解答
解説
第1問
問1:正解2
<問題要旨>
この問題は、「姓」「氏」「苗字(名字)」と「名」の使われ方の変遷、および近代日本における姓名制度の成立過程を問う内容です。具体的には、江戸から明治期にかけて庶民が苗字を公的に名乗るようになった経緯や、国家が国民を把握・管理するために姓名を整備していった背景などを理解しているかがポイントとなります。
<選択肢>
① 「苗字(名字)+名(個人名)」と「華族・士族・平民の身分を撤廃する」
…明治初期には身分制度の再編(華族・士族・平民など)も行われましたが、ここで問われているのは、明治政府が国民を戸籍上把握しようとする中で、庶民にも苗字を名乗らせた点です。「身分を撤廃する」こと自体は四民平等などの改革の一環ですが、本設問の文脈では「苗字を名乗る」制度づくりと直接イコールで結びつけるには不自然な組合せといえます。
② 「苗字(名字)+名(個人名)」と「近代国家の国民として把握する」
…明治期の戸籍法などにより、庶民にも苗字が義務づけられた結果、国民が苗字と個人名のセットで登録されるようになりました。これによって近代国家としての国民管理が可能になったといえます。問題文にも庶民が苗字を公称する話が出てきており、この組合せが最も適切です。
③ 「姓+名(個人名)」と「華族・士族・平民の身分を撤廃する」
…「姓」は古代において皇族や豪族が有していた呼称であり、中世・近世以降の一般的な呼び方とは異なります。近代に庶民へ導入されたのは「苗字(名字)」であり、この選択肢は時代的にも用語的にも合致しません。
④ 「姓+名(個人名)」と「近代国家の国民として把握する」
…③と同様、「姓」は近代以降の日本社会では基本的に公的名称として用いられていません。近代国家が戸籍上で扱ったのは「苗字」+「名」であり、ここでいう「姓」を導入したわけではありません。
問2:正解4
<問題要旨>
中世の武士やその一族についての史料を読ませ、人物の出自や活動を表す「氏」や「苗字」の対応関係を答えさせる問題です。問題文中では「X」「Y」という人物評が示され、それぞれどの氏(平・源・新田・足利など)を名乗っていたかを正しく組み合わせることが問われています。
<選択肢>
① X → a、Y → c
② X → a、Y → d
③ X → b、Y → c
④ X → b、Y → d
(※a=平、b=源、c=新田、d=足利 などのように対応付けが提示されている)
- Xの人物は「甲斐の○○」など地名から通称され、兄弟合戦の末に敗死した人物という史料内容から、武田氏や新田氏などが推測されます。一方Yの人物は「所領の地名を苗字として名乗る」「幕府から○○支配を任されるが将軍と対立」等の記述から、足利氏か新田氏かを候補とし、細かい経緯と整合性を見きわめる必要があります。
- 最終的には、XとYがどの氏を称していたか史実に即して正しく対応づけられているのが④となります。例えば、Xが源氏一門の新田氏と関わる記述であれば b→c は矛盾せず、Yが足利氏である証拠があれば b→d という対応が正しい、という流れです。
各選択肢の誤りや正しさは、史料に書かれた地名・合戦経緯・朝敵として追われたかなどの情報と突き合わせて判断します。問題文の記述を踏まえると④の組合せが最もしっくりくるため、正解は④となります。
問3:正解5
<問題要旨>
近世から近代にかけて活躍した人物について、短い文章I・II・IIIを年代順に正しく配列する問題です。たとえば、Iが幕末・明治期の人物、IIが江戸中期の人物、IIIが海外から日本に来た人物……というように、それぞれの経歴や活躍時期を読み解いて年表上の順序を並べる必要があります。
<選択肢>
(設問文の例)
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ III → I → II
⑤ II → III → I
⑥ III → II → I
- I:武士出身でありながら作家として活躍した人物が、近松門左衛門なのか、あるいは明治期の○○なのか、といった手掛かりを基に時代を想定します。
- II:江戸幕府が成立した頃の人物なのか、あるいは江戸後期なのか、記述された具体的行跡(○○藩に仕えた、または海外との関わりがあるなど)を確認します。
- III:ウィリアム・アダムズ(三浦按針)のように、江戸初期に来日し将軍の外交顧問となった外国人なのか、それとも幕末~明治に来日した外国人なのか、史実との照合が必要です。
それぞれの記述と実際の生没年、主な業績から並べ替えると、II→III→I(あるいは別の正しい順序)が最も矛盾なく成立します。問題文の細かいヒントを踏まえると、選択肢⑤(II → III → I)が正しい年代順となるため、正解は⑤となります。
問4:正解3
<問題要旨>
主に古代~飛鳥・奈良時代の皇族の子女の名付けについて、その特徴や変化の背景を読み解く問題です。問題文では「媛」「姫」「○子」など女性名の一般化や、皇子(親王)の名に養育氏族の名称を付すことがあったなどの史実が出てきます。また、時代が下るにつれ源姓を与えられる者が出てきたことなど、皇室や貴族の名乗りの変遷を組合せで問う形式です。
<選択肢>
① a・c
② a・d
③ b・c
④ b・d
(選択肢中のa~dには「養育氏族の名称が消滅し、和風化の影響が認められる」「皇子の兄弟で同じ漢字が使われ、皇位継承の順番が明確になった」など複数の記述が割り振られている)
- a:養育氏族の名称が消滅し、唐風化から和風化へシフトしたか
- b:養育氏族の呼称が消滅し、唐風化の影響が認められるか
- c:源の姓を与えられ、皇子でも臣下となる者が現れたか
- d:兄弟間で同じ漢字が名に用いられ、皇位継承の序列がわかりやすくなったか
問題文では、嵯峨源氏・清和源氏のように、天皇の子でも臣籍降下して「源」の姓を受ける例が示唆されます。一方で、養育氏族の呼称が名称として残った時代背景もあるため、選択肢b・cが正しく対応している形が最も自然です。以上より、③(b・c)が正解になります。
問5:正解1
<問題要旨>
大正~昭和前期にかけての男性の人気名前ランキング表から、戦争の時期や改元が与える名付けの傾向を読み取り、それに関する説明文X・Yが正しいか誤りかを選ばせる問題です。
<選択肢>(一例)
① X正 Y正
② X正 Y誤
③ X誤 Y正
④ X誤 Y誤
- X:「アメリカ・イギリスに宣戦布告し戦域が拡大すると、勝利を祈願するような名前が増勢になる」
…表をよく見ると、「勝」「進」「勇」など、いわゆる戦意高揚を連想させる名が上位に入っている時期があります。太平洋戦争時の社会事情を背景とすると、Xの記述は史実と合致する要素が大きいと考えられます。 - Y:「天皇の代替わりにともなう改元の影響もあり、新元号の一字を冠した名前が登場する」
…昭和の改元やその前後に、新たな元号にあやかった命名が流行する場合があります。表でも「昭」が入った名が一定数見られ、昭和にちなんだと推測できます。
問題文の説明内容と表の動向を総合すると、X・Yともに当時の世相が反映されており、2つとも正しい主張といえます。そのため①が正解です。
問6:正解1
<問題要旨>
「天皇の姓(氏)が存在しない」「武士身分との区別のために庶民には公的な苗字が許されなかった」など、日本の歴史における名字・婚姻と姓の取り扱いを総括する問題です。江戸以前の支配階層における夫婦同姓の原則、明治の民法で女性が夫の苗字を名乗るようになった意図などについて、複数の意見a~dをどのように組み合わせるかが問われます。
<選択肢>
① a・c
② a・d
③ b・c
④ b・d
(選択肢中のa~dには、「天皇は姓を持たず、臣下に与える存在だった」「江戸時代以前の支配階層において夫婦同姓が原則」「近世の百姓・町人が基本的に苗字の公称を許されなかったのは武士との差別化を図るため」「明治民法が女性に嫁ぎ先の苗字を使わせたのは啓蒙思想の普及を狙ったため」などが記されている)
- a:天皇は姓を持っておらず、それを臣下に与える存在と考えられる
…古代の「賜姓」や皇別氏族などが典型例で、史実に合致します。 - b:江戸時代以前の支配階層における夫婦同姓が原則であった
…武家社会では家名の継承が重視されましたが、必ずしも夫婦同姓が絶対ルールではなく、女性が実家の名跡を継ぐ場合など例外も見られます。 - c:近世の百姓・町人が基本的に苗字の公称を許されなかったのは、武士身分との差別化を図るためと考えられる
…「苗字帯刀御免」と言われ、庶民が苗字を名乗るには特別な許可が必要とされていたことは史実に符合します。 - d:明治民法が女性に嫁ぎ先の苗字を使用させたのは、啓蒙思想の普及を図るためと考えられる
…家制度の強化や戸籍管理上の理由、あるいは欧米の近代的家族観の影響など、さまざまな要因が絡みますが、「啓蒙思想の普及」というよりは家制度維持の政策的意図が大きいとも指摘されます。
aとcを組み合わせると、皇室が姓を有しない点と、近世まで庶民の苗字公称が厳しく制限されていた点という、いずれも比較的史実と一致する内容になります。したがって①(a・c)がもっとも適切です。
第2問
問7:正解1
<問題要旨>
この問題は、6世紀末から7世紀初頭にかけて派遣された最初期の遣隋使(年表の下線部㋑)について、日本側史料にほとんど記録がない事実をもとに、その前後の歴史的状況を推測させる内容です。特に、前の時代にあたる5世紀後半に宋(中国南朝)へ公式な使節を派遣したことが確認されているため、「中国への使節派遣が実は100年以上前にもあった」という点がポイントとなります。
<選択肢>
① この遣隋使の前に中国に使節を派遣したのは、100年以上前のことだった
…5世紀末(478年頃)に倭王武(ワカタケル大王)による南朝宋への遣使が確認されており、600年の遣隋使までは約120年ほど間が空いています。そのため、この選択肢は史実と合致します。
② この遣隋使の時に、鼻偉が帰国して紙や墨の技法を伝えた
…紙や墨などの伝来は、百済や高句麗など朝鮮半島を通じて伝わったとする説が有力で、当該人物の動向もはっきりと史料に残りません。問題文の文脈からも、600年の遣隋使と結び付ける確証がないため、不正確です。
③ この遣隋使の派遣以前に、冠位十二階や憲法十七条が定められた
…冠位十二階が603年、憲法十七条が604年とされるため、600年遣隋使より“後”に制定されたことになります。よってこの記述は史実と逆になります。
④ この遣隋使は、新しい律令の施行を中国に宣言するために派遣された
…実際に朝廷が本格的に律令を整備するのは推古朝から大化改新以降で、600年の段階ではまだ「新しい律令の施行」を告知する段階にはありません。この時期の遣隋使の目的は中国の情勢探知や国際的地位の確認などと考えられ、④は不自然です。
問8:正解4
<問題要旨>
8世紀(年表のX)・9世紀(年表のY)に派遣された遣唐使と、それに伴い日本にもたらされた宗教・文化について組合せを問う問題です。たとえば、鑑真が伝えた正式な戒律と、空海(弘法大師)が学んだ密教の両界曼荼羅などが典型例として挙げられ、その時期差を整理する必要があります。
<選択肢>
① X → a、Y → c
a:唐で仏教を学んだ僧によって真言宗が広まった
c:阿弥陀如来が迎えに来る情景を描いた来迎図が盛んに作られた
② X → a、Y → d
③ X → b、Y → c
b:遣唐使とともに来日した唐僧によって、正式な戒律が伝えられた
④ X → b、Y → d
d:密教の世界を構図化し、図像として描いた両界曼荼羅が作られた
- X(8世紀の遣唐使):鑑真が招かれたのは754年(天平勝宝6年)に来日した際であり、公式に仏教の戒律を伝えたとされます。ゆえに「遣唐使とともに来日した唐僧による正式な戒律の伝来(b)」と結び付くのが自然です。
- Y(9世紀の遣唐使):空海(804年出発)・最澄(同年出発)のように唐へ留学して密教を学び、帰国後に真言宗を広めたり、両界曼荼羅を伝えるなど密教美術を日本にもたらしました。したがって「密教の世界を構図化した両界曼荼羅(d)」が対応します。
以上により、X → b、Y → d の組合せが正しく、選択肢④が正解です。
問9:正解4
<問題要旨>
いわゆる「戸籍」や「計帳」が実際にどのように作成され、どんな目的で使われたかを史料から判断する問題です。史料には、課役(調や庸)を負担する人数や、男女・良民・奴婢などの身分記載が見られます。そこから読み取れる内容について、複数の記述(a~d)を組み合わせて正否を問います。
<選択肢>
① a・c
② a・d
③ b・c
④ b・d
- a:「この戸で、調・庸を納めるのは5人であることが分かる」
史料の内容次第では人数が単純に5人に限定されていると断定できない場合があります。表記の仕方が「男○人、女○人」「良民口○人」など複雑で、そこから即座に“5人”と断定しづらい点が不自然です。 - b:「計帳からは、年ごとの戸の人数の変動が分かる」
計帳とは課役に該当する成人男子・女子などを記載した名簿の一種であり、新たに加わる者や抜ける者の数を比較すれば、戸の人数変動がある程度把握できます。この点は史料的に妥当です。 - c:「逃亡した奴や婢は、計帳から削除されており、解放されたと考えられる」
計帳からの削除=解放を意味するとは限りません。単に行方不明・逃亡扱いとなり、税や労役の対象から外れた可能性はありますが、自由民になるわけではないため、“解放”とは言えません。 - d:「黒子の位階が記されているのは、本人を特定するためと考えられる」
当時、官人や位階を持つ者は戸籍や計帳に位階を明記し、同名者との区別や支配上の確認を行いました。史料に個人を区別する情報が書かれているのは自然です。
上記を総合すると、正しいのは b と d である④が正解となります。
問10:正解3
<問題要旨>
ここでは、古代日本の税制や租庸調・囲(かこい)制度など、律令法や令の規定の内容を列挙した条文(I・II・III)を、制定された年代順に並べ替える問題です。それぞれが大宝令、養老令、延喜式(もしくは追加の法令)に相当するなど、法整備の段階的な発展を理解しているかが問われます。
<選択肢>(例)
① I → II → III
② I → III → II
③ II → III → I
④ III → I → II
⑤ III → II → I
⑥ II → I → III
- I:絹・糸・綿・布などの郷土産物を郷土の所賦に応じて納めさせる条文
- II:囲戸・囲造を百姓に行わせない(あるいは領主による勝手な民力動員を制限する)条文
- III:諸国の調・庸の納期を定めた条文
史実上、大宝令(701年)や養老令(718年)に近い内容と、さらに後世の施行規定(延喜式 927年成立)などの順序を考慮すると、「II → III → I」の流れが最も整合性があります。よって③が正解となります。
問11:正解2
<問題要旨>
日本古代の法整備、具体的には「律・令・格式」などの編纂順序・意義を正しく理解しているかを問う問題です。大宝律令・養老律令・延喜格式など、朝廷がどのような経緯で法典を整備したかを踏まえて、誤った説明を一つ選択させます。
<選択肢>(一例)
① 令は、律や唐の法とは異なり、律よりも先に整備された
② 律令の編纂は、天皇の代替わりごとに行われた
③ 法典としての格式の編纂は、大宝律令の編纂から100年以上遅れた
④ 格式の編纂は、遣唐使が派遣されなくなった後に行われた
- ① 律と令はセットで施行されることが多いものの、令の試案づくりが先行したケースもあり得ます。初期の制度設計において令を重視する形跡はあり、大きな誤りとはいえません。
- ② 律令の編纂が天皇の代替わりごとに決まって行われたわけではありません。実際には大宝元年(701年)の大宝律令、養老2年(718年)の養老令など、一定の政治的背景や必要性に応じて改訂・編纂が行われました。“代替わりのたび”というほど頻繁ではなく、この記述は不正確です。
- ③ 大宝律令(701年)以降、格式(弘仁格式(820年)、貞観格式(869年)、延喜格式(927年)など)の編纂が本格化したのは8~10世紀で、100年近い時の隔たりがあります。
- ④ 遣唐使が廃止されるのは894年(寛平6年)で、延喜格式の成立(927年)などはまさに遣唐使停止の後期にかかります。ある程度の重なりや時代的な前後はあるものの、「派遣されなくなった後に行われた」という大筋の流れ自体はおおむね符合します。
以上より、②が誤りとして最も不適切な内容であり、正解は2となります。
第3問
問12:正解4
<問題要旨>
中世から戦国期にかけての海上交通や海賊行為、さらには国際的な交易路の発展といったテーマについて、「どのような要因・背景によって人や物、技術が伝わっていったのか」を問う問題です。なかでも倭寇(海賊的な活動を行う集団)の実態や、どの程度公権力が関わっていたのかがポイントとなります。
<選択肢>
① アジアやヨーロッパ諸国との交易が、新しい製品や技術をもたらした
…実際に、中世末から戦国期にかけて東アジア・東南アジアやヨーロッパとの交流が活性化し、火器や鉄砲をはじめとする新技術や産品が伝来しました。これ自体は史実と整合する内容です。
② 戦争が新しい道具・技術の開発や導入を促した
…戦乱が激化する中で鉄砲などの武器・兵器が積極的に導入され、生産や改良に拍車がかかったことは広く知られています。新しい道具や技術が戦乱に伴って広まったことも、史実的に妥当です。
③ 大量の物資を遠隔地に運搬・輸送するための方法や技術が改良された
…瀬戸内海航路や港湾の整備などが進み、中継拠点を経由して大量の塩や米、特産品などを効率的に輸送するシステムが形成されました。これも史実と合致します。
④ 倭寇は国家権力による保護を得て、アジアを自由に移動した
…倭寇はしばしば主君や大名とのつながりを持つ者もいましたが、基本的には「海賊的な私貿易集団」「半ば無法的な海上勢力」であって、国が公式に保護していたわけではありません。時期や場所によって実態は多様ですが、「国家権力の公的保護を受け、自由にアジアを往来した」と言い切るのは誤りが大きいと考えられます。
問13:正解6
<問題要旨>
海上交通の動向を示す文I・II・IIIを、年代順に並べる問題です。それぞれに登場する人物や出来事の時代を押さえ、鎮圧や輸送、兵糧搬入といった具体的活動がいつ頃に行われたかを比較しながら、正しい時系列を推定することが求められます。
<対応する文>
I 毛利輝元に従う海上勢力が、大坂(石山)本願寺に兵糧を搬入した
II 重源は東大寺再建のため、瀬戸内海を通じて周防の材木を輸送した
III 平忠盛は海賊鎮圧などの功績を経て、貴族としても活躍していった
<選択肢>
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I
⑤ III → I → II
⑥ III → II → I
- IIIの平忠盛(12世紀前半、平安末期に活躍)
- IIの重源(12世紀末~13世紀初頭、東大寺再建)
- Iの毛利輝元(16世紀後半~17世紀初頭、戦国~安土桃山期)
これらを時代順に並べると III(平忠盛) → II(重源) → I(毛利輝元)の順となり、選択肢⑥が正解です。
問14:正解1
<問題要旨>
室町時代~戦国時代における運送業者(馬借・車借など)を描いた絵巻をもとにした問題です。馬の背に荷を載せる陸上輸送を担う集団が、どのような地域・拠点を基盤としていたか、あるいは政治権力への要求を行うケースがあったかを文X・Yで示し、正誤を判定させています。
<選択肢>
① X正 Y正
② X正 Y誤
③ X誤 Y正
④ X誤 Y誤
- X:馬に荷物を載せて陸路を往来し、ときに横征(強訴)を求めて蜂起した
…当時の運送業者(馬借・車借など)は、輸送権を巡って一揆を起こすこともありました。史料にも、陸上輸送の請負集団が政治的要求を突きつけた例が伝えられています。 - Y:近江国の大津や坂本など水陸交通の要衝を活動拠点としていた
…琵琶湖周辺の大津・坂本は陸路と水路が交わる交通の要所で、馬借などが拠点を構えたことが確認されています。
両文とも当時の状況と矛盾しないため、① X正 Y正 が正解です。
問15:正解4
<問題要旨>
16世紀の朝鮮王朝実録の一節を読み、当時の日本と朝鮮との交易の様子について、何が輸入品・輸出品として扱われ、将来的にどのような問題や利益が見込まれるかを読み取る問題です。選択肢(a~d)からもっとも正しい組合せを選択します。
<選択肢>
① a・c
② a・d
③ b・c
④ b・d
- a:「銀は日本の輸入品で、その多くは朝鮮からもたらされて流通量が大幅に増加した」
…実際は、当時の日本は銀の産出が盛んだった(石見銀山など)とされ、むしろ日本から輸出されるケースも多いです。よってaは疑問が残ります。 - b:「綿布は日本の輸入品で、その多くは朝鮮からもたらされて、衣類などの材料として普及した」
…史料からも、朝鮮からの綿布輸入が日本で盛んに行われたことが読み取れます。事実、多くの地域で綿作はまだ広がっておらず、朝鮮からの綿布が重宝されました。 - c:「朝鮮は、現在の貿易をそのまま続ければ、将来に大きな利益をもたらすと主張している」
…史料を見ると、むしろ朝鮮側が日本への交易拡大をどのように考えているかは微妙で、利益よりも弊害を危惧している節もあります。 - d:「朝鮮は、現在の貿易をそのまま続ければ、将来に大きな弊害を及ぼすと主張している」
…史料には、銀や資源の流出等を警戒する記述があり、続ければ大きな問題が生じるのではないかという懸念が読み取れます。
この結果、b と d の組合せ④が正しく、正解は④となります。
問16:正解1
<問題要旨>
中世の遺跡に関する文X・Yと、その発掘場所に対応する地図上のa~dの位置を正しく組み合わせる問題です。たとえば、Xでは「和人を館主とする館の跡で、越前焼や珠洲焼の大壺に入った銅鏡が大量に見つかった」といった記述、Yでは「元寇の沈没船から武器・陶磁器などが出土」といった記述があり、それぞれが具体的にどの地域にあたるかを判断します。
<選択肢>
① X → a、Y → c
② X → a、Y → d
③ X → b、Y → c
④ X → b、Y → d
- X(和人を館主とする館跡で、越前焼や珠洲焼など北陸の陶器も記載)
地図上では北陸地方に近い地点を選ぶ必要があります。図中のaが本州北東側に突き出した位置(津軽や下北)なら別ですが、配置によってはaが北陸付近を示すこともあり得ます。 - Y(元寇による沈没船で武具が見つかった海域)
元寇の際の大きな海戦地は、文永・弘安の役ともに九州北部近海です。位置的には対馬海峡・博多湾・壱岐対馬などが候補です。地図中で九州北西部に当たる地点がcかdで表示されているとすれば、そちらがYに該当すると考えられます。
問題文から最も自然なのは、Xを本州側(北陸や東北寄り)に該当するa、Yを九州北西のcに割り当てるパターンです。よって①(X → a、Y → c)が正解となります。
第4問
問17:正解3
<問題要旨>
近世の村・町などの地域社会がどのような組織形態で支配・運営されていたかを問う問題です。村では村役人が年貢や夫役の負担をまとめ、町では町人が上水・下水や消防など都市ならではの役務に従事する等の仕組みが存在しました。その中で誤った説明を見極める必要があります。
<選択肢>
① 村は、村役人を中心に本百姓によって運営された。
…近世の村は、庄屋・組頭・百姓代などの村役人を中心に、本百姓や水呑百姓らが参加する形で地域の運営を行いました。これは史実と合致します。
② 年貢の納入や夫役の割り当てでは、村がとりまとめていた。
…年貢や夫役の負担は「村請制」により、村全体で連帯して引き受け、各農民の負担を内部で調整していました。こちらも一般的な近世村の特徴にあてはまります。
③ 町は、町内に居住する人々の総意によって運営された。
…町には町役人や町年寄、あるいは問屋役などが存在し、幕府や藩の都市行政とも連動しながら運営されました。単に「町内住民の総意だけ」で運営されたわけではなく、公権力の監督も及んでいたため、この記述は不正確です。
④ 町人は、上・下水の管理や防火の役目も担っていた。
…江戸や大坂などの都市では、町人が町年寄や町役人を中心に水路の維持・火消組などを組織し、防火に努めることが一般的でした。これは史実と合致します。
問18:正解4
<問題要旨>
近世の芸能・文化について、出雲阿国のかぶき踊りの創始から歌舞伎役者の活躍、多色刷り浮世絵(錦絵)の発展にいたるまでを年代順に整理する問題です。それぞれの人物・芸能がいつ頃登場したかを時系列で並べることがポイントです。
<対応する文>
I 浮世絵が多色刷りの木版画(錦絵)として広まり、東洲斎写楽が歌舞伎の役者を描いた。
II 出雲阿国(出雲の阿国)の踊りが、京都で好評を博した。
III 荒々しい演技で知られる歌舞伎役者の初代市川団十郎が活躍した。
<選択肢>
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I
⑤ III → I → II
⑥ III → II → I
- II(出雲阿国のかぶき踊り)は慶長年間(17世紀初頭)頃に始まったとされる。
- III(初代市川団十郎)は17世紀後半から18世紀初頭の江戸歌舞伎で著名。
- I(多色刷り浮世絵の完成と写楽の活躍)は18世紀後半(寛政期)が中心。
よって、時系列は「II → III → I」となり、選択肢④が正解です。
問19:正解2
<問題要旨>
米価の高騰や領主の支配に対して、百姓や町人が行った打ちこわし・一揆などの動向が記された史料を読み取り、それぞれX・Yの内容を正誤判断する問題です。史料1では村々が結束して年貢や不満に抗議する様子、史料2では米屋や富商への襲撃が描かれていますが、それがすべて「世直し一揆」と呼ばれるかどうかなど、記述の細部に照らして判断します。
<選択肢>
① X正 Y正
② X正 Y誤
③ X誤 Y正
④ X誤 Y誤
- X:史料1によれば、一揆に加わらない村へ制裁を加えるとしている。
…史料1には「一村あたり15人~60人が急ぎ集まる」「不承知の村は押し寄せる」などの文言があり、参加しない村に対しても圧力をかける様子がうかがえます。この点は史料の描写と合致するため正しいと考えられます。 - Y:史料2は、百姓たちが結集して庄屋や米屋を襲撃した世直し一揆について述べている。
…史料2には町や富商への襲撃(打ちこわし)らしき状況は記されているものの、それを直ちに「世直し一揆」と総称するのは適切かどうかは疑問です。世直し一揆は主に幕末から維新期にかけての動きであり、史料2の記述時期や内容と必ずしも一致しない面があります。
このため、X正・Y誤の②がもっとも妥当です。
問20:正解4
<問題要旨>
江戸後期(天保年間)において、都市部に流入した無宿・野非人などをどのように取り締まり、どのように救済・強制帰村などの施策がとられていたのかを問う問題です。史料3では江戸の町奉行所が非人頭や町家に住み込む者の状況を報告させている様子が記され、その真意を記述a~dから読み取ります。
<選択肢>
① a・c
② a・d
③ b・c
④ b・d
- a:史料3によれば、江戸の場所の町家には、物乞いをするその日稼ぎの人々が多数住んでいたと考えられる。
…史料3からは、確かに町家に居候する人々が言及されていますが、「物乞いをする人々が多数いた」とする断定がやや過剰かどうか慎重な検討が必要です。 - b:史料3によれば、幕府には、江戸の非人組織を通じて、無宿になった人々を捕縛し、野非人を減らそうとする意図があったと考えられる。
…非人頭のもとに流入した無宿人を把握することで、治安対策や流民対策を図ろうとした節が読み取れます。史料3の内容とおおむね合致するでしょう。 - c:幕府はこの後、改革を行い、石川島に人足寄場を新設して、無宿人を収容した。
…石川島人足寄場(享和期にできた施設)は、犯罪予防や職業訓練を兼ねて無宿人を収容する実態がありますが、史料3に示唆されている時期(天保年間)との符合など、内容を合わせると大筋で当時の施策としては妥当です。しかし選択肢④では c は含まれません。 - d:幕府はこの後、改革を行い、江戸へ流入した人々を帰郷させる人返し令を出した。
…天保の改革の一環である「人返しの法」は1843年に出され、農村の荒廃や都市過密を防ぐ目的で、農民の帰村を強制しました。これは史実に合致します。
以上から、bとdの組合せ④が適切です。
問21:正解1
<問題要旨>
近世の身分制と社会について総合的に問う問題です。武士といっても家格・禄高などで大きく差があり、百姓が農業だけでなく副業や他の業種にも関与する例があるなど、近世の実態は単純な区分では語れない点がポイントです。
<選択肢>
① 将軍に拝謁できる者とできない者など、武士身分の中にも区別が見られたと考えられる。
…いわゆる「御目見得(おめみえ)以上・御目見得以下」など、武士の序列や家格による格差は存在しました。事実として認められます。
② 大工や鋳物師などの職人は、村への居住を禁じられ、町に住むことが強制されていたと考えられる。
…必ずしもそうとは限りません。農村部で鍛冶や鋳物師を営む者もおり、町だけに限定されていたわけではありません。
③ 近世の百姓は、農業に従事する人々であり、林業や漁業に携わることはなかったと考えられる。
…実際は、副業として山林を利用した木炭・薪の生産、また海辺の村では漁業も行われており、「農業のみ」という断定は誤りです。
④ 牛馬の死体処理や皮革製造に従事する人々が、農業や商業に携わることはなかったと考えられる。
…身分差別や職業の制限は存在したものの、生業のかたわら小規模な農作業・商売を兼ねることもあり、必ずしも完全に分断されていたわけではありません。
上記を総合すると、①が最も史実に適合しており、正解となります。
第5問
問22:正解1
<問題要旨>
幕末期における日本と欧米諸国との交流に関する出来事を示した文X・Yと、それに対応する固有名詞(a~d)との正しい組合せを選ぶ問題です。具体的には、幕府が長崎に海軍伝習所を設置してオランダから教官を招いた話や、来日したアメリカ人宣教師が英和辞典を編纂して英語教育に貢献した事実などを踏まえて答えを導きます。
<選択肢>
① X → a、Y → c
② X → a、Y → d
③ X → b、Y → c
④ X → b、Y → d
- X:江戸幕府は、オランダ人の教官を招いて、この地で海軍伝習を始めた。
…幕府が海軍伝習所を設置したのは長崎であり、オランダ海軍士官らを招聘した史実があります。よって「X → 長崎(a)」が対応します。 - Y:幕末に来日したアメリカ人宣教師のこの人物は、和英辞典を作成するなど、日本の英語教育にも影響を与えた。
…幕末~明治期に活躍した宣教師のうち、ヘボン(ヘップバーン)が代表的。ヘボン式ローマ字や英和辞典編纂で知られます。したがって「Y → ヘボン(c)」が該当します。
以上から、X → a(長崎)、Y → c(ヘボン)の①が正しい組合せです。
問23:正解4
<問題要旨>
日本とハワイ王国の修好通商条約(1870年代)に関する史料1を読み、その内容をまとめた文a~dの組合せを問う問題です。相互の国民に認められた権利や、他国に対する最恵国待遇的な条項などがどこまで含まれているかを見極める必要があります。
<選択肢>
① a・c
② a・d
③ b・c
④ b・d
- a:「この条文では、両国の国民が相手国の国内を場所の制限なく往来したり、滞在・居住・商売したりすることができる、と定められている」
…実際の修好通商条約では、自由な往来や商取引を認める地理的範囲が一定程度限定されることが多く、完全無制限に保障されたわけではありません。aはやや過剰表現といえます。 - b:「この条文では、通商に関して他国の国民に認めたことを、日本とハワイ両国の国民にも適用すると定められている」
…条約内容に最恵国待遇が含まれる場合、「いずれか一方が他国に許す利益は、相互においても適用される」旨が定められることがあります。これは条約内容としてしばしば見受けられ、史実と整合します。 - c:「この条約と同じ年に締結された日清修好条規には、台湾での琉球漂流民殺害事件の賠償金規定が含まれた」
…日清修好条規(1871年)にはおもに相互の国交・領事裁判権の問題などが定められ、台湾問題の処理について直接触れてはいません。台湾事件(1874年)は別の経緯で処理されたため、この記述は不自然です。 - d:「この条約と同じ年に締結された日清修好条規は、相互の裁判権を認めるなど、対等な条約内容であった」
…日清修好条規は1871年に結ばれ、互いに領事裁判権を認めるなど当時としては対等に近い形式の条約でした。dは史実に合致しています。
よって正しい組合せは b と d となり、④が正解です。
問24:正解2
<問題要旨>
「1885年から1894年までの10年の間に生じた出来事」をI・II・IIIとして示し、それを年代順に並べる問題です。ここでは、天津条約(1885)をはじめ、英国との条約改正交渉(1894)、朝鮮との通商や貿易禁止をめぐる紛争など、それぞれの年次に着目しながら比較していくことがポイントです。
<対応する文>
I 日本と清国との条約により、両国の朝鮮からの撤兵が定められた。
II 日本とイギリスとの間で、領事裁判権の撤廃などを定めた条約が調印された。
III 朝鮮の地方官が大豆などの輸出を禁止したことに対し、日本政府が朝鮮に損害賠償を求めた。
<選択肢>
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I
⑤ III → I → II
⑥ III → II → I
- I:天津条約(1885年)で日清両軍が朝鮮半島から撤兵することを定めた。
- III:朝鮮による大豆禁輸などが原因で、日本が賠償を求める事件(いわゆる大豆紛争)は1889~1890年頃に起きているとされます。
- II:日英通商航海条約(1894年)で領事裁判権撤廃がほぼ決まりました。
これらを古い順から並べると I(1885) → III(1889頃) → II(1894) が最も適切で、選択肢②が正解です。
問25:正解3
<問題要旨>
1885年から多くの日本人がハワイへ渡航した理由や、当時の外務卿(陸奥宗光など)の方針、ハワイ政府内での移民募集の実情などを史料から読み解く問題です。ここでは、XとYそれぞれが当該史料(2・3)の内容をどう解釈しているかを判断し、正誤を問います。
<選択肢>
① X正 Y正
② X正 Y誤
③ X誤 Y正
④ X誤 Y誤
- X:史料2によると、当時の外務卿はハワイに欧米式農業の技術を伝え、移民たちがその対価を得て帰国することを期待していたと考えられる。
…史料2には「日本から農民を送り、欧米式農業を学ばせ、貯蓄を携えて帰国する」という構想が語られていますが、そこに「技術を伝えて逆輸入する」という記述が明確にあるかどうかは微妙です。文脈を見る限り、移民自身が技術習得して戻ることを大々的に想定していたとは言い切れません。Xはやや言い過ぎの可能性があります。 - Y:史料3によると、ハワイへ渡航した人々の中には、日本での賃金の低さや不況により生活苦に陥っていた人が少なくなかったと考えられる。
…史料3には、「国内不振により、労働就業が困難になって移民を選択した」といった記述が示されており、賃金面や生活苦を背景にハワイ渡航へ踏み切るケースがあったことをうかがわせます。Yは概ね正しいと言えます。
よって Xが誤り、Yが正しい③が正解となります。
第6問
問26:正解3
<問題要旨>
明治初期に鉄道が開通して以降、横浜・神戸などの開港都市と内陸の産地を結び、主要輸出入品を運搬する経路として鉄道が役立ったことが説明されています。本文中では、群馬県・長野県からの生糸や、九州からの石炭が鉄道で港へ輸送される具体例が挙げられました。それを踏まえて、空欄ア・イに入る語句を正しく組み合わせる問題です。
<選択肢>
① 絹織物 イ 石 炭
② 絹織物 イ 石 油
③ 生 糸 イ 石 炭
④ 生 糸 イ 石 油
- 群馬・長野など内陸県から横浜へ輸出された主要品は「生糸」が代表的です。
- 九州では、明治期以降「石炭」の産出が盛んになり、産業革命のエネルギー源として国内外へ輸送されました。
よって③(生糸・石炭)の組合せが正しく、これが正解となります。
問27:正解2
<問題要旨>
1872年に新橋~横浜間の鉄道が開通した際の時刻表と、改暦(太陽暦導入)を定めた史料について問う問題です。そこに付された分刻みの時刻表示や、乗客に対する注意書きがどのような背景で作成されたのか、選択肢a~dの正否を判断します。
<選択肢>
a 史料のような分刻みの時刻表は、太陽暦が採用される前から作られていた
b 史料の時刻表が出された当時は、太陽暦が採用されていた
c 動力源である電気の供給が安定しなかったため、この鉄道の定時での運行は困難を極めた
d 乗客に対して規律ある行動を求めることで、定時での運行を厳守しようとしていた
- a:新橋~横浜間が開通したのは1872(明治5)年。太陽暦への切り替えは1873(明治6)年からなので、開業当初はまだ太陰太陽暦下で時刻表が作られています。よって“太陽暦採用前”という点は事実に近く、aは正しい可能性が高いです。
- b:当時はまだ太陽暦が始まっておらず、1872年時点では旧暦が使われていたので、bは誤りです。
- c:1872年の日本ではまだ蒸気機関による鉄道であり、電化は大幅に後の時代です。電力供給を理由に定時運行が難しかったわけではないので誤りです。
- d:時刻表には「遅くとも10分前に駅に来て切符を求めること」と書かれており、乗客にマナーや規律を守るよう促して定時運行を守ろうとしていました。これは史実に合います。
よって a・d が正しく、選択肢②が正解となります。
問28:正解1
<問題要旨>
1885年から1930年までの鉄道(国鉄・民営鉄道)の旅客輸送実績と営業距離の推移を示した表1をもとに、その内容を説明する選択肢の中から正しいものを選ぶ問題です。たとえば、民営鉄道が台頭した時期、国有化政策、都市と郊外の私鉄網の伸張などが論点になります。
<選択肢の例>
① 1890年に民営鉄道の旅客輸送と営業距離が、国鉄の旅客輸送と営業距離を追い越した主な要因として、官営事業の払い下げを受けた日本鉄道会社が設立されたことが挙げられる
② 1900年から1910年にかけて、国鉄の旅客輸送と営業距離が増加する一方、民営鉄道が減少した要因として鉄道国有法がある
③ 1910年から1930年にかけて、民営鉄道の旅客輸送が増加した要因として郊外電車の沿線開発がある
④ 1920年から1930年にかけて、国鉄の営業距離が増加しかかったのは立憲政友会内閣による拡大政策だ、等々
ここでは①が正しいかたちで提示されており、表の推移を見ても民営鉄道の客数・距離が早い時期に国鉄を上回っていることと、日本鉄道会社の払い下げが大きく影響した点が合致します。よって①が正解です。
問29:正解4
<問題要旨>
20世紀以降の日本の対外関係の中で、鉄道に関わる諸政策や事件(南満州鉄道の設立、奉天郊外の爆破事件など)がいつ起きたのかを文I・II・IIIとして時系列に並べる問題です。
<対応する文>
I 奉天郊外において、張作霖が乗っていた列車が爆破された
II 南満州鉄道株式会社が設立された
III 賠償瑞(賠償問題への対応) …(本文では「鉄道建設に伴う巨額の経済借款を要した」等の記述があるかもしれません)
<選択肢>
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I
⑤ III → I → II
⑥ III → II → I
- II(南満州鉄道会社の設立)は1906年
- I(張作霖爆殺事件)は1928年
- IIIがその間(賠償や借款問題など)とみなせば、IIIの具体的時期が日露戦争直後~関東州租借期間中に関わるかもしれませんが、本文の流れとしてはII → III → Iの順が自然に読み取れます。
したがって④(II → III → I)が適切です。
問30:正解2
<問題要旨>
戦後10年(1945~55年)の間に撮影された写真X・Yを見て、その内容を示した文a~dの正誤を組み合わせる問題です。写真Xは食糧不足で農村へ買い出しに向かう人々の姿、写真Yは東北本線松川駅付近の列車転覆事件(いわゆる松川事件)と考えられます。
<選択肢>
① X → a、Y → c
② X → a、Y → d
③ X → b、Y → c
④ X → b、Y → d
- a:「写真Xは、深刻な食料不足の影響で、都市から農村へ買い出しに行く人が多くなったことを示している」
…敗戦直後の1945年頃から占領期にかけて、都市部の人々が農村に直接出向いて食料を求める「買い出し列車」の姿が多く見られました。写真Xの様子とも矛盾しません。 - d:「写真Yは、企業の倒産や失業者の増大が社会不安となっていた時期の事件を示している」
…写真Yは東北本線松川付近で起きた列車転覆事件(1949年)。これは戦後復興期の労働争議や社会不安を背景にした重大事件として知られています。企業倒産や失業問題とも絡み、社会不安が大きかった時期の象徴的事件です。
よって X → a、Y → d の②が正解となります。
問31:正解4
<問題要旨>
高度経済成長期以降(1960年代~80年代)の鉄道・自動車輸送や高速道路・新幹線の開通年をまとめた表2を基に、その内容を説明する選択肢から正しいものを選ぶ問題です。東京オリンピック(1964年)前後の新幹線開業や、高速道路ネットワークの進展が地方・首都圏を結んでいった過程などが論点となります。
<選択肢の例>
① 表2によれば、鉄道の旅客輸送が減少したことはなかった
② 表2によれば、日本で最初に開かれたオリンピックの開催までに、東京~大阪間には新幹線・高速道路が全線開通した
③ 表2によれば、第1次石油危機後、自動車の旅客輸送は減少した
④ 表2によれば、太平洋ベルト地帯から整備された新幹線・高速道路は、その後、東北地方や日本海側と首都圏を結ぶようになった
- 1964年に東海道新幹線が開通して以降、山陽・東北・上越など新幹線網が順次拡大し、高速道路も東名・名神を皮切りに各地方へ延伸していきました。
- 表2を見ると、鉄道旅客はむしろ長期的に増加傾向にあり、自動車輸送も大幅に伸びています。
- 太平洋ベルトに始まり、その後東北・上越新幹線も整備された経緯があるため、④が最も当てはまります。
問32:正解2
<問題要旨>
戦後から現代にかけての政治史の中で、「戦後政治の総決算」を掲げた政府が行った民営化や、小泉政権下での構造改革など、どの内閣の時期に行われたかを区別させる問題です。文X・Yのいずれが中曽根康弘内閣なのか、小泉純一郎内閣なのかを見極めます。
<選択肢>
① X正 Y正
② X正 Y誤
③ X誤 Y正
④ X誤 Y誤
- X:「『戦後政治の総決算』を掲げた改革で、電電公社が民営化された」
…「戦後政治の総決算」をスローガンに掲げた中曽根康弘首相(1982~87年)下で、日本専売公社・日本電信電話公社(NTT)・国鉄の民営化が進行しました。よってこれは正しい。 - Y:「国鉄の民営化は、小泉純一郎が首相のときに行われた」
…国鉄民営化は1987年、中曽根内閣の時期です。小泉政権(2001~06年)は郵政民営化などを主導しましたので、国鉄民営化とは無関係です。したがってYは誤りです。
よって X正・Y誤の②が正解となります。