争に敗れたと述べています。
<考え方>
空欄アは「18世紀末」という年代だけで絞れます。ナポレオン率いるフランス軍のエジプト遠征は1798年で18世紀末にあたり、イギリスのエジプト保護国化は1914年なので時期が合いません。空欄イは解説文の結論をそのまま使います。西洋の旅行会社が敗れた相手は「昔からメッカに拠点を置く巡礼旅行の仲介業者」なので、それを言い換えた語句が入ります。
<選択肢>
ア=フランス軍の侵攻【正】
ナポレオンのエジプト遠征は1798年で「18世紀末」に一致します。もう一方の「イギリスによる保護国化」は1914年のことで、100年以上ずれます(時期の前後による誤り)。
イ=伝統的な旅行手配の仕組み【正】
解説文では、近代的なヨーロッパの旅行会社が「昔からメッカに拠点を置く巡礼旅行の仲介業者」に敗れています。近代化を阻んだ側は在来の仲介業者なので、伝統的な旅行手配の仕組みが入ります。「近代的な多国籍企業」は敗れた側の性格であり、勝った側と負けた側の主体が入れ替わっています。
正解【③】
ア=フランス軍の侵攻、イ=伝統的な旅行手配の仕組みの組合せとなる③が正解です。
問3:正解 ④(解答番号3/配点3)
<問題要旨>
20世紀初頭にユーラシア各地を旅したイスラーム指導者イブラヒムの主な旅程を示した地図と、彼が訪れた都市Ⅰ〜Ⅲの説明が与えられ、通過した順に配列します。都市Ⅰは「スルタンの専制政治を倒す立憲革命が起こった都市」、都市Ⅱは「伊藤博文が安重根に暗殺された都市」、都市Ⅲは「孫文らが中国同盟会を結成した都市」と説明されています。
<考え方>
先に3つの都市名を確定させ、そのうえで旅程の向きに当てます。都市Ⅰは「スルタン」という語からオスマン帝国で、青年トルコ革命(1908年)が起こったイスタンブル。イランの君主はシャーなのでテヘランは当たりません。都市Ⅱは伊藤博文が暗殺された地(1909年)でハルビン、都市Ⅲは中国同盟会が結成された地(1905年)で東京です。旅程は、出発地がユーラシア大陸北部のシベリア方面に置かれ、矢印はそこから東へ延びて大陸を横断し、まず日本海に面した大陸側(満洲)に達します。そこから日本列島へ渡り、再び中国沿岸に戻って南下し、東南アジアを経てインド亜大陸を西へ横切り、アラビア半島を北上して地中海東岸の到着地に至ります。到着地はオスマン帝国の首都イスタンブルなので、通過順はハルビン(都市Ⅱ)→東京(都市Ⅲ)→イスタンブル(都市Ⅰ)となります。
<選択肢>
①【誤】
都市Ⅰ(イスタンブル)を最初に置いています。イスタンブルは旅程の終点である到着地で、出発後に最初に通過する都市ではありません。
②【誤】
同じく都市Ⅰ(イスタンブル)を先頭に置いており、到着地を出発直後に通過する配列になってしまいます。
③【誤】
都市Ⅱ(ハルビン)の次に都市Ⅰ(イスタンブル)を置き、都市Ⅲ(東京)を最後にしています。旅程は大陸北部から東へ進み、そこから南・西へ折り返して地中海東岸に至る一本の道筋なので、いったんイスタンブルまで西進してから東京へ戻ることはありません。
④【正】
ハルビン(都市Ⅱ)→東京(都市Ⅲ)→イスタンブル(都市Ⅰ)の順です。大陸を東へ横断して満洲に入り、日本へ渡り、中国沿岸・東南アジア・インド・アラビアを経て地中海東岸の到着地に至るという旅程の向きと一致します。
⑤【誤】
都市Ⅲ(東京)を最初に置いています。出発地は大陸北部で、日本列島に渡る前に満洲のハルビンを通ります。
⑥【誤】
都市Ⅲ(東京)→都市Ⅱ(ハルビン)→都市Ⅰ(イスタンブル)の順としており、東京とハルビンの前後が入れ替わっています。
正解【④】
ハルビン(都市Ⅱ)―東京(都市Ⅲ)―イスタンブル(都市Ⅰ)の順となる④が正解です。
問4:正解 ②(解答番号4/配点3)
<問題要旨>
ダライ=ラマ13世の1904年から1913年までの移動をまとめたノートが与えられ、空欄ウに入る語句(あ・い)と、イギリスがダライ=ラマ13世の支援要求を拒否する根拠となった資料(X・Y)の組合せを選びます。ノートには、1910年にラサへ清軍が迫って英領インドに逃れた際「イギリスはロシアとの取決めに基づき、要求を拒否した」とあり、1913年には空欄ウを経て中国の軍隊も撤退したためラサに帰還したと記されています。資料Xは香港をイギリスに与えることを皇帝が許したという内容、資料Yは両国がイランにおける利益対立の動機を回避することに合意したという内容です。
<考え方>
ウは1913年に「当時の中国の軍隊」が撤退する原因となった出来事なので、清朝を倒した辛亥革命(1911〜12年)が入ります。西安事件は1936年で、20年以上あとの出来事です。資料はノートの「イギリスはロシアとの取決めに基づき」という一文をそのまま手がかりにします。英露間の取決めとは1907年の英露協商で、イランなどでの勢力範囲を分け合った協定にあたり、資料Yの「両国は、イランにおけるそれぞれの利益に関するあらゆる対立の動機を回避する」がこれに対応します。
<選択肢>
ウ=あ(辛亥革命)【正】
1911年に始まり1912年に清朝を倒した辛亥革命により、チベットに入っていた中国の軍隊は撤退しました。1913年にラサへ帰還できた前提として年代が合います。
ウ=い(西安事件)【誤】
西安事件は1936年に張学良が蔣介石を監禁した事件で、1913年より20年以上あとの出来事です。時期がまったく合いません。
資料X【誤】
「香港一島をイギリスに与え」という内容は、アヘン戦争の講和条約である南京条約(1842年)にあたります。イギリスと清との間の条約であって、ノートがいう「ロシアとの取決め」ではありません。
資料Y【正】
「両国は、イランにおけるそれぞれの利益に関するあらゆる対立の動機を回避する」という内容は、1907年の英露協商にあたります。イギリスがロシアとの協調を崩さないためにチベットへの関与を避けた、というノートの記述の根拠になります。
正解【②】
ウには辛亥革命(あ)が入り、拒否の根拠は英露協商にあたる資料Yなので、あ―Yの組合せとなる②が正解です。
問5:正解 ③(解答番号5/配点4)
<問題要旨>
王族・皇族による訪問の事例あ〜えが与えられ、それらを比較した文として最も適当なものを選びます。事例は、あ=英仏協商締結の前年のイギリス国王によるフランス訪問、い=第3次日韓協約締結の年の日本の皇太子による韓国訪問、う=サライェヴォ事件のきっかけとなるオーストリアの帝位継承者によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ訪問、え=四カ国条約締結の前年の日本の皇太子によるイギリス訪問です。
<考え方>
「〜の前年」「〜の年」という手がかりから各事例の時期を確定させ、そのうえで訪問した側と訪問先の関係を確かめます。あは英仏協商(1904年)の前年で1903年、いは第3次日韓協約の年で1907年、うはサライェヴォ事件の1914年、えは四カ国条約が結ばれたワシントン会議期の直前で、第一次世界大戦後の1920年代初めです。時期が確定すれば、「両大戦間期」「訪問の時点で同盟を結んでいた」といった言い切りは反例を1つ探すだけで落とせます。
<選択肢>
①【誤】
あ・うがドイツを抑えるために協調した事例だとしますが、うのボスニア・ヘルツェゴヴィナは1908年にオーストリアが併合した自国領で、国同士の協調ではありません。しかもオーストリアはドイツと三国同盟を結ぶ側であり、対独協調にはあたりません。対独協調に当てはまるのはあ(英仏協商)だけです。
②【誤】
訪問の時点で同盟を結んでいたとしますが、あは英仏協商締結の前年(1903年)の訪問で、この時点でイギリスとフランスの間に同盟も協商もありません。国王の訪問が協商成立を後押しした側なので、因果が逆になっています。
③【正】
いの訪問先である韓国では、保護国化に対して義兵運動やハーグへの密使派遣など日本への反発が広がっていました。うの訪問先であるボスニア・ヘルツェゴヴィナでも、併合したオーストリアへのセルビア系住民の反発が強く、それが帝位継承者の暗殺(サライェヴォ事件)につながりました。訪問先で訪問した側の国への反発が起こっていた点で共通します。
④【誤】
両大戦間期の出来事だとしますが、いは第3次日韓協約が結ばれた1907年の訪問で、第一次世界大戦(1914年開始)より前です。第一次世界大戦後にあたるのはえだけで、時期は共通しません。
正解【③】
訪問先で訪問した側の国への反発が起こっていたという共通点をもつのはい・うの事例なので、③が正解です。
問6:正解 ④(解答番号6/配点3)
<問題要旨>
1964年の海外旅行自由化以降の日本人海外渡航者について、渡航者総数と渡航目的(観光・商用・その他)の割合を示した表が与えられ、表から読み取れることやその背景を述べた文あ〜えのうち正しいものの組合せを選びます。表の数値は、1965年が渡航者総数163,000人(観光29%・商用48%・その他23%)、1971年が961,000人(66%・26%・8%)、1977年が3,151,000人(84%・14%・2%)です。
<考え方>
表が示すのは割合なので、「渡航者数」を問う文は必ず総数×割合で実数に直します。1965年の観光目的は163,000×29%≒47,000人で10万人に届きません。商用目的は1971年が961,000×26%≒250,000人、1977年が3,151,000×14%≒441,000人で、割合は48%→26%→14%と下がっているのに実数は増えています。残るう・えは、表が示す1965〜77年という時期に起こったかどうかを年代で判定します。
<選択肢>
あ【誤】
海外旅行自由化の翌年は1965年で、観光目的の渡航者数は163,000人×29%=約47,000人。10万人を超えていません。割合の29%だけを見て実数を出さないと誤りに気づけない、割合と実数の混同を突いた文です。
い【正】
ドル=ショックは1971年。商用目的の渡航者数は1971年が961,000人×26%=約250,000人、1977年が3,151,000人×14%=約441,000人なので、実数は増えています。割合が下がっていることと混同しないよう注意します。
う【誤】
神武景気は1954〜57年で、表が示す1965〜77年より前の好況です。この時期にあたるのはいざなぎ景気(1966〜70年)で、景気の名称と時期が入れ替わっています。
え【正】
日本の国民総生産(GNP)が資本主義国の中で第2位となったのは1968年で、表が示す時期に含まれます。高度経済成長による所得の増加が、観光目的の渡航者の急増を支えました。
正解【④】
正しいのはい・えで、④が正解です。
問7:正解 ③(解答番号7/配点3)
<問題要旨>
1980年代以降の旅行に関する動きをまとめたノートが与えられ、そこから読み取れることや背景を述べた文として最も適当なものを選びます。ノートには、プラザ合意による先進国間の為替レート調整が日本人の海外渡航に影響したこと、1985年にヨーロッパ共同体(EC)に加盟するいくつかの国が域内移動に関してパスポート管理を廃止するシェンゲン協定に調印し、1995年に実施されたことが記されています。
<考え方>
ノートに書かれている内容を言い換えただけの選択肢と、ノートの外の年代知識で真偽が決まる選択肢に分けて処理します。シェンゲン協定については「域内移動に関して、パスポート管理を廃止する」とノートに明記されているので、これを言い換えた文が正しくなります。残りはプラザ合意後の為替の方向、ユーロ導入の年、東西ドイツ統一の年で判定します。
<選択肢>
①【誤】
プラザ合意(1985年)はドル高是正のための協調介入で、以後は急速な円高が進みました。円安と円高が逆になっています。日本人の海外渡航が増えたのも円高で渡航費が実質的に安くなったためで、円安では説明がつきません。
②【誤】
ヨーロッパ連合(EU)が成立したのは1993年(マーストリヒト条約発効)で、単一通貨ユーロの導入は1999年(現金の流通開始は2002年)です。同時ではなく、時期の前後による誤りです。
③【正】
ノートに「域内移動に関して、パスポート管理を廃止するシェンゲン協定」と明記されています。協定の実施により、参加国の域内では国境での出入国審査なしに自由に移動できるようになりました。
④【誤】
東西ドイツの統一は1990年で、シェンゲン協定の実施(1995年)より前の出来事です。前後が入れ替わっています。
正解【③】
ノートに明記されたシェンゲン協定の内容をそのまま言い換えた③が正解です。
問8:正解 ②(解答番号8/配点3)
<問題要旨>
班活動のまとめとして作成された2つのメモの正誤を判断します。メモ1は、1班が扱った江戸時代の伊勢参りと3班が扱った現代社会の旅の事例から、それぞれの時代における地域内の移動や国境を越えた移動が徐々に衰退していく状況が読み取れるとします。メモ2は、2班が扱ったイブラヒムやダライ=ラマ13世の事例から、彼らが宗教的に共通する諸民族と連携することで大国に対抗しようとしたことが読み取れるとします。
<考え方>
メモが引いている事例に戻って、方向が合っているかを確かめます。伊勢参りは交通網の整備を背景に広範囲の名所をめぐる旅が流行した事例、現代社会の事例は渡航者総数が16万3千人から315万1千人へ増え、ヨーロッパでもパスポート管理が廃止された事例で、いずれも移動の拡大を示します。一方イブラヒムは「ムスリムが連帯することで列強に対抗できる」と考えた人物、ダライ=ラマ13世はチベット仏教信仰を共有するモンゴルと相互に独立を確認する条約を結んだ人物で、どちらも宗教を共有する相手との連携による大国への対抗にあたります。
<選択肢>
①【誤】
メモ1のみ正しいとしますが、メモ1の「徐々に衰退していく」は事例の示す方向と逆です。伊勢参りの流行、渡航者数の急増、パスポート管理の廃止はいずれも移動の拡大を示しています。
②【正】
メモ1は移動が衰退したとする点で誤りです。メモ2はイブラヒムのムスリムの連帯による列強への対抗、ダライ=ラマ13世のモンゴルとの相互独立を確認する条約という事例の内容と合致し、正しいといえます。
③【誤】
メモ1が事例と逆の方向をまとめているため、二つとも正しいとはいえません。
④【誤】
メモ2は宗教を共有する相手との連携という事例の内容と合致しているので、二つとも誤っているとはいえません。
正解【②】
メモ1は移動の方向を逆にとらえており誤り、メモ2は事例と合致して正しいので、②が正解です。
第2問 争いごとの裁定と法の整備(配点15)
カオルさんとシュンさんが、日本における争いごとの裁定や法の整備の歴史を調べる会話です。A(問1〜問2)は浅草寺絵馬に描かれた呪術的な裁定方法と戦国大名の分国法を、B(問3〜問5)は公事方御定書から旧刑法・大日本帝国憲法に至る過程と罪刑法定主義を扱います。
問1:正解 ②(解答番号9/配点3)
<問題要旨>
江戸時代末期の浅草寺絵馬を模写した図が与えられ、『隋書』倭国伝に記された「図のような裁定方法」について述べた文あ・いの正誤の組合せを選びます。図には、火にかけた釜から湯気が上がり、袖をまくった人物がそこへ手を入れようとする場面が描かれています。
<考え方>
図に描かれた動作と、『隋書』倭国伝が倭国について記した時期を分けて考えます。『隋書』倭国伝が伝える裁定方法は、沸かした湯の中に置いた小石を争う者に探らせ、手のただれで真偽を判断するもので、盟神探湯と呼ばれ、会話文にある中世の湯起請につながります。もう一方は、その裁定方法が行われた時期に「女性の特徴を示す土製品」を用いる風習があったかを問うので、その土製品が何で、いつのものかを確かめれば決まります。
<選択肢>
あ【正】
『隋書』倭国伝は、沸かした湯の中に小石を置いて争っている者に探らせ、理のない者は手がただれると記しています。熱湯に手を入れて神に真偽の判断を仰ぐ盟神探湯にあたり、会話文で触れられる中世の湯起請も同じ系統の裁定方法です。
い【誤】
「女性の特徴を示す土製品」は縄文時代の土偶で、豊かな収穫や集団の繁栄を祈る風習と結びつきます。一方『隋書』倭国伝が倭国について記すのは7世紀初めのことで、縄文時代とは時期が大きくずれています(時代の合わない事象を混ぜた誤り)。
正解【②】
あは正しく、いは土偶の時期が合わないため誤り。あ―正、い―誤の②が正解です。
問2:正解 ①(解答番号10/配点3)
<問題要旨>
戦国大名の分国法のうち、争いごとの裁定について記した一節(資料1)が与えられ、資料1に関して述べた文あ〜えのうち正しいものの組合せを選びます。資料1は「用水のことは、慣例通りにせよ」と定め、上流の人が従来の用水の流路を妨げることを禁じ、上流と下流の人が慣例を根拠に争って双方の主張に証拠がなく正否を判断できない場合は「万民を育むという趣旨から用水を通せ」と規定しています。
<考え方>
史料問題なので、資料1の中に書かれている語だけで判定します。慣例に関する規定があるか、神に委ねる文言があるか、双方の主張が食い違ったときの基準があるか、双方を処罰する規定があるかを、条文に照らして1つずつ確かめます。記憶している分国法の知識で補わないことが大切です。
<選択肢>
あ【正】
冒頭の「用水のことは、慣例通りにせよ」と、上流の人が従来の流路を妨げてはいけないという禁止は、慣例を基準とすることで争いの発生を防ごうとする規定です。
い【誤】
資料1に神に委ねるという文言はありません。判断できない場合の基準として示されているのは「万民を育むという趣旨から用水を通せ」という現実的な処理で、呪術的な裁定とは別のものです。会話文に出てくる湯起請と取り違えないよう注意します。
う【正】
「上流と下流の人が、相互に慣例を根拠に流路をめぐって争った場合は、それぞれの主張に証拠が無くて主張の正否を判断できなければ…用水を通せ」と、双方の主張が食い違って決着しないときの裁定基準を定めています。
え【誤】
喧嘩両成敗法は争った双方をともに処罰する規定で、今川氏の「今川仮名目録」などに見られますが、資料1にはそうした処罰の規定がありません。資料にない語を持ち込んだ誤りです。
正解【①】
正しいのはあ・うで、①が正解です。
問3:正解 ③(解答番号11/配点3)
<問題要旨>
会話文の下線部「公事方御定書では、裁判や刑罰の基準が定められ、死刑の適用範囲が狭められた」という変化について、その変化がもたらされた前提となる時代の様相として最も適当なものを選びます。
<考え方>
公事方御定書は徳川吉宗のもとで1742年に編まれた幕府の裁判・刑罰の基準です。「前提となる」とあるので、1742年より前に起こり、死刑の適用範囲を狭める方向に人々の意識を動かした事柄を選びます。選択肢の年代を一つずつ確かめれば、1742年より後のもの、時代がまったく違うものは落ちます。
<選択肢>
①【誤】
諸大名や幕臣に広く意見を求めて国家的課題の解決を試みたのは、ペリー来航後の阿部正弘による幕政で1850年代のことです。公事方御定書(1742年)より100年以上あとなので、「前提となる時代」にはなりません。
②【誤】
無宿人を人足寄場に収容して更生を促したのは、松平定信の寛政改革による石川島人足寄場(1790年)です。公事方御定書より後の政策なので、前提にはあたりません。
③【正】
徳川綱吉が出した服忌令(1684年)は、近親者の死に際して喪に服し忌引をする日数を定め、生類憐みの令とともに殺生や死の穢れを嫌う意識をつくりました。公事方御定書(1742年)に先立つ時期の様相であり、死刑の適用範囲が狭められる前提にあたります。
④【誤】
古代以来の神仏習合が否定されて神道と仏教が分離されたのは、明治初年の神仏分離令(1868年)によるものです。近世の事象の前提として明治期の政策を挙げており、時代が合いません。
正解【③】
死刑の適用範囲が狭まる前提として、殺生や死の穢れを嫌う意識をつくった服忌令を挙げる③が正解です。
問4:正解 ②(解答番号12/配点3)
<問題要旨>
罪刑法定主義の原則に適合しているかを考察させる資料2・3が与えられ、その考察内容として最も適当なものを選びます。資料2は「法律に基づく処罰は国家にとって重要であり…しかし何をどう罰するかは、役人のほかには示してはいけない」、資料3は「法律に明記されていない行為を処罰対象とすることはできない」という内容です。
<考え方>
判定基準は会話文の中に書かれています。シュンは罪刑法定主義を「何を犯罪とみなし、どの犯罪行為にはどのような処罰が相当かを、明文規定を設けて公開する」「法令の根拠なしに犯罪として処罰できない」と説明しています。つまり、明文規定があること、それが公開されていること、法令の根拠のない処罰を認めないことの3点で、資料2・3をそれぞれ照らせばよいことになります。
<選択肢>
①【誤】
資料2のみ適合しているとしますが、資料2は「何をどう罰するかは、役人のほかには示してはいけない」と、罰の内容を役人の内部にとどめています。会話文が挙げる「明文規定を設けて公開する」という条件を満たしません。
②【正】
資料2は罰の内容を公開しない点で罪刑法定主義に反します。資料3は「法律に明記されていない行為を処罰対象とすることはできない」と、法令の根拠のない処罰を禁じており、罪刑法定主義に適合します。
③【誤】
資料2が公開の要件を欠いているため、資料2・3とも適合しているとはいえません。
④【誤】
資料3は「法令の根拠なしに犯罪として処罰できない」という罪刑法定主義の中核をそのまま述べているので、資料2・3とも適合していないとはいえません。
正解【②】
罪刑法定主義に適合しているのは資料3のみなので、②が正解です。
問5:正解 ④(解答番号13/配点3)
<問題要旨>
法の整備や争いごとの裁定について述べた文のうち、適当でないものを選びます。会話文がたどった、唐の律の参照から公事方御定書と明・清の律、新律綱領・改定律例、旧刑法と大日本帝国憲法という流れも手がかりになります。
<考え方>
適当でないものを1つ選ぶ型なので、①〜③が成り立つことを確かめたうえで、残る選択肢を検証します。近代の設問では内閣の党派と政策を入れ替える誤りが定番なので、「選挙権拡張」と「死刑を加える法改正」がそれぞれどの内閣・どの年のものかを分けて確かめます。
<選択肢>
①【適当】
盟神探湯は古代に律令が制定された後も行われ、中世には湯起請として続きました。会話文もこの点に触れており、適当な記述です。
②【適当】
1275年の紀伊国阿テ河荘の百姓の訴状のように、荘園の百姓たちが地頭の非法を荘園領主に訴えた事例があります。適当な記述です。
③【適当】
古代の律令は唐の律令、江戸時代の公事方御定書は明・清の律、明治初期の新律綱領・改定律例も中国法の影響を受けています。会話文の流れとも合う適当な記述です。
④【適当でない】
選挙権拡張(普通選挙法)と治安維持法の制定は1925年の加藤高明内閣(護憲三派)によるもので、このときの治安維持法に死刑の規定はありませんでした。私有財産制度を否認する結社の指導者に死刑を科せるようにしたのは1928年の治安維持法改正で、田中義一内閣(立憲政友会)のときです。選挙権拡張と死刑規定の追加は別の内閣による別の年の措置であり、「同時に」とする点が誤りです。
正解【④】
選挙権拡張と治安維持法への死刑規定の追加を同一内閣の同時の措置とする④が、適当でない文です。
第3問 漆からみる古代国家の支配と税制(配点15)
漆が税として納められていたことに興味を持ったカズミさんが、漆を手がかりに古代の国家の支配や税制を考えていく構成で、A・Bの区分はなく問1〜問5が並びます。養老令の桑・漆の植栽規定と調の副物(問1)、『延喜式』の漆の貢納国を示した分布図(問2)、漆の窃盗事件を伝える『続日本紀』の記事(問3)、秋田城跡出土の漆紙文書(問4)、他の時代の漆の使用との比較(問5)が順に問われます。
問1:正解 ②(解答番号14/配点3)
<問題要旨>
養老令の2つの条文(資料1・2)が与えられ、それらに関して述べた文として最も適当なものを選びます。資料1は戸の等級ごとに桑と漆を植えさせる本数(上の戸は桑三百根・漆百根以上、中の戸は桑二百根・漆七十根以上、下の戸は桑百根・漆四十根以上)を定め、資料2は調として絹・絁・糸・綿・布とその土地の特産物を納めること、調の副物として正丁一人あたり漆三勺を納めることを定めています。
<考え方>
まず資料1が課しているのが「植樹」なのか「貢納」なのかを、条文の述語で確かめます。「植えさせよ」なので栽培の義務であり、貢納量の規定ではありません。そのうえで、資料1の桑が資料2の調に挙がる絹・絁・糸・綿(養蚕の産物)の、漆が調の副物の漆の、それぞれ原料にあたることをつなげます。後半の2つは、調を都まで運んだ担い手と、調が中央・地方どちらの財源かという律令の税制の基本で決まります。
<選択肢>
①【誤】
資料1の述語は「植えさせよ」で、戸の等級ごとに植える本数を定めた栽培の義務です。貢納する量を定めた条文ではありません。栽培義務と貢納義務をすり替えた誤りです。
②【正】
資料1が植えさせる桑は、資料2の調に挙がる絹・絁・糸・綿の原料(養蚕の飼料)であり、漆は調の副物として納める漆の原料です。資料1は、資料2に見られる調や調の副物の一部を貢納するために必要な樹木の栽培を課した条文といえます。
③【誤】
調や庸を都まで運んだのは、農民自身が担った運脚です。雑徭は国司の指揮のもとで年間60日以内働く地方の労役で、都への運搬ではありません。税目の役割を入れ替えた誤りです。
④【誤】
調は都に運ばれて中央政府の財源となる税であり、諸国で管理・貯蔵されたのではありません。諸国の正倉に蓄えられて地方の財源となったのは田租(租)です。中央財源と地方財源を入れ替えた誤りです。
正解【②】
資料1の植栽義務が資料2の調・調の副物の貢納につながることを述べた②が正解です。
問2:正解 ③(解答番号15/配点3)
<問題要旨>
漆が落葉樹であることを踏まえ、『延喜式』に記された漆の貢納国を塗り分けた図1が与えられ、図1について述べた文あ・いの正誤の組合せを選びます。図1で塗られているのは、若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・信濃と続く北陸から中部日本海側の帯、中国地方の数か国、九州北西部、伊豆・駿河付近で、陸奥・出羽や関東には塗られた国がありません。
<考え方>
あは「分布していない」という言い切りなので、反例を1つ探せば落とせます。完新世になって照葉樹林が広がったのは温暖な西日本ですが、図1では九州北西部や中国地方の数か国が漆の貢納国として塗られており、西日本にも分布していることになります。いは輪島塗の産地がどの国にあたるかを確かめます。輪島は能登国(現在の石川県輪島市)にあり、図1で能登半島は塗られています。
<選択肢>
あ【誤】
完新世になって照葉樹林が広がったのは温暖な西日本です。しかし図1では九州北西部や中国地方の数か国が漆の貢納国として塗られており、西日本にも分布しています。反例が1つ見つかるだけで「分布していない」という言い切りは成り立ちません。
い【正】
輪島塗が生まれた輪島は能登国(現在の石川県輪島市)にあたります。図1で能登半島は塗られており、『延喜式』に記された漆の貢納国に含まれています。
正解【③】
あは西日本の貢納国という反例があるため誤り、いは能登が塗られているため正しく、あ―誤、い―正の③が正解です。
問3:正解 ③(解答番号16/配点3)
<問題要旨>
720年に漆部司の漆を盗んで流罪とされた丈部路忌寸石勝について、その子ら三人が官の奴婢となることで父の罪を贖うと申し出たところ、天皇が詔して石勝の罪を赦し、同罪の秦犬麻呂は刑部省の判決どおり配流としたという『続日本紀』の記事(資料3)が与えられ、資料3に関して述べた文あ〜えのうち正しいものの組合せを選びます。注では、漆部司が大蔵省に所属する役所で、様々な物品の漆塗り作業を行っていたと示されています。
<考え方>
史料の中の語をそのまま使って判定します。裁判を担当した役所は、資料3の「犬麻呂は刑部省の判決によって配流とする」という一文で決まります。処罰の変更については「天皇は詔して…父石勝の罪をゆるしなさい」と書かれています。漆が取引された場について述べた2文は、720年=平城京の時代という年代で切り分けます。
<選択肢>
あ【誤】
資料3は「犬麻呂は刑部省の判決によって配流とする」と記しています。裁判を担当したのは刑部省で、漆部司を管轄する大蔵省ではありません。管轄する役所が裁判も担当したように読み替えた、主体の入れ替えによる誤りです。
い【正】
刑部省の判決で一度は流罪と決まった石勝について、「天皇は詔して…求めるところによって、父石勝の罪をゆるしなさい」と命じています。律令制下でも、一度決まった処罰内容が天皇の判断で変更される場合があったことが読み取れます。
う【正】
720年は平城京の時代で、京内には市司(東市司・西市司)が管轄する東市・西市が開かれていました。漆に商品価値があり、そこで取引されていたから盗まれたと推測できます。
え【誤】
寺社の門前などで開催された定期市(三斎市など)は中世の市の形態で、720年には存在しません。時代の合わない語を混ぜた誤りです。
正解【③】
正しいのはい・うで、③が正解です。
問4:正解 ②(解答番号17/配点3)
<問題要旨>
秋田城跡から出土した漆紙文書(図2)と、それについて調べたノート1が与えられ、傍線部「都野臣縄刀自売」が口分田班給の対象か否か(空欄ア)と、戸籍が漆紙文書となっていることから考えられること(空欄イ)の組合せを選びます。図2には「女都野臣縄刀自売年十五」とその区分「小女」が読め、ノート1には、漆紙文書が不要になった文書の再利用であること、図2が9世紀半ば以前の戸籍の一部と推定され、出土した遺構は9世紀後半のものと考えられることが記されています。
<考え方>
空欄アは口分田の班給条件で決まります。班田収授法では良民の男女とも6歳以上に口分田が班給され(男は2段、女はその3分の2)、図2の「縄刀自売」は年十五・小女なので対象に入ります。空欄イは、ノート1の「不要になった文書が…再利用され」という説明と、戸籍(9世紀半ば以前)と出土遺構(9世紀後半)の年代差を組み合わせます。保存年限を過ぎて不要になった戸籍が、漆の容器の蓋紙に転用されたと考えられます。
<選択肢>
ア=対象【正】
口分田は良民の男女とも6歳以上に班給されます。図2の「都野臣縄刀自売」は年十五で区分が「小女」なので6歳以上にあたり、班給の対象です。「対象外」とすると女性には班給されなかったことになり、班田収授法の内容と合いません。
イ=保管期間の過ぎた戸籍は廃棄されていた【正】
ノート1は漆紙文書を「不要になった文書が漆塗りの作業の際に…再利用され」たものと説明し、図2の戸籍は9世紀半ば以前、出土遺構は9世紀後半のものとしています。保存年限を過ぎて不要になった戸籍が廃棄・転用されたと考えられます。もう一方の「9世紀半ばには戸籍の制度が廃止されていた」は事実に反し、戸籍はその後も作成されています。
正解【②】
ア=対象、イ=保管期間の過ぎた戸籍は廃棄されていた、の組合せとなる②が正解です。
問5:正解 ④(解答番号18/配点3)
<問題要旨>
他の時代における漆の使用や漆塗工人についてまとめたノート2が与えられ、その下線部①〜④のうち、8世紀には見られない事柄を選びます。ノート2には、7世紀後半の当麻寺四天王像のような①乾漆像、12世紀後半の「造物所」の「塗師」から分かる②朝廷の組織に属する漆塗工人、1285年の東寺の塔造営から分かる③寺院での漆塗り作業、15世紀後半の興福寺「龍花院座塗師」に見られる④漆塗工人の同業者組合が挙げられています。
<考え方>
下線部が指す「事柄」を取り出し、それが8世紀にもあったかを、資料3やノート1に戻って確かめます。資料3(720年)には大蔵省に所属する漆部司があり、ノート1には漆紙文書が8世紀や9世紀の寺院跡からも出土し、出土遺跡は漆塗りが行われていた場所と考えられるとあります。残る2つは、乾漆像が盛んに作られた時期と、同業者組合(座)が成立した時期で判定します。
<選択肢>
①【8世紀にも見られる】
乾漆像は奈良時代に盛んに制作された技法で、興福寺の八部衆像・十大弟子像や東大寺法華堂の不空羂索観音像などがあります。8世紀にも見られる事柄です。
②【8世紀にも見られる】
資料3の注に、漆部司が大蔵省に所属する役所であり、様々な物品の漆塗り作業を行っていたと示されています。720年の時点で、朝廷の組織に属する漆塗工人が存在したことが分かります。
③【8世紀にも見られる】
ノート1に、漆紙文書が「8世紀や9世紀の寺院跡からも出土している」「漆紙文書の出土遺跡は、漆塗りが行われていた場所と考えられる」とあります。8世紀の寺院でも漆塗りの作業が行われていたことになります。
④【8世紀には見られない】
漆塗工人の同業者組合、すなわち本所のもとで結ばれた座は中世の組織で、11世紀以降に成立して室町時代に広がりました。ノート2も15世紀後半の興福寺の例として挙げています。律令制下の8世紀には見られない事柄です。
正解【④】
同業者組合(座)は中世の組織で8世紀には見られないため、④が正解です。
第4問 藤原定家と「和歌の家」(配点15)
モリオさんとミドリさんが中世の歌人・藤原定家について調べる会話です。A(問1〜問3)は定家を中心とした系図と『明月記』の記事から家職の継承と『百人一首』の編者問題を、B(問4〜問5)は定家の孫の代に分かれた二条・京極・冷泉三家と、南北朝の動乱、戦国時代の冷泉為和の地方下向を扱います。
問1:正解 ④(解答番号19/配点3)
<問題要旨>
会話文の空欄アには摂政・関白を継承した藤原道長が属する藤原氏の系統が、空欄イには武芸を家職とし、その中から後に武家の棟梁が登場した人々が入り、その組合せを選びます。
<考え方>
アは藤原道長がどの系統に属するかで決まります。藤原不比等の四子から南家(武智麻呂)・北家(房前)・式家(宇合)・京家(麻呂)に分かれ、道長は北家の出で、その子孫の家(のちの五摂家)が摂関を継承しました。イは「武芸を家職にした」「その中から後に武家の棟梁が登場する」という条件に合う語を選びます。清和源氏や桓武平氏のように武士を率いる家柄となったのは軍事貴族です。
<選択肢>
ア=北家【正】
摂政・関白を継承した藤原道長は、藤原房前に始まる北家の系統です。もう一方の「式家」は藤原宇合の系統で、平城太上天皇の変(薬子の変)で藤原仲成らが失脚して以後は衰え、摂関を継承していません。
イ=軍事貴族【正】
武芸を家職とし、その中から武家の棟梁(清和源氏・桓武平氏)が現れたのは軍事貴族です。「在庁官人」は国衙で実務を担った在地の役人を指す語で、武芸を家職とした身分を指すものではありません。
正解【④】
ア=北家、イ=軍事貴族の組合せとなる④が正解です。
問2:正解 ②(解答番号20/配点3)
<問題要旨>
藤原定家を中心とした系図と、1235年の『明月記』の記事(資料)をもとに、図・資料に関して述べた文として最も適当なものを選びます。系図には、俊成と美福門院加賀の子が定家、美福門院加賀と藤原為経の子が隆信、定家の子が為家、為家と宇都宮頼綱の女子の子が京極為教・二条為氏、為家と阿仏尼の子が冷泉為相と示されています。資料では、下野国の御家人である宇都宮頼綱に頼まれて定家が色紙に和歌を書き、「古くは天智天皇から藤原家隆・雅経まで、歌人一人につき、一首ずつ選んだ」と記しています。
<考え方>
系図と資料それぞれから確かめられることを分けて処理します。系図で見るのは、誰と誰が婚姻したか(宇都宮頼綱の女子と為家)、誰が誰の母か(冷泉為相の母は阿仏尼)、定家の異父兄弟は誰か(母を同じくする隆信)です。資料で見るのは選んだ和歌の年代の上限で、「古くは天智天皇から」と書かれていることが決め手になります。
<選択肢>
①【誤】
定家の異父兄弟は、母の美福門院加賀が藤原為経との間に生んだ隆信で、似絵の名手として知られます。正風連歌を確立したのは15世紀の宗祇で、時代が3世紀近くずれています。
②【正】
系図では、下野国の御家人である宇都宮頼綱の女子が、貴族である定家の子・為家と婚姻し、京極為教・二条為氏を生んでいます。御家人の娘が貴族の息子と婚姻関係を結ぶことがあったと読み取れます。
③【誤】
系図では冷泉為相の母は阿仏尼で、鎌倉への旅を記した『十六夜日記』の作者として知られます。かなを主に用いて『土佐日記』を記したのは紀貫之で、人物を入れ替えた誤りです。
④【誤】
資料は「古くは天智天皇から藤原家隆・雅経まで」と記しています。天智天皇は7世紀の人物で、最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の成立(905年)よりはるかに前です。勅撰和歌集の編集が始まった時期以後に詠まれたものに限ったとはいえません。
正解【②】
系図から御家人の娘と貴族の息子の婚姻が読み取れるので、②が正解です。
問3:正解 ①(解答番号21/配点3)
<問題要旨>
『百人秀歌』について調べたノートが与えられ、ノートに関して述べた文あ・いの正誤の組合せを選びます。ノートには、定家が勅撰和歌集の編集を2回担当したこと、『百人秀歌』『百人一首』にはそれらの編集以前に勅撰和歌集に採用された和歌のみが選ばれていること、後鳥羽上皇と順徳上皇の和歌は『百人一首』のみに収められ、この2首は定家没後に編集された勅撰和歌集に初めて収められたことが記されています。
<考え方>
あは定家が編集した勅撰和歌集を思い出せば決まります。定家は後鳥羽上皇の命による『新古今和歌集』(1205年)と、九条道家の依頼による『新勅撰和歌集』(1235年)の2度、勅撰和歌集の編集にあたっており、ノートの「2回担当した」とも合います。いはノートの3つの記述を順につなぎます。『百人一首』には後鳥羽・順徳両上皇の歌が入っている、両集は編集以前に勅撰和歌集に採られた歌のみを選ぶ、その2首が初めて勅撰和歌集に入ったのは定家没後、の3点を並べると、『百人一首』の編集は定家の没後でなければ成り立ちません。
<選択肢>
あ【正】
定家が編集を担当した勅撰和歌集は『新古今和歌集』と『新勅撰和歌集』の2つで、そのうち『新古今和歌集』は後鳥羽上皇の命によって編まれた勅撰和歌集です。
い【正】
ノートによれば、『百人一首』に入る後鳥羽・順徳両上皇の和歌が勅撰和歌集に初めて収められたのは定家没後です。他方で『百人一首』は編集以前に勅撰和歌集に採られた和歌のみを選んでいます。両方を満たすには『百人一首』の編集が定家没後でなければならず、定家の存命中に完成したものではないと考えられます。
正解【①】
あ・いはともに正しく、あ―正、い―正の①が正解です。
問4:正解 ⑥(解答番号22/配点3)
<問題要旨>
「鎌倉幕府が滅亡するなど、政治の混乱と戦争が続く時代」に起こった出来事Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に配列します。Ⅰは幕府が軍費調達のために近江・美濃・尾張の守護に国ごとに荘園・公領の年貢の半分を徴収することを認めたこと、Ⅱは将軍の執事であった高師直と将軍の弟であった足利直義との間で武力抗争が始まったこと、Ⅲは北条高時の子が鎌倉幕府再興を目指して蜂起し、鎌倉を一時占領したことです。
<考え方>
それぞれの出来事に固有名詞を当てて年を出します。Ⅰは半済令で1352年、Ⅱは観応の擾乱で1349〜50年、Ⅲは中先代の乱で1335年です。半済令は観応の擾乱で乱れた軍費を調達するために出されたので、Ⅱ→Ⅰの順は因果の面からも確かめられます。
<選択肢>
①【誤】
Ⅰ(半済令・1352年)を最初に置いており、Ⅲ(1335年)・Ⅱ(1349〜50年)より後の出来事を先頭にしています。
②【誤】
同じくⅠ(1352年)を先頭に置いています。半済令は観応の擾乱ののちの軍費調達策で、三つのうち最も新しい出来事です。
③【誤】
Ⅱ(観応の擾乱・1349〜50年)を最初に置いていますが、Ⅲの中先代の乱(1335年)の方が古い出来事です。
④【誤】
Ⅱ(1349〜50年)→Ⅲ(1335年)→Ⅰ(1352年)の順としており、ⅡとⅢの前後が入れ替わっています。
⑤【誤】
Ⅲ(1335年)→Ⅰ(1352年)→Ⅱ(1349〜50年)の順としており、ⅠとⅡの前後が入れ替わっています。
⑥【正】
Ⅲ 中先代の乱(1335年)→Ⅱ 観応の擾乱の開始(1349〜50年)→Ⅰ 半済令(1352年)の順で、年代順に正しく並んでいます。
正解【⑥】
中先代の乱(1335年)―観応の擾乱(1349〜50年)―半済令(1352年)の順となる⑥が正解です。
問5:正解 ①(解答番号23/配点3)
<問題要旨>
戦国時代の歌人・冷泉為和が1531年以降に滞在したことが確認できる場所を示した地図が与えられ、地図から読み取れることや戦国時代の文化・社会に関連して述べた文あ〜えのうち正しいものの組合せを選びます。地図に示されているのは京都・坂本・七尾・駿府・甲府・小田原・熱海の7か所です。
<考え方>
地図に載っている地名と載っていない地名を先に押さえます。示されている7か所のうち、七尾は能登畠山氏、駿府は今川氏、甲府は武田氏、小田原は北条氏の本拠地にあたります。会合衆が市政を運営した町は堺ですが、地図に堺はありません。残る2文は、戦国大名と京文化の関係、および寺内町の成立事情という一般知識で判定します。
<選択肢>
あ【正】
地図の七尾は能登畠山氏、駿府は今川氏、甲府は武田氏、小田原は北条氏の本拠地です。冷泉為和が滞在したことが確認できる場所のなかに戦国大名の本拠地が含まれています。
い【誤】
会合衆と呼ばれる豪商の合議で市政が運営されたのは堺で、地図に堺は示されていません(博多を運営したのは年行司)。地図にない町を持ち込んだ誤りです。
う【正】
戦国大名は京文化への憧れや古典学習への意欲をもち、戦乱の京都を離れた公家や僧侶を招きました。冷泉為和が各地で和歌を教授し、桂庵玄樹が薩摩で薩南学派を開いたように、地方で和歌や儒学の講義が行われています。
え【誤】
寺内町は浄土真宗(一向宗)の寺院・道場を中心に形成された町で、石山・富田林・今井などがあります。越前国の永平寺(曹洞宗)や紀伊国の金剛峯寺(真言宗)を中心に発達したのは門前町で、町の種類を入れ替えた誤りです。
正解【①】
正しいのはあ・うで、①が正解です。
第5問 江戸時代の人々はどう世界を知ったか(配点15)
リンさんとカヨさんが、江戸時代の人々が世界のことをどのように知ったのかを調べる会話です。A(問1〜問3)は新井白石『采覧異言』と山村昌永『訂正増訳采覧異言』の国別記載分量から対外関係を読み、徳川吉宗の政治も問われます。B(問4〜問5)はアヘン戦争を伝えた『海外新話』の流通と、幕末期の対外接触の調べ方を扱います。
問1:正解 ②(解答番号24/配点3)
<問題要旨>
「貿易は統制されたけれども、様々な交流や情報伝達はあった」という下線部に関連して、江戸時代の対外関係について述べた文として最も適当なものを選びます。
<考え方>
各選択肢に含まれる年代・主体・品目を1つずつ確かめます。「江戸幕府の成立と同時に」「幕府によって関係を途絶させられた」「金から銀に切り替えた」のように、時期・主体・対象のどれかが差し替えられているのが定番なので、教科書的な事実と照合して落としていきます。
<選択肢>
①【誤】
大名や豪商の朱印船が東南アジア各地に進出したのは江戸幕府成立後も続いており、日本人の海外渡航が全面的に禁じられたのは1635年です。「江戸幕府の成立と同時に」禁じられたのではなく、時期の前後による誤りです。
②【正】
オランダ船が長崎に来航すると、商館長(カピタン)は海外の情報を記した報告書を幕府に提出することになっていました。これがオランダ風説書で、貿易が統制されても海外情報が入ってきたことを示す例であり、下線部の趣旨にも合います。
③【誤】
琉球王国は薩摩藩の支配下に置かれた後も中国(明・清)との朝貢関係を続け、日中両属の状態にありました。幕府が中国との関係を途絶させたのではありません。
④【誤】
海舶互市新例(1715年)は新井白石の建議で長崎貿易の額を制限しましたが、これは金銀の海外流出を防ぐためで、輸出の主力はその後、銀から銅・俵物へ移っていきました。「主要な輸出品を金から銀に切り替えた」は方向が逆で、品目もずれています。
正解【②】
オランダ商館長が海外情報の報告書(オランダ風説書)を幕府に提出していたことを述べた②が正解です。
問2:正解 ④(解答番号25/配点3)
<問題要旨>
『采覧異言』の本文行数と『訂正増訳采覧異言』で追加された訂正行数を国別に並べたグラフが与えられ、空欄ア〜ウにポルトガル・オランダ・ロシアのいずれかが入るとして、考察内容あ〜えのうち正しいものの組合せを選びます。グラフの値はおよそ、アが本文45行・追加130行、イが本文38行・追加12行、イタリアが18行・23行、スペインが10行・23行、イギリスが10行・42行、ウが本文7行・追加330行です。
<考え方>
まずグラフの数値から国を割り当てます。ウは本文が約7行と最も少ないのに追加が約330行と飛び抜けて多く、19世紀初頭に急に情報が増えた国なのでロシアです。会話文は「記載分量の違いには、日本と各国との関係の深まりや交流の有無が影響している」と述べているので、この原則を使います。追加が約130行と大きく増えているアは、蘭学の興隆で新しい知識が大量に入ったオランダ。追加が約12行にとどまるイは、交流が断たれて新情報が入らなかったポルトガルとなります。ウ=ロシアの背景は、使節を送っての通商要求に幕府がどう応じたかで決まります。
<選択肢>
あ【誤】
イをオランダと見て「交流が継続していて関係に変化がなかったから記述が増えていない」とする筋ですが、会話文の原則では交流が続いていれば新しい情報が入り、記述は増える方向に働きます。実際に追加が約130行と大きく増えているアがオランダにあたり、追加が約12行にとどまるイには当てはまりません。因果が逆になっています。
い【正】
イは『采覧異言』の本文が約38行でアに次いで多いのに、追加された訂正は約12行にとどまります。ポルトガル船の来航が禁じられた1639年以降、日本との関係は途絶しており、19世紀初頭に『訂正増訳采覧異言』が書かれた時点では新しい情報が入っていなかったためと考えられます。
う【誤】
ロシアはラクスマン(1792年、根室)やレザノフ(1804年、長崎)を送って通商を求めましたが、幕府はいずれも受け入れず退去させています。「幕府がそれを受け入れて関係が深まった」は事実に反し、因果が逆になっています。
え【正】
ラクスマン・レザノフの通商要求を幕府は拒み、蝦夷地の直轄や北方の海防強化を進めました。こうして接触と緊張が高まった結果、ロシアについての情報が大きく増え、記述が約330行も追加されたと考えられます。
正解【④】
イ=ポルトガル、ウ=ロシアと押さえれば、正しいのはい・えとなり、④が正解です。
問3:正解 ④(解答番号26/配点3)
<問題要旨>
「徳川吉宗が漢訳洋書の輸入に関する規制を緩和したり、オランダ語を学ばせたりした」という下線部の政治について述べた文として、適当でないものを選びます。
<考え方>
下線部の主体は徳川吉宗なので、対象は享保の改革です。選択肢に挙がる政策が吉宗のものか、田沼意次・松平定信・水野忠邦のものかを分けて確かめます。とくに株仲間の扱いは改革ごとに方向が逆になるので、公認したのか解散させたのかを区別することが決め手になります。
<選択肢>
①【適当】
在職中のみ禄高を加増して人材登用に伴う負担を減らす制度は足高の制で、徳川吉宗が定めました。大岡忠相や田中丘隅らの登用につながっています。
②【適当】
金銭貸借に関係する訴訟を幕府が受け付けず、当事者同士で解決させたのは相対済し令(1719年)で、吉宗の政策です。増加した金公事を減らすことが目的でした。
③【適当】
民衆の意見を取り入れるための制度は目安箱で、その投書をもとに貧民のための医療施設として小石川養生所が設けられました。いずれも吉宗の政策です。
④【適当でない】
流通を独占していた株仲間を解散させたのは、物価引き下げを狙った水野忠邦の天保の改革(1841年の株仲間解散令)です。吉宗や田沼意次は株仲間を公認して営業税を取る方向をとっており、政策の主体と時期が入れ替わっています。
正解【④】
株仲間の解散は水野忠邦の天保の改革による政策で、徳川吉宗のものではないため、④が適当でない文です。
問4:正解 ①(解答番号27/配点3)
<問題要旨>
『海外新話』について調べたノートが与えられ、波線部「外国同士のある戦争」の戦況を知った幕府の対応(あ・い)と、ノートを踏まえて考察した内容(X・Y)の組合せを選びます。ノートには、『海外新話』が1849年に刊行され翌年に発禁処分を受けたが処分後も重版が出回ったこと、「清国略図」に「夷人」の侵略地が示され世界地図に「英夷」の支配地が赤く塗られていること、吉田松陰が読んでいること、伊勢国の津に住む儒者が江戸の門人にさらに数部送るよう頼んでいることが記されています。
<考え方>
波線部の戦争を特定するのが出発点です。「清国略図」「英夷」という語から、イギリスと清が戦ったアヘン戦争(1840〜42年)と分かります。その戦況を知った幕府の対応は、異国船打払令を改めて漂着船に薪水や食料を与えることにした天保の薪水給与令(1842年)です。X・Yは、ノートに書かれた事実(発禁後も重版が出回った、長州の吉田松陰や伊勢国津の儒者が読もうとしている)と整合するかどうかで決まります。
<選択肢>
あ【正】
アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知った幕府は、1825年の異国船打払令を改め、1842年に天保の薪水給与令を出して、漂流してきた異国船に薪や水などを与えることにしました。波線部の戦況を受けた対応にあたります。
い【誤】
日本に来航する異国船をためらうことなく打ち払うよう命じたのは1825年の異国船打払令(無二念打払令)で、アヘン戦争(1840〜42年)より前の措置です。前後が逆になっています。
X【正】
ノートには、長州の吉田松陰が『海外新話』を読み、伊勢国津の儒者が江戸の門人にさらに数部を送るよう求め、発禁処分後も重版が出回っていたと記されています。江戸・京都・大坂の三都以外にも文化人や知識人がいて、海外の情報に需要があったことが読み取れます。
Y【誤】
幕府は発禁処分にしましたが、ノートには「処分後も重版が出回っていた」とあり、津の儒者のもとには3部が届いています。書物そのものが流通しているので、「手紙での伝聞情報でしか海外の情報を入手できなかった」とはいえません。
正解【①】
幕府の対応はあ(天保の薪水給与令)、考察はXが適当で、あ―Xの組合せとなる①が正解です。
問5:正解 ③(解答番号28/配点3)
<問題要旨>
「江戸時代には外国の人との直接の接触の機会は限られていたと思うけれど、幕末期になると、様々なかたちで西洋人に接触する機会が増えた」という下線部に関して浮かんだ疑問あ・いと、それぞれについての調べ方W〜Zの組合せを選びます。疑問あは幕末期以前に東アジアの人々から入手した情報や文化、疑問いは幕末期に海外に赴いた人々が日本にもたらしたものです。
<考え方>
疑問の側の2つの条件(対象地域と時期)を、調べ方の側の条件と突き合わせます。あは「東アジア」「幕末期以前」なので、派遣・来日の相手が東アジアであることが必要です。いは「幕末期」「海外に赴いた人々」なので、明治期の事例は外れます。地域と時期のどちらかが合わない選択肢を落とせば決まります。
<選択肢>
あ=X【正】
将軍の代替わりごとに派遣された使節は朝鮮からの通信使で、東アジアからの情報や文化の入手にあたり、時期も幕末期以前です。Wの田中勝介は1610年に派遣されていますが、派遣先はノビスパン(メキシコ)で東アジアではないため、あの疑問には答えられません。
い=Y【正】
幕府や諸藩が欧米諸国に派遣した留学生の帰国後の経歴を調べれば、幕末期に海外へ赴いた人々が日本に何をもたらしたのかが分かります。Zの岩倉使節団に同行した女子留学生(津田梅子ら)は1871年の派遣で明治期にあたり、「幕末期」という条件に合いません。
正解【③】
あには朝鮮通信使との交流を調べるX、いには幕末の留学生を調べるYが対応し、③が正解です。
第6問 社会的弱者の権利獲得と待遇改善(配点15)
ジュンさんが、近現代を中心に社会的弱者の権利獲得や待遇改善について考察していく構成で、A・Bの区分はなく問1〜問5が並びます。前近代の救済事例をまとめた表(問1)、楽善会の新聞広告(問2)、障がい者・患者の当事者運動をまとめたノート(問3)、パラリンピックに出場した傷痍軍人の感想(問4)を順に扱い、問5で三つの事例の特徴を比較します。
問1:正解 ①(解答番号29/配点3)
<問題要旨>
前近代における社会的弱者の救済事例をまとめた表が与えられ、表に関する文あ〜うの正誤について述べた文として最も適当なものを選びます。表には、古代の事例として光明皇后が悲田院・施薬院を設けたこと、中世の事例として忍性が北山十八間戸を建てたこと、近世の事例として徳川綱吉の生類憐みの令に救済の対象として捨子も含まれていたことが挙げられています。
<考え方>
あ〜うをそれぞれ独立に判定し、正しいものがいくつあるかを数えます。あは光明皇后と徳川綱吉がともに仏教に帰依した人物かどうか、いは忍性が活動した時期、うは七分積金・町会所がいつ誰の政策かで決まります。時代の取り違えが問われているので、それぞれに年代を添えて確かめるのが確実です。
<選択肢>
あ【正】
光明皇后は聖武天皇の皇后で、国分寺の建立や東大寺大仏の造立を支えた篤い仏教信者でした。徳川綱吉も仏教に帰依し護国寺の建立などを行っており、生類憐みの令は殺生を戒める仏教的な考え方を背景としています。ともに仏教に帰依した人物による救済という点で共通します。
い【誤】
忍性は律宗の僧で、奈良に病人救済施設として北山十八間戸を建てたのは鎌倉時代(13世紀半ば)のことです。「室町時代から始まった」は時期が1世紀以上ずれています。
う【誤】
七分積金と江戸の町会所は、松平定信の寛政改革(1791年)で設けられた制度です。徳川綱吉の生類憐みの令(17世紀後半)とは別の時代・別の政策であり、それを伴ったとはいえません。
正解【①】
正しいのはあだけなので、「あのみ正しい。」とする①が正解です。
問2:正解 ②(解答番号30/配点3)
<問題要旨>
明六社の会員である中村正直らが明治初期に組織した楽善会の新聞広告(資料1、1877年)が与えられ、資料1の内容・社会的背景に関して述べた文あ・いの正誤の組合せを選びます。資料1は、障がい者・患者に教育を授けて社会の一員とすることを人としての義務とし、「全てを政府に委託せず自ら負担して善事を図らなければならない」として、視覚障がい者を対象とした教育施設である訓盲院を設立し、「自営自立できるようにしたい」と述べています。
<考え方>
あは資料1の文言と、当時流行した思想との対応を見ます。「自営自立できるようにしたい」「全てを政府に委託せず自ら負担して」は、個人の独立や自主を重んじる西洋近代思想と対応し、中村正直自身が明六社の会員で『西国立志編』を訳した啓蒙思想家です。いは資料1の年(1877年)と、官営製鉄所が設立された時期を比べれば決まります。
<選択肢>
あ【正】
資料1は障がい者が「自営自立できるようにしたい」と述べ、「全てを政府に委託せず自ら負担して善事を図らなければならない」と人民の自助を説いています。中村正直が『西国立志編』を訳して自助の精神を広めたように、個人の独立や自主志向の大切さを説く西洋近代思想の流行に対応しています。
い【誤】
官営の八幡製鉄所が操業を開始したのは1901年で、資料1の1877年より20年以上あとです。1877年はまだ官営模範工場による軽工業中心の段階であり、重工業の発展を背景とすることはできません。時期の前後による誤りです。
正解【②】
あは資料1の文言と啓蒙思想の対応から正しく、いは官営製鉄所の時期が合わないため誤り。あ―正、い―誤の②が正解です。
問3:正解 ④(解答番号31/配点3)
<問題要旨>
近現代日本の障がい者・患者の当事者運動の歴史をまとめたノートが与えられ、空欄アに入る病名と空欄イに入る語句の組合せを選びます。ノートは、アについて「近代化に伴って拡大し、長く日本人の主な死亡原因の一つ」「繊維産業で働く女性労働者も、多くアに感染して死亡」とし、1948年にア患者が全国団体を組織したことを記しています。イについては「日本が降伏の際に受諾した」もので、これによって連合国が日本を占領し、民主化・非軍事化の占領方針に基づき軍人恩給が廃止されたとしています。
<考え方>
アはノートの説明文の条件をすべて満たす病名を選びます。「近代化に伴って拡大」「長く日本人の主な死亡原因の一つ」「繊維産業で働く女性労働者に多い」は、製糸・紡績工場の女工に広がった結核の特徴で、『職工事情』『日本之下層社会』にも記録があります。イは「日本が降伏の際に受諾した」という一点で決まります。
<選択肢>
ア=結核【正】
結核は産業革命期に製糸・紡績工場の女性労働者を中心に広がり、長く日本人の主要な死亡原因でした。1948年には患者が日本患者同盟を組織して療養環境の改善を求めています。「ペスト」は日本人の主な死亡原因ではなく、繊維産業の女性労働者と結びつく病でもありません。
イ=ポツダム宣言【正】
1945年8月に日本が降伏に際して受諾したのはポツダム宣言です。「カイロ宣言」は1943年にアメリカ・イギリス・中国が発表した対日方針の声明で、日本が受諾したものではありません。日本が受け入れた文書と、連合国が一方的に出した宣言とをすり替えた形です。
正解【④】
ア=結核、イ=ポツダム宣言の組合せとなる④が正解です。
問4:正解 ①(解答番号32/配点3)
<問題要旨>
1964年の東京オリンピックとともに開催されたパラリンピックに出場した傷痍軍人・青野繁夫の感想(資料2、1965年の要約)をもとに、1964年の東京オリンピックについて述べた文あ・いと、資料2から推測される内容X・Yの組合せを選びます。資料2は問題冊子では省略されています。X・Yはともに「日本と同じ敗戦国であるドイツやイタリアを例示することで」何を述べようとしたかを問うもので、Xは日本の福祉制度の遅れの指摘、Yは福祉よりも経済を優先すべきという主張とします。
<考え方>
あ・いは資料2を使わず、東京オリンピックをめぐる事実だけで判定できます。X・Yは、設問が示す書き手の立場と、この大問の枠組みから絞ります。青野繁夫はパラリンピックに出場した傷痍軍人、つまり待遇改善を求める当事者であり、この大問は障がい者・患者による権利獲得や待遇改善の主張を追う構成です。同じ敗戦国であるドイツやイタリアを引き合いに出すのは、比較によって自国の福祉の立ち遅れを示して説得力を高める書き方であり、当事者が福祉よりも経済を優先すべきだと主張することにはなりません。
<選択肢>
あ【正】
1964年の東京オリンピック開催に合わせて東海道新幹線が開業(1964年10月)し、首都高速道路や名神高速道路など高速道路の整備も進められました。
い【誤】
日本のテレビ放送が始まったのは1953年で、東京オリンピックの11年前です。オリンピックを機に普及したのはカラーテレビと衛星中継であり、放送の開始そのものを結びつけるのは時期の誤りです。
X【正】
青野繁夫はパラリンピックに出場した傷痍軍人、すなわち待遇改善を求める当事者です。日本と同じ敗戦国でありながら福祉制度を整えたドイツやイタリアを例に挙げるのは、比較によって日本の福祉制度の遅れを指摘し、主張の説得力を高める書き方として自然です。
Y【誤】
福祉よりも経済を優先すべきだという主張は、障がいを負った当事者が療養環境や待遇の改善を求めるという、この大問が追ってきた当事者運動の立場と正面から対立します。同じ敗戦国を例示する意味づけとしても、福祉を後回しにする根拠として使うのは不自然です。
正解【①】
東海道新幹線の開業と高速道路の整備を述べたあが正しく、資料2は日本の福祉制度の遅れを指摘するものと推測されるので、あ―Xの①が正解です。
問5:正解 ③(解答番号33/配点3)
<問題要旨>
これまで調べた三つの事例(資料1の楽善会・訓盲院、ノートの障がい者・患者の当事者運動、資料2の青野繁夫の感想)の特徴をまとめた文のうち、いずれの事例にもあてはまらないものを選びます。
<考え方>
「いずれにもあてはまらない」型なので、選択肢ごとに当てはまる事例を1つ挙げられるかを試し、1つも挙げられないものが正解になります。三つの事例の主体を整理すると、資料1は明六社会員らが組織した民間の団体、ノートはハンセン病患者・結核患者・傷痍軍人という当事者の団体、資料2は当事者本人の主張です。政府が主体として現れるのはノートの隔離強化と軍人恩給の廃止だけで、差別を禁止する法律は出てきません。
<選択肢>
①【あてはまる】
資料1の訓盲院は視覚障がい者が「自営自立できるようにしたい」という趣旨で設立され、資料2の青野繁夫はパラリンピックに出場しています。障がい者・患者が自らの努力によって自身の障がいや病を乗り越えようとした事例にあたります。
②【あてはまる】
ノートでは、長島愛生園の入所者が施設の統制的な管理に反対して自治を主張し、結核患者が全国団体を組織して療養環境の改善を要望し、傷痍軍人が軍人恩給の復活と充実を求めて全国団体を結成しています。資料2も待遇改善を訴える当事者の主張です。
③【あてはまらない】
政府が法律で差別を禁止し、社会的障壁を取り除いて障がい者・患者の社会参加を可能にしようとした事例は、三つの中にありません。ノートに現れる政府の動きは、ハンセン病患者の隔離を強化するための療養所設置と、占領方針に基づく軍人恩給の廃止であり、差別を禁止する立法ではありません。資料1も民間の楽善会による施設設立です。
④【あてはまる】
資料1の楽善会は、明六社の会員である中村正直ら社会的影響力のある人物が組織し、訓盲院という教育施設を整えようとした事例にあたります。
正解【③】
政府が法律で差別を禁止して社会的障壁を取り除こうとした事例は三つの中にないため、③が正解です。
※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

