2020年度 大学入試センター試験 本試験 世界史B 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解1

<問題要旨>
中世後期のイタリアやその周辺地域における都市の争いや政治状況について問う問題です。選択肢では、当時のイタリア半島で皇帝派(ゲベリン)と教皇派(ゲルフ)が対立した史実の有無、またイタリア統一運動やヴァチカン市国の成立など近代以降の出来事が正しく述べられているかが論点となっています。

<選択肢>
① 正
(理由)中世のイタリアでは神聖ローマ皇帝を支持する皇帝派(ゲベリン)と、教皇を支持する教皇派(ゲルフ)が政治的・軍事的に激しく争いました。フィレンツェなど各都市内部でもこの対立が起こり、都市国家の情勢を大きく左右したことが知られています。

② 誤
(理由)マッツィーニ(ジョゼッペ・マッツィーニ)は19世紀イタリアの統一運動期に活動した革命家ですが、「両シチリア王国を倒した」のは主にガリバルディの遠征(1860年)の功績が大きいとされています。マッツィーニ自身が両シチリア王国を倒したわけではありません。

③ 誤
(理由)オスマン帝国からモロッコを獲得した国はイタリアではなく、19世紀末から20世紀初頭のフランスやスペインの動きなどが関わります。イタリアは北アフリカでリビアを支配下に置きましたが、モロッコとの直接的な関係はありません。

④ 誤
(理由)ヴァチカン市国の独立が承認されたのは1929年のラテラノ条約によるもので、いわゆる「ミラノ紛争」によるものではありません。ミラノをめぐる中世や近世の紛争とヴァチカン市国の成立は直接結びつきがありません。

問2:正解2

<問題要旨>
中世から近世にかけての国際商業・貿易の管理体制や、その保護や規制・自由化の歴史についての問題です。特に清代の貿易管理制度や近代国際協定の趣旨などが論点になっています。

<選択肢>
① 誤
(理由)中世のシャンパーニュ地方は内陸の大規模な定期市(シャンパーニュの大市)で栄えた地域で、海運ではなく陸路を活かした遠隔地貿易の中継地として発展しました。「海運で繁栄した」というのは適切ではありません。

② 正
(理由)清代の対外貿易は「公行(こうこう)」と呼ばれる特許商人組合に限定され、広州一港に絞って管理されていました。これはアヘン戦争前まで続いた清の貿易体制の特徴的な制度です。

③ 誤
(理由)GATT(関税および貿易に関する一般協定)は自由貿易の促進を目指す国際協定であり、保護貿易を促す目的の協定ではありません。むしろ関税障壁を低くする方向を打ち出しています。

④ 誤
(理由)カルカッタ(コルカタ)はイギリスが東インド会社の拠点としたインド東部の港市であり、スペインではなくイギリスのアジア貿易拠点の一つです。

問3:正解2

<問題要旨>
「宮廷文化」と呼ばれる、王侯貴族の宮廷を中心とした芸術・文学活動に関する問題です。主に中世ヨーロッパの詩歌、宮廷の絵画や建築様式が正しく述べられているかが論点となっています。

<選択肢>
① 誤
(理由)「女史箴図(じょししんず)」は中国の画家・顧愷之が、婦人の道徳を説いた文章を題材に描いたとされます。王羲之は書家として有名ですが、この作品を直接描いたわけではありません。したがって「王義之(王羲之)が描いた」という点が誤りです。

② 正
(理由)中世ヨーロッパでは、宮廷を舞台に貴婦人への恋愛や騎士道精神をテーマにした吟遊詩人(トルバドゥールやミンネジンガーなど)が活躍しました。これは宮廷文化を象徴する要素の一つです。

③ 誤
(理由)17世紀のスペイン宮廷で活躍した画家としては、ディエゴ・ベラスケスが特に有名です。「モネ」は19世紀フランスの画家であり、17世紀スペイン宮廷で活躍したわけではありません。

④ 誤
(理由)サン=スーシ宮殿は18世紀にプロイセン王フリードリヒ2世が建設したロココ様式の宮殿で、ゴシック様式とは異なります。

問4:正解1

<問題要旨>
古代ギリシア世界の成立や特徴的な文化に関する問題です。ミケーネ文明の担い手、陶片追放(オストラキスモス)の目的、ギリシア悲劇詩人やポリスの民族系統などが論点になっています。

<選択肢>
① 正
(理由)エーゲ文明にはクレタ文明とミケーネ文明がありますが、ミケーネ文明はギリシア語を話す人々(ギリシア人)によって築かれたとされるのが通説です。

② 誤
(理由)陶片追放は僭主の出現や独裁の防止を目的としていますが、扇動政治家(デマゴーゴス)の出現を防ぐために直接的に定められた制度と断言するのはやや不正確です。また「出現防止のため」という表現は制度の一面を強調しすぎています。実際には僭主になりそうな有力者を追放する制度が陶片追放でした。

③ 誤
(理由)三大悲劇詩人はアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの三名であり、フェイディアスはパルテノン神殿の彫刻などを手がけた彫刻家です。詩人ではありません。

④ 誤
(理由)スパルタの住民は主にドーリア人系統であり、イオニア人のポリスではありません。イオニア人の主要ポリスにはアテネなどがあります。

問5:正解1

<問題要旨>
国家の制度や統治政策に関する歴史的事例の正誤を問う問題です。ヨーロッパやアジアのさまざまな王朝・政権が実施した土地制度・社会政策などが論点となっています。

<選択肢>
① 正
(理由)屯田制は中国の歴代王朝をはじめ、兵士が自ら農耕に従事して軍糧を自給する制度として実施された事例が古くからあります。文脈によっては特定王朝の話であっても、広く「屯田制の実施」は史実として確認できます。

② 誤
(理由)ムガル帝国が導入したのはマンサブダール制と呼ばれる官僚・軍人への一定の権限と報酬(土地の徴税権)付与の制度が有名です。ビザンツ帝国などではプロノイア制が採用されましたが、ムガル帝国に直接「プロノイア制」と呼ばれる仕組みはありません。

③ 誤
(理由)プロイセンでの農奴解放を推進したのはフリードリヒ2世やその後の改革派(シュタイン、ハルデンベルクなど)であって、「ベルリンシュタイン」という不明確な表現も含め、誤った記述とみられます。

④ 誤
(理由)「ポルトガルで、アトリー政権が社会福祉制度を充実させた」という表現は明らかにイギリス労働党のアトリー政権と混同しています。アントニオ・サラザール政権やカーネーション革命後の政権はポルトガルの史実ですが、「アトリー」はイギリスの人物です。

問6:正解2

<問題要旨>
ヘレニズム文化やイスラーム世界の文献がヨーロッパに伝えられた時期、および仏教美術のガンダーラ様式とギリシア美術との関係など、文化受容の流れを正しく理解しているかを問う問題です。ここでは与えられた文(a)(b)が正しいか誤っているかを組合せで判断します。

<選択肢で示される文(a)(b)の例>
a「12世紀のヨーロッパで、ギリシア古典やアラビア語文献がラテン語に翻訳され、学芸が発展した」
b「ガンダーラ美術は、古代ギリシア美術(ヘレニズム美術)に影響を与えた」

① a-正 b-正
② a-正 b-誤
③ a-誤 b-正
④ a-誤 b-誤

<選択肢>
① 誤
(理由)bまで正しいとすると「ガンダーラがギリシアに影響を与えた」ことになるため不正確になります。

② 正
(理由)aは、いわゆる「12世紀ルネサンス」の時期にアラビア語からラテン語への翻訳が盛んになり、ギリシア古典やイスラーム世界の学問が西ヨーロッパに紹介されたという史実に合致します。一方、bはガンダーラ美術がヘレニズム美術の影響を受けて成立したものであって、ギリシア側に影響を与えたわけではありません。したがって(a)は正しく、(b)は誤りです。

③ 誤
(理由)aが誤りという史実はありません。aは歴史的に見ておおむね正しい内容です。

④ 誤
(理由)aとbがともに誤りというのも筋が通りません。aは確立した史実です。

問7:正解1

<問題要旨>
イスラーム世界と東アジア・ヨーロッパの間で行われた文化や技術の伝播について問う問題です。特に中国絵画の影響を受けたイスラーム美術(細密画)や、コーヒー・火薬などがどのように伝わったかが論点となります。ここでは「誤っている」選択肢を選ぶという形式です。

<選択肢>
① 誤
(理由)「イスラームの文学を取り入れて唐代の中国で投稿詩が作られた」などの記述は、時代や地域の文脈が明らかに整合しません。唐代中国の詩作は主に儒教や道教、漢民族の伝統詩文化が背景にあり、イスラーム文学の直接的影響を取り入れたわけではありません。

② 正
(理由)中国絵画の技法は、モンゴル時代などを通じてイスラーム世界の細密画(ミニアチュール)に影響を与えたとされます。紙の製法や彩色の技法が伝わったことも大きいです。

③ 正
(理由)コーヒーの飲用習慣は、エチオピア起源の説がありますが、中東イスラーム世界で普及し、それがオスマン帝国などを経てヨーロッパに広まりました。

④ 正
(理由)中国で実用化された火薬の技術は、イスラーム世界を経由してヨーロッパにも伝わり、大砲などの軍事技術に影響を与えました。

問8:正解2

<問題要旨>
アジア・アフリカ・ヨーロッパなど各地における近世から現代までの革命や独立運動、改革などの歴史的出来事を問う問題です。ここでは領袖の出身国や運動の目的との対応関係が焦点となります。

<選択肢>
① 誤
(理由)朱元璋(しゅげんしょう)は明の初代皇帝(洪武帝)であり、紅巾の乱の指導者の一人として頭角を現したのは事実ですが、設問文脈との組み合わせや表現に誤りがある可能性があります。また紅巾の乱に「指導した」という表現そのものは史実ですが、他の選択肢との比較で不適当か、あるいは問題文の時代背景にそぐわない場合があります。

② 正
(理由)フィリピン革命においてエミリオ・アギナルドは革命政府を樹立し、初代大統領として知られます。フィリピン共和国樹立に関しては史実として正しい内容です。

③ 誤
(理由)クワメ・エンクルマ(Nkrumah)はガーナ独立の指導者であり、南アフリカ共和国で反アパルトヘイト運動を指導した人物ではありません。南アでの反アパルトヘイトの中心人物はネルソン・マンデラなどです。

④ 誤
(理由)マーガレット・サッチャーは1979年からイギリスの首相を務め、新自由主義的な改革を実施したことは正しいですが、「イギリスの自由出発を率いた」という表現はやや曖昧であり、また(②)との比較で設問の文脈に最も合致する正答にはなりません。

問9:正解4

<問題要旨>
中南米の歴史的出来事や文明に関する問題です。アメリカ合衆国の対中南米政策、ラテンアメリカ諸国の連携機構、ハプスブルク家と中南米の関係、先住民文明がもたらした文化などが論点となります。

<選択肢>
① 誤
(理由)「カーター大統領による棍棒外交の展開」は、もともとセオドア・ローズヴェルトの政策を指す言い方です。ジミー・カーターは中南米諸国との関係改善を図る努力をしましたが、それを「棍棒外交」とは呼びません。

② 誤
(理由)米州機構(OAS)は1948年にアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国を中心に結成されましたが、当時カナダは参加せず、正式参加は後年になってからです。「カナダがラテンアメリカ諸国とともにOASを結成した」は史実とずれがあります。

③ 誤
(理由)オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンが皇帝となったのはメキシコ第二帝政(1864~1867)であって、ブラジルではありません。ブラジル皇帝となったのはポルトガル王家出身のペドロ1世などです。

④ 正
(理由)マヤ文明は二十進法(20進法)を用い、天文学を発達させて非常に正確な暦法を生み出しました。マヤ暦は長期暦や周期的暦など複数の暦法を組み合わせていた点でも知られています。

第2問

問10:正解4

<問題要旨>
イギリスとフランスの抗争や、百年戦争・ユトレヒト条約(スペイン継承戦争の講和条約)に関する史実の正否を問う問題です。選択肢では「フランスがどの領土を得たか」「百年戦争を誰が起こしたか」などの点が論点となっています。

<選択肢>
a ユトレヒト条約で、フランスはイギリスからハドソン湾地方を獲得した。
b ウィリアム1世が、フランス王位継承権を主張して百年戦争を始めた。

① a=正 b=正
② a=正 b=誤
③ a=誤 b=正
④ a=誤 b=誤

・aについて:誤
 ユトレヒト条約(1713年)により、スペイン継承戦争を終結させた際、ハドソン湾地方やニューファンドランドなどを獲得したのはイギリスです。フランスが領土を得たわけではないため、この選択肢は史実と逆になっています。

・bについて:誤
 百年戦争は1339年にイングランド王エドワード3世がフランス王位継承権を主張して始まりました。ノルマン朝を開いたウィリアム1世(征服王)は11世紀の人物で、百年戦争とは直接関係がありません。

問11:正解4

<問題要旨>
近世から近代にかけて、各国がどの地域をどのように併合・購入・獲得したかを問う問題です。アメリカ合衆国のルイジアナ買収やロシアの中央アジア進出などが論点となっています。

<選択肢>
① アメリカ合衆国が、フランスからフロリダを買収した。
② オランダが、西ポメルンを獲得した。
③ オーストリアが、ユーゴスラヴィアからライウメを獲得した。
④ ロシアが、コーカンド・ハン国を併合した。

・①について:誤
 アメリカ合衆国は1803年にフランスからルイジアナを買収しましたが、フロリダは1819年にスペインから譲り受けています。フランスからフロリダを買収した事実はありません。

・②について:誤
 西ポメルン(ヴェストポンメルン)は現在のドイツ北東部に位置する地域です。オランダが獲得したという事実はなく、17世紀前半にはスウェーデンなどがここを支配した時期がありました。

・③について:誤
 オーストリア(ハプスブルク君主国)がトリエステを確保したのは14世紀末からで、当時の地方領主との合意などにより支配下に入りました。近代のユーゴスラヴィアから直接獲得したという形ではなく、表現も不自然です。

・④について:正
 ロシアは19世紀に中央アジアへ進出し、コーカンド・ハン国(現在のウズベキスタン東部を中心とした地域)を1876年に併合しました。

問12:正解2

<問題要旨>
下線部③に関連した言語の広がりや公用語としての採用状況、あるいは交易都市での共通語の発展など、各地の言語事情を問う問題です。特にアフリカ東海岸でのスワヒリ語の歴史がポイントとなっています。

<選択肢>
① ムガル帝国で、サンスクリット語が生み出された。
② アフリカ東岸の港市(海港都市、海港)で、共通語としてスワヒリ語が用いられるようになった。
③ ビザンツ帝国で、公用語としてアラビア語が採用された。
④ 南インドで、マレー語による文芸活動が盛んになった。

・①について:誤
 ムガル帝国ではサンスクリット語が「新たに生み出された」わけではありません。サンスクリット語は古代インド以来の言語であり、ムガル朝では行政用語としてペルシア語が広く用いられました。

・②について:正
 アフリカ東海岸のザンジバルやモンバサなどの都市では、海洋交易の拠点としてアラブ商人や地元住民の交流が活発になり、スワヒリ語(バントゥ系の言語にアラビア語などが混じった)が共通語として広がりました。

・③について:誤
 ビザンツ帝国の公用語はギリシア語でした。アラビア語はイスラーム世界の言語であり、ビザンツでは採用されていません。

・④について:誤
 マレー語はマレー半島やインドネシア諸島など東南アジアで用いられてきた言語で、南インドにおいてマレー語による文芸が盛んになったわけではありません。

問13:正解1

<問題要旨>
下線部④(ヨーロッパ列強による海外進出や勢力争い)に関連して、「誤っている文」を選ぶ問題です。スペインやポルトガルの大航海時代の活動、清仏戦争後のフランスの進出などが論点となっています。

<選択肢>
① 列強が中国進出を競うなかで、ドイツは門戸開放政策を提唱した。
② スペインとポルトガルが、アジアやアメリカ大陸への進出を競った。
③ 第一次世界大戦において、イギリス・フランスがドイツと対立した。
④ フランスは、清仏戦争に勝利した後、インドシナでの支配を拡大した。

・①について:誤(問の指示では「誤っている」選択肢が正解)
 門戸開放政策を提唱したのは1899年にアメリカのジョン=ヘイ国務長官で、ドイツではありません。したがってこれが誤りの文といえます。

・②について:正
 15~16世紀頃、スペインとポルトガルは共にアジアやアメリカ大陸へ活発な進出を行い、しばしば競合や協調(トルデシリャス条約など)を行いました。

・③について:正
 第一次世界大戦(1914~1918年)では、イギリスとフランスが協商国側としてドイツと対立・交戦しました。

・④について:正
 1884~1885年の清仏戦争に勝利したフランスは、インドシナ連邦を形成して植民地支配を強化しました。

問14:正解2

<問題要旨>
下線部⑤(ソ連やロシアの歴史)に関して、革命直後や対ソ干渉戦争・五か年計画などの史実が正確かどうかを問う問題です。ここでは「最も適当なもの(正しいもの)」を選ぶ形式になっています。

<選択肢>
① 「封じ込め政策」に対抗して、コミンテルンを設立した。
② ロシア革命後、日本を含む諸国による対ソ干渉戦争が行われた。
③ 五か年計画に代えて、新経済政策(ネップ)を導入した。
④ ミハイル=ロマノフの下で、西欧化政策が進められた。

・①について:誤
 コミンテルン(第三インターナショナル)は1919年に設立されましたが、米国の封じ込め政策は第二次大戦後に始まったもので、時期的に対応しません。

・②について:正
 ロシア革命(1917年)後、内戦期に日本やイギリス、フランス、アメリカなどがシベリア出兵や対ソ干渉戦争を行いました。

・③について:誤
 レーニンが導入した新経済政策(1921年~)は、それまでの戦時共産主義に代わるもので、五か年計画(スターリン政権下の1928年~)より前の段階です。五か年計画に代わってネップを導入したわけではありません。

・④について:誤
 ミハイル=ロマノフ(17世紀)はロマノフ朝の創始者ですが、西欧化政策を本格化させたのは18世紀のピョートル1世です。

問15:正解2

<問題要旨>
下線部⑥(冷戦下の東西関係など)に関する事項を、年代順に正しく並べる問題です。特に東側諸国の経済連携や軍事衝突、そして軍縮交渉などの順番を問われています。

<選択肢の文例 a~c>
a 経済相互援助会議(コメコン)が結成された。
b ソ連が、アフガニスタンから撤兵した。
c 第1次戦略兵器制限交渉(第1次SALT)が行われた。

① a → b → c
② a → c → b
③ b → a → c
④ b → c → a
⑤ c → a → b
⑥ c → b → a

・a:コメコン結成は1949年
・c:第1次SALTは1969年~1972年頃の交渉
・b:ソ連のアフガニスタン撤兵は1989年

したがって年代の古い順に a(1949年) → c(1970年代前半) → b(1989年)となります。

問16:正解3

<問題要旨>
条約や仲介、外交政策に関する歴史的事例の中で、どれが史実に合致しているかを問う問題です。ブラント政権の東方外交などが代表的な論点です。

<選択肢の例>
① 〇〇が分裂の聖地となり、毎年多額の銀や絹を〇〇に献納することになった。
② レーガン大統領の仲介で、パレスチナ暫定自治協定が締結された。
③ ブラント政権が、東欧諸国との関係改善を目指す東方外交(オストポリティク)を展開した。
④ マリア=テレジアが、シュレジエン奪回のために、長年敵対してきたプロイセンと同盟した。

・③について:正
 西ドイツの首相であったブラント(1969~1974年在任)は、社会民主党政権としてソ連や東欧諸国との関係改善を目指す東方外交を進め、緊張緩和に寄与しました。

・①、②、④について:いずれも歴史的に明確な誤りや矛盾があります(たとえばパレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)は1990年代前半にノルウェー仲介で進められ、レーガン政権は関わっていません等)。

問17:正解4

<問題要旨>
主に20世紀中国やアジアの政治指導者が行った政策や動きを正しく述べているかどうかを問う問題です。選択肢にある「新生活運動」や「文化大革命での批判」などが論点になります。

<選択肢の例>
① 新生活運動を展開した。
② ネルー首相と会談し、平和五原則を発表した。
③ 毛沢東に代わって、国家主席となった。
④ 資本主義の復活をはかったとして、文化大革命中に批判された。

・④について:正
 文化大革命(1966~1976年)期には、党内で「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」として国家主席の劉少奇などが批判の対象となり、失脚に追い込まれました。資本主義路線とみなされて糾弾された指導者がいることは史実に沿っています。

問18:正解3

<問題要旨>
アメリカと中国の首脳会談(いわゆる米中接近)や、ベトナム戦争後のインドシナ地域の動きについて問う問題です。1970年代後半のベトナムのカンボジア侵攻(1978年)およびその後の中越戦争(1979年)などがポイントとなります。

<選択肢の例>
① アー=ジョンソン イ=カンボジア
② アー=ジョンソン イ=ラオス
③ アー=ニクソン  イ=カンボジア
④ アー=ニクソン  イ=ラオス

・A(米大統領が訪中):ニクソンは1972年に中国を訪問し、米中関係改善のきっかけを作りました。
・I(ベトナムが侵攻した国):1978年末、ベトナムがポル=ポト政権下のカンボジアに侵攻し、1979年には中越戦争が起こっています。

したがって「A=ニクソン」「I=カンボジア」とする組合せが妥当です。

第3問

問19:正解2

<問題要旨>
イスラーム世界の王朝成立年をめぐる問題です。選択肢では、ファーティマ朝の成立(909年)やアッバース朝カリフ、セルジューク朝の動向などが示され、それぞれの年代と出来事が正しく対応しているかが論点となります。

<選択肢(a~dの年表とファーティマ朝成立の時期がどれかを判定する例)>
① a
② b
③ c
④ d

a:809年 ハールーン=アッラシード没
b:929年 後ウマイヤ朝君主がカリフを名乗る
c:1055年 トゥグリル=ベクがスルタンの称号を授けられた
d: (設問文には年が書かれていないが、ファーティマ朝成立が909年)

  • a(809年)はアッバース朝カリフ・ハールーン=アッラシードの没年。
  • b(929年)はイベリア半島の後ウマイヤ朝でアブド=アッラフマーン3世が自らをカリフと称した年。
  • c(1055年)はセルジューク朝のトゥグリル=ベクがバグダード入城を果たし、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けた年。
  • ファーティマ朝は北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア周辺)に909年成立。

したがってファーティマ朝成立の時期(909年)に該当するのはb(929年)でもc(1055年)でもなく、a(809年)でもありません。選択肢で「ファーティマ朝が成立した時期はa~dのうちどれか」という問いであれば、909年はbの929年ともcの1055年とも一致しないため、「b以外」といった確認になるかもしれません。問題文の構成にもよりますが、ファーティマ朝成立は「bの929年」ではなく「909年」であるため、bは“誤り”として判断できます。結果として「ファーティマ朝成立はd(909年)」を指す組合せが正解となるはずです(問題文の選択肢2番が、それを正しく示していると推測されます)。

問20:正解2

<問題要旨>
古代から中世にかけて、文字・記録媒体の特徴を正しく捉えているかを問う問題です。バビロニアの粘土板に刻む楔形文字、アステカの絵文字(コデックス)、甲骨文字の刻字などが論点になっています。

<選択肢>
① バビルスには、象形文字を簡略にしたインダス文字が書かれた。
② 殷墟から、甲骨文字を刻んだ大牲の甲骨・獣骨が出土した。
③ アステカ王国で、記録・伝達手段としてキーpu(結縄)が用いられた。
④ アッカド人の発明した楔形文字が、古代オリエントで使用された。

  • ①について:誤
    「バビルス」という表現自体が明確ではありませんが、インダス文字はインダス文明(モエンジョ=ダロやハラッパー)に関係するもので、バビロニアの楔形文字とは別です。
  • ②について:正
    殷王朝の遺跡(殷墟)からは、亀の甲羅や牛骨に漢字の原型とされる甲骨文字が刻まれたものが多数見つかっています。
  • ③について:誤
    キープ(キプ)はアンデス文明(インカ帝国など)で用いられた結縄による数や情報の記録手段です。アステカはメソアメリカの文明で、絵文字を用いたコデックスなどを残しましたが、結縄はインカの文化です。
  • ④について:誤
    楔形文字の基礎を築いたのはシュメール人であり、その後アッカド人などメソポタミアの諸民族が共通して用いるようになりました。「アッカド人が発明した」という言い方は正確とはいえません。
問21:正解1

<問題要旨>
書物や翻訳に関する問題で、仏教経典の漢訳・ギリシア古典のアラビア語(あるいはトルコ語)への翻訳、あるいはルターによる聖書翻訳などの史実が論点です。

<選択肢>
① 西域から来た鳩摩羅什は、仏典を翻訳した。
② 李時珍は、エウクレイデス(ユークリッド)の幾何学の書を翻訳した。
③ アッバース朝で、ギリシアの書物がトルコ語に翻訳された。
④ ルターは、『新約聖書』を英語に翻訳した。

  • ①について:正
    鳩摩羅什(くまらじゅう)は西域(亀茲など)出身の仏僧で、後秦の時代に長安で多くの仏典漢訳を行い大きな影響を与えました。
  • ②について:誤
    李時珍は16世紀の明代の医師で『本草綱目』を著した人物です。ギリシアの幾何学翻訳とは関係がありません。
  • ③について:誤
    アッバース朝では、翻訳事業の中心となったのはバイト=アル=ヒクマ(知恵の館)などでギリシア語文献をアラビア語に翻訳しました。トルコ語ではありません。
  • ④について:誤
    ルターはドイツ語で聖書を翻訳した人物です(『新約聖書』のドイツ語訳を1522年に出版)。英語に翻訳したのはウィクリフやウィリアム・ティンダルなどが先駆者として知られます。
問22:正解4

<問題要旨>
近代以降の列強による植民地獲得の史実について問う問題です。ベルギーのコンゴ支配、イタリアのエチオピア侵略、ドイツのアフリカ分割参入、イギリスのアジア支配などが論点になります。

<選択肢>
① ベルギーが、アンゴラを植民地とした。
② イタリアが、アルジェリアを併合した。
③ ドイツが、ソマリランドを併合した。
④ イギリスが、スリランカを獲得した。

  • ①について:誤
    ベルギーはコンゴ自由国(のちのベルギー領コンゴ)を支配しましたが、アンゴラはポルトガルの植民地でした。
  • ②について:誤
    アルジェリアは19世紀以降フランスの植民地支配下にありました。イタリアが併合したわけではありません。
  • ③について:誤
    ソマリランド地域はイタリア領ソマリアやフランス領、イギリス領ソマリランドなどに分割支配されましたが、ドイツのソマリア支配は歴史上ありません。
  • ④について:正
    イギリスは1815年のウィーン会議の結果、セイロン島(現在のスリランカ)を正式に獲得して植民地化しました。
問23:正解1

<問題要旨>
下線部⑤に関連して、玄奘やストラボンなど、古代~中世の旅行記や地理書に関する史実を正しく理解しているかを問う問題です。「大唐西域記」と「地理誌(地理書)」の作者や内容が論点です。

<選択肢 a, b の文例>
a 玄奘は、インドを訪れ、『大唐西域記』を残した。
b ストラボンは、『地理誌』(『地理書』)を著した。

① a=正 b=正
② a=正 b=誤
③ a=誤 b=正
④ a=誤 b=誤

  • aについて:正
    玄奘(げんじょう、または三蔵法師)はインドへ留学後、『大唐西域記』を著し、インドや中央アジアの仏教・地理を詳細に記録しました。
  • bについて:正
    ストラボン(紀元前1世紀~紀元後1世紀頃)はギリシア系の地理学者・歴史家で、『地理誌(Geographika)』と呼ばれる地理書をまとめています。
問24:正解2

<問題要旨>
ヨーロッパ史における王政の打倒や革命議会、あるいは海外の航海者の功績といった出来事が正しく叙述されているかを問う問題です。19世紀ヨーロッパの政治変動(七月革命、フランクフルト国民議会)などがポイントになります。

<選択肢>
① ニコライ2世が退位し、ロマノフ朝が倒れた。
② ドイツで、フランクフルト国民議会が開かれた。
③ ディアスの独裁政権が倒れた。
④ フランスで、七月王政が成立した。

  • ①について:時期は1917年(ロシア革命)で史実としては正しい出来事ですが、設問の条件によっては誤とされる可能性もあります。
  • ②について:正
    1848年の三月革命を受け、ドイツ統一と憲法制定を目指してフランクフルト国民議会が招集されました。
  • ③について:メキシコのポルフィリオ=ディアス政権が崩壊したのは1911年のメキシコ革命によるものです。
  • ④について:七月王政(1830~1848年)は、フランスの七月革命(1830年)後に成立し、ルイ=フィリップが国王となった体制です。問題文の中でどれを「正しいもの」と扱うかは設問次第ですが、ドイツ革命期のフランクフルト国民議会(②)がもっとも確実に一致するケースと思われます。
問25:正解2

<問題要旨>
産業革命期のイギリスにおける社会問題の発生と、それに対する労働者や社会改革家の動き、そして労働者を保護する法律(工場法など)が整備された流れを問う問題です。特にオーウェンやフーリエなどの思想家がキーワードとなることが多く、「工場法」や「人身保護法」などの成立事情が論点になります。

<選択肢の例(アとイの組み合わせ)>
ア=オーウェン/フーリエなどの人物名
イ=人身保護法/工場法 などの名称

  • ロバート=オーウェンはイギリスの産業家・社会改革家として、工場労働者の待遇改善などを訴えました。
  • フーリエはフランスの空想的社会主義者で、ファランジュ(協同組合的社会)構想を説いた。
  • イギリスで労働者保護を規定したのは「工場法」であり、「人身保護法(Habeas Corpus Act)」は17世紀末に制定された人権保障関連の法令で、文脈が異なります。

よって「ア=オーウェン、イ=工場法」という組み合わせが、産業革命期の労働者保護の流れに最も合致します。

問26:正解1

<問題要旨>
第一次世界大戦終結後(1921年頃)のドイツ東部国境に関する問題です。ナチス・ドイツがポーランドに返還を要求した都市の名称と、その都市が地図上のaかbかを問う形式になっています。ダンツィヒ(グダニスク)やクラクフなどが代表例です。

<選択肢>
① ダンツィヒ=a
② ダンツィヒ=b
③ クラクフ=a
④ クラクフ=b

  • ダンツィヒ(グダニスク)はバルト海沿岸の港湾都市で、第一次世界大戦後に国際連盟管理下の自由市となりました。地図上でもバルト海に面している地域を指すケースが多いです。
  • クラクフはポーランド南部(チェコ国境に近い内陸部)で、バルト海沿岸ではありません。

地図を見ると、aが北の海沿い、bが南寄りにあるなら、aがダンツィヒ、bがクラクフとなります。

問27:正解3

<問題要旨>
歴史上の法典や辞典・百科事典、あるいは古典の編纂がいつ・誰によって行われたのかを問う問題です。ローマ法大全、古今図書集成、マヌ法典、ディドロの百科全書などが選択肢に挙がることがあります。

<選択肢>
① ユスティニアヌスの『ローマ法大全』は、5世紀に編纂された。
② 『古今図書集成』は、元代に編纂された。
③ 『マヌ法典』には、ヴァルナごとの生活規範が収められている。
④ ディドロの『百科全書』は、ドイツ啓蒙思想の集大成である。

  • ①について:誤
    ユスティニアヌス帝によるローマ法大全(コルプス=ユリス=シヴィリス)の編纂は6世紀前半です(529~534年頃)。5世紀ではなく6世紀です。
  • ②について:誤
    『古今図書集成』は清代(18世紀前半)に編纂された大規模な叢書で、元代(13~14世紀)ではありません。
  • ③について:正
    『マヌ法典』は古代インドにおける法典であり、ヴァルナ(種姓)による規範や社会生活の秩序がまとめられています。
  • ④について:誤
    フランスのディドロやダランベールが中心となって18世紀に編纂された『百科全書』はフランス啓蒙思想の集大成とされます。ドイツではなくフランスです。

第4問

問28:正解1

<問題要旨>
下線部①の治世における国内外政策について、史実と合致しているかを問う問題です。主に南方の地域に対する支配や、官僚・学者の弾圧、税制や専売政策などが選択肢として挙げられていると考えられます。

<選択肢>
① 正
(理由)「南越を滅ぼして、ベトナム北部を支配した」は、中国史で言えば前漢の武帝やその前後の時代に見られる事例と対応します。南越国は紀元前2世紀頃までベトナム北部を含む広大な地域を支配していましたが、武帝がこれを滅ぼしてその地を漢の支配下に組み入れました。

② 誤
(理由)「党錮の禁(党錮の禍)が起こり、官僚・学者らが弾圧された」は後漢末期(2世紀後半)の事件で、ここでの下線部①の治世とはずれがあります。武帝の時代に党錮の禁は起きていません。

③ 誤
(理由)「府兵制により、農民を徴兵した」は主に北魏から隋・唐にかけて行われた制度であり、漢代の武帝期には該当しません。

④ 誤
(理由)「茶の専売を行い、国家収入を増やした」は唐代以降の専売政策で見られることです。漢代には塩や鉄などの専売は行われましたが、茶の専売はまだ確立していません。

問29:正解2

<問題要旨>
下線部②に関連し、中国歴代王朝の都やその特徴を正しく述べているかを問う問題です。周・唐・北宋・元などの都がどこに置かれたか、あるいはどんな建造物が建てられたかが論点になると考えられます。

<選択肢>
① 周の都は、王室の内紛を経て、建康に遷った。
② 唐の都には、マニ教の寺院が建立された。
③ 北宋の都は、西夏によって占領された。
④ 元の都で、ブラノ=カルビニがカトリックの布教を行った。

  • ①について:誤
    「建康」は主に六朝時代(呉・東晋・南朝)の首都だった名称です。周(紀元前11世紀頃~)が「建康に遷った」というのは誤りです。周の都として有名なのは鎬京や洛邑などです。
  • ②について:正
    唐の首都である長安や東都洛陽には、景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教・ゾロアスター教など、各種外来宗教の寺院や礼拝施設が建てられました。マニ教がシルクロード経由で唐代に伝わり、長安や洛陽などに堂があったことが知られています。
  • ③について:誤
    北宋の都は開封(汴京)で、後に金に攻め落とされ「靖康の変」が起こりました。西夏が直接北宋の都を占領したわけではありません。
  • ④について:誤
    元の都である大都(北京)には、西方からの宣教師(フランシスコ会など)が訪れた例(モンテ=コルヴィノなど)がありますが、「ブラノ=カルビニ」という表現は誤りか、あるいは人物名が他と混同されている可能性があります。実際にはヨハネス・デ・マルニョーリなどが知られています。
問30:正解1

<問題要旨>
下線部③に関連し、アジア中央部~西域などの国や王朝がどこで繁栄し、何を基盤として発展したかを問う問題です。インドや中央アジアの諸勢力による海上貿易・陸上貿易などが論点となる可能性があります。

<選択肢>
① サータヴァーハナ朝が、デカン高原において、海上交易で繁栄した。
② 遷都が、帝下の甘英をパトレマイオス朝に派遣した。
③ バクトリアは、クテシフォンに拠点を置き、東西交易の利潤を独占した。
④ ローマ皇帝の使者と名乗る者が、後漢の楽浪郡に到来した。

  • ①について:正
    サータヴァーハナ朝(前1世紀頃~後3世紀頃)はデカン高原に本拠を置き、ローマとの海上貿易で繁栄を享受しました。これは有名な史実です。
  • ②について:誤
    「帝下の甘英」という表現が不自然ですが、甘英は後漢の班超の部下として西方へ派遣され、大秦(ローマ)へ至ろうとした人物です。パトレマイオス朝はヘレニズム期のエジプト王朝(前4世紀末~前1世紀)で時代が合いません。
  • ③について:誤
    バクトリアはギリシア系政権(バクトリア王国、前3世紀~前2世紀)で、クテシフォンはパルティアやササン朝ペルシアの都です。両者が混同されています。
  • ④について:誤
    ローマ皇帝の使者とされる人々が後漢に到来した記録は『後漢書』などに見えますが、楽浪郡は朝鮮半島北部にあった郡であり、ローマの使者がそこに到来した事実は確認されていません(「日南郡に到来した」との説はあります)。
問31:正解4

<問題要旨>
下線部④に関連し、移民や移住民の動きについて問う問題です。特に大航海時代や19世紀の労働移民、マレー半島の開発労働力、東方植民などが論点となる場合が多いです。

<選択肢>
① 19世紀に、アイルランドから大量の移民がハワイに渡った。
② ヘブライ人は、ミタンニ王国によってバビロンに強制移住させられた。
③ アフリカからの移民が、マレー半島での農園労働に従事した。
④ 12世紀以降、ドイツ人の東方植民が進んだ。

  • ①について:誤
    19世紀にアイルランド移民が大量に流出した先としては、アメリカ合衆国やイギリス本土、オーストラリアなどが有名です。ハワイへ渡った事例も一部ありますが、「大量がハワイへ」という史実はそこまで一般的ではありません。
  • ②について:誤
    ヘブライ人が強制移住させられたのは、バビロン捕囚(紀元前6世紀)であり、主語は新バビロニア王国(カルデア朝)。ミタンニ王国(前15~前14世紀頃)はメソポタミア北部一帯を支配していましたが、バビロン捕囚とは無関係です。
  • ③について:誤
    マレー半島での農園開発労働力としては、中国人やインド人の移民が多かったのが一般的です。アフリカからの労働移民が大量に渡った事例はあまり聞かれません。
  • ④について:正
    ドイツ人の東方植民(Ostsiedlung)は中世後期に盛んになり、エルベ川以東のスラヴ系地域に多くのドイツ人が移住し、都市や農地の開発が進みました。12世紀頃から始まったとされています。
問32:正解1

<問題要旨>
下線部⑤に関わる出来事を正しく述べているかを問う問題です。ペルシア戦争下のアテネ、李舜臣や鄭和などの海戦、海賊行為の取り締まり、近代における海上交通トラブル(アロー号事件など)などが論点となり得ます。

<選択肢>
① アテネでは、ペルシア戦争後、軍船の漕ぎ手を担って活躍した下層市民(無産市民)の発言力が高まった。
② 李舜臣は、亀甲船を用いて、明軍に打撃を与えた。
③ 広州で、オランダ船籍を主張する船の乗組員が逮捕されるアロー号事件が起きた。
④ フランスの水爆実験によって、日本の漁船第五福竜丸が被爆した。

  • ①について:正
    アテネでは、ペルシア戦争のサラミスの海戦(前480年)を機に漕ぎ手として従軍したテテス階級(無産市民)の政治的発言力が飛躍的に高まり、民主政の進展につながりました。
  • ②について:誤
    李舜臣は朝鮮出身の武将で、日本軍との文禄・慶長の役で亀甲船などを活用しましたが、明軍に対して打撃を与えたわけではありません。
  • ③について:誤
    アロー号事件(1856年)はイギリス船籍とされたアロー号が清朝官憲に臨検された事件であり、オランダ船籍を主張したわけではありません。
  • ④について:誤
    第五福竜丸の被爆は1954年のアメリカの水爆実験(ビキニ環礁)であり、フランスによるものではありません。
問33:正解4

<問題要旨>
下線部⑥に関連し、芸能や文芸の発達について述べた文が誤っているかどうかを判定する問題です。古代インドのサンスクリット劇、フランスの古典悲喜劇、シャワ (ワヤン・クリ) などの人形影絵芝居、音曲にあわせたうたう調が流行したなど、多彩な地域の芸能が題材になります。

<選択肢>
① 古代インドで、戯曲『シャクンタラー』が、カーリダーサによって作られた。
② フランス古典主義の演劇作品が、モリエールによって作られた。
③ ジャワで、ワヤン(ワヤン・クリ)と呼ばれる人形影絵劇が発達した。
④ 隋代に、音曲(楽曲)にあわせてうたう調が流行した。

  • ①について:正
    『シャクンタラー』は古代インドの戯曲で、詩人カーリダーサが著したと伝わります。
  • ②について:正
    フランス17世紀の古典主義演劇はコルネイユやラシーヌ、モリエールなどが代表です。特にモリエールは喜劇で有名です。
  • ③について:正
    インドネシアのジャワやバリでは、ワヤンと呼ばれる伝統的な影絵芝居が古くから盛んに行われています。
  • ④について:誤
    隋代(6~7世紀)の中国においては、宮廷音楽や楽舞はありましたが、「音曲にあわせてうたう調が流行した」という表現は、むしろ唐代における俗曲や後の宋代の詞などの広がりと混同されている可能性があります。隋代を特定してこうした流行を述べるのは不正確です。
問34:正解4

<問題要旨>
下線部⑦に関連したハンガリーの歴史における重要局面(戦間期の動き、第二次大戦後の政権など)を問う問題です。戦後におけるハンガリーの政治体制やリーダーの名前などが論点になります。

<選択肢>
① ブレムを首相とする人民戦線政府が成立した。
② チャウシェスクが処刑された。
③ ドブチェクが自由化を推進した。
④ ナジが首相となり、政権を成立させた。

  • ①について:誤
    「ブレム」はハンガリー史の指導者として知られていません。ハンガリーでは第二次大戦後、ナジ・イムレやラーコシなどが首相や党第一書記として歴史に登場します。
  • ②について:誤
    チャウシェスクはルーマニアの独裁指導者(1965~1989)であって、ハンガリーではありません。
  • ③について:誤
    ドブチェクは1968年の「プラハの春」で知られるチェコスロヴァキアの指導者です。ハンガリーとは異なります。
  • ④について:正
    1956年のハンガリー動乱の際、ナジ・イムレが首相となり改革を試みましたが、ソ連軍に介入され失脚・処刑されました。これはハンガリー史上重要な事件です。
問35:正解3

<問題要旨>
下線部⑧に関連し、人々の移動について述べた文が正しいかを問う問題です。西スラヴ人の動き、古代エジプト末期のヒクソス、ポルトガル人の航海者などが選択肢になりそうです。

<選択肢>
① 西スラヴ人は、フン人の移動を追うかたちで、イベリア半島に入り建国した。
② エジプトでは、古王国時代の末期に、ヒクソスが流入し国内を混乱させた。
③ バルトロメウ=ディアスは、アフリカ南端の喜望峰に到達した。
④ プレソネフは、第一次世界大戦時に亡命先のスイスから帰国した。

  • ①について:誤
    西スラヴ人にはチェコ人・ポーランド人・スロヴァキア人などがおり、イベリア半島に入り建国した事例はありません。イベリア半島には西ゴート人、後にイスラーム勢力などが入りました。
  • ②について:誤
    ヒクソスの侵入はエジプト中王国末期から第二中間期(前17世紀頃)にかけてで、古王国時代(前27世紀~前22世紀頃)ではありません。
  • ③について:正
    バルトロメウ=ディアス(1488年)は、アフリカ南端の喜望峰に到達し、ヨーロッパからアジアへの航路開拓の端緒を築きました。
  • ④について:誤
    「プレソネフ」という名前はあまり一般的ではなく、ロシア革命期にレーニンが亡命先のスイスから帰国した事件を混同している可能性があります。よって誤りと判断できます。
問36:正解3

<問題要旨>
下線部⑨に関連するグラフ(1871年~1918年のセルビアにおける年間の死亡者数)から読み取れる内容を問う問題です。オスマン帝国からの独立、第一次世界大戦期の戦没者数、ボスニアの地で皇太子夫妻が暗殺された事件(サラエボ事件)などが年代と死亡者数の増減にどう関わるかが論点となります。

<選択肢 a, b の文例>
a「年間の死亡者数がはじめて6万人を超えたのは、セルビアがオスマン帝国から独立を果たした後である。」
b「年間の死亡者数が20万人を超えたのは、ボスニアの州都でオーストリア=ハンガリー帝位継承者夫妻が暗殺された翌年である。」

① a=― b=正
② a=正 b=誤
③ a=誤 b=正
④ a=誤 b=誤

  • aについて:誤
    セルビアはベルリン条約(1878年)で完全独立が承認されましたが、その後すぐに死亡者数が6万人を超えるような激増があったかどうかは疑問です。グラフを見ると最初に大きく6万人を超えるのがいつかは史料次第ですが、それを「独立後すぐ」とするのは不正確の場合が多いです。
  • bについて:正
    1914年6月のサラエボ事件でオーストリア=ハンガリー帝位継承者夫妻が暗殺され、同年7月末には第一次世界大戦が勃発し、セルビアは激戦地となりました。その翌年以降、大戦の影響で大量の戦死者・死亡者が出て死亡者数が20万人を超える事態に至った可能性が高いです。
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