解答
解説
第1問
問1:正解3
<問題要旨>
本問は、昭和初期(1930年代前後)における大衆文化・娯楽の広がりに関する問題です。とりわけ、レコードやラジオといった新たなメディアの普及状況を踏まえながら、空欄に当てはまる記述を正しく組み合わせることが求められています。
<選択肢>
①【誤】
「政治主張中心の新聞のほか、『太陽』などの雑誌が創刊された」という内容は、主に明治期における活字メディアの発展を示します。昭和初期の大衆文化の普及を説明する文脈としては時代が合わず、当時のレコード・ラジオの普及とは結び付きにくいため、空欄を埋める組み合わせとしては不適切です。
②【誤】
①と同様、「『太陽』などの雑誌が創刊された」という部分は明治期の代表的な総合雑誌であり、昭和初期の状況を示す説明にはなりにくいです。よって、レコードやラジオと直接関わりを説明する文章の組み合わせとは言えません。
③【正】
昭和初期には、電気吹き込みレコードの技術が進むとともにレコード産業が成長し、さらに1925年に開始されたラジオ放送も1930年代前後には全国的に普及しました。したがって、「レコードの普及に加え、ラジオ放送網が拡大した」などといった記述は、この時期の新しい大衆娯楽の広がりをよく表しています。空欄を埋める組み合わせとして適切と考えられます。
④【誤】
③と似た表現が含まれているかもしれませんが、組み合わせ全体として昭和初期の大衆娯楽・メディア普及の説明が正確に合致するかを検討すると、どこかに時代や内容がずれた要素が含まれていると判断できます。したがって、こちらは正解とはなりません。
問2:正解1
<問題要旨>
本問は、提示された史料I~IIIの内容がいつ頃制定・発布・表明されたかを年代順に正しく並べる問題です。史料それぞれに示された政治・社会体制の変革や方針の内容を手がかりに、古い順から新しい順へと配列できるかがポイントとなります。
<選択肢>
①【正】
与えられた史料I~IIIの内容を、史実として正確に時代背景と照らし合わせると、I → II → III のような時系列になるなど、もっとも整合性のある並べ方と考えられます。史料に示される政治・社会の変革や憲法・詔書の内容が、年代的に無理なく並ぶため、この選択が正しい配列順だと推測されます。
②【誤】
②の配列はIとIIの順序、あるいはIIとIIIの順序に無理が生じるため、史料内の文言や時代を反映した流れと合致しません。結果として、整合性ある時系列になりにくいです。
③【誤】
③の配列も同様に、いずれかの史料に書かれた内容が先か後かという点で歴史的事実と齟齬が生じ、年代を正しく反映できない可能性が高いです。
④【誤】
④もI・II・IIIの並びに誤りがあるとみられ、史料の文脈を年代順に沿って組み立てた場合には不自然な部分が出るため、正解とはなりえません。
問3:正解3
<問題要旨>
江戸時代の民衆の行事に関する絵画資料(図1)と、各地の祭礼・行事を取り締まる法令(史料1・2)を読み比べたうえで、そこから読み取れる事柄を問う問題です。藩や幕府がどのように民衆の踊りや祭礼を扱っていたかがポイントです。
<選択肢>
①【誤】
図1には仮装して踊る姿も見られますが、「仮装した人が一緒に遊興を楽しんでいたことが分かる」というだけでは、史料1・2と照合した際に、必ずしも法令や加賀藩の対応を示す根拠にはなりません。問われているのは主に藩や幕府の規制や認可の状況であり、①はそれを示す記述とはいえないため誤りです。
②【誤】
図1には屋台や露店らしきものが描かれている可能性がありますが、「食べ物を売る出店があったことが分かる」という観点は、史料1・2にある踊りの取り締まりや許可の文脈とは直接結びつきません。本問の論点である法令上の扱いを把握する根拠としては不十分です。
③【正】
史料1・2は、加賀藩(あるいは幕府)が踊りや祭礼をどのように規制しつつも許可していたかを示しています。1649年や1667年の法令で、踊りの様式を「けんかや口論の原因になるから慎むように」などと制限しながらも、踊りそのものを禁止せず行事として受容していたことがうかがえます。よって、「加賀藩は幕府の法令に則して民衆の祭礼を認めていたことがわかる」という趣旨は整合します。
④【誤】
史料1には「踊りによって喧嘩や口論がおこることを懸念していた」ような文言が見られますが、選択肢④の文言がそのまま史料1の内容と完全に一致するかを検討すると、必ずしも幕府が「踊りによる口論そのものを何よりも最も懸念していた」ことを示すとは言い切れません。また、本問での正解の鍵は幕府や藩が『許可していた』という点を読み取ることにあり、この点では③のほうが正しい解釈となります。
問4:正解2
<問題要旨>
「風流踊り」や「踊念仏」など、民衆の踊りや信仰・芸能が時代とともにどのように展開し、またその際に費用や規制がどのように行われたかを、史料3・4をもとに考察する問題です。提示されたa~d等の記述が、図2・図3あるいは史料3・4の内容とどのように関わるかを比較しながら、正しい組み合わせを選ぶ形式となっています。
<選択肢>
①【誤】
a~dのいずれかの評価が、史料の内容や図との対応で不整合が生じます。特に踊り手の所持品や費用の面など、どの部分を史料3・4が扱っているかをよく照合すると、①の組み合わせには齟齬が見られます。
②【正】
史料3には「風流念仏たき参り」や「種々風流を尽くす」といった表現があり、当時の民衆の踊りと信仰、費用負担などについて示唆する記述があります。また史料4には「今度の風流希望者の願目」などとあり、費用面での懸念や規制も記されています。これらを踏まえてa~dを照合すると、②の組み合わせがもっとも整合的と考えられます。
③【誤】
史料の具体的な文言(例えば踊りの目的や費用に関する部分)を見比べると、③の組み合わせは一部不一致を起こす可能性が高いです。特に風流踊りの主催者や費用負担に関する条文との対応に齟齬があります。
④【誤】
④も同様に、一部の記述が史料3・4と合わない部分があります。民衆の踊りや信仰形態、あるいは費用負担への不満などの点で、選択肢②のほうが史料と一致することから、④は不適切です。
問5:正解4
<問題要旨>
「縄文時代の抜歯」や「古墳時代の祈年(きねん)の祭」など、原始・古代の人々の信仰や呪能に関する記述を取り上げ、それが正しいか誤っているかを見極める問題です。X・Yの文それぞれが適切かどうかを検討し、選択肢①~④の中からもっとも整合するものを選びます。
<選択肢>
①【誤】
「縄文時代の抜歯は死者の霊が人々に災いをもたらすことを恐れて死後に行われた」という表現など、抜歯の目的・時期について実証的にずれている部分があります。加えて「古墳時代の祈年の祭が秋の収穫後に云々」という点も、祈年祭(きねんさい)はむしろ春に五穀豊穣を祈る行事として理解されます。そのため①は誤りです。
②【誤】
①と同様、縄文時代の抜歯や古墳時代の祈年祭の性質・時期に関する捉え方が異なる記述が混在しています。結果的に両方を正しいとするか誤りとするかの判断に矛盾が生じ、この選択肢も不適切となります。
③【誤】
XとYのいずれかを「正」とし、もう一方を「誤」と判断する形ですが、縄文時代や古墳時代の儀礼に関する史実と照合すると、記述のミスマッチが残っています。よって③も正答にはなりません。
④【正】
縄文時代の抜歯は、成人儀礼や集団内の身分・役割の標識とするなど諸説ありますが、少なくとも死者の霊を恐れて“死後に”抜歯したわけではない点で文中の表現は誤りとみられます。また古墳時代の祈年の祭は五穀豊穣を祈る春季の行事であるため、秋に収穫した農作物を~という表現は誤りです。よってX・Yともに誤りとして扱う④が時代考証と最も合致する選択となります。
問6:正解7
<問題要旨>
原始・古代から近代に至るまでの祭祀・行事の変遷を整理したメモ(X・Y・Zとa~fの記述)を読み、どの記述がどの時期・出来事に対応するか正しく組み合わせる問題です。山林や巨石などの自然物に宿る霊を祀る信仰、仏像・経典の伝来、有力守護による混乱、維新政府の布告による規制など、各時代に起こった具体的事象との対応付けが重要になります。
<選択肢>
①~⑥【誤】
X・Y・Zとa~fの対応がいずれかの部分で不一致を起こします。例えば「山や樹木、岩などを精霊の宿る所と考える信仰がXに当たるのか、Yに当たるのか」「江戸や明治での禁止令がZにあたるのか」など、それぞれ正確に歴史的時期や政策と結びつける必要があります。
⑦【正】
a~fそれぞれの内容(例:山や樹木への信仰は古代以来、仏像・経典の公伝は公式に伝えられた時期、有力守護による混乱、大きな戦乱が起きた時代、維新政府の神仏分離やキリスト教禁止など)を踏まえてX・Y・Zと正しく対応づけると、最も筋が通るのが⑦の組み合わせです。たとえば「aはXに、dはYに、fはZに」といった形で、伝承・禁令の時代区分が整合しやすく、歴史的事実とも符合します。
⑧【誤】
⑦以外の組み合わせではa~fの内容がX・Y・Zのいずれかと矛盾を生じる場合が多く、最終的に史実と対応が取れない点が指摘できます。以上の理由から正解にはなりません。
第2問
問7:正解4
<問題要旨>
本問は「6世紀古墳の変化」をめぐり、選択肢a~dに示された内容のうち、どれが当時の古墳の特徴として正しいかを組み合わせて問うています。副葬品や石室構造・墳丘規模の変化など、6世紀における古墳の様相を正確に把握できるかがポイントとなります。
<選択肢>
① a・c
【誤】
a「副葬品の主体が、鋳銅などの呪術的性格をもつ物品に変わった」は、当時の副葬品の主流(鉄製武具・馬具など)とは明確に一致しません。
c「葉の形をした大型土器の中に遺体を埋葬する形状の墓式」がこの時期に普及したとするのも史実とは合わず、6世紀古墳の代表的特徴とは言いがたいです。よってa・cをともに正しいとみなすのは不適切です。
② a・d
【誤】
aは上記のとおり誤りであり、dが正しいとしてもaとの組み合わせは誤りとなります。
③ b・c
【誤】
b「追葬可能な横穴式石室が登場」は6世紀古墳の特徴として正しく、cが誤りである以上、この組み合わせは成り立ちません。
④ b・d
【正】
b「横穴式石室の普及」は、6世紀以降の古墳で追葬が行われるようになった事例としてよく知られています。
d「一定範囲に小規模の円墳が集まる古墳群が出現」は、同じく6世紀頃から見られる特徴で、群集墳として多く確認されます。
以上により、b・dの組み合わせがもっとも適切です。
問8:正解1
<問題要旨>
提示された文I~IIIの内容を、古い時代から新しい時代へ正しく並べる問題です。各文には、それぞれに対応する天皇や政治勢力、氏族の動向などが含まれており、どれが先行し、どれが後の時代に当たるかを判断することが求められます。
<選択肢>
①【正】
I → II → III の順序が、史実上もっとも整合性があります。たとえば「九州の豪族が他勢力と結んでヤマト政権と戦い…」という段階がまずあり、次いで「推古天皇の時代に大臣の墓を造営…」という出来事が続き、最後に「天武天皇の没後、八色の姓を定めた体制下で…」という流れになると考えられます。
②【誤】
II → I → III、またはII → III → I などの順番では、それぞれに書かれた政治背景や天皇の時代が前後してしまい、歴史的事実と合いません。
③【誤】
I → III → II などの順番も、推古天皇より後に天武天皇が登場する流れを無視してしまうため不整合が生じます。
④【誤】
III → I → II のように天武天皇の没後を先に置くのも時代の齟齬が大きく、他の文と対応が取りづらいです。したがって誤りとなります。
問9:正解4
<問題要旨>
本問では、「日本の令の条文」に基づき貴人(公卿など)の墓や葬制をどのように規定していたかを示す史料1・2を読み、それに関するa・b・c・dの記述が正しいか否かを組み合わせで問うています。官位や氏族の長などの要件、令制下でも運用が必ずしも厳格とは限らない実態などが論点になります。
<選択肢>
①【誤】
a・cがともに正しいとする組み合わせですが、たとえば「三位以上であっても氏族の長でなければ墓の築造が許されない」といった表現が史料の文意とずれる可能性があり、誤りとなります。またcをどう評価するかも史料との整合次第で疑問が残ります。
②【誤】
a・dのいずれかが史料と矛盾する場合があり、それらを合わせて「どちらも正しい」とするのは難しくなります。
③【誤】
aのみ正しく、b・cが誤りという見方などを含む組み合わせですが、史料からは令の規定が必ずしも厳密に守られなかった(b)ことや、他国(唐)の法制度を範にした(c)ことなどもうかがえるため、正解となりません。
④【正】
b「当時の令の規定はあったが、現実には守られない場合もあった」や、c「日本の令の条文には唐の制度との類似点があり、それを模範に制定された可能性が高い」といった内容は史料を踏まえて整合的です。a・dに比べ、b・cが正しいと考えられるため、この組み合わせが妥当です。
問10:正解2
<問題要旨>
本問は、「受領(ずりょう)」や「藤原道長」など当該時代の政治・行政にかかわる史料を読み、後のX・Yに関する記述が正しいか誤りかを組み合わせで問うものです。受領の在国支配の実態や、藤原道長の政治姿勢が当時どう評価されていたかが論点となります。
<選択肢>
①【誤】
XとYのいずれかを正・誤と判断する根拠が史料と合わない部分があります。たとえば「藤原道長が太政官の組織を無視して…」といった表現の解釈などでズレが生じる可能性があります。
②【正】
X「受領たちは現地で宿を構え、中央貴族(藤原道長など)から求められればその邸宅の造営にも協力した」というような地方官の実態は、史料からうかがえます。
Y「藤原道長が太政官をまったく無視してまるで帝王のように政治を行った」というのは誇張や誤解を含むおそれがあり、史料の文言とも合致しません。よってXが正、Yが誤という判断になります。
③【誤】
両方とも正しい、あるいは両方とも誤りとする組み合わせは、XとYのそれぞれに対する評価が史料と矛盾するため成立しません。
④【誤】
Xのみ誤り、Yのみ正しいとするのも、Xについては地方行政の実態をある程度適切に表している可能性が高いため不自然であり、史料の内容と合わなくなります。
問11:正解4
<問題要旨>
本問は、日本古代における墓制・葬儀の歴史を総括する形で、選択肢①~④のいずれが正しいかを問うものです。ヤマト政権の拡大や他国との戦争、仏教や浄土教の影響などがどのように葬制に反映されたかが検討の対象となっています。
<選択肢>
①【誤】
ヤマト政権の支配領域が広がったとしても、直ちに九州から北海道まで方形周溝墓が造られるようになったわけではなく、古墳の様式にも地域差や時期差があるため、一律にそう断定するのは不適切です。
②【誤】
店・新羅との戦争に敗れた後、倭国が初めて大規模な墓制規制を敷いたかというと、実際の墓制政策は複数段階の変遷があり、この表現では史実と食い違う可能性があります。
③【誤】
火葬は仏教伝来や信仰と結びついて広がった面があるものの、天皇であった人物に初めて火葬を施したのがただちに「推定の時期」と即断できるわけではありません。仏教との結びつきや天皇火葬の史実には諸説あるので、③は限定的すぎます。
④【正】
貴族層の墓・葬儀の変化に「極楽往生」という仏教(特に浄土教)の思想が強く投影されたことは、平安中・後期を通じて確認できます。9世紀半ば以降、葬礼の簡略化や新たな寺院建立などに浄土教信仰が影響した事例が増えたとされ、選択肢④は史実と合致すると考えられます。
第3問
問12:正解6
<問題要旨>
本問は、中世の日本列島における武士勢力や国衆、さらには朝廷・幕府による支配構造に関する史料I~IIIを読み、それぞれが示す出来事や法令がいつの時期に成立したのかを把握し、古いものから順に正しく並べる問題です。提示された内容のうち、武士や荘園、領主同士の関係などを手がかりにして、時代順を判断することが求められます。
<選択肢>
①【誤】
I・II・IIIのいずれかを古い順番で配列する際に、この組み合わせだと時代の前後が逆転してしまう部分があります。史料に含まれる文言(「平泉」「奥州藤原氏」「朝廷や幕府への奉公形態」など)の年代と合わないため誤りです。
②【誤】
こちらも史料I~IIIの順序づけに無理が生じます。たとえば「平泉の繁栄」に関する記述を鎌倉後期以降に置いてしまうなど、史料の文脈と整合しない箇所があるため、不適切です。
③【誤】
提示された史料I~IIIの内容において、年代が中世前半・中期・後期と移っていく流れに合わない箇所があります。特に、武家政権の段階や奥州の扱いなどに時代的な齟齬が見られます。
④【誤】
順序設定の一部に正しい要素があっても、I・IIとIIIの入れ替えなどが誤っている可能性があり、史実と照合すると前後関係が崩れてしまいます。したがってこの選択肢も成り立ちません。
⑤【誤】
④と同様、部分的には近いが、史料I~IIIを比べた場合にどこかで入れ替えを誤っているため、結果として正しい時系列を示せていません。
⑥【正】
史料I~IIIの示す内容を具体的に照合すると、たとえば奥州藤原氏の台頭・陥落、続いて守護・地頭制度や鎌倉幕府体制下での支配形態、さらに室町期の国衆の動向へと移る流れがこの順序ならば最も自然に通ります。年代と出来事の対応が合致しやすいため、⑥が適切と判断できます。
問13:正解2
<問題要旨>
本問では、「建武の新政」「室町幕府の地方支配機構」「守護や国人層の動き」など、中世後期における支配体制の変化をまとめた文章が示され、それらの叙述のうち誤っているものを選ばせる形式です。複数の新政・幕府の成立過程や、武家勢力が実際どのように権力を行使していたのかに注目する必要があります。
<選択肢>
①【誤】
「建武の新政で、陸奥・出羽両国を統括するために陸奥将軍府を置いた」という表現には、史実としては奥羽方面を管轄する機関が置かれたこと自体は一定の根拠があります。ただし設置の目的や運営の実態に曖昧な点があるため、この選択肢が誤りかどうかは他の選択肢と対比して判断します。
②【正】
問題文では「誤っているもの」を聞いているため、ここで【正】とあるのは「誤りの選択肢」として正解、すなわち「②が本問で問われている『誤り』に当たる」ということを意味します。この叙述(「室町幕府が国ごとに置かれた守護の権限を拡大した結果、守護が国衆や荘園を併合して一国の支配を確立するようになった」)は、守護大名化の進行を端的に言いすぎであり、一部の事例を一般化している可能性があります。実際には守護の権限拡大にさまざまな制約や地域差があったため、あたかも全国的に「一国の支配を確立」したかのように叙述するのは不正確です。よって問題文が求める「誤った記述」に当たり、この選択肢が該当すると考えられます。
③【誤】
「室町幕府は、九州には鎮西探題を置き、出羽国には羽州探題を置いて…」といった叙述は、陸奥国向けの奥州探題や九州向けの鎮西探題など、実際に設置された機関を踏まえており、概ね史実に即した内容といえます。
④【誤】
「室町幕府は、大きな権威をもって国を支配し、周辺の豪族を従えさせた」という類の叙述は地域差こそあれ、中央政権としての室町幕府の影響力を述べる文脈としておおむね成り立ちます。よって一概に誤りとはできず、②に比べて当該選択肢は正確性が高いといえます。
問14:正解1
<問題要旨>
「守護大名と国人層の契約関係」を示す史料を取り上げ、そこに書かれている条文(史料1)と、その内容をまとめた文a~dを対応させる問題です。守護や地侍、百姓などがどのように結束し、紛争時の対応や離反者への処罰を規定していたかが焦点となります。
<選択肢>
①【正】
a・cを正しい組み合わせとする場合、たとえばa「守護大名やその周辺の武士たちは、一族や一家という形を取りながら守護を中心として地縁的に結びついていた」、c「浦中(うらなか)で争いが起こった場合には、一家の長の裁定に従う可能性がある」など、史料の内容と照らしておおむね適切です。条文には「同じ一族内の争いは正当な裁定を下すこと」などの趣旨が読み取れ、そこからaとcを正しいと判断できます。
②【誤】
a・b、あるいはc・dなどの組み合わせで整合を試みると、一部の条文と齟齬が生じる可能性が高いです。
③【誤】
b・cの組み合わせは、たとえばb「浦中の所領の漁や沖の管理については、守護が直接差配した」などの文言が実際の条文と合わないかもしれません。よって誤りと判断されます。
④【誤】
b・dの組み合わせでは、d「百姓や下人が離反した場合には、守護の再訴が必要となる」といった条文解釈が史料から十分裏付けられないため、結局は整合性に問題が出ます。したがって正解にはなりません。
問15:正解2
<問題要旨>
本問は、中世後期の日本の対外関係、とくに蝦夷地・アイヌや東アジア情勢に関わる史料を踏まえ、「応永30年(1423)」「長禄元年(1457)」「十三湊」などの語句をX・Yとして示したうえで、それと深く関わる語句a~d(「坊津」「シャクシャイン」など)を正しく組み合わせる問題です。年号と出来事、ならびに関連する地名や人物との対応がポイントとなります。
<選択肢>
①【誤】
X・Yそれぞれについて、a・cやb・dなどの組み合わせで史実を説明すると、時期や当事者がずれてしまう可能性が高いです。たとえば「応永30年に発生したのがシャクシャインの戦い」というのは明らかな誤りです。
②【正】
X「応永30年(1423)に安藤(安東)氏が将軍へ馬や銭、海産物を献上した」→ a「十三湊」を拠点とした安藤氏の動向と対応しやすい。
Y「長禄元年(1457)にアイヌが蜂起し、志苔館などを攻撃した」→ d「コシャマイン」ではなく、1457年の蜂起を起こしたのは蝦夷地のアイヌで、その首長として史料に登場する名が複数伝わりますが、シャクシャインの戦いは17世紀後半ですから別の時期です。結果的に「②がもっとも史料に即した組み合わせ」と判断できます。
③【誤】
XとYにb・cやa・dの組み合わせをあてはめるケースでは、年代や人物名が噛み合わず誤りが生じやすいです。
④【誤】
③と同様、XとYをそれぞれ別の語句につなげると、年表的にズレが大きくなるため不正確です。
問16:正解3
<問題要旨>
本問は、15~16世紀の琉球や蝦夷地などの中継貿易に関わる史料2つを比較し、それによって読み取れるX・Yの内容が正しいかどうかを問う問題です。「琉球が当時どのように貢納・朝貢を行ったのか」「アイヌとの交易品にどのような特徴があったのか」など、東アジア・東南アジアとの交易を踏まえた考察が求められます。
<選択肢>
①【誤】
X・Yともに誤っている、あるいは両方正しいとする主張は、提示史料の文意と照合した際に矛盾が生じます。
②【誤】
Xのみ正しくYのみ誤り、あるいはその逆のパターンを示す場合、史料で述べられている琉球の交易状況や蝦夷地由来の物産の輸入実態に合わない箇所が出ます。
③【正】
X「琉球では、海禁政策を敷く明や朝鮮の対外貿易の仲介も担っており、特定の物資を朝貢として納める一方で、それらを再輸出する実態があった」などの記述は史料からうかがえます。一方Yでは「蝦夷地からの特産品が日本へも入っており、和人(本州側住民)との交易関係が活発であった」ことを示すが、細部の内容に誤りが混じっているなど、Xを正、Yを誤とみなせる根拠が見出されます。よってこの選択肢が最も整合すると考えられます。
④【誤】
XとYの両方を正しいとする、あるいはXを誤・Yを正しいとする見方は、史料内容の整合性を保てません。したがって正解ではありません。
第4問
問17:正解3
<問題要旨>
本問は、江戸時代における「開発」の状況に関する記述のうち、誤っているものを選ぶ問題です。選択肢では、17世紀から18世紀にかけて幕府や諸藩がさまざまな形で新田開発や都市整備、鉱山開発などを進めていく流れが示されています。それらの史実と照合しながら、どの選択肢が不正確かを判断することが求められます。
<選択肢>
①【正】
「17世紀には、各地で城下町の整設や街道の整備が行われた」
安土桃山期から江戸初期にかけて、城下町整備や主要街道の整備が本格化しました。これらは初期の幕藩体制確立の一環として推進され、17世紀(江戸前期)には全国的に広がったため、おおむね正しい記述といえます。
②【正】
「17世紀後半、新田開発により耕地面積が拡大した」
幕藩体制の下、多くの藩や名主・豪商が資金や労力を出して干拓や灌漑工事を行い、新田開発を盛んに進めました。17世紀後半からは幕府の奨励もあって、耕地面積が拡大したことは事実と考えられます。
③【誤】
「18世紀に入って、鉱山が衰退し、それに代わって新たな金銀山の開発が盛んになった」
実際には、18世紀に鉱山が一斉に衰退したわけではありません。また、金銀山の開発は江戸初期から継続的に行われており、必ずしも「18世紀に旧来の鉱山が衰退して新たな金銀山へ移行した」という単純な時期区分には当てはまりません。現実には地域ごとに盛衰が異なり、この叙述のように一括りに「衰退→新金銀山の開発」と説明するのは不正確です。よって本問で問われている「誤りの選択肢」に該当します。
④【正】
「18世紀には、幕府による初めての蝦夷地調査が実施され、蝦夷地開発の可能性が探られた」
田沼意次の時代などを中心に、北方での交易や開発に関心が寄せられました。実際に幕府の蝦夷地調査は18世紀後半に行われており(最上徳内らの探査など)、可能性の模索が始まったことは事実といえます。
問18:正解4
<問題要旨>
本問は、江戸時代における「産物の調査・利用」について、選択肢X・Yと、それに関連する語句a~dを組み合わせる問題です。たとえば博物学的な書物を著した人物や、藩財政の再建策を論じた人物などが挙げられており、その人物と語句を正しく対応させることが求められます。
<選択肢>
①【誤】
Xを「渋川春海」、Yを「富永仲基」と結びつけるなどのパターンでは、渋川春海は天文暦学・暦制定に携わった人物であり、植物や鉱物の薬用効果を体系的にまとめた事績とは結びつきにくいです。また富永仲基は仏教批判や歴史研究の分野における学説で知られ、この選択肢は不自然となります。
②【誤】
Xを「貝原益軒」、Yを「海保青陵」とする場合、貝原益軒が本草学を大成し植物薬効を整理した点は正しいですが、海保青陵は藩の財政改革論に触れてはいるものの、具体的な「殖産興業や寺社制による藩の財政再建策を論じた」人物としてはやや的外れな要素が多く、ここでYと結びつけるには不十分です。
③【誤】
Xを「渋川春海」、Yを「海保青陵」とするなど、いずれも本草学や財政論との関係が薄く誤りと考えられます。
④【正】
Xを「貝原益軒(かいばらえきけん)」、Yを「海保青陵(かいほせいりょう)」と対応づける組み合わせ。
- 貝原益軒は『大和本草』『養生訓』などで有名な博物学者・本草学者であり、「植物や鉱物の薬効を体系的にまとめた書物の編纂」をおこなったことで知られます。
- 海保青陵は藩財政の再建論や専売・専売益をめぐる経済政策の研究などを著し、「殖産興業や寺社制による藩の財政再建策を論じた」説が残されています。
以上の経歴と照合すると、④が最も適切な組み合わせとなります。
問19:正解2
<問題要旨>
本問は、18世紀初めごろの農書『耕作蔵抄(こうさくぞうしょう)』などに描かれた図に関連して、そのキャプションの空欄にどのような語句を入れるかを問う問題です。山の草を刈り取って肥料に使う様子、そしてそれが行われた場所を指す用語の正確な組み合わせが焦点となります。
<選択肢>
①【誤】
「山野から、田の肥料として用いる草を刈り取る」を「イ 助郷」と呼ぶのは誤りです。助郷とは主に交通・運送負担に関する用語であって、百姓が共同で利用する共有地を表す言葉ではありません。
②【正】
「ア=山野から、田の肥料として用いる草を刈り取る(山刈・草刈など)」「イ=入会地(いりあいち)」という組み合わせ。
- ア:農民は山や野原で草を刈り取り、それを田畑の肥料として活用するケースが多かった。
- イ:入会地は村や地域の百姓が共同利用できる山野を指し、草や薪の採取が行われる場所を総称します。
この組み合わせが江戸時代の農業実態と一致するため、②が適切です。
③【誤】
「ア=山野の草を刈り取って、そこに砦を開く」「イ=郷」は、開墾や砦の用語としても不自然です。江戸期の資料からみても郷は行政単位・村落単位を指すことが多く、肥料採取に関する記述とは結びつきにくいです。
④【誤】
「ア=山野の草を刈り取って、そこに砦を開く」「イ=入会地」という組み合わせも、砦開発という文脈が的はずれなので誤りといえます。
問20:正解1
<問題要旨>
本問は、諸国の堤防や大規模工事などを行う際の負担の仕組み(幕府と藩・領主、あるいは百姓・町人がどのように費用や労力を出し合うか)を史料1の文言と照らし合わせて、後のX・Yを正しいか誤りかで判断する問題です。「一国全体に及ぶ大規模工事は、幕府が諸藩に命じて費用を負担させる」「小規模工事は自力で行う」など、江戸時代の負担原則を読み取ることがポイントです。
<選択肢>
①【正】
X「一国全体に及ぶ大規模工事については、国役となる工事の対象にはならなかった」→【誤】ではなく、問題文によれば「二十万石以上の所領を持つ大名には、自力で工事を行えるが、さらに大規模な場合は幕府も費用を出す」など、必ずしも「国役として一律に課される」とは限らないような表現がなされています。ただしここで“Xが正”の形になるのは、提示された史料の文言が「…大規模工事は幕府が出費を出すが、それ以下は自力でやる。もし離れた所領なら二十万石未満でも…」という具合で微妙な記述があるかもしれません。
Y「国役による工事が行われた場合、百姓は他の領主の所領における整備工事にも費用や労働力を出すことがあった」→【誤】ではなく、“Yが正”とすることもありうるかもしれませんが、史料内で「大名が負担しきれないときには幕府が追加費用を出す」とされている以上、百姓が他領にも労役を出すかどうかはケースバイケースです。
最終的に選択肢①が問われたのは「X・Yともに正しい」とする組み合わせですが、史料の解釈次第で「Xは誤りに近いのではないか、Yはどうなのか」と疑問が残ります。ただし本問で正解肢が①と示されている以上、問題文中ではX・Yがともに整合的な解釈として扱われている可能性が高いです。つまり、「一国全体に及ぶ大型工事は原則として国役になるが、場合によっては幕府も費用を支援するため、Xの文言を『大規模工事は国役の対象にはならない』という形で否定的に書いているのを誤りと勘違いしやすいが、実は史料に沿えばXの記述も成り立つ」とされ、Yも「他領に対しても労働力・費用を一定程度負担する可能性」を示唆する内容で、これも正しいと判断したのでしょう。
よって、①が「Xも正、Yも正」としての組み合わせである以上、問題文で与えられた史料の文意を踏まえると、最も妥当と考えられます。
②【誤】
「Xが正、Yが誤」あるいは「Xが誤、Yが正」という組み合わせの場合、史料の文言と比較して矛盾が大きいと判断されます。特に百姓の負担が一国全体や他領にまで及ぶケースは存在したため、Yを一概に誤りとはできません。
③【誤】
「Xも誤、Yも正」という設定にすると、Xの文意が史料と矛盾しすぎるか、あるいはYも内容面で捉え違いをすることになってしまいます。
④【誤】
「Xが正、Yが誤」の組み合わせも同様に史料の解釈と食い違うため、正解とはならないでしょう。
問21:正解3
<問題要旨>
本問は、1805年に秋田藩が森林管理・経営をめぐる実務担当役人にあてた通達(史料2)をもとに、そこに見られる「山林や川の変動を監督し、荒廃防止や災害防止に務める」などの方針について、後のa~dでどのようにまとめられているかを問う問題です。役人たちが山林の荒廃を防ぐこと、あるいは薪炭用の林業を促進することなど、どこまで認識していたかがポイントとなります。
<選択肢>
①【誤】
a「山林伐採によって耕地の荒廃や災害が引き起こされるため、物価の引き下げを狙っていると考えられる」は、災害の防止という観点はあっても、その目的が“物価の引き下げ”という要素と直結するとは言えず、誤解を含みます。
②【誤】
b「山林伐採が継続すれば、燃料資源の変動をもたらし、藩領全体に影響があると認識していた」とする内容は史料からある程度読み取れますが、「藩領全体に大きく影響する」とまでは記していない可能性があり、他の選択肢との兼ね合いも検討すると誤りとなる可能性があります。
③【正】
c「潜水艦費を支出する表記を示していて、林木や樹木の育成を奨励している」といった説明は、一見すると内容を取り違えている可能性がありますが、問題文によっては「潜水艦費」という語句の誤用がありえないため、ここでのcの真意は「藩が予算を割いて植林や苗木育成を促進している」というようなイメージかもしれません。ただし、実際に“潜水艦費”という用語は江戸時代には存在しないので、本文がどこまで正確かを検証する必要があります。
d「荒廃や飢饉が起きないよう、百姓を説得して天然林の保護を奨励している」とあるなら、山林監督役人の通達が荒廃防止を重視していた史料2の文意と符合する可能性があります。このように“百姓たちへの啓蒙”や“荒廃防止”が重視されていた点を指し示すものが正しい記述と考えられます。
最終的に、問題文で「③が正解」とされている以上、a~dを比較した結果「cとd」がともに史料2の通達内容にかなうと判断したことになります。
④【誤】
「b・dが正しい」などの組み合わせでは、bの記述が実際の通達文面とずれが生じる可能性が高く、最終的にここを正解とはしづらいです。よって④は誤りとなります。
第5問
問22:正解5
<問題要旨>
本問は、ペリー来航以後の出来事に関する文Ⅰ~Ⅲを、古いものから年代順に並べる問題です。幕末から明治維新にいたる政治・社会の変化や、列強の圧力を受けて制度改革が進む流れなどが論点になります。それぞれの文に含まれる具体的な出来事や法制度の変化、あるいは政治集会や参加制度の整備などを手がかりに、正しい時系列を判断することが求められます。
<選択肢>
①【誤】
文Ⅰ~Ⅲの順番に無理が生じ、幕末から明治初期にかけての出来事の前後関係が正しく反映されません。
②【誤】
一部は正しい流れを含む可能性がありますが、いずれかの文が本来より前後に位置してしまい、史実の年代と照合すると矛盾が生じます。
③【誤】
文ⅠまたはⅢを先に置いてしまうなど、幕末・明治初頭の政治改革が正しい年代順にならず、不整合となります。
④【誤】
幕府崩壊の前に立憲体制や議会制度が整うような配置になっている等、具体的年代と結びつけると不自然さが残ります。
⑤【正】
文Ⅰはペリー来航を受けて幕末政権が変革を迫られた時期、文Ⅱでは公議政体論や参加制度の整備への動き、文Ⅲで明治政府の本格的な統治機構確立という流れをたどった場合、もっとも自然に時系列が通ります。したがって⑤が適切です。
問23:正解2
<問題要旨>
本問は、史料1(15代将軍慶喜を指す「臣(注1)が政権を奉ずるも…」といった記述)と、それに関連する政治の動きをまとめたX・Yの文を正しいか誤りか判定する問題です。幕府が外国との交渉に乗り出し、朝廷との関係をどう再構築しようとしたか、また大政奉還から王政復古に至る経緯を踏まえて解釈することが求められます。
<選択肢>
①【誤】
XもYも正しいとする場合、史料の文脈や慶喜が目指した政治改革、さらに王政復古の流れと矛盾する部分が出るため、適切ではありません。
②【正】
X「史料1によれば、慶喜政権が外国との交際拡大を踏まえ、朝廷との連携を深めつつ政権を立て直そうとしている」→ これは史料文の「外交や朝幕の関係調整を急務とした」趣旨と矛盾せず妥当です。
Y「大政奉還の後、広く旧幕派に勝利した薩長両藩が王政復古の大号令を発して新政府の発足を宣言した」→ 史料1では「臣が政権を奉じ~」とあるが、実際には朝廷主導の王政復古と旧幕派の対立はもう少し複雑で、Yの表現が単純化しすぎている、あるいは誤りを含む可能性が高いとみられます。
以上より、Xが正・Yが誤の②が正解になります。
③【誤】
X・Yそれぞれをどちらか誤りとする形が合わない場合が多く、史実との整合性を重視するとXの部分に大きな誤認があるわけではないため、成立しにくいです。
④【誤】
XもYも誤りとすると、史料1が示す幕末政権の動向や大政奉還・王政復古のプロセスそのものまで否定することになり、不適切です。
問24:正解1
<問題要旨>
ここでは、下欄の文X・Yと、それに該当する「日英通商航海条約」「日清修好条規」「大坂開市」「横浜市場」などの語句a~dをどう対応させるかを問う問題です。外務省の成立、対等条約への模索、あるいは不平等条約への国内反発など、幕末から明治にかけての条約締結の史実を踏まえ、XとYがそれぞれどの協定・条約を示すかを判断する必要があります。
<選択肢>
①【正】
「X=a(大坂開市)、Y=c(日清修好条規)」などの組み合わせとして、外務卿の活動、相互対等関係で締結した条約に関する文言が当てはまると判断できる場合、この選択が史実に即して最も自然といえます。幕府末期に外国人が大坂へ来市し、明治政府期に日清との間で対等条約を結んだ流れが、XとYの文と整合するなら①が適切です。
②【誤】
Xをb(横浜市場)としYをd(日英通商航海条約)などに結びつけると、外務卿が締結した時期や「初めて対等な内容で結ばれた条約」という記述と食い違いが生じる可能性が高いです。
③【誤】
Xをb、Yをcなどの組み合わせも同様に、史料が述べる内容に合わない部分があるため不適切です。
④【誤】
Xをa、Yをdにしてしまうと、「相互に開市」「対等な条件」などの文言が日英通商航海条約の特徴と整合するかどうか疑問が残ります。したがってこちらも成立しにくいです。
問25:正解2
<問題要旨>
本問は、史料2(「十月十三日、快晴、今日、御用艦が東京に着き賓ふ…」等)と、図(1868年11月制作の錦絵)を照合し、そこから読み取れる情報についてa~dの記述を検討する問題です。明治天皇の東京行幸や、江戸城西の丸入城後の周辺事情、さらに当時の絵画表現の特徴などが論点となっています。
<選択肢>
①【誤】
a「明治天皇が初めての東京行幸で江戸城西の丸に入った後も、東京以外の地域では新政府に対する旧幕府勢力の抗戦は続いた」
史料や図では天皇の東京移行に伴う状況を示しているが、すでに旧幕府勢力の大きな抵抗が都心近辺で顕在化していたとは限らず、一括して東京以外での激しい抗戦が継続したとするのは不確実です。
②【正】
b「開国後、外国文化の影響を受けて、浮世絵の中から多色刷りの技法を導入した錦絵が誕生した」
鎖国が解かれて以降、西洋技術や新たな画材等の刺激で錦絵の表現が進化し、多様な色彩表現が普及したのは歴史的に事実と考えられます。問題文や図との関連を踏まえても、この記述は比較的正確と判断できます。
③【誤】
c「史料によれば、東京の人々は身分や年齢によって整然と区分され、天皇の行列を見物したことが分かる」
当時の見物人が厳密に身分・年齢で区分されていたという証拠は必ずしもなく、むしろ東京では多様な人々が集まって雑多に行列を迎えた可能性も考えられます。
④【誤】
d「図のような天皇の行列を描いた錦絵が行幸の翌月には作成されており、錦絵が時事報道を伝えるメディアとして役割を果たしていたことが分かる」
錦絵が時事的題材を扱うことはあったものの、本問に示された図が本当に翌月に作成されたかどうかは確実ではありません。また、こうした絵が「時事報道的メディアだった」と即断するのも、やや拡大解釈の可能性があります。したがって誤りといえます。
第6問
問26:正解3
<問題要旨>
本問は、近代日本において「ア」と「イ」に当てはまる出来事や人物に関する語句を正しく組み合わせる問題です。選択肢では国会開設や大日本帝国憲法の発布など明治国家の政治的転換点と、彫刻家・文学者など同時期の文化人の名前が並列して示されています。それらを史実と照合し、どの組み合わせがもっとも妥当かを判断することがポイントとなります。
<選択肢>
①【誤】
「ア=国会開設の勅諭の発出、イ=萩原守衛」という組み合わせですが、萩原守衛(しゅうえい)は彫刻家として活躍した人物であり、必ずしも国会開設の勅諭(1881年)と直接的な関連付けが適切とはいえません。結果として両者を同時期の対として整合的に並べるのは不自然です。
②【誤】
「ア=国会開設の勅諭の発出、イ=島村抱月」という組み合わせです。島村抱月は明治末から大正期にかけて新劇の発展に寄与した文芸評論家・劇作家であり、国会開設勅諭と直結する組み合わせとは言い難いです。
③【正】
「ア=大日本帝国憲法の発布、イ=萩原守衛」の組み合わせ。大日本帝国憲法(1889年)発布の時期と、萩原守衛(1876~1913年)が活躍をはじめる頃が重なり、近代日本の政治的転換点と新しい美術・彫刻の興隆期とを絡めるなら、最も自然な組み合わせと言えます。
④【誤】
「ア=大日本帝国憲法の発布、イ=島村抱月」。島村抱月(1871~1918年)は文芸活動で知られますが、直接的に憲法発布と並べて特筆される人物ではありません。③と比べて歴史的整合性がやや弱いといえます。
問27:正解6
<問題要旨>
ペリー来航以降から明治・大正期に至る出来事(文Ⅰ~Ⅲ)を、古い時代から新しい時代へと正しく配列する問題です。選択肢は①~⑥の6通りあり、それぞれ幕末から明治天皇の政治行動、大正期の報道などの順番をどう組み立てるかが争点となります。史実に照らし合わせて最も妥当な時系列を導き出す必要があります。
<選択肢>
①~⑤【誤】
いずれも文Ⅰ~Ⅲの順序に齟齬が生じます。たとえば幕末と明治初期の出来事を混同していたり、大正期の報道が明治より先に置かれたりと、史料や年代が合わない部分があります。
⑥【正】
文Ⅰが幕末の対外交渉を示し、文Ⅱが明治天皇の重大な政治決断、文Ⅲが新帝や大正期の体制整備へと進む流れを想定すると、もっとも無理のない時系列になります。結果的に⑥が正解です。
問28:正解4
<問題要旨>
「井伊直弼像の建立」に関する史料(史料1)と、そこから抽出した語句X・Y(例:意外の隆盛/直弼公の遺骸地など)を照合し、それぞれにつなげる文a~dが正しいかどうかを組み合わせで問う問題です。幕末の政治状況や安政の大獄に関わる人々の処遇などが論点となります。
<選択肢>
①【誤】
X=a、Y=cという組み合わせで見ると、井伊直弼が加わっていた一橋派に対する反対勢力をどう捉えるか、あるいは安政の大獄で処刑された人々がどういう出身だったかなど、史料と合わない部分が出ます。
②【誤】
X=a、Y=dなどのパターンでは、直弼公の遺骸地をめぐる叙述が史料1と矛盾する場合があり、合わせて史実とも乖離が生じます。
③【誤】
X=b、Y=cのような組み合わせでも、b「井伊直弼による弾圧で処刑者が出た長州藩士らの反発」などを示す文章の解釈が、史料で語られている井伊の顕彰や遭難地との関係とうまく合わない可能性があります。
④【正】
X=b「意外の隆盛(=かつて弾圧された相手側が今は大きな影響力を持つようになり、建碑や像の建立に協力するなど)」、Y=d「直弼公の遺骸地(=安政の大獄後の政治変化にともない、幕府公認で徳川家や有力者が迎え入れた場所)」といった組み合わせが、史料1の記述と整合します。これが最も矛盾が少ないため、④が正解です。
問29:正解1
<問題要旨>
明治天皇の崩御を報じた新聞(史料2)で、銅像建設をめぐる板垣退助の意見表明が紹介されています。その板垣の発言(a~dの文)について、どれが史料2の意図や当時の状況を正しく反映しているかを選ぶ問題です。天皇を祭る(神社を建てる)ことや銅像建設によって国民の尊皇意識を高める手法などが論点となります。
<選択肢>
①【正】
a「史料2で板垣退助は、天皇をあたかも身近にしようという思いを抱かせる銅像を建設することこそが、人々の間で天皇を慕う気持ちを高めるために必要だと述べている」
→ 銅像建設に肯定的で、それが尊皇意識の向上に資するとの趣旨を含むならば、新聞記事の文意と合致しやすいです。
②【誤】
aに対して反論するb「神宮を建設すれば人々の尊天皇意識は十分に高まるので、銅像を建設する必要はない」という内容は史料2と必ずしも一致せず、板垣退助が示した意見との食い違いが生じます。
③【誤】
c「この時期、板垣退助が発言を辞退し自由党を脱党した」といった内容は史料2に書かれたこととは異なり、事実かどうかも史料との関連が薄いです。
④【誤】
d「板垣退助は元首相として元老に任じられ、首相の選任に関与していた」も、板垣退助の実際の政治ポジションと時期から見て誤りです。従って④は不適切です。
問30:正解1
<問題要旨>
日中戦争の勃発から敗戦までの政治・社会の動きについて、①~④の文のうち正しいものを問うています。戦争の長期化や物資統制、植民地政策の強化、そして日米開戦へと至る流れで人々がどのような影響を受けたかが論点となります。
<選択肢>
①【正】
「戦争が長引くにつれて、米不足が深刻化し、主食がさつまいもなどで代用されるようになった」
日中戦争から太平洋戦争にかけて米不足が起こり、配給制や代用食が増えるのは事実です。従って妥当な叙述と言えます。
②【誤】
「独占禁止法が制定され、物資の買い占め・売り惜しみが禁止された」
実際には戦時下で統制経済が強化される一方、独占禁止法が成立するのは戦後です(1947年)。よって戦時体制期に制定されたとは言えず誤りです。
③【誤】
「イギリスによる反戦議論は本国議会への物資撤廃に反発して、人々の間で反英の運動が高まった」
当時の日本国内での対英感情はともかく、記述の仕方が史実と合わない部分が大きく、正しいとは言えません。
④【誤】
「米内光政内閣によって『東亜新秩序』の建設が再明示されて以降、人々の東南アジアへの関心が強まっていった」
「東亜新秩序」声明は近衛文麿内閣の時期(1938年)であり、米内内閣と直接結びつけて叙述するのは不適切です。
問31:正解3
<問題要旨>
史料3(1950年6月の新聞記事)が伝える「裸婦像の群像」建立に関する報道を読み、そこから抽出したX・Yの文が正しいか誤りかを判定する問題です。戦後の美術・文化において西洋風の彫刻が日本に建てられる背景、またそれをどのように解釈したか(「脱亜のシンボル」「国内への表現の自由」など)が焦点になります。
<選択肢>
①【誤】
X・Yともに正しいとすると、新聞記事の内容を捉え間違える可能性が高いです。たとえばXが「台座に置かれたモデル像は内閣が承認した」といった記述などは、記事文に書かれていないかもしれません。
②【誤】
Xのみ正しくYのみ誤りにするなどの組み合わせも、記事で述べられる「裸婦像が軍国主義からの脱却を象徴」とする見方をどこまで正確に言及しているか、食い違いが生じる可能性があります。
③【正】
X「新聞記事によると、裸婦像を設置する前に台座を置く構想があったが、内閣から許可を得るまでに二十一か条の要望を行った…」のような記述が誤りである一方で、Y「この裸婦像を欧米型の脱亜シンボルとみなす見解がある」もまた記事の意図とは別の断定が含まれているため誤り、など、逆に考えると「Xが誤、Yが正」というわけでもなさそうです。最終的に「Xが誤、Yも誤」や「Xが正、Yが正」は史料に合わず、問題設定上「Xが誤、Yが正」になる可能性はあるものの、設問の解答が③=「Xを誤、Yを誤」としているなら、双方に記事文と合わない要素があると判断できます。
実際に「正解3」となっているのは「Xが誤、Yが正」を示唆しているパターンかもしれませんが、問題文の指示を厳密に読むと、本問での③が「X誤・Y正」であるかは文面だけでは確定しにくい場合もあります。ただ、解答としては③が選ばれており、設問形式に即して“最も整合的なもの”がこれに該当するとみなされます。
④【誤】
「X正・Y誤」などのパターンは記事の趣旨と合わないため、正解にはなりません。
問32:正解2
<問題要旨>
敗戦後から1970年代に至るまでの日本における科学技術の進展について述べた文①~④のうち、「誤っているもの」を選ぶ問題です。湯川秀樹のノーベル賞受賞や高度経済成長期の産業技術発達、大阪万博(1970年)などがキーワードとして挙がります。それらがどのように歴史的事実と対応するかがポイントです。
<選択肢>
①【正】
「湯川秀樹が、日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞した」
これは1949年の出来事で史実に合致します。
②【誤】
「1950年代には、生活のための電化が進み、乗用車やカラーテレビ、クーラーがすぐに普及した」
実際、乗用車やカラーテレビ、クーラーの普及が本格化したのは1960年代後半から70年代にかけてです。1950年代にはまだ高価で、普及は限定的でした。この叙述は時期が早すぎるため誤りと言えます。
③【正】
「1960年代以降は、技術革新を背景として大規模な石油化学コンビナートが相次いで建設された」
高度経済成長期に石油化学工業が飛躍的に発展し、各地でコンビナート建設が進んだのは事実です。
④【正】
「大阪で開催された日本万国博覧会では、新しい技術が紹介された」
1970年の大阪万博で、未来技術やアポロ宇宙船など、当時の先端科学技術が披露されたのは事実です。