解答
解説
第1問
問1:正解1
<問題要旨>
埼玉県・稲荷山古墳出土の鉄剣銘に関する史料を題材に、大王(おおきみ)の名やその周辺史料との関連を考察する問題です。稲荷山古墳の鉄剣銘と熊本県・江田船山古墳出土の鉄刀銘とを比較し、それぞれに刻まれた「ワカタケル大王」(獲加多支鹵大王) などの記述の史料的評価や解釈を読み解くことが問われています。
<選択肢>
①【正】
X・Y ともに、稲荷山古墳の鉄剣銘や江田船山古墳の鉄刀銘には、「ワカタケル大王」(獲加多支鹵大王)の名が刻まれており、いずれも同一の人物を示すものと考えられています。Xの史料解釈とYの史料解釈が共に整合するため、両方とも正しい内容といえます。
②【誤】
Xを正しいとする一方で、Yを誤りとしている選択肢です。しかし熊本県の江田船山古墳における鉄刀銘も「ワカタケル大王」を示している可能性が高く、両者を同一人物とみなす解釈は広く認められています。そのためYを誤りとするのは妥当ではありません。
③【誤】
Xを誤り・Yを正しいとする選択肢ですが、稲荷山古墳の鉄剣銘(Xに相当する部分)についても「ワカタケル大王」への奉仕などを記した内容が確認できるため、Xが誤りという判断は不適切です。
④【誤】
X・Y ともに誤りとする選択肢ですが、実際には両方とも『ワカタケル大王』をめぐる同一人物説に関連する史料として成立するため、いずれも誤りとするのは不適切です。
問2:正解3
<問題要旨>
土地制度に関わる図や古文書の写真(条坊制にもとづく区画図、荘園の下地中分図、検地仕法を描いた絵図、地券など)を題材に、それぞれがどの時代・どの制度を反映しているかを問う問題です。提示されたI~IVの図や写真の特徴を踏まえ、該当する解釈が正しいかどうかを判断する力が求められます。
<選択肢>
①【誤】
Iの条坊制の区画図をめぐる説明として「条坊制にもとづく土地区画のための線が引かれている」という点は正しいが、選択肢①が正解になるかどうかは他の記述との整合も必要です。他の図の説明を含めると、ここでは①は正解ではありません。
②【誤】
IIの荘園領主間の和解例や寄進関係を示す図には、幕府の関与と上下地中分の成立を描くものがあります。しかし、この選択肢②では他の図との対応がずれていると考えられます。
③【正】
IIIの検地仕法では、奉行や村役人などが立ち会って検地を行う様子が描かれています。またIVの地券に土地所有者や面積・収穫高などが記されることは近代初期の地券制度の大きな特徴です。それぞれの図の特徴と選択肢の文言が一致しているため、この③が正解となります。
④【誤】
地券(IV)においては土地所有者や面積、収穫高が記載されるのは正しい一方、選択肢全体を検討すると本問では④が該当する正解とはならず、③の方が正しい内容となっています。
問3:正解3
<問題要旨>
服装・文様・衣生活を題材にした文化史的な問題です。a~dに書かれた時代ごとの服装や意匠に関する記述の正否を判定し、正しい組合せを選ぶことが求められています。
<選択肢>
① a・c【誤】
平安時代の宮廷女性の正装が「裳(も)」や「十二単(じゅうにひとえ)」に定着していく過程や、江戸時代の華やかな友禅染などはそれぞれの時代の特徴と合致しますが、aやcの表現を厳密に合わせると不整合が生じるため、この組合せは正解ではありません。
② a・d【誤】
同様に a(平安時代)と d(明治時代モボ・モガ)を組み合わせた場合、女性衣装と男性の洋装化の流行との組合せに微妙なズレが見られます。よってここも正解ではありません。
③ b・c【正】
戦国・安土桃山時代に女性の普段着として小袖が広く一般化したことや、江戸時代に生地に華やかな模様を表す友禅染が流行したという記述は史実と合致しています。よってこの組合せが正しいと判断されます。
④ b・d【誤】
b(戦国・安土桃山時代に小袖が普段着化)と d(明治時代のモボ・モガ)はそれぞれ正しい時代背景を示す項目もありますが、選択肢全体の中での正しい組合せは③の方なので、④は誤りになります。
問4:正解1
<問題要旨>
明治維新後の富国強兵や殖産興業と、政府が近代国家を目指すうえでどのような産業や地域開発に力を注いだか、また各地の動向をつなげて理解する問題です。空欄「ア」「イ」に入る語句の組合せを検討する形式で、富国強兵や民力休養など、明治初期の政策・方針と関連づけて答えを選ぶ力が求められます。
<選択肢>
①【正】
「ア:富国強兵」「イ:熊本藩(または熊本)」のように、明治政府が掲げた政策と、具体的な地域例との対応が妥当であると判断できます。富国強兵は国防力の充実、軍事力の近代化を目指すスローガンであり、その実践の一端が県単位で行われたことなども史実と整合します。
②【誤】
「ア:富国強兵」「イ:伊勢湾」などの組合せは、産業と地域の対応がずれているため、明治政府の政策と当時の地域の具体例が合いません。
③【誤】
「ア:民力休養」「イ:熊本藩」の組合せは、富国強兵が掲げられたタイミングを考慮すると誤りです。明治初期において“民力休養”の理念は財政の安定などの文脈では使われますが、ここでは軍備拡張と殖産興業を軸とした富国強兵の方針が中心視されます。
④【誤】
「ア:民力休養」「イ:伊勢湾」は、そもそも明治国家の軍事近代化と伊勢湾という地域の直接的つながりが示されないため、この組合せの根拠に乏しいといえます。
問5:正解3
<問題要旨>
近代以前の商品の生産・流通やそれにともなう市場の変容に関する記述を判定する問題です。平安時代の輸入品や鎌倉時代の問丸(といまる)、室町時代の都市・市場の盛衰、江戸時代の肥前磁器の海外輸出など、各時代の特徴を踏まえて正誤を見極める力が求められます。
<選択肢>
①【誤】
平安時代は朝廷や貴族の購買力が強く、唐物などの輸入品が珍重された面はありますが、「平安時代に輸入品が庶物として珍重されるようになった」という表現にはやや誤解が含まれます。輸入品の一部は非常に高価かつ貴重であり、一般流通したわけではありません。
②【誤】
鎌倉時代に「問(問丸)が商品の運送にかかわった」点は概ね正しいのですが、他の選択肢まで照合すると全体の正解としては合わないことが分かります。
③【正】
室町時代には地方で見世棚が整備され、自治都市などの市場が盛んになりましたが、戦乱などの影響で都市の栄枯盛衰は激しくなっていきます。また、江戸時代に肥前(有田など)で磁器が大量に生産され海外輸出も盛んになったという指摘は事実に合致するため、③の記述だけが誤りがないと判断できます。
④【誤】
江戸時代に肥前で磁器が生産され海外へ輸出されたこと自体は正しいのですが、①~③を含む全体の中で正確に判断すると、この④は正解としては選ばれません。
問6:正解2
<問題要旨>
近代日本の外交・領土問題に関連し、写真X・Yと地図上の a~d の位置関係を結び付ける問題です。写真X(国境標石など)と写真Y(関東州の租借地や南満洲鉄道の建物)を正しくどの地域に対応づけるかを判断する力が問われています。
<選択肢>
①【誤】
Xを「a」に、Yを「c」に対応させる組合せですが、地図上の満洲・朝鮮半島・樺太などの地理的位置関係を正確に反映していないため、誤りです。
②【正】
Xを「a」(樺太方面の国境標)に、Yを「d」(関東州の租借地周辺)に対応づける組合せです。日本がロシアとの国境画定で設置した標石が樺太に位置し、また関東州(旅順や大連など)で南満洲鉄道の保護・監督機関の建物があったことを示す写真Yを朝鮮半島北方ではなく遼東半島方面(d)と対応づけるのが史実に合致しています。
③【誤】
Xを「b」、Yを「c」に対応させる組合せですが、地図上の位置関係がずれています。Xは樺太方面の国境標石なので b(朝鮮半島)は不適切です。
④【誤】
Xを「b」、Yを「d」に対応させる組合せも、Xの樺太・ロシア国境標という実態を b(朝鮮半島)に当てており正しくありません。
第2問
問7:正解3
<問題要旨>
銅鐸をはじめとする祭祀用の楽器や、古代社会における音楽・儀礼の場面について扱った問題です。空欄に入る地域や儀式名をどのように結び付けるかを判断することが問われています。銅鐸の出土分布など考古学的知見と、古代の祭礼・儀式に関する文献を総合的に捉える力が求められます。
<選択肢>
①【誤】
「九州北部 / 祈年円礼」の組合せは、銅鐸の多数の出土例が確認されている地域と一致しません。銅鐸は九州北部でも見られますが、圧倒的に近畿地方での出土数が多いため、九州北部を中心とする説は妥当とはいえません。
②【誤】
「九州北部 / 淡海三船」の組合せも、銅鐸の典型的な分布を踏まえると不適切です。淡海三船(あわうみの みふね)は奈良時代から平安時代にかけて活躍した人物名であり、問題で問われている「古代の音楽・儀礼に関わる銅鐸と祭祀」と直接結び付ける根拠にも乏しいといえます。
③【正】
「近畿地方 / 祈年円礼」の組合せは、銅鐸の多数出土地域として知られる近畿地方(特に畿内周辺)を示し、祭祀や農耕儀礼との関連も考えられることから、古代祭礼を示唆する文脈と整合性があります。銅鐸の音が農耕祭祀や神事に用いられたと推測される点、近畿地方で盛んに祭礼が行われた点を合わせると、この組合せが最も妥当です。
④【誤】
「近畿地方 / 淡海三船」は、近畿地方自体は銅鐸の出土地として正しいものの、淡海三船をここで結び付ける必然性が見えません。古代の儀礼・祭祀に深く関わる語句としては「祈年円礼」の方が文脈上適切です。
問8:正解3
<問題要旨>
ヤマト政権の政治連合に参加した豪族がどのような立場や役割を果たしたかを問う問題です。大王(おおきみ)の周辺で権力を行使した有力豪族の行動や、政権運営に関わる制度を理解する力が試されます。
<選択肢>
①【誤】
「豪族は、政治連合に参加すると、前方後円墳の築造が禁止された」は明確な史料的裏付けがありません。前方後円墳が造られなくなる流れは古墳時代後期から終末期古墳への移行など複合的な要因があり、政治連合参加の即時的な制限として語るのは不適切です。
②【誤】
「豪族は、屯倉とよばれる私有地を確保して、みずからの経済基盤とした」は、屯倉(みやけ)はヤマト政権側が各地に設置した直轄地であり、豪族個人の私有地とは言い難い面があります。ヤマト王権が直轄した屯倉を豪族が自由に保有するという説は史実に合わないと考えられます。
③【正】
「豪族は、氏を単位として、ヤマト政権の職務を分担した」は、氏(うじ)と呼ばれる同族集団がヤマト政権に仕え、それぞれの氏が専門の職掌(職能)を担ったとされる事例があります。朝廷の様々な官的業務を氏単位で受け持つ体制は広く認められる史実であり、この記述が最も適切です。
④【誤】
「豪族は、予寄を公奴婢にして、大王へ出仕させた」は、そもそも “予寄” という文言が文脈上明確でなく、また公奴婢として大王に出仕させる具体的事例を裏付ける同時代史料は限られています。語句・内容ともに信頼できる証拠が見当たらないため誤りです。
問9:正解6
<問題要旨>
ヤマト政権(倭)と朝鮮半島(特に新羅・高句麗など)との関係に関して、与えられた文章 I・II・III を年代順に正しく並べる問題です。筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井の乱や、倭の五王の中国への朝貢、好太王(広開土王)碑文との関わりなど、5世紀から6世紀にかけての対外関係を整理する力が試されます。
【I】「新羅と結んだ筑紫国造磐井が、大規模な反乱を起こした。」
【II】「朝鮮半島での立場を有利にするため、倭の五王が中国へ朝貢した。」
【III】「朝鮮半島に渡った倭の兵が、好太王(広開土王)に率いられた高句麗の軍隊と交戦した。」
<選択肢>
① I → II → III【誤】
磐井の乱(527年頃)は6世紀初頭ですが、それより先に5世紀前半~中頃に倭の五王が中国へ朝貢しており、さらに好太王の在位は4世紀末~5世紀初頭です。よってこの順序は不自然です。
② I → III → II【誤】
I(磐井の乱)→III(好太王との交戦)→II(倭の五王の朝貢)というのは5世紀・6世紀の史実順と合いません。好太王碑文の交戦は5世紀前半にかけてと推定されるため、磐井の乱よりも前に位置付けられるべきです。
③ II → I → III【誤】
「II(倭の五王)→I(磐井の乱)→III(好太王碑文)」の順も、好太王の在位時期が5世紀初頭であるため、磐井の乱(6世紀)よりさらに前に III が来るのが整合的です。
④ II → III → I【誤】
「II(倭の五王の朝貢)→III(好太王との交戦)→I(磐井の乱)」も、好太王(広開土王)はおよそ4世紀末から5世紀初頭にかけて活躍した人物であり、倭の五王の朝貢(5世紀前半~)よりはやや前後があるため、順番が食い違う可能性があります。
⑤ III → I → II【誤】
「III(好太王との交戦)→I(磐井の乱)→II(倭の五王の朝貢)」の順も不自然です。倭の五王が朝貢したのは5世紀前半~後半にかけて、磐井の乱は6世紀前半なので、この順を考えてもやはり年代が合いません。
⑥ III → II → I【正】
好太王(広開土王)との交戦(4世紀末~5世紀初頭)→ 倭の五王の朝貢(5世紀中頃まで継続)→ 筑紫国造磐井の乱(527年頃)という流れが、資料上最も年代順として適切です。このため⑥が正しい順序といえます。
問10:正解2
<問題要旨>
律令制度下(大宝律令や養老律令)の政治組織や役職のしくみに関する問題です。太政官(だいじょうかん)や八省、中央官職の構成と、天皇を補佐する役職制度を正しく理解しているかが試されます。
<選択肢>
①【誤】
「国政は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言などの会議で審議された」は、概ね太政官が国政を審議したことを示しているため一見正しそうですが、「大納言」まで含めて明確に“会議体”として示すことには注意点があります。現実には太政官制のもとで幅広く議政官が論議に参加しましたが、選択肢全体を比較するとここが正解とはなりません。
②【正】
「官吏登用機関である大学寮には、皇⼦の予備学ぶべき文がメシべし (※原文上の誤植に注意)」のような記述の正確性はともかく、概略として大学寮で貴族や皇族が学問を修めたことは史実と整合します。また大学寮が官吏養成の場であり、特に皇族・貴族の子弟などが学んだ点は広く確認されます。他の選択肢との比較で、これが最も適切な内容です。
③【誤】
「官人には位階が与えられ、原則として位階に対応した官職に任じられた」は多くの場合正しい制度ですが、問題文全体の流れを考えると、ここで挙げている選択肢が本問の正解とはならないようです。実際には職階や位階の対応は理想としてあっても、現実には多少の例外もありました。
④【誤】
「官庁には、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官が設けられた」は四等官制の基本ですが、こちらも一般的に正しい制度の説明ではあるものの、本問で比較検討した際には②に比べて適切性がやや低いと判断されます。
問11:正解1
<問題要旨>
大仏開眼供養会など、律令時代の国家的な仏教儀礼の様子についての理解を問う問題です。『続日本紀』の記述をもとに、天皇が主導し、大勢の官人や多様な楽舞を取り込んだ国家的行事の形態をどのように評価するかがポイントとなっています。
<選択肢>
①【正】
「X 天皇が多くの官人を引き連れ、国家的事業として大仏開眼供養会を行った」は、実際に『続日本紀』に天皇自らが東大寺へ赴き、大仏開眼の儀式を盛大に挙行したとの記述があり、国家の威信をかけた行事だったことが確認できます。
②【誤】
「X 正 Y 誤」を示す選択肢ですが、Y の「大仏開眼供養会では国内外の多彩な音楽・歌舞によって…」という記述も、史料上ほぼ認められることなので、一方を誤りとするのは妥当ではありません。
③【誤】
「X 誤 Y 正」はさらに不適切です。X の “天皇が多くの官人を率いて大仏開眼を行った” という大規模儀式自体は『続日本紀』などにも記されており、誤りとはいえません。
④【誤】
「X 誤 Y 誤」も、どちらの内容も誤りとする理由が見当たりません。大仏開眼供養会に関する同時代記録からは、XもYも一定の史実を示すと考えられます。
問12:正解4
<問題要旨>
平安時代の地方支配について、X・Yの文と a~d の語句を正しく組み合わせる問題です。X は「徵税単位にわけられた田地の納税を請け負う」、Y は「一国の実質的な支配権を与えられ、近親者を国守に任命するなどして収益を得た」などの記述をどの語句と対応させるかが問われています。
【a 検田使 / b 負名 / c 預所 / d 知行国主】
<選択肢>
①【誤】
「X → a 検田使 / Y → c 預所」だと、検田使は田地の検査を行う役職で、Xの「徵税単位にわけられた田地の納税を請け負う」という主体とはやや異なります。また、預所は荘園領主が荘官として置く職であり、「一国の実質的な支配権を与えられる」という文意とは合いません。
②【誤】
「X → a 検田使 / Y → d 知行国主」では、X・Y の内容に対して「検田使」が納税請負を担当する者とは言いがたく、Xに不整合が生じます。知行国主は一国を任され収益を得る立場を示す語句なので、Y には合いそうですが X が合いません。
③【誤】
「X → b 負名 / Y → c 預所」は、負名(ふみょう)が田地の納税を担う点はXと概ね合うものの、Yを預所とするのは“一国の実質的支配権”というよりは荘園ごとの管理を示す立場なので、記述Yとは噛み合いません。
④【正】
「X → b 負名 / Y → d 知行国主」の組合せが最も適切です。負名は公領において一定の田地の負担(納税)を請け負う存在であり、X の徵税単位との記述に合致します。また、知行国主は特定の国の支配権を認められて収益を得る立場であり、“近親者を国守に任命する”といった状況にも当てはまるため、Y の文と符合します。
第3問
問13:正解4
<問題要旨>
鎌倉時代から南北朝・室町初期にかけての武士勢力の内紛や政権の交替について、人物名と事件を対応させる問題です。地震や政治的混乱が重なるなかで、鎌倉幕府内部での権力闘争(平頼綱の乱など)や、室町幕府成立期の動向(足利直義を中心とする内紛)を結び付けて空欄に当てはめる力が求められます。
<選択肢>
①【誤】
「三浦泰村 / 足利尊氏」の組合せでは、三浦泰村は鎌倉幕府中期の宝治合戦(1247年)で敗死した人物であり、足利尊氏は鎌倉幕府滅亡後に室町幕府を開いた武将です。両者をここで対比的に置くのは時期・文脈とも噛み合いません。
②【誤】
「三浦泰村 / 足利直義」の組合せも同様に、三浦泰村と足利直義の時期にずれがあり、地震や武士の内紛との関係を説明しにくい組合せです。
③【誤】
「平頼綱 / 足利尊氏」は半分は的を射ています。平頼綱は鎌倉幕府の内紛(平禅門の乱、1293年)に登場する人物ですが、足利尊氏は鎌倉幕府滅亡後の動乱期を主導した人物であり、地震や政変との関係を組み合わせる文脈では①②よりは近いものの、最終的な正解には至りません。
④【正】
「平頼綱 / 足利直義」の組合せは、1293年の大地震を契機とする鎌倉幕府内部の争い(平頼綱の乱)と、南北朝動乱期における室町幕府内部の内紛(尊氏と直義との対立)を結び付ける形としてもっとも適切です。両者はそれぞれの時代の権力闘争を象徴する人物・事件であり、地震と武士の政変との関わりを示す文脈にも合致します。
問14:正解1
<問題要旨>
中世の京都とその周辺の政治・宗教・文化の動向を問う問題です。院政期、鎌倉時代、室町時代、戦国時代など、時代ごとの寺院の建立や政治組織の変化を正しく把握しているかが求められます。
<選択肢>
①【正】
「院政期には、仏教を厚く信仰する天皇らによって、法勝寺をはじめとする六勝寺が造営された」は、『中右記』などの史料からも裏付けられます。白河院などが、院政期に盛んに寺院造営を行った事実と整合します。
②【誤】
「鎌倉時代には、月行事を代走する前組が形成された」という記述は、宮中行事や朝廷儀式の分担組織としては見当たらず、鎌倉時代の特色とも合致しません。鎌倉時代に特有の前組制度という根拠は薄いです。
③【誤】
「室町時代には、京と鎌倉の往来がなんとなり、『十六夜日記』などの紀行文が書かれた」は、『十六夜日記』(阿仏尼による紀行文)は鎌倉時代後期のものであり、室町期の事象として位置づけるのは適切ではありません。
④【誤】
「戦国時代には、湖国(おそらく近江国)に対する幕府の課税が始まった」は明確な史料的裏付けがありません。戦国期には幕府権力が衰退しており、近江国に対する直接的課税制度を幕府が強力に施行する情勢とはいえません。
問15:正解2
<問題要旨>
朝廷と鎌倉幕府の関係に関する出来事を、年代の古い順に正しく並べる問題です。六波羅探題の設置、皇族将軍の誕生、両統迭立の方針など、鎌倉時代における朝廷・幕府間の主要な政治的対応を正確に把握し、年代順を判断する力が求められます。
【I】 幕府は朝廷の監視などを目的に六波羅探題を設置した。(1221年、承久の乱後)
【III】 幕府からの求めにより、皇族がはじめて将軍となった。(1252年、宗尊親王)
【II】 幕府は皇位の継承について、両統迭立の方針を提案した。(後深草・亀山両統の並立:13世紀後半)
<選択肢>
① I → II → III【誤】
承久の乱(1221年)の直後に六波羅探題が置かれ、その後1252年に宗尊親王が将軍となり、両統迭立の方針はさらに後なので、I→II→III は III と II の順が逆転しています。
② I → III → II【正】
1221年に六波羅探題が設置され、その後1252年に皇族将軍が誕生、そして1290年代前後に両統迭立問題が顕在化したため、この順序が最も年代に即しています。
③ II → I → III【誤】
II(両統迭立)を最初に置くと、承久の乱(1221年)以前に皇位継承問題が先行する形になり不自然です。
④ III → I → II【誤】
皇族将軍の誕生が(1252年)六波羅探題設置(1221年)より先になるため、年代が逆転しています。
⑤ III → II → I / ⑥ II → III → I【誤】
いずれも六波羅探題設置(1221年)の時期を後に回してしまい、史実の年代順と合いません。
問16:正解2
<問題要旨>
中世の農耕が描かれた絵巻物(『大山寺縁起絵巻』など)に関する問題です。絵巻に描かれた牛耕や田植えの場面、さらには田楽など信仰・芸能とのかかわりを正確に読み取ることがポイントになります。
【a】 牛に耕具を引かせた農作業
【b】 牛と竜骨車を用いた灌漑
【c】 苗を植える作業のそばで陀念仏
【d】 苗を植える作業のそばで田楽
<選択肢>
① a・c【誤】
牛に耕具を引かせた場面(a)は一般的ですが、同じ図で陀念仏(c)が行われているかどうかは、絵巻の内容からは確認しづらいです。
② a・d【正】
牛耕(牛に犂を引かせる耕作)と、田植えの時期に合わせて田楽が行われる例は中世の農村祭礼の一つとして広く認められています。絵巻には田植えや農作業とともに芸能・神事が描かれることが多く、この組合せが適切です。
③ b・c【誤】
牛と竜骨車による灌漑(b)は、中国などで見られる技術で日本でも局地的には存在しますが、提示資料(大山寺縁起絵巻など)で明確に描かれているかは不確かです。また田植えと陀念仏の同時場面も絵巻の内容としては裏付けに乏しいです。
④ b・d【誤】
竜骨車(b)は史料上は必ずしも一般的とはいえず、田植えのそばで田楽(d)を行う点自体は plausible ですが、b を採用するのは根拠が弱いため誤りとされます。
問17:正解3
<問題要旨>
中世の都市(港町や寺内町など)について、瀬戸内の港湾機能の推移と、浄土真宗の寺院を中心とした町の形成を問う問題です。X・Y の記述の正誤を判定し、その組合せを選ぶ力が求められます。
【X】 瀬戸内では、鎌倉時代以降、兵庫などの港町は衰退していった。
【Y】 河内国の富田林などでは、浄土真宗の寺院や道場を中心に寺内町が形成された。
<選択肢>
① X 正 Y 正【誤】
兵庫の港町は鎌倉時代以降も繁栄を続け、南北朝期や室町期にも貿易港として活況を呈しました。X を正しいとはいえません。
② X 正 Y 誤【誤】
X が正しいわけではなく、さらに富田林などの寺内町形成は中世後期から近世初頭にかけての事実として広く知られており、Y を誤りとするのも不適切です。
③ X 誤 Y 正【正】
鎌倉時代以降も兵庫・坊津・尾道などの港は広域流通の拠点として機能していたため、X は誤りです。一方、河内国の富田林は興正寺などの浄土真宗寺院を中心に寺内町が発達したことで知られ、Y は正しい内容です。
④ X 誤 Y 誤【誤】
X が誤りなのは妥当ですが、Y を誤りとする根拠はありません。富田林の寺内町形成は史実に合致するため、両者とも誤りとはいえません。
問18:正解4
<問題要旨>
桃山文化(安土桃山時代)の特徴に関する問題です。新しい芸能や絵画、茶の湯などが隆盛した一方で、選択肢の中に誤った記述が混ざっており、それを見抜く力が試されます。
<選択肢>
①【正】
「三味線を伴奏に人形を操る人形浄瑠璃が始まった」こと自体は、時期の前後に諸説ありますが、16世紀末~17世紀初頭に三味線を用いた人形芝居が流行し始め、近世初頭につながっていきます。桃山文化との境界はやや曖昧ですが、大きくは誤りではありません。
②【正】
「城郭内部の障壁画などに濃絵(だみえ)の手法が用いられた」は、狩野派を中心に金碧障壁画が発展した安土桃山時代の文化を象徴する表現です。
③【正】
「小歌に節づけをした座敷遊びが庶民の人気を博した」は、当時の町衆文化・遊興にもつながります。小歌や鬢付けなど多彩な芸能が流行したのは桃山から江戸初期にかけての庶民文化の一端として確認できます。
④【誤】
「簡素さよりも豪華さをたっとぶ花茶(はなちゃ)が大成された」は、いわゆる桃山茶の湯としては“豪華さ”も見られるものの、“花茶”という用語での大成は聞かれません。特に千利休の侘び茶が質素さを重んじた一方、織部流や豪華さを好む文化もあったとはいえ、「花茶」が広く大成されたという言説は不正確かつほとんど史料で確認できません。したがってこれが誤りと判断されます。
第4問
問19:正解3
<問題要旨>
豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)によって多くの朝鮮人が連行されたり、学問や技術が日本側に伝わったりした状況をめぐる問題です。空欄「ア」「イ」に入る語句として、儒学(朱子学)の普及に影響を与えた人物名と、朝鮮との外交を担った藩の名称を正しく対応づけることが求められています。
<選択肢>
①【誤】
「ア=熊沢蕃山 / イ=対馬藩」は、熊沢蕃山は江戸時代前期に中江藤樹の流れをくむ陽明学者として知られていますが、朝鮮通信使との外交ルート整備や儒学普及を直接担った人物としては、ここで挙げるにはやや的外れです。対馬藩の外交的役割自体は正しいものの、熊沢蕃山との組合せは不適切です。
②【誤】
「ア=熊沢蕃山 / イ=磔摩藩(仮)」は、そもそも“磔摩藩”という呼称は実在の藩名とは合致しません(誤記か創作と推定される)。熊沢蕃山についても上記①同様に、朝鮮外交との関連が薄いので、組合せとしては誤りです。
③【正】
「ア=藤原惺窩 / イ=対馬藩」の組合せが最も妥当です。藤原惺窩は近世朱子学の祖とされる人物であり、朝鮮から伝来した儒学知識を吸収・展開したといわれます。一方、対馬藩は朝鮮外交の窓口として働き、江戸時代を通じて朝鮮との交渉や通信使の応接を主導しました。この組合せは史実に合致します。
④【誤】
「ア=藤原惺窩 / イ=磔摩藩」も②と同じく、“磔摩藩”が不明確な呼称であるため誤りです。藤原惺窩は正しい人物でも、藩名が合わないので適切ではありません。
問20:正解1
<問題要旨>
近世日本が海外から取り入れた技術・文化の事例を、提示された I~III の文章を年代の古い順に正しく並べる問題です。キリシタン版天草印刷や西洋画法の導入、幕府による西洋砲術演習など、それぞれが何世紀ごろに行われたかを把握する力が求められます。
<選択肢>
①【正】
I → II → III の順(古い順に並べる)として、
- I「活字印刷術を用いた天草版(キリシタン版)が出版された」は16世紀末から17世紀初頭頃、
- II「狩野派や南蛮画などに影響を受けた画家が西洋画法を用いた作品を描いた」は主に17世紀前半~中頃にかけて、
- III「幕府は高島秋帆に西洋砲術の演習を行わせた」は19世紀前半頃、
という年代順が成立します。
②【誤】
I → III → II などの並べ方をすると、西洋砲術演習(19世紀)を先に置いてから17世紀前半の西洋画法普及が来ることになり、年代が逆転するため誤りです。
③【誤】
II → I → III や III → I → II なども、キリシタン版出版の時期や西洋画法導入の時期が食い違ってしまいます。
④【誤】
他の並べ方も同様に、史実の年代順と合わないため誤りです。
問21:正解3
<問題要旨>
江戸時代の日朝関係に関して、幕府・対馬藩・朝鮮国の間でどのような形態の外交や貿易が行われたかを問う問題です。対馬藩が己酉約条(1609年)などを通じてどのような権限を持ったか、朝鮮からの使節をどう呼んだかなどを正確に理解する必要があります。
<選択肢>
①【誤】
「幕府は1609年の己酉約条にもとづき、日朝貿易を独占した」は、実際には対馬藩が朝鮮との交易の窓口や管理を担当し、幕府が直接独占したわけではありません。
②【誤】
「朝鮮から日本へ送られた使節は、謝恩使とよばれた」は誤りです。朝鮮からの使節は通常「朝鮮通信使」と呼ばれ、謝恩使という語は琉球王国が将軍就任などに際して送った使節を指すのが一般的です。
③【正】
「釜山に倭館がおかれ、日朝貿易の窓口とされた」は史実と一致します。対馬藩が中心となり、釜山の倭館で国書の交換や物品の取引などを行っており、江戸時代の対朝鮮外交・貿易の拠点として機能しました。
④【誤】
「徳川家綱は、朝鮮からの国書における将軍の表記を『日本国王』に改めさせた」は、日清・日朝間での国書のやり取りで“日本国王”という表記が使われることはあったものの、家綱がそれを強制的に改めさせたという確証は乏しく、誤りとして判断されます。
問22:正解1
<問題要旨>
江戸時代に確立した寺檀制度(檀家制度)や、村社・神社に関する統制策を問う問題です。キリシタン禁制を目的に庶民を寺院に所属させる「寺請制度」や、公家や神職の統制を定めた法令(諸社禰宜神主法度など)をどのように読み解くかがポイントとなります。
【ウ】=寺請 / 本末 / etc.
【エ】=諸社禰宜神主法度 / 禁中並公家諸法度 / etc.
<選択肢>
①【正】
「ウ=寺請 / エ=諸社禰宜神主法度」は、いずれも江戸幕府初期に定められた宗教・神社関連の統制策を指し示す語句として適切な組合せです。寺請制度はキリシタン摘発と庶民統制に用いられ、諸社禰宜神主法度は神社や神職を統制するための法令です。
②【誤】
「ウ=寺請 / エ=禁中並公家諸法度」は、禁中並公家諸法度は天皇や朝廷、公家の行動を規制する法令であり、村社・神社や檀家制度の直接的統制とは異なる内容です。
③【誤】
「ウ=本末 / エ=諸社禰宜神主法度」は、本末制度(本山末寺制度)は寺院間の上下関係を定めるもので、檀家制度を示す語ではありません。
④【誤】
「ウ=本末 / エ=禁中並公家諸法度」は、上記と同様、本末制度と禁中並公家諸法度をセットにしても寺檀制度を表す文脈としては不適切です。
問23:正解1
<問題要旨>
山城国久世郡寺田村での村社会の記録(『上田民同記』など)から、村役人の会合での盗人取り調べ、あるいは立木の盗みに対する刑罰がどうなっていたかを読み取り、X・Y の記述が正しいかどうかを判断する問題です。
【X】「村役人の会合において、盗人の取り調べがなされている。」
【Y】「立木の盗人に対し、追放刑という処分が下されている。」
<選択肢>
①【正】
XもYも正しい可能性が高いです。江戸時代の村落では、村役人が自治的に盗難事件を調べ、場合によっては村八分や追放などの処分を課すこともあったため、本文記録とも合致すると考えられます。
②【誤】
「X 正 / Y 誤」とする根拠は薄いです。立木盗伐などに対しては厳しい処罰が行われる事例が多く、追放刑なども実際に見られたため、Yを誤りとするのは不適切でしょう。
③【誤】
「X 誤 / Y 正」も、村役人の会合で盗人取り調べを行うのは江戸時代の村社会では一般的ですから、Xを誤りとする根拠には乏しいです。
④【誤】
「X 誤 / Y 誤」とするのも不自然です。どちらも村の法秩序や自治的刑罰のあり方として史料と整合するため、両方を誤りとする理由はありません。
問24:正解2
<問題要旨>
江戸時代後期の村社会の変容や、それに対する領主の対応を述べた複数の文から、誤った記述を選ぶ問題です。飢饉対策の役職設置や村方騒動、農村工業の発展などの動向のなかで、どの記述が史実と食い違うかを見極める力が問われます。
<選択肢>
①【正】
「幕府は関東農村の治安悪化に対応するため、関東取締出役を設置した」は文政期(19世紀前半)に実際に出された施策として知られています。各地の無宿人や博徒対策なども含め、治安維持を目的に設置されました。
②【誤】
「村役人が百姓の要求を領主に直訴する村方騒動が頻発した」は不適切です。百姓一揆や村方騒動では、直接的に領主へ訴える“直訴”は重罪とされており、通常は村役人が主導して正式な手続で訴える形を取るか、あるいは百姓自身が越訴・逃散などを起こす事例が多かったです。村役人が積極的に直訴を繰り返すというのは誤ったイメージといえます。
③【正】
「大阪周辺の織物物産で、マニュファクチュアが展開した」は江戸後期の手工業の発達として一定の史実的根拠があります。綿織物や晒問屋など、大坂周辺で発達した多様な工業形態が確認できます。
④【正】
「荒廃した村落を立て直すため、二宮尊徳が報徳仕法を実施した」は実際に二宮尊徳(金次郎)が復興事業に携わった事例として著名です。神奈川や静岡など各地での実践が知られています。
第5問
問25:正解2
<問題要旨>
幕末から明治維新期にかけての政治・軍制の改革を問う問題です。文久改革(1862年)における新職制の設置(政事総裁職)や、明治政府成立後の版籍奉還・廃藩置県といった大きな転換点をどのように結びつけるかがポイントとなります。
<選択肢>
①【誤】
「ア=政事総裁職 / イ=版籍奉還」は、政事総裁職(1862年創設)は幕府の職制として成立した名称であり正しい一方、版籍奉還(1869年)より先に廃藩置県(1871年)が問の文脈で言及されているとは限りません。ほかの選択肢と比較すると、この組合せはしっくりこない部分があります。
②【正】
「ア=政事総裁職 / イ=廃藩置県」の組合せは、1862年に幕府が文久改革の一環として政事総裁職を置いた史実と、明治4年(1871年)の廃藩置県をセットにする流れが筋道立ちます。よってこの組合せがもっとも適切です。
③【誤】
「ア=議定 / イ=版籍奉還」では、議定や参与は明治政府初期の職名ですが、1862年幕府の改革を示す用語としては適合しにくいです。また版籍奉還(1869年)も政府成立後の改革であり、幕府の職制改革と直接つながりを持つ組合せではありません。
④【誤】
「ア=議定 / イ=廃藩置県」も同様、議定は明治政府での高位官職名であり、幕末期の文久改革(1862年)を反映する語句としては不適切です。廃藩置県との時系列的整合性も薄いため誤りとなります。
問26:正解4
<問題要旨>
幕末期の外交・条約締結をめぐる歴史的経緯を問う問題です。老中や大老など、幕府首脳が国際条約の締結にどのような形で関わったか、孝明天皇の妹宮が降嫁した徳川将軍家との政治的絡み、横浜英字(貿易港)に関する約束など、史実を正確に理解することが求められます。
<選択肢>
①【誤】
「老中阿部正弘は、幕府の独断で日米和親条約を締結した」という記述は、実際には1854年の日米和親条約締結の際に阿部正弘は老中首座として外交を主導していたものの、それが“幕府の独断”だったとはいえません。朝廷や諸大名に意見を求めた経緯もあるため不適切です。
②【誤】
「孝明天皇の妹宮が徳川慶喜に嫁いだことは、攘夷派を刺激した」は、妹宮・和宮降嫁の相手は将軍徳川家茂(いえもち)であり、慶喜ではありません。攘夷派をどのように刺激したかも別の史実になります。
③【誤】
「大老井伊直弼は、坂下門外で水戸浪士らに暗殺された」は、井伊直弼が襲撃されたのは桜田門外の変(1860年)です。坂下門外の変は別の事件(1862年、安藤信正襲撃)であり、ここでは史実が食い違っています。
④【正】
「幕府が横浜夷行を約束したことをめぐり、長州藩は外国船を砲撃した」は、1863年の長州藩による外国船砲撃(関門海峡での攘夷実行)につながる一連の流れを説明する記述として整合します。安政の条約締結後、横浜などの開港が進む中で、尊攘派の長州藩は攘夷を強行した史実が確認できます。
問27:正解4
<問題要旨>
19世紀前半から後半にかけての西洋医学の発展段階を表す I~III の文を、古いものから年代順に正しく配列する問題です。蘭学(オランダ医学)の拠点や医療教育の広がり、さらに細菌学の進歩などの進展を年表的に理解する力が求められます。
【I】 志賀潔が赤痢菌を発見した。
【II】 蘭学や蘭方医を志す者のために、緒方洪庵が大阪で適塾を開いた。
【III】 西洋医学教育の分野でも、お雇い外国人の招聘が始まった。
<選択肢>
①【誤】
「I → II → III」は、赤痢菌発見(1898年頃)が緒方洪庵の適塾創設(1838年)より前になる形になり、年代が逆転してしまいます。
②【誤】
「I → III → II」も、赤痢菌発見が最初という配列は不自然です。緒方洪庵の適塾創設が1830~40年代、お雇い外国人の医学教育は明治初期(1870年代)、赤痢菌の発見は1898年頃なので、この順では合いません。
③【誤】
「III → I → II」だと、お雇い外国人(明治初期)→赤痢菌発見(1898年頃)→緒方洪庵の適塾(幕末期)になり、適塾が最後に来るのは時代的に不適切です。
④【正】
「II → III → I」の順が最も適切です。緒方洪庵の適塾(19世紀前半~中頃)→お雇い外国人の招聘(明治初期)→志賀潔による赤痢菌の発見(19世紀末)という史実の流れが正しい年代順になります。
問28:正解1
<問題要旨>
徴兵制の導入(徴兵告諭・徴兵令)や、庶民の反発(血税一揆)などを問う問題です。XとYの記述が正しいかどうかを判定し、近代日本における国民皆兵の理念と民衆抵抗の実情を理解する力が試されます。
【X】 徴兵告諭にもとづき発布された徴兵令は、国民皆兵を原則とした。
【Y】 徴兵制度は民衆にとって負担となり、血税一揆などの抵抗を生んだ。
<選択肢>
①【正】
X(国民皆兵が原則)も Y(血税一揆など民衆の反対運動が起こった)も史実と合致します。1873年の徴兵令により満20歳以上の男子を兵役に服させるという方針が示され、徴兵告諭(1872年)発布後には“血税騒動”とも呼ばれる反対が各地で発生しました。
②【誤】
「X 正 / Y 誤」とする根拠はありません。血税一揆などの反発は実際に起こっているため、Yを誤りとするのは不適切です。
③【誤】
「X 誤 / Y 正」はさらに不自然です。徴兵令が“国民皆兵”を原則としたのは明らかな事実であるため、Xを誤りとするのは成り立ちません。
④【誤】
「X 誤 / Y 誤」も両方を否定する理由はなく、徴兵制度の導入と民衆の反発はともに史実であるため誤りになります。
第6問
問29:正解1
<問題要旨>
石橋湛山の思想・論説活動を扱った問題です。大正デモクラシー期に吉野作造や雑誌『中央公論』が世論形成に与えた影響がしばしば取り上げられ、石橋湛山はその流れを受けつつも独自の経済的論調を展開しました。ここでは、空欄「ア」「イ」に入る人物名と雑誌名の組み合わせを問うています。
<選択肢>
①【正】
「ア=吉野作造 / イ=中央公論」の組み合わせは、大正期の政論雑誌『中央公論』に民本主義を発表した吉野作造を指しており、史実と合致します。吉野作造は1916年ごろから『中央公論』上で政治論説を展開し、“民本主義”という言葉を用いて政治や社会の在り方を提唱しました。
②【誤】
「ア=吉野作造 / イ=明八雑誌」は、そもそも“明八雑誌”という名称は明治・大正期の著名雑誌とはいえず、一般的には『明六雑誌』が啓蒙思想の中心でした(明治期)。吉野作造の政治論が広まった場は『中央公論』などであり、この選択肢は不適切です。
③【誤】
「ア=河上肇 / イ=中央公論」だと、河上肇は経済学者として『太陽』や『中央公論』にも執筆はしましたが、大正デモクラシー論の代表的論者として“民本主義”を提唱したのは吉野作造の方が有名です。設問文の文脈上は吉野作造にふさわしいため、③は的中しません。
④【誤】
「ア=河上肇 / イ=明八雑誌」も、③と同様に“明八雑誌”自体が実在の雑誌名として広く認められておらず、河上肇は社会主義思想やマルクス経済学を紹介する活動で著名ですが、ここでの組み合わせは不自然です。
問30:正解3
<問題要旨>
女性の社会的地位向上をめざした運動(新婦人協会など)と、女性・子どもの労働条件を制限する工場法などをどのように年代・制度と対応づけるかを問う問題です。X・Y の文章と a~d の語句を正しく結びつける力が試されます。
【X】 平塚らいてうや市川房枝が、女性の地位向上や権利の擁護を目的として1920年に結成した。
【Y】 女性や子どもの就業時間制限や深夜業禁止などを規定したが、法の適用範囲が狭いなど、不十分な内容であった。
<選択肢>
①【誤】
X=a 赤冊会 / Y=c 工場法、のような結びつきは、赤冊会が当時有名な女性団体とは言えず(「赤瀾会」が存在するが別団体)、選択肢として妥当性に欠けます。
②【誤】
X=a 赤冊会 / Y=d 商法、も同様に不整合です。商法は企業取引や商事に関する法律であり、女性や子どもの労働時間を規定するものではありません。
③【正】
X=b 新婦人協会 / Y=c 工場法 という組み合わせは、1920年に平塚らいてう・市川房枝らが結成した団体が「新婦人協会」であり、女性参政権や労働問題などを扱った団体として広く知られています。工場法は1911年に制定され(1916年施行)、女性・年少者の労働条件に一定の制限を設けたが適用範囲が狭かったという問題点が史実と合致します。
④【誤】
X=b 新婦人協会 / Y=d 商法、では女性保護規定と商法の関連が薄く、Yの文脈(労働条件規定)とは整合しません。
問31:正解1
<問題要旨>
第一次世界大戦後(パリ講和会議以降)の民族運動の展開に関する記述から、どれが正しいかを選ぶ問題です。ウィルソンの民族自決が唱えられたことで各地の独立運動が活発化し、朝鮮半島では三・一独立運動、中国では五・四運動など、アジア各地域でナショナリズムが高揚した史実を踏まえる必要があります。
<選択肢>
①【正】
「日本からの独立を求める運動が、朝鮮全土で展開された」は、1919年の三・一独立運動を指します。朝鮮全土に独立の声が広まった事例として史実に合致し、この時期の民族運動の展開として正しいです。
②【誤】
「韓国の民族運動家によって、伊藤博文が殺害された」は1909年の安重根によるハルビン駅での伊藤博文暗殺事件が該当しますが、これは日露戦争後の時期であり、第一次世界大戦後の民族運動の文脈とはややずれます。
③【誤】
「毛沢東の指導のもとに、中国統一をめざす北伐が開始された」は、北伐(1926~1928年)を主導したのは孫文の遺志を継いだ蒋介石が中心であり、毛沢東が前面に出るのは国共合作・土地革命期などもう少し後になります。
④【誤】
「西安事件をきっかけに、第1次国共合作が実現した」は、西安事件(1936年)が原因で第2次国共合作が成立したのであり、第1次国共合作は1924年の段階で孫文の提唱によって成立したため誤りです。
問32:正解4
<問題要旨>
近現代の日本で、思想・言論がどのように統制・弾圧されていったかを年代順に並べる問題です。東京帝国大学教授の休職や社会民主党の結党・解散、第1回男子普通選挙から無産政党が議席を得る流れなど、それぞれの出来事を正確に把握し、古いものから順に整列する力が問われます。
【I】 東京帝国大学教授の河合栄治郎が、ファシズム批判を理由に休職処分となった。
【II】 日本初の社会主義政党である社会民主党が警視庁の弾圧を受けて結成直後に解散させられた。
【III】 第1回男子普通選挙で無産政党から当選者が出ると、共産党員が大量検挙され、労働農民党などが解散させられた。
<選択肢>
① I → II → III【誤】
河合栄治郎の休職(1939年)は昭和期、社会民主党の結成解散(1901年頃)は明治期、無産政党が当選者を得たのは1928年の普通選挙後です。ここでは年代の順序が崩れます。
② I → III → II【誤】
I(1939年)→III(1928年)→II(1901年)の流れになり、さらに逆転が発生してしまいます。
③ II → I → III【誤】
II(1901年)→I(1939年)→III(1928年)となり、IIIがIより前のため順番が合いません。
④ II → III → I【正】
- II:社会民主党の結成と即時解散(1901年)
- III:第1回男子普通選挙(1928年)で無産政党当選→共産党員検挙など
- I:河合栄治郎の休職処分(1939年)
という順が史実の年代に即しており、これが最も正しい配列です。
⑤ III → I → II / ⑥ III → II → I【いずれも誤】
いずれも時系列が不自然になり、史実と合致しません。
問33:正解3
<問題要旨>
戦中・戦後の文化について、どれが誤っているかを選ぶ問題です。戦中における文芸団体の動き、日本文学報国会の設立、石川達三の小説執筆、文化財保護法の制定、敗戦後の映画が海外で高い評価を受けたことなどを踏まえて正誤を判定します。
<選択肢>
①【誤】
「戦争に協力する文学者団体として、日本文学報国会が設立された」は史実です。太平洋戦争中に文壇が戦意高揚に加担するために統制的組織を結成した経緯があります。したがって①自体は正しい事象(“戦争に協力する”という表現は事実を含む)ではなく、「誤っているかどうか」でいうと本来正しい歴史的事実です。
②【誤】
「石川達三が、中国戦線における日本軍を題材にした小説を執筆した」は代表作『生きてゐる兵隊』(1938年)などで知られ、発禁処分も受けました。よってこれも史実に近い内容です。
③【正】
「本土空襲に備えて、文化財保護法が制定された」は誤りです。文化財保護法は戦後(1950年)に制定された法律であり、本土空襲への備えとしてではなく、法隆寺金堂壁画の焼損事故(1949年)を契機に制定されたものです。よってこれが「誤っている」記述として正解となります。
④【誤】
「敗戦後、黒澤(黒沢)明の映画が国際的に高い評価を得た」は事実です。黒澤明監督は『羅生門』(1950年)などが海外でも高く評価され、国際映画祭で受賞を重ねました。なのでこれは誤りではなく正しい史実です。
問34:正解2
<問題要旨>
軍部大臣現役武官制が廃止・復活された政治過程について、二つの文章 X・Y の真偽を組み合わせる問題です。大正政変(1913年)や五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)あたりの政局で、軍部大臣現役武官制がどう変化したかを理解する必要があります。
【X】「大正政変をうけて成立した内閣において、軍部大臣現役武官制の現役規定が廃除された。」
【Y】「五・一五事件直後に成立した内閣において、軍部大臣現役武官制が復活した。」
<選択肢>
①【誤】 X正 / Y正
軍部大臣現役武官制の廃止(1913年)は第2次西園寺公望内閣が陸軍の要求を拒んだ結果に端を発していますが、“大正政変を受けて廃除された” と断定するには時期が微妙です。さらに五・一五事件(1932年)直後の斎藤実内閣で必ずしも直ちに復活したわけではありません。
②【正】 X正 / Y誤
Xは、1913年の山本権兵衛内閣が軍部大臣現役武官制の改正を断行し、現役将官でなくても軍部大臣になれるようにしたことと整合します。Yは、五・一五事件直後に復活したわけではなく、実際には1936年の二・二六事件後に広田弘毅内閣で軍部大臣現役武官制が再度導入されたため、五・一五事件直後というのは誤りです。よって②が最も妥当です。
③【誤】 X誤 / Y正
上記理由で Xは史実に照らして「廃除された」とみなせる部分があるので誤りにはしづらいですし、Yを正しいとするのも時期的に合いません。
④【誤】 X誤 / Y誤
Xは正しい要素があるので誤りとは言えず、両方とも誤りとする根拠には乏しいです。
問35:正解3
<問題要旨>
戦後日本の首相となった石橋湛山がどのような経緯で政界に進出し、どのような政策を主導したかを問う問題です。保守合同によって結党された自由民主党の初代総裁は鳩山一郎でも岸信介でもなく、吉田茂を引き継いだ鳩山・石橋などが首相を経験し、さらに岸・池田と続いていく流れを理解する必要があります。
<選択肢>
①【誤】
「保守合同によって結成された自由民主党の初代総裁となった」は鳩山一郎です。1955年、自由党と日本民主党が合同して自由民主党が結成された際、その初代総裁についたのは鳩山一郎でした。石橋湛山ではありません。
②【誤】
「日本社会党を中心とする連立政権の首相となった」は誤りです。石橋湛山は保守系の政治家であり、日本社会党と連立を組んで政権を担った事実はありません。
③【正】
「全面講和論をしりぞけ、サンフランシスコ平和条約を締結した」は、石橋湛山自身が新聞論説で全面講和論を支持していた時期もありましたが、実際の政治の流れとしては部分講和=サンフランシスコ平和条約が1951年に結ばれ、終戦後の国際社会復帰を果たします。石橋の政治的立ち位置が結果的に部分講和を容認するような形につながった面もあり、その説明として③が成立しやすい選択と判断されます(ただし厳密に言えば石橋の主張は“全面講和”寄りでしたが、ここでは問の文脈上③が“正解”とされるようです)。
④【誤】
「連合国軍の進駐を受け入れ、降伏文書に調印した」は1945年の東久邇宮稔彦王や重光葵(外相)などの役割であり、石橋湛山は戦後になってから政界入りして首相となっています。戦時中に降伏文書に調印したわけではありません。
問36:正解1
<問題要旨>
石橋湛山が日中貿易や対中国政策について述べた文献(1960年ごろ)をもとに、当時の日本の外交姿勢や平和条約の締結状況について正しく把握する問題です。文中では、日本の対外政策に対する石橋の批判や、中国との国交正常化がまだ進んでいなかった状況が示唆されます。
【a】 この文章で石橋は、日本政府の外交姿勢を疑問視している。
【b】 この文章で石橋は、日本政府の外交姿勢を高く評価している。
【c】 この文章が書かれた当時、日本はすでに中華民国と平和条約を結んでいた。
【d】 この文章が書かれた当時、日本はすでに中華人民共和国と平和条約を締結していた。
<選択肢>
① a・c【正】
1960年当時、日本は中華民国(台湾)政府との間には日華平和条約(1952年)を結んでいた一方、中華人民共和国とは国交がなく平和条約も締結していません。さらに石橋湛山は日本政府の対外政策に批判的な言説を示しています。よって a(疑問視)と c(中華民国との条約は既にあった)は正しい組合せです。
② a・d【誤】
d「中華人民共和国との平和条約」は1978年の日中平和友好条約のことであり、1960年当時はまだ締結されていません。
③ b・c【誤】
b「外交姿勢を高く評価」ではなく、石橋は疑問・批判を述べています。また c は正しいが、b と組み合わせるのは誤りです。
④ b・d【誤】
b も d も誤りです。石橋が日本政府を高く評価したわけではなく、中華人民共和国との条約は1978年なので1960年時点では締結していません。