2023年度 大学入学共通テスト 追試験「日本史A」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。
解答
解説
2023年度(令和5年度)大学入学共通テスト 追試験「日本史A」の全問解説です。第1問が22点、第2問が12点、第3問が22点、第4問が22点、第5問が22点で、あわせて100点満点。すべて必答で、解答番号は1〜32です。なお、第5問の史料2・史料3は、公開されている問題PDFでは著作権上の理由により省略されています。この記事では、選択肢そのものの正誤から筋道をたどれる形で解説しました。各設問の見出しをタップすると、その問題の要旨と、選択肢ひとつひとつがなぜ正しい(誤っている)のかが開きます。
第1問
配点22。近現代の都市と水道の歴史がテーマです。Aは日本最初の近代水道から植民地朝鮮の水道・衛生統計まで、Bは琵琶湖疏水と下水道の歴史。問4は三つの資料を突き合わせて論述の空欄を埋める、共通テストらしい設問です。
問1:正解 ①(解答番号1/配点3)
<問題要旨>
空欄 ア と イ に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ問題です。ア は「イギリス人技師の協力で1887年に日本初の近代水道が造られた」都市で、「開港当初から国内最大の貿易額をあげていた」ところ。イ は「台湾では総督府民政長官で、関東大震災後には帝都復興院総裁にもなった」人物です。
<考え方>
ア は開港場のうち貿易額が最大だった都市、イ は台湾統治と帝都復興という二つの肩書きで一人に決まります。
<選択肢>
ア=横浜【正】
1859年の開港以来、横浜は生糸輸出を中心に国内最大の貿易額をあげ続けました。外国人居留地があったことから衛生対策が急がれ、イギリス人技師パーマーの設計で1887年に日本最初の近代水道が通水しています。
ア=長崎【誤】
長崎も開港場ですが、貿易額では横浜に遠く及びません。なお長崎の近代水道は1891年で、横浜に次ぐ2番目です。
イ=後藤新平【正】
台湾総督府民政長官(1898〜1906年)として上下水道など植民地のインフラ整備を進め、関東大震災後には帝都復興院総裁として東京の復興計画を立てました。医師出身で衛生行政に明るかった人物です。
イ=斎藤実【誤】
斎藤実は海軍出身で、朝鮮総督や内閣総理大臣を務めた人物です。台湾総督府民政長官でも帝都復興院総裁でもありません。
問2:正解 ①(解答番号2/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓐ「明治時代には伝染病が流行していて」に関連して、明治時代の衛生や病気に関して述べた文X・Yと、それに該当する語句 a〜d との組合せを選ぶ問題です。Xは「この人物は、伝染病の研究を進めて、赤痢菌を発見した」、Yは「幕末から明治時代にかけて、たびたび流行したこの病気は、水道を整備することなどによって減少した」。
<考え方>
Xは人名、Yは病名です。それぞれの業績・性質から決めます。
<選択肢>
a(志賀潔)【正】
北里柴三郎の伝染病研究所で研究し、1897年に赤痢菌を発見しました。菌の学名 Shigella は彼の名にちなみます。
b(長岡半太郎)【誤】
長岡半太郎は物理学者で、原子模型(土星型模型)の提唱で知られます。伝染病研究とは分野が違います。
c(コレラ)【正】
コレラは汚染された水や食物から感染する経口感染症で、幕末の1858年以降たびたび大流行しました(「コロリ」と恐れられました)。清潔な上水道の整備が流行の抑制に直接効いた病気で、本文が水道の話題と結び付けているのもこのためです。
d(結核)【誤】
結核は飛沫による空気感染で、水道の整備では防げません。明治期の紡績工女の間で広がったことで知られます。
①【正】
したがって X―a、Y―c の組合せになります。
問3:正解 ③(解答番号3/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓑ「1890年に水道条例が定められて」に関連して、史料1(水道条例発布時の議論を伝える新聞記事)の内容と、同時代の地方制度に関して述べた文 a〜d について、最も適当なものの組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
a・b は1888〜90年の地方制度、c・d は史料1の読み取りです。それぞれ独立に判定してから組み合わせます。
<選択肢>
a【誤】
府県制・郡制(1890年)のもとでも、府県知事は内務省が任命する官選でした。住民の選挙で選ばれるようになるのは、戦後の1947年の地方自治法からです。
b【正】
市制・町村制(1888年)は、内務大臣であった山県有朋が中心となり、ドイツ人顧問モッセの助言を得て策定されました。府県制・郡制(1890年)とあわせて、地方自治制度の骨格をつくった一連の法制です。
c【正】
史料1は「一般公衆の利害に関するものを一私人の掌中に委ぬるは、其害なきを保せず」と述べています。公衆の利害に関わる事業を一私人の判断に任せると害があるかもしれない、という読み取りは正しいものです。
d【誤】
史料1は続けて「公衆の利害は費途の利害を顧るに遑あらず」と述べています。公衆の利害の前ではお金の使いみちの損得を気にしている余裕はない、という意味で、経済的利益を優先すべきだという主張とはむしろ逆です。
③【正】
したがって b・c の組合せになります。
問4:正解 ②(解答番号4/配点4)
<問題要旨>
下線部ⓒに関連して、アキナさんが植民地時代の朝鮮の衛生・医療について資料をもとにまとめた論述の要旨の、空欄 ウ と エ に入る語句の組合せを選ぶ問題です。資料 a は1925年京城府における水道の普及率、資料 b は朝鮮の市街地の水道事情を述べた文章、資料 c は1935年京城府における赤痢の患者数・死亡者数の表と解説です。
<考え方>
ウ は「水道が優先的に整備されていたのは日本人(内地人)が住む地域であった可能性」を示す資料、エ は資料 c の解説から統計調査の信頼性をどう評価するかです。
<選択肢>
ウ=資料 a【正】
資料 a は、朝鮮人居住地の水道普及率が28.3 %であるのに対し、内地人居住地は84.8 %であることを示しています。同じ京城府の中で3倍もの開きがあり、水道が日本人の住む地域に優先的に整備されていた可能性を、数字で裏づける資料です。
ウ=資料 b【誤】
資料 b は「朝鮮の市街地に於ては、水道の設備あるもの少く」と全体の水準の低さを述べたもので、朝鮮人居住地と内地人居住地の差を示すものではありません。
エ=捉えていない【正】
資料 c の解説は、朝鮮人と内地人で患者発生率に大きな差がある理由として届出漏れを挙げ、「朝鮮人患者には届けられないものが少なくないことは想像に難くないが、その実数は果してどの位か、全く不明である」と述べています。統計の作成者自身が実態を捉えられていないと認めているわけです。
エ=捉えている【誤】
上のとおり、解説は統計が実態を反映していない可能性を明示しています。
②【正】
したがって ウ―a、エ―捉えていない の組合せになります。
問5:正解 ③(解答番号5/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓓに関連して、史料2(戦時下の京都の疏水に対する陸軍(京都師管区)からの要望を伝える1945年の新聞記事)の内容について述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
この史料は「陸軍が市民に要望している」という構図です。誰が誰に何を言っているのかを取り違えないことが要点です。
<選択肢>
X【誤】
主語が入れ替わっています。「使い放題の贅沢な風習に慣れている」と言われているのは京都市民の側で、陸軍はその市民に対して「手軽な方法で停水をやって貰いたい」と節水を要望する立場です。陸軍が水を使い放題にしていたとは書かれていません。
Y【正】
史料2の「疏水の浄化に就て」の末尾に「市民全員の共同責任で取締らねばならぬ」とあります。疏水が汚れていることに対して、市民全員の共同責任での取締りを訴えたという読み取りは正しいものです。
③【正】
したがって X―誤、Y―正 の組合せになります。
問6:正解 ⑤(解答番号6/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓔ「農村などを中心に、まだ普及していない地域も多いんだ」に関連して、敗戦以後の農村や農業の変化に関して述べた文Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に配列する問題です。
<考え方>
三つとも戦後の農業政策・農村の出来事です。それぞれの年代を確定します。
<選択肢>
Ⅲ【—】
農地改革(1946〜50年)によって多数の自作農が生まれ、1947年の農業協同組合法により農協が設立されました。1940年代後半にあたります。
Ⅰ【—】
農業基本法の制定は1961年です。高度経済成長のなかで開いた他産業との所得格差の解消と、農業経営の自立(自立経営農家の育成)を目指しました。
Ⅱ【—】
日米構造協議は1989〜90年です。日本市場の閉鎖性が問題とされ、農産物の輸入自由化が進みました(牛肉・オレンジの自由化など)。
⑤【正】
古い順に、Ⅲ(1940年代後半)→ Ⅰ(1961年)→ Ⅱ(1989〜90年)となります。
問7:正解 ③(解答番号7/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓕ「都市の生活環境が少しずつ整えられていった」に関連して、大正時代から敗戦までの都市と生活に関して述べた文として誤っているものを選ぶ問題です。
<考え方>
「誤っているもの」を選ぶ設問です。三つは正しいので、時期がずれているものを探します。
<選択肢>
①【正しい】
猪苗代第一発電所から東京へ、当時世界でも有数の長距離高圧送電が始まったのは1915年(大正4年)です。
②【正しい】
小林一三の箕面有馬電気軌道(のちの阪急)が沿線の宅地開発や宝塚新温泉の経営を進め、1913年に宝塚唱歌隊(翌年から宝塚少女歌劇団)を組織しました。
③【誤り】
金融緊急措置令が発せられたのは1946年、敗戦後のインフレ対策として預金封鎖と新円切替を行ったものです。戦時の物価統制は1939年の価格等統制令などによります。時期が敗戦後にずれています。
④【正しい】
空襲が激化した1944年から、都市の国民学校児童を地方へ移す学童疎開(集団疎開)が始まりました。
第2問
配点12。博物館「パスポートの歴史」展の解説文が題材です。Aは1866年に発行された日本初のパスポート、Bは1891年の「旅券」と、日本国籍を持つ者の範囲。問4は下関条約と台湾住民の国籍という、条文の読み取りが中心の設問です。
問1:正解 ④(解答番号8/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓐ「1867年のパリ万国博覧会」について述べた文X・Yと、それに該当する語句 a〜d との組合せを選ぶ問題です。Xは「『富嶽三十六景』が代表作である、この人物の絵手本が出品された」、Yは「1864年から駐日フランス公使に就き、幕府の軍制改革を支援したこの人物が、幕府にパリ万国博覧会への参加をすすめた」。
<考え方>
Xは浮世絵師、Yは幕末の外交官です。どちらも名前と業績の対応で決まります。
<選択肢>
a(喜多川歌麿)【誤】
喜多川歌麿は寛政期の美人画で知られる浮世絵師です。『富嶽三十六景』の作者ではありません。
b(葛飾北斎)【正】
『富嶽三十六景』の作者です。北斎の絵手本『北斎漫画』はパリ万博などを通じてヨーロッパに渡り、ジャポニスムの流行を生む一因となりました。
c(ボアソナード)【誤】
ボアソナードは明治政府が招いたフランスの法学者で、刑法・民法の起草に関わりました。幕末の駐日公使ではありません。
d(ロッシュ)【正】
1864年に駐日フランス公使となり、幕府に軍制改革や横須賀製鉄所の建設を助言しました。1867年のパリ万博への幕府の参加も、ロッシュのすすめによるものです。
④【正】
したがって X―b、Y―d の組合せになります。
問2:正解 ②(解答番号9/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓑ「船で海外に渡る」に関連して、船舶や海運の歴史に関して述べた文Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に配列する問題です。
<考え方>
いずれも明治期の海運に関わる出来事です。三菱をめぐる政商の動きと、政府の海運政策の展開として整理します。
<選択肢>
Ⅰ【—】
台湾出兵(1874年)の際、政府は岩崎弥太郎の三菱(三菱商会)に軍事輸送を委託し、これが三菱の急成長のきっかけとなりました。
Ⅲ【—】
開拓使官有物払下げ事件は1881年です。開拓長官黒田清隆が同郷の政商五代友厚らの関係する会社へ官有物を安く払い下げようとして、世論の激しい反発を招き中止となりました(明治十四年の政変につながります)。
Ⅱ【—】
日本郵船会社は1885年に設立され、政府の海運奨励策のもとで1890年代にボンベイ航路(1893年)、欧州航路(1896年)などの定期航路を開設しました。
②【正】
古い順に、Ⅰ(1874年)→ Ⅲ(1881年)→ Ⅱ(1890年代)となります。
問3:正解 ①(解答番号10/配点3)
<問題要旨>
図2(1891年の「旅券」を書き写したもの)に関して述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ問題です。Xは「日本の外務大臣から相手国の担当部署に対し、『旅券』を交付された者の保護を要請する文言が記されている」、Yは「『日本皇帝陛下外務大臣』という記載に関して、大日本帝国憲法では、国務各大臣は天皇を輔弼し、天皇に責任を負うと定められていた」。
<考え方>
Xは図2の本文を読めば決まります。Yは大日本帝国憲法の条文の知識です。
<選択肢>
X【正】
図2には「右 布哇国へ赴くに付き、通路故障なく旅行せしめ、且必要の保護扶助を与へられん事を其の筋の諸官に希望す」とあります。渡航先(ハワイ)の官憲に対して、旅行の便宜と保護を要請する文言にあたります。
Y【正】
大日本帝国憲法第55条は「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と定めています。各大臣は天皇に対して個別に責任を負い、議会に対して責任を負う議院内閣制はとられていませんでした。図2の署名が「日本皇帝陛下外務大臣」となっているのも、この体制を反映しています。
①【正】
したがって X―正、Y―正 の組合せになります。
問4:正解 ③(解答番号11/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓒに関連して、台湾における日本国籍付与の原則を記した史料1(下関条約、1895年)・史料2(台湾住民分限取扱手続、1897年)に関して述べた文 a〜d について、正しいものの組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
a・b は二つの史料の読み取り、c・d は台湾統治についての知識です。史料の条文がどちらを「義務」とし、どちらを「権利」としているかに注意します。
<選択肢>
a【誤】
史料1第五条は「其所有不動産を売却して退去することを得べし」と、退去を望む者にその自由を認め、そのために2年間の猶予を与えるものです。売却を拒否した住民が強制的に退去させられた、という読み取りは条文と逆です。
b【正】
史料2第二条は「明治三十年五月八日前に台湾総督府管轄区域外に退去せざる台湾住民は…日本帝国臣民と視為すべし」と定めています。批准から2年(1895年5月8日から1897年5月8日まで)の間に退去しなかった住民は日本国籍を得たことになります。
c【正】
下関条約の調印後、台湾では日本の領有に抵抗する動きが起こり、台湾民主国の樹立が宣言されました。日本は近衛師団などを派遣してこれを制圧しています。
d【誤】
台湾で徴兵制が施行されたのは1945年で、下関条約の批准から2年後(1897年)ではありません。
③【正】
したがって b・c の組合せになります。
第3問
配点22。近代日本の重要人物についての発表メモが題材です。Aは中江兆民、Bは原敬。問3は幸徳秋水と明治前期の啓蒙思想家の文章を読み比べる設問、問5は『原敬日記』を読む設問で、どちらも文章の主張を正確につかむ必要があります。
問1:正解 ①(解答番号12/配点3)
<問題要旨>
空欄 ア と イ に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ問題です。ア は「1887年に民友社から創刊され、平民主義を主張した雑誌」、イ は「同年に制定され、その処分によって中江兆民が東京から退去した」法令です。
<考え方>
ア は民友社の機関誌、イ は1887年に三大事件建白運動を抑えるために出された法令です。どちらも年号が1887年でそろっています。
<選択肢>
ア=国民之友【正】
徳富蘇峰が1887年に民友社から創刊した雑誌で、藩閥政府の欧化主義を貴族的として批判し、平民主義(平民的欧化主義)を唱えました。
ア=改造【誤】
『改造』は1919年創刊の総合雑誌で、大正デモクラシー期を代表する言論誌です。時期が30年以上ずれています。
イ=保安条例【正】
1887年12月、三大事件建白運動の高まりに対して政府が公布した法令です。皇居から3里以内に住む「治安を妨害するおそれのある者」を退去させるもので、中江兆民・尾崎行雄ら570名近くが東京から追放されました。
イ=讒謗律【誤】
讒謗律は1875年、新聞紙条例とともに自由民権派の言論を抑えるために出された法令です。名誉毀損を取り締まるもので、東京からの退去を命じるものではありません。
問2:正解 ④(解答番号13/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓐ「自由民権運動」に関連して、1880年代の出来事に関して述べた文Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に配列する問題です。
<考え方>
自由民権運動の展開を、高揚(1880年)→ 激化事件(1884年)→ 再結集(1887年)という流れで整理します。
<選択肢>
Ⅱ【—】
国会期成同盟の結成は1880年です。前年の愛国社大会を受けて全国の民権派が集まり、国会開設請願を行いました。
Ⅲ【—】
困民党の武装蜂起は1884年の秩父事件です。松方デフレによる不況で困窮した農民が、負債の減免などを求めて蜂起しました。
Ⅰ【—】
三大事件建白運動は1887年です。井上馨の条約改正交渉への批判を機に、地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回という三大要求を掲げる建白運動が広がりました。
④【正】
古い順に、Ⅱ(1880年)→ Ⅲ(1884年)→ Ⅰ(1887年)となります。
問3:正解 ②(解答番号14/配点4)
<問題要旨>
下線部ⓑ「幸徳秋水」に関連して、幸徳秋水が執筆した文章と、彼とは異なる主義・主張を持つ明治前期の啓蒙思想家が執筆した文章とを比較するために準備された文章X・Yのうち、どちらが幸徳の執筆したものかについて述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
まず二つの文章の主張を読み取ります。Xは欧米の貧富の格差を自由競争制度の結果として批判する内容、Yは知恵のない者が一揆に及ぶことを「恥を知らざる」「法を恐れず」と非難する内容です。幸徳秋水は社会主義者ですから、どちらが彼の立場かは明らかです。
<選択肢>
①【誤】
Xが幸徳の文章であるという点は正しいのですが、理由が逆です。Xは「実に現時の自由競争制度の結果として、彼ら資本家工業家がその資本に対する法外の利益を壟断するがためにあらずや」と、自由競争制度そのものを格差の原因として批判しています。尊重すべきだという主張ではありません。
②【正】
Xは欧米において富と資本が一部少数の手に集まり、多数人民の購買力が衰えていることを紹介し、その原因を自由競争制度と資本家の独占に求めています。『廿世紀之怪物帝国主義』や『社会主義神髄』を著した幸徳秋水の立場そのものです。
③【誤】
Yは「徒党を結び強訴一揆などとて乱妨に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん」と、一揆に及ぶ行動を厳しく非難しています。高く評価しているのではありません。これは福沢諭吉『学問のすゝめ』に見られるような、明治前期の啓蒙思想家の文章です。
④【誤】
Yには他国との交戦についての言及はありません。幸徳秋水が日露戦争に反対したこと自体は事実ですが、この文章の内容とは結び付きません。
問4:正解 ④(解答番号15/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓒ「天津領事(1883〜1885年)」に関連して、原敬が天津領事を務めていた時期に起きた出来事として1885年の天津条約の締結があげられます。天津条約に関して説明した文として正しいものを選ぶ問題です。
<考え方>
朝鮮をめぐる日清間・日朝間の条約は種類が多く、混同しやすいところです。誰と誰が何を約束したのかで区別します。
<選択肢>
①【誤】
朝鮮の軍隊や農民に日本公使館が襲撃された事件(1882年の壬午軍乱)の処理として結ばれたのは済物浦条約です。しかも賠償金は朝鮮側が日本に支払いました。
②【誤】
朝鮮が日本に外交権を奪われたのは1905年の第二次日韓協約(韓国保護条約)です。
③【誤】
天津条約を清の李鴻章と結んだのは伊藤博文です。陸奥宗光が外相として活躍するのは、これより約10年後の日清戦争前後です。
④【正】
1884年の甲申政変後の緊張を収めるため、伊藤博文と李鴻章が1885年に結んだのが天津条約です。日清両国の朝鮮からの撤兵と、今後朝鮮へ出兵する際には事前に通知することを定めました。この規定が1894年、日清両国が同時に出兵して日清戦争に至る導火線となります。
問5:正解 ③(解答番号16/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓓに関連して、原敬が第1次西園寺公望内閣の内務大臣として入閣した1906年に書いた日記(『原敬日記』)について述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
この史料には伊藤博文・山県有朋・原敬の三人が登場します。誰が誰をどう評価しているのかを、丁寧に切り分けます。
<選択肢>
X【誤】
史料では、原が「山県の子分と称する者共の妨害」を訴えたのに対し、伊藤は「大に彼等を罵倒せり」とあります。伊藤が山県(とその系統の人々)を高く評価していたという読み取りは、史料と正反対です。
Y【正】
原は伊藤に対して「是れ閣下の賜なり、立憲政体を創始し又立憲政党を創始して今日あるは閣下の力なり」と述べ、さらに地の文で「余は真に斯く思ひ居るなり」と書き添えています。社交辞令ではなく本心からそう思っていた、ということまで読み取れます。
③【正】
したがって X―誤、Y―正 の組合せになります。
問6:正解 ①(解答番号17/配点3)
<問題要旨>
原敬内閣が実施した様々な政策について述べた語句X・Yと、その具体的な内容を示す文 a〜d との組合せを選ぶ問題です。Xは「経済を重視する政策」、Yは「教育の改革」。
<考え方>
原敬内閣(1918〜21年)の四大政策(教育の改善、交通機関の整備、産業・通商の振興、国防の充実)を思い出します。似た内容でも内閣が違うものが混ぜてあります。
<選択肢>
a【正】
原敬内閣は大戦景気による良好な財政状況を背景に積極政策をとり、鉄道の建設・改良を大々的に進めました(いわゆる「我田引鉄」と批判されるほどでした)。Xに対応します。
b【誤】
国際協調に基づく軍縮と金解禁を行ったのは浜口雄幸内閣(1929〜31年)です。原敬内閣はむしろ軍拡(陸軍2個師団・八八艦隊計画)を進めています。
c【正】
原敬内閣は1918年に大学令を公布し、それまで帝国大学に限られていた「大学」の名称を公立・私立大学や単科大学にも認めました。進学熱の高まりに応えて高等教育機関を大きく拡充した政策で、Yに対応します。
d【誤】
学校令(帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令)を定め、東京に最初の帝国大学を設置したのは1886年、初代文部大臣の森有礼です。
①【正】
したがって X―a、Y―c の組合せになります。
問7:正解 ②(解答番号18/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓔに関連して、原敬の死後の立憲政友会について、第4代総裁の甲(日銀総裁の経験を有し、原暗殺後に急きょ総裁に就任した人物)と、第5代の乙(陸軍軍人から転じた人物)に関して述べた文として誤っているものを選ぶ問題です。
<考え方>
甲は高橋是清、乙は田中義一です。三つは正しい記述なので、内閣の名前や役職が入れ替わっているものを探します。
<選択肢>
①【正しい】
高橋是清は首相(1921〜22年)を退いた後も、田中義一内閣・犬養毅内閣などで蔵相を務めました。1931年に犬養内閣の蔵相として金輸出を再禁止し、管理通貨制度へ移行させています。
②【誤り】
護憲三派による連立内閣の総理大臣となったのは加藤高明です(1924年)。高橋是清はこのとき立憲政友会総裁として護憲運動に加わり、加藤内閣に農商務大臣として入閣しました。総理大臣ではありません。
③【正しい】
田中義一内閣は、台湾銀行の救済に失敗して総辞職した第1次若槻礼次郎内閣の後に成立しました。蔵相高橋是清のもとでモラトリアム(支払猶予令)を発し、日本銀行の非常貸出しによって金融恐慌を収拾しています。
④【正しい】
田中義一内閣は幣原外交を「軟弱」と批判して山東出兵など強硬な対中国政策をとりましたが、張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の処理をめぐって天皇の不興を買い、1929年に総辞職しました。
第4問
配点22。日本の漁業と対外関係がテーマです。Aは日露漁業協約から1920〜30年代の漁業紛争まで、Bは敗戦後の漁業協定と魚介類の自給率。問1と問7はグラフの読み取りで、グラフの動きと歴史的背景が正しく結び付いているかが問われます。
問1:正解 ①(解答番号19/配点4)
<問題要旨>
下線部ⓐに関して、史料1(日露漁業協約、1907年)を参考にしながら、グラフ1(ロシア沿岸における日本漁船の漁獲量、1908〜1928年)に表れた特徴の解釈として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
選択肢はそれぞれ「期間」と「背景」の二つを述べています。グラフのその期間の動きと、背景として挙げられた出来事の時期・内容の両方を確かめます。
<選択肢>
①【正】
史料1第二条は「該事項に関し日本国臣民は…露西亜国臣民と同一の権利を享有すべし」と、日本人漁業者にロシア人と対等の権利を認めています。グラフ1では1908年の約20千トンから1915年には約65千トンへと3倍以上に伸びており、協約によって漁場が確保された影響がはっきり表れています。
②【誤】
1916〜18年は第一次世界大戦による大戦景気の時期で、日本国内は好況でした。不況による需要の減退という説明は当たりません。
③【誤】
日露漁業協約は第十三条で「十二箇年間効力を有す」とされており、1919年に期限を迎えます。しかしグラフ1の1919〜21年は約65千トンから約90千トンへ増加しており、締め出しの影響とは読めません。
④【誤】
浜口雄幸内閣の産業合理化政策は1929〜31年のもので、1922〜28年より後の時期にあたります。
問2:正解 ②(解答番号20/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓑ「既存の塩干しや新たに登場した缶詰などの保存技術」に関連して、魚介類の保存技術が見られる作品に関して述べた文X・Yと、その作品が制作された時代について述べた文 a〜d との組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
X・Yの作品の制作年代をまず確定し、その時代の説明として合う文を選びます。
<選択肢>
X【—】
荒縄でつるされた塩鮭を描いた高橋由一の『鮭』です。1877年ごろの作品で、日本の洋画の草分けにあたります。
a【正】
高橋由一が活躍したのは、西洋の産業技術や社会制度、生活様式を取り入れようとする文明開化の風潮のただ中でした。Xに対応します。
Y【—】
蟹の缶詰工船で働く労働者を描いた小林多喜二の『蟹工船』です。1929年に発表されたプロレタリア文学の代表作です。
c【誤】
日清戦争前後の労働争議は1890年代の出来事で、『蟹工船』の1929年とは30年以上のへだたりがあります。
d【正】
1928年の三・一五事件を受けて、それまで一部の府県にしかなかった特別高等警察が全ての道府県に設置され、共産主義運動の取締りが強化されました。『蟹工船』が書かれたのはまさにこの時期で、小林多喜二自身も1933年に特高の拷問で命を落としています。Yに対応します。
②【正】
したがって X―a、Y―d の組合せになります。
問3:正解 ③(解答番号21/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓒ「アメリカ」に関連して、日本とアメリカをとりまく国際関係に関して述べた文Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に配列する問題です。
<考え方>
いずれも大正から昭和初期の外交です。第一次世界大戦中・ワシントン会議・ロンドン会議という流れで整理します。
<選択肢>
Ⅱ【—】
石井・ランシング協定(1917年)です。アメリカが日本の中国における特殊利益を認め、日本が中国の領土保全・門戸開放を認めるという、あいまいな妥協でした。
Ⅰ【—】
九カ国条約(1922年)です。ワシントン会議で結ばれ、中国の領土保全・門戸開放・機会均等を9か国で確認しました。これにより石井・ランシング協定は廃棄されます。
Ⅲ【—】
ロンドン海軍軍縮条約(1930年)です。ワシントン会議で対象外だった補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の保有量を主要国間で定めました。
③【正】
古い順に、Ⅱ(1917年)→ Ⅰ(1922年)→ Ⅲ(1930年)となります。
問4:正解 ①(解答番号22/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓓ「東シナ海・黄海でも、中国との間で、漁場を巡る紛争が頻発した」に関連して、史料2(昭和3年=1928年に開かれた支那東海黄海漁業協議会の日本側の議事録)に関して述べた文 a〜d について、正しいものの組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
a・b は会議が開かれた時期の日中関係、c・d は史料の読み取りです。誰に対して警告や注意を与えるとしているのかに注意します。
<選択肢>
a【正】
1927年から1928年にかけて、田中義一内閣は在留邦人の保護を名目に3次にわたる山東出兵を行い、1928年5月には済南で中国国民革命軍と武力衝突しました(済南事件)。この協議会が開かれた昭和3年(1928年)4月は、まさにその時期にあたります。
b【誤】
辛亥革命は1911年で、1920年代の出来事ではありません。
c【正】
史料2に「領海に屡々接近し之れが為め事端を惹起するも其の後に対策を講ずれば良いと云う考えを抱く者少からざれば、彼等に充分の注意を与ふる事必要にして」とあります。事後対応で構わないと考える漁業者に注意を与える必要がある、という読み取りは正しいものです。
d【誤】
史料2は「支那側に於ても日本の出漁船に対し何等かの対策を講ずべき情報あれば、当業者に警告し事端を発生せしめざる様充分注意致し度し」と述べています。警告する相手は日本の漁業者(当業者)であって、艦船を派遣して中国に警告するとは書かれていません。
①【正】
したがって a・c の組合せになります。
問5:正解 ②(解答番号23/配点3)
<問題要旨>
空欄 ア と イ に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ問題です。ア は「調印して独立を回復した」条約、イ は「佐藤栄作内閣期に締結された」条約です。
<考え方>
ア は独立回復、イ は佐藤栄作内閣(1964〜72年)という時期で決まります。
<選択肢>
ア=サンフランシスコ平和条約【正】
1951年に調印され、翌1952年の発効によって日本は独立を回復しました。本文に「独立回復と同年に中華民国との間で日華平和条約が締結された」とあるのとも整合します(日華平和条約は1952年)。
ア=日米行政協定【誤】
日米行政協定(1952年)は日米安全保障条約に基づいて在日米軍の地位などを定めたもので、独立を回復した条約ではありません。
イ=日韓基本条約【正】
佐藤栄作内閣のもとで1965年に締結され、韓国との国交が樹立されました。このとき日韓漁業協定もあわせて結ばれています。
イ=日ソ基本条約【誤】
日ソ基本条約は1925年、加藤高明内閣のときにソ連との国交を樹立した条約です。時期が40年ずれています。
問6:正解 ④(解答番号24/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓔ「工業部門の成長」に関して述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ問題です。Xは「1950年代半ば以降の主要エネルギーの転換によって、高度経済成長期に工業地帯は沿岸部よりもむしろ内陸部にひろがった」、Yは「四大公害訴訟で知られる4つの公害病は、水質汚濁を原因とする点で共通する」。
<考え方>
Xはエネルギー革命が工業立地に与えた影響、Yは四大公害病の原因の内訳です。どちらも「共通する」「むしろ」といった言い切りに注意します。
<選択肢>
X【誤】
1950年代半ばからのエネルギー革命で主要エネルギーが石炭から石油へ移ると、輸入原油を受け入れる港と結び付いた臨海部に石油化学コンビナートや製鉄所が建ち並びました。京葉・京浜・中京・阪神・瀬戸内・北九州と続く太平洋ベルト地帯がその典型で、内陸部ではなく沿岸部に広がっています。
Y【誤】
四大公害病のうち、水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病は水質汚濁が原因ですが、四日市ぜんそくは石油化学コンビナートから排出された亜硫酸ガスによる大気汚染が原因です。4つすべてに共通するとは言えません。
④【正】
したがって X―誤、Y―誤 の組合せになります。
問7:正解 ③(解答番号25/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓕに関連して、グラフ2(魚介類の国民一人当たり消費量と自給率、1950〜2000年)に関して述べた文章として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
各選択肢は「グラフの読み取り」と「背景の説明」の二つからなります。両方が成り立っているものを選びます。
<選択肢>
①【誤】
グラフでは一人当たり消費量が50 kgを超えるのは1950年代の終わりごろですが、背景に挙げられた朝鮮特需は1950〜53年の出来事で、時期がずれています。
②【誤】
1960〜70年代に自給率が100 %前後を保っていたという読み取りは正しいのですが、背景の説明が誤りです。高度経済成長期には農林水産業などの第一次産業従事者は大きく減少しました。
③【正】
グラフでは自給率が1980年代半ばの100 %前後から低下し始め、2000年には約53 %まで落ちています。1985年のプラザ合意後の急速な円高で輸入魚介類が安く手に入るようになったことが、この低下の背景として説明として成り立ちます。
④【誤】
1990年代に一人当たり消費量が減少したという読み取りは正しいのですが、インスタント食品が登場したのは1958年のインスタントラーメンが最初で、「この時期に登場し」という説明は当たりません。
第5問
配点22。近現代の日本で女性がどのような社会的地位に置かれ、それをどう変えようとしたかがテーマです。Aは明治期の家族・結婚、Bは女性解放運動、Cは市川房枝。なお公開されている問題PDFでは、問4の史料2(新婦人協会の請願書)と問5の史料3(市川房枝の文章)が著作権上の理由で省略されています。ここでは選択肢そのものの正誤から筋道をたどれる形で説明します。
問1:正解 ②(解答番号26/配点3)
<問題要旨>
空欄 ア と イ に入る語句の組合せとして正しいものを選ぶ問題です。ア は「森有礼や中村正直らによって結成された団体の機関誌」、イ は「『東洋大日本国国憲按』を起草した」人物です。
<考え方>
ア は明六社の機関誌、イ は自由民権期の私擬憲法の起草者です。どちらも固有名詞の対応で決まります。
<選択肢>
ア=明六雑誌【正】
森有礼の呼びかけで1873年に結成された明六社の機関誌です。福沢諭吉・西周・加藤弘之・中村正直・津田真道らが寄稿し、森有礼の「妻妾論」など、夫と妻は同等であるべきことを説く論考も発表されました。
ア=日本人【誤】
『日本人』は1888年に政教社が創刊した雑誌で、三宅雪嶺らが国粋主義(国粋保存主義)を主張しました。明六社の機関誌ではありません。
イ=植木枝盛【正】
土佐出身の自由民権運動の理論家で、抵抗権・革命権まで盛り込んだ私擬憲法「東洋大日本国国憲按」を起草しました。男女同権を主張し、一夫一婦制を求める運動も支援しています。
イ=片岡健吉【誤】
片岡健吉も土佐出身の民権運動家ですが、「東洋大日本国国憲按」の起草者ではありません。彼は1887年の三大事件建白運動で建白書を提出したことで知られます。
問2:正解 ③(解答番号27/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓐ「1898年に施行された民法」に関連して、明治民法の条文(史料1)の内容に関して述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ問題です。Xは「30歳以上の子が婚姻する際には、戸主の同意は必要なかった」、Yは「子の親権は父親と母親が共同で有するものではなかった」。
<考え方>
条文が二段構えになっているところが引っかけです。「戸主の同意」と「父母の同意」は別々の条文で定められており、年齢による例外がつくのは後者だけです。
<選択肢>
X【誤】
第750条は「家族が婚姻又は養子縁組を為すには戸主の同意を得ることを要す」と定めており、年齢による例外はありません。年齢の例外(男30歳・女25歳以上)がつくのは第772条の「父母の同意」の方です。つまり30歳を過ぎても、戸主の同意は必要でした。
Y【正】
第877条は「子は其家に在る父の親権に服す」とし、父が知れないとき・死亡したとき・家を去ったとき・親権を行えないときに限って「家に在る母」が親権を行うと定めています。父が第一順位で、母は父が欠けた場合の補充にすぎず、共同で有するものではありませんでした。
③【正】
したがって X―誤、Y―正 の組合せになります。
問3:正解 ⑥(解答番号28/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓑ「社会主義団体の平民社」に関連して、明治期と大正期の社会主義や労働運動に関して述べた文Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に配列する問題です。
<考え方>
労働組合の結成促進 → 社会主義政党の結成と弾圧 → 共産党の非合法結成、という流れで整理します。
<選択肢>
Ⅲ【—】
アメリカで労働運動に触れた片山潜らが帰国し、1897年に労働組合期成会が結成されました。これを機に鉄工組合などが生まれます。
Ⅱ【—】
1901年、日本最初の社会主義政党である社会民主党が安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らによって結成されましたが、結成の二日後に治安警察法によって解散を命じられました。
Ⅰ【—】
日本共産党が非合法のうちに組織されたのは1922年です。
⑥【正】
古い順に、Ⅲ(1897年)→ Ⅱ(1901年)→ Ⅰ(1922年)となります。
問4:正解 ④(解答番号29/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓒ「女性の政治活動を禁じた法律の改正を求める運動」に関連して、大正期に新婦人協会が議会に提出した請願書(史料2)に関して述べた文 a〜d について、正しいものの組合せを選ぶ問題です。なお史料2は公開されている問題PDFでは省略されています。
<考え方>
新婦人協会が改正を求めたのが治安警察法第5条であることと、その改正がどこまで実現したかを押さえていれば、史料が読めなくても a・c・d の正誤は確定できます。
<選択肢>
a【誤】
治安警察法第5条は、女性が政治結社に加入することも、政治集会に参加することも、どちらも禁じていました。「政治結社への加入は許されている」という前提そのものが成り立ちません。
b【—】
新婦人協会は、女性が政治を理解することは家庭を守るうえでも必要だという、当時受け入れられやすい論法を用いて請願を行いました。史料2が省略されているため本文は確認できませんが、a・c・d が確定するため、消去法によって正しい方に入ります。
c【誤】
この請願が改正を求めているのは治安警察法です。寄生地主制が揺らいだのは戦後の農地改革によるもので、治安警察法とは関係がありません。
d【正】
新婦人協会(1920年、平塚らいてう・市川房枝ら結成)の運動により、1922年に治安警察法第5条が一部改正され、女性も政治演説会に参加できるようになりました。ただし政治結社への加入は依然として認められませんでした。
④【正】
したがって b・d の組合せになります。
問5:正解 ②(解答番号30/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓓ「新体制運動」に関連して、市川房枝が新体制運動に言及した文章(史料3)の内容と、大政翼賛会に関して述べた文として適当でないものを選ぶ問題です。なお史料3は公開されている問題PDFでは省略されています。
<考え方>
「適当でないもの」を選ぶ設問です。①と②は互いに正反対のことを述べているので、どちらか一方が誤りです。メモCに書かれた市川房枝の行動から、どちらが彼女の立場かを判断します。
<選択肢>
①【適当】
メモCには、市川房枝が1941年に大政翼賛会の調査委員になるなど「戦争協力を行う団体の役職に就いた」とあります。主婦がすでに戦争を支える活動を担っている以上、新体制のもとで主婦を組織し直す必要がある、という論の運びは、この行動と矛盾しません。
②【適当でない】
①とは逆に、主婦を諸活動に動員するべきではないという主張になっています。大政翼賛会の役職に就いて戦争協力の側に立った市川房枝の立場と食い違います。
③【適当】
新体制運動が目指したのは、ナチス・ドイツやイタリアのファシズム体制にならった一国一党の政治体制でした。
④【適当】
新体制運動は近衛文麿を中心に推進され、1940年に立憲政友会・立憲民政党・社会大衆党など既存の政党が次々と解党して、大政翼賛会に合流しました。
問6:正解 ④(解答番号31/配点3)
<問題要旨>
敗戦後の女性の社会的地位に関連して述べた文X・Yと、それに該当する語句 a〜d との組合せを選ぶ問題です。Xは「この人物が首相のときに、GHQは女性の解放などの五大改革を指示した」、Yは「敗戦後に制定されたこの法律では、男女同一労働・同一賃金が定められた」。
<考え方>
Xは1945年10月時点の首相、Yは労働三法のうち賃金差別を禁じた法律です。
<選択肢>
a(吉田茂)【誤】
吉田茂が初めて首相となるのは1946年5月です。五大改革指令が出された1945年10月の時点では、まだ外相にもなっていません。
b(幣原喜重郎)【正】
1945年10月、幣原喜重郎が首相に就任した直後にマッカーサーが五大改革(女性の解放、労働組合の結成奨励、教育の自由主義化、圧政的諸制度の撤廃、経済の民主化)を指示しました。
c(工場法)【誤】
工場法は1911年公布・1916年施行の戦前の法律で、年少者・女性の就業制限などを定めたものです。敗戦後の制定ではありません。
d(労働基準法)【正】
1947年制定の労働基準法は、第4条で「使用者は、労働者が女性であることを理由として、賃金について、男性と差別的取扱いをしてはならない」と定めました。
④【正】
したがって X―b、Y―d の組合せになります。
問7:正解 ③(解答番号32/配点4)
<問題要旨>
ユウさん、シュンさん、アキさんが各自のメモA〜Cを持ち寄ってまとめた探究の結論として正しいものを選ぶ問題です。
<考え方>
三つのメモ全体を振り返って、事実として正しい記述を選びます。「実現したのはいつか」を取り違えているものが並んでいます。
<選択肢>
①【誤】
メモAにも「家族や結婚の制度や規範はどのような形であるべきか、様々な議論がなされた」とあります。実際、明治民法の制定にあたっては、旧民法をめぐって穂積八束らが「民法出デテ忠孝亡ブ」と論じた民法典論争が起こりました。
②【誤】
1920年代に実現したのは治安警察法第5条の一部改正(1922年)にとどまります。治安警察法そのものが廃止されるのは1945年、GHQの指令によってのことです。
③【正】
1947年に改正された民法では、戸主が家族を統率する「家」制度が解体され、戸主権も廃止されました。婚姻は両性の合意のみに基づいて成立するものとされ、親権は父母が共同で行うこととなり、相続も均分相続に改められています。
④【誤】
女性の参政権が認められたのは、敗戦後の1945年12月の衆議院議員選挙法改正によってです。翌1946年4月の総選挙で39名の女性議員が誕生しました。敗戦前ではありません。
※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

