解答
解説
第1問
問1:正解2
<問題要旨>
幕末から明治初期にかけて締結された通商条約(いわゆる安政条約など)に関する基本的理解を問う問題です。下線部の条文内容として、どのような規定が盛り込まれたかがポイントになります。
<選択肢>
①【誤】
「江戸と京都を開市することが定められた」とありますが、実際に開かれたのは横浜・函館・長崎などの港であり、江戸や京都は直接「開市」されませんでした。
②【正】
欧米人(この場合アメリカ人)は、開港場に設けられた外国人居留地でのみ貿易活動が認められました。幕府は安政条約などを通じて、外国人が日本国内を自由に行き来しないよう一定の制限を設けたため、この内容が正しいと考えられます。
③【誤】
日本側が米船に石炭や食料を提供することを定めた条項は、1854年の「日米和親条約」などで取り決められた内容です。「下線部a」で示された“通商条約”では貿易体制の要件が中心であり、③のような補給規定を直ちに読みとることはできません。
④【誤】
治外法権(領事裁判権)とは、アメリカ人が日本国内で罪を犯した場合、アメリカの領事裁判で裁かれるという内容です。選択肢の文は「法を犯した日本人がアメリカの領事裁判にかけられる」旨を述べていますが、それは当時の条約の趣旨とは異なるため誤りです。
問2:正解4
<問題要旨>
明治期の日本の通貨制度(銀本位制と金本位制)と、国際的な金銀比価の動きとの関係を読み取る問題です。下線部X・Yそれぞれの内容が事実に即しているかどうかを確認する必要があります。
<選択肢(X・Y)>
X:日本が銀本位制を採用した時点(1885年)から金本位制を採用した時点(1897年)までの間に、銀の価値が「半分以下」にまで下落したかどうか
Y:日本が銀本位制を採用した時点で、安政の五カ国条約(幕末に締結した条約)の相手国がすべて金本位制だったかどうか
①【X 正・Y 正】
両方とも正しいという立場ですが、史実を踏まえると疑問があります。よって慎重に検討が必要です。
②【X 正・Y 誤】
Xが正しいかどうかが最大のポイントになります。銀の価値下落が「半分以下」というほど急激だったかどうか、当時の国際市場を見てもやや行き過ぎた表現と考えられます。
③【X 誤・Y 正】
Xを誤りとし、Yを正しいとする立場ですが、Yも安政の五カ国条約の締結相手国すべてが早期に金本位制へ移行していたわけではない点が問題となります。
④【X 誤・Y 誤】
国際的には銀価が下落したのは確かですが、「半分以下」というほどかどうかは断定しにくく、Xの表現は行き過ぎと考えられます。またYについても、当時すでに金本位制を採用していた国は多いものの、ロシアやフランスなど、一時的に複本位制や異なる通貨制度の状況があった国も存在したため、「すべて金本位制」と言い切るのは誤りとなります。
したがってX・Yともに誤りと判断できるため、この選択肢④が妥当です。
問3:正解3
<問題要旨>
日清戦争後から1930年前後までの日本の貿易や産業構造の変化を問う問題です。各選択肢が当時の貿易収支や国内産業政策、世界大戦の影響などと矛盾しないかどうかを見極めることが重要です。
<選択肢>
①【正】
日清戦争後、紡績業(綿糸・綿布生産)は海外輸出の主要産業へと成長しました。その一方、原料となる綿花は安価な外国産に頼るようになり、国内の綿作が衰退したことは事実と一致します。
②【正】
第一次世界大戦期には、戦時需要の拡大によって日本は一時的に輸入超過から輸出超過へ転じました。しかし大戦後、欧州の復興が進むと、日本の対外輸出は伸び悩み、再び輸入超過に戻ったことが知られています。
③【誤】
浜口雄幸内閣(立憲民政党)は1929年からの世界恐慌期に金解禁政策を進めた一方、緊縮財政(デフレ政策)をむしろ継続しました。そのため「緊縮財政からの転換」を図って貿易赤字の解消をめざした、という説明は事実と異なります。
④【正】
犬養毅内閣は1931年末に金輸出再禁止を実施し、円相場の下落(円安)によって輸出が伸びたことは史実と合致します。
問4:正解4
<問題要旨>
1930年代の日本の貿易構造を、表1・表2(輸出入品目や植民地との貿易相手国など)から読み取り、文章 a ~ d の真偽を組み合わせて答える問題です。植民地向け輸出入と外国向け輸出入を比較しながら、当時の外貨獲得策などを理解することが求められます。
<選択肢(a~d)>
a【誤】
「植民地への輸出が輸出全体の30%を超える規模に達し、外貨の獲得に寄与した」という内容ですが、提示された統計(表1)ではその割合はそこまで大きくない可能性があります。数字を読み取ると輸出全体に占める植民地向けは一定の比率ながら、30%超は言い過ぎと考えられます。
b【正】
表1から植民地からの輸入は食料品がもっとも多いことがわかります。そのため「外貨の節約」に貢献している、という趣旨の文言は妥当です。
c【誤】
1938年時点の表2をみると、日本の植民地はイギリス・フランスなど列強本国の市場に「強く依存していた」というほどかどうか、問題文の資料からは認めにくい部分があります。むしろ朝鮮や台湾は日本本国とのやり取りの比率が高かったとされています。
d【正】
「表2の空欄アに入るのはアメリカ、空欄イに入るのはオランダ」という判断について、提示データ(比率や当時の列強植民地支配の状況)を総合すると妥当性が高いと考えられます。
以上より、正しいのは b と d のみである「④ b・d」が妥当です。
問5:正解1
<問題要旨>
日中戦争期(支那事変)からアジア太平洋戦争(太平洋戦争)期にかけて、日本が軍需物資や労働力などをいかに総動員し、どのように資源を確保しようとしたかを問う問題です。
<選択肢>
①【正】
1938年に制定された国家総動員法により、議会の承認を得ずに労働力や物資を動員できるようになりました。政府に強力な統制権が与えられたのは事実です。
②【誤】
アメリカやイギリスなどが中国(中華民国)に物資を送るルートを遮断するため…というのは、日本が重慶政府を牽制しようとした史実に近いですが、「日本は重慶を占領した」という文言が含意されているようなら誤りか、あるいは表現の根拠がはっきりしない点があります。
③【誤】
「東南アジアの資源を獲得することを目的にマレー半島へ進駐したので、アメリカは対日石油輸出を禁止した」という因果関係は逆で、当時は仏領インドシナ進駐などを受けてアメリカが禁輸に動いたと見るのが通説です。時期や順序に微妙な差異があるため、そのまま正しいとは言えません。
④【誤】
中国や東南アジアの占領地において日本軍が軍票を用いたのは事実ですが、「占領以前から現地通貨として流通していた軍票」とは言い難いです。占領後に日本軍が発行して流通させたものが軍票でした。
問6:正解1
<問題要旨>
朝鮮戦争や東南アジアでの対立(中華民国と中華人民共和国の問題)など、東アジア情勢が複雑化する中で、日本の貿易相手として「どの国・政権」が台頭していったのかを問う問題です。下線部の史料には、当時の日本政府首脳と中華民国(国民政府)の代表との会談内容が言及されています。
<選択肢(X・Y)>
X:朝鮮戦争が継続する中で、中華人民共和国との貿易が困難になったため、日本では東南アジア貿易に期待する動きがあった
Y:共産主義に対抗し、西側諸国との連携強化を図りたい中華民国(国民政府)は、日本と東南アジアとの貿易促進に便宜を供与しようとした
①【X 正・Y 正】
資料の文意から、日本が共産圏との貿易に踏み切りにくい環境下であったこと、および中華民国政府が対日協力の姿勢を示したことが読み取れます。よってX・Yともに概ね史料と合致すると考えられます。
②【X 正・Y 誤】
Yの部分は資料の発言(張群氏が「華僑との貿易を促進して日本を支援する」と述べた点)と食い違うため、Yを誤りとする根拠は乏しいです。
③【X 誤・Y 正】
Xが誤りとなると、朝鮮戦争下での日本の行動方針との矛盾が生じます。史実では共産圏との直接貿易が難しかったため、東南アジアとの貿易に活路を見出そうとしたことは事実です。
④【X 誤・Y 誤】
両方とも誤りとするのは、史料から読み取れる内容と大きく矛盾します。
以上より、X・Yともに正しい①が妥当です。
問7:正解5
<問題要旨>
戦後から高度経済成長期にかけて、日本が為替制度(固定為替相場制から変動為替相場制への移行)や国際経済体制(IMF8条国への移行など)にどのように対応し、貿易環境を変化させていったかを時系列で整理する問題です。
<選択肢(I~III)>
I:アメリカの軍事支出増大により国際収支が悪化したため、アメリカが経済政策を転換し、固定為替相場から変動為替相場へ移行した(1971年のニクソン・ショック前後)
II:日本の対米貿易黒字拡大を受け、先進5か国財務相・中央銀行総裁会議(G5)でドル高是正が合意され(プラザ合意、1985年)、円高不況が表面化した
III:高度成長を背景として、貿易や資本の自由化が進行し、IMFの8条国へ移行した(1960年代前半~後半の流れ)
年表にするとおおむね
(1) 1960年代前半~半ば:経済成長に伴う貿易自由化 → IMF8条国へ
(2) 1971年:ドルと金の交換停止(ニクソン・ショック) → 固定相場制の崩壊へ
(3) 1985年:プラザ合意 → 円高不況
という順序が妥当です。
よって「III → I → II」の順が正しいため、選択肢⑤が該当します。
第2問
問8:正解5
<問題要旨>
ペリー来航以後の幕末期に起きた諸事件の年代関係を整理し、I・II・IIIの出来事を時系列順に配列する問題です。
Iは公武合体路線を推し進めようとする薩摩藩の要望を受けて始まった幕政改革(「文久の改革」)を示す内容、IIは長州藩が京都に出兵して会津・薩摩藩に敗れた禁門の変(1864年)を指す内容、IIIは欧米諸国との貿易が始まった翌年(1859年開港の翌年・1860年前後)に定められた五品江戸廻送令を示すものと考えられます。
これらを正確な年代順(古い→新しい)に並べると、III(1860年)→I(1862年)→II(1864年)となります。
<選択肢>
①【誤】 I → II → III
I(1862年)→II(1864年)→III(1860年)の順番は年代が前後しているため誤りです。
②【誤】 I → III → II
I(1862年)→III(1860年)→II(1864年)と、IIIがIより古いはずなのに順番が逆転しており誤りです。
③【誤】 II → I → III
II(1864年)→I(1862年)→III(1860年)の順で、さらに時系列が大きく前後しており誤りです。
④【誤】 II → III → I
II(1864年)→III(1860年)→I(1862年)の順で、これも実際の年代と合致しません。
⑤【正】 III → I → II
III(1860年)→I(1862年)→II(1864年)が正しい年代の流れであり、史実に合致します。
⑥【誤】 III → II → I
III(1860年)→II(1864年)→I(1862年)の順で、最後のIがIIより年代的に古いのに後ろに来ているため誤りです。
問9:正解2
<問題要旨>
「大政奉還」や幕末政治の動きに関して述べた史料を参照し、そこに示された徳川慶喜の意図(X)と、その後の王政復古の大号令などをめぐる出来事(Y)を正しく把握できているかを問う問題です。
<選択肢>
①【X 正・Y 正】
両方を正しいとする立場ですが、Yに関しては時期の関係などで疑義が生じます。慎重に判断が必要です。
②【X 正・Y 誤】
Xは史料1の文言どおり、徳川慶喜が「外国との交際が盛んになるなかで朝廷のもとに政権を統一すべき」と主張した意図を述べているので正しいと考えられます。一方、Yの「大政奉還後、鳥羽・伏見の戦いに勝利した権力両藩がその後に王政復古の大号令を出した」という表現は時系列が逆転しています。王政復古の大号令(1867年12月)が出た後に鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)が起こったため、この選択肢ではYが誤りとなります。
③【X 誤・Y 正】
Xが史料の内容と矛盾するため誤りとする理由は薄く、またYだけを正しいとする根拠も時期関係から難があります。
④【X 誤・Y 誤】
Xは史料から読み取れるかぎり正しい意図として理解できるため、Xを誤りとするのは不適切です。Yも大枠で事実関係が食い違う点を考えると、両方誤りとはできません。
以上より、Xが正しく、Yが誤りである②が妥当です。
問10:正解1
<問題要旨>
明治政府による条約改正の動きを示した文X・Yと、それぞれに該当する用語a~dを正しく組み合わせる問題です。外務大臣がどのように条約改正に取り組んだか、また明治政府が初めて対等な内容で結んだ条約は何かを見極める必要があります。
<選択肢(X・Y と a~d)>
X:外務大臣として条約改正に取り組んだが、外国人判事を大審院に任用する案が大きな反発を招き、一青年に負傷させられた人物を示す。
Y:明治政府が初めて対等な内容で結んだ条約で、相互に開港し領事裁判権を相互承認する趣旨を持つ。
a:大隈重信
b:榎本武揚
c:日清修好条規
d:日英通商航海条約
①【X → a、Y → c】
大隈重信は1880年代に外務大臣として条約改正を進める際、外国人判事任用問題で世論の猛反発を受け、爆弾テロで負傷しました。これはXの内容と符合します。また、日清修好条規(1871年)は日本が清国と結んだ初の対等条約であり、Yに合致します。よって X-a、Y-c の組み合わせが正しいと考えられます。
②【X → a、Y → d】
d(日英通商航海条約)は1894年に陸奥宗光によって締結されたものであり、明治政府にとって初めての“完全な対等条約”とまでは言い切れない面があります。よってYの説明とは微妙に異なります。
③【X → b、Y → c】
榎本武揚(b)は旧幕臣であり、明治政府の外務大臣として外国人判事任用を巡ってテロ被害に遭ったという事実はありません。Xに該当しません。
④【X → b、Y → d】
bもXに合わず、dもYの説明と完全には重ならないため、誤りです。
したがって X-a、Y-c を示す①が最も適切です。
問11:正解2
<問題要旨>
明治天皇の東京行幸(1868年10月)に関する史料と、その様子を描いた錦絵(図)に基づき、あわせて提示されたa~dの文章が正しいかどうかを問う問題です。錦絵がどのように時事的なメディアとして機能したか、新政府に対する旧幕府勢力の抵抗が続いたかなどが論点になります。
<選択肢(a~d)>
a:明治天皇が初めての東京行幸で江戸城西の丸に入った後も、旧幕府勢力の抵抗はなお各地で続いた。
b:開国後に多色刷りの技法を導入した錦絵が誕生したという表現だが、実際は江戸中期から多色刷りは広く定着している。
c:史料2からは、東京の人々が身分や年齢に応じて明確に区分されながら天皇の行列を見物したという断定的な情報は読み取りにくい。
d:天皇行幸を描いた錦絵が行幸翌月(1868年11月)には制作されており、ニュース的な役割を果たしたと考えられる。
①【a・c】
cの根拠がやや不明瞭で、実際に「身分や年齢で区分された」とまでわかる史料ではないため、正しいかどうかは慎重に要検討です。
②【a・d】
aは東北や函館などで旧幕府勢力の抵抗が続いた事実と合致し、dも天皇行幸の翌月に制作された錦絵が報道的役割を持ったという点で信ぴょう性が高いです。両方とも史実に合致するため、妥当と考えられます。
③【b・c】
bは錦絵の多色刷りが開国後に導入されたとするため誤りです。cも断定的に正しいとは言えないため、この組み合わせは成り立ちません。
④【b・d】
bが誤りの可能性が高く、組み合わせとしても正しいとは言えません。
よって aとdが正しい②が適切と考えられます。
第3問
問12:正解1
<問題要旨>
明治政府が施行した法令や、それに反発して起こった士族反乱などの史実を整理する問題です。X・Yで述べられている出来事に該当する語句(a~d)を正しく対応づけられるかを問われています。
<選択肢(X・Y と a~d)>
X:廃刀令などに不満を抱く士族たちにより、熊本県で起こった乱
Y:内務大臣であったこの人物を中心にして、市制・町村制が公布された
a:神風連(敬神党)の乱
b:秋月の乱
c:山県有朋
d:大久保利通
①【X → a、Y → c】【正】
Xは1876年に熊本で勃発した「神風連の乱(敬神党の乱)」を指し、Yは内務大臣として地方制度を整備した山県有朋のことを示しています。よって X→a・Y→c は史実と合致します。
②【X → a、Y → d】【誤】
大久保利通(d)は内務省を設置したが、市制・町村制を公布(1888~1889年頃)する主導的役割を担ったのは山県有朋であり、dではありません。
③【X → b、Y → c】【誤】
秋月の乱(b)は福岡県で起きた士族反乱で、Xに示される熊本県の乱とは異なります。
④【X → b、Y → d】【誤】
Xが秋月の乱、Yが大久保利通という組み合わせも、前述の通り史実と合致しません。
したがって正解は①です。
問13:正解4
<問題要旨>
1870年代半ばにかけて展開された自由民権運動の一環として、民撰議院設立建白書をめぐる論争を扱った史料と『明六雑誌』に関する記述を組み合わせ、正しいものを選ぶ問題です。森有礼による論考(史料1)と『明六雑誌』の性格がそれぞれどう評価されるかがポイントになります。
<選択肢(a~d)>
a:史料1で森有礼は、建白書の文言からは政府の人びとを議員にする、と批判している
b:史料1で森有礼は、建白書の文言からは政府によって議員が選ばれると読める、と評している
c:『明六雑誌』は、政府の欧化政策を批判し、平民主義を主張した
d:『明六雑誌』は、欧米の近代思想や政治制度を紹介した
① a・c【誤】
「森有礼が建白書の文言をどのように批判しているか」との記述がa・cの組み合わせと完全に合致しません。また『明六雑誌』は欧化政策を批判するだけでなく、むしろ近代啓蒙思想を広める立場が中心でした。
② a・d【誤】
aについては「政府の人びとを議員にする」と批判したと断定する表現は史料の内容と微妙にずれがあります。dは正しい内容ですが、aと組み合わせると誤りになります。
③ b・c【誤】
bは正しいが、cは『明六雑誌』の性格を一面的に捉え過ぎです。欧化政策の全面批判というよりも、むしろ啓蒙思想を掲載し、広く欧米の近代思想を紹介しました。よってcは正確とは言い難いです。
④ b・d【正】
森有礼は「民撰議院設立建白書の文言から、政府が議員を選ぶ形になりかねない」と批判的に解釈しています(b)。また『明六雑誌』は欧米の近代思想・政治制度を紹介して啓蒙活動を推進した(d)ことが知られています。したがって両者が正しく、最適な組み合わせです。
問14:正解2
<問題要旨>
1892年の衆議院議員選挙(第二回総選挙)をめぐる『衆議院議事速記録』と、その後の説明文をもとに、空欄ア・イに入る語句を問う問題です。政府が選挙干渉に使った法令や、選挙結果による政府支持派の状況に注意する必要があります。
<選択肢(ア・イ)>
アは政府が集会を妨害するために適用した法令
イは選挙の結果として政府支持派が衆議院の過半数を「獲得したか、獲得しなかったか」
①【ア:保安条例、イ:獲得しました】【誤】
1892年の第二回総選挙で政府の干渉は激しかったが、政府支持派が過半数を確保できたわけではなく、民党勢力が依然として強い地位を保ちました。よって「獲得しました」は誤りです。
②【ア:保安条例、イ:獲得しませんでした】【正】
保安条例(1887年制定)は民権派の集会・結社を規制するもので、政府が選挙妨害に利用した法令のひとつとして知られます。結果としても民党側が根強く、政府支持派は過半数を得られなかったため、この組み合わせが正しいです。
③【ア:統帥権、イ:獲得しました】【誤】
「統帥権」は軍事に関する天皇大権であり、選挙干渉に直接関係しません。
④【ア:統帥権、イ:獲得しませんでした】【誤】
同様にアに「統帥権」を当てはめるのは不自然で誤りです。
問15:正解3
<問題要旨>
明治から大正にかけての日本画や洋画の動向を、代表的な画家や作品と関連付けて正誤を問う問題です。岡倉天心による日本美術院の設立や、黒田清輝による洋画作品『湖畔』、横山大観・菱田春草らの日本画革新などが主な題材となります。
<選択肢>
①【正】
日本画に関しては、岡倉天心が東京美術学校の創立に関わり、後に日本美術院を設立して日本画の刷新を図ったことは事実です。
②【正】
洋画では、黒田清輝が『湖畔』を描いたことで知られ、近代洋画の基礎を築いた一人となりました。
③【誤】
「『麗子像』が代表作の横山大観により、日本画の新しい技法が広まった」という文は誤りです。『麗子像』は岸田劉生の作品であって、横山大観とは関係がありません。そのためこの選択肢が誤りです。
④【正】
文展(文部省美術展覧会)の方針に対抗して、二科会など新しい美術団体が結成されました。これも史実と合致します。
以上から、③が誤りの選択肢となります。
問16:正解4
<問題要旨>
明治後期から大正にかけての社会運動の変遷を、I~IIIの出来事を年代順に整理する問題です。社会主義運動、女性解放運動、または国粋主義による事件など、それぞれの発生時期を把握する必要があります。
<選択肢(I~III)>
I:国粋主義者の井上日召らのもとに集った血盟団による暗殺事件
II:女性の解放をめざす平塚らいてうらが『青鞜』を創刊
III:社会主義者の堺利彦らによって日本共産党が結成
年代の目安としては、
- 『青鞜』創刊(II):1911年
- 日本共産党結成(III):1922年
- 血盟団事件(I):1932年頃
以上より「II → III → I」の順が正しい並びとなります。
①【I → II → III】【誤】
血盟団事件(1932年)のほうが『青鞜』創刊(1911年)よりかなり後です。
②【I → III → II】【誤】
同様にIを先に置くのは時系列に合いません。
③【II → I → III】【誤】
日本共産党(1922年)のほうが血盟団事件(1932年)より前ですから、この順は入れ替わっています。
④【II → III → I】【正】
1911年→1922年→1932年と年代順が正しく合致します。
問17:正解2
<問題要旨>
博物館で展示されていた『木堂政談演説集』に収録された大隈重信の演説(史料3)を題材に、X・Yが史料3の主張やその後の反響と合致しているかを問う問題です。日露戦争後の軍拡問題や、朝鮮半島への保護国化の是非などが論点となります。
<選択肢(X・Y)>
X:史料3で大隈は「日本が日露戦争後も軍拡方針を維持するのは、国際社会の警戒を招く」と述べている
Y:史料3で触れられた保護国化に反発し、韓国では東学を信仰する民衆を中心に大規模な農民蜂起が勃発した
①【X 正・Y 正】【誤】
Yは1894年の甲午農民戦争(東学党の乱)に関する記述を想起させますが、これは日清戦争前夜の話であり、日露戦争後の保護国化(1905年以降)と直接結びつけるのは時期が異なります。
②【X 正・Y 誤】【正】
Xは日露戦争後の軍事費増額の問題点を指摘して国際関係の不安を招くと述べるのは大隈らしい主張であり、史料とも整合的です。一方、Yの「韓国では東学を信仰する民衆が大規模蜂起」という出来事は日露戦争後ではなく日清戦争前の1894年に関連するため、ここでは誤りといえます。よってこの組み合わせが正解です。
③【X 誤・Y 正】【誤】
Xの記述は史料3の趣旨と合っているため誤りにするのは不適切です。またYだけを正しいとするのも時期に整合性がありません。
④【X 誤・Y 誤】【誤】
Xは史料3の内容とおおむね一致するので誤りとできず、両方誤りにもなりません。
問18:正解3
<問題要旨>
博物館に展示されていた3点のポスター(杉浦非水や岡本一平、竹内リョウの作品)について、高校生3人が会話の中で内容を紹介しています。そのうち誰の説明が正しいか、あるいは誤っているかを問う問題です。
<選択肢>
①【3人とも正しい】【誤】
3人全員が事実に即した解説をしているとは限りません。いずれかが史実と異なる解説をしている可能性があります。
②【3人とも間違っている】【誤】
少なくとも杉浦非水のポスター(東京地下鉄道開通関連)や企業宣伝ポスター、戦時中の国民動員を促すポスターなどは正確に言及されている部分もあります。
③【ユウトさんのみが間違っている】【正】
ノゾミさんは「1920年代後半の杉浦非水による地下鉄開通ポスター」であることや関東大震災後の復興と絡めた言及をしており、概ね正しい。リコさんは「竹内リョウが企業の宣伝を担当し、その後アジア太平洋戦争期には協力を求めるポスターを制作した」と述べており、これも史実に合致します。一方、ユウトさんの「岡本一平が政党を批判するために制作した」という説明は、ポスターの意図や作者の経歴と照らし合わせると疑義が強く、誤りと考えられます。
④【ノゾミさんのみが正しい】【誤】
リコさんの説明にも史実と合致する面がありますので、「ノゾミさんのみが正しい」というのは不適切です。
以上より「ユウトさんのみが間違っている」③が正解です。
第4問
問19:正解3
<問題要旨>
西郷隆盛の顕彰と、ロダンに師事した彫刻家との関わりをめぐる会話文中の「空欄ア・イ」に、どの語句を当てはめるかを問う問題です。西郷隆盛が正三位を贈られたきっかけとなった出来事と、ロダンの影響を受けた近代彫刻家に注目すると、正しい組み合わせが導き出せます。
<選択肢>
①【誤】「国会開設の勅諭」+「萩原守衛」
国会開設の勅諭(1881年)は西郷の正三位追贈(1889年)より前であり、当時は大日本帝国憲法の発布が大きな転機となった点に注意が必要です。
②【誤】「国会開設の勅諭」+「島村抱月」
島村抱月は劇作や文芸評論分野で活躍した人物であり、彫刻家としてロダンに師事したわけではありません。
③【正】「大日本帝国憲法の発布」+「萩原守衛」
大日本帝国憲法の発布(1889年)を機に、西郷に正三位が追贈されています。また、ロダンに学んだ日本の近代彫刻家としては萩原守衛(しゅうえい)が有名です。両者を組み合わせると会話文の内容に合致します。
④【誤】「大日本帝国憲法の発布」+「島村抱月」
島村抱月は彫刻家ではないため、ロダンに師事したという点とは無関係です。
問20:正解6
<問題要旨>
明治・大正期の出来事を報じた新聞記事(文I~III)について、報道された時期を古いものから順に正しく並べる問題です。それぞれの内容から大まかな年代を推定し、正しい時系列に当てはめることが求められます。
<選択肢(I~III)とその主な年代目安>
- III「新帝御践祚の初」:明治天皇が没し、大正天皇が即位(1912年)
- II「明治天皇陛下が強請機の報を下し給える」:おそらく1914年前後(山本権兵衛内閣と日英同盟国の話題など)
- I「米価暴騰に伴う困窮…」:米騒動が起こった1918年
記事発表の時期としては III(1912年)→ II(1914年ごろ)→ I(1918年)の順が自然です。
①【I → II → III】【誤】
I(1918年)がもっとも後になるので、先頭に置くと誤りです。
②【I → III → II】【誤】
やはりIがいちばん後のはずなので、この順序も合いません。
③【II → I → III】【誤】
II(1914年)→I(1918年)→III(1912年)ではIIIが最後になり、即位の話題の時期と食い違います。
④【II → III → I】【誤】
同様の理由で誤り。
⑤【III → I → II】【誤】
III(1912年)→I(1918年)→II(1914年)と途中が逆転してしまいます。
⑥【III → II → I】【正】
III(1912年)→II(1914年)→I(1918年)の順序が年代に即しており正解です。
問21:正解4
<問題要旨>
井伊直弼の銅像建設の沿革を記録した史料から抜き出された語句X・Yをめぐり、それぞれに関係する出来事(a~d)を正しく対応させる問題です。史料には「意外の障害」や「直弼公の遺難地」が言及されており、それが何を指しているかを読み解く必要があります。
<選択肢(X・Y と a~d)>
X:意外の障害
Y:直弼公の遺難地
a:井伊直弼も加わっていた一橋派に対して、かつて反対していた者たちの反発
b:井伊直弼による弾圧で処刑者が出た長州藩出身者などの反発
c:会津藩浪士に傷つけられたことにより失脚した
d:幕府は公武合体政策を進め、和宮を徳川家茂の妻に迎えた
①【X → a、Y → c】【誤】
「意外の障害」を一橋派との対立だけで説明するのは適切でなく、またYと会津浪士も直接結びつきません。
②【X → a、Y → d】【誤】
Xを一橋派との反発、Yを和宮降嫁に関する話とするのも史料と合致しにくいです。
③【X → b、Y → c】【誤】
Yが「会津浪士の襲撃により失脚」という内容は井伊直弼とは関係が薄いです(井伊直弼は桜田門外の変で水戸浪士らに襲撃されており、会津藩浪士とは異なる)。
④【X → b、Y → d】【正】
X(意外の障害)として、井伊直弼による弾圧=安政の大獄で処刑された長州系などの反発が想定されます。Y(直弼公の遺難地)として、幕府が公武合体を推し進めた時期の事情が関連し、銅像建設が一時中止された要因とも符合します。史料の経緯に最も合致する組み合わせです。
問22:正解1
<問題要旨>
明治天皇が没した当時の新聞に掲載された、天皇の銅像建設をめぐる意見(史料2)と、同時期の板垣退助の立場(a~d)を組み合わせる問題です。銅像建設よりも神宮の創建こそが重要だという論説と、板垣退助の当時の政治的活動・肩書きが論点となります。
<選択肢(a~d)>
a:史料2で板垣退助は、天皇をまのあたりにしているような思いを抱かせる銅像を建設することこそが必要だと述べている
b:史料2で板垣退助は、神宮を建設すれば人々の間で天皇を慕う気持ちは十分に高まるので銅像は不要だと述べている
c:この時期、板垣退助が党首を務めた自由党はすでに解党されていた
d:この時期、板垣退助は元首相として元老に任じられ、首相の選任に関与していた
①【a・c】【正】
史料2には「銅像を建てれば人々が直接拝する気持ちを抱ける」と肯定的に述べる内容が読み取れます。また、この頃(1912年~)板垣退助が党首を務めた自由党は日清戦争後に様々な変遷を経て解党しており、かつての自由党とは状況が変わっていました。a・c の組み合わせがもっとも整合的です。
②【a・d】【誤】
板垣退助が元老になった史実はなく、dは誤りです。
③【b・c】【誤】
史料2の文意は銅像を建てることを必ずしも否定していません。bは逆の内容なので誤りです。
④【b・d】【誤】
いずれも史実と合致しないため誤りです。
問23:正解1
<問題要旨>
日中戦争の拡大から太平洋戦争の終戦に至るまでの政治・社会情勢を述べた文章(①~④)の正誤を問う問題です。戦争長期化に伴う食糧不足や物資統制の実態、対外関係の変化などを踏まえて判断する必要があります。
<選択肢>
①【正】
「戦争が長引くにつれて、米不足が深刻化し、主食をイモなどで代用する状況になった」というのは、太平洋戦争末期に顕著となった食糧事情を示す事実と一致します。
②【誤】
「独占禁止法」が戦時下で制定されたというのは時期的に不適切です。独占禁止法は戦後の1947年に制定されたため、この表現は誤りです。
③【誤】
「イギリスによる段獄瑞政権への物資援助~」など詳細が不明瞭ですが、戦時中に日本国内で大規模な反英運動が起こったかどうかは根拠に乏しく、断定できません。
④【誤】
「米内光政内閣によって『東亜新秩序』の建設が声明されて以降…」は、実際には近衛文麿内閣の声明(1938年)が有名で、ここでの表現は誤りと考えられます。
よって①のみが正しく、正解は①となります。
問24:正解3
<問題要旨>
1950年に報じられた「裸婦の群像」設置に関する新聞記事を題材に、X・Yそれぞれの主張が正しいか誤っているかを問う問題です。平和日本のシンボルとしての裸婦像という説明のほか、台座にあった旧軍人銅像との関係も取り上げられています。
<選択肢(X・Y)>
X:史料3の裸婦像が置かれる前に台座に設置されていた銅像のモデルとなった人物を首班とする内閣が、中国に二十一か条の要求を行った
Y:史料3では、この裸婦像を軍国主義からの脱却のシンボルとみなしている
①【X 正・Y 正】【誤】
台座にあったのが必ずしも「二十一か条要求」を行った首相の銅像だったという確証はありません。
②【X 正・Y 誤】【誤】
Xについても上記の確証がなく、Yが誤りという根拠も乏しいです。
③【X 誤・Y 正】【正】
Xの記述は記事の内容と食い違いがあり、誤りと考えられます。一方でYは「平和日本の象徴」としての意図が記事から読み取れるため正しいとみなせます。
④【X 誤・Y 誤】【誤】
Yが必ずしも誤りとはいえないので、両方誤りにはなりません。
問25:正解2
<問題要旨>
敗戦から1970年代までの日本の科学技術に関する出来事を述べた文章(①~④)のうち、どれが誤っているかを問う問題です。湯川秀樹のノーベル賞受賞や三種の神器の普及、万博など、各年代の特徴を踏まえて判断する必要があります。
<選択肢>
①【正】
湯川秀樹は日本人として初のノーベル物理学賞受賞者(受賞は1949年)であり、事実に合致します。
②【誤】
「1950年代に自動車・カラーテレビ・クーラーが家庭に普及」という表現は早すぎる感があります。いわゆる「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)の普及は高度経済成長初期(1950年代後半~1960年代)、さらにカラーテレビや自家用車・クーラーが本格的に普及したのは1960年代~70年代にかけてです。1950年代前半を想起させる内容としては不正確といえます。
③【正】
高度経済成長期には大規模な石油化学コンビナートが各地で建設され、技術革新を背景に産業が急成長しました。
④【正】
1970年の大阪万博では様々な先端技術が披露され、大きな反響を呼びました。これは史実に合致します。
よって②が誤りです。
第5問
問26:正解2
<問題要旨>
戦前から戦後にかけての日本経済の動向や、恐慌によって都市部で労働争議が多発し、政府が都市住民の救済策として生活必需品の切符制などを実施したかどうかを問う問題です。下線部a(経済恐慌)が最中に起きた出来事を X・Y として整理し、正しい組み合わせを選ぶことが求められます。
<選択肢>
X:この恐慌によって失業者が増加し、都市部では労働争議が多発した
Y:この恐慌で生活に困窮した都市居住者に対処するため、政府は生活必需品の切符制を開始した
①【X 正・Y 正】【誤】
たしかに恐慌で失業者は増加し、労働争議も増えました(X は正しい)。しかし生活必需品の切符制が本格的に導入されたのは太平洋戦争末期から戦後(配給制など)にかけてであり、恐慌への直接対策として切符制を行ったわけではありません。よって Y は誤りと考えられます。
②【X 正・Y 誤】【正】
X は恐慌の影響として適切です。一方、Y の切符制は戦時・戦後における配給制を指す面が大きいので、「恐慌に伴う施策」としては誤りです。よってこの組み合わせが正解です。
③【X 誤・Y 正】【誤】
X を誤りとする理由はなく、Y だけを正しいとする根拠も薄いです。
④【X 誤・Y 誤】【誤】
X は恐慌下で実際に労働争議が増加したため誤りとはいえません。
問27:正解1
<問題要旨>
敗戦直後に行われた主な施策や出来事を I~III として挙げ、それを年代順に古いものから並べる問題です。労働組合法の制定、ニ・〇ゼネストの計画と中止、日本労働組合総評議会(総評)の結成などをいつ行ったのかを把握する必要があります。
<選択肢(I~III)>
I:労働者の争議権を保障するため、労働組合法が制定された(1945年末~46年)
II:ニ・〇ゼネストが計画されたが、GHQの指令により中止された(1947年)
III:日本労働組合総評議会(総評)が結成された(1950年)
①【I → II → III】【正】
1945~46年の労働組合法 → 1947年のニ・〇ゼネスト計画中止 → 1950年の総評結成の順が史実と合致します。
②【I → III → II】【誤】
総評結成(1950年)よりニ・〇ゼネスト中止(1947年)のほうが先ですので順番が逆転します。
③【II → I → III】【誤】
ニ・〇ゼネスト(1947年)が労働組合法(1945~46年)より先に来るのは時系列に反します。
④【II → III → I】【誤】
さらに逆転が大きくなるため誤りです。
⑤【III → I → II】【誤】
総評結成(1950年)が先というのも時期に反します。
⑥【III → II → I】【誤】
同様に誤りです。
問28:正解1
<問題要旨>
敗戦後の東京において、人々がどのような窮乏生活を強いられたかを描写する文章(史料1)をめぐり、その要旨を最も適切に言い表しているのはどれかを問う問題です。文中では「戦災と飢えと宿なし…」といった厳しい状況が記されています。
<選択肢>
①【正】
「敗戦後の東京で住む家がない人が多くいたことが分かる」という趣旨は、史料1における「焼け跡」と「流れ行く戦災者の群れ」から推察可能です。
②【誤】
「敗戦から数年が経過した東京で、空襲の影響を見出すことが難しくなっている様子が描写されている」という文言は、史料には「まだ生々しい焼け跡」があるとしており、逆です。
③【誤】
「人々のなかには、敗戦に伴って外地や占領地から引き揚げた人々は含まれない」とは読み取れません。むしろ引揚者も混じっている可能性があります。
④【誤】
「敗戦後から続く深刻なデフレ」という表現は史料からは明確に読み取れず、「失業者があふれている様子」との断定も文面には出ていません。
問29:正解3
<問題要旨>
戦時中の日本国内での生活状況(労働力不足や空襲、疎開など)について述べた文章が正しいか、誤っているかを選択する問題です。ここでは学生や女性を工場労働へ動員した事実、都市部への無差別爆撃、学童疎開などが挙げられます。
<選択肢>
①【正】
政府は戦時下で労働力不足を補うため、女子挺身隊や学生生徒の勤労動員などを行いました。
②【正】
アメリカ軍による都市部への無差別空襲が行われ、多くの死傷者が出たのは史実に合致します(東京大空襲など)。
③【誤】
「都市居住者は、児童を含めて都市を離れることは許されず…」とありますが、学童疎開は現実に実施されました。したがって「疎開を認めなかった」という趣旨は誤りです。
④【正】
戦争が長期化するにつれて人々の間で厭戦気分が高まった事実は当時の証言などから知られています。
以上より③が誤りです。
問30:正解3
<問題要旨>
1960年代の日本の政治・社会状況を示す文 x・a~d について、正しい組み合わせを問う問題です。1960年代には米国の水爆実験による被害や原水爆禁止運動、公害問題、第四次中東戦争による石油危機などが注目される点です。
<選択肢(a~d)>
a:アメリカの水爆実験で日本の漁船が被ばくした事件をきっかけに、原水爆禁止を訴える運動が始まった(1954年ビキニ環礁事件)
b:民主社会党や公明党が結成され、日本共産党が議席を伸ばすなど、野党の多党化が進んだ(1960年代)
c:公害問題が深刻化し、公害対策基本法が制定された(1967年)
d:第4次中東戦争をきっかけに、石油危機が発生した(1973年)
① a・c【誤】
bやd を除外すると、1960年代の政党事情や石油危機が省かれる可能性があるため不十分。
② a・d【誤】
公害対策基本法の言及が抜けており、bに言及しない点も怪しい。
③ b・c【正】
1960年代に野党が多党化し、公害対策基本法も制定されたという点で整合性が高いです。
④ b・d【誤】
公害問題(c)と水爆実験被害(a)の言及がなく、1960年代を扱うにはやや不十分。
したがって③が最も妥当です。
問31:正解4
<問題要旨>
1960年から1970年代半ばの人口動態を示すグラフ(全人口・都市部人口・農業従事者数)から読み取れる事柄を問う問題です。都市部人口の増加ペースや全人口1億人の到達時期、農業従事者数の占める割合などを注視する必要があります。
<選択肢>
①【誤】
「センさんが公団住宅に転居した年には、全人口は1億人に達していなかった」とありますが、グラフを示す1960年時点での人口は約9400万人ほどで、そこから1970年頃に1億人を突破しています。センさんが転居した1960年代後半ごろを想定すると、すでに1億人前後に達していた可能性が高いです。
②【誤】
「都市部を除く地域の人口は1960年から1975年の間に半減した」というのは極端で、そこまで急激には減っていません。
③【誤】
「1960年代から1970年代半ばにかけて、全人口に占める農業従事者数の割合は減少し、都市部の食料難が常態化していたと考えられる」という文は後半が不自然です。大都市の食料不足が恒常化したわけではなく、高度成長に伴う流通網の整備も進みました。
④【正】
「都市部人口はグラフの期間に 2000 万人以上増加しており、都市部の過密化が進んだと考えられる。」 1960年から1975年までに都市部人口は大きく増加しており、2000 万人近い増加が見られます。過密化の進行を示唆するうえで最も妥当な選択肢です。
問32:正解3
<問題要旨>
戦時中の職工住宅(図1)と1960年代の 2DK 公団住宅(図2)の間取り比較、さらに史料2・3の内容(建築家の回想や新聞記事)を総合して、a~d の文章が正しいか誤りかを判断する問題です。住民の要望や家電普及率の上昇などが住宅の変化をもたらした背景となります。
<選択肢(a~d)>
a:図1のような職工住宅では、家族がそれぞれのちゃぶ台を出して別々に食事するのが一般的だった
b:図2のタイプの公団住宅が多く建てられた1960年代には、家電の普及率が上昇していた。この公団住宅では居室を機能別に活用できるようになった
c:職工住宅に住む人々の間では、食事をする部屋と寝室を分けたいとの要望があった。こうしたニーズが「台所を兼ねた食事室(DK)」を独立させる住宅につながった
d:1960年代後半以降、3DKの公団住宅が建てられることで初めて、子ども部屋を確保できた住民が現れた
① a・c【誤】
a は「家族がそれぞれにちゃぶ台を出して別々に食事する」かどうかは、むしろ「共同のちゃぶ台を囲む」ことが多かった可能性もあり、断定しづらいです。
② a・d【誤】
a は上記のとおり疑問があり、d も「1960年代後半以降の 3DK 公団住宅」が初めて子ども部屋を確保したかどうかは微妙です。
③ b・c【正】
b は 1960年代に家電普及率の伸びが顕著であり、公団住宅の間取りにあわせて家電を設置する例が増えたというのは史実と合致します。c は職工住宅時代からの「食事室と寝室の分離」要望が DK 形式誕生の背景になったという史料2・3の説明と一致します。
④ b・d【誤】
d は 3DK 公団住宅の登場だけで子ども部屋の確保を断定するのは慎重を要し、また公団住宅の間取り改良は段階的に進んだため「初めて」と言い切れません。
よって③が正解です。