2024年度 大学入学共通テスト 本試験 世界史B 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解①

<問題要旨>

秦の始皇帝の時代に行われた、統治制度に関する議論(封建制と郡県制の是非)について、資料1と資料2の内容を正確に読解する問題です。

<選択肢>

①【正】

資料1で、李斯は「周王朝を開いた文王と武王は、一族や功臣の多くに、封土を分け与えて諸侯としましたが、その後疎遠となって攻撃し合い、周王は制御できませんでした」と述べています。これは、周が採用した封建制によって諸侯が争乱を起こし、周王の統制が及ばなくなったことを問題視しているため、正しい記述です。

②【誤】

資料1で李斯は、郡県制の下で「国家に収められる租税によって厚く手当てする」ことを始皇帝に提案しており、これを周が行ったとは述べていません。また、戦乱の原因として挙げているのは封建制の弊害です。

③【誤】

資料2で博士の一人は、封建制の利点として「一族や功臣に封土を分け与えて諸侯とし、王室を補佐する枝葉とした」ことを挙げています。これは一族に権力を持たせることを肯定的に捉えているため、記述と逆の内容です。

④【誤】

資料2で博士の一人が利点として挙げているのは、一族が帝室を補佐する封建制です。郡県制については、一族が庶民となり帝室を補佐する者がいなくなるという問題点を指摘しています。

問2:正解④

<問題要旨>

三国時代の魏から晋への王朝交代と、西晋の争乱に関する歴史知識を問う問題です。空欄アに入る人物と、資料3が説明する争乱の名称を特定します。

<選択肢>

①【誤】

呉三桂は清の時代の人物で、三藩の乱の中心人物です。アは魏から帝位を奪った人物なので不適当です。

②【誤】

呉三桂は清の時代の人物であり、不適当です。

③【誤】

司馬炎は魏の皇帝から禅譲を受けて晋を建国した人物なのでアとしては正しいですが、三藩の乱は清の時代の争乱であり、西晋の「肉親同士が争い合った」争乱ではありません。

④【正】

アには、魏の元帝から禅譲を受けて西晋を建国した司馬炎が入ります。資料3で述べられている、西晋で一族の王たちが帝位をめぐって争った内乱は八王の乱です。したがって、この組み合わせは正しいです。

問3:正解⑥

<問題要旨>

明の初期に、皇帝の一族に大きな権限を与えること(分権)の弊害を警告する文脈で、その先例として挙げられたと考えられる前漢の争乱と、明代に実際に起こった同様の出来事を結びつける問題です。

<選択肢>

①【誤】

黄巾の乱は後漢末期の宗教反乱であり、一族への分権の弊害の例ではありません。

②【誤】

黄巾の乱は不適当です。

③【誤】

赤眉の乱は新末期の農民反乱であり、一族への分権の弊害の例ではありません。

④【誤】

赤眉の乱は不適当です。

⑤【誤】

呉楚七国の乱は、前漢の景帝の時代に、権力削減に反発した劉氏一族の諸侯王が起こした反乱であり、分権の弊害の先例として適切です。しかし、Xの朱元璋の即位は明建国の過程であり、一族間の争いではありません。

⑥【正】

うの呉楚七国の乱は、前漢における一族(諸侯王)への分権が裏目に出た争乱です。Yの靖難の役は、明の建文帝が叔父である諸王の権力を削ごうとした結果、燕王(後の永楽帝)に帝位を奪われた事件であり、これも一族への分権が原因となった争乱です。明の官僚が、前漢の先例「う」を引いて、Yのような事態を警告したと考えるのは論理的に整合します。

問4:正解④

<問題要旨>

文章中の空欄イに入る、神聖ローマ帝国の起源とされた皇帝の事績を特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

メロヴィング家の王を廃位したのは、フランク王国のカロリング朝を創始したピピン(小ピピン)です。

②【誤】

西暦800年に教皇レオ3世によって戴冠されたのは、フランク王国のカール大帝です。

③【誤】

カタラウヌムの戦い(451年)は、西ローマ帝国と西ゴート族の連合軍が、アッティラ率いるフン人を破った戦いです。

④【正】

ローマ教皇ヨハネス12世から帝冠を授けられ、神聖ローマ帝国の初代皇帝とされるのは、東フランク(ドイツ)王のオットー1世です。彼は955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人(ウラル語族)を撃退し、西ヨーロッパ世界を防衛したことで名声を高めました。

問5:正解②

<問題要旨>

1066年のノルマン=コンクェスト前後のイングランド王位継承に関する問題です。下線部の人物名を特定し、資料1(イングランド側の記録)と資料2(ノルマンディー側の記録)から読み取れる内容を正しく判断します。

<選択肢>

①【誤】

人物名あ(ノルマンディー公ウィリアム)は正しいですが、Xは資料1と逆の内容です。資料1ではハロルド2世が後継者に指名され、有力者に選ばれたと主張しています。

②【正】

人物名あは、1066年にイングランドを征服したノルマンディー公ウィリアムです。文Yは、資料2に「エドワードが彼に与えた王国を譲らなかった、ハロルドもそのことを認めて宣誓していたにもかかわらず」とあるように、ノルマンディー側の主張と一致します。

③【誤】

Zは、資料1がノルマンディー側、資料2がイングランド側の認識を示しているとしていますが、実際はその逆です。

④【誤】

人物名い(デンマーク出身のクヌート)が不適当です。

⑤【誤】

人物名い(クヌート)が不適当です。

問6:正解②

<問題要旨>

中世から近世にかけてのイングランドとヨーロッパ大陸の他地域との関係について、正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

エリザベス1世は生涯未婚を貫きました。スペイン王フェリペ2世と結婚したのは、エリザベス1世の異母姉であるメアリ1世です。

②【正】

中世のイングランドは良質な羊毛の産地として知られ、その重要な輸出先は、毛織物工業が盛んであったフランドル地方でした。この経済的な結びつきは、英仏間の百年戦争の原因の一つにもなりました。

③【誤】

ジョン王がフランスでの領地をめぐって争った相手は、フランス王フィリップ2世です。フィリップ4世は13世紀末から14世紀初頭のフランス王で、時代が異なります。

④【誤】

大陸封鎖令は、1806年にフランス皇帝ナポレオン1世がイギリスを経済的に孤立させるために発令したものです。共和政期のイングランドで出され、英蘭戦争のきっかけとなったのは航海法(1651年)です。

問7:正解③

<問題要旨>

ドイツで老齢年金制度が導入された時期を、文章のヒントと年表から特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

ドイツ関税同盟が発足した1834年頃は、まだ社会保険制度導入の動きはありません。

②【誤】

1871年はドイツ帝国が成立し、ビスマルクが文化闘争を開始した年ですが、社会保険制度の導入は1880年代に入ってからです。

③【正】

文章のヒント「『世界政策』の名の下に海軍を増強した皇帝」とはヴィルヘルム2世(在位1888-1918)を指しますが、老齢年金を含む社会保険制度を実際に導入したのは、その前のヴィルヘルム1世の時代の宰相ビスマルクです。ビスマルクは社会主義者鎮圧法(1878年)と並行して、疾病保険法(1883年)、災害保険法(1884年)、養老年金・廃疾保険法(1889年)を成立させました。この1889年は、年表のc(1871年~1912年)の期間に含まれます。

④【誤】

1912年以降では遅すぎます。この年には、ドイツ社会民主党が帝国議会第一党になっています。

問8:正解①

<問題要旨>

1908年に老齢年金法を成立させたイギリスの政党を特定し、その政党に関する正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

文章中の「かつて首相グラッドストンが率いた政党」とは自由党のことです。グラッドストンは首相在任中、アイルランド問題の解決を目指し、アイルランド自治法案を繰り返し議会に提出しました。これは自由党の重要な政策でした。

②【誤】

マクドナルドは労働党の党首です。彼は1931年に保守党などと挙国一致内閣を組織しましたが、これは自由党の事績ではありません。

③【誤】

スエズ運河会社の株を買収したのは、保守党のディズレーリ内閣(1875年)です。

④【誤】

フェビアン協会を母体の一つとして結成されたのは、労働党です。

問9:正解⑥

<問題要旨>

資料の発言内容と文章のヒントから首相を特定し、その人物が行った改革の内容を正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

①【誤】

アトリーは第二次世界大戦後の労働党の首相で、「ゆりかごから墓場まで」で知られる福祉国家を建設した人物であり、発言内容と合いません。

②【誤】

アトリーは不適当です。

③【誤】

アトリーは不適当です。

④【誤】

サッチャーは正しいですが、Xはアトリーの政策であり、サッチャーの改革とは逆方向です。

⑤【誤】

Yの救貧法は17世紀のエリザベス1世の時代に制定されたもので、時代が全く異なります。

⑥【正】

首相の名(い)は、国営企業の民営化を推進し、「社会などというものは存在しない」と発言したことから、新自由主義改革を進めたサッチャー首相(保守党)と特定できます。彼女の政策は、政府の介入を減らし、個人の自助努力を重視する「小さな政府」を目指すものであり、その一環として社会保障費の見直しが行われました。Zの記述は、この改革内容と一致します。

第2問

問1:正解②

<問題要旨>

アレクサンドロス大王のアジア支配に関する4つの資料の内容を、正確に読み解く問題です。

<選択肢>

①【誤】

アレクサンドロス大王が滅ぼしたのはアケメネス朝ペルシアです。バビロン捕囚を行ったのは、それより前の新バビロニア王国です。

②【正】

資料2には、「ペルシアの諸地域の子どもたちはソフォクレスやエウリビデスの劇作品を歌うことを学んだ」とあります。ソフォクレスやエウリピデスはアテネの悲劇作家であり、彼らの作品はアテネで上演されていたことから、この記述は資料の内容と一致します。

③【誤】

資料3によると、ペルセポリス宮殿の破壊は、ペルシア戦争(紀元前5世紀)の際にアテネの神殿が焼かれたことへの報復とされています。ペロポネソス戦争はアテネとスパルタを中心とするギリシア内部の戦争であり、異なります。

④【誤】

資料4には、父フィリッポス2世の功績に劣ると言われて激怒したとありますが、フィリッポス2世が率いたのはマケドニア王国です。デロス同盟の盟主はアテネであり、異なります。

問2:正解③

<問題要旨>

アレクサンドロス大王に対する後世の評価(評価Ⅰ、評価Ⅱ)と、それぞれの評価がなされた時代の背景に関する記述(あ、い)の正誤を判断する問題です。

<選択肢>

①【誤】

あが誤りです。マニ教が成立したのは3世紀のササン朝であり、共和政末期のローマ(紀元前1世紀頃)の時代背景ではありません。

②【誤】

あが誤り、いが正しいので、この組み合わせは誤りです。

③【正】

記述あは、時代が合わないため【誤】です。記述いは、19世紀後半は欧米列強が帝国主義政策を推し進めた時代であり、植民地支配を「文明化の使命」として正当化する風潮がありました。この価値観が、アレクサンドロス大王を「アジアを文明化した使徒」と評価する見方につながったと考えられるため【正】です。したがって、「あ―誤、い―正」の組み合わせが正しいです。

④【誤】

いが正しいです。

問3:正解④

<問題要旨>

ミズーリ協定(1820年)に関する資料文の空欄を埋める問題です。協定の対象となった領土(ルイジアナ)をアメリカに譲渡した国と、例外的に奴隷州として加盟が認められた州の名前を特定します。

<選択肢>

①【誤】

ルイジアナを譲渡したのはフランスです。

②【誤】

ルイジアナを譲渡したのはフランスです。

③【誤】

例外的に奴隷州として加盟が認められたのはミズーリ州です。テキサスは1845年に併合されました。

④【正】

ミシシッピ川以西の広大な領土であるルイジアナは、1803年にフランスから購入しました。資料1はミズーリ協定の内容であり、北緯36度30分以北での奴隷制を原則禁止する一方、例外としてア(ミズーリ州)の加盟を奴隷州として認めたものです。

問4:正解②または④

<問題要旨>

アメリカ史における2つの法律(先住民強制移住法、カンザス=ネブラスカ法)と、それぞれの制定理由や背景を結びつける問題です。この問題は正解が2つあります。

<選択肢>

①【誤】

Xはカンザス=ネブラスカ法の背景です。

②【正】

あ(先住民強制移住法)は1830年に制定されました。この法律を推進したのは、西部出身者として初の大統領となり、ジャクソン流民主主義を展開したジャクソンです。Yはその背景として正しい記述です。

③【誤】

Zはホームステッド法(1862年)の内容です。

④【正】

い(カンザス=ネブラスカ法)は1854年に制定されました。この法律は、カンザスとネブラスカの準州で奴隷制を認めるかどうかを住民投票に委ねるもので、これによりミズーリ協定で定められた「北緯36度30分以北に奴隷州を作らない」という規制が事実上廃止されることになりました。Xはその制定理由として正しい記述です。

⑤【誤】

Yは先住民強制移住法の背景です。

⑥【誤】

Zはホームステッド法の内容です。

問5:正解①または⑤

<問題要旨>

問13で選んだ法律が施行された結果として起こった出来事を選ぶ問題です。解答は問13の選択に依存します。

<選択肢>

①【正】(問13で②を選んだ場合)

先住民強制移住法に基づき、チェロキー族などがミシシッピ川以東の居住地から西部のインディアン準州へと強制的に移住させられました。その過酷な道のりは「涙の旅路」と呼ばれ、多くの犠牲者を出しました。

⑤【正】(問13で4を選んだ場合)

カンザス=ネブラスカ法の制定は、ミズーリ協定を破棄するものであったため、北部の奴隷制反対派の激しい反発を招きました。この法律に反対する人々が結集し、奴隷制拡大反対を掲げる共和党が1854年に結成されました。

(その他の選択肢)

②は南北戦争中の1862年の出来事、③は19世紀後半の労働運動、④は20世紀初頭の外交政策、⑥は合衆国憲法制定期の対立であり、いずれも直接のきっかけとなった出来事ではありません。

問6:正解②

<問題要旨>

朝鮮戦争の休戦交渉に関する資料の空欄と、朝鮮戦争を契機に構築されたアメリカ主導のアジアにおける安全保障体制の名称を特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

国際組織の名称が誤りです。ASEANは東南アジアの経済・社会協力を目的とする組織です。

②【正】

朝鮮戦争において、韓国側で戦ったのはアメリカ軍主体のイ(国連軍)、北朝鮮側で戦ったのは中国のウ(人民義勇軍)です。また、朝鮮戦争後、アジアでの共産主義勢力の拡大を阻止するためにアメリカが中心となって結成した反共軍事同盟が東南アジア条約機構(SEATO)です。全ての組み合わせが正しいです。

③【誤】

イとウが逆です。

④【誤】

イとウが逆です。

問7:正解④

<問題要旨>

1948年に共産党のクーデタが起こった東欧の国(チェコスロヴァキア)の歴史に関する正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

ポズナニ暴動は1956年にポーランドで起こった事件です。

②【誤】

チャウシェスク独裁政権が打倒されたのは1989年のルーマニア革命です。

③【誤】

人民戦線政府は1936年にフランスで成立しました。

④【正】

エの国は、1948年2月のクーデタで共産党政権が成立したチェコスロヴァキアです。1968年、同国のドプチェク第一書記の指導の下、「人間の顔をした社会主義」を掲げる自由化・民主化運動(プラハの春)が展開されましたが、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍の軍事介入によって圧殺されました。

問8:正解⑤

<問題要旨>

中国の第1次五か年計画(1953-57年)の投資割合を示すグラフを読み取り、ソ連の第1次五か年計画(1928-32年)に関する正しい記述と組み合わせる問題です。

<選択肢>

①【誤】

あはグラフの読み取りが誤りです。

②【誤】

あはグラフの読み取りが誤りです。

③【誤】

あはグラフの読み取りが誤りです。

④【誤】

Xの戦時共産主義はロシア革命直後の政策であり、五か年計画とは異なります。

⑤【正】

グラフから、中国の第1次五か年計画では工業(黒い部分)が投資の約半分を占め、農林・水利(薄い灰色の部分)と合わせると全体の5割を超えていることがわかります(い)。これは、手本としたソ連の第1次五か年計画が、農業の集団化を犠牲にしてでも重工業化を優先した政策(Y)であったことと軌を一にしています。

⑥【誤】

Zの農業調整法(AAA)はアメリカのニューディール政策の一部です。

第3問

問1:正解③

<問題要旨>

会話文と歴史的知識から空欄アの人物(マウリヤ朝のアショーカ王)を特定し、その治世中の出来事を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

サータヴァーハナ朝は、マウリヤ朝の衰退後にデカン高原で勢力を持った王朝です。

②【誤】

エフタルがインドに侵入したのは5世紀頃で、グプタ朝衰退の一因となりました。時代が全く異なります。

③【正】

アは、磨崖碑や石柱碑を建立してダルマ(法)による統治を説いたマウリヤ朝第3代アショーカ王です。彼は仏教を篤く保護し、その治世中に第3回仏典結集が行われたとされています。

④【誤】

東晋の法顕がインドを訪れたのは5世紀初頭のグプタ朝の時代です。

問2:正解④

<問題要旨>

インドの都市デリーに関する歴史的記述として正しいものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

第1回インド国民会議は1885年にボンベイ(現ムンバイ)で開催されました。

②【誤】

カルカッタ大会4綱領(英貨排斥、スワデーシ、スワラージ、民族教育)が採択されたのは、1906年のインド国民会議カルカッタ大会です。

③【誤】

タージ=マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャー=ジャハーンが、妃のためにアグラに建設した霊廟です。

④【正】

13世紀初頭、ゴール朝の武将であったアイバクが北インドで自立し、デリーを都として奴隷王朝を創始しました。これがデリー=スルタン朝の始まりです。

問3:正解②

<問題要旨>

インドの古代と現代の道路網を示した図と会話文を基に作成された2つのメモの正誤を判断する問題です。

<選択肢>

①【誤】

メモ1は誤りです。図1の道路網はインド亜大陸の最南端までは及んでおらず、実際にマウリヤ朝の支配領域も最南端には達していませんでした。

②【正】

メモ2は正しい記述です。図2の「黄金の四角形」が結ぶ都市のうち、コルカタ(カルカッタ)、チェンナイ(マドラス)、ムンバイ(ボンベイ)は、イギリスが植民地支配の拠点として建設・発展させた港湾都市です。メモ1は誤りなので、「メモ2のみ正しい」が正解です。

③【誤】

メモ1が誤りです。

④【誤】

メモ2が正しいです。

問4:正解②

<問題要旨>

20世紀前半のアメリカ史における3つの出来事を、年代の古い順に正しく並べる問題です。

<選択肢>

①【誤】

順番が違います。

②【正】

あ(債権国への転化)は第一次世界大戦(1914-18年)後のことです。う(テネシー川流域開発公社設立)は世界恐慌後のニューディール政策の一環で1933年のことです。い(武器貸与法成立)は第二次世界大戦中の1941年のことです。したがって、「あ→う→い」の順が正しいです。

③【誤】

順番が違います。

④【誤】

順番が違います。

⑤【誤】

順番が違います。

⑥【誤】

順番が違います。

問5:正解③

<問題要旨>

アメリカの鉄道輸送量に関するグラフを読み解き、その変動要因についての仮説の空欄を埋める問題です。

<選択肢>

①【誤】

イの要因が不適当です。

②【誤】

イの要因が不適当です。

③【正】

空欄イ:1920年代はアメリカで自動車産業が大きく発展し、大衆車(T型フォードなど)が普及した時代です。これにより個人の移動手段が鉄道から自動車へシフトし、鉄道旅客輸送量が減少したと考えられます。よって「お 自動車の普及」が適切です。

空欄ウ:グラフを見ると、1940年代後半以降、旅客輸送量(実線)は一貫して減少傾向にあるのに対し、貨物輸送量(点線)は増減を繰り返しながらも高い水準を維持しています。よって「X 貨物輸送量とは異なり、旅客輸送量は減少傾向が続いている」が正しい読み取りです。

④【誤】

ウの記述が不適当です。

問6:正解①

<問題要旨>

19世紀後半のロシアの外交関係に関する手紙の内容を読み解く問題です。空欄エに入る国名と、手紙の書き手(フォン=メック)がいら立っている理由を正しく組み合わせます。

<選択肢>

①【正】

空欄エ:1884年に更新された「オーストリアとの同盟」とは、ドイツ・オーストリア・ロシア間の三帝同盟のことです。したがってエにはドイツが入ります(あ)。

下線部aの理由:資料2でフォン=メックは、フランスがロシアと同盟を結ぶべきだと考えているにもかかわらず、フランスの新聞がロシアの政策を批判していることにいら立っています。これはXの記述と一致します。

②【誤】

Yの記述が、フォン=メックの考えと逆です。

③【誤】

エに入る国名がイタリアではないため、誤りです。

④【誤】

エに入る国名がイタリアではないため、誤りです。

問7:正解②

<問題要旨>

19世紀後半のロシアの鉄道建設について、会話文とグラフを基に生徒がまとめたメモの正誤を判断する問題です。

<選択肢>

①【誤】

藤井さんのメモは、クリミア戦争でロシアが領土を得たとしている点が史実と異なるため、誤りです。

②【正】

西原さんのメモは、前半・後半ともに先生の解説に基づいた正しい内容です。1860-70年代の鉄道建設にアラスカ売却益が利用されたこと、1890年代の建設をフランス資本が支えたこと、いずれも文章中で言及されています。藤井さんのメモは誤りなので、「西原さんのみ正しい」が正解です。

③【誤】

藤井さんのメモが誤りです。

④【誤】

西原さんのメモが正しいです。

第4問

問1:正解⑤

<問題要旨>

キリスト教を公認したローマ皇帝(コンスタンティヌス帝)を特定し、その事績と、彼が開催した公会議で決定された内容を正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

①【誤】

あ(軍管区制)は7世紀のビザンツ帝国の制度です。

②【誤】

あ(軍管区制)は不適当です。

③【誤】

あ(軍管区制)は不適当です。

④【誤】

X(単性論)が異端とされたのはカルケドン公会議(451年)です。

⑤【正】

アに入るのはキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝です。彼の事績として、ディオクレティアヌス帝の政策を継承し、税収確保のためにコロヌス(小作人)の土地への緊縛を強化したこと(い)が挙げられます。また、彼は325年にニケーア公会議を主催し、そこでイエスの神性を認めるアタナシウス派を正統とし、イエスを被造物とみなすアリウス派を異端としました(Y)。

⑥【誤】

Z(ネストリウス派)が異端とされたのはエフェソス公会議(431年)です。

問2:正解③

<問題要旨>

地域や王朝を越えて広まった文化や制度の例として、最も適当なものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

ゼロの概念は古代インドで発見され、イスラーム世界を経由してヨーロッパに伝わりました。伝播の方向が逆です。

②【誤】

アマルナ美術は古代エジプト新王国時代の様式です。イスラーム世界の細密画(ミニアチュール)は、主にペルシアの伝統的な絵画様式が発展したものであり、直接の関係はありません。

③【正】

マドラサはイスラーム世界の高等教育機関(学院)であり、11世紀のニザーミーヤ学院を代表例として、セルジューク朝からマムルーク朝、さらには中央アジアやインドなど、イスラーム世界の各地に広く建設されました。

④【誤】

イクター制(軍事封土制)は、10世紀のブワイフ朝で始まり、セルジューク朝によって西アジア一帯に広まりました。マムルーク朝で開始されたものではありません。

問3:正解③

<問題要旨>

文章の内容を基に、シリア語とそれを使用したキリスト教徒の歴史に関する正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

シリア文字はアラム文字から派生したアルファベットです。シュメール時代にメソポタミアで用いられたのは楔形文字であり、時代も文字体系も全く異なります。

②【誤】

ジズヤ(人頭税)はイスラーム国家が非ムスリムの被保護民に課した税であり、パルティア(アルサケス朝)の制度ではありません。

③【正】

文章中に「8世紀後半のイラクでは、キリスト教徒が、ギリシア語で書かれた論理学の書物をシリア語に翻訳し、カリフの依頼により、それらをさらにアラビア語へと翻訳しました」とあります。8世紀後半はアッバース朝の時代であり、この翻訳活動はイスラーム文化の発展に大きく貢献しました。

④【誤】

第1回十字軍は11世紀末に実施されました。文章には「11世紀から13世紀には、シリア語でも再び多くの書物が記されるようになり」とあり、学術言語としての地位を失っていなかったことがわかります。

問4:正解①

<問題要旨>

ルネサンス期から宗教改革期にかけてのヨーロッパにおける「国語」の形成に関連して、言語と文学作品に関する記述の中から誤っているものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

マルティン=ルターが『新約聖書』を翻訳したのは事実ですが、それはフランス語ではなくドイツ語です。このルター訳聖書は、近代ドイツ語の成立に大きな影響を与えました。したがって、この記述は誤りです。

②【正】

ダンテは代表作『神曲』を、当時の知識人の共通語であったラテン語ではなく、自身の故郷の口語であるトスカナ語で執筆しました。これが近代イタリア語の基礎となりました。

③【正】

帝政ローマ期のギリシア人著述家プルタルコスは、ギリシアとローマの著名な人物を対比して論じた『対比列伝』をギリシア語で著しました。

④【正】

共和政ローマ末期のカエサルは、自身のガリア遠征の記録である『ガリア戦記』を、簡潔かつ格調高いラテン語で著しました。

問5:正解④

<問題要旨>

15世紀末のポルトガル王室が、コロンブスの西回り航海計画を支援しなかった理由として、最も有力な仮説を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

ポルトガルのレコンキスタ(国土回復運動)は13世紀半ばには完了していました。15世紀末にレコンキスタを終結させたのはスペインです。

②【誤】

トルデシリャス条約は、コロンブスの航海が成功した後の1494年に、スペインとポルトガルの間で結ばれた条約です。支援を求めていた時点では存在しません。

③【誤】

スペイン王がポルトガル王位を継承(同君連合)したのは1580年のことであり、時代が全く異なります。

④【正】

コロンブスがポルトガルに計画を持ちかけていた1488年、バルトロメウ=ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達しました。これにより、ポルトガルが長年進めてきたアフリカ東回りのインド航路開拓に、成功の確実な見通しが立ちました。そのため、成功の可能性が不確かなコロンブスの西回り計画を採用する必要がなくなったと考えられます。

問6:正解①

<問題要旨>

「コロンブスはスペイン人である」という19世紀の誤った説について、その根拠となった「思い込み」と、その背景にある「価値観」を文章から読み取り、正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

①【正】

文章には、説の提唱者たちが「コロンブスがほとんどの文書をスペイン語で書いていたことを根拠に、彼が『スペイン人』だと思い込んでいた」とあります。これは「あ スペイン語で書く者はスペイン人である」という思い込みに他なりません。このような「言語=民族=国家」という考え方は、19世紀にヨーロッパで確立した、均質な国民による国家形成を目指す「国民国家の価値観(X)」に根差しています。

②【誤】

Yの帝国主義は、言語と国籍を結びつける価値観とは直接関係しません。

③【誤】

思い込みの内容(い)が文章から読み取れません。

④【誤】

思い込みの内容(い)が文章から読み取れません。

問7:正解④

<問題要旨>

顔真卿が生きた時代に起こった反乱(安史の乱)に関する正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

塩の密売人が起こした反乱は、唐末期の黄巣の乱です。

②【誤】

安史の乱後、鎮圧に功績があった節度使(藩鎮)の力はむしろ強大化し、地方で自立するようになりました。

③【誤】

安史の乱を鎮圧した節度使がすぐに新王朝を建てたわけではありません。唐を滅ぼして後梁を建国したのは、反乱から100年以上後の節度使である朱全忠です。

④【正】

安史の乱の鎮圧にあたり、唐王朝は北方遊牧民であるウイグルの援軍に頼りました。ウイグルの協力により、反乱軍に奪われていた長安や洛陽を奪還することができました。

問8:正解③

<問題要旨>

唐代後半から宋代にかけての文化の潮流について、文章の空欄ウとエに入る語句を正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

①【誤】

ウに入るのは韓愈が推奨した「古文」であり、彼が批判した「四六駢儷体」ではありません。

②【誤】

ウが不適当です。

③【正】

ウには、唐代の文章家である韓愈が、六朝以来の形式美を追求する四六駢儷体を批判し、復興を唱えた質実剛健な「い 古文」が入ります。エには、この韓愈の古文復興や、顔真卿の力強い書風、それを高く評価した宋代の士大夫たちの価値観に見られる、「X 貴族的な形式美を否定的に捉え、力強さや個性を尊重する」という文化の流れが入るのが適切です。

④【誤】

Yの「貴族的な形式美とともに」という部分が、文章全体の流れと合いません。

問9:正解④

<問題要旨>

清の乾隆帝の文化政策についてまとめた2つのメモの正誤を判断する問題です。

<選択肢>

①【誤】

メモ1は、「自由な言論活動を認めた」という点が誤りです。乾隆帝は『四庫全書』編纂などの文化保護事業を行う一方で、「文字の獄」と呼ばれる思想弾圧を厳しく行いました。

②【誤】

メモ2は、「自文化を維持しつつ」という点が誤りです。北魏の孝文帝の漢化政策は、鮮卑の風俗や言語を禁止し、漢人の文化を全面的に採用する急進的なものでした。

③【誤】

両方のメモに誤りが含まれています。

④【正】

メモ1、メモ2ともに史実と異なる記述を含んでいるため、両方とも誤りです。

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