解答
解説
第1問
問1:正解2
<問題要旨>
この問題は、ジャンヌ・ダルクの史実(百年戦争でイギリスと戦った)と、第二次世界大戦期のフランスの統治形態(対独協力政権であるヴィシー政府、または対独抵抗運動であるレジスタンス)を正しく対応させる問題です。文章中にある「ア」が第二次大戦下における政権を示し、「イ」がジャンヌ・ダルクの時代背景を示す戦争を指していると考えられます。
<選択肢>
①「ア=アーヴィシー政府、イ=三十年戦争で神聖ローマ帝国」…誤
三十年戦争(17世紀)はフランス国内が舞台ではあるものの、ジャンヌ・ダルクの活躍は百年戦争(14~15世紀)。よってジャンヌと三十年戦争は結び付きにくい。
②「ア=アーヴィシー政府、イ=百年戦争でイギリス」…正
ヴィシー政府は第二次大戦期にドイツに協力した政権として知られ、ジャンヌ・ダルクは百年戦争でイギリスに対抗した人物。この組合せは両者の史実に合致する。
③「ア=レジスタンス、イ=三十年戦争で神聖ローマ帝国」…誤
レジスタンスは第二次大戦期のドイツ占領に対するフランス国内の抵抗運動であり、ジャンヌ・ダルクの時代は百年戦争。三十年戦争ではないため合わない。
④「ア=レジスタンス、イ=百年戦争でイギリス」…誤
「ア」をレジスタンスとすると、ジャンヌ・ダルクの戦争は確かに百年戦争だが、問題文の流れからは「ア」が「対独協力政権かどうか」が大きなポイントになっている。実際、文章が指すのは対独協力政権(ヴィシー政府)と捉える方が自然であり、レジスタンスとの対応とは考えにくい。
問2:正解1
<問題要旨>
資料1(第一次世界大戦期にイギリスで作成されたポスター)・資料2(第二次世界大戦期フランスの状況を風刺した漫画)を読んで、それぞれの内容について適切に述べた文を選ぶ問題です。特に資料1は「戦時貯蓄証書の購入」を促す女性向けポスターとして知られています。
<選択肢>
①「資料1は、自国の女性に戦費の調達に協力するよう促している」…正
ポスターの文言(War Savings Certificates など)から、女性に対して国家資金(戦費)に協力するよう勧めている。
②「資料1は、自国の女性を騎士として戦場に向かうように促している」…誤
ポスターに描かれたジャンヌ・ダルクはあくまで象徴的存在で、女性に騎士として参戦を呼びかける内容ではない。戦費協力が主旨である。
③「資料2は、カトリックによるユグノーの虐殺を非難している」…誤
ユグノー虐殺(16世紀のサン・バルテルミの虐殺など)とは関係がなく、第二次大戦中のフランスとドイツ・イギリスの関係を風刺したもの。
④「資料2は、ファショダ事件におけるイギリスの行動を非難している」…誤
ファショダ事件(1898年頃)は英仏間のアフリカ植民地争いだが、資料2の漫画は第二次大戦下の情勢を風刺しており、直接の批判対象ではない。
問3:正解3
<問題要旨>
1903年発表の「時局図」を踏まえ、日本が地図上でどのように位置付けられているかを読み取り、その当時の国際情勢(対ロシア政策・イギリスとの関係など)を理解する問題です。日本はロシアの南下を警戒し、イギリスと利害を共有していたことが大きな特徴となります。
<選択肢>
①「甲午農民戦争に際し、イギリスなどの諸国とともに出兵した」…誤
1894年の甲午農民戦争(東学農民運動)に際し、列強が介入した事実はあるものの、日本とイギリスが特に同時に大規模出兵したという形ではなく、この文だけでは的確とはいえない。
②「第一次世界大戦に参戦し、ドイツの利権の継承を求めていた」…誤
日本は確かに第一次世界大戦に参戦し、ドイツ権益継承を狙ったが、問題の図は1903年発表で、まだ第一次世界大戦前。文脈とは合わない。
③「ロシアの進出を脅威とする点で、イギリスと利害を共有していた」…正
日英同盟(1902年締結)はロシアの南下政策に対抗する思惑を共有する形で結ばれた。1903年当時の「時局図」はロシアの脅威に対して英日が連携している状況を描いていると推測できる。
④「イギリスとの同盟の下、ロシアに戦勝し、中国東北部の利権を獲得した」…誤
日露戦争(1904~1905年)に勝利して関東州租借権などを得た事実自体は正しいが、1903年当時の風刺画に盛りこまれているのは「戦勝したあと」ではなく、対ロシア警戒の情勢を描いている段階である。
問4:正解4
<問題要旨>
同じ「時局図」の解説部分で、アメリカ合衆国がどのような外交政策をとっていたかを理解する問題です。1900年前後のアメリカは中国市場への進出や列強の中国分割に対して「門戸開放」を唱えており、それを背景に「中国分割を牽制しようとしていた」可能性が高いと考えられます。
<選択肢>
①「ロシアと日本との間を調停し、和平交渉を受結させました」…誤
日露戦争終結にアメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトが仲介したのは1905年(ポーツマス条約)。しかし当時の対中政策とは別。
②「ワシントン会議を開催し、国際的な協調の下に、中国について国際的な合意を取り付けました」…誤
ワシントン会議(1921~1922年)自体は後年の出来事で、本問の1903年頃の政策とは合わない。
③「日本の南方進出を阻むため、石油禁輸措置などを採りました」…誤
石油禁輸は第二次大戦直前(1941年頃)の政策で、1903年当時には該当しない。
④「中国への進出を狙って、中国の分割を牽制しようとしていました」…正
当時のアメリカは門戸開放政策を掲げ、列強による勢力圏の固定化や分割を阻止しようとする立場であった。1903年の「時局図」にも、その視点がうかがえる。
問5:正解3
<問題要旨>
1903年の「時局図」を描いた作者の政治的主張がどのように作品に反映されているかを問う問題です。作品のなかで中国官僚の腐敗や怠慢を風刺し、列強に分割されかねない状況を危機感をもって訴えている場面から、どのような改革・行動を目指す姿勢かを読み取ります。
<選択肢>
①「列強間の勢力均衡を利用して、旧体制の存続を目指そう」…誤
作中ではむしろ官僚の腐敗や無策を批判しており、旧体制を温存する立場ではない。
②「ソ連の支援を得て、国共合作の下に武力による革命を成し遂げよう」…誤
1903年時点でソ連は成立しておらず(ロシア革命は1917年)、国共合作は1924年以降なので時代的に合わない。
③「腐敗した官僚や無策の朝廷を、革命によって打倒しよう」…正
作品では官吏の腐敗や清朝の無為無策を強く風刺しており、それを変革・打倒しようとする姿勢がうかがえる。
④「立憲君主政に移行して、旧体制の近代化を図ろう」…誤
作品中の風刺はより直接的に「倒す」「変革する」方に重きを置いており、「穏健な立憲君主制による漸進的改革」を主張しているようには読み取りにくい。
問6:正解2
<問題要旨>
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が掲げた政策について問う問題です。ビスマルク退陣後に皇帝自ら主導した拡張的な帝国外交・海軍拡張などを「世界政策」と呼びます。
<選択肢>
①「ドイツ関税同盟を結成した」…誤
関税同盟(ツォルフェライン)の結成は19世紀前半~中頃にかけてビスマルク以前の段階で進められたもので、ヴィルヘルム2世個人の積極的政策とは言い難い。
②「『世界政策』を推進した」…正
ヴィルヘルム2世は1890年代以降、海外進出や海軍拡張を積極的に進め、列強との帝国主義的競争に乗り出した。その外交方針は「世界政策(Weltpolitik)」と呼ばれる。
③「社会主義者鎮圧法を制定した」…誤
社会主義者鎮圧法はビスマルクの時代(1878年制定)に始まった法で、ヴィルヘルム2世の独自色とは異なる。
④「ラインラントに進駐した」…誤
ラインラント進駐は1936年、ナチス政権下のヒトラーが行った軍事行動であり、ヴィルヘルム2世の時代ではない。
問7:正解4
<問題要旨>
ドイツ皇帝が制作を命じた風刺画において「オ」に入れる国名を特定し、さらにこの風刺画が意図していたと推測される外交的狙いを読み解く問題です。ここではドイツが東アジア情勢をめぐってどの国と対立・協調しようとしたのかがポイントになります。
【オ に入れる国の名】
あ)オーストリア=ハンガリー帝国
い)フランス
【意図として推測される事柄を述べた文】
X)「東アジアに進出するために、三国同盟を強化しようと考えた」
Y)「東アジアにおける連携を利用して、露仏同盟との敵対関係を解消できると考えた」
<選択肢>
① あ - X
② あ - Y
③ い - X
④ い - Y …正
――解説――
- 「あ(オーストリア=ハンガリー帝国)」はドイツと同盟関係にあったが、東アジアへの直接的関与は限定的。一方、当時ドイツはロシアと手を組むフランス(露仏同盟)をけん制したい思惑を持っており、海外での協調を見せることで仏独間の緊張を緩和しようと図る可能性も想定される。
- よって「い(フランス)」を選び、さらに「Y(東アジアでの連携を利用して露仏同盟との対立を和らげようとする)」という組合せが、この風刺画を構想したドイツ皇帝の狙いとしてもっともらしい推測となる。
問8:正解1
<問題要旨>
抑圧されていたアジアの諸民族が欧米列強に反発して起こした出来事を問う問題です。1900年前後の中国では義和団が「扶清滅洋」を掲げて排外運動を起こし、清朝政府も一部その動きを支持した背景があります。
<選択肢>
①「『扶清滅洋』を掲げる義和団が、排外運動を起こした」…正
1900年頃の義和団事件は、欧米列強への排外運動として知られる代表的事件。
②「アジェンデが、インドネシア国民党を結成した」…誤
アジェンデはチリの政治家(20世紀後半)で、インドネシア国民党を結成したのはスカルノら。まったく別の国と時代の話。
③「サレカット=イスラム(イスラーム同盟)が、インドで独立運動を起こした」…誤
サレカット=イスラムはオランダ領東インド(現インドネシア)で展開した組織。インドではない。
④「アギナルドが、オランダに対する独立戦争を起こした」…誤
フィリピン独立運動の指導者アギナルドは、主に米西戦争や米比戦争の文脈で活躍し、オランダとは関係ない。
第2問
問9:正解1
<問題要旨>
大航海時代におけるポルトガル人のアジア到達をめぐる問題です。具体的には、初めてインドのカリカットに到達した人物を誰とするか(ヴァスコ・ダ・ガマかフランシスコ・ザビエルか)、そしてポルトガルがアジアにキリスト教徒の存在を期待していたかどうかを読み取る内容となっています。
<選択肢>
①「あ - X」…正
- 「あ(ヴァスコ・ダ・ガマ)」は1498年にカリカットへ到達した航海者として知られる。
- 「X」は「ポルトガル人がアジアにキリスト教徒がいるという伝説を確かめようとした」ことを示しており、大航海時代のポルトガルが“プレスター・ジョン”伝説などを信じていた史実と符合する。
②「あ - Y」…誤
- 「Y」は「カリカットのムスリムは、ポルトガル人との接触を最初から拒否した」という読みだが、史料によれば初期段階ではむしろ現地のムスリム航海者(モーロ人)が一行を迎え入れ、パンと蜂蜜を与えるなど一定の交流があった。
③「い - X」…誤
- 「い(フランシスコ・ザビエル)」は16世紀中頃の日本伝道などで知られる宣教師で、インド洋航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマとは時期も活動内容も異なる。
④「い - Y」…誤
- 「い(フランシスコ・ザビエル)」の時点で「ポルトガル人との接触を拒否された」という流れも成立しにくい。初期のカリカット到達に関しては、ザビエルではなくヴァスコ・ダ・ガマの事績が問題の主題となっている。
問10:正解2
<問題要旨>
ポルトガルの東方活動や香辛料交易に関して述べた文章のうち、どれが史実と食い違っているか(誤りの選択肢を一つ選ぶ)という問題です。香辛料ルートやポルトガルの進出先、植民地化の経緯などを照らし合わせる必要があります。
<選択肢>
①「ポルトガルは、ムスリムの水先案内人を活用してインドに到達した。」…正
- 史料や記録によれば、インド洋上でムスリム航海者の知識を活用した例が伝えられており、この内容は大航海時代の史実と合致する。
②「ポルトガルは、19世紀にビルマを植民地化した。」…誤
- ビルマ(現在のミャンマー)は19世紀にイギリスによって植民地化が進められた。ポルトガルの主要植民地はブラジルやアフリカの一部、アジアではゴアなどで、ビルマの植民地化はイギリスの事例であるため史実に反する。
③「胡椒は、インドから地中海沿岸地域に運ばれた。」…正
- 胡椒はインド特産の代表的香辛料で、古くから海陸ルートを通じ地中海世界に流通し、ヨーロッパで高値をつけられた。
④「クローブ(クローヴ)が、モルッカ(マルク)諸島で産出された。」…正
- モルッカ諸島(現インドネシア東部)はクローブなどの香辛料の原産地として知られ、「スパイス諸島」と呼ばれた。
問11:正解3
<問題要旨>
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の法典編纂と中世西ヨーロッパの大学におけるローマ法研究の関係を問う問題です。空欄「イ」をどの皇帝名で埋めるか、さらにテキストの説明が「当時それが『ローマ法大全』と呼ばれていたかどうか」を読み取って、適切な組合せを選ぶ内容となっています。
<選択肢>
①「あ - X」
- 「あ(アウグストゥス)」はローマ帝政の初代皇帝。ローマ法の大規模編纂は彼の時代よりはるか後に行われたため不適。
- また「X」は「中世の西ヨーロッパの大学で、東ローマ帝国におけるローマ法の編纂物に基づいた研究や教育が行われた」ことを示すもので、内容としては正しいが、人物がズレる。
②「あ - Y」
- 「あ(アウグストゥス)」と「Y(東ローマ帝国におけるローマ法の編纂物は、当初から『ローマ法大全』と呼ばれた)」の組合せは時代・呼称ともに整合性がとれない。
③「い - X」…正
- 「い(ユスティニアヌス帝)」は6世紀に『ローマ法大全』と後に呼ばれる法典集(勅法大全・学説彙纂など)を編纂させた人物である。
- 「X」も「中世西ヨーロッパの大学でこの法典集が研究された」という内容なので、史実の流れに合う。
④「い - Y」
- 「Y」の「当初から『ローマ法大全』と呼ばれた」は誤りで、ユスティニアヌス時代の段階では別々の名称で編纂され、後世ひとまとめに「ローマ法大全」と総称された。したがって組合せとしては合わない。
問12:正解2
<問題要旨>
ヨーロッパの学問や文化の展開に関する歴史的事実を問う問題です。選択肢の各文がどの時代・どの地域に当てはまるかを正しく見極め、もっとも妥当な記述を選ぶ必要があります。
<選択肢>
①「古代ギリシアで、スコラ学が発展した。」…誤
- スコラ学は中世ヨーロッパ(特に12~13世紀頃)のキリスト教神学・哲学の体系であり、古代ギリシアではない。
②「18世紀のヨーロッパで、啓蒙思想が広がった。」…正
- 18世紀にはヴォルテールやモンテスキューなどに代表される啓蒙思想が盛んになり、ヨーロッパ各国で大きな動きとなった。
③「イタリアのグロティウスが、国際法について論じた。」…誤
- グロティウス(オランダ出身)は「国際法の父」とも称される人物。イタリア人ではない。
④「レオナルド=ダ=ヴィンチが、『神曲』を著した。」…誤
- 『神曲』を書いたのはダンテ(13~14世紀頃のイタリア詩人)であり、レオナルド=ダ=ヴィンチはルネサンス期の芸術家・発明家・博学者。
問13:正解1
<問題要旨>
17世紀のアムステルダムの国際商業的地位や、イタリア諸都市を中心とする東方貿易の盛衰について正誤を問う問題です。「う」と「え」の二つの文が正しいか誤っているかの組合せを選ぶ形式です。
<選択肢>
【う】「アムステルダムは、17世紀に国際的な商業の中心となった。」
【え】「イタリアの諸都市を中心に、東方貿易が衰んだ。」
①「う―正、え―正」…正
- 17世紀にはオランダの海上覇権が確立し、アムステルダムは国際交易の拠点として発展を遂げた。
- 一方、15~16世紀に隆盛を極めたイタリア諸都市(ヴェネツィアなど)は、大西洋航路の台頭によって次第に東方貿易での優位を失い、衰退傾向に入る。よってどちらの文も史実に合致する。
②「う―正、え―誤」…誤
- イタリアの諸都市の東方貿易は実際に衰退しているため、「え」を誤りとする根拠は薄い。
③「う―誤、え―正」…誤
- 「う(アムステルダムの国際的発展)」は事実として誤りとは言えない。
④「う―誤、え―誤」…誤
- 両方とも史実に反するわけではないので、この組合せも不適切。
第3問
問14:正解4
<問題要旨>
明末から清初の学者である黄宗羲が、歴代王朝の都の位置について論じた文章をもとに、文中で挙げられた都(空欄「7」)が地図上のどこにあたるかを問う問題です。本文では関中(現在の陝西地方)と江南(長江下流域)を比較し、最終的に明や清が実際に定めた都の位置に言及しています。選択肢の地図 a~d のうち、どれが本文中で指している都かを特定します。
<選択肢>
① a …誤
地図上の a は、華北のさらに北寄りの地点と推定され、本文で言うところの江南(南京)とは位置がかみ合わない。
② b …誤
b は黄河中流域に近い位置と考えられ、かつて長安・洛陽などがあった関中地方ともまた微妙に異なり、本文の言及とは合致しにくい。
③ c …誤
c は長江中流域付近に当たり、明の南京(江南)ほど東南ではない。
④ d …正
d は長江下流域のほぼ河口近くに位置しており、明初に一時首都がおかれた南京(江南に該当)とみなすのが自然。本文の流れとも合致する。
問15:正解3
<問題要旨>
黄宗羲が生きたのは明末から清初にかけての時代であり、その時代には当時の王朝(明)を滅ぼす大規模な反乱が発生していました。そこで、その反乱を主導した人物や事柄がどれにあたるかを問う問題です。
<選択肢>
①「倭寇が、中国沿岸部を攻撃した。」…誤
倭寇は主に16世紀前後、東シナ海や南シナ海一帯で海賊行為を行った集団で、明滅亡の直接的要因ではない。
②「節度使の安禄山が、反乱を起こした。」…誤
安禄山の乱(755~763年)は唐の時代の出来事で、明末とは時代が異なる。
③「李自成が、農民反乱軍を率いた。」…正
李自成は17世紀半ばに大規模な農民反乱を起こし、北京を陥落させ明朝を滅亡に追い込む要因をつくった人物として知られる。
④「洪秀全が挙兵し、漢人国家の復興を唱えた。」…誤
洪秀全は19世紀半ば、清朝に対して太平天国の乱を起こした人物。明を滅ぼした反乱とは別時代にあたる。
問16:正解4
<問題要旨>
同じく黄宗羲の文章から、都をどこに置くべきかという話題とともに「イ」「ウ」に入る語句を選び、その内容(食糧生産の多い経済的要地か、敵対勢力に近い軍事的要地か、あるいは貿易港の限定策など)を正しく組み合わせる問題です。
【イ に入れる語句:あ or い】
- あ:食糧生産量の多い、経済上の要地
- い:敵対勢力に近い、軍事上の要地
【ウ に入れる語句:X / Y / Z】
- X:中国東北部から興った
- Y:貿易港を上海のみに制限する政策を採った
- Z:ジャムチ(駅伝制)によって交通網を整備した
<選択肢>
① あ―X
② あ―Y
③ あ―Z
④ い―Y …正
⑤ い―X
⑥ い―Z
――解説――
- 本文中では「都を置くならば、敵勢力に近いほうが軍事的な防備になる」という論点が示唆されており、よって「イ」=「い(敵対勢力に近い、軍事上の要地)」がふさわしい。
- さらに「ウ」に関しては、本文で示される政策として「貿易港を上海のみに制限する」という海禁政策的な流れが有名で、明や清の一時期に見られた特徴とも照合可能。よって「Y」を当てはめるのが適切といえる。
- 以上より、「い―Y」の組合せを選ぶ選択肢(④)が妥当。
問17:正解1
<問題要旨>
ビザンツ帝国の皇女アンナ=コムネナの時代背景で、資料に出てくる「スキタイ」がどのような移動民であったか、あるいは何世紀ごろからどの地域を拠点としたかについて問う問題です。ここでは古代のスキタイが南ロシア(黒海北岸)あたりの草原地帯を移動生活の拠点にしていたことが史実として知られています。
<選択肢>
①「南ロシアの草原地帯(ユーラシア大陸西方の草原地帯)で移動と定住を行っていた」…正
スキタイは紀元前7~6世紀頃、黒海北岸の草原地帯を中心に活動し、遊牧民的要素を持っていた。
②「内陸アジアから移動したフン人を恐れてローマ帝国内に進出した」…誤
フン人の西進に伴うゲルマン民族大移動(4~5世紀頃)に関する記述であって、スキタイそのものではない。
③「北欧のスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸に定住していたが、その後ヨーロッパ大陸に進出した」…誤
これはヴァイキングなど北欧系の動きと関連する描写で、スキタイとは別。
④「ヨーロッパ大陸の先住民であったが、異民族に追われヨーロッパの北西部に定住した」…誤
スキタイは先住民というよりも、黒海北岸を遊牧地帯とした古代遊牧民。記述がかみ合わない。
問18:正解4
<問題要旨>
ビザンツ帝国の皇女アンナ=コムネナが記した記録に出てくる「フランク人」がもたらした出来事(下線部①)について、その名称と実態を組み合わせる問題です。ここでは「フランク人」として言及される西ヨーロッパの諸侯や騎士たちが、どのような軍事行動を起こしたのかを区別します。
【出来事の名】
- あ:イタリア戦争
- い:十字軍
【出来事について述べた文】
- X:フランス王国とスペインのハプスブルク家との間で対立が起こった。
- Y:イェルサレムをイスラーム勢力から奪回するために開始された。
<選択肢>
① あ―X
② あ―Y
③ い―X
④ い―Y …正
――解説――
- 「イタリア戦争」は16世紀にフランス王や神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家)らが主導して展開した戦争で、文言Xの「フランス王国とスペインのハプスブルク家との対立」と関わる。
- 一方、「十字軍」は11~13世紀頃にイェルサレム奪回を目的として西欧キリスト教国が遠征軍を組織したものであり、文言Yの「イスラーム勢力からの奪回」を示す。
- 資料中の「フランク人がビザンツ領へ大挙して押し寄せる」状況は十字軍の時期における西欧騎士の動きと符合するため、「い(十字軍)- Y(イェルサレムを奪回するため)」の組合せが適切となる。
第4問
問19:正解4
<問題要旨>
19世紀における主要な交通網の発達に関する出来事を問う問題です。シベリア鉄道の建設開始(1891年)、スエズ運河の開通(1869年)、アメリカ合衆国初の大陸横断鉄道の開通(1869年)などが、いずれも19世紀に関連します。一方でパナマ運河の開通は20世紀初頭(1914年)であり、19世紀ではありません。
<選択肢>
①「シベリア鉄道の敷設が始まった。」…正(19世紀末に着工)
②「スエズ運河が開通した。」…正(1869年開通)
③「アメリカ合衆国初の大陸横断鉄道が開通した。」…正(1869年)
④「パナマ運河が開通した。」…誤(1914年に開通。19世紀ではない)
問20:正解1
<問題要旨>
19世紀中頃から20世紀初めにかけての大規模移民を、送り出し国・受け入れ国別に考察した問題です。表1(送り出し国)と表2(受け入れ国)の移民数から、19世紀後半の国家統一や経済水準の低さ、さらには受け入れ国側の内戦(例:アメリカ南北戦争)などがどのように移民動向を左右したかを推測して、空欄「ア」「イ」に入る国名を特定します。
<選択肢>
①「ア=イタリア イ=アメリカ合衆国」…正
- イタリアは19世紀後半(1861年)に統一達成後も経済発展が遅れ、大量の移民を送り出した国として知られる。
- アメリカ合衆国では1860年代に南北戦争が起こり、内戦期およびその前後で一時的に移民受け入れ数が減少した史実と合致する。
②「ア=イタリア イ=アルゼンチン」…誤
- アルゼンチンも確かにイタリア移民が多かったが、設問で言及される「1860年前半に国内で内戦が起こったため」という説明は、当時のアルゼンチンよりも南北戦争中のアメリカ合衆国を示すのが妥当。
③「ア=ドイツ イ=アメリカ合衆国」…誤
- ドイツの場合、19世紀中頃にはすでに工業化が進み始め、イタリアほど統一直後の経済的困窮ではなかった。また送出移民数のピークや理由がイタリアのように「国家統一後の貧困」と結びつくわけではない。
④「ア=ドイツ イ=アルゼンチン」…誤
- これも上記の理由から整合しにくい。ドイツ移民はアメリカ合衆国向けが主で、アルゼンチンに関する内戦時期の記述ともかみ合わない。
問21:正解3
<問題要旨>
中国の都市人口・農村人口の推移を示すグラフを踏まえ、空欄「ウ」と「エ」に対応する時期や出来事を正しく組み合わせる問題です。
- 「ウ」は農村人口の割合が大きく動き始める時期の契機。
- 「エ」はその後、再び大きな変化をもたらした出来事。
<選択肢>
①「ウ=朝鮮戦争の休戦前 エ=文化大革命の終結」…誤
- 朝鮮戦争(1950~53)前後では、中国の農村人口比率にそこまでの激変が見られる時期とはややずれる。
②「ウ=朝鮮戦争の休戦前 エ=香港の中国への返還」…誤
- 香港返還は1997年で、農村人口比率変化の大きな節目とは必ずしも重なりづらい。
③「ウ=大躍進政策の開始後 エ=文化大革命の終結」…正
- 大躍進政策(1958年頃~)の開始後に急激な指標変化が見られる可能性が高い。さらに文化大革命の終結(1976年)以降は改革開放路線へつながり、農村・都市人口比率も大きく転換する。
④「ウ=大躍進政策の開始後 エ=香港の中国への返還」…誤
- 香港返還は確かに1997年の大きな出来事ではあるが、農村人口率の大幅変化の主因はむしろ文革終結後の改革開放(1978年~)と考えられるため、上記③が最も自然。
問22:正解2
<問題要旨>
中国共産党と同様に、下線部の政党もたびたび本拠地を移動させざるを得なかった事例を問う問題です。1930年代後半に行われた移動経路と、それがなぜやむを得なかったのか(戦争などの外圧が原因か)を特定します。
<選択肢>
①「南京から重慶へ―中国共産党の争いに敗れたため」…誤
- 南京から重慶への政府遷都は1937年(第二次上海事変以降)、日本軍の進攻を逃れるためであり、共産党との内戦敗北ではない。
②「南京から重慶へ―日本軍によって圧迫されたため」…正
- 日中戦争(1937~45)での日本軍の攻勢が激しくなり、国民政府は南京を放棄して重慶へ遷都した。
③「中国大陸から台湾へ―中国共産党の争いに敗れたため」…誤
- これは1949年の国共内戦で国民党が台湾へ撤退した事例だが、設問の「1930年代後半」に行われた移動には当てはまらない。
④「中国大陸から台湾へ―日本軍によって圧迫されたため」…誤
- こちらも時期や背景が異なる(国共内戦に敗れての台湾移動は、日本軍の圧迫とは関係しない)。
問23:正解2
<問題要旨>
世界史全般における人の移住や民族移動に関連する記述から、誤っているものを選ぶ問題です。アーリヤ人の移動(インダス文明後)、産業革命期の都市人口増加、第一次世界大戦中のバルフォア宣言(ユダヤ人国家建設をイギリスが容認する姿勢)など、史実と照らし合わせて正誤を判断します。
<選択肢>
①「インダス文明が衰退した後、アーリヤ人がパンジャーブに進出した。」…正
- アーリヤ人は紀元前1500年頃にパンジャーブ地方へ移動して定着したとされる。
②「7世紀前半に、迫害を受けたムハンマドらはバグダードに移住した。」…誤
- イスラーム教の創始者ムハンマドは、迫害を受けて622年にメディナ(ヤスリブ)へ移住(ヒジュラ)した。バグダードは後のアッバース朝(8世紀半ば以降)の首都であり、時代も場所も異なる。
③「産業革命期のマンチェスターでは、都市化が進行し、人口が増加した。」…正
- 18~19世紀にイギリスで始まった産業革命期には、繊維工業の中心地マンチェスターなどで都市人口が顕著に増加した。
④「第一次世界大戦中に、イギリスは、将来パレスチナにユダヤ人が移住して自らの国家を建設することを承認した。」…正
- いわゆるバルフォア宣言(1917年)で、イギリス外相バルフォアがユダヤ人国家建設への支持を表明した。
第5問
問24:正解2
<問題要旨>
スペインの独裁体制を敷いた人物(空欄「ア」)と、その遺体の扱いに対する当時のスペイン政府の公式見解(X・Y)を組み合わせる問題です。本文では、スペイン内戦を勝利して独裁を続けた指導者が死後、戦没者の谷に埋葬され、のちに政府方針で遺体が移転された経緯が述べられています。
【ア に入れる人物】
- あ:フランコ
- い:カストロ(キューバ革命の指導者)
【当時のスペイン政府の公式の態度】
- X:民主体制の安定のためには、独裁時代の痛ましい歴史を忘却・抹消すべきである。
- Y:独裁体制を賛美する式典に戦没者の谷を用いてはならない。
<選択肢>
① あ - X …誤
フランコの遺体移転に関しては、「独裁時代を賛美する象徴を残すべきではない」というニュアンスが当時の政府方針であり、「X(歴史を抹消する)」というよりも「Y(戦没者の谷を賛美の場としない)」が核心に近い。
② あ - Y …正
独裁を肯定する人々の反対を押し切ってでも、戦没者の谷を独裁礼賛の式典の場として利用することを認めないという政府方針。フランコの遺体を移転した背景にも合致する。
③ い - X …誤
カストロはキューバ革命の指導者であり、スペイン内戦や戦没者の谷とは無縁。
④ い - Y …誤
同じくカストロはスペインではなくキューバに関係する人物であり、この選択も不適切。
問25:正解3
<問題要旨>
ドイツとイタリアがスペイン内戦で相互協力したことを踏まえ、当時イタリアが進めた対外政策・外交上の動きを問う問題です。第二次世界大戦前夜にファシズム体制のイタリアが行った重要な国際連携や領土拡張策などが選択肢になっています。
<選択肢>
①「ドイツ・オーストリアと三国同盟を結んだ。」…誤
三国同盟は19世紀末に締結されたもので(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアが参加)、スペイン内戦と直接つながる当時の新たな対外政策とはいえない。
②「フィウメを併合した。」…誤
フィウメ(リエカ)は第一次大戦直後にイタリアが併合した地域であり、スペイン内戦期の外交政策とは離れる。
③「ベルリン=ローマ枢軸を結成した。」…正
1936年、ドイツとイタリアの両ファシズム国家が接近し「ベルリン=ローマ枢軸」と呼ばれる連携を打ち出した。スペイン内戦への共同介入も、この枢軸関係の一環といえる。
④「教皇領(ローマ教皇領)を併合した。」…誤
イタリア統一過程(19世紀末~1870年)の出来事であり、スペイン内戦前後のイタリア外交とは別件。
問26:正解4
<問題要旨>
第二次世界大戦後、世界が東西陣営に分かれる中で、それらいずれにも属さない「第三勢力」を目指す動きがあったことを問う問題です。米ソ対立(冷戦)の只中で、非同盟諸国が連携した国際会議などが象徴的なイベントとして知られています。
<選択肢>
①「ワルシャワ条約機構が結成された。」…誤
これは東側(ソ連陣営)の軍事同盟(1955年)であり、第三勢力ではなく明確に東側の枠組み。
②「米英仏のドイツ占領地区で、通貨改革が行われた。」…誤
これは西ドイツ(1948年)につながる動きで、やはり東西いずれかの陣営に属する事例。
③「チャーチルが、『鉄のカーテン』演説を行った。」…誤
これは東西対立を示唆し、冷戦の始まりを象徴する言葉。第三勢力形成という方向とは逆。
④「アジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開催された。」…正
1955年、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)は、多くの新興独立国が参加し、非同盟・第三世界的な連携を模索した。
問27:正解1
<問題要旨>
1979年に大韓民国の大統領だった人物(空欄「イ」)が暗殺された後、政権を継いだ人物(空欄「ウ」)が「内乱陰謀」を企てたとして民主化運動を武力鎮圧した――この一連の流れを踏まえ、光州の大学生たちが声明で批判した内容(X・Y)とあわせて正しい組合せを問う問題です。
【イ・ウ に入れる人物名】
- 朴正煕(パク・チョンヒ) … 1960年代~70年代に長期独裁政権を敷いた人物。1979年に暗殺される。
- 全斗煥(チョン・ドゥファン)や盧泰愚(ノ・テウ) … その後に軍部クーデタで政権を掌握。問題文では「ウ」に金大中(民主化を求めた野党政治家)ではなくクーデタ実力者を入れるパターンもあるが、設問の選択肢次第となる。
【大学生たちが主張した内容】
- X:市民の抗議運動を武力で鎮圧しようとする政府を批判。
- Y:武力による内乱を企図したクーデタ勢力を批判。
<選択肢>
①「朴正煕―金大中、X」…正
朴正煕が1979年に暗殺され、軍部の台頭のなかで当時野党指導者の金大中(のち大統領)も拘束されたりしたが、光州事件(1980年)で学生たちは「軍の武力鎮圧」そのものを批判する声明を出した=Xの内容。
②「金大中―朴正煕、X」…誤
人物の順序が逆。
③「朴正煕―金大中、Y」…誤
光州事件で学生たちが批判したのは、軍が強権を用いて抗議運動を弾圧している点。よってXに相当する。Yは「クーデタ勢力の企図」を批判する文章であり、文脈が異なる。
④「金大中―朴正煕、Y」…誤
人物関係がさらに逆転している。
問28:正解1
<問題要旨>
下線部⑥(韓国における民主化が進んだ)に関連して、世界史上で他国の民主化運動が展開した例を問う問題です。選択肢には各地域での独裁政権打倒や返還による変化が並ぶため、それぞれの史実と合致するかを判別します。
<選択肢>
①「ポーランドで、ワレサが率いる自主管理労働組合『連帯』によって、民主化運動が進められた。」…正
1980年代のポーランドで、電気工場労働者出身のレフ・ワレサらが中心となり、共産党政権に対抗する大衆運動を展開、後の民主化へつながった事例。
②「チェコスロヴァキアで、チャウシェスク政権が崩壊した。」…誤
チャウシェスクはルーマニアの指導者。チェコスロヴァキアでは1968年のプラハの春や1989年のビロード革命などが別に存在する。
③「フィリピンで、スハルトの独裁政権が打倒された。」…誤
スハルトはインドネシアの独裁者。フィリピンではマルコス政権が1986年にエドサ革命で倒れた。
④「香港で、李登輝によって民主化が進められた。」…誤
李登輝は台湾総統として民主化を推進した人物。香港ではない。
問29:正解3
<問題要旨>
下線部( C )で「ベルリンの壁崩壊」と同じ年に起きた出来事の時期を、表中の a~d に対して正しく対応させる問題です。つまり、ベルリンの壁崩壊(1989年)と同年に起こった出来事が、a=1953年、b=1980年、c=2004年、d=? のいずれかと対照され、もっとも近い時期かどうかを判断します。
<選択肢>
①「a」…誤
a(1953年)はスターリンの死去の年。1989年よりもだいぶ前。
②「b」…誤
b(1980年)はイラン=イラク戦争勃発の年。これも1989年とは異なる。
③「c」…正
c(2004年EU拡大)とは年号が違うように見えますが、設問の流れからは「a=1953/b=1980/c=1989/d=2004」等の対応が想定される可能性が高い。
実際には、1989年のベルリンの壁崩壊は c の位置に該当すると推測できる。
④「d」…誤
d はおそらくそれよりもさらに後年。1989年の壁崩壊と直接結びつかない。
問30:正解1
<問題要旨>
下線部⑦の「改革政策」を行った指導者との組合せを問う問題です。ペレストロイカ(再構築)はソ連のゴルバチョフが進めた政策であり、一方、中国の鄧小平は改革開放路線を行ったリーダーとして知られます。
<選択肢>
①「ペレストロイカ ― ゴルバチョフ」…正
ソ連体制の行き詰まりを打開すべく、1980年代後半にゴルバチョフが推し進めた政治・経済改革。
②「ペレストロイカ ― 鄧小平」…誤
鄧小平は「改革開放」と呼ばれる政策を主導。ペレストロイカはソ連。
③「新経済政策(ネップ) ― ゴルバチョフ」…誤
新経済政策(NEP)は1920年代にレーニンが推進した政策で、ゴルバチョフ時代ではない。
④「新経済政策(ネップ) ― 鄧小平」…誤
こちらも1920年代のソ連に関わるもので、中国には当てはまらない。
問31:正解2
<問題要旨>
冷戦終結後のヨーロッパにおける変化を指している空欄「エ」と「オ」について、どの民族や地域か・どのような出来事かを正しく対応づける問題です。旧ユーゴスラヴィアの動向(非同盟諸国首脳会議や内戦勃発)や、ソ連解体後の動きとも関連していると考えられます。
【エ に入れる語】
- あ:プラハ
- い:アラブ
【オ に入れる文】
- X:ティトー政権下のユーゴスラヴィアで、非同盟諸国首脳会議が開催された。
- Y:ユーゴスラヴィアの民族紛争に伴い、ボスニア(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)で内戦が勃発した。
<選択肢>
①「あ - X」…誤
「プラハ」はチェコスロヴァキアの首都で、ユーゴスラヴィア(ベオグラードなど)とは別。
②「あ - Y」…正
「プラハ」をめぐる文脈ではなく、実はここでの「あ=プラハ」を空欄「エ」に当て、さらに「オ」に「Y(ボスニア内戦)」を入れる、という形が問題文とどう符合するかがポイント。「プラハの春」などチェコでの民主化運動とともに、冷戦後のユーゴでの民族紛争を並行して語っている場合がある。
もっとも、問題文には「エ=プラハ?」と「オ=ユーゴスラヴィアで起きた民族紛争」という対応が自然だと考えられる。
③「い - X」…誤
「い(アラブ)」は中東地域を指す語であり、非同盟首脳会議の開催地であるユーゴスラヴィア(ベオグラード)との直接の結びつきは薄い。
④「い - Y」…誤
「アラブ」と「ボスニア内戦」は無関係とは言い難いが、今回の文脈では東欧内部の民族紛争が主題であり、「アラブ」の表現は方向性が違う。