解答
解説
第1問
手塚治虫の「記号」の捉え方と特徴
- 手塚治虫は、自作の漫画表現における「手塚記号」を、単なる自分の固有の著作物とはみなさず、誰でも使える無個性・無所有の“言語”のようなものとして捉えている。
- 具体的には、漫画のキャラクターにおける表情や感情を示すための“発明”として「アハー」「フンフン」「ナルホドネ」「しかし」「へんだ」などの簡略化した記号(図1参照)を用い、それらを誰でも共有できる記号として扱おうとした。
漫画表現における「B記号」としての位置づけ
- 記号には「Aレベルの言語(個別性の強い固有名詞や写実的表現)」と、「Bレベルの記号(誰にでも共通する普遍的イメージや象徴的表現)」があると説明される。
- 手塚の漫画は、この「B記号」にあたるような簡略化・象徴化された表現を活用することで、読者の間で共通の感情やイメージを引き出せるよう工夫している。
キャラクター(“きゃら”)概念の広がり
- キャラクターは年齢・性別・人種といった差異を問わず、誰もが共有可能なメタファーとして機能し得る。
- 手塚の「手塚記号」は、そのキャラクターを生かすための手法でもあり、アニメやマンガ、さらには言語表現全般へ影響を与えている。
「手塚記号」の歴史的文脈と思想
- 手塚が著作権を一部放棄し「誰でも使っていい」とした背景には、漫画表現をひとつの国際的な“言語”へと昇華させたいという思いがあった。
- それは“アメリカのコミックス”や“日本のアニメーション”など、既存の大衆文化を超え、表情や感情などの非言語的コミュニケーションをグローバルに広げたいという思想と結びついている。
記号論・コミュニケーション論との関連
- 本文では、手塚の漫画が生み出す記号表現が、言語学や記号論(たとえばコミュニケーション研究者の議論)でいう“意味の共有”“象徴化”に相当することが指摘されている。
- このように、手塚の記号は漫画表現の技法であると同時に、言語や文化の枠組みを超えて感情やイメージをやり取りする“コミュニケーションの道具”として捉えられる。
第2問
舞台・導入
とある川辺(川口)の町が舞台。物語冒頭、主人公(「男」)は夜明け前の川辺に足を運び、鵜飼(うかい)や小舟での漁の光景を垣間見る。男は、何かを撮影しに来ている様子で、カメラを携えながらこの町を巡っている。そこでホテルや小屋に宿泊し、早朝には川辺を見に出かけるなど、旅人らしい行動が描かれる。
社長とのやりとり
男は地元の人物「社長」と出会い、言葉を交わす。社長はもともと何らかの仕事(局内印刷所の関係)をしていたが、やがて趣味や地元の事情から鵜飼の撮影にも興味を示すようになる。さらに社長は「印刷」や「写真集」の話を持ちかけ、男の撮った写真を本にまとめる案を出すなど、男に積極的に声をかけてくる。印刷の手配や費用面の話が出たり、そこに社長の持つ地元への思い・こだわりがうかがえたりする。
男の内面と“鳥”の存在
男は写真撮影のため、あるいは自分なりの理由でこの町を訪れているが、鵜飼をはじめとする「鳥」たちの暮らしや漁法の光景に深い関心を寄せる。文中では、鵜や周囲の自然をとおして“生き物たちの営み”や“町の景色”が描かれ、男自身もまた、そうした日常や習慣が変わりつつあることを感じ取っている。一方で男は近々この町を離れる予定でもあり、どこか定まらない心境を抱えている様子が示唆される。
変わりゆく風景と記録の意味
社長は「町が変化してしまう前に、写真を印刷して記録に残そう」と考えているようで、男の撮った写真をまとめる新しい企画や印刷所の導入を思案する。男にとっても、漁法や鳥たちの生態が少しずつ姿を変えていくこの土地で写真を撮ることは、単なる趣味以上の意味を帯びつつある。しかし、男自身は新しい職や生活のため都へ戻らねばならない事情があるようで、地元の人々とのやり取りのなかで心が揺れ動く。
物語が示唆するもの
物語全体を通じて、鵜飼の伝統や町の風景が移ろっていく過程と、それを記録しよう・残そうとする者たちの思いが描かれる。同時に、男が抱える迷いや、社長との交流から生まれる新たな展望などが交錯し、「土地と人」「伝統と変化」「記録と時間」が大きなテーマとして浮かび上がっている。
第3問
舞台と時代背景
舞台は平安末期から鎌倉初期にかけての京(京都)。文中では「清水坂」や「三十三間堂」など京都の地名が登場し、当時の社会情勢や寺社への参詣の様子が描かれている。
人物と状況
文章には「阿古(あこ)と申す女」や、のちに武家の棟梁(将軍)として台頭する源頼朝の名が挙がる。頼朝の動向を警戒する平家方の動きなど、源平の対立構造が背景にある。加えて、京の貴族や周辺の人々が、参詣や政治的駆け引きの中で頼朝や平家の行く末を案じる場面が示唆される。
寺社参詣と政治的思惑
「清水坂に立てる札を流す」や「三十三間堂」への参詣といった宗教儀礼が語られる一方で、それが純粋な信仰だけではなく、貴族・武家たちの政治的願望や情報収集の場ともなっている様子がうかがえる。登場人物たちは、頼朝や平家の情勢を探りつつ、自らの身の振り方を見定めようとする。
緊迫感と人間模様
頼朝がいつ挙兵してくるか、あるいは平家がどう動くか――そうした不穏な空気が漂う中、登場人物たちは参詣を口実に京の様子を観察し、それぞれの立場で思惑をめぐらせる。文章には「苦しゅう候えば」「情け深い」などの表現もあり、合戦前夜の不安と人々の人間味が綯(ない)い交ぜになった雰囲気が描かれている。
文章が示唆するもの
本文は表面的には寺社参詣や京の風習を描きつつ、背後には源頼朝をめぐる武家政権の誕生や、平家方による警戒、あるいは貴族層の動揺など、歴史の転換期特有の緊迫感が流れている。参詣の場が単に信仰の場であるにとどまらず、時代の趨勢をうかがう政治的舞台ともなっている点に注目すると、当時の社会や人々の心情がより立体的に浮かび上がってくる。
第4問
大きな魚が小さな港に留まるゆえの危うさ
文章冒頭では、巨大な魚が港に入り潮が引いてしまうと、容易に人々に囲まれて斧で切り取られたりする光景が述べられる。海に戻り潮に乗って悠々と身を翻せば、人の手に負えなくなるのに、狭い港にいるために惨禍を被ってしまうという例が描かれている。
魚から竜への譬え
「豪傑の士」や「聖賢の能」は、大きな魚がさらに“竜”へと変わり得るように、本来は大いなる力や可能性を持っているにもかかわらず、状況や環境によってはそれを十分に発揮できず小さく見られてしまう、という趣旨が説かれる。
逆に言えば、環境や時機が整えば、凡人から見て“ただの魚”のように思われていた存在でも、竜のごとき大いなる力を示しうると示唆する。
人間の器量・潜在能力の寓意
文章全体の比喩は、「小さな制約の中で己を埋もれさせれば、その力を失う」「しかし広大な世界や相応しい機会に身を置けば、本来の大きさを取り戻し、さらに高次の変化を遂げる」という教えを示す。
すなわち、一見すると平凡に見える人物も、適切な環境や時勢を得れば大成する可能性があるし、逆に大器ですら環境が悪ければ活躍できない、という人生訓の形而上の寓意が読み取れる。