2023年度 大学入学共通テスト 追試験「日本史B」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。
解答
解説
第1問 肖像から日本史を考える(配点18)
高校生マユミさんが「肖像(絵画・彫刻・写真)」をテーマに進めた自由研究のメモと表をもとに、古代から近現代までを横断的に問う大問です。表の数値を正確に読み取る問題、絵画の年代配列、地図の読み取り、史料批判の方法論、天皇像の比較と、資料の扱い方が幅広く試されます。
問1:正解 ①(解答番号1/配点3)
<問題要旨>
表1(小学校教科書に載る54名の肖像を「主に活躍した時代」×「主に活躍した分野」で集計したもの)から読み取れることについて、小村寿太郎に関するXと歌川広重に関するYの正誤を判定する問題です。
<考え方>
まず二人がどの時代に区分されるかを決め、そのうえで表1の該当行・該当列の数値を比べます。Xは「時代どうしの比較(縦の比較)」、Yは「同じ時代の中での分野どうしの比較(横の比較)」を求めている点に注意してください。
<選択肢>
X【正】
小村寿太郎はポーツマス条約や関税自主権の回復に関わった外務大臣で、「近現代(幕末〜)」に区分されます。表1の政治・外交の列を縦に見ると、古代3・中世7・近世4・近現代10で、近現代が最も多くなっています。
Y【正】
歌川広重は『東海道五十三次』などで知られる浮世絵師で、「近世(織豊期〜)」に区分されます。表1の近世の行を横に見ると、政治・外交4に対して学問・芸術6で、学問・芸術のほうが多くなっています。
正解【①】
X・Yともに正しいので①が正解です。表の縦横どちらを比べるよう求められているかを取り違えると誤答につながります。
問2:正解 ④(解答番号2/配点3)
<問題要旨>
女性を描いた絵画I〜IIIを、描かれた年代の古いものから順に並べる問題です。Iは湖畔に座る女性を描いた洋画、IIは剥落のある壁面に描かれた 女性の群像、IIIは着物姿の女性を後ろ向きに描いた肉筆画です。
<考え方>
画材・画風・描かれた衣装から時代を推定します。壁画で剥落が激しく、唐風の装束をまとった女性群像であれば古墳時代終末期の装飾古墳、後ろを振り返る町人女性の肉筆浮世絵であれば江戸時代、油彩で陰影のある風景の中に女性を配置した作品であれば明治期の洋画です。
<選択肢>
I【黒田清輝「湖畔」(1897年)】
油彩で明るい外光を取り入れた画風は、フランスで学んだ黒田清輝が持ち帰った外光派の特徴です。明治30年の作品で、三つの中では最も新しくなります。
II【高松塚古墳壁画(7〜8世紀)】
奈良県明日香村の高松塚古墳の西壁に描かれた女子群像です。1972年に発見され、唐や高句麗の影響を受けた装束をまとっています。三つの中で最も古い作品です。
III【菱川師宣「見返り美人図」(17世紀後半)】
浮世絵の祖とされる菱川師宣による肉筆画で、江戸時代前期・元禄期の作品です。
正解【④】
II(7〜8世紀)→ III(17世紀後半)→ I(1897年)の順になるので、④が正解です。
問3:正解 ③(解答番号3/配点3)
<問題要旨>
表1に含まれる外国人について、Xの人物(イエズス会宣教師。1549年にキリスト教布教のため来日)が最初に上陸した地点a・bと、Yの人物(東インド艦隊司令長官。1853年に軍艦4隻を率いて来航)の主要な推定航路c・dの組合せを、地図から選ぶ問題です。
<考え方>
X=フランシスコ=ザビエル、Y=ペリーとまず特定します。ザビエルの上陸地は鹿児島なので、地図上では九州南部を指す記号を選びます。ペリーについては「太平洋を横断して来た」という思い込みが最大の落とし穴で、実際の航路は大西洋回りです。
<選択肢>
X=b【正】
ザビエルは1549年、鹿児島に上陸しました。地図でaは日本海側・本州方面を指しており、九州南部を指すbが正解です。
Y=c【正】
ペリー艦隊はアメリカ東海岸を出て大西洋を渡り、喜望峰・インド洋・シンガポール・香港・上海を経て琉球に立ち寄り、そこから浦賀に来航しました。地図でcは中国大陸沿岸から琉球を経て日本に北上する航路にあたります。
Y=d【誤】
dは太平洋を東から西へ横断して日本に向かう航路です。当時は太平洋横断の定期航路が確立しておらず、ペリーの往路とは異なります。
正解【③】
X=b、Y=cの組合せなので③が正解です。
問4:正解 ③(解答番号4/配点3)
<問題要旨>
長く「武田信玄像」とされてきた図1が、最近の教科書には載らなくなっている理由を考え、この絵が武田信玄の肖像画かどうかを調べるための方法として「適当でないもの」を選ぶ問題です。メモ1は「出家しているはずなのに髷がある」、メモ2は「長谷川等伯の印があるが江戸時代の記録では信玄の弟・信廉が描いたことになっている」、メモ3は「腰刀に足利将軍家の二引両。武田氏の家紋は花菱なのに」、メモ4は「鷹がいる。戦国武将の間で鷹狩が流行していた」という内容です。
<考え方>
メモ1〜4のうち、メモ1・2・3は「信玄像であることを疑わせる材料」、メモ4は「信玄像であっても矛盾しない材料」です。調査方法として適当かどうかは、その調査結果によって「信玄かどうか」の判定に近づけるかで決まります。適当でないものが一つあるので、消去法で絞ります。
<選択肢>
①【適当】
メモ1の疑問に対応します。出家後も髷を描いた肖像画の作例が他にあると分かれば、髷があることは信玄像であることを否定する材料にならなくなります。
②【適当】
メモ2の疑問に対応します。長谷川等伯と武田信玄に接点があったかどうかを調べれば、等伯の印の信憑性を検討できます。
③【適当でない】
メモ3の疑問は「なぜ武田氏の花菱ではなく足利将軍家の二引両が描かれているのか」という点にあります。足利氏が二引両を「初めて」家紋に採用した時期を調べても、この人物が武田信玄なのかどうかの判定にはつながりません。調べるべきは、二引両を用いる人物が武田氏以外の誰なのか、あるいは武田氏が二引両を使う事情があったのか、という点です。
④【適当】
メモ4に対応します。信玄が鷹狩を好んだと分かれば、鷹が描かれていることが信玄像である傍証になります。
正解【③】
適当でないものを選ぶ問題なので③が正解です。
問5:正解 ⑦(解答番号5/配点3)
<問題要旨>
天皇の姿を描いた絵画X(神仏名の貼り紙を背に、冠の上に中国風の冕冠をかぶり、前に狛犬が描かれた肖像)とY(軍服を着てサーベルを持ち、椅子に座る肖像)を比較した図2の空欄ア〜ウに入る文の組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
Xは後醍醐天皇像(清浄光寺蔵)、Yは明治天皇の御真影(キヨッソーネ筆)です。アはXの「絵画に描かれていること」に入る具体的な描写、イはXから読み取れる天皇像、ウはYの「絵画から読み取れるイメージ」に入る内容です。
<選択肢>
ア=b【正】
後醍醐天皇像は袈裟を着て、右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴という密教法具を持っています。aの「禅宗の僧侶が用いる座具に座る」は、この絵の描写と合いません。
イ=d【正】
神仏名の貼り紙を背にし、密教法具を持ち、狛犬に守られて描かれる姿は、天皇自身が神仏と一体化した存在として描かれていることを示します。cの「武力による支配を行う統治者」は、武具ではなく法具を持つこの絵とは合いません。
ウ=e【正】
軍服・軍帽・サーベル・勲章という表現は、大日本帝国憲法第11条で天皇が陸海軍を統帥すると定められたことに対応します。fの「日本国民を象徴する」は日本国憲法第1条の規定で、明治期の天皇像ではありません。
正解【⑦】
ア=b、イ=d、ウ=eの組合せなので⑦が正解です。
問6:正解 ①(解答番号6/配点3)
<問題要旨>
表2(1881年から2004年まで、紙幣に使われた人物の一覧)から読み取れる特徴を述べたX・Yと、その特徴を表現する語句a〜dの組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
Xは「平安時代以前の人物で、天皇に意見を上申したり政治を助けたりした者」という説明にあてはまる人物が表2にいるかを確かめ、その人物が紙幣に選ばれた意味を考えます。Yは1980年以降に使用が始まった人物の顔ぶれを見ます。
<選択肢>
X=a【正】
表2の初期には神功皇后・菅原道真・武内宿禰・和気清麻呂・藤原鎌足・聖徳太子・日本武尊が並びます。このうち菅原道真・和気清麻呂・藤原鎌足・聖徳太子は、天皇に意見を上申したり政治を補佐したりした人物です。天皇に忠実に仕えた人物を紙幣に選ぶことは、忠君愛国の価値観を国民に浸透させる意図と結びつきます。
X=b【誤】
主権在民は日本国憲法の原理です。天皇を補佐した人物を選ぶという特徴とは結びつきません。
Y=c【正】
1984年の夏目漱石・新渡戸稲造・福沢諭吉、2000年の紫式部、2004年の野口英世・樋口一葉と、1980年以降は作家・思想家・教育者・医学者が並びます。これは日本の科学技術や文化を対外的にアピールする意図の表れと読めます。
Y=d【誤】
1980年以降に選ばれた人物に軍人や実業家は含まれておらず、軍事・経済力のアピールとは読み取れません。
正解【①】
X=a、Y=cの組合せなので①が正解です。
第2問 奈良・京都の寺院と古代仏教(配点16)
修学旅行の自由見学先として奈良・京都の寺院を選んだオキさんとヒロさんの会話文を題材に、Aで奈良時代(興福寺阿修羅像・正倉院宝物・行基)、Bで平安初期(東寺・空海)を扱う大問です。なお公開されている問題冊子では写真1(阿修羅像)・写真2(漆胡瓶)が省略されていますが、会話文で作品名が示されているため解答に支障はありません。
問1:正解 ④(解答番号7/配点3)
<問題要旨>
会話文の空欄アに入る阿修羅像の技法と、空欄イに入る正倉院宝物「漆胡瓶」の特徴の組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
アは奈良時代の仏像制作技法、イは正倉院宝物の性格を問うています。奈良時代の代表的な技法は乾漆造と塑造で、それぞれの作り方の違いを押さえておく必要があります。
<選択肢>
ア=原型の上に麻布を巻き、漆で塗り固めて、後で原型を抜き取って【正】
これは脱活乾漆造の説明です。興福寺の阿修羅像をはじめとする八部衆像・十大弟子像は脱活乾漆造で、内部が空洞のため軽く、細身で繊細な表現が可能になりました。
ア=木を芯として数層の粘土を塗り固めて【誤】
これは塑造の説明です。東大寺法華堂の執金剛神像や日光・月光菩薩像などが塑造ですが、阿修羅像は乾漆造です。
イ=唐や西アジアの影響を受けた【正】
漆胡瓶は、ペルシア(西アジア)起源の水差しの形を写した容器で、鳥の頭のような注ぎ口を持ちます。正倉院宝物には唐を経由してもたらされた西アジア・インド由来の意匠が多く含まれ、天平文化の国際性を示します。
イ=北魏様式の影響を受けた【誤】
北魏様式は飛鳥文化の仏像(法隆寺金堂釈迦三尊像など)の左右対称で厳しい表情に見られる特徴で、正倉院宝物の説明としてはあてはまりません。
正解【④】
ア=脱活乾漆造の説明、イ=唐や西アジアの影響、の組合せなので④が正解です。
問2:正解 ④(解答番号8/配点3)
<問題要旨>
下線部「社会事業で活躍した行基」について述べた文として「誤っているもの」を選ぶ問題です。
<考え方>
行基の事績(灌漑・橋・道路の整備、大仏造立への協力、大僧正就任)を確認し、光明皇后の事績と混同していないかを見分けます。誤りを選ぶ問題である点に注意してください。
<選択肢>
①【正しい】
行基は墾田永年私財法など開墾を奨励する法令のもとで、ため池や溝といった灌漑施設の構築・整備を各地で進めました。
②【正しい】
行基集団は民衆のために橋や道路、布施屋(旅行者の救護施設)などを建設しました。
③【正しい】
当初は僧尼令に反するとして弾圧されましたが、のちに聖武天皇に認められ、大仏造立に協力して745年に大僧正に任じられました。
④【誤り】
封戸を財源として、病人に薬を施し貧民を救済する施設(施薬院・悲田院)を設立したのは光明皇后です。行基の事績ではありません。
正解【④】
誤っているものを選ぶ問題なので④が正解です。
問3:正解 ②(解答番号9/配点3)
<問題要旨>
下線部「都が平安京に移った時」に関連して、古代の宮・都に関する史料I〜IIIを、内容の古いものから年代順に配列する問題です。
<考え方>
それぞれの史料に出てくる宮・都の名前と人名を手がかりに年代を特定します。Iは志貴皇子の歌、IIは長岡京造営の候補地視察、IIIは紫香楽宮での大仏造立開始です。
<選択肢>
I【694年(藤原京遷都後)】
「明日香宮より藤原宮に遷りましし後、志貴皇子の作りませる御歌」とあるので、694年の藤原京遷都の直後です。『万葉集』に収められた歌です。
II【784年(長岡京遷都)】
藤原小黒麻呂・紀古佐美らを山背国乙訓郡長岡村に遣わして遷都の地を視察させた記事で、桓武天皇による784年の長岡京遷都にあたります。
III【743年(紫香楽宮)】
聖武天皇が紫香楽宮で盧舎那仏(大仏)造立を発願し、寺地を開いた記事です。大仏造立の詔は743年に出されました。
正解【②】
I(694年)→ III(743年)→ II(784年)の順になるので、②が正解です。
問4:正解 ②(解答番号10/配点3)
<問題要旨>
空海に関わる『日本紀略』の史料(讃岐国が万農池=満濃池の修築について朝廷に申請した記事)について述べたX・Yの正誤を判定する問題です。
<考え方>
史料の主語が誰なのかを丁寧に追うことが要点です。「讃岐国言さく」で始まっているので、この文書を朝廷に出しているのは讃岐国であって空海ではありません。
<選択肢>
X【正】
史料には「僧空海は此の土の人なり。山中に坐禅し、獣馴れ鳥狎る。海外に道を求め、虚往実帰す」とあります。山中での修行と、唐に渡って学んで帰ったことの両方が読み取れます。
Y【誤】
史料の申請者は讃岐国であり、「伏して請うらくは、別当に充て、其の事を済さしめんことを」と、空海を工事の責任者に任命してほしいと願い出ているのは讃岐国の側です。空海が讃岐国に用水施設の建設を要請したのではありません。
正解【②】
X=正、Y=誤なので②が正解です。史料問題では「誰が誰に何を求めているのか」を必ず確認しましょう。
問5:正解 ①(解答番号11/配点4)
<問題要旨>
古代の寺院と仏教についてまとめた文a〜dのうち、正しいものの組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
a・bのどちらか、c・dのどちらかを選ぶ形になっています。bは「勝手に出家した者はいなかった」という言い切り、dは平安京遷都に伴う寺院の扱いがポイントです。
<選択肢>
a【正しい】
鎮護国家の思想に基づき、聖武天皇は741年に国分寺建立の詔を出し、諸国で国分寺・国分尼寺の造営が進められました。
b【誤り】
僧尼令で正式な出家の資格や手続きは定められていましたが、実際には得度を受けずに出家する私度僧が多数存在しました。行基も当初は私度僧を率いる存在として弾圧されています。
c【正しい】
最澄の延暦寺(比叡山)や空海の金剛峯寺(高野山)のように山間の地に伽藍が営まれ、密教は在来の山岳信仰と結びついて修験道が形成されていきました。
d【誤り】
平安京遷都に際して、平城京の官寺は原則として移転を認められませんでした。また大乗戒壇は最澄の死後822年に延暦寺に設立が認められたもので、遷都に伴う措置ではありません。
正解【①】
a・cの組合せなので①が正解です。
第3問 中世の枡と人々の考え方(配点16)
日本史探究部のアユムさんとリョウさんが「中世の人々の暮らしと考え方」を研究発表するという設定で、中世の枡(ます)を切り口に土地制度・年貢収納・荘園領主と代官と百姓の関係を問う大問です。問4では播磨国矢野荘の枡の容量を示した表と、東寺・代官・百姓それぞれの立場を示した史料3点を突き合わせます。
問1:正解 ④(解答番号12/配点3)
<問題要旨>
中世の人々の暮らしと考え方についてのメモの空欄ア(後三条天皇が統一した枡の名称)とイ(度会家行が唱えた神本仏迹説の内容)に入る語句の組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
アは延久の荘園整理令とセットで覚える用語、イは本地垂迹説との違いを押さえます。「神本仏迹」という語そのものが答えを示しています。
<選択肢>
ア=宣旨枡【正】
後三条天皇は1069年の延久の荘園整理令に際して、公定の枡として宣旨枡を定めました。ただし中世社会では実際には様々な大きさの枡が使われ続けます。
ア=京枡【誤】
京枡は豊臣秀吉の太閤検地で公定枡とされ、江戸幕府にも引き継がれたものです。後三条天皇の時代ではありません。
イ=神が主であり仏は従【正】
伊勢神宮外宮の神官である度会家行は、伊勢神道(度会神道)を大成し、神を本地、仏を垂迹とする神本仏迹説を唱えました。
イ=仏が主であり神は従【誤】
こちらは本地垂迹説の内容です。神本仏迹説はそれを逆転させたものなので、組合せとしては誤りになります。
正解【④】
ア=宣旨枡、イ=神が主であり仏は従、の組合せなので④が正解です。
問2:正解 ③(解答番号13/配点3)
<問題要旨>
下線部「延久の荘園整理令」について述べた文として正しいものを選ぶ問題です。
<考え方>
延久の荘園整理令(1069年、後三条天皇)の目的と実施方法を確認します。誰が何を審査し、どの荘園が対象になったのかが判断の分かれ目です。
<選択肢>
①【誤り】
関係が逆です。増加する荘園が公領(国衙領)を圧迫していたため、荘園を整理して公領を確保しようとしたのが延久の荘園整理令です。
②【誤り】
記録荘園券契所(記録所)が設けられて証拠書類を審査したことは正しいのですが、大江広元は鎌倉幕府の初代政所別当を務めた人物で、時代が全く異なります。
③【正しい】
それまでの荘園整理令と異なり、延久の荘園整理令では摂関家の荘園も例外とされず、証拠書類(券契)の提出が求められて審査されました。後三条天皇が藤原氏を外戚としない天皇であったことが背景にあります。
④【誤り】
荘園と公領の区別が明確になったのではなく、この後の荘園公領制のもとでは公領も国司が現地の武士などに管理させる形になり、荘園と公領は支配のしくみとしては類似していきました。「貴族・寺社が荘園、武士が公領」という単純な区分もあてはまりません。
正解【③】
正しいものを選ぶ問題なので③が正解です。
問3:正解 ④(解答番号14/配点3)
<問題要旨>
下線部「太閤検地」に至るまでの、権力による土地政策や税制について述べた文I〜IIIを、古いものから年代順に配列する問題です。
<考え方>
I〜IIIがそれぞれどの制度を指すのかを特定します。Iは自己申告させた年貢高を銭に換算して知行として与える制度、IIは戦乱後に畿内・西国へ地頭を配置し新たな基準を定めた措置、IIIは荘園・公領の年貢の半分を軍費として調達させた法令です。
<選択肢>
I【戦国期(貫高制)】
領主や百姓から自己申告させた年貢高を銭に換算し、それに応じた軍役を課す制度は貫高制で、戦国大名が家臣団を編成するために用いました。
II【1221年(承久の乱後の新補地頭)】
承久の乱の後、幕府は畿内・西国の没収地に多くの地頭を配置し、収益の少ない場合には新補率法という新たな基準を定めて加徴米や土地を給与しました。
III【1352年(半済令)】
南北朝の内乱のさなか、足利尊氏は近江・美濃・尾張の3国を対象に、荘園領主の年貢の半分を軍費として守護に調達させる半済令を出しました。
正解【④】
II(1221年)→ III(1352年)→ I(戦国期)の順になるので、④が正解です。
問4(1):正解 ②(解答番号15/配点4)
<問題要旨>
室町時代の播磨国矢野荘の枡について、表(公田の枡0.778斗/重藤十六名の枡0.867斗/下行枡0.585斗)と、荘園領主の東寺が代官に出した史料1、代官が東寺に返答した史料2を読み、a〜dのうち正しいものの組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
まず表の3つの枡の大小関係を確認します。重藤十六名の枡(0.867斗)>公田の枡(0.778斗)>下行枡(0.585斗)です。年貢を「収納する枡」と、寺僧に「配分する枡」の差が誰の得になるかを考えます。
<選択肢>
a【正しい】
東寺は最も大きい重藤十六名の枡(0.867斗)で年貢米を収納し、最も小さい下行枡(0.585斗)で寺僧に支給しています。同じ「1杯」でも入る米の量が違うため、その差の分だけ東寺の手元に余分の米が残ることになります。
b【誤り】
枡が大きいほど、同じ「◯杯」を納めるのに必要な米の量は多くなります。重藤十六名の枡(0.867斗)は公田の枡(0.778斗)より大きいので、百姓の負担はむしろ重くなります。
c【誤り】
史料1で東寺が指示しているのは「今後は公田と重藤十六名とで、それぞれの枡を使って年貢を勘定しなさい」ということだけで、差額を代官の支払いとするのが先例だとは主張していません。
d【正しい】
史料2で代官は「その差額は先年より代官の得分となっていたはずです。この先例の通りにしてください」と述べています。差額を代官の収益とするのが先例だという主張です。
正解【②】
a・dの組合せなので②が正解です。
問4(2):正解 ②(解答番号16/配点3)
<問題要旨>
表・史料1・2に加えて、百姓の訴えである史料3を踏まえ、中世に容量の違う枡が使われていた理由とその影響について述べたX・Yの正誤を判定する問題です。史料3では、公田の枡が例に背いて大きく改変され、元に戻すよう東寺に求めたが代官に妨害され、さらに大きい枡を強要されたと訴えています。
<考え方>
3つの史料に共通して見えるのは、東寺・代官・百姓のそれぞれが自分に有利な枡を使おうとしている構図です。Yは「国一揆」という語の意味を正確に押さえているかが問われます。
<選択肢>
X【正】
枡の容量が違えば、年貢を収納するときにも寺僧に配分するときにも差額が生じます。東寺は大きい枡で集めて小さい枡で配り、代官はその差額を自分の得分とし、百姓は元の小さい枡に戻すよう求めています。それぞれが自らに有利な枡を使おうとしていたことが読み取れます。
Y【誤】
史料3は百姓が荘園領主の東寺に訴え出た文書であり、一揆を起こしたことは書かれていません。また国一揆は、国人(在地の武士)が中心となって守護の支配を排除した一揆(1485年の山城の国一揆など)を指す語で、百姓が代官に対して起こす一揆とは性格が異なります。
正解【②】
X=正、Y=誤なので②が正解です。
第4問 江戸時代の文芸・演劇と歴史的な出来事(配点16)
チカさんとノブさんが「江戸時代の文芸や演劇と歴史的な出来事との関連」をテーマに発表するという設定です。『日本永代蔵』(1688年刊行)と三井高利の呉服店開業(1673年)、『国性爺合戦』(1715年初演)と鄭成功の台湾拠点(1661年)、『仮名手本忠臣蔵』(1748年初演)と赤穂浪士の討ち入り(1702年)を並べたメモをもとに、出版統制・黄表紙・合巻まで幅広く問われます。
問1:正解 ③(解答番号17/配点3)
<問題要旨>
メモ中の出来事に関して述べた文として正しいものを選ぶ問題です。
<考え方>
それぞれの選択肢が指す事項の年代を確定し、メモに書かれた年代と前後関係が合っているかを確かめます。「すでに〜していた」という言い回しの正誤判定なので、年代の比較が決め手になります。
<選択肢>
①【誤り】
金貨は計数貨幣で、秤にかけて重さを量って使うのは銀貨(秤量貨幣)です。両替商の主要な業務は金貨と銀貨の両替であり、また当時の全国流通する紙幣は存在せず、藩札が各藩内で流通していたにすぎません。
②【誤り】
ケンペル『日本誌』の一部を志筑忠雄が『鎖国論』と題して訳したのは1801年です。『国性爺合戦』の初演は1715年なので、時期が全く合いません。
③【正しい】
鄭成功が台湾に拠点を置いたのは1661年。長崎の出島にオランダ商館が移されたのは1641年で、すでに存在していました。
④【誤り】
末期養子の禁が緩和されたのは1651年、由井正雪の乱(慶安の変)を受けての措置です。赤穂浪士の討ち入り(1702年)より前の出来事で、因果関係もありません。
正解【③】
正しいものを選ぶ問題なので③が正解です。
問2:正解 ②(解答番号18/配点3)
<問題要旨>
下線部「佐倉惣五郎を題材とした歌舞伎『東山桜荘子』(1851年初演)」に関して述べたX・Yの正誤を判定する問題です。
<考え方>
Xは義民伝説の形成という文化史の流れ、Yは寄席という興行の場の性格が問われています。歌舞伎がどこで上演されるものかを考えてください。
<選択肢>
X【正】
佐倉惣五郎は下総佐倉藩の名主で、藩主の苛政を将軍に直訴したという伝承が江戸時代を通じて語り継がれ、義民として顕彰されました。この伝説の形成が、歌舞伎作品が作られる土台となりました。
Y【誤】
歌舞伎が上演されるのは芝居小屋です。寄席は落語・講談・浄瑠璃などを演じる小規模な演芸場で、都市部を中心に広まったもので、村々に常設されたわけではありません。
正解【②】
X=正、Y=誤なので②が正解です。
問3:正解 ⑤(解答番号19/配点3)
<問題要旨>
下線部「出版物や思想の統制」に関連して、I〜IIIを古いものから年代順に配列する問題です。Iは『海国兵談』の発禁処分、IIは高野長英の処罰、IIIは漢訳洋書の輸入緩和と野呂元丈らへのオランダ語習得の命令です。
<考え方>
いずれも幕府の学問・言論政策に関わる出来事です。享保期の緩和、寛政期の弾圧、天保期の弾圧という三段構えで整理すると年代順が見えてきます。
<選択肢>
I【1792年(『海国兵談』発禁)】
林子平がロシアの南下に備えて海岸防備を説いた『海国兵談』は、寛政の改革のなかで人心を惑わすものとして発禁処分となり、子平も蟄居させられました。
II【1839年(蛮社の獄)】
モリソン号事件をめぐって幕府の異国船打払令を批判した高野長英・渡辺崋山らが処罰されました。
III【1720年(漢訳洋書輸入の緩和)】
徳川吉宗はキリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入制限を緩め、1740年には青木昆陽・野呂元丈にオランダ語の習得を命じました。
正解【⑤】
III(1720年〜)→ I(1792年)→ II(1839年)の順になるので、⑤が正解です。
問4:正解 ②(解答番号20/配点3)
<問題要旨>
下線部「時代の設定を移している」手法で著された文芸作品の一部(史料1=恋川春町『鸚鵡返文武二道』)について述べた文の空欄ア(史料1の作者が得意としたジャンル)・イ(主人公・菅秀才が暗示する人物)に入る語句の組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
恋川春町がどのジャンルの作者かをまず確定し、そのジャンルが流行した時期から、儒学を奨励して幕府政治を主導した人物を絞り込みます。史料1は菅原道真の時代に設定を移して同時代の政治を風刺した作品です。
<選択肢>
ア=a(世相を風刺した絵入りの小説)【正】
恋川春町は『金々先生栄花夢』などで知られる黄表紙の作者です。黄表紙は絵を主体に世相を風刺した大人向けの読み物で、田沼時代から寛政期にかけて流行しました。
ア=b(勧善懲悪を趣旨とする歴史長編小説)【誤】
これは読本の説明で、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』などがあてはまります。恋川春町の作風ではありません。
イ=d(松平定信)【正】
黄表紙が流行した時期に「儒学を奨励して幕府政治を主導した」のは、寛政異学の禁を出した松平定信です。『鸚鵡返文武二道』(1789年)は寛政の改革の文武奨励策を風刺したもので、春町はこれをきっかけに幕府から咎めを受けたとされます。
イ=c(徳川綱吉)【誤】
徳川綱吉も湯島聖堂を建てるなど儒学を奨励しましたが、黄表紙が流行するのは18世紀後半で、綱吉の時代(17世紀後半〜18世紀初め)とはずれます。
正解【②】
ア=a、イ=dの組合せなので②が正解です。
問5:正解 ③(解答番号21/配点4)
<問題要旨>
柳亭種彦『修紫田舎源氏』に関する評判を記した史料2(曲亭馬琴『近世物之本江戸作者部類』1834年頃)・史料3(『校訂修紫田舎源氏』の「解題」1898年)を読み、a〜dのうち最も適当なものの組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
a・bは史料2から何が読み取れるか、c・dは『修紫田舎源氏』が刊行され始めた時期(1829年〜、文政末〜天保期)の社会状況を問うています。史料3の「天保十三年の改革」(注に1841年開始とある=天保の改革)も時期特定の手がかりになります。
<選択肢>
a【適当でない】
史料2の「『田舎源氏』は窃にこれらを父母として作り設けたるなるべし」は、元禄年間以来の平易な源氏物語の翻案を「親」として作られた作品だろう、という意味です。父母が写して子どもに読み聞かせたという意味ではありません。
b【適当】
史料2に「世評噪がしきまでに行わる」「世の婦幼の評す所也」とあり、非常に評判となったこと、女性や子どもにも読まれたことが読み取れます。
c【適当】
『修紫田舎源氏』の刊行開始は1829年です。この時期は文政金銀など品位を落とした貨幣が大量に鋳造・流通して貨幣経済が活発になり、大御所時代として大奥の生活も華美になっていました。史料3が「大奥の事を書いたもの」と述べていることとも符合します。
d【適当でない】
当時の大御所は徳川家斉です。家慶は当時の将軍であり、大御所ではありません。
正解【③】
b・cの組合せなので③が正解です。
第5問 パスポートの歴史(配点12)
博物館の「パスポートの歴史」展の解説文を題材にした大問です。Aは1866年に発行された日本初のパスポート(図1)とパリ万国博覧会・海運、Bは1891年の「旅券」(図2)と、日本のパスポートが交付される「国民」の範囲の変化を扱います。幕末から日清戦争後までの対外関係が一本の線でつながる構成になっています。
問1:正解 ④(解答番号22/配点3)
<問題要旨>
下線部「1867年のパリ万国博覧会」について述べたX・Yと、それに該当する語句a〜dの組合せを選ぶ問題です。Xは『富嶽三十六景』が代表作である人物の絵手本が出品されたこと、Yは1864年から駐日フランス公使に就き幕府の軍制改革を支援した人物が幕府に参加を勧めたことを述べています。
<考え方>
Xは代表作から浮世絵師を特定し、Yは「駐日フランス公使」「幕府の軍制改革を支援」という二つの条件で人物を絞ります。
<選択肢>
X=b(葛飾北斎)【正】
『富嶽三十六景』は葛飾北斎の代表作です。パリ万国博覧会には『北斎漫画』などの絵手本が出品され、ヨーロッパで日本趣味(ジャポニスム)が広まる契機の一つとなりました。
X=a(喜多川歌麿)【誤】
喜多川歌麿は寛政期に美人大首絵で知られた浮世絵師で、『富嶽三十六景』の作者ではありません。
Y=d(ロッシュ)【正】
ロッシュは1864年に駐日フランス公使となり、幕府に軍制改革や横須賀製鉄所の建設を助言し、パリ万国博覧会への参加を勧めました。
Y=c(ボアソナード)【誤】
ボアソナードは明治政府がお雇い外国人として招いたフランスの法学者で、刑法・治罪法や民法草案の起草に携わった人物です。時期も役割も異なります。
正解【④】
X=b、Y=dの組合せなので④が正解です。
問2:正解 ②(解答番号23/配点3)
<問題要旨>
下線部「船で海外に渡る」に関連して、船舶や海運の歴史に関する文I〜IIIを、古いものから年代順に配列する問題です。
<考え方>
Iは台湾出兵と岩崎弥太郎の海運会社、IIは日本郵船会社による欧米定期航路、IIIは開拓使官有物払下げ事件です。それぞれの年代を確定します。
<選択肢>
I【1874年(台湾出兵)】
琉球漂流民殺害事件を機とする台湾出兵に際し、政府は岩崎弥太郎の三菱(郵便汽船三菱会社)に軍事輸送を委託し、これを機に三菱は海運業で急成長しました。
II【1890年代(日本郵船の遠洋定期航路)】
1885年に三菱と共同運輸が合併して日本郵船会社が成立し、政府の航海奨励法・造船奨励法(1896年)などを背景に、ボンベイ航路(1893年)や欧州航路(1896年)といった定期航路を開設しました。
III【1881年(開拓使官有物払下げ事件)】
開拓使長官黒田清隆が、船舶を含む官有物を同郷の政商五代友厚らの関係する会社に安価で払い下げようとして世論の激しい反発を招き、中止されました。明治十四年の政変の引き金となった事件です。
正解【②】
I(1874年)→ III(1881年)→ II(1890年代)の順になるので、②が正解です。
問3:正解 ①(解答番号24/配点3)
<問題要旨>
1891年の「旅券」を書き写した図2について述べたX・Yの正誤を判定する問題です。
<考え方>
Xは図2の本文に書かれている内容そのもの、Yは大日本帝国憲法の条文の知識が問われています。
<選択肢>
X【正】
図2には「右布哇国へ赴くに付き、通路故障なく旅行せしめ、且必要の保護扶助を与へられん事を其の筋の諸官に希望す」とあります。渡航先(ハワイ)の担当官庁に対して、旅券所持者の通行と保護を要請する文言です。現在のパスポートにも同趣旨の記載があります。
Y【正】
大日本帝国憲法第55条は「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と定めており、国務大臣は議会や国民ではなく天皇に対して責任を負うとされていました。図2に「日本皇帝陛下外務大臣」と記されているのも、大臣が天皇の官吏であることの表れです。
正解【①】
X・Yともに正しいので①が正解です。
問4:正解 ③(解答番号25/配点3)
<問題要旨>
1897年に日本国籍を持つ「帝国臣民タル台湾住民」に旅券を交付することになった経緯に関して、史料1(下関条約第五条)と史料2(台湾住民分限取扱手続第二条)を読み、a〜dのうち正しいものの組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
史料1は「退去することを得べし」と、退去する自由を認めた条文です。史料2は期限までに退去しなかった者を日本帝国臣民とみなす規定です。「〜できる」と「〜させられた」の違いを読み違えないことが要点になります。
<選択肢>
a【誤り】
史料1は不動産を売却して退去する自由を認め、そのための猶予期間を2年間与えたものです。退去を強制したわけではありません。
b【正しい】
史料2に「明治三十年五月八日前に台湾総督府管轄区域外に退去せざる台湾住民は下ノ関条約第五条第一項に因り日本帝国臣民と視為すべし」とあります。批准交換の日(1895年5月8日)から2年間の猶予期間に退去しなかった住民が日本国籍を付与されたことが読み取れます。
c【正しい】
下関条約調印後、台湾では台湾民主国の樹立をはじめ日本の支配に抵抗する動きが広がりました。日本は近衛師団などを派遣して武力で抵抗を抑え込み、その後も武装闘争が続きました。
d【誤り】
台湾での徴兵制施行は1945年で、それ以前は志願兵制(1942年〜)でした。1897年の時点で台湾住民に徴兵制が施行された事実はありません。
正解【③】
b・cの組合せなので③が正解です。
第6問 日本の漁業と対外関係(配点22)
日本の漁業を軸に、日露戦争後の日露漁業協約から1920〜30年代の漁業紛争、戦後の漁業協定、高度経済成長と公害、そして自給率の低下までを一気に見通す大問です。グラフの読み取りが2問(問1・問7)あり、史料の読み取りと年代配列も含めて、共通テストらしい総合力が問われます。
問1:正解 ①(解答番号26/配点4)
<問題要旨>
下線部「日露戦争の勝利を受けてロシアと漁業協約を締結して漁場を確保した」に関して、史料1(1907年公布の日露漁業協約。第一条でロシア沿岸での漁獲権を日本国臣民に認め、第二条で日本国臣民はロシア国臣民と同一の権利を享有すると定め、第十三条で有効期間を12年とする)を参考に、グラフ1(ロシア沿岸における日本漁船の漁獲量、1908〜1928年)に表れた特徴の解釈として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
グラフ1は1908年の約20千トンから1915年ごろの約67千トンまで大きく伸び、その後1920年代前半に90千トン近くまで上昇したのち変動しています。各選択肢が指す期間のグラフの動きと、挙げられている背景の年代が合っているかを一つずつ確かめます。
<選択肢>
①【正しい】
1908〜1915年の急増は、1907年の日露漁業協約でロシア国臣民と同一の権利が認められ、日本の漁業者が正式にロシア沿岸の漁場を利用できるようになったことに対応します。史料1第二条の内容とグラフの立ち上がりが一致します。
②【誤り】
1916〜1918年は第一次世界大戦による大戦景気の時期で、国内は好況でした。またグラフもこの期間は横ばいから微増で、需要減退による落ち込みは読み取れません。
③【誤り】
協約の有効期間は12年なので1919年に期限を迎えますが、グラフの1919〜1921年はむしろ80千トンから90千トン近くへと上昇しています。漁場から締め出された動きは読み取れません。
④【誤り】
浜口雄幸内閣の産業合理化政策は1929年から1931年のことで、1922〜1928年という期間には含まれません。
正解【①】
グラフの動きと背景の年代がともに整合するのは①だけです。
問2:正解 ②(解答番号27/配点3)
<問題要旨>
下線部「既存の塩干しや新たに登場した缶詰などの保存技術」に関連して、魚介類の保存技術が見られる作品に関するX・Yと、その作品が制作された時代について述べたa〜dとの組合せを選ぶ問題です。Xは荒縄でつるされた塩鮭を題材とする絵、Yは蟹の缶詰め作業に従事する労働者を題材とする小説です。
<考え方>
X=高橋由一「鮭」、Y=小林多喜二『蟹工船』とまず特定し、それぞれの制作年に対応する社会状況を選びます。
<選択肢>
X=a【正】
高橋由一「鮭」は1877年頃の作品です。工部美術学校の設立など西洋美術の導入が進んだ明治初期にあたり、西洋の産業技術や社会制度・生活様式を取り入れる文明開化の風潮のなかで描かれました。
Y=d【正】
『蟹工船』は1929年に発表されたプロレタリア文学の代表作です。1928年の三・一五事件を受けて特別高等警察が全国の各府県に設置され、共産主義運動への取り締まりが強化された時期にあたります。
Y=b【誤】
「第一次世界大戦後の都市化と工業化のなかで市民の生活や文化の洋風化が進んだ」のは大正期の大衆文化の説明で、『蟹工船』が問題にしている労働運動弾圧の状況とは結びつきません。
Y=c【誤】
日清戦争前後の労働運動の始まりに関する説明で、1929年の作品の背景としては時期が早すぎます。
正解【②】
X=a、Y=dの組合せなので②が正解です。
問3:正解 ③(解答番号28/配点3)
<問題要旨>
下線部「アメリカ」に関連して、日本とアメリカをとりまく国際関係に関する文I〜IIIを、古いものから年代順に配列する問題です。Iは中国の領土保全・機会均等を確認する9か国間の条約、IIは日本が中国に特殊利益を持つことを認める日米間の協定、IIIは主要国間で補助艦の保有量を定めた軍縮条約です。
<考え方>
それぞれが指す条約・協定を特定します。「9か国」「日米間の協定」「補助艦」という語が決め手です。
<選択肢>
I【1922年(九カ国条約)】
ワシントン会議で結ばれ、中国の主権・独立の尊重、領土保全、門戸開放・機会均等を約しました。これにより石井・ランシング協定は廃棄されます。
II【1917年(石井・ランシング協定)】
第一次世界大戦中、アメリカが日本の中国における特殊利益を認め、日本が中国の領土保全・門戸開放を認めた協定です。
III【1930年(ロンドン海軍軍縮条約)】
ワシントン会議で対象外だった補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の保有量を制限した条約です。統帥権干犯問題を引き起こしました。
正解【③】
II(1917年)→ I(1922年)→ III(1930年)の順になるので、③が正解です。
問4:正解 ①(解答番号29/配点3)
<問題要旨>
下線部「東シナ海・黄海でも、中国との間で、漁場を巡る紛争が頻発した」に関連して、史料2(1928年の支那東海黄海漁業協議会・日本側の会議の議事録)について述べたa〜dのうち、正しいものの組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
a・bは1920年代の日中関係の知識、c・dは史料2の記述内容の正確な読み取りが問われます。とくにdは「誰に警告するのか」を読み違えやすい選択肢です。
<選択肢>
a【正しい】
1927〜28年、田中義一内閣は北伐に対して3次にわたる山東出兵を行い、1928年の済南事件で中国国民革命軍と武力衝突しました。
b【誤り】
辛亥革命は1911年の出来事で、1920年代ではありません。
c【正しい】
史料2に「領海に屡々接近し之れが為め事端を惹起するも其の後に対策を講ずれば良いと云う考えを抱く者少からざれば、彼等に充分の注意を与うる事必要にして」とあり、事後対応でよいと考える漁業者に注意を与えるべきだとされています。
d【誤り】
史料2は「支那側に於ても日本の出漁船に対し何等かの対策を講ずべき情報あれば、当業者に警告し事端を発生せしめざる様充分注意致し度し」と述べています。警告する相手は日本の漁業者(当業者)であって、艦船を派遣して中国に警告するとは書かれていません。
正解【①】
a・cの組合せなので①が正解です。
問5:正解 ②(解答番号30/配点3)
<問題要旨>
本文Bの空欄ア(日本が調印して独立を回復した条約)とイ(佐藤栄作内閣期に締結された条約)に入る語句の組合せを選ぶ問題です。
<考え方>
アは「調印して独立を回復する」という条件、イは「佐藤栄作内閣期」という条件で決まります。日ソ国交回復と日韓国交樹立の時期を混同しないよう注意してください。
<選択肢>
ア=サンフランシスコ平和条約【正】
1951年に調印し1952年に発効して、日本は独立(主権)を回復しました。同年に日華平和条約も結ばれています。
ア=日米行政協定【誤】
日米行政協定は1952年に日米安全保障条約に基づいて結ばれた、在日米軍の駐留条件に関する取決めです。独立回復そのものをもたらした条約ではありません。
イ=日韓基本条約【正】
1965年、佐藤栄作内閣のもとで結ばれ、韓国との国交が樹立されました。これに伴って日韓漁業協定も締結されています。
イ=日ソ基本条約【誤】
日ソ基本条約は1925年に加藤高明内閣のもとで結ばれた、ソ連との国交樹立の条約です。佐藤栄作内閣期ではありません。
正解【②】
ア=サンフランシスコ平和条約、イ=日韓基本条約の組合せなので②が正解です。
問6:正解 ④(解答番号31/配点3)
<問題要旨>
下線部「工業部門の成長」に関して述べたX・Yの正誤を判定する問題です。
<考え方>
Xは高度経済成長期に工業地帯がどこに広がったか、Yは四大公害訴訟で知られる4つの公害病の原因が何かを問うています。どちらも「共通する」「むしろ」といった言い切りの部分を慎重に検討してください。
<選択肢>
X【誤】
1950年代半ば以降、主要エネルギーは石炭から輸入石油へ転換しました。原油を海外から輸入して精製するため、石油化学コンビナートは臨海部に立地し、工業地帯は太平洋ベルト地帯と呼ばれる沿岸部に集中して広がりました。内陸部ではありません。
Y【誤】
四大公害病のうち水俣病・新潟水俣病(有機水銀)とイタイイタイ病(カドミウム)は水質汚濁が原因ですが、四日市ぜんそくは亜硫酸ガスによる大気汚染が原因です。4つに共通するとはいえません。
正解【④】
X・Yともに誤りなので④が正解です。
問7:正解 ③(解答番号32/配点3)
<問題要旨>
下線部「日本の魚介類の自給」に関連して、グラフ2(1950年以降の魚介類の国民一人当たり消費量と、1960年以降の自給率)に関して述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
消費量(実線)と自給率(点線)の二つの折れ線を読み分けます。消費量は1950年の40kg台から1980年代後半に110kg近くまで伸びてその後低下、自給率は1960年代の110%前後から1980年代半ば以降に大きく下がり、2000年には50%台になっています。各選択肢について、グラフの動きと挙げられた背景の年代が両方とも合っているかを確かめます。
<選択肢>
①【誤り】
グラフでは一人当たり消費量が50kgを超えるのは1950年代末から1960年前後です。また朝鮮特需は1950〜53年の出来事で、「この時期に生じた」という説明とかみ合いません。
②【誤り】
1960〜70年代に自給率が100%前後を維持していたことはグラフの通りですが、高度経済成長期には農林水産業などの第一次産業従事者は大きく減少しました。背景の説明が誤りです。
③【正しい】
グラフの自給率は1980年代半ばから急激に下がり始めます。1985年のプラザ合意以降の急速な円高で輸入品が割安になり、魚介類の輸入が容易になったことが背景です。グラフの動きと年代の両方が整合します。
④【誤り】
1990年代に一人当たり消費量が減少に転じたことはグラフの通りですが、インスタント食品が登場したのは1958年のインスタントラーメンをはじめ1950年代後半から60年代のことです。1990年代の変化の背景としては時期が合いません。
正解【③】
グラフの読み取りと背景の年代がともに整合するのは③だけです。
※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

