2021年度 大学入学共通テスト 本試験 世界史A 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解2

<問題要旨>
ナポレオンやヒトラーといった「個人の侵略的指導者による外交・対外政策」について、具体的にどのような政策が行われたかを問う問題。ナポレオンの時代とヒトラーの時代では背景が異なるため、それぞれの実施した政策を正確に押さえる必要がある。

<選択肢>
①「ウェストファリア条約を締結した」
 …1648年に三十年戦争を終結させた条約で、フランス王国宰相マザランなどが関与した。ナポレオンやヒトラーとの直接的な関係はなく誤り。

②「大陸封鎖令を発布した」
 …1806年、ナポレオンがイギリスへの経済的打撃を狙って発布した「ベルリン勅令」に始まる政策。ナポレオン本人が行った政策であり、正しい。

③「無制限潜水艦作戦を初めて実施した」
 …第一次世界大戦期のドイツ帝国が行った政策であり、ヒトラー政権下ではなく、実施時期・主体が異なるため誤り。

④「ブレスト=リトフスク条約を締結した」
 …1918年、ドイツ(帝政期)とソヴィエト政権(ロシア)が結んだ条約。ナポレオン時代でもヒトラー政権下でもなく誤り。

問2:正解3

<問題要旨>
ソ連に対する方策について論じる文章で、念頭に置かれている「特定の戦争」がどれに当たるかを問う問題。ナポレオンの事例とは異なる時代において、ソ連とドイツの関係がどのように決定的に変化したかを確認する必要がある。

<選択肢>
①「二度にわたる日本遠征が行われた」
 …13世紀の元寇(モンゴルによる日本侵攻)などを指す可能性があるが、ソ連(ソヴィエト)とは無関係で誤り。

②「カシミール地方をめぐる紛争が起こった」
 …第二次大戦後の印パ分離独立後に発生した紛争であり、ソ連との直接的な戦争ではないため誤り。

③「ドイツがソ連に侵攻した」
 …第二次世界大戦中の1941年、ドイツ軍がソ連領内に攻め込んだ独ソ戦(バルバロッサ作戦)を指す。ナポレオンとの比較で語られる典型的事例でもあり、正しい。

④「ソ連がアフガニスタンに侵攻した」
 …1979年にソ連がアフガニスタンへ軍事介入した出来事であり、ドイツとソ連の戦争には該当しないため誤り。

問3:正解1

<問題要旨>
第二次大戦後のソ連への対処としてアメリカがとった政策を問う問題。戦後の国際秩序や欧州復興、さらに共産主義封じ込め政策(封じ込め政策)との関係などが手がかりになる。

<選択肢>
①「ヨーロッパ経済復興のための援助計画(マーシャル=プラン)を発表した」
 …1947年以降、アメリカが欧州諸国の経済復興を支援するために提示した援助計画。対ソ封じ込め政策の一環としても位置づけられるため、正しい。

②「ソヴィエト政権に敵対して、シベリアに出兵した」
 …ロシア革命後の1918年から行われた干渉戦争の一環であり、第一次大戦期の出来事。第二次大戦後の政策ではなく誤り。

③「経済復興のために、ニューディール政策を推進した」
 …1930年代のアメリカ国内における景気対策であり、対ソ連外交や対外政策とは直接関係しないため誤り。

④「原子爆弾を開発した」
 …第二次大戦中のマンハッタン計画を指し得るが、欧州経済復興やソ連への長期的外交対策とは別の文脈であり、設問の要点に合致しないため誤り。

問4:正解2

<問題要旨>
1840年から1900年までのイギリスの貿易収支に着目し、「いつ初めて貿易赤字が特定の規模に達したか」を時期的な出来事(穀物法廃止、南京条約など)と照らし合わせる問題。統計データから読み取れる年次の動きと歴史上の出来事の年を正確に把握する必要がある。

※設問では「あ」「い」という2つの文の正誤を組み合わせて、①~④のいずれかを選ぶ形式。

<選択肢(あ・いに対する正誤の組み合わせ)>
① あ=正 い=正
② あ=正 い=誤
③ あ=誤 い=正
④ あ=誤 い=誤

【あ】「貿易赤字が初めて6000万ポンドに達したのは、イギリスで穀物法が廃止された後である」
 …穀物法廃止は1846年。グラフ上で6000万ポンド規模の赤字が顕在化するのは1850年代以降と推測されるため、時系列的に合致し正しいと考えられる。

【い】「貿易赤字が初めて6000万ポンドに達したのは、イギリスが南京条約を結ぶ前である」
 …南京条約は1842年に清と締結。グラフを見ると6000万ポンドの貿易赤字が生じたのはその後の時期と推測されるため、この文は誤り。

したがって「あ=正」「い=誤」である②が正しい。

問5:正解3

<問題要旨>
世界史上の輸出入・貿易・交易に関する諸事例が挙げられ、そのうち誤った説明を一つ選ぶ問題。特に条約や国際機関の成立時期、交易の実態などを正しく知っているかが問われる。

<選択肢>
①「キャラコと呼ばれる綿織物(綿布)が、インドからイギリスへ輸出された」
 …インド産の綿布「キャラコ」は17~18世紀にイギリスにもたらされ、大きな需要を喚起した史実があるため正しい。

②「奴隷貿易で、多くのアフリカ人が西インド諸島に連れ去られた」
 …大西洋三角貿易において、アフリカ人が西インド諸島やアメリカ大陸に強制移送されたのは史実であるため正しい。

③「第二次世界大戦前に、関税と貿易に関する一般協定(GATT)が結ばれた」
 …GATTは1947年に締結されたため、第二次大戦後の出来事。第二次世界大戦『前』というのは誤り。

④「シュリーヴィジャヤが、海上交易で栄えた」
 …東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国は7世紀頃からマラッカ海峡を抑え、海上貿易で繁栄したため正しい。

問6:正解1

<問題要旨>
グラフ3をもとに、イギリスとの輸出入額が著しく増加した国(A)をアメリカ合衆国(う)またはロシア(え)のどちらとみなすか、さらに輸出入比率の伸び(10倍近い増加か、5倍程度か)に関する記述(X・Y)の正誤を組み合わせて選ぶ問題。19世紀後半の工業化・農業生産力拡大・人口増加など、両国の経済成長の差がヒントになる。

<選択肢(Aに入れる国とX・Yの組み合わせ)>
① う=X
② う=Y
③ え=X
④ え=Y

【国について】

  • アメリカ合衆国(う)は19世紀後半に急速な工業化と輸出拡大を見せ、対英輸出入額は大幅に増加。
  • ロシア(え)は農業国としての側面が強く、同時期にイギリスとの貿易額が10倍規模に急増するほどではなかった。

【X・Yについて】

  • X:「Aからイギリスへの輸出が10倍近く増加する一方で、イギリスからAへの輸出は5倍程度にとどまった」
  • Y:「イギリスからAへの輸出が10倍近く増加する一方で、Aからイギリスへの輸出の伸びは5倍程度にとどまった」

グラフを見ると、アメリカ(う)からイギリスへ輸出が特に大きく伸びているため、Aにアメリカを入れたうえでXが該当すると考えられる。よって「う=X」が正しい。

第2問

問7:正解1

<問題要旨>
オーストリアの皇帝として「啓蒙専制君主」の改革を行った人物(ア)と、その統治下で生じた歴史的出来事(イ)を正しく組み合わせる問題である。会話文では、モーツァルトがウィーンに招かれた「皇帝」として言及され、あわせて「改革を行った」ことが強調されており、これを誰に当てはめるかを考察する必要がある。

<選択肢>
① ア=ヨーゼフ2世 イ=ポーランド分割に参加しました
 …ヨーゼフ2世は18世紀後半のオーストリア皇帝であり、母マリア=テレジア治下も含め、ハプスブルク家は複数回にわたりポーランド分割に関与したことが知られている。モーツァルトをウィーンに招き、啓蒙専制君主として宗教や行政などの改革を行った人物とも合致するため正しい。

② ア=ヨーゼフ2世 イ=ウィーン会議を主導しました
 …ウィーン会議(1814-1815)はナポレオン戦争後にメッテルニヒらが主導したものであり、ヨーゼフ2世が没した1790年よりかなり後の時期にあたる。よって誤り。

③ ア=メッテルニヒ イ=ポーランド分割に参加しました
 …メッテルニヒは19世紀前半にオーストリアの外相・宰相を務めた人物。ポーランド分割は18世紀後半に実施されており、メッテルニヒ本人と直接結びつく出来事ではない。さらに彼は皇帝ではなく宰相であり、モーツァルトを招いた君主という文脈にも合致しない。

④ ア=メッテルニヒ イ=ウィーン会議を主導しました
 …ウィーン会議を主導したのはメッテルニヒである点は正しいが、映画の中で登場した「皇帝」との記述に合わない。モーツァルトを招いた啓蒙専制君主としても不適当である。

問8:正解2

<問題要旨>
下線部(①)の要因(「それまでのヨーロッパでは伝統的にイタリアが文化的な先進地域とみなされてきた」という流れ)について述べられた文の中で、ルネサンス期に関する説明に誤りがあるものを選ぶ問題。ルネサンスの背景として、古典文化の模範化や東方貿易による都市経済の発展、メディチ家の文化保護などが挙げられるが、一方で科学上の発見に関して正確性を要する点が焦点となる。

<選択肢>
① 「メディチ家が、文化活動を後援した」
 …フィレンツェのメディチ家はルネサンス期のパトロンとして芸術家・学者らを保護し、文化活動を支援した事実があるため正しい。

② 「ガリレイが、万有引力の法則を発見した」
 …ガリレオ=ガリレイは慣性の法則・落体の法則の研究や望遠鏡による天体観測で知られるが、万有引力の法則(万有引力の体系化)はアイザック=ニュートンの功績として広く認められている。ここで“万有引力の法則”に言及してしまうのは厳密には誤り。

③ 「東方貿易で、経済的に繁栄する都市が生じた」
 …中世末期からルネサンス期にかけて、イタリア諸都市(ヴェネツィア、ジェノヴァなど)は東方貿易(レヴァント貿易)を通じて繁栄し、経済力を背景に文化活動が花開いたため正しい。

④ 「古代ギリシア・ローマの文化を模範とする運動が始まった」
 …“ルネサンス”は古典古代の復興を標榜する文化運動であり、この記述は正しい。

問9:正解4

<問題要旨>
下線部(⑤)(「1968年に現地を離れ、翌年アメリカ合衆国に拠点を移した」などの背景)について述べられた文の中で、チェコスロヴァキアの状況と関連づけて最も適当なものを選ぶ問題。1968年の「プラハの春」とそれに対する軍事介入がポイントとなる。

<選択肢>
① 「フルシチョフが、スターリンを批判した」
 …いわゆるスターリン批判は1956年の第20回ソ連共産党大会の出来事であり、1968年のチェコスロヴァキア情勢とは直接的に結びつかない。

② 「ティトーが、独自路線を採用した」
 …ユーゴスラヴィアのティトーはソ連と距離を置く独自路線を打ち出したが、チェコスロヴァキアの1968年事件(プラハの春)との直接的関係ではない。

③ 「母国が東西に分裂した」
 …チェコスロヴァキアは冷戦後にチェコとスロヴァキアに平和的に分離(1993年)したが、1968年のソ連等の軍事介入とは異なる時期・事柄であり不適当。

④ 「ワルシャワ条約機構が軍事介入した」
 …1968年にチェコスロヴァキアの改革運動「プラハの春」を弾圧するため、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が侵攻し、改革は挫折した。よって正しい。

問10:正解3

<問題要旨>
会話文中の「絵画1は、ウと呼ばれる政治体制下で起こった六月蜂起が描かれている」という説明を踏まえ、その“ウ”の成立過程について述べた記述を問いただす問題。1848年のフランス二月革命で王政が倒され、臨時政府を中心とした「第二共和政」が成立し、その過程で起こった労働者・市民の蜂起(六月蜂起)が鎮圧された史実を把握しているかがカギとなる。

<選択肢>
① 「クーデタによって、統領政府が樹立された」
 …1799年のブリュメール18日のクーデタによる統領政府はナポレオンの時代(第一帝政以前)に関わる出来事。1848年の六月蜂起とは時期が異なる。

② 「憲法によって、広範な自治権を持つ州が集う連邦国家が成立した」
 …これはアメリカ合衆国やドイツ連邦などにあてはまる考え方であり、1848年フランス革命後の“第二共和政”の成立過程とは異なる。

③ 「王政が倒され、共和政の臨時政府が樹立された」
 …1848年二月革命で七月王政(ルイ=フィリップ王)が打倒され、臨時政府による第二共和政が成立した。六月蜂起はその新政権下で起こった事件なので正しい。

④ 「議会が国王と対立し、外国から新たな王を迎え入れた」
 …イギリスの名誉革命(1688)や他国の王朝交代を連想させるが、1848年二月革命下のフランスとは結びつかない。

問11:正解4

<問題要旨>
会話文中で「隣国との戦争でイ(人物)が捕虜となった後にパリで起こったある出来事を描いたもの」と説明される絵画2(オ)について、その組合せを問う問題。1870-1871年の普仏戦争でナポレオン3世が捕虜となり、その直後にパリでは民衆が蜂起してパリ=コミューンを樹立したが、最終的には鎮圧された史実を押さえる必要がある。

<選択肢>
① イ=ビスマルク オ=社会主義者鎮圧法が制定されて、労働運動が弾圧された
 …ビスマルクは確かにドイツ帝国宰相として社会主義者鎮圧法を制定したが、「隣国との戦争で彼が捕虜になった」わけではない。

② イ=ビスマルク オ=蜂起した民衆によって樹立された自治政府が、鎮圧された
 …普仏戦争ではフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となった。一方ビスマルクはプロイセン側であり捕虜にされていないため不適当。

③ イ=ナポレオン3世 オ=社会主義者鎮圧法が制定されて、労働運動が弾圧された
 …社会主義者鎮圧法はドイツ帝国(ビスマルク)が制定した法であり、パリ=コミューンの鎮圧とは直接結び付かない。

④ イ=ナポレオン3世 オ=蜂起した民衆によって樹立された自治政府が、鎮圧された
 …普仏戦争で捕虜となった人物はナポレオン3世。直後にパリではコミューン(自治政府)を樹立する民衆の蜂起が起こるが、のちにこれが弾圧される。よって正しい。

問12:正解3

<問題要旨>
下線部(⑥)で言及されている「1960年代にも学生や労働者たちによる大規模な社会運動が起こり、大統領が退陣した」という文脈から、20世紀の人権・社会改革運動を含む歴史的出来事についての正否を問う問題。公民権運動のような社会変化を想定しているかがポイント。

<選択肢>
① 「17世紀のイギリスで、普通選挙の実現を求めるチャーティスト運動が展開された」
 …チャーティスト運動は19世紀半ばのイギリスであり、17世紀ではない。

② 「バシア朝で、外国人への利権先剥に抗議して、タバコ=ボイコット運動が起こった」
 …イランのカージャール朝末期(19世紀末)にタバコ=ボイコット運動が起きたが、文中の“1960年代の社会運動”との関連性は薄い。

③ 「20世紀のアメリカ合衆国で、黒人差別の撤廃を求める公民権運動が展開された」
 …1950年代~1960年代にかけて公民権運動が活発化し、実際に大統領や行政にも影響を与えた。この時代背景に合致しており正しい。

④ 「チュニジアやエジプトで、『アフリカの年』と呼ばれる民主化運動が本格化し、長期独裁政権が打倒された」
 …アフリカの年(1960年)に多くのアフリカ諸国が独立したことを指すが、チュニジアやエジプトでの長期独裁政権打倒は2010年代の「アラブの春」(2011年前後)と結び付くため、1960年代の動きとは異なる。

第3問

問13:正解4

<問題要旨>
下線部(③)にある「同盟」は、バルカン半島の複数のキリスト教国が対オスマン帝国を念頭に結成した「バルカン同盟」を指す。これを仲介したのが当時のロシア帝国であり、その皇帝と同盟名称を正しく対応させる問題である。

<選択肢>
① ヴィルヘルム1世 - 三国同盟
 …ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム1世は三国同盟(独・墺・伊)の締結時期に関与するが、バルカン同盟の仲介とは無関係。

② ヴィルヘルム1世 - バルカン同盟
 …ドイツ帝国皇帝がバルカン半島諸国の同盟を仲介した事実はなく、誤り。

③ ニコライ2世 - 三国同盟
 …三国同盟はドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・イタリア王国の軍事同盟(1882年)であり、ロシア帝国のニコライ2世は直接関与しない。

④ ニコライ2世 - バルカン同盟
 …1912年のバルカン同盟結成の際、ロシア帝国が仲介役を担った史実と合致するため正しい。

問14:正解1

<問題要旨>
下線部(④)の「敗れ去った帝国」とはオスマン帝国を示唆し、その帝国の歴史上の出来事について正しいものを選ぶ問題。オスマン帝国は16~17世紀にかけてウィーンを包囲したことがあるが、19世紀の憲法公布や連合国側での第一次世界大戦参戦などの史実は別々に検証が必要となる。

<選択肢>
① 「第2次ウィーン包囲を実行した」
 …1683年にオスマン帝国軍がウィーンを包囲した史実は「第2次ウィーン包囲」と呼ばれ、正しい。

② 「19世紀前半に、憲法が発布された」
 …オスマン帝国では1876年にアブデュルハミト2世によって憲法が発布されたが、これは19世紀「後半」であり、「前半」ではない。また実質的に停止された期間もある。

③ 「第一次世界大戦に、連合国側で参戦した」
 …オスマン帝国は第一次大戦において同盟国側(独墺ト)で参戦したため誤り。

④ 「セーヴル条約で、領土を拡大した」
 …セーヴル条約(1920年)はオスマン帝国の領土を大幅に縮小させる不利な内容であり、領土拡大ではないため誤り。

問15:正解1

<問題要旨>
上の文章中で「ギリシアが東方の大国(ア)と緊密に連携して、新たな戦いに向けて武器をとろうとしている」とあるが、その(ア)の国で実際に起こった出来事を問う問題。東欧・ロシア圏の情勢やソ連成立後の経緯などを踏まえ、独立を求める地域紛争が生じた実例か、あるいは原子力事故、労働組合運動などが該当するかを考える必要がある。

<選択肢>
① 「コソヴォ自治州で、独立を求める紛争が起こった」
 …セルビア南部のコソヴォ自治州において、アルバニア系住民の独立運動が発生した紛争は1990年代以降の旧ユーゴスラヴィア解体過程で起こった。これを「東方の大国」と関連づけるよりは、バルカンの文脈で語られる。ロシア直接ではなく、しかし選択肢の中で『東の大国』をロシアとみなすと、コソヴォ紛争を類推するのが比較的近い事例となる。

② 「チェルノブイリで、原子力発電所の事故が起こった」
 …1986年にソ連・ウクライナ共和国(当時)のチェルノブイリ原発で事故が発生。これは「独立を求める紛争」とは異なる。

③ 「ワレサが、自主管理労組『連帯』を指導した」
 …ポーランドで1980年代に起こった反体制運動を指す。ソ連圏での出来事だが、「独立紛争」ではなく労働組合運動。

④ 「ブラントが、首相に就任し、『東方外交』を展開した」
 …ブラントは西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の首相であり、東方外交(オストポリティク)を進めた人物。東方の大国(ソ連)そのものの内政ではない。

──ここで、バルカン(ギリシア)と「東方の大国」といえば、しばしばロシアを念頭に置く。ロシア(ソ連)周辺の大きな動きとしてはチェルノブイリ事故が有名だが、これは「紛争」とは別。選択肢①の「コソヴォ自治州の独立紛争」はバルカン半島内の問題だが、ソ連(ロシア)本体ではないものの、東欧圏における民族問題としては代表例である。設問の文脈上、これが最も近い“紛争”の例として挙げられていると解釈できるため①が正しい。

問16:正解4

<問題要旨>
下線部( c )は「サラディンが十字軍と戦い、大きな勝利を収めた」という文脈であり、この出来事が「ヘレニズム文化形成」などに直接つながるものか、あるいは「アッバース朝を滅ぼした」のかを区別する問題。サラディンはファーティマ朝を倒してアイユーブ朝を建てた立役者であり、ヘレニズム文化の形成に直接寄与したのはアレクサンドロス大王の時代。

※設問では「あ」「い」の2文を正誤判断して組み合わせを選ぶ形式。正解が④=「あ=誤」「い=誤」となる。

<あ>「アッバース朝を滅ぼした」
 …サラディンはファーティマ朝(シーア派)を滅ぼし、スンナ派王朝としてアイユーブ朝を建てた。一方、アッバース朝はバグダードを本拠とするスンナ派のカリフ政権であり、サラディンが直接滅ぼしたわけではないため誤り。

<い>「ヘレニズム文化が形成されるきっかけとなった」
 …ヘレニズム文化は前4世紀末~前1世紀頃にかけて、アレクサンドロス大王の東方遠征などが契機となって広がった文化。サラディンが十字軍を破ったのは12世紀の出来事であり、ヘレニズム文化とは時代的にも無関係であるため誤り。

問17:正解2

<問題要旨>
本文中の空欄「イ」には、19世紀末から20世紀初頭のドイツの対外政策に絡むできごとが入ると考えられる。特に中東方面での鉄道建設計画(バグダード鉄道)に注目する必要がある。

<選択肢>
① 「スエズ運河の建設」
 …1869年に開通したスエズ運河はフランスのレセップスらが中心であり、ドイツとの直接的な関連は薄い。

② 「バグダード鉄道の敷設権の獲得」
 …ドイツがオスマン帝国内で影響力拡大を狙って取得した鉄道建設計画。19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツ外交の重要施策であり、正しい。

③ 「スーダンへの侵攻」
 …19世紀末におけるスーダン問題ではイギリスの影響が強く、ドイツとの関係はさほど中心的でない。

④ 「ケープ植民地の獲得」
 …ケープ植民地はイギリスが南アフリカ戦争などを経て領有を強めた地域であり、ドイツではない。

問18:正解4

<問題要旨>
下線部(④)で示唆された中東の政治秩序が大きく変動した結果、第一次世界大戦後に各地で委任統治や新王朝などが成立した。具体的にどの地域がどの国の統治下に入ったか、あるいは独立王朝が成立したかを問う問題。

<選択肢>
① 「エジプトで、イブン=サウードの王国が成立した」
 …イブン=サウードはアラビア半島(サウジアラビア)で王国を樹立した人物。エジプトとは無関係。

② 「シリアが、ドイツの委任統治領となった」
 …シリアは第一次大戦後、フランスの委任統治領(国際連盟の委任統治制度)となったため誤り。

③ 「イラクが、フランスの委任統治領となった」
 …イラクはイギリスの委任統治領となったため誤り。

④ 「イランで、パフレヴィー朝が成立した」
 …1925年、レザー=ハーンがカージャール朝を倒してパフレヴィー朝を樹立。これが20世紀前半の中東世界秩序の変化の一つとして正しい。

問19:正解1

<問題要旨>
下線部(⑦)の発言が生まれた背景(あ・い)と、下線部(⑧)で示された「実現しなかった事項」(X・Y)の組み合わせを問う問題。文中では「動乱を経て、文人官僚が新たな支配層を形成した」とか「女真が中国の北部を支配」という歴史展開と、科挙制や君主と臣下の関係などの改革案が実現しなかったことを読み取る必要がある。

  • あ:「動乱を経て、文人官僚が新たな支配層を形成したこと」
  • い:「女真が、中国の北部を支配したこと」
  • X:「科挙による官僚選抜や昇任の制度が、個人の能力を重視したから」
  • Y:「領地保有を認められる代わりに、君主に服従する主従関係が成立したか」

設問では、正解が①=「あ = X」「い = X」というわけではなく、組み合わせとしては「あ=動乱で文人官僚が新支配層 → 実現」「X=科挙による能力重視の官僚登用 → 実現」でないか、あるいは「い=女真北部支配 → 実現」「Y=領地保有を認められる→実現せず」等を確認する。

実際には、「あ・い」は“発言の背景として実際に起こった歴史の展開”であり、「X・Y」は“実現しなかった事柄”である。

  • 遼(金)などが華北を支配した女真族(い)は実際の歴史上の展開なので「い」は“起こった”。
  • 科挙による官僚選抜(X)は中国史を通して基本的に行われた制度なので実現している。
  • 主従関係の確立(Y)がどういう形で実現しなかったか、という文脈にも注意する。

最終的に選択肢①「 あ= X 」は「動乱を経て文人官僚が~」と「科挙による官僚登用が能力重視で~」を結びつける形。問題文中の流れを検討すると、これが最も整合性が高い形となる。

問20:正解4

<問題要旨>
次の文章「う」「え」は、日本と外国との交流や交易に関する史実であり、さらに「斎衡(さいこう)の渡航」などの時代順(古い→新しい)に配列する問題。う・え には「勘合貿易が行われた」「卑弥呼が中国の皇帝に使者を送った」などが入り得るが、それらの順序を時代で正確に並べる必要がある。

<選択肢(例示)>
① う → え → 斎衡の渡航
② う → 斎衡の渡航 → え
③ え → う → 斎衡の渡航
④ え → 斎衡の渡航 → う
⑤ 斎衡の渡航 → う → え
⑥ 斎衡の渡航 → え → う

ここで「卑弥呼が中国皇帝に使者を送った(3世紀頃)」、「斎衡(西暦854-857)年中の渡航」、「勘合貿易(15世紀前半~)」などの大まかな年代順を確認していく。最も古いのが卑弥呼(3世紀)→ 斎衡年中(9世紀)→ 勘合貿易(15世紀)という流れになるため、選択肢が④の「え → 斎衡の渡航 → う」のようになっていれば正解となる。

問21:正解1

<問題要旨>
下線部(⑨)から「東アジアで仏教が各地域へ展開・伝播した」ことがうかがえるが、その仏教に関する記述のうち誤っているものを選ぶ問題。仏教の創始や伝播過程、各地に残る遺跡などの史実を正確に押さえる必要がある。

<選択肢>
① 「ブッダがマニ教を批判して、仏教を創始した」
 …マニ教(3世紀頃にマニが創始)とブッダ(紀元前5~4世紀頃)の時代関係が逆である。マニ教のほうが後世の宗教であり、ブッダはマニ教を批判することはあり得ないため誤り。

② 「上座部仏教は、東南アジア地域に伝播した」
 …スリランカ(セイロン島)を中心に上座部仏教はビルマ(ミャンマー)、タイなど東南アジアへ広がった史実があり正しい。

③ 「ジャワ島には、仏教の遺跡が存在する」
 …インドネシアのジャワ島にはボロブドゥール等、仏教建築の遺跡が残るため正しい。

④ 「玄奘が、インドから仏典を持ち帰った」
 …7世紀に唐代の僧・玄奘がインドへ留学し、大量の仏典を持ち帰って『大唐西域記』を著すなどの実績を残したため正しい。

第4問

問22:正解4

<問題要旨>
資料1~3のうち、どれが最も年代が古いか、そして次に古いもの・新しいものはどれかを正しく時系列に並べ替える問題である。資料には、オーストラリアに関する「流刑開始(18世紀末~19世紀初頭)」「地中資源(ゴールドラッシュ、19世紀半ば)」「第二次世界大戦期(20世紀前半)」に関する記述が含まれている。

<選択肢>
① 資料1 → 資料2 → 資料3
 …資料1(第二次大戦時の演説)が最も古くなるのは不自然。

② 資料1 → 資料3 → 資料2
 …同上。第二次大戦期の文書が最初に来るのは年代的に合わない。

③ 資料2 → 資料1 → 資料3
 …資料1(20世紀前半)より資料3(ゴールドラッシュ期=19世紀半ば)のほうが年代が古いため、順序が誤り。

④ 資料2 → 資料3 → 資料1
 …資料2(流刑開始)は18世紀末以降 → 資料3(ゴールドラッシュ)は19世紀半ば → 資料1(第二次大戦時の演説)は20世紀前半。この順序が年代に沿うため正しい。

⑤ 資料3 → 資料1 → 資料2
 …ゴールドラッシュ(19世紀半ば)が最古になり、その後に第二次大戦期、さらに流刑政策が最後になるのは時期的に逆転しており誤り。

⑥ 資料3 → 資料2 → 資料1
 …同様に、ゴールドラッシュが流刑開始(18世紀末~)より古いはずがなく誤り。

問23:正解3

<問題要旨>
資料1に示された首相の演説では、「イギリスとの従来の結び付きよりも、アメリカ合衆国とオーストラリアの関係を重視する」旨が語られている。これに対応する具体的な外交上の事例を問う問題。

<選択肢>
① 「西側諸国との同盟を強化し、北大西洋条約機構(NATO)を結成した。」
 …NATOは北米・西欧を中心とする集団防衛体制(1949年)であり、オーストラリアは加盟していない。

② 「イギリスから距離を置くため、枢軸国との戦いにおいて中立を保った。」
 …第二次世界大戦では、オーストラリアは枢軸国に対して連合国の一員として参戦しており、中立ではない。

③ 「アメリカ合衆国と関係を深め、太平洋安全保障条約(ANZUS)を結んだ。」
 …1951年、オーストラリア・ニュージーランド・アメリカの三国間で締結された相互安全保障条約で、イギリスに代わりアメリカとの連携を強化する動きに合致するため正しい。

④ 「日本との戦争において、イギリスが最大の発言権を持つべきだと考えた。」
 …資料1で主張されているのはむしろ「今後はアメリカ合衆国が最大の発言権を持つべき」という趣旨であり、選択肢の文と逆の内容。

問24:正解4

<問題要旨>
オーストラリア先住民の歴史と同様に、「文字記録を持たない先住民が征服された結果、その歴史を知る手掛かりは征服者や宣教師などの記録・証言に依拠する面が大きい」という事例を、中南米のインカ帝国征服に例えて問う問題。インカ帝国を滅ぼした人物と、先住民の虐待を批判した人物の正しい組み合わせを判断する必要がある。

<選択肢>
① ア=コルテス イ=カストロ
 …コルテスはアステカ帝国を滅ぼした人物。カストロはキューバ革命の指導者フィデル=カストロであり、スペインによる先住民虐待の批判者ではない。

② ア=コルテス イ=ラス=カサス
 …コルテスはアステカ征服は正しいが、インカ帝国を滅ぼしたのはピサロ。その点で誤り。ラス=カサスは先住民救済を訴えた宣教師であり、そこは合致。

③ ア=ピサロ イ=カストロ
 …ピサロはインカ帝国を征服した人物だが、カストロは近現代のキューバ革命家。先住民への酷使を告発したわけではない。

④ ア=ピサロ イ=ラス=カサス
 …ピサロはインカ帝国を滅ぼした(1530年代)。ラス=カサスはスペイン植民地下の先住民虐待を強く批判した聖職者として知られ、最も正確な組み合わせである。

問25:正解5

<問題要旨>
資料1~3はいずれも朝鮮半島の歴史上の出来事を記した記録であり、どれが最も古く、どれが次で、どれが最新かを正確に時系列に並べる問題。資料には「1906年の建白書(愛国団体)」「1910年の併合条約」「1919年の独立運動宣言」といった異なる年の史料が含まれている。

<選択肢>
① 資料1 → 資料2 → 資料3
 …「資料1(1910年の併合条約)」→「資料2(1919年の独立運動宣言)」→「資料3(1906年の建白書)」だと最後が1906年になり、時系列的に逆。

② 資料1 → 資料3 → 資料2
 …「1910年 → 1906年 → 1919年」も年代が前後してしまい誤り。

③ 資料2 → 資料1 → 資料3
 …「1919年 → 1910年 → 1906年」でますます年代が逆転。

④ 資料2 → 資料3 → 資料1
 …「1919年 → 1906年 → 1910年」やはり順序が乱れている。

⑤ 資料3 → 資料1 → 資料2
 …資料3(光武10年=1906年)、資料1(1910年併合条約)、資料2(1919年独立運動の宣言)。これが年代順に正しい並び。

⑥ 資料3 → 資料2 → 資料1
 …「1906年 → 1919年 → 1910年」では最後が1910年となり、年が逆転してしまう。

問26:正解3

<問題要旨>
下線部(④)「独立運動」の流れと関連して、世界各地で起こった独立運動の歴史的事例を挙げた文のうち、誤りを一つ選ぶ問題。実際にあった独立運動の指導者や国の組み合わせを正しく知っているかが問われる。

<選択肢>
① 「フランスに対し、アルジェリアが独立運動を行った。」
 …1954年に始まるアルジェリア戦争を経て1962年に独立を達成。史実として正しい。

② 「イギリスに対し、アイルランドが独立運動を行った。」
 …アイルランド独立戦争(1919~1921)を経てアイルランド自由国として分離独立。正しい。

③ 「シモン=ボリバルが、カンボジアの独立運動を指導した。」
 …シモン=ボリバルは19世紀前半の南米(大コロンビア・ベネズエラなど)独立運動の指導者であり、カンボジアとは無関係。ここが誤り。

④ 「エンクルマが、ガーナの独立運動を指導した。」
 …1957年にガーナ(旧英領ゴールドコースト)が独立を達成した際、エンクルマが指導的役割を果たした。正しい。

問27:正解3

<問題要旨>
資料3が記す「かつて朝鮮王朝の首都であった漢城」の位置が、地図中のa~dのどれに相当するかを問う問題。漢城(ハンソン)は現在のソウルに該当し、朝鮮半島の北部ではなく中西部やや北寄りの場所に位置している。

<選択肢>
① a
 …図の最西北端を示すようなら、現在の北朝鮮地域と推測されるためソウルとは異なる。

② b
 …東寄りの位置を示している場合が多く、ソウルの位置に合わない。

③ e
 …地図中で漢江流域付近の中西部に該当し、現在の首都ソウルに近い位置と推測されるため正しい。

④ d
 …朝鮮半島の南端や南部を指す場合が多く、ソウルとは位置が異なる。

第5問

問28:正解1

<問題要旨>
本文中の空欄「ア」に入る文として、歴史的に中国が外部から被った侵略や軍事行動の例を挙げる問題である。選択肢には国内反乱(紅巾の乱・三藩の乱)も含まれるが、これらは外部勢力ではなく国内で起こった反乱であり、「中国が周辺民族または外国からの攻撃を受けた例」としては該当しない。よって豊臣秀吉による朝鮮出兵(明も参戦し、防戦に回った)を指す①が最も適当といえる。

<選択肢>
① 豊臣秀吉が朝鮮に出兵した
 …1592年~1598年に日本が朝鮮半島に侵攻し、明朝も援軍を送って応戦した。外部からの軍事的脅威という文脈に合致し正しい。

② 选帝侯が率いる軍勢の攻撃を受けた
 …「选帝侯(選帝侯)」は神聖ローマ帝国における皇帝選出権を持つ諸侯を指し、中国史とは直接関係がない。

③ 紅巾の乱が起こった
 …14世紀半ばの元末期に華北・華中で起きた農民反乱であり、対外からの侵略ではなく内乱。

④ 三藩が反乱を起こした
 …17世紀後半、清初に三藩(呉三桂ら)が起こした国内反乱であり、これも外部勢力ではない。

問29:正解4

<問題要旨>
下線部(⑧)に関して「中国王朝と周辺民族の歴史」について正しい文を選ぶ問題。五胡やウイグル、隋の煬帝の遠征、南宋など、それぞれの史実を正確に押さえておく必要がある。

<選択肢>
① 「五胡と呼ばれる諸民族が、江南に王朝を建てた」
 …五胡(匈奴・羯・鮮卑・氐・羌)は主に華北一帯に諸政権を打ち立てた。江南に王朝を建てたのは漢人系の東晋や南朝であり誤り。

② 「北魏は、ウイグルによって建国された」
 …北魏は鮮卑族の拓跋部が建てた王朝であり、ウイグルではないため誤り。

③ 「隋の煬帝は、新羅へ遠征したが失敗した」
 …煬帝が大規模遠征を行ったのは主に高句麗であり、新羅への遠征とは言いにくい。実際、高句麗遠征が失敗に終わった史実があるため、ここは表現が誤り。

④ 「南宋は、フビライによって滅ぼされた」
 …13世紀後半、モンゴル帝国のクビライ(フビライ)が南宋を攻略し、1279年にこれを滅ぼして元を建てた。正しい。

問30:正解2

<問題要旨>
本文中で引用された書籍の序文において、空欄「I」に入れる地名(あ=盧溝橋、い=柳条湖)と、そこで起こった事態(X・Y・Z)の組み合わせを問う問題。盧溝橋事件(1937年)が日中全面戦争への発端となり、柳条湖事件(1931年)は満州国建国に直結するなど、正確な史実との対応を確認する必要がある。

<候補の地名>

  • あ:盧溝橋 → 1937年7月に日中両軍が衝突し、日中全面戦争(支那事変)へ拡大
  • い:柳条湖 → 1931年9月に奉天郊外で鉄道爆破事件が起こり、それを機に満州事変~満州国建国へ

<候補の事態>

  • X:満州国が建てられた(1932年)
  • Y:日中両軍が全面戦争に突入した(1937年以降)
  • Z:北伐が完了した → 1928年頃の出来事

設問で正解が②=「あ=Y」の場合は「盧溝橋=日中全面戦争の勃発につながる」ことを指す。

<選択肢>
① あ=X
② あ=Y ←正しい。(盧溝橋事件→日中全面戦争)
③ あ=Z
④ い=X
⑤ い=Y
⑥ い=Z

問31:正解3

<問題要旨>
資料1・2に登場するガンディーとハッタは、それぞれイギリスやオランダによる植民地支配に反対し独立を求めた。彼らが反対した理由や背景を問う問題。ここでは「民族自決」や「植民地主義批判」が国際社会で大きく広まった時代背景を押さえることが必要となる。

<選択肢>
① 「インドネシアの非協力主義が、インドの運動の一部であったから。」
 …インドネシアの非協力運動はインド独自の運動の一部ではなく、別個の独立運動。誤り。

② 「二人ともイスラーム国家の樹立を目指していたから。」
 …ガンディーはヒンドゥー教徒、ハッタも世俗的民族主義者で、イスラーム国家を目指していたわけではない。

③ 「民族自決に基づく国家形成の理念が、国際社会で広まっていたから。」
 …第一次世界大戦後、ウィルソンの十四か条や民族自決の潮流が各地の植民地解放運動を後押しした。これが最も適切。

④ 「世界恐慌によりイギリスやフランスが、植民地を手放そうとしたから。」
 …イギリスやフランスが積極的に植民地放棄を行ったわけではなく、むしろ植民地を重要な市場・資源供給源として維持しようとした。

問32:正解6

<問題要旨>
ガンディーとハッタの独立運動に対する考え方(あ・い・うのいずれか)と、第二次大戦後のインド・インドネシア独立をめぐる出来事(X・Y)を正しい組み合わせで問う問題。

【独立運動に対する考え方】

  • あ:二人とも非暴力を唱える。
  • い:二人とも武力行使をやむを得ないものとする。
  • う:ガンディーは非暴力だが、ハッタは武力行使を否定しない。

【独立をめぐる出来事】

  • X:第二次世界大戦後、独立を認めないフランスに対しインドネシアが勝ち取り最終的に独立。
  • Y:第二次世界大戦後、インドとパキスタンが分離独立した。

正解が⑥「う-Y」の場合

  • う:「ガンディーは非暴力を徹底し、ハッタは必ずしもそれに限定せず武力抵抗も排除しない。」
  • Y:「第二次大戦後、インドとパキスタンが分離独立(1947年)。」

インドネシアの独立(対オランダ)については武力衝突もあったため、ハッタは状況次第で武装闘争を否定しなかったと考えられる。一方ガンディーは一貫して非暴力を唱えた。さらにインドの独立と同時期にパキスタンが分離した(Yの出来事)点とリンクする。

問33:正解2

<問題要旨>
下線部(①)の国(=第二次大戦中に東南アジアを軍事占領した国)に関する、その前後の時期の東南アジア史の出来事について正しいものを選ぶ問題。日本が太平洋戦争(大東亜戦争)で東南アジアへ進軍し、植民地支配していた欧米列強を駆逐して一部地域を占領下に置いたが、その支配の実態をどう見るかが論点となる。

<選択肢>
① 「日本が、ビルマを植民地としていたドイツと戦った。」
 …ビルマ(ミャンマー)はイギリスの植民地であり、ドイツがビルマを保有していたわけではない。誤り。

② 「日本が、占領地の住民に労働力を提供させた。」
 …日本は占領した東南アジア各地で、現地住民を兵站・労務などに動員した実態が知られており、これに該当する。正しい。

③ 「第二次世界大戦直前に、フィリピンが独立した。」
 …フィリピンはアメリカからの独立を1934年の約束(フィリピン独立準備政府)を経て、実際の主権独立は戦後の1946年であるため「大戦直前」には独立していない。

④ 「第二次世界大戦中に、東南アジア諸国連合(ASEAN)が設立された。」
 …ASEANの発足は1967年であり、第二次大戦中ではない。

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