2019年度 大学入試センター試験 本試験 日本史B 解答・解説

2019年度 大学入試センター試験 本試験「日本史B」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。

目次
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解答

解説

2019年度の大学入試センター試験「日本史B」は、第1問から第6問までの6つの大問・全36問、満点100点、試験時間60分で実施されました。大問ごとの配点は第1問16点・第2問16点・第3問16点・第4問16点・第5問12点・第6問24点で、解答番号は1から36まで、1つの設問が1つの解答番号に対応します。問題は地理歴史の問題冊子のページ74から103に置かれ、途中に下書き用紙のページが2枚はさまれています。

第1問は大学の歴史サークルの先輩と後輩の会話文で、地名を手がかりに古代の渡来人・遣唐使から近現代のアイヌ政策までを横断します。第2問は金石文(石や金属に記された文字資料)を軸に原始・古代を問い、第3問は年号(元号)の使い方から中世の政治と地方社会を、第4問は土木工事・村の自治・大田南畝の生涯から近世の社会と文化を扱います。第5問は近世・近代の公家と華族、第6問は日露戦争後から1990年代までの日米関係で、ここだけA・B・Cの3部構成です。第1問から第4問はA・Bの2部構成、第5問は区分がありません。

この回の大きな特徴は、地図・写真・グラフ・図版が一切出題されず、素材がすべて文章と文字史料であることです。史料は第1問問3(円仁『入唐求法巡礼行記』)、第2問問5(那須国造碑の碑文)、第4問問3(安房国の村どうしの和解文書)、第6問問6(GHQが日本政府に出した覚書)の4か所で、いずれも冒頭に「史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある」との注記があります。つまずきやすいのは、古いものから年代順に並べる配列問題(解答番号5・10・15・24の4問)と、正しい文・誤っている文を1つ選ぶ問題です。配列問題は選択肢を見る前に各文の年代を確定させること、正誤判定は「主体のすり替え(幕府と朝廷、天皇と華族など)」と「時期のずれ」の2点をまず疑うことが、得点を安定させる近道になります。

第1問 地名がたどる人とモノの移動(配点16)

大学の歴史サークルに所属する静さんと後輩の九郎さんの会話文です。Aは地名の由来・銭貨・渡来人と新羅人の活動を扱い、遣唐使に同行した円仁の史料を読ませます。Bは北海道のアイヌ語地名を入り口に、中世から現代までのアイヌの歴史と先住民族の権利を問います。

A 問1:正解 ④(解答番号1/配点2)

<問題要旨>

地名の由来について述べた文X・Yに、該当する語句a〜d(万葉集・風土記・在庁官人・按司)のどれが当てはまるかを組み合わせで選ばせる設問です。Xは奈良時代に編纂が命じられた書物、Yは沖縄の地名に残るグスク(城)を築いた人々を指しています。

<考え方>

書物の性格と、沖縄独自の身分呼称という2つの知識に戻れば決まります。Xは「諸国の地理や産物などをまとめた」という説明から歌集ではなく地誌だと分かり、713年に撰進が命じられた地誌を選びます。Yは「琉球の地方豪族(首長)」という言い換えがそのまま答えになるので、律令制の地方官の名称と取り違えないことが要点です。

<選択肢>

X=風土記(b)【正】

713年に諸国へ撰進が命じられ、国内の産物・土地の状態・地名の由来・古老の伝承を国ごとに報告させた地誌が風土記です。同じ奈良時代の書物でも万葉集(a)は和歌を集めた歌集で、地理や産物を国ごとに記す性格のものではないため、ここには入りません。

Y=按司(d)【正】

沖縄でグスク(城)を拠点に各地を支配した地方豪族・首長が按司です。在庁官人(c)は平安時代後期以降、国衙で実務にあたった在地の有力者を指す語で、琉球の首長の呼称ではありません。地域と時代が違う語へのすり替えを見抜きます。

正解【④】

Xが風土記(b)、Yが按司(d)なので、その組合せである④が正解です。

A 問2:正解 ④(解答番号2/配点2)

<問題要旨>

銭貨の鋳造に関する下線部をうけて、古代から近代までの貨幣について述べた4つの文から正しいものを1つ選ぶ設問です。飛鳥・鎌倉・江戸・昭和と、時代をまたいで貨幣制度の知識を問います。

<考え方>

「日本最初の鋳造銭貨は何か」「貨幣を鋳造したのは誰か」「輸入か国内鋳造か」という3点を順に当てれば落とせます。とくに和同開珎を日本最初の銭貨と覚えていると①を選びかねませんが、7世紀後半の富本銭の存在を思い出せば切れます。残る④は、1931年の金輸出再禁止に続く1932年の制度転換として押さえておきたい内容です。

<選択肢>

①【誤】

和同開珎は708年に鋳造されましたが、日本最初の鋳造銭貨ではありません。7世紀後半(天武天皇の頃)につくられた富本銭が先行しており、「日本最初の鋳造銭貨」という部分が事実に反します。

②【誤】

金座・銀座・銭座を設けて貨幣を発行したのは江戸幕府です。鎌倉時代には幕府が統一的な貨幣を発行しておらず、流通していたのは中国から輸入された宋銭でした。貨幣を発行した主体と時期がともにすり替えられています。

③【誤】

寛永通宝は1636年以降、幕府が国内の銭座で鋳造させた銭貨です。中国から輸入したという因果が逆で、むしろ寛永通宝の大量鋳造によって、それまでの輸入銭への依存から脱していきました。

④【正】

1931年に犬養毅内閣の蔵相となった高橋是清は金輸出を再禁止し、翌1932年には金兌換を停止して、正貨(金)の保有量に縛られずに通貨を発行できる管理通貨制度へ移行しました。昭和期・高橋是清・管理通貨制度という3つの要素がすべて一致します。

正解【④】

高橋是清蔵相のもとで金本位制を離れ管理通貨制度に移行した事実を述べた④が正解です。

A 問3:正解 ②(解答番号3/配点3)

<問題要旨>

遣唐使とともに入唐した延暦寺僧の円仁が、帰国する一行と別れて不法に唐へ残留しようとした場面を記した『入唐求法巡礼行記』の史料を読み、その内容について述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ設問です。史料には注が8つ付けられています。

<考え方>

史料に書かれていることだけで判定します。前半は帰国用に調達した9隻の船への人員配置、後半は円仁が残留の方法を誰に相談しているかを述べた部分です。注(3)で本国水手が日本の水夫、注(5)で正南が新羅人の通訳だと示されているので、この2つを手がかりに、Xは配置された人員の内訳、Yは残留計画を打ち明けた相手が誰かを照らし合わせます。

<選択肢>

X【正】

史料は、9隻の船それぞれに官人を分けて配置し、さらに日本の水夫のほかに航路を熟知した新羅人60人余りを雇って各船に5人から7人ずつ乗せた、と述べています。日本人の官人・水夫を置いたうえで新羅人の船乗りを雇用して配置したという記述と一致します。

Y【誤】

史料の「亦新羅訳語正南をして留まるべき方便を商らしむ」は、注(5)(6)(7)をあわせると、新羅人の通訳である金正南に残留の方法を検討させた、という意味になります。新羅人の通訳が同行していた点は正しいものの、円仁は計画を秘密にするどころか、その通訳に相談しているので、後半が史料と逆になっています。

正解【②】

人員配置を述べたXは史料どおりで正、残留計画を秘密にしたとするYは史料と逆なので誤、よって②が正解です。

B 問4:正解 ②(解答番号4/配点3)

<問題要旨>

会話文の空欄アとイに入る語句の組合せを選ぶ設問です。アは明治政府がロシアとの国境を画定するために結んだもので、多くのアイヌが遠隔地への移住を強いられた原因、イはアイヌに農地を与えて救済する名目で定められたものです。

<考え方>

空欄の前後にある「明治政府が」「ロシアとの国境を画定するため」という限定が決め手です。幕末に結ばれた条約は主体が江戸幕府なので、この時点で候補が1つに絞られます。イは「農地を与えるなどして救済する名目」「同化政策としての面が強かった」という説明が、そのまま明治期のアイヌ政策の法律を指しています。

<選択肢>

ア=樺太・千島交換条約【正】

1875年に明治政府がロシアと結び、樺太全島をロシア領、千島全島を日本領とした条約です。これにより樺太のアイヌが北海道へ、北千島のアイヌが色丹島へ移住させられ、慣れない土地で伝染病などにより多くの死者を出しました。日露和親条約は1854年(安政元年)に江戸幕府が結んだもので、「明治政府が」という条件に合いません。

イ=北海道旧土人保護法【正】

1899年に制定され、アイヌに農地を与えて農業に従事させることなどを定めましたが、与えられた土地は条件が悪く生活向上の成果は乏しく、日本語教育などを通じた同化政策としての性格が強いものでした。自作農創設特別措置法は1946年に農地改革を進めるために制定された法律で、対象も時期もまったく異なります。

正解【②】

アが樺太・千島交換条約、イが北海道旧土人保護法なので、その組合せの②が正解です。

B 問5:正解 ⑤(解答番号5/配点3)

<問題要旨>

北海道やその周辺地域に日本やロシアが進出したことに関連して述べた3つの文Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に並べる設問です。松前氏の交易独占、幕府による蝦夷地の探検・調査、コシャマインの蜂起が素材です。

<考え方>

選択肢を見る前に、3つの文それぞれの年代を確定させます。手がかりは「幕府から認められた」(江戸幕府の成立直後)、「ロシアの極東進出・南下への対応」(18世紀後半以降)、「館とよばれる拠点」「コシャマイン」(室町時代)です。室町・江戸初期・江戸後期という3つの時代にきれいに分かれるので、順序は一意に決まります。

<選択肢>

Ⅰ 松前氏(蠣崎氏)がアイヌとの交易の独占権を幕府から認められた【2番目】

蠣崎氏は1599年に松前氏と改め、1604年に徳川家康から黒印状を与えられてアイヌとの交易独占権を公認されました。江戸幕府の成立直後にあたります。

Ⅱ ロシアの極東進出・南下への対応として、幕府による蝦夷地の探検・調査が進められた【3番目】

18世紀後半にロシア船の来航が相次ぐと、幕府は1785年に最上徳内らを蝦夷地へ派遣し、以後も近藤重蔵・間宮林蔵らによる探検と調査、さらに蝦夷地の直轄化を進めました。3つのうち最も新しい出来事です。

Ⅲ 蝦夷ヶ島南端に和人が進出し、各地に館が成立すると、コシャマインに率いられたアイヌが蜂起した【1番目】

道南十二館に代表される和人の拠点が築かれ、和人との対立からコシャマインの蜂起が起こったのは1457年(室町時代)で、3つのうち最も古い出来事です。

正解【⑤】

Ⅲ(1457年)→Ⅰ(1604年)→Ⅱ(18世紀後半以降)の順になるので⑤が正解です。

B 問6:正解 ③(解答番号6/配点3)

<問題要旨>

近代以降の人々の権利の問題を取り上げた人物や団体について述べた文X・Yに、該当する語句a〜d(永井荷風・徳永直・全国水平社・平民社)のどれが当てはまるかを組み合わせで選ぶ設問です。

<考え方>

Xは作品名、Yは結成年と目的がそのまま手がかりになります。『太陽のない街』が労働争議を描いたプロレタリア文学であること、1922年に被差別部落の人々自身が差別撤廃をめざして結成した団体があることを思い出せば、紛らわしい語との区別がつきます。

<選択肢>

X=徳永直(b)【正】

徳永直は自身が参加した共同印刷の労働争議を素材に、1929年に『太陽のない街』を発表したプロレタリア文学の作家です。永井荷風(a)は『あめりか物語』『腕くらべ』などで知られる耽美派の作家で、労働争議を描いた作品の作者ではありません。

Y=全国水平社(c)【正】

1922年に京都で結成され、被差別部落の人々が自らの手で差別からの解放をめざすことを水平社宣言でうたった団体です。平民社(d)は1903年に幸徳秋水・堺利彦が日露戦争に反対して設立した社会主義の結社で、結成年も目的も異なります。

正解【③】

Xが徳永直(b)、Yが全国水平社(c)なので、その組合せの③が正解です。

第2問 金石文からたどる原始・古代(配点16)

石碑や鉄剣銘など、石や金属製品に記された文字資料である金石文をテーマにした文章A・Bです。Aは志賀島の金印・岡田山1号墳の大刀銘・石川年足の墓誌を素材に、文献史料を裏づける役割を扱い、Bは山上碑・那須国造碑・浄水寺寺領碑を素材に、地方の歴史を伝える金石文と古代の地方支配を問います。

A 問1:正解 ②(解答番号7/配点2)

<問題要旨>

福岡県志賀島で江戸時代に発見された金印について、最も関係の深い出来事を述べた文を4つの中から1つ選ぶ設問です。文章では、この金印が北部九州の勢力と中国の王朝との交渉を示す資料だと説明されています。

<考え方>

金印に刻まれた「漢委奴国王」の5文字が、王朝名(漢)・地域(倭)・国名(奴国)を示している点に戻ります。『後漢書』東夷伝には、57年に倭の奴国の使者が後漢に朝貢し、光武帝から印綬を授けられたとあり、この記事を裏づける遺物が志賀島の金印です。中国の王朝名と使者を送った主体が両方そろう選択肢を選びます。

<選択肢>

①【誤】

倭人社会が百余国に分かれ、前漢の楽浪郡に定期的に使者を送ったという記述は『漢書』地理志の内容で、金印そのものとは結びつきません。金印の銘文にある漢は後漢であり、王朝と時期がずれています。

②【正】

「漢委奴国王」の金印は、57年に倭の奴国の王が後漢の光武帝に使者を送り、印綬を授けられたという『後漢書』東夷伝の記事を裏づける資料です。北部九州の勢力が中国王朝と交渉をもっていたことを示すという文章の説明にも合致します。

③【誤】

卑弥呼が魏の皇帝に使者を送って「親魏倭王」の称号と金印を授けられたのは239年で、『魏志』倭人伝の記事です。志賀島の金印の銘文は漢の字を含むため、魏から授けられたものとは考えられません。

④【誤】

壱与(台与)が晋に使者を送ったのは266年頃のこととされ、『晋書』に見える記事です。これも銘文の「漢」と一致せず、時期も金印より2世紀ほど後になります。

正解【②】

「漢委奴国王」の金印は57年の奴国王の遣使を裏づける資料なので、②が正解です。

A 問2:正解 ③(解答番号8/配点3)

<問題要旨>

「各田卩臣(額田部臣)」の字句を読み取れる6世紀の大刀銘が部民制の存在を示すという下線部をうけて、この時期のヤマト政権の民衆支配の仕組みについて述べた4つの文a〜dから、正しいものの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

部民制と地方支配の用語を、それぞれ「誰が」「誰を」支配したのかという関係で整理すれば決まります。国造は中央から派遣された官ではなく在地の首長が任じられたこと、伴造は伴・品部を率いる側であることの2点が判定の軸で、どちらも主体の入れ替えが仕掛けられています。

<選択肢>

a 畿内の豪族を各地に国造として派遣した【誤】

国造には各地の在地有力豪族が任命され、ヤマト政権への服属の見返りにその地域の支配を認められました。畿内の豪族を派遣したわけではなく、支配の担い手がすり替えられています。中央から地方官を派遣する仕組みは、律令制下の国司を待つことになります。

b 有力な豪族が隷属する私有民として部曲を保有した【正】

豪族が私有した民が部曲(かきべ)で、蘇我部・大伴部のように豪族の名を冠して呼ばれました。これに対し豪族の私有地が田荘です。

c 大王やその一族に奉仕する集団として名代・子代が各地に設定された【正】

名代・子代は大王家に属して労働や貢納にあたった集団で、大王やその一族の宮の名などを冠して各地に置かれました。豪族の私有民である部曲と対になる存在です。

d 伴造が伴や品部に率いられて朝廷の職務を分担した【誤】

実際には伴造が伴や品部を率いて、それぞれの技術や職能に応じた職務を朝廷で分担しました。率いる側と率いられる側が入れ替えられており、因果と上下関係が逆転しています。

正解【③】

正しいのは部曲を述べたbと名代・子代を述べたcなので、③が正解です。

A 問3:正解 ①(解答番号9/配点3)

<問題要旨>

藤原仲麻呂政権に関して述べた文X・Yに、該当する語句a〜d(橘奈良麻呂・藤原広嗣・百万塔・正倉院宝庫)のどれが当てはまるかを組み合わせで選ぶ設問です。Xは仲麻呂打倒に失敗して滅ぼされた人物、Yは乱の平定後に称徳天皇の発願でつくられ、印刷された経典を納めたものを指します。

<考え方>

奈良時代の政変を年代順に並べておけば、仲麻呂の打倒を企てた人物は一意に決まります。Yは「中に印刷された経典が納められた」という条件が決め手で、宝物を収蔵した倉との区別がつきます。現存する世界最古級の印刷物とされる陀羅尼を納めた小塔が該当します。

<選択肢>

X=橘奈良麻呂(a)【正】

757年、橘諸兄の子である橘奈良麻呂は大炊王(のちの淳仁天皇)を擁立した藤原仲麻呂の打倒を企てましたが、事前に発覚して一族もろとも滅ぼされました(橘奈良麻呂の変)。藤原広嗣(b)が反乱を起こしたのは740年で、相手は玄昉・吉備真備であり、仲麻呂の台頭より前の出来事です。

Y=百万塔(c)【正】

764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の平定後、称徳天皇の発願で100万基の小塔がつくられ、中に印刷された陀羅尼が納められました。正倉院宝庫(d)は聖武天皇の遺愛品などを収めた東大寺の倉で、称徳天皇が乱の後に発願したものではなく、印刷経典を納めるためのものでもありません。

正解【①】

Xが橘奈良麻呂(a)、Yが百万塔(c)なので、その組合せの①が正解です。

B 問4:正解 ①(解答番号10/配点3)

<問題要旨>

国司の交替に関する下線部をうけて、古代の国司制度について述べた3つの文Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に並べる設問です。国府の設置、勘解由使の設置、受領の成立が素材です。

<考え方>

先に3つの文の年代を押さえます。国府は律令制にもとづく地方統治の拠点なので大宝律令以後、勘解由使は桓武天皇が国司交替時の不正を防ぐために置いた令外官、受領は10世紀に任国の支配を一任されるようになった国司の最上席者を指します。律令制の成立・その立て直し・律令制の変質という3段階に対応しており、順序が定まります。

<選択肢>

Ⅰ 律令制にもとづく地方統治の拠点として国府が設置されはじめた【1番目】

大宝律令の施行(701年)によって全国が国・郡・里に編成され、国ごとに国司が政務をとる国府(国衙)が置かれるようになりました。8世紀初めのことで、3つのうち最も古い段階です。

Ⅱ 国司の交替の際の引継ぎを監督するため勘解由使が設置された【2番目】

797年頃、桓武天皇が令外官として設置しました。前任の国司が後任に事務を引き継いだことを証明する解由状を審査し、国司交替をめぐる紛争や不正を抑えるための役職です。

Ⅲ 赴任する国司の最上席者が大きな権限と責任を負い、受領とよばれるようになった【3番目】

10世紀に入り、朝廷が任国の統治と徴税を国司の最上席者に一任するようになると、現地に赴任して前任者から事務を引き継ぐ(=受領する)その国司が受領とよばれました。3つのうち最も新しい段階です。

正解【①】

Ⅰ(8世紀初め)→Ⅱ(797年頃)→Ⅲ(10世紀)の順になるので①が正解です。

B 問5:正解 ②(解答番号11/配点3)

<問題要旨>

栃木県大田原市に現存する那須国造碑の碑文の一部を史料として読み、その内容について述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ設問です。史料は末尾が「(後略)」と示されており、碑文の後半は問題冊子では省略されています。注では、永昌が唐の年号であること、追大壱が天武天皇の時代に定められた冠位であること、評督が評の長官であることが示されています。

<考え方>

省略された後半に頼らずに、掲載されている部分の3つの語だけで判定できます。年号「永昌」が唐の元号であること、冠位「追大壱」と官職「評督」が那須直韋提に与えられたものであることの3点です。Xは唐の年号を用いている点から、Yは評という地方行政単位が大宝律令の前の制度である点から判断します。永昌元年は689年で、大宝律令の施行(701年)より前である点も押さえます。

<選択肢>

X【正】

碑文の冒頭が唐の年号である「永昌」を用い、さらに干支による年月日の表記と組み合わせている点から、那須地方の豪族層に中国王朝の年号という知識・情報が伝わっていたことが読み取れます。

Y【誤】

韋提に与えられた官職は「評督」で、注が示すとおり評の長官です。評は大宝律令の施行以前に置かれた地方行政単位で、律令制下ではこれが郡に改められました。冠位の追大壱も天武天皇の時代のもので、永昌元年(689年)という年次も大宝律令より前にあたるため、大宝律令にもとづく官僚制や地方行政組織を読み取ることはできません。

正解【②】

唐の年号の使用を述べたXは正、大宝律令にもとづく制度とするYは評制・冠位・年次のいずれとも合わないので誤、よって②が正解です。

B 問6:正解 ④(解答番号12/配点2)

<問題要旨>

浄水寺寺領碑が平安時代の地方社会における田地の実態を知る手がかりになるという下線部をうけて、平安時代の地方社会について述べた4つの文から誤っているものを1つ選ぶ設問です。

<考え方>

律令制の土地・人民支配が、人を単位とする支配から土地を単位とする支配へ移っていった大きな流れに戻します。10世紀以降、官物・臨時雑役は名(みょう)という徴税単位、つまり土地にかけられるようになり、その結果として戸籍・計帳による人別の把握は意味を失っていきました。この因果が逆になっている文を探します。

<選択肢>

①【誤りでない】

財政難に陥った朝廷は、823年に大宰府管内に公営田を、879年に畿内に元慶官田を設け、直営方式で財源を確保しようとしました。記述のとおりです。

②【誤りでない】

桓武天皇は班田収授の実施が滞る状況に対し、6年ごとだった班田の期間を12年ごとに改めました(一紀一班)。それでも班田は次第に行われなくなっていったという記述も事実に合います。

③【誤りでない】

自ら土地を開発した開発領主のなかには、国司による課税や干渉を避けるため、所領を中央の貴族や大寺社に寄進して保護を求める者がありました。寄進地系荘園が広がる経緯として正しい記述です。

④【誤】

官物や臨時雑役が名を単位として土地に課されるようになったことは、人(戸)を単位に把握して課税する仕組みからの転換を意味します。結果として戸籍・計帳にもとづく支配は崩れていったので、「強化された」とするのは因果が逆で、この文が誤りです。

正解【④】

土地への課税化の帰結は戸籍にもとづく支配の崩壊であって強化ではないため、④が誤りの文=正解です。

第3問 年号(元号)が映す中世の政治と社会(配点16)

年号(元号)の使われ方をテーマにした文章A・Bです。Aは治承年号が並び立った12世紀末の内乱と南北朝の分裂を扱い、Bは近世以前で最長となった応永年号から正長・永享への改元と、将軍・鎌倉公方の対立、さらに地方社会の私年号を扱います。

A 問1:正解 ④(解答番号13/配点2)

<問題要旨>

文章中の空欄アとイに入る語句の組合せを選ぶ設問です。アは12世紀末の内乱で東日本に挙兵し、改元後も治承の年号を使い続けた人物、イは14世紀末に南北朝の合体(合一)を仲介した人物です。

<考え方>

空欄の前後にある時期の限定が決め手です。アは「12世紀末の内乱」「東日本で挙兵」なので、源頼朝と並んで挙兵した同時代の武将を選びます。イは「14世紀末」「南北朝の合体」なので、1392年に南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ神器を渡させた将軍を選びます。似た名前の人物との時期のずれを見抜く設問です。

<選択肢>

ア=源義仲【正】

源義仲(木曽義仲)は1180年に信濃で挙兵し、頼朝とともに東日本で反平氏の兵を挙げました。改元後も治承の年号を使い続けたことは、平氏が主導する朝廷の改元を認めない姿勢の表れです。源義家は11世紀後半の後三年合戦で活躍した人物で、時期が1世紀ほどずれます。

イ=足利義満【正】

3代将軍足利義満は1392年、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を譲る形で南北朝の合体を実現させました。足利義輝は16世紀の13代将軍で、南北朝の合体には関わりません。

正解【④】

アが源義仲、イが足利義満なので、その組合せの④が正解です。

A 問2:正解 ②(解答番号14/配点3)

<問題要旨>

天皇の即位が改元の契機になったという下線部をうけて、上皇が関与した院政期の政治について述べた4つの文から正しいものを1つ選ぶ設問です。

<考え方>

院政の仕組みを、「上皇が出す文書が国政を動かす」「知行国・荘園の寄進が経済的基盤になる」という2本の柱で押さえておけば決まります。上皇は天皇の直系尊属という立場から、律令の官職によらず政治を動かしたため、その意思を伝える文書が実際の効力をもつようになりました。

<選択肢>

①【誤】

院政期に上皇が法や慣習にとらわれない政治を行った面はありますが、国司の制度そのものは廃止されていません。むしろ院の近臣が国守に任じられ、知行国の制度と結びついて院政の経済的基盤になりました。

②【正】

上皇の家政機関である院庁が発する院庁下文や、上皇の命令を伝える院宣が、国政において効力をもつようになりました。太政官を通さない文書が政治を動かした点が院政の特色です。

③【誤】

院政期には上皇のもとに荘園の寄進が集中し、八条院領・長講堂領といった大規模な荘園群が形成されました。寄進が「おとろえ」たとする点が事実と逆です。知行国が経済的基盤の一つであったこと自体は正しいだけに、前半の誤りを見落とさないことが必要です。

④【誤】

雑訴決断所は、1334年に後醍醐天皇の建武の新政で所領関係の訴訟を扱うために置かれた機関です。院政期より2世紀近く後の機関であり、時期のすり替えにあたります。

正解【②】

院庁下文などの文書が国政に効力をもった点を述べた②が正解です。

A 問3:正解 ④(解答番号15/配点3)

<問題要旨>

年号の採用が中世の支配階層にとって重要な政治的選択であったという下線部に関連して、12世紀末から14世紀の出来事を述べた3つの文Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に並べる設問です。

<考え方>

3つの文の年代を先に確定させます。中先代の乱は北条高時の子時行が鎌倉を奪回した1335年、鎌倉殿すなわち源頼朝による奥州藤原氏の討滅は1189年、元の朝貢要求の拒否は1268年の国書到来以降で文永の役(1274年)より前です。鎌倉幕府の成立期・中期・滅亡直後という順に並びます。

<選択肢>

Ⅰ 中先代の乱を機に天皇の政権に離反する武士が現れた【3番目】

1335年、北条高時の子の時行が信濃で挙兵して鎌倉を一時占領しました。これを鎮圧するため東下した足利尊氏が建武政権に反旗をひるがえし、武家政権の再建に向かいます。3つのうち最も新しい出来事です。

Ⅱ 鎌倉殿とその軍勢が奥州藤原氏を滅ぼした【1番目】

1189年、源頼朝は源義経をかくまったことを理由に大軍を率いて奥州に攻め入り、藤原泰衡を滅ぼしました。鎌倉幕府成立期の出来事で、3つのうち最も古いものです。

Ⅲ 元からの度重なる朝貢要求を幕府が拒否した【2番目】

1268年にフビライの国書が届いて以降、元は繰り返し朝貢を求めましたが、執権北条時宗のもとで幕府はこれを拒み、1274年の文永の役を迎えます。Ⅱの後、Ⅰの前にあたります。

正解【④】

Ⅱ(1189年)→Ⅲ(1268年以降)→Ⅰ(1335年)の順になるので④が正解です。

B 問4:正解 ④(解答番号16/配点3)

<問題要旨>

南北朝の合体の2年後から始まり35年続いた応永という年号に関する下線部をうけて、その時期の出来事について述べた4つの文から誤っているものを1つ選ぶ設問です。

<考え方>

まず応永年間の範囲を確定させます。南北朝の合体が1392年で、その2年後から35年間続くので、応永は1394年から1428年にあたります。この枠に各選択肢の年代を当てはめ、外れるものを探します。室町時代の出来事は年号で示されることが多いので、応永の外寇・永享の乱・寧波の乱といった名称と西暦を結びつけておくと素早く切れます。

<選択肢>

①【誤りでない】

足利義満が京都北山に営んだ北山殿(北山第)に金閣が造営されたのは1397年(応永4年)で、応永年間に入ります。

②【誤りでない】

1419年(応永26年)、朝鮮軍が倭寇の本拠地とみなした対馬を攻撃しました。応永の外寇とよばれ、年号がそのまま名称になっています。

③【誤りでない】

前関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起こし、翌年に追討されたのは1416年から1417年(応永23年から24年)で、応永年間の出来事です。

④【誤】

中国の寧波で細川氏と大内氏の使節が衝突した寧波の乱は1523年(大永3年)で、応永年間(1394年から1428年)から約100年後の出来事です。時期が枠から外れており、この文が誤りになります。

正解【④】

寧波の乱は1523年で応永年間に含まれないため、④が誤りの文=正解です。

B 問5:正解 ①(解答番号17/配点2)

<問題要旨>

永享の年号を使わなかった鎌倉公方に関する下線部をうけて、鎌倉公方について述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

室町幕府と鎌倉府の対立を、永享の乱とその後の関東の分裂という流れで押さえます。将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏の対立がどう決着したか、そして鎌倉公方の家がその後どう分かれたかという2点を確かめます。

<選択肢>

X【正】

6代将軍足利義教は1438年、関東管領上杉憲実と対立した鎌倉公方足利持氏を討つため関東に軍勢を送り、翌1439年に持氏を自害させました(永享の乱)。義教の将軍職就任を認めなかった持氏が永享の年号を用いなかったという文章の記述とも対応します。

Y【正】

持氏の子の足利成氏は鎌倉公方となったのち関東管領上杉氏と争って下総の古河に移り古河公方となり、幕府が新たに下向させた足利政知は伊豆の堀越にとどまって堀越公方となりました。鎌倉公方が古河公方と堀越公方に分裂したという記述は事実に合います。

正解【①】

永享の乱を述べたXも、古河公方と堀越公方への分裂を述べたYもともに正しいので、①が正解です。

B 問6:正解 ②(解答番号18/配点3)

<問題要旨>

朝廷の定めたものではない私年号が地方で使われたことに関連して、室町時代から戦国時代の地方社会について述べた4つの文a〜dから、正しいものの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

この時期の地方社会を、農業生産力の上昇・手工業や特産品の発達・新しい宗教勢力の広がりという3つの動きで整理すれば判定できます。全体として生産が伸び、地方の独自性が強まった時期だという大枠に照らすと、「おとろえた」とする文はまず疑ってかかります。宗派の名称は、禅宗の一派かどうかで切り分けます。

<選択肢>

a 稲の品種改良が進み、早稲・中稲・晩稲の作付けが普及した【正】

室町時代には品種改良が進んで収穫時期の異なる早稲・中稲・晩稲が作り分けられるようになり、災害の危険を分散させながら収穫を安定させました。二毛作の広がりや水車による灌漑の普及とあわせて、生産力の上昇を示す事実です。

b 美濃の紙や河内の木綿など、特産品の生産がおとろえた【誤】

美濃紙・河内木綿はいずれもこの時期に各地で発達した特産品の代表例です。手工業の分業が進み、六斎市や問屋の活動とともに生産と流通がさかんになったので、「おとろえた」という方向が事実と逆になっています。

c 時宗や律宗からなる林下の布教活動がさかんに行われた【誤】

林下とは、幕府の保護を受けた五山(叢林)に対し、権力と距離を置いて布教した禅宗の寺院を指します。臨済宗の大徳寺・妙心寺、曹洞宗の永平寺・総持寺などがこれにあたり、時宗や律宗は含まれません。宗派の名がすり替えられています。

d イエズス会の布教活動が九州で始まった【正】

1549年、イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸して布教を始め、以後九州を中心にキリスト教が広がりました。戦国時代の地方社会の動きとして正しい記述です。

正解【②】

正しいのは稲の品種改良を述べたaとイエズス会の布教を述べたdなので、②が正解です。

第4問 近世の土木工事・村の自治と文人の世界(配点16)

近世の社会・政治・文化に関する文章A・Bです。Aは利根川の付け替えや玉川上水などの大規模な土木工事と、百姓によって自治的に運営された村を扱い、採草地をめぐる村どうしの争論を記した和解文書を読ませます。Bは狂歌師・幕臣として生きた大田南畝の生涯を軸に、天明期の文化と寛政の改革、対外関係を扱います。

A 問1:正解 ③(解答番号19/配点2)

<問題要旨>

江戸時代の大規模な土木工事に関する下線部をうけて、述べた文X・Yに該当する語句a〜d(本阿弥光悦・角倉了以・手伝普請・小物成)のどれが当てはまるかを組み合わせで選ぶ設問です。Xは京都の豪商で富士川の整備と高瀬川の開削にあたった人物、Yは幕府が大名に河川改修などの負担を命じた仕組みを指します。

<考え方>

Xは「京都の豪商」「河川の整備・開削」という2条件がそろう人物を選びます。Yは大名に課された負担なのか、百姓に課された税なのかという区別が決め手で、大名に土木工事の費用と労力を負担させる課役を選びます。人物の職業と、負担を課される相手をそれぞれ確認すれば迷いません。

<選択肢>

X=角倉了以(b)【正】

角倉了以は朱印船貿易にも携わった京都の豪商で、富士川・天竜川などの水路整備や、京都の市中と伏見を結ぶ高瀬川の開削を手がけました。本阿弥光悦(a)は書・陶芸・蒔絵にすぐれた寛永期の芸術家で、鷹ヶ峯に芸術村を営んだ人物であり、河川工事の担い手ではありません。

Y=手伝普請(c)【正】

幕府が大名に命じて城郭・河川・道路などの工事費用と労力を負担させたのが手伝普請(お手伝い普請)で、大名の財力を削ぐ効果もありました。小物成(d)は本年貢(本途物成)以外に、山野河海の利用などに対して百姓に課された雑税で、負担する相手が大名ではありません。

正解【③】

Xが角倉了以(b)、Yが手伝普請(c)なので、その組合せの③が正解です。

A 問2:正解 ②(解答番号20/配点3)

<問題要旨>

江戸時代の村が百姓によって自治的に運営されていたという下線部に関連して、近世の村や百姓について述べた4つの文から正しいものを1つ選ぶ設問です。

<考え方>

近世の村を、村請制(年貢を村単位で請け負う)・村入用(村の運営経費を村が負担する)・五人組(連帯責任の組織)という3つの制度で押さえれば、誤りの3つを機械的に落とせます。村の自治とは、村が責任と費用を引き受けることとほぼ同義である点が判定の軸です。

<選択肢>

①【誤】

年貢は村高にもとづいて村全体に課され、名主・組頭・百姓代の村方三役を中心に村がまとめて納入しました(村請制)。村が関与せず百姓が個々に責任を持ったという記述は、近世の村の仕組みと正反対です。

②【正】

五街道などの宿駅では人馬が不足したため、周辺の村々が助郷役を課され、人足や馬を提供する負担を負いました。交通量の増加につれて負担は重くなり、助郷役の免除や軽減を求める訴えも起こっています。

③【誤】

村の運営に要する経費である村入用は、村が百姓から徴収してまかないました。幕府が支給したという点が事実に反し、負担の主体がすり替えられています。

④【誤】

犯罪防止や年貢の納入について連帯責任を負わせるために編成されたのは五人組です。結(ゆい)・もやいは、田植えや屋根葺きなどを村の内部で助け合う共同労働の慣行で、幕府が治安のために編成したものではありません。

正解【②】

街道周辺の村々が助郷役を負担したことを述べた②が正解です。

A 問3:正解 ①(解答番号21/配点3)

<問題要旨>

安房国(現在の千葉県南部)の川名村と金尾谷村が、採草地をめぐる争論について1830年に取り交わした和解の文書を読み、その内容について述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ設問です。注では、秣場が肥料や飼料を採る採草地であること、取り扱いが仲裁を意味することなどが示されています。

<考え方>

史料に出てくる人名の肩書きと、末尾の合意内容を確かめれば決まります。仲裁に入った4人がそれぞれどの村の何という役職なのかを数え、Xの「名主2人と組頭2人」と照合します。Yは末尾の「両邑永々入会の秣場に熟談仕り候」が、両村の共同利用で話がついたことを示している点を読み取ります。幕府への訴訟(公訴)に及ぶ前に、近隣の村役人の仲裁で内済(示談)に持ち込むという近世の紛争処理のかたちを知っていると、いっそう確実になります。

<選択肢>

X【正】

史料に挙がる仲裁者は、舟形村の名主九右衛門、那古村寺領の名主武兵衛、深名村の組頭市郎右衛門、白坂村の組頭長左衛門の4人です。名主が2人、組頭が2人であり、いずれも当事者ではない隣村の村役人が取り扱い(仲裁)に立ち入ったという記述と一致します。

Y【正】

史料は、四か村が立ち入って争論の処置を一任され、両村が永く入会とする秣場として熟談(示談)が成立したと述べています。争いの対象となった採草地を当事者の両村で共同利用することで合意したという記述と合致します。

正解【①】

仲裁者の構成を述べたXも、入会による共同利用の合意を述べたYもともに史料どおりなので、①が正解です。

B 問4:正解 ④(解答番号22/配点2)

<問題要旨>

文章中の空欄アとイに入る語句の組合せを選ぶ設問です。アは大田南畝が四方赤良と号して流行の中心となった天明期の文芸、イは出版統制によって処罰された洒落本・黄表紙作家を指します。

<考え方>

大田南畝の号である四方赤良が、和歌を滑稽に詠み替える文芸の作者名である点が手がかりです。イは、寛政の改革の出版統制で実際に処罰された作家かどうかで決まります。作品のジャンル(洒落本・黄表紙)と、活躍した時期(寛政期)の2点がそろう人物を選びます。

<選択肢>

ア=狂歌【正】

狂歌は和歌の形式で世相を風刺し滑稽に詠む文芸で、天明期に大流行しました。大田南畝は四方赤良の号でその中心となり、宿屋飯盛(石川雅望)らと並び称されます。川柳は五・七・五の形式で、柄井川柳の点による前句付から生まれた別の文芸です。

イ=山東京伝【正】

寛政の改革の出版統制により、1791年に洒落本『仕懸文庫』などが風俗を乱すとされ、山東京伝は手鎖50日の処罰を受けました。版元の蔦屋重三郎も財産の半分を没収されています。井原西鶴は元禄期の浮世草子作者で、17世紀に没しており、寛政の改革で処罰されることはありえません。

正解【④】

アが狂歌、イが山東京伝なので、その組合せの④が正解です。

B 問5:正解 ③(解答番号23/配点3)

<問題要旨>

松平定信が推進した寛政の改革に関する下線部をうけて、この改革について述べた4つの文から誤っているものを1つ選ぶ設問です。

<考え方>

寛政の改革の政策を、飢饉対策(囲米)・都市の下層民対策(七分積金と人足寄場)・農村復興・思想統制という柱で整理しておけば、そこに収まらないものが浮かび上がります。改革の名称ごとに代表政策を結びつけ、天保の改革の政策が混ぜられていないかを確かめるのが定石です。

<選択肢>

①【誤りでない】

松平定信は各地に社倉・義倉を設けさせ、飢饉に備えて米穀を蓄えさせました(囲米)。天明の飢饉の経験をふまえた政策です。

②【誤りでない】

江戸に町会所を設け、町費(町入用)の節約分の7割を積み立てて運用し、飢饉や災害時の貧民救済に充てました(七分積金)。

③【誤】

上知令は1843年に老中水野忠邦が江戸・大坂周辺の大名・旗本領を幕府直轄地にしようとした政策で、天保の改革のものです。大名・旗本の反対で撤回され、水野の失脚につながりました。寛政の改革の政策に他の改革の政策が混ぜられており、この文が誤りです。

④【誤りでない】

1790年、江戸の石川島に人足寄場を設け、無宿人を収容して職業訓練を施しました。治安対策と授産を兼ねた施設です。

正解【③】

上知令は天保の改革の政策で寛政の改革のものではないため、③が誤りの文=正解です。

B 問6:正解 ②(解答番号24/配点3)

<問題要旨>

大田南畝が長崎滞在中にロシアの使節に面会したという下線部に関連して、3つの文Ⅰ〜Ⅲを古いものから年代順に並べる設問です。長崎での26名の処刑、唐人屋敷の設置、オランダ商館の出島移転が素材です。

<考え方>

3つの文の年代を先に確定させます。宣教師・信者26名の処刑は豊臣秀吉による1597年の26聖人殉教、オランダ商館の平戸から出島への移転は1641年、中国人の居住地を1か所に限定した唐人屋敷の設置は1689年です。豊臣政権期・いわゆる鎖国体制の完成期・その後の貿易統制強化期という3段階に対応します。

<選択肢>

Ⅰ キリスト教の宣教師・信者26名が長崎で処刑された【1番目】

1596年のサン=フェリペ号事件を契機に、豊臣秀吉は宣教師・信者26名を捕らえ、1597年に長崎で処刑しました(26聖人殉教)。3つのうち最も古い出来事です。

Ⅱ 中国人の居住地を1か所に限定するため唐人屋敷が設けられた【3番目】

密貿易を防ぐため、1689年に長崎郊外の十善寺郷に唐人屋敷が設けられ、来航した中国人の居住がそこに限定されました。3つのうち最も新しい出来事です。

Ⅲ 平戸にあったオランダ商館が長崎の出島に移された【2番目】

1641年、幕府は平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、ヨーロッパとの窓口を長崎1か所に限定しました。Ⅰの後、Ⅱの前にあたります。

正解【②】

Ⅰ(1597年)→Ⅲ(1641年)→Ⅱ(1689年)の順になるので②が正解です。

第5問 公家から華族へ(配点12)

近世・近代における公家と華族をテーマにした文章です。幕政への関与を許されなかった江戸時代の公家が、開国問題を機に政治の舞台に現れ、岩倉具視のように明治維新の立役者となる者が出たこと、そして1869年以降に整えられた華族制度が日本国憲法の施行まで続いたことを扱います。A・Bの区分はなく、問1から問4までが一続きです。

問1:正解 ①(解答番号25/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄アとイに入る語句の組合せを選ぶ設問です。アは摂政・関白や将軍職を廃して天皇中心の政府樹立をめざしたもの、イは公家出身の華族も議官をつとめた、法律案を審議する機関です。

<考え方>

アは「摂政・関白や将軍職を廃して」という文言がそのまま内容になっている宣言を選びます。イは「法律案を審議する」「議官」という2語が決め手で、立法に関わる機関か司法機関かを区別します。明治初期に設けられた機関の役割を取り違えないことが要点です。

<選択肢>

ア=王政復古の大号令【正】

1867年12月に発せられ、摂政・関白や幕府(将軍職)を廃止して、総裁・議定・参与の三職を置く天皇中心の新政府の樹立を宣言しました。岩倉具視が薩摩藩の倒幕派と通じて策定に関わった基本方針にあたります。五榜の掲示は1868年に民衆に向けて出された5枚の高札で、徒党・強訴やキリスト教の禁止などを掲げたものであり、政府の組織を定めたものではありません。

イ=元老院【正】

1875年の大阪会議をうけて設置された立法諮問機関で、議官が法律案を審議しました。大審院も同じ1875年に設けられていますが、こちらは司法権の最高機関(最高裁判所にあたる)で、法律案の審議は行いません。立法と司法の役割が入れ替えられていないかを確かめます。

正解【①】

アが王政復古の大号令、イが元老院なので、その組合せの①が正解です。

問2:正解 ④(解答番号26/配点3)

<問題要旨>

開国問題で朝廷の政治的影響力が増したという下線部に関連して、述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ設問です。Xは井伊直弼と勅許、Yは安藤信正と公武合体を扱います。

<考え方>

幕末の政局を、朝廷の許可を得られないまま条約を結んだことが反発を招き、その後の幕府が朝廷との融和に転じたという流れで押さえます。井伊直弼が勅許を得たかどうか、安藤信正が公武合体に賛成の側か反対の側かという2点をそれぞれ確かめます。どちらも、実際と逆の立場に置き換える形の誤りです。

<選択肢>

X【誤】

大老井伊直弼は1858年、孝明天皇の勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印しました。これが尊王攘夷派の強い反発を招き、反対派を弾圧した安政の大獄、そして桜田門外の変へとつながります。勅許を得たとする点が事実と逆です。

Y【誤】

老中安藤信正は、孝明天皇の妹である和宮を将軍徳川家茂の妻に迎える和宮降嫁を進めるなど、朝廷との融和をはかる公武合体を推進した側です。これに反発した尊攘派に坂下門外で襲撃されて負傷し、まもなく老中を退きました。公武合体に反対したという立場が逆になっています。

正解【④】

Xは勅許を得ないまま調印した点で、Yは公武合体を推進した側である点で、ともに事実と逆なので④が正解です。

問3:正解 ③(解答番号27/配点3)

<問題要旨>

明治政府が大名や公家を華族とし、その後東京へ移住させたという下線部に関連して、明治初期の東京について述べた4つの文から正しいものを1つ選ぶ設問です。

<考え方>

明治初期の東京を、旧江戸城が皇居となったこと・電信や鉄道が横浜との間に開かれたこと・廃藩置県で旧藩主が東京に集められたこと、という事実で押さえれば判定できます。自由民権運動の組織については、結成された都市の名を正確に覚えているかが問われます。

<選択肢>

①【誤】

江戸城は1868年に無血開城され、焼失していません。その西の丸などがそのまま皇居(東京城、のち宮城)として使われました。事実に反する出来事が加えられています。

②【誤】

日本で最初の電信は1869年に東京と横浜の間で開通しました。新潟ではなく横浜であり、区間がすり替えられています。

③【正】

1871年の廃藩置県により藩が廃されて府県が置かれ、旧藩主である知藩事は罷免されて東京居住を命じられました。府知事・県令には中央から新たな官僚が派遣され、中央集権化が進みます。

④【誤】

自由民権運動の全国的組織である愛国社は、1875年に大阪で結成されました(大阪会議と同じ年)。結成の地が東京ではありません。

正解【③】

廃藩置県で知藩事が罷免され旧藩主が東京居住を命じられた③が正解です。

問4:正解 ③(解答番号28/配点3)

<問題要旨>

華族制度を整備していったという下線部について述べた4つの文から、誤っているものを1つ選ぶ設問です。家禄・爵位・統帥権・貴族院議員資格が素材です。

<考え方>

大日本帝国憲法の条文の骨格に戻ります。陸海軍の統帥権は天皇の大権に属し、内閣や議会から独立したものとされました(統帥権の独立)。この権限を天皇以外の身分に認める規定はないので、権限の帰属先が増やされている文を探します。

<選択肢>

①【誤りでない】

廃藩置県の後も、政府は華族や士族に家禄を支給し続けました。これが財政を圧迫したため、1876年の秩禄処分で金禄公債証書を与えて打ち切られます。

②【誤りでない】

1884年の華族令によって、公・侯・伯・子・男の5段階の爵位が定められ、旧大名・旧公家に加え維新の功労者にも爵位が与えられました。

③【誤】

大日本帝国憲法で陸海軍を統帥する権限(統帥権)が認められたのは天皇だけです。華族に統帥権が認められたという記述は憲法の規定にはなく、権限を持つ主体が増やされています。

④【誤りでない】

華族は貴族院議員となる資格を持ちました。公爵・侯爵は終身の議員となり、伯爵・子爵・男爵は互選によって議員を出しました。

正解【③】

統帥権は天皇のみに属し華族には認められていないため、③が誤りの文=正解です。

第6問 近現代の日米関係(配点24)

近現代の日米関係に関する文章A・B・Cの3部構成です。Aは日露戦争後から太平洋戦争開戦まで、Bは敗戦後の占領期でGHQが日本政府に出した報道統制の覚書を読ませ、Cは講和・安保条約から1990年代の軍事・防衛協力までを扱います。配点24点と最も大きく、全36問のうち8問がここに置かれています。

A 問1:正解 ①(解答番号29/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄アとイに入る語句の組合せを選ぶ設問です。アは1917年にアメリカとの間で結ばれ、中国における日本の権益と中国の領土保全・門戸開放を相互に承認したもの、イは日本軍が進駐してアメリカの対日経済制裁強化を招いた地域です。

<考え方>

アは「1917年」という年次と、中国に関する内容という2条件で決まります。イは日中戦争の行き詰まりのなかで、援蔣ルートの遮断と南方資源の確保を狙って進駐した地域で、これにアメリカが屑鉄・石油の輸出制限などで応じました。協定・協約の名称は、年次と相手・対象地域をセットで覚えておくと取り違えません。

<選択肢>

ア=石井・ランシング協定【正】

1917年、特派大使石井菊次郎とアメリカ国務長官ランシングとの間で結ばれ、中国における日本の特殊権益と、中国の領土保全・門戸開放をたがいに認め合いました。桂・タフト協定は1905年に結ばれ、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国指導権を承認し合ったもので、年次も対象地域も異なります。

イ=フランス領インドシナ(仏印)【正】

1940年9月の北部仏印進駐、1941年7月の南部仏印進駐に対し、アメリカは屑鉄・石油の輸出制限や在米日本資産の凍結、対日石油輸出の全面禁止といった経済制裁を強めました。フィリピンはアメリカの統治下にあり、開戦後に日本軍が攻撃した地域なので、経済制裁を招いた進駐先としては当たりません。

正解【①】

アが石井・ランシング協定、イがフランス領インドシナ(仏印)なので、その組合せの①が正解です。

A 問2:正解 ④(解答番号30/配点3)

<問題要旨>

第一次世界大戦後に米英との協調外交を展開した幣原喜重郎について述べた4つの文から、正しいものを1つ選ぶ設問です。外相としての活動だけでなく、戦後の経歴まで視野に入れて判断させます。

<考え方>

幣原喜重郎の経歴を、大正末から昭和初期の外相(協調外交)と、敗戦後の首相(1945年10月から1946年5月)という2つの時期で押さえます。他の3つは、それぞれ別人が担った役割なので、担当した人物の名を思い出せば切れます。

<選択肢>

①【誤】

ポーツマス条約に日本全権として調印したのは外相の小村寿太郎です(1905年)。人物がすり替えられています。

②【誤】

初代朝鮮総督として武断政治を実施したのは寺内正毅です(1910年)。これも担当した人物が異なります。

③【誤】

1945年9月2日の降伏文書に調印したのは外相の重光葵と参謀総長の梅津美治郎で、当時の首相は東久邇宮稔彦です。幣原の組閣はその後の10月であり、人物と時期の両方がずれています。

④【正】

1945年10月に成立した幣原喜重郎内閣は、GHQの求めに応じて憲法問題調査委員会(松本委員会)を設け、憲法改正の作業に着手しました。その案がGHQに拒否された後、GHQ草案をもとにした政府の憲法改正草案要綱を発表しています。

正解【④】

首相として新憲法の制定に着手したことを述べた④が正解です。

A 問3:正解 ④(解答番号31/配点3)

<問題要旨>

開戦後にアメリカで生活する日本人が収容所に入れられたという下線部に関連して、近現代における海外での日本人の動向について述べた4つの文から、正しいものを1つ選ぶ設問です。

<考え方>

海外に渡った日本人の動きを、移民・植民・戦後の引揚げという流れで整理します。ここでは、会社の設立年、抑留が起きた戦争、移民政策が推進されたか廃止されたか、という3つの確認で誤りの文が落ち、残るものが敗戦前後の混乱に関する記述になります。

<選択肢>

①【誤】

東洋拓殖会社が設立されたのは1908年で、第三次日韓協約(1907年)後に韓国の土地経営や日本人移住の推進を担った国策会社です。日朝修好条規(1876年)から30年以上後のことで、時期と契機がすり替えられています。

②【誤】

多数の日本軍の軍人・軍属がシベリアに抑留されたのは、第二次世界大戦の敗戦後、ソ連軍に武装解除された1945年以降のことです。日露戦争の後ではなく、時期が40年ずれています。

③【誤】

満州事変の後、政府はむしろ満蒙開拓団や満蒙開拓青少年義勇軍を送り出して満州への移民を積極的に推進しました。廃止されたという点が事実と逆です。

④【正】

敗戦前後の混乱のなかで、旧満州などで肉親と離れ離れになり、現地に取り残されて帰国できなかった子どもたちが中国残留孤児となりました。1980年代以降、訪日調査による肉親捜しが進められています。

正解【④】

敗戦前後の混乱で中国残留孤児が生じたことを述べた④が正解です。

B 問4:正解 ①(解答番号32/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄ウとエに入る語句の組合せを選ぶ設問です。ウはGHQが日本政府に指令や勧告を発して行った統治の形態、エは特別公使ドッジが日本政府に歳出をどうさせて超均衡予算を編成させたかを指します。

<考え方>

ウは、GHQが日本政府という既存の行政機構を通じて政策を実施した点に戻ります。沖縄が米軍の直接軍政下に置かれたのと対比すると違いがはっきりします。エは「超均衡予算」という語の意味で決まり、赤字を出さないどころか歳入が歳出を上回る予算を組ませたのですから、歳出をどう扱ったかは自明です。

<選択肢>

ウ=間接【正】

GHQは日本政府に指令・勧告を発し、日本政府が法令を出して実施するという形をとりました。これが間接統治です。同時期の沖縄は米軍による直接軍政下に置かれており、本土とは統治の形態が異なりました。

エ=抑制する【正】

1949年、ドッジは赤字を許さない超均衡予算を編成させ、歳出を極力抑制するとともに補助金を削減し、復興金融金庫の新規貸出を停止しました。1ドル=360円の単一為替レート設定とあわせてドッジ=ラインとよばれ、インフレは収束した一方で不況(安定恐慌)を招きました。歳出を増加させたのでは均衡予算になりません。

正解【①】

ウが間接、エが抑制するなので、その組合せの①が正解です。

B 問5:正解 ②(解答番号33/配点3)

<問題要旨>

戦前に日本に滞在したことがあるベアテ=シロタに関する下線部をうけて、幕末以降に日本に滞在したアメリカ人について述べた4つの文から、誤っているものを1つ選ぶ設問です。

<考え方>

お雇い外国人については、出身国と専門分野をセットで覚えているかが問われます。ここでは、来日した人物の専門と実際に果たした役割が一致しているかを1人ずつ確かめます。地方制度や憲法など法制度の助言はドイツ人が担ったという大枠を押さえておくと、不一致がすぐに見つかります。

<選択肢>

①【誤りでない】

初代駐日総領事として1856年に下田に着任したハリスは、江戸幕府に通商条約の締結を求め、1858年の日米修好通商条約の調印に至りました。

②【誤】

モースはアメリカの動物学者で、1877年に来日して大森貝塚を発見・発掘し、東京大学で進化論を講じた人物です。地方制度について明治政府に助言したのはドイツ人のモッセで、市制・町村制の立案に関わりました。専門分野の異なる人物にすり替えられており、この文が誤りです。

③【誤りでない】

アメリカ人のフェノロサは東京大学で哲学などを講じるかたわら、岡倉天心とともに日本の伝統美術を高く評価し、その保存と復興に努めました。

④【誤りでない】

クラークはアメリカから招かれて1876年に札幌農学校の初代教頭となり、農学と英語による教育にあたりました。

正解【②】

地方制度を助言したのはドイツ人モッセであり、モースは大森貝塚を発見した動物学者なので、②が誤りの文=正解です。

B 問6:正解 ③(解答番号34/配点3)

<問題要旨>

検閲の対象に関する下線部をうけて、1945年9月19日にGHQが日本政府に出した覚書「日本ニ与フル新聞紙法」(プレスコード)の一部を史料として読み、その内容について述べた文X・Yの正誤の組合せを選ぶ設問です。注では、公安が社会全体の平安と秩序を指すことが示されています。

<考え方>

史料の条文を1つずつ、何を禁じているかという観点で読みます。第二条は掲載を禁じる範囲を「直接であれ推論の結果であれ」と広くとっており、真実かどうかを条件にしていません。第四条は進駐した連合軍に対する批判や、不信・怨恨を招くような事項の掲載を禁じています。X・Yがそれぞれどの条文に対応するかを確かめ、条文の文言と食い違う部分を探します。

<選択肢>

X【誤】

第二条は「直接タルト推論ノ結果タルトヲ問ハズ、公安ヲ害スベキ事項ハ何事モ掲載スベカラズ」と述べており、公安を害する事項は理由を問わず掲載を禁じています。真実であれば許されるという例外は示されていないので、史料の内容と食い違います。第一条が報道に真実を守ることを求めているのは、真実でありさえすれば何でも報じてよいという意味ではありません。

Y【正】

第四条は、進駐した連合軍に対して破壊的な批判を加えたり、同軍に対する不信や怨恨を招くような事項を掲載したりしてはならないと定めています。連合軍への不信や怨恨を招く報道を禁じているという記述と一致します。

正解【③】

真実なら公安を害しても許されるとするXは史料になく誤、連合軍への不信・怨恨を招く報道の禁止を述べたYは第四条のとおりで正なので、③が正解です。

C 問7:正解 ③(解答番号35/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄オとカに入る語句の組合せを選ぶ設問です。オは日米安全保障条約に基づいて翌年に結ばれたもの、カは日韓基本条約を結ぶ一方で沖縄返還交渉を進めた内閣です。

<考え方>

オは「1951年に結んだ日米安全保障条約に基づいて」「さらに翌年」という2つの限定から、1952年に結ばれたものだと決まります。カは日韓基本条約(1965年)と沖縄返還交渉という2つの事績がそろう首相を選びます。条約・協定は締結年を、内閣は在任期間とその時期の主要な外交を結びつけて整理しておくと確実です。

<選択肢>

オ=日米行政協定【正】

1952年に締結され、アメリカ軍への基地(施設・区域)の提供や駐留経費の分担などを取り決めました。日米安全保障条約に基づく細目を定めたもので、「翌年」という条件に合致します。日米相互防衛援助協定(MSA協定)は1954年に結ばれ、アメリカの援助と引き換えに日本の防衛力増強を義務づけたもので、締結年が1年ずれるうえ、安保条約に基づく細目協定でもありません。

カ=佐藤栄作【正】

1964年から1972年まで首相を務め、1965年に日韓基本条約を結んで韓国と国交を樹立する一方、沖縄返還交渉を進め、1971年の沖縄返還協定、1972年の沖縄の日本復帰を実現しました。大平正芳が首相となったのは1978年からで、沖縄返還の後にあたります。

正解【③】

オが日米行政協定、カが佐藤栄作なので、その組合せの③が正解です。

C 問8:正解 ③(解答番号36/配点3)

<問題要旨>

1990年代以降に軍事・防衛での協力が進んだという下線部に関連して、1990年代の日米の軍事・防衛関係について述べた4つの文a〜dから、正しいものの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

1990年代という枠を最初に引き、各文の出来事がその中に入るかを確かめます。湾岸戦争(1991年)で日本が人的貢献を求められた経験から自衛隊の海外派遣に道が開かれ、さらに日米防衛協力の指針が改定されるという流れを押さえれば、枠から外れる文と事実関係が逆の文が見えてきます。

<選択肢>

a 湾岸戦争の際、日本は多国籍軍への資金援助要請を拒絶した【誤】

日本は湾岸戦争に際して多国籍軍へ総額130億ドルにのぼる資金を拠出しました。拒絶したという点が事実と逆で、むしろ資金は出したが人的貢献がないと国際的に批判された経緯が、その後の自衛隊派遣の議論につながります。

b 湾岸戦争後、国会でPKO協力法(国連平和維持活動協力法)が成立した【正】

1992年に成立し、これに基づいて自衛隊がカンボジアの国連平和維持活動に派遣されました。湾岸戦争後という時期も1990年代という枠も満たします。

c 日米協力のための新ガイドライン関連法が成立した【正】

1997年に日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)が策定され、1999年にはその実施のための周辺事態法などの関連法が成立しました。1990年代の日米防衛協力の進展を示す事実です。

d 在日米軍基地に反対する運動が広がり、砂川事件が起こった【誤】

砂川事件は1957年、東京都砂川町の米軍立川基地の拡張に反対する運動のなかで起こりました。1950年代の出来事であり、1990年代という設問の枠から外れています。

正解【③】

1990年代の事実として正しいのはPKO協力法の成立(b)と新ガイドライン関連法の成立(c)なので、③が正解です。

※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

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