解答
解説
第1問
問1:正解②
<問題要旨>
資料2は第二次世界大戦中、ドイツに協力的(反イギリス)な立場の新聞に掲載された風刺画です。この風刺画の背景と、ジャンヌ=ダルクの史実(誰と戦ったか)についての知識が問われています。
<選択肢>
①【誤】
空欄アは正しいですが、イが誤りです。ジャンヌ=ダルクが活躍したのは、14世紀から15世紀にかけての「百年戦争」であり、17世紀の「三十年戦争」ではありません。
②【正】
空欄ア:資料文に「ドイツに協力的で反イギリスの立場を取る ア 側の新聞」とあります。第二次世界大戦中にナチス=ドイツに協力したフランスの政権は「ヴィシー政府」です。 空欄イ:ジャンヌ=ダルクは、フランス王国の王位継承をめぐってイギリスと戦った「百年戦争」において、フランス軍を勝利に導いた人物です。 したがって、この組み合わせは正しいです。
③【誤】
空欄アが誤りです。レジスタンスはドイツの占領に抵抗した勢力であり、「ドイツに協力的」という本文の記述と矛盾します。イも誤りです。
④【誤】
空欄アが誤りです。レジスタンスはドイツへの抵抗勢力です。
問2:正解①
<問題要旨>
資料1(第一次世界大戦中のイギリスのポスター)と資料2(第二次世界大戦中のフランスの風刺画)の図像と説明文を正確に読み取る問題です。
<選択肢>
①【正】
資料1には「イギリスの女性たちよ、祖国を救え。戦時貯蓄証書を購入せよ」と記されています。注記によれば「戦時貯蓄証書」は「戦費を賄うために発行された債券の一種」です。したがって、このポスターは自国の女性に戦費調達への協力を促すものです。
②【誤】
資料1は「戦時貯蓄証書」の購入を呼びかけるものであり、女性に騎士として戦場に向かうよう促しているわけではありません。
③【誤】
資料2は、1940年のダカール沖での出来事を、1429年のオルレアン解放になぞらえた風刺画です。ユグノー(フランスのプロテスタント)の虐殺(例:サン=バルテルミの虐殺、16世紀)とは時代も内容も異なります。
④【誤】
資料2は第二次世界大戦中の1940年の出来事に関するものです。ファショダ事件(19世紀末にアフリカでイギリスとフランスが対立した事件)とは異なります。
問3:正解③
<問題要旨>
1903年時点の「時局図」に関する会話文の空欄ウを補充する問題です。日本(私)とイギリス(ジョン=ブル)がロシア(熊)を共同で見張る理由を問うています。
<選択肢>
①【誤】
甲午農民戦争(1894年)は日清戦争のきっかけであり、この図が公表された1903年よりも前の出来事です。また、日英がロシアを警戒する文脈とも合いません。
②【誤】
第一次世界大戦は1914年に勃発したものであり、1903年時点の記述として誤りです。
③【正】
風刺画に描かれた熊はロシアを象徴しています。当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を強めていました。イギリスは自国の中国利権を守るため、日本は朝鮮半島への脅威から、共にロシアの南下を脅威とみなしていました。この利害の一致に基づき、1902年に日英同盟が結ばれており、「熊を見張ろう」という記述と合致しています。
④【誤】
日本がロシアに戦勝し、中国東北部の利権を獲得するのは、日露戦争(1904~05年)の結果であり、この図が公表された1903年よりも後の出来事です。
問4:正解④
<問題要旨>
「時局図」(1903年)におけるアメリカ(鷲)の対中政策(空欄エ)を補充する問題です。1903年より前のアメリカの政策が問われています。
<選択肢>
①【誤】
日露戦争の和平交渉を調停(ポーツマス条約)したのは1905年であり、1903年よりも後の出来事です。
②【誤】
ワシントン会議は1921~22年に開催されたものであり、時代が異なります。
③【誤】
石油禁輸措置は、1941年に日本の南部仏印進駐に対して行われたもので、時代が全く異なります。
④【正】
アメリカは、1899年と1900年に国務長官ジョン=ヘイが門戸開放宣言を発し、列強による中国分割の動きを牽制し、自国の経済進出の機会均等(門戸開放・機会均等)を求めました。これは、図が公表される1903年より前の出来事であり、文脈に合致します。
問5:正解③
<問題要旨>
先生の解説を参考に、「時局図」の作者の主張を読み取る問題です。作者は孫文と政治的主張を同じくしていたこともヒントとなります。
<選択肢>
①【誤】
先生の解説では、旧態依然とした官僚や無策の朝廷が批判対象として描かれており、旧体制の存続を目指しているとは考えられません。
②【誤】
ソ連の支援や国共合作は1920年代の出来事であり、1903年時点の主張として時代が異なります。
③【正】
先生は、旧来の試験制度、宴楽にふける富豪、搾取する官僚、無策の大臣など、清朝の支配体制を支える人々や制度が批判の対象として描かれていると解説しています。また、作者は革命派の孫文と主張を同じくしていたことから、腐敗した体制を革命によって打倒しようという主張が読み取れます。
④【誤】
立憲君主政による近代化は、康有為ら変法派の主張です。孫文ら革命派は、清朝の打倒と共和政の樹立を目指しました。
問6:正解②
<問題要旨>
「黄禍の図」(1895年)の原案を作成したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が行った政策を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
ドイツ関税同盟は、ドイツ統一(1871年)以前の1834年にプロイセンを中心に結成されたもので、ヴィルヘルム2世の政策ではありません。
②【正】
ヴィルヘルム2世(在位1888~1918年)は、ビスマルク辞任後、積極的な対外膨張策である「世界政策」を推進し、海軍力の増強や植民地の獲得に乗り出しました。
③【誤】
社会主義者鎮圧法は、ヴィルヘルム1世時代のビスマルクによって1878年に制定されました。ヴィルヘルム2世は1890年にこの法律を廃止しています。
④【誤】
ラインラント進駐は、1936年にヒトラー(ナチス=ドイツ)が行ったものです。
問7:正解④
<問題要旨>
「黄禍の図」の説明文に基づき、空欄オ(先頭の女性が象徴する国)と、皇帝の意図(X・Y)を正しく組み合わせる問題です。
<選択肢>
・空欄オ:説明文には、この図が「日清戦争直後の東アジアの領土変更に対してこの3か国が連携して介入した」ことを意味するとあります。これは三国干渉(1895年)を指し、参加国はロシア、ドイツ、フランスです。図ではドイツとロシアは既に言及されているため、先頭の女性(オ)は残る「フランス」(い)を指します。
・意図:説明文には、皇帝が「1891年以降に自国の東西に敵対国を抱えてきた外交関係を改善したい」と考えていたとあります。これは、西のフランスと東のロシアに挟まれる状況(露仏同盟、1891年~94年成立)を指します。したがって、東アジアでの三国干渉という一時的な連携(Y)を利用して、ヨーロッパにおける露仏同盟との敵対関係を解消しようとした、と推測できます。 ・以上のことから、正しい組み合わせは「い-Y」です。
①【誤】あ-X ②【誤】あ-Y ③【誤】い-X ④【正】い-Y
問8:正解①
<問題要旨>
下線部(欧米列強によるアジア諸民族の抑圧)への反発として起きた出来事を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【正】
義和団事件(1899~1900年)は、中国(清)で起こった民衆による排外運動です。「扶清滅洋(清をたすけ、西洋をほろぼす)」をスローガンに掲げ、列強の支配に反発しました。
②【誤】
アジェンデはチリ(南米)の政治家です。インドネシア国民党を結成したのはスカルノらです。
③【誤】
サレカット=イスラム(イスラーム同盟)は、インドネシア(オランダ領東インド)での民族運動組織であり、インドではありません。
④【誤】
アギナルドはフィリピンの独立運動指導者で、スペイン、次いでアメリカに対して独立戦争を戦いました。オランダではありません。
第2問
問1:正解①
<問題要旨>
1498年にインドのカリカットに到達した人物(空欄ア)と、授業の会話文から読み取れる事柄(X・Y)を正しく組み合わせる問題です。
<選択肢>
・空欄ア:1498年にアフリカ南端の喜望峰を回り、インドのカリカットに到達したポルトガル人は「ヴァスコ=ダ=ガマ」(あ)です。フランシスコ=ザビエル(い)はイエズス会の宣教師で、日本にキリスト教を伝えた人物です。
・読み取れる事柄:Xは、船員が「キリスト教徒と香料を探しに来た」と答えたことや、先生の「アジアにキリスト教徒がいるという伝説が広まっていた」という説明と合致します。Yは、ムスリムが船員を「厚くもてなし」、先生も「最初は…衝突はなく、一行は迎え入れられました」と述べていることから、本文の内容と矛盾します。
・以上のことから、正しい組み合わせは「あ-X」です。
①【正】あ-X ②【誤】あ-Y ③【誤】い-X ④【誤】い-Y
問2:正解②
<問題要旨>
ポルトガルの活動や香辛料について述べた文のうち、誤っているものを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【正】
ヴァスコ=ダ=ガマは、アフリカ東岸のマリンディでムスリム(アラブ人)の水先案内人イブン=マージドの助けを得てインド洋を航海したとされています。会話文でも「ムスリムたちの情報を基に」、「ムスリム商人の商業ルートをたど」ったと言及されています。
②【誤】
19世紀にビルマ(現ミャンマー)を植民地化したのはイギリス(英緬戦争による)であり、ポルトガルではありません。
③【正】
会話文中に「インドから当時、地中海貿易を通じて北アフリカへ胡椒が輸出されていました」とあります。
④【正】
クローブ(丁字)は、モルッカ(マルク)諸島(香料諸島)の特産品として知られ、大航海時代にはポルトガルやオランダがその利権をめぐって争いました。
問3:正解③
<問題要旨>
『ローマ法大全』の編纂を命じた東ローマ皇帝(空欄イ)と、授業の会話文から読み取れる事柄(X・Y)を正しく組み合わせる問題です。
<選択肢>
・空欄イ:『ローマ法大全』の編纂を命じた6世紀の東ローマ(ビザンツ)皇帝は「ユスティニアヌス(大帝)」(い)です。アウグストゥス(あ)はローマ帝国の初代皇帝であり、時代が異なります。
・読み取れる事柄:Xは、先生のセリフ「中世の西ヨーロッパの大学におけるローマ法の研究や教育は、東ローマ帝国におけるこれらのローマ法の編纂物に基づいて行われた」と完全に合致しています。Yは、「イの時代には『ローマ法大全』という名称はまだありませんでした」という記述と矛盾します。
・以上のことから、正しい組み合わせは「い-X」です。
①【誤】あ-X ②【誤】あ-Y ③【正】い-X ④【誤】い-Y
問4:正解②
<問題要旨>
下線部⑧(中世西ヨーロッパの大学における研究や教育)に関連して、ヨーロッパの学問や文化について述べた文として正しいものを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
スコラ学は、中世ヨーロッパの大学で発展した学問です。古代ギリシアではありません。
②【正】
啓蒙思想は、18世紀のヨーロッパ(特にフランスやイギリス)において、理性による旧体制や教会の権威の批判を特徴として広まりました。
③【誤】
グロティウスは「国際法の父」と呼ばれますが、オランダの法学者です。イタリアではありません。
④【誤】
『神曲』を著したのはイタリアの詩人ダンテです。レオナルド=ダ=ヴィンチはルネサンス期を代表する芸術家・科学者です。
問5:正解①
<問題要旨>
下線部⑨(商業活動上の取引)に関連する二つの文(う・え)の正誤を判定する問題です。
<選択肢>
う【正】
アムステルダムは、17世紀にオランダの経済的繁栄(特にアジア貿易)を背景に、国際的な商業・金融の中心地となりました。
え【正】
中世ヨーロッパにおいて、十字軍以降、ヴェネツィアやジェノヴァなどの北イタリア諸都市が、地中海を介した東方貿易(レヴァント貿易)で繁栄しました。 したがって、両方とも「正」です。
①【正】う一正、え一正 ②【誤】う一正、え一誤 ③【誤】う一誤、え一正 ④【誤】う一誤、え一誤
第3問
問1:正解④
<問題要旨>
資料文の内容から、空欄ア(黄宗羲が都として推奨する場所)の地理的位置を地図中から選ぶ問題です。
<選択肢>
・資料文において、アは「江南地域に位置する」と明記され、「江南の食糧や絹織物は天下に流通して」おり「富豪の家に倉や金庫があるようなものだ」と評される経済の中心地です。
・地図中のdは、長江下流域の江南地域(南京や蘇州などを含む)に位置しています。aは北京周辺、bは関中(長安周辺)、cは華北(開封周辺)であり、江南ではありません。
①【誤】aは江南ではありません。
②【誤】bは資料文中の「関中」に該当し、アとは対比されています。
③【誤】cは江南ではありません。
④【正】dは資料文の記述と合致する「江南地域」に位置します。
問2:正解③
<問題要旨>
下線部(黄宗羲が生きた明末清初期に王朝を滅ぼした大規模な反乱)について述べた正しい文を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
倭寇は、14世紀から16世紀にかけて中国や朝鮮の沿岸部を襲った海賊集団であり、明王朝を直接滅ぼした反乱ではありません。
②【誤】
安禄山の反乱(安史の乱)は、唐王朝の時代(8世紀)に起こった反乱です。
③【正】
李自成は、明末の農民反乱を率いた指導者です。彼の反乱軍は1644年に北京を占領し、明(王朝)を滅亡させました。これは黄宗羲が生きた時代と一致します。
④【誤】
洪秀全は、清王朝の末期(19世紀半ば)に太平天国の乱を指導した人物です。
問3:正解④
<問題要旨>
明王朝にとっての都・北京の位置づけ(空欄イ)と、清王朝にとって北京の位置づけが明とは異なる理由(空欄ウ)を正しく組み合わせる問題です。
<選択肢>
・空欄イ:明は、江南(南京)で成立した漢民族の王朝です。北方のモンゴル勢力の脅威に対抗するため、永楽帝が都を北京に移しました。したがって、明にとって北京は「敵対勢力に近い、軍事上の要地」(い)でした。資料文でも北京を「門や庭の防衛」にたとえています。「経済上の要地」(あ)はア(江南)の説明です。
・空欄ウ:清は、「中国東北部(満州)」から興った」王朝(満州人)です。彼らにとって北京は、故地である東北部と、新たに支配する中国本土とを結ぶ結節点であり、帝国全体を支配する拠点として適していました。したがって、明とは北京の持つ意味が異なると言えます。
・以上のことから、正しい組み合わせは「い-X」です。
①【誤】あ-X ②【誤】あ-Y ③【誤】あ-Z ④【正】い-X ⑤【誤】い-Y ⑥【誤】い-Z
問4:正解①
<問題要旨>
空欄エを補充する問題です。紀元前7世紀から紀元前6世紀頃の「スキタイ」が活動した地域を問うています。
<選択肢>
①【正】
スキタイは、紀元前7世紀頃から紀元前3世紀頃にかけて、黒海の北岸からカスピ海の北側(南ロシア草原地帯)で活躍したイラン系の遊牧騎馬民族として知られています。
②【誤】
内陸アジアから移動したフン人を恐れてローマ帝国内に進出したのは、4世紀後半のゴート族などのゲルマン人です。
③【誤】
北欧のスカンディナヴィア半島などを原住地としたのはノルマン人(ヴァイキング)です。
④【誤】
ヨーロッパ大陸の先住民で、異民族(ゲルマン人など)に追われヨーロッパ北西部(ブリテン島など)に定住したのはケルト人です。
問5:正解④
<問題要旨>
下線部(ローマ教皇の要請に従った西ヨーロッパの諸侯や騎士)がもたらした出来事(あ・い)と、その説明(X・Y)を正しく組み合わせる問題です。資料文は12世紀のビザンツ皇女アンナ=コムネナの記述です。
<選択肢>
・出来事:アンナ=コムネナが生きた11世紀末~12世紀、ビザンツ皇帝の救援要請とローマ教皇の呼びかけに応じ、西ヨーロッパの諸侯や騎士が聖地イェルサレムの奪回を目指して東方へ遠征しました。これは「十字軍」(い)です。イタリア戦争(あ)は15世紀末から16世紀の出来事です。
・説明:Y「イェルサレムをイスラーム勢力から奪回するために開始された」は、十字軍の目的を正しく説明しています。X「フランス王国とスペインのハプスブルク家との間で対立が起こった」のはイタリア戦争の説明です。
・以上のことから、正しい組み合わせは「い-Y」です。
①【誤】あ-X ②【誤】あ-Y ③【誤】い-X ④【正】い-Y
第4問
問1:正解④
<問題要旨>
下線部(19世紀後半頃までの交通網の発達)に関連して、19世紀(1801~1900年)に起こった出来事として「誤っている」ものを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【正】 シベリア鉄道の建設は1891年に開始されました(19世紀)。
②【正】 スエズ運河は1869年に開通しました(19世紀)。
③【正】 アメリカ合衆国初の大陸横断鉄道は1869年に開通しました(19世紀)。
④【誤】 パナマ運河が開通したのは1914年であり、20世紀の出来事です。
問2:正解①
<問題要旨>
表1・2を読み解き、仮説の空欄ア(送り出し国)とイ(受け入れ国)を特定する問題です。
<選択肢>
・空欄ア:表1(送り出し国)を見ると、「19世紀後半に一貫して増え続けている」のは「イタリア」(5→27→168→992→1580)です。ドイツは1881-90年をピークに減少しています。イタリアは1861年に統一されましたが、経済的に貧しい状況が続き、移民が増加しました。
・空欄イ:表2(受け入れ国)を見ると、「1861-70年の受け入れ数が、その前後の時期よりも少ない」国を探します。「アメリカ合衆国」は(2,598→2,315→2,812)と、該当時期に減少しています。仮説の理由「1860年代前半に国内で内戦」とは、アメリカの南北戦争(1861~65年)と一致します。
・以上のことから、ア=イタリア、イ=アメリカ合衆国となります。
①【正】アーイタリア、イーアメリカ合衆国
②【誤】アーイタリア、イーアルゼンチン
③【誤】アードイツ、イーアメリカ合衆国
④【誤】アードイツ、イーアルゼンチン
問3:正解③
<問題要旨>
中華人民共和国の都市・農村人口割合のグラフと説明文に基づき、空欄ウとエに当てはまる語句の組み合わせを選ぶ問題です。
<選択肢>
・空欄ウ:グラフで、農村人口の割合(実線)が初めて80%まで低下しているのは、1959年~1961年頃です。これは1958年から始まった「大躍進政策」の時期と一致します。
・空欄エ:説明文に「エの後に、四つの現代化や改革・開放政策が開始される」とあります。改革・開放政策は1970年代末(1978年)から始まります。グラフでも1970年代後半から再び農村人口割合の低下が始まっています。この直前に終結した大きな政治運動は「文化大革命」(1966~1976年)です。
・以上のことから、ウ=大躍進政策の開始後、エ=文化大革命の終結、となります。
①【誤】ウー朝鮮戦争の休戦前、エー文化大革命の終結
②【誤】ウー朝鮮戦争の休戦前、エー香港の中国への返還
③【正】ウー大躍進政策の開始後、エー文化大革命の終結
④【誤】ウー大躍進政策の開始後、エー香港の中国への返還
問4:正解②
<問題要旨>
下線部(中国共産党に弾圧された政党=中国国民党)が、1930年代後半に行った本拠地の移動経路と、その背景を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
経路は正しいですが、背景が誤りです。1930年代後半は日中戦争(1937年~)の時期であり、第二次国共合作が成立していたため、共産党との争い(内戦)は一時停止していました。
②【正】
1937年に日中戦争が始まると、国民政府の首都であった南京は日本軍の攻撃を受け、陥落しました。そのため、国民政府は武漢などを経て内陸の「重慶」に本拠地を移し、抗日戦を続けました。理由は「日本軍によって圧迫されたため」です。
③【誤】
国民党(国民政府)が中国大陸から台湾へ移動したのは、第二次世界大戦後の国共内戦(1940年代後半)に敗れた結果(1949年)であり、1930年代後半ではありません。
④【誤】
経路も時期も誤りです。
問5:正解②
<問題要旨>
下線部(農村から都市への移住)に関連して、世界史上の人の移住について述べた文のうち、「誤っている」ものを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【正】
インダス文明が衰退した後、紀元前1500年頃からアーリヤ人が中央アジア方面からインド北西部に進出し、その後のインド文化の基盤を築きました。
②【誤】
7世紀前半(622年)、イスラーム教の創始者ムハンマドは、迫害を受けてメッカからメディナ(当時の名はヤスリブ)に移住しました。これをヒジュラ(聖遷)といいます。バグダードは8世紀半ばにアッバース朝の都として建設された都市であり、ムハンマドの移住先ではありません。
③【正】
産業革命期(18世紀末~19世紀)のイギリスでは、マンチェスターなどの工業都市が急速に発展し、職を求めて農村から多くの人々が移住した結果、人口が急増しました。
④【正】
第一次世界大戦中の1917年、イギリスはバルフォア宣言を出し、パレスチナの地にユダヤ人のための「民族的郷土(ナショナル=ホーム)」を建設することを承認しました。これは後のユダヤ人移住を促すことになりました。
第5問
問1:正解②
<問題要旨>
スペイン内戦(1936-39年)に勝利した独裁者(空欄ア)と、その遺体移転に際しての政府の公式な態度(X・Y)を正しく組み合わせる問題です。
<選択肢>
・空欄ア:スペイン内戦でドイツとイタリアの軍事的支援を得て勝利し、第二次世界大戦後も独裁者として君臨したのは「フランコ」(あ)です。カストロ(い)はキューバ革命(1959年)の指導者です。
・態度:説明文の最後に、「『戦没者の谷が独裁体制を賛美する場になってはならない』という当時の政府の主張を最高裁判所が全面的に支持した」とあり、これが遺体移転の理由です。これはY「独裁体制を賛美する式典に戦没者の谷を使ってはならない」の内容と合致しています。
・以上のことから、正しい組み合わせは「あ-Y」です。
①【誤】あ-X ②【正】あ-Y ③【誤】い-X ④【誤】い-Y
問2:正解③
<問題要旨>
スペイン内戦でドイツと協力したイタリア(ムッソリーニ政権)の外交・対外政策について、正しいものを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
三国同盟は、第一次世界大戦前(1882年)にドイツ、オーストリア、イタリア間で結ばれた同盟です。
②【誤】
フィウメ併合は1924年の出来事で、スペイン内戦(1936年~)より前です。
③【正】
スペイン内戦中の1936年10月、同じくフランコを支援するナチス=ドイツとファシスト=イタリアは連携を強め、「ベルリン=ローマ枢軸」の成立を宣言しました。
④【誤】
教皇領(ローマ教皇領)を併合してイタリア統一を完成させたのは、イタリア王国(1870年)です。ムッソリーニ政権は1929年にローマ教皇庁とラテラノ条約を結び、和解しています。
問3:正解④
<問題要旨>
下線部(第二次世界大戦後の東西二大陣営への分裂)、すなわち冷戦体制に対して、「第三勢力(第三世界)」の形成に向かう動きを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
ワルシャワ条約機構(1955年)は、ソ連を中心とする東側陣営の軍事同盟であり、第三勢力ではありません。
②【誤】
米英仏のドイツ占領地区での通貨改革(1948年)は、西側陣営の政策であり、冷戦を象徴する出来事の一つ(ベルリン封鎖のきっかけ)です。
③【誤】
チャーチルの「鉄のカーテン」演説(1946年)は、西側陣営の立場から東西の対立(冷戦)の始まりを指摘したものです。
④【正】
アジア=アフリカ会議(バンドン会議、1955年)は、インド、インドネシア、中国などが主導し、植民地支配からの独立を果たしたアジアやアフリカの国々が集まった会議です。東西両陣営のいずれにも属さない「第三世界」としての結束を固める動きとなりました。
問4:正解①
<問題要旨>
1979年に暗殺された韓国大統領(空欄イ)、および光州事件(1980年)のきっかけとして逮捕された民主化運動家(空欄ウ)、大学生の声明の内容(X・Y)を正しく組み合わせる問題です。
<選択肢>
・イ・ウ:1979年に暗殺された開発独裁の大統領は「朴正熙(パク・チョンヒ)」です。彼の死後、軍部の全斗煥(チョン・ドゥファン)が実権を掌握する過程で、民主化運動の指導者であった「金大中(キム・デジュン)」らを逮捕しました。これが光州事件(1980年)の発端となりました。
・内容:声明文は、「空挺部隊投入」「無慈悲な銃剣」「無差別殴打」と、軍(全斗煥ら)による武力鎮圧を告発し、「崔圭夏らの維新残党と…全斗煥の奴ら」を批判しています。これはX「市民らの抗議運動を、武力を用いて鎮圧しようとする政府を批判している」の内容と合致しています。
・以上のことから、イ=朴正熙、ウ=金大中、内容=X となります。
①【正】イ-朴正熙、ウ-金大中、X
②【誤】イ-金大中、ウ-朴正熙、X
③【誤】イ-朴正熙、ウ-金大中、Y
④【誤】イ-金大中、ウ-朴正熙、Y
問5:正解①
<問題要旨>
下線部(1980年代後半からの韓国における民主化)に関連して、同時期の世界史上の民主化の動きについて正しいものを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【正】
ポーランドでは、1980年代を通じてワレサ(ヴァウェンサ)が率いる自主管理労働組合「連帯」が民主化運動の中心となりました。1989年の円卓会議を経て、民主化が達成されました。
②【誤】
チャウシェスク政権が崩壊したのはルーマニア(1989年)です。チェコスロヴァキア(1989年)は「ビロード革命」と呼ばれる無血の民主化を達成しました。
③【誤】
スハルトの独裁政権が打倒されたのはインドネシア(1998年)です。フィリピン(1986年)ではマルコス政権が打倒されました。
④【誤】
李登輝によって民主化が進められたのは台湾(1980年代末~1990年代)です。香港ではありません。
問6:正解③
<問題要旨>
下線部(ベルリンの壁崩壊と同じ年=1989年)に起こった民主化運動(チェコスロヴァキアのビロード革命)が、年表のa~dのどの時期に含まれるかを問う問題です。
<選択肢>
・問題の出来事が起こったのは1989年です。
・年表の区分は以下の通りです。
a:~1953年
b:1953年~1980年
c:1980年~2004年
d:2004年~
・1989年は、cの期間(1980年~2004年)に含まれます。
①【誤】a ②【誤】b ③【正】c ④【誤】d
問7:正解①
<問題要旨>
下線部(1980年代以降、世界各国で推進された新たな改革政策)と、それを行った指導者の名の正しい組み合わせを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【正】
「ペレストロイカ」(立て直し)は、1980年代後半(1985年~)にソ連の「ゴルバチョフ」書記長(のち大統領)が推進した改革政策です。
②【誤】
ペレストロイカはソ連の政策です。鄧小平は中国の指導者(改革・開放政策)です。
③【誤】
新経済政策(ネップ)は、1920年代にソヴィエト=ロシア(のちソ連)でレーニンが導入した政策です。
④【誤】
新経済政策(ネップ)はレーニンの政策であり、鄧小平は中国の指導者です。
問8:正解②
<問題要旨>
空欄エ(冷戦時代にチェコで弾圧された改革運動)と、空欄オ(冷戦終結後の世界の出来事)の正しい組み合わせを選ぶ問題です。
<選択肢>
・空欄エ:会話の舞台はチェコ共和国の首都(プラハ)です。冷戦時代の1968年、チェコスロヴァキアでドプチェクらが進めた「人間の顔をした社会主義」を目指す改革運動(「プラハの春」)が、ソ連・ワルシャワ条約機構軍の軍事介入によって弾圧されました。したがって、「プラハ」(あ)が入ります。「アラブの春」(い)は2010年代に中東・北アフリカで起こった民主化運動です。
・空欄オ:ガイドは「冷戦終結後の世界」の出来事としてオを挙げています。Y「ユーゴスラヴィアの民族紛争に伴い、ボスニア…で内戦が勃発した」は、冷戦終結(1989年)後の1990年代初頭から激化した出来事であり、文脈に合致します。X「非同盟諸国首脳会議」の開催(第1回は1961年)は、冷戦期(東西対立の最中)の出来事です。
・以上のことから、正しい組み合わせは「あ-Y」です。
①【誤】あ-X ②【正】あ-Y ③【誤】い-X ④【誤】い-Y

