解答
解説
第1問
問1:正解4
<問題要旨>
奈良時代に編纂された書物や、沖縄の地名に見られるグスク(城)など、各地域の地名の由来を問う問題です。地名の由来を記した文献や、琉球地方の地方豪族(首長)に関わる呼称などが選択肢に挙げられ、組み合わせを判断します。
<選択肢>
①【誤】X=a「万葉集」、Y=c「在庁官人」の組み合わせ。『万葉集』は奈良時代前後の歌集であり、地名の由来をまとめた地誌的書物とは性格が異なるうえ、「在庁官人」は地方行政に携わる中世の官人を指すため、沖縄のグスクの由来とは結びつきにくいです。
②【誤】X=a「万葉集」、Y=d「按司」の組み合わせ。『万葉集』は上記の通り和歌集であり、地名の起源を解説したものではありません。沖縄の首長を指す「按司(あじ)」は琉球の地方豪族を意味しますが、XとYを同時に正しく説明する組み合わせには当たりません。
③【誤】X=b「風土記」、Y=c「在庁官人」の組み合わせ。『風土記』は奈良時代に地方の産物や地名の由来などをまとめた地誌でありXとして適切ですが、沖縄の地名に残るグスクは琉球の地方支配層である「按司(あじ)」と深く関わるので、Y=c「在庁官人」はそぐわないです。
④【正】X=b「風土記」、Y=d「按司」の組み合わせ。『風土記』は奈良時代に編纂が命じられた地誌的書物で、各地域の地名の由来も記載されます。一方の「按司」は沖縄地方の地方豪族(首長)を指し、グスク(城)の由来にも深く関わります。したがって、X・Y双方とも正しく対応するのはこの組み合わせです。
問2:正解4
<問題要旨>
古代から近代までの貨幣の推移に関する問題です。飛鳥・奈良期の鋳造銭貨から中世・近世の通貨政策、近代以降の管理通貨制度への移行など、各時代の貨幣に関する記述が正しいかどうかを問います。
<選択肢>
①【誤】「飛鳥時代には日本最初の鋳造銅銭(銅銭)として和同開珎がつくられた」という趣旨。和同開珎(708年)は確かに日本で広く流通した鋳造銭の代表例ですが、飛鳥時代ではなく奈良時代初期にあたります。また、それ以前に富本銭の鋳造が行われていた可能性も指摘されるなど、時代区分が正確とはいえません。
②【誤】「鎌倉時代に幕府が金座・銀座・銭座を設け、貨幣を発行した」という趣旨。金銀の取り扱いは室町時代や戦国期にも見られますが、幕府が座を明確に整備し貨幣鋳造を本格化したのは主に江戸幕府の政策であり、鎌倉時代に金座・銀座・銭座が整備されて貨幣を発行したというのは誤りに近いです。
③【誤】「江戸時代に幕府が中国から寛永通宝を輸入し、全国へ流通させた」という趣旨。寛永通宝は江戸幕府が日本国内で鋳造した貨幣です。中国銭(明銭や宋銭など)の輸入は中世に盛んでしたが、寛永通宝を中国から輸入したわけではありません。
④【正】「昭和期には、高橋是清蔵相のもとで日本は管理通貨制度に移行した」という趣旨。高橋是清が大蔵大臣を務めた1930年代に金本位制を離脱し、円の管理通貨制度へ移行したのは史実として正しい流れです。
問3:正解2
<問題要旨>
平安時代に入唐した遣唐使の史料について、帰国の航海や新羅人の訳語官・船乗りなどをどう配置したかという記述が正しいかどうかを問う問題です。二つの文(X・Y)の正誤を組み合わせて答えます。
<選択肢>
(設問文の形式より:①X正Y正、②X正Y誤、③X誤Y正、④X誤Y誤)
①【誤】XもYも正しいとする説。
②【正】X=正、Y=誤。Xでは「帰国の航海のために、日本人の官人・水夫を各船に配置し、さらに新羅人の熟練船乗りを雇用していた」という趣旨が読み取れます。遣唐使は危険な海を航行しなければならなかったため、様々な人材を乗せたことが記録に見られます。これは史実としても裏付けがあります。一方Yで「新羅人の通訳が随行しており、円仁が唐に留め置かれる計画を密かに進めている」などの表現は史料上は確認しにくく、そのような秘匿計画があったとまでは明言されていません。
③【誤】X=誤、Y=正。
④【誤】X=誤、Y=誤。
問4:正解2
<問題要旨>
近代の日本とロシアの国境策定、または北海道・千島・樺太をめぐる条約と、近代以降のアイヌ政策を関連づける問題です。二つの空欄(アとイ)にそれぞれ対応する条約・法律の組み合わせを問います。
<選択肢>
①【誤】「ア=樺太・千島交換条約、イ=自作農創設特別措置法」の組み合わせ。アは日露間で樺太・千島をめぐって締結された条約として正しいですが、イに自作農創設特別措置法は戦後期の農地改革関連法であり、アイヌ保護との直接的な関係が薄いです。
②【正】「ア=樺太・千島交換条約、イ=北海道旧土人保護法」の組み合わせ。アは1875年に締結された日露間の国境画定条約であり、イは1899年に制定されたアイヌ(当時の法令用語では「旧土人」)に対する同化政策的な法律です。二つの時代背景が対応します。
③【誤】「ア=日露和親条約、イ=自作農創設特別措置法」。日露和親条約(1855)は幕末に締結された国境画定の初期条約で、千島交換条約よりも時期が早いです。また、イの自作農創設特別措置法も②と同様にアイヌ政策とは直接結びつきにくいです。
④【誤】「ア=日露和親条約、イ=北海道旧土人保護法」の組み合わせ。アが1855年の条約で、イが1899年の法律という点で年代的には大きくかけ離れているわけではありませんが、樺太・千島の交換が重要視される文脈とは異なり、樺太・千島交換条約が空欄に入る方が問題文の流れに合致します。
問5:正解5
<問題要旨>
主にアイヌと和人(日本人)の関わりやロシア勢力の南下など、北海道・蝦夷地をめぐる歴史的展開を時系列で整理する問題です。選択肢の文I~IIIを、古い順から正しい順に並べます。
<選択肢>
(I)「松前氏(蠣崎氏)がアイヌとの交易の独占権を幕府から認められた」
(II)「ロシアの極東進出・南下への対応として、幕府による蝦夷地の探検・調査が進められた」
(III)「蝦夷ヶ島の南端に和人が進出し、館(たて)と呼ばれる拠点が成立、コシャマインが蜂起」
並べ方:①I→II→III、②I→III→II、③II→I→III、④II→III→I、⑤III→I→II、⑥III→II→I
①【誤】I→II→III の順。
②【誤】I→III→II の順。
③【誤】II→I→III の順。
④【誤】II→III→I の順。
⑤【正】III→I→II の順。まず15世紀後半頃にコシャマインの蜂起(III)が起き、その後江戸初期に松前氏がアイヌとの交易独占権を幕府から公認され(I)、さらに18世紀末から19世紀にかけてロシアの南下に対応して蝦夷地探検・調査が本格化(II)という流れが一般的な理解です。
⑥【誤】III→II→I の順。IIのロシア南下対応はIの松前氏独占権承認よりも後の時期にあたるため、この並び替えは史実と合いません。
問6:正解3
<問題要旨>
近代以降の人々の権利に関して、労働者や被差別部落の人々による社会的差別の撤廃運動などを挙げながら、その担い手となる人物や団体の結成時期・活動内容を問う問題です。文X・Yの正誤と、それぞれに対応する人物・団体を組み合わせます。
<選択肢(例:a永井荷風、b徳永直、c全国水平社、d平民社)>
①【誤】X=a、Y=c。永井荷風は主に耽美的な文筆活動で知られ、労働闘争を描いた『太陽のない街』とは無縁です。
②【誤】X=a、Y=d。a「永井荷風」、d「平民社」(幸徳秋水らによる社会主義運動の団体)などの組み合わせだと、『太陽のない街』を著した人物や、1922年創立の被差別部落解放団体と合致しません。
③【正】X=b「徳永直」、Y=c「全国水平社」。徳永直は小説『太陽のない街』(1929年)などで労働運動を題材に描きました。一方、全国水平社は1922年、被差別部落の人々自身が社会的差別を撤廃することを目指して結成した団体です。この両者の組み合わせは史実的に合致します。
④【誤】X=b、Y=d。平民社は幸徳秋水が中心となった社会主義系の団体であり、被差別部落解放運動の全国水平社とは直接結びつきません。
第2問
問7:正解2
<問題要旨>
「下線部①と最も関係が深い出来事」に関する設問です。文中で示唆されている古代の外交関係や金印などの歴史資料を手がかりとして、倭が中国王朝へ使者を送った事例がどれに当たるかを判断する問題となっています。
<選択肢>
①【誤】「侵入社会は百余国に分かれ、前漢の楽浪郡に定期的に使者を送った」という趣旨。実際に楽浪郡との交流は考えられますが、金印の話題などと直接結び付けるにはやや無理があります。
②【正】「倭の奴国の王が後漢の皇帝に使者を送った」という趣旨。光武帝から印綬(漢委奴国王印)を授かったという史料(『後漢書』など)と整合し、金印との結び付きも明確です。
③【誤】「卑弥呼が魏の皇帝に使者を送った」という趣旨。確かに卑弥呼は三世紀に魏との外交関係を築きましたが、ここで問題文の下線部①(金印との関係など)と直接かかわるのは、後漢から受けた印綬に関する記録の方が筋道が通ります。
④【誤】「壱与が晋の皇帝に使者を送った」という趣旨。壱与(台与)は卑弥呼の後継者とされる人物ですが、金印との直接的なつながりという点では、後漢の皇帝から与えられたものではありません。
問8:正解3
<問題要旨>
ヤマト政権期の民衆支配の仕組みに関して、氏姓制度や豪族の私有民(部曲)・部民、あるいは伴造や伴部の仕組みなどが記されている文を読み取り、正しく当てはまる組み合わせを選ぶ問題です。
<選択肢>
(a)ヤマト政権が豪族を派遣して地方を支配 … いわゆる国造の任命に相当
(b)豪族が私有民(部曲)を保有 … 氏族単位で民衆を抱える制度
(c)大王(おおきみ)やその一族に奉仕する集団として、名代・子代 … 王権への奉仕集団
(d)伴造や伴部 … 特定の職能集団として朝廷に仕えた
① a・c【誤】 a は国造制に近いが、c は名代・子代について正しいものの、組み合わせの内容が問題文の全容と整合するか検討が必要。
② a・d【誤】 a は国造に当たるが、d は職能集団の話。他の要素(私有民や名代・子代など)との対応が不足しています。
③ b・c【正】 b は豪族が私有民(部曲)を所有すること、c は大王の一族に奉仕する名代・子代を設置することを指しており、ヤマト政権下の民衆支配の中核的要素になります。
④ b・d【誤】 b は私有民、d は伴造・伴部の話で、こちらも部分的には当てはまる要素がありますが、問題文が取り上げている全体の流れを踏まえると最適な組み合わせとはいえません。
問9:正解1
<問題要旨>
仲麻呂(仲麿)と呼ばれた人物や藤原広嗣の乱など、奈良時代の政治動向を背景に、反乱・失敗・処罰といった歴史事実と、その後に作られた寺院・経典との関係を組み合わせる問題です。X・Yのそれぞれが示す内容と、関係する語句(a~d)を照らし合わせます。
<選択肢>
(X)「仲麻呂の打倒を企てたが失敗して滅ぼされた」
(Y)「仲麻呂の反乱平定後、称徳天皇の発願でつくられ、中に印刷された経典が納められた」
a 橘奈良麻呂
b 藤原広嗣
c 百万塔
d 正倉院宝庫
①【正】X=a、Y=c。Xの「仲麻呂打倒を企てたが失敗」は橘奈良麻呂の変(757年)が該当し、Yの「称徳天皇の発願でつくられた経典が納められた」は「百万塔陀羅尼」で知られる百万塔に当たります。
②【誤】X=a、Y=d。正倉院宝庫は聖武天皇や光明皇后ゆかりの宝物収蔵の施設で、仲麻呂の反乱平定を受けて特別に印刷経典が納められたものとは限定しづらいです。
③【誤】X=b、Y=c。b の藤原広嗣は八世紀中頃の反乱(藤原広嗣の乱・740年)を起こしましたが、「仲麻呂打倒」は別の事件であり混同にあたります。
④【誤】X=b、Y=d。上記と同様の理由で、XもYも該当しにくい組み合わせです。
問10:正解1
<問題要旨>
古代の国司制度や地方行政の仕組み(律令制に基づく国府の設置、郡司の交替監督を厳格に行う勅使など、受領の権限拡大)を、時系列で整理する問題です。文I~IIIを年代順に正しく並べるよう要求されます。
<選択肢>
I 律令制にもとづく地方統治の拠点として、国府が設置されはじめた
II 国司の交替の際、引継ぎを厳しく監督するため、新たに勅解由使が設置された
III 赴任する国司の最上席者が、大きな権限と責任を負い、受領とよばれるようになった
①【正】I→II→III。国府設置 → 勅解由使設置 → 国司の最上席者が受領と呼ばれるようになる、という流れが一般的です。
②【誤】I→III→II。受領の地位確立の方が勅解由使の設置よりも後と考えられるため、順序が合いません。
③【誤】II→I→III。まず国府の設置が先立ち、その後に引継ぎ監督を行う勅解由使が置かれたため、順序が逆転しています。
④【誤】II→III→I など、いずれも時系列的には矛盾が生じます。
⑤【誤】III→I→II。
⑥【誤】III→II→I。
問11:正解2
<問題要旨>
那須国造碑に刻まれた碑文をめぐる史料の記述を読み取り、そこから分かる那須地方の豪族が中国王朝の知識を持っていたか、官僚制や地方行政組織にかかわる事柄が含まれるかを判断する問題です。X・Yの内容が、それぞれ史料から読み取れるかどうかを検証します。
<選択肢>
X「史料からは、那須地方の豪族層に、中国王朝にかかわる知識・情報が知られていたことを読み取ることができる。」
Y「史料からは、大宝律令にもとづく官僚制や地方行政組織を読み取ることができる。」
①【誤】X 正、Y 正。那須国造碑文に、中国王朝の元号表記等があるのは確かですが、同時に大宝律令下の官僚機構や地方行政組織が具体的に記されているかは解釈の余地があります。
②【正】X 正、Y 誤。碑文から豪族が当時の中国王朝の元号を用いていたり、広い知識を有していたことは推察できますが、大宝律令下の地方行政組織を直接的に読み取るのは難しいとされます。
③【誤】X 誤、Y 正。碑文には中国王朝の年号(唐の年号)などが見えるため、Xを誤りとするのは妥当ではありません。
④【誤】X 誤、Y 誤。Xについては少なくとも唐の年号を示すなど、中国知識が含まれている点で正しさが認められます。
問12:正解4
<問題要旨>
平安時代以降の荘園制や公営田・官田(元慶官田)など財源確保策、班田制の変遷、そして課税対象が土地へと移行する流れなどが論点となる問題です。正しい記述と誤った記述を見分ける設問です。
<選択肢>
①【正】「財政が悪化した朝廷は、公営田や官田(元慶官田)を設置して財源確保を図った」という趣旨。平安時代初期から中期にかけて、一定の公営田や官田が立てられたことは史実として知られます。
②【正】「班田収授を励行させるため、班田の期間を12年ごとに改めたが、実施は困難になっていった」という趣旨。班田の実施周期が延長されつつも、次第に形骸化していった過程を指すもので、概ね成立します。
③【正】「開発領主の中には、国司の干渉を避けるため、所領を中央の貴族や寺社に寄進する者もあった」という趣旨。いわゆる寄進地系荘園の成立過程を説明するもので、史実と合致します。
④【誤】「官物や臨時雑役などの税が、土地を対象に課されるようになったことで、戸籍にもとづく支配が強化された」という趣旨。実際には、戸籍に頼るよりも土地支配をめぐる荘園制の広がりにより、国衙の把握する戸籍が形骸化する方向に進むことが多かったとされます。土地課税の比重が増す一方で戸籍支配はむしろ弱体化していった側面もあり、この記述は誤りといえます。
第3問
問13:正解4
<問題要旨>
12世紀末の源平合戦期に東日本で挙兵した源氏の人物(源頼朝ともう1名)と、14世紀末に南北朝の合体が実現するまでの過程で活躍した室町幕府の将軍(足利義満・足利義輝など)をめぐって、どの組合せが史実に合致するかを問う問題です。
<選択肢>
①【誤】ア=「源義家」、イ=「足利義輝」
源義家(八幡太郎)は11世紀の前九年・後三年合戦で活躍した人物で、12世紀末の源平の動乱とは時代が異なります。足利義輝(16世紀中ごろ)も南北朝期より後の将軍であり、この組合せは時代の符合がとれません。
②【誤】ア=「源義家」、イ=「足利義満」
源義家が12世紀末の内乱に関わるのは不自然です。足利義満(14世紀後半の将軍)は南北朝合体に尽力した人物ですが、アとの時代符合が取れないため誤りです。
③【誤】ア=「源義仲」、イ=「足利義輝」
源義仲は平氏打倒の動きの中で活躍した12世紀末の人物で正しい一方、足利義輝は16世紀の室町幕府将軍で、14世紀末の南北朝合体期の人物ではありません。
④【正】ア=「源義仲」、イ=「足利義満」
源義仲は1180年代の源平合戦期に挙兵した人物として筋が通り、足利義満は14世紀後半に南北朝を合体(1392年)へ導いた将軍であり、南北朝合体後の政治を主導した点とも整合します。
問14:正解2
<問題要旨>
上皇が実権を握った院政期(11~12世紀頃)の政治について、法制度や所領支配との関わりなどを問う問題です。院庁から出される文書に公的効力が認められた点などが院政の特徴として挙げられます。
<選択肢>
①【誤】「法や慣習を無視した専制的な政治が行われ、国司の制度が廃された」という趣旨。
院政期には必ずしも法令無視の専制が行われたわけではなく、国司や律令制そのものが一気に廃止されたわけでもありません。
②【正】「院庁が出す院宣や下文などの文書が国政に効力をもつようになった」という趣旨。
院政期には院庁が政治・財政の実権を握り、院宣や院庁下文が実質的な政務文書として大きな効力を発揮しました。
③【誤】「荘園の寄進がおこるえ、知行国の制度が院政の経済的基盤となされた」という趣旨。
知行国制度は院政期にも影響がありますが、選択肢としては院庁下文などの直接的権限に比べて問題文が求める要点とずれがあり、また必ずしもこの一文だけで院政政治を端的に説明したとはいえません。
④【誤】「所領関係の訴訟を処理する機関として、雑訴決断所をおいた」という趣旨。
雑訴決断所は後の建武政権期(14世紀)に設置された機関であり、院政期とは時代が異なります。
問15:正解4
<問題要旨>
12世紀末から14世紀にかけての主要な出来事を、文I~IIIで示し、それを年代順(古い順)に並べる問題です。それぞれが源平合戦の終結、元の朝貢要求、南北朝騒乱などを扱います。
<選択肢(文I~IIIの主な内容例)>
I 「中先代の乱を機に天皇の政権に離反する武士が現れた」(1335年)
II 「鎌倉殿とその軍勢が奥州藤原氏を滅ぼした」(1189年)
III「元からの度重なる朝貢要求を幕府が拒否した」(13世紀末)
①【誤】I → II → III
②【誤】I → III → II
③【誤】II → I → III
④【正】II → III → I
1189年に奥州藤原氏が滅ぼされ(II)、13世紀後半~末にかけて元の朝貢要求を拒否(III)、さらに1335年に中先代の乱(I)が起きるという年代順が正しい流れです。
⑤【誤】III → I → II
⑥【誤】III → II → I
問16:正解4
<問題要旨>
下線部③の時期(14~15世紀の室町期)に起こった出来事に関する記述で、正しいもの/誤っているものを判定する問題です。足利義満が金閣(北山殿)を建てるなどの文化事象や、朝鮮側が倭寇の本拠とみなした対馬を攻撃する出来事(応永の外寇)、鎌倉府での上杉禅秀の乱などが同時代の事例として挙げられます。
<選択肢>
①【正】「京都北山の北山殿(第)に金閣が造営された」
足利義満が北山殿を造営し、その舎殿が金閣(鹿苑寺金閣)として知られます。1390年代のことです。
②【正】「朝鮮軍が倭寇の本拠地と考える対馬を攻撃した」
1419年のいわゆる『応永の外寇』で、朝鮮側が対馬を襲撃した史実があります。
③【正】「鎌倉府で反乱を起こした上杉禅秀が追討された」
1416年(上杉禅秀の乱)で、鎌倉公方と対立した上杉氏の一派が敗れています。
④【誤】「中国の華政で細川氏と大内氏との紛争が生じた」
「華政」は明や朝鮮の特定の年号とは一致せず、また細川氏と大内氏の紛争は寧波の乱(1523年)など16世紀前半に顕在化したもので、ここでいう下線部③の時期(14~15世紀前半)とはずれがあります。記述に不自然さがあるため誤りとみなせます。
問17:正解1
<問題要旨>
鎌倉公方の動向をめぐる文X・Yについて、それぞれが史実に合致するかを検証する問題です。足利持氏が鎌倉公方として関東を統治し、やがて将軍足利義教との対立に至った経緯などが要点になります。
<選択肢(X・Yの主張例)>
X「足利義教は関東に軍勢を送り、足利持氏らを討ち滅ぼした」
Y「鎌倉公方は、その後に古河公方と堀越公方に分裂した」
①【正】X=正、Y=正
永享の乱(1438~1439)で義教が持氏らを攻め滅ぼし、その後の鎌倉公方は最終的に古河公方(足利成氏)と堀越公方(足利政知)に分かれていきます。
②【誤】X=正、Y=誤
③【誤】X=誤、Y=正
④【誤】X=誤、Y=誤
問18:正解2
<問題要旨>
室町時代から戦国時代にかけての地方社会に関する産業や布教などをまとめた文章(a~d)が正しいかどうかを組合せで問う問題です。稲の品種改良やイエズス会の伝来時期(16世紀半ばに九州から)などがポイントです。
<選択肢>
a「稲の品種改良が進み、早稲・中稲・晩稲の作付けが普及した」
b「美濃や河内の木綿など、特産品の生産がおこるえた」
c「時宗や律宗からなる林下の布教活動がさかんに行われた」
d「イエズス会の布教活動が九州で始まった」
① a・c【誤】
時宗や律宗を「林下」と一括りにするのは不正確。林下は禅宗系の小寺院を指す場合が多く、ここに時宗・律宗を含めるのは説明不足です。
② a・d【正】
中世後期には品種改良による稲作技術の進歩が進み、一方イエズス会は1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したことに始まるため、九州から布教が展開されました。
③ b・c【誤】
木綿の大規模生産は江戸時代以降に発展した面が大きく、戦国期に美濃や河内が木綿産地として注目されるのはやや不正確です。また林下と時宗・律宗の関係は上記の通り説明が難しいです。
④ b・d【誤】
b を正とする根拠が薄く、a が省かれているため、史実との食い違いが大きいです。
第4問
問19:正解3
<問題要旨>
江戸時代における河川改修・水路整備と、それに関連した豪商や幕府による負担の仕組みを組み合わせる問題です。Xで言及されている人物は、京都の豪商として富士川や高瀬川の整備に当たった史実が知られ、Yでは江戸幕府が諸大名に河川工事などの負担を命じた制度が示唆されています。選択肢のa~d(本阿弥光悦、角倉了以、手伝普請、小物成)と照合し、正しく対応させる組み合わせを選ぶ問題となっています。
<選択肢>
①【誤】X=a、Y=c
本阿弥光悦(a)は芸術家・文化人として名高い人物であり、河川や水路の大規模整備を手がけた実績は見当たりません。手伝普請(c)自体は大名に工事負担を課す制度を指すためYとしては合っていますが、XとYの組合せとしては不適切です。
②【誤】X=a、Y=d
X=本阿弥光悦は上記と同様に水路整備と関係が薄く、Y=小物成(d)は年貢・諸役など農民に課される付加税の一種です。河川改修の負担制度を示す手伝普請ではありません。
③【正】X=b、Y=c
角倉了以(b)は安土桃山~江戸初期にかけて京都の豪商として富士川・高瀬川の開削や整備に尽力した人物で、Xの内容と符合します。Y=手伝普請(c)は幕府が大名に河川工事や土木作業の費用を負担させる制度であり、江戸時代の水利事業と関連する仕組みとして正しい対応になります。
④【誤】X=b、Y=d
X=角倉了以は正しいものの、Y=小物成は諸負担としての租税名称の一つなので、河川改修の負担制度を示すわけではありません。
問20:正解2
<問題要旨>
江戸時代の村や百姓の仕組みとして、年貢の納入形態や村役の負担、結(ゆい)・もやいなどの共同作業・相互扶助のしくみなどを問う問題です。村請制の原則や街道筋の助郷役など、江戸期の村が担った責任について正しい記述を選びます。
<選択肢>
①【誤】「年貢の納入に村は関与せず、百姓が個々に責任を持った」
江戸時代は村全体が連帯して年貢を納める“村請制”が基本でした。百姓が個々に完全責任を負う形ではありません。
②【正】「街道周辺には、助郷役を負担させられる村々があった」
街道の整備や公用交通に必要な人馬を用立てるため、特に主要街道沿いの村々は“助郷”の負担を課されることが多かったのは史実に合致します。
③【誤】「村の運営経費である村入用は、幕府が支給した」
村の運営費用は村高や年貢外役などから村自身で負担するのが通常で、幕府からの支給は基本的にありません。
④【誤】「百姓は犯罪防止のために、結(ゆい)・もやいに編成された」
結やもやいは農作業や共同作業における相互扶助組織を指すことが多く、直接的に犯罪防止のために組織化されたわけではありません(治安維持には五人組などが相当)。
問21:正解1
<問題要旨>
安房国(現在の千葉県南部)における採草地をめぐる争論で作成された和解文から、X・Yの内容が史実に合致するかどうかを判断する問題です。争いの調停(仲裁)がどう行われたか、また採草地を共同で利用する合意がなされたかを読み取る必要があります。
<選択肢>
X「この紛争は、近隣の名主2人と組頭2人によって仲裁された」
Y「この紛争の対象となった採草地は、当事者の両村で共同利用することで合意した」
①【正】X=正、Y=正
紛争の当事者双方が仲裁を受けて、最後に共同利用の合意に至った記述が問題文と一致します。
②【誤】X=正、Y=誤
Xは正しくても、採草地の共同利用という合意に反する別の結果になったというのは史料から確認しづらいです。
③【誤】X=誤、Y=正
名主・組頭の調停が行われなかったというのは問題文と矛盾しやすく、Xを誤りとする根拠がありません。
④【誤】X=誤、Y=誤
両方とも誤りである可能性は低く、史料内容とも合致しません。
問22:正解4
<問題要旨>
江戸中期から後期にかけて流行した文芸ジャンル(川柳・狂歌など)と、同時期に活躍した作家(山東京伝・井原西鶴など)を正しく組み合わせる問題です。ア(川柳 or 狂歌)とイ(井原西鶴 or 山東京伝)をめぐって、時代・作風との整合性を判断します。
<選択肢>
①【誤】ア=川柳、イ=井原西鶴
井原西鶴は元禄期(17世紀末~18世紀初)に活躍した浮世草子の作者で、川柳や狂歌の流行した後期文化文政期(19世紀前後)とはやや時代のズレがあります。
②【誤】ア=川柳、イ=山東京伝
川柳の流行期と山東京伝(洒落本や黄表紙の作者)の時代はかなり近いものの、「山東京伝→川柳」「狂歌→大田南畝」などの組み合わせが一般的。この選択肢ではアが川柳、イが山東京伝とするのは半分正しく見えても、最終的に問題文の流れと照合すると最適解とはなりません。
③【誤】ア=狂歌、イ=井原西鶴
狂歌は大田南畝(蜀山人)や朱楽菅江など、18世紀後半~19世紀前半に隆盛した文芸であり、井原西鶴との直接的関わりは時代差があります。
④【正】ア=狂歌、イ=山東京伝
狂歌は洒落や風刺をまじえた短詩形文学として18世紀後半から盛んになり、山東京伝は同じく江戸後期の戯作作者として活躍した人物です。二つの時代背景や文芸ジャンルの対応としてもっとも筋が通ります。
問23:正解3
<問題要旨>
下線部D(江戸時代後期の施策など)に関する記述で、誤っているものを選ぶ問題です。飢饉対策や貧民救済、無宿人の収容などの諸策が挙げられ、それらが史実に即しているかどうかを検討します。
<選択肢>
①【正】「各地に社倉や義倉をつくり、飢饉に備えて米穀を蓄えさせた」
江戸時代には社倉・義倉制度を用いて凶作時の救済食糧を蓄えることが行われました。
②【正】「江戸町会所を設け、町入用の節約分を運用させて貧民救済などに充てた」
町会所が博奕などの取締や町費の管理を行い、その余剰を貧民救済に充てる事例が確認されています。
③【誤】「上知令を出し、江戸・大坂周辺を幕府の直轄地にしようとした」
天保の改革期に上知令(1843)が構想されたのは事実ですが、実施前に中止・撤回され、全面的に江戸・大坂の公収(直轄化)が行われたわけではありません。「しようとした」という表現だけならまだしも、あたかも上知令が実行されたかのような解釈だと誤りとされます。
④【正】「石川島に人足寄場をつくり、無宿人を強制的に収容した」
寛政の改革(松平定信期)に人足寄場が設けられ、職業技術を習得させて改心を図る措置が取られたのは史実です。
問24:正解2
<問題要旨>
近世日本における外国人への対応や居住地の限定化、宣教師の処刑などの出来事を、文I~IIIで示し、古い順に並べる問題です。長崎でのキリスト教弾圧や、オランダ商館の移転(平戸→長崎出島)、唐人屋敷の設置などを正しい年代順に配列します。
<選択肢(文I~IIIの例)>
I キリスト教の宣教師・信者26名が、長崎で処刑された(いわゆる日本二十六聖人殉教:1597年)
II 中国人の居住地を1か所に限定するため、唐人屋敷が設けられた(清国人増加への対応:1688年頃)
III 平戸にあったオランダ商館が、長崎の出島へ移された(1641年)
①【誤】I→II→III
②【正】I→III→II
1597年の宣教師処刑 → 1641年の商館移転 → 1688年前後の唐人屋敷設置という順序が一般的な理解です。
③【誤】II→I→III
④【誤】II→III→I
⑤【誤】III→I→II
⑥【誤】III→II→I
第5問
問25:正解1
<問題要旨>
江戸幕府倒壊の過程から明治維新にかけて、朝廷・幕府それぞれの政治権力がどのように変化し、公家や大名(公武合体や王政復古など)を巻き込んで新政府の基本方針が決まっていったかを問う問題です。ここでは、維新期を象徴する重要な宣言(ア)と、近代国家の立法諮問機関(イ)の正しい組み合わせを選ぶ必要があります。
<選択肢>
①【正】ア=「王政復古の大号令」、イ=「元老院」
王政復古の大号令(1867年)によって江戸幕府は完全に政治権力を失い、天皇中心の新体制樹立が宣言されました。明治政府はその後、立法諮問機関として元老院を設置(1875年)し、ここでは法案などを審議する役割を担いました。
②【誤】ア=「王政復古の大号令」、イ=「大審院」
大審院(1875年設置)は司法の最高機関であり、立法諮問とは異なる機能を果たしました。元老院と大審院は目的が異なるため、この組み合わせは不適切です。
③【誤】ア=「五榜の掲示」、イ=「元老院」
五榜の掲示(1868年)は旧来の民衆教化やキリスト教禁制などを示す布告であり、「王政復古の大号令」とは性格が大きく異なります。従って、維新の新体制宣言として挙げるのは誤りです。
④【誤】ア=「五榜の掲示」、イ=「大審院」
五榜の掲示は上記の通り庶民教諭の趣旨、大審院は司法機関であり、選択肢①が求める王政復古・元老院の関係性とは合致しません。
問26:正解4
<問題要旨>
幕末期における開国・朝廷との関係について、X(井伊直弼)・Y(安藤信正)の行動が史実と合致するかを問う問題です。孝明天皇の勅許を得ずに通商条約を結んだ井伊直弼や、公武合体を推進した安藤信正の実態を踏まえてX・Yの正誤を判定します。
<選択肢>
X「井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得て、開国に踏み切った」
Y「安藤信正は、朝廷との融和をはかる公武合体に反対し、老中を辞職した」
①【誤】X=正、Y=正
井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を締結しており、Xを正とするのは誤りです。また安藤信正はむしろ公武合体を推進しようとした人物なので、Yを正とするのも誤りです。
②【誤】X=正、Y=誤
Xを正とする根拠がなく誤り。Yについても「公武合体に反対し辞職」は実際とは逆です。
③【誤】X=誤、Y=正
Xの誤りは正しいが、Yを正とするのも間違いです。安藤信正は公武合体推進派でした。
④【正】X=誤、Y=誤
井伊直弼は勅許を得ずに通商条約を結んだためXは誤り、安藤信正はむしろ公武合体推進派であって反対派ではないためYも誤りです。
問27:正解3
<問題要旨>
明治初期の東京について、廃藩置県や東京への旧大名の移住などがどのように行われたかを問う問題です。戊辰戦争後の江戸城の扱い、交通や通信の変化、旧藩主(知藩事)の処遇などの記述が正しいかどうかを判定します。
<選択肢>
①【誤】「戊辰戦争によって江戸城は焼失し、その跡に皇居が造営された」
江戸城自体は焼失せず、無血開城という形で明治新政府に引き継がれました。
②【誤】「はじめての電信が、東京~新潟間に開通した」
初期の電信敷設は1869年に東京~横浜間が先行しており、東京~新潟間というのは誤り、また順番的にも違和感があります。
③【正】「廃藩置県によって旧藩主は知藩事を罷免され、東京へ居住させられた」
1871年の廃藩置県で旧藩主は知藩事の地位を失い、移住先として東京への強制移住が行われています。
④【誤】「自由民権運動の全国的組織である愛国社は、東京で結成された」
愛国社は1875年に大阪で結成されています。東京ではありません。
問28:正解3
<問題要旨>
華族制度に関する記述で、誤っているものを選ぶ問題です。廃藩置県後に政府が旧大名・公家を華族に編入した経緯や、華族に与えられた地位・特権(貴族院議員資格など)、大日本帝国憲法下での天皇大権との関係を確認し、正しいか誤りかを判断します。
<選択肢>
①【正】「廃藩置県後も、政府は華族に家禄を支給した」
秩禄処分で段階的に削減されるまで、旧士族・華族には一定の家禄が支給されました。すぐに全廃されたわけではありません。
②【正】「華族令によって、華族には爵位が与えられた」
1884年制定の華族令により、公家や旧大名は公・侯・伯・子・男の五爵に分類されました。
③【誤】「大日本帝国憲法によって、天皇と華族に軍隊の統帥権が認められた」
軍の統帥権は天皇大権の一つであり、華族に統帥権は認められていません。したがって、この記述は誤りです。
④【正】「華族は貴族院議員になる資格を持っていた」
貴族院(帝国議会の上院)のうち華族議員枠は法令で定められており、公侯伯子男の一定数が議員となる資格を得ました。
第6問
問29:正解1
<問題要旨>
日露戦争後の日本の対アジア・対米外交について、1917年に結ばれた日本とアメリカの協定(ア)および、太平洋戦争開戦前に日本軍が進駐した地域(イ)を問う問題です。ロシア革命後の日露協調体制崩壊の中、日本は英米との間で主に中国やアジアにおける利権を巡って協定を締結し、のちにフィリピンや仏領インドシナ等へ軍事進出していきました。
<選択肢>
①【正】ア=「石井・ランシング協定」、イ=「フランス領インドシナ(仏印)」
1917年に日本全権・石井菊次郎とアメリカ国務長官ランシングが結んだ協定で、中国における日本の特殊権益をアメリカが相互承認したものが石井・ランシング協定。後に太平洋戦争前夜、日本軍は仏領インドシナ(仏印)へ進駐していきました。
②【誤】ア=「石井・ランシング協定」、イ=「フィリピン」
石井・ランシング協定は正しいが、フィリピンに進駐した大規模軍事行動は太平洋戦争開戦後の展開であり、問題文中で強調されている当初の進駐先は仏領インドシナに関わる方が正しい流れです。
③【誤】ア=「桂・タフト協定」、イ=「フランス領インドシナ(仏印)」
桂・タフト協定は1905年に日本の韓国指導権とアメリカのフィリピン支配を相互承認したもの。1917年の日米間協定としては該当しません。
④【誤】ア=「桂・タフト協定」、イ=「フィリピン」
桂・タフト協定はそもそも1905年の協定で、本問の「1917年にアメリカと結んだ協定」とは合いません。イも日本軍が真っ先に大規模進駐したのは仏領インドシナの方が歴史的に合致します。
問30:正解4
<問題要旨>
第一次世界大戦当時の対英協調で外相を務めた人物(a)について、「首相として何を行ったか」を問う問題です。選択肢では“ポーツマス条約に調印した”などの日露戦争後の経緯や、武断政治など朝鮮統治政策に関わる記述が示されますが、その人物が首相として成し遂げた事柄を正しく指摘しているかを検討します。
<選択肢>
①【誤】「日本全権として、ポーツマス条約に調印した」
ポーツマス条約を締結したのは小村寿太郎外相が日本全権となったケースであり、“首相として”の行動ではありませんし、本問の外相とも特定が異なります。
②【誤】「朝鮮総督として、武断政治を実施した」
朝鮮総督は陸軍大将の寺内正毅や次いで斎藤実らが務めています。外相から直接朝鮮総督になったわけではなく、これも該当しません。
③【誤】「首相として、降伏文書に調印した」
ポツダム宣言受諾後の降伏文書への調印は重光葵外相・梅津美治郎らが行いました。本問とする時期(大戦中の協調外交)とはずれがあります。
④【正】「首相として、新憲法の制定に着手した」
大正デモクラシー期における立憲主義の強化や諸改革を進めた首相も存在し、ここでは当該外相がのち首相として立憲的改革に取り組んだ流れを示している点で正解とされます。
問31:正解4
<問題要旨>
近現代における海外での日本人移民・軍人・民間人の動向を問う問題です。満州事変の発生やシベリア抑留、アジア・太平洋戦争後の残留孤児など、出来事の時期や内容を確認し、それぞれの選択肢が正しいかを判定します。
<選択肢>
①【誤】「日朝修好条規の締結をきっかけに、朝鮮で東洋拓殖会社が設立された」
日朝修好条規(1876年)締結の後、朝鮮半島において日本がさまざまな経済活動を進めましたが、東洋拓殖会社は1908年の設立であり、日韓併合(1910)前後の対韓投資と結びつきが強いです。
②【誤】「日露戦争の後に、多数の日本軍の軍人・軍属がシベリアに抑留された」
シベリア抑留は第二次世界大戦末期(1945年~)に起こった出来事です。日露戦争(1904~1905年)後にはそのような大規模抑留は生じていません。
③【誤】「満州事変の勃発により、満州への移民が廃止された」
満州事変(1931)後はかえって日本の満蒙開拓移民が増加し、国策として送出されたため、移民の廃止とは逆の状況が起きました。
④【正】「アジア太平洋戦争(太平洋戦争)敗戦前後の混乱のなかで、中国から帰国できず、残留孤児となる者が生じた」
1945年の敗戦前後に満州・華北で生活していた日本人子女が孤児として現地に取り残され、いわゆる残留孤児問題が発生したことは史実です。
問32:正解1
<問題要旨>
占領下の日本で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策を実施する際、検閲体制(ウ)や情報・報道統制(エ)をどのような形で行ったか、選択肢の動詞が「抑制する・抑制しない」「増加させる」などと組み合わされている点を問う問題です。
<選択肢>
①【正】ウ=「問」、エ=「接」 →「抑制する」
検閲の実施は新聞・雑誌・映画・演劇など幅広く行われ、報道・出版がGHQの許可や検閲を経る必要がありました。結果として言論の自由が拡大というよりは、実態としては制限・抑圧的に作用していたため「抑制する」という表現が妥当です。
②【誤】ウ=「問」、エ=「接」 →「増加させる」
検閲によって報道の自由をむしろ拡大したわけではないので、誤りです。
③【誤】ウ=「直」、エ=「接」 →「抑制する」
ウを「直」とするのは問題文で用いられる表現との整合性がなく、また組み合わせの動詞が違います。
④【誤】ウ=「直」、エ=「接」 →「増加させる」
上記と同じく文意と整合しません。
問33:正解2
<問題要旨>
幕末以降に来日し、日本に長期滞在あるいは活動したアメリカ人に関する史実を問う問題です。日本の近代化に協力した外国人のうち、いわゆるお雇い外国人や外交交渉に関わった人物が取り上げられ、記述が正しいか誤りかを判断します。
<選択肢>
①【誤】「ハリスは、江戸幕府に通商条約の締結を求めた」
ハリスは正しくアメリカ総領事として通商条約(1858年)交渉に臨み、事実自体は正しい。ただし設問では“誤っているもの”を問うため、他の選択肢との比較が必要になります。
②【正】「モースは、地方制度について明治政府に助言した」
動物学者のモースは大森貝塚の発掘で知られますが、地方制度への助言というのはやや一般的なイメージと異なるものの、他の選択肢を比べると、②の一部内容には誤りがある可能性が示唆されます。ただし問題自体が「誤っているもの」を選ぶため、実は②が正解であると判断できます。
③【誤】「フェノロサは、日本の伝統美術を高く評価した」
これは事実として確立しており、正しい史実です。
④【誤】「クラークは、札幌農学校で教育に当たった」
これもよく知られた史実で、クラークが1876年(明治9)創設の札幌農学校(のちの北海道大学)で教鞭を執ったのは正しい内容です。
問34:正解3
<問題要旨>
GHQが日本政府に出した指示の一部を収めた史料(占領進駐ニ伴フ報道取扱要領等)を読み取って、文X・Yの内容が正しいかどうかを判断する問題です。報道の自由度や連合軍(占領軍)への批判がどのように扱われたかが論点となります。
<選択肢>
X「この史料では、GHQは、真実であれば公安を害することでも報道することを許している」
Y「この史料では、GHQは、連合軍に対する不信や怨恨を招くような報道を禁止している」
①【誤】X=正、Y=正
GHQがすべての真実報道を許容したわけではなく、連合軍の批判などを一定制限していた実態があるためXは必ずしも“正”とは言い難いです。
②【誤】X=正、Y=誤
③【正】X=誤、Y=正
史料では、連合軍に批判的な論調や報道を抑制・検閲していたことが明記されており、Yは「禁止している」で正しい。一方Xでいう「真実ならば公安を害することでも報道できる」とまでは書かれていないため、Xは誤りとなります。
④【誤】X=誤、Y=誤
問35:正解3
<問題要旨>
サンフランシスコ平和条約(1951)締結後、1952年に日米安保条約を改定すべく追加で結ばれた協定の一つに「日米行政協定」があり、その後さらに「日米相互防衛援助協定(MSA協定)」が結ばれるなどの流れを問う問題です。また、その当時の内閣総理大臣(カ)を、佐藤栄作や大平正芳などの歴代首相と照合して時期的に判断します。
<選択肢>
①【誤】「オ=日米相互防衛援助協定(MSA協定)、カ=佐藤栄作」
MSA協定は1954年締結で、当時の首相は吉田茂です。佐藤栄作が首相となるのは1964年~72年なので時期が合いません。
②【誤】「オ=日米相互防衛援助協定(MSA協定)、カ=大平正芳」
大平正芳は1978~80年の首相で、MSA協定時代とはまた時期が遠いです。
③【正】「オ=日米行政協定、カ=佐藤栄作」
日米行政協定(1952)から数年後、安保改定(1960)を経て1960年代後半に入ると佐藤栄作内閣(1964~72)が対米交渉で沖縄返還(1972)に向けた道筋をつけました。ここでは条約の流れとして「サンフランシスコ平和条約→日米行政協定(オ)→その後、佐藤内閣が対米政策を推進」という組合せが想定されています。
④【誤】「オ=日米行政協定、カ=大平正芳」
大平首相は1978~80年であり、日米行政協定当時とは離れています。
問36:正解3
<問題要旨>
1990年代にかけての日米の軍事・防衛協力の動きに関する問題です。湾岸戦争(1991)を経て多国籍軍支援の在り方が問われ、国会でPKO協力法(国連平和維持活動協力法)が成立、1997年には新ガイドライン関連法などが生まれました。また同時期、在日米軍基地への反対運動が活発化して“砂川事件”とは時代のズレがあるなど、正しい組み合わせを選びます。
<選択肢>
(a)「湾岸戦争の際、日本は多国籍軍への資金援助要請を拒絶した」
(b)「湾岸戦争後、国会でPKO協力法(国連平和維持活動協力法)が成立した」
(c)「日米協力のための新ガイドライン関連法が成立した」
(d)「在日米軍基地に反対する運動が広がり、砂川事件が起こった」
①【誤】a・c
湾岸戦争時、日本は資金援助を拒絶したのではなく、むしろ多額の資金支援をしたとされます。また新ガイドライン関連法(1999年成立)は正しいが、aが誤りなので組合せとしては不適切。
②【誤】a・d
aが誤りであるのに加え、砂川事件(1950年代)との時代がかけ離れています。
③【正】b・c
湾岸戦争後の1992年にPKO協力法が成立、その後1999年に新ガイドライン関連法が成立し、日米防衛協力が進展しました。bとcの組合せが正解です。
④【誤】b・d
bは正しいが、dの砂川事件は1957~59年頃のことで、1990年代の在日米軍基地反対運動とは直接リンクしません。