2026年度 大学入学共通テスト 本試験 歴史総合・日本史探求 解答・解説

2026年度 大学入学共通テスト 本試験「歴史総合・日本史探求」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。

目次

解答

解説

歴史総合,日本史探究は、大問6つ・33の設問(解答番号1から34)で構成され、満点100点・試験時間60分、全問必答です。配点は第1問25点・第2問15点・第3問15点・第4問15点・第5問15点・第6問15点で、歴史総合分野が第1問、日本史探究分野が第2問以降にあたります。なお第1問は「歴史総合」(地理総合,歴史総合,公共)の第1問と同一の問題です。

第1問は災害の歴史を主題に、Aでマラリア・飢饉・原子力発電所事故を取り上げて災害の要因と開発や植民地支配との関係を、Bで近代日本の森林保全、関東大震災への国際的な支援、被災地の歴史資料保全を扱います。第2問は縄文時代から江戸時代までの漁業史、第3問は『伴大納言絵巻』を軸にした古代の政変と絵画資料の読み取り、第4問は北条政子・日野富子・八条院を通した中世の女性と政治、第5問は近世の城郭と城下町、第6問は首相のリーダーシップという視点からの近現代政治史です。

つまずきやすいのは、資料の読みそのものよりも年代と主体です。矢印図・円グラフ・棒グラフは凡例と目盛りを確認すれば機械的に切れますが、選択肢の誤りは「時期の前後」「主体の入れ替え」「因果の逆転」「語句のすり替え」に集中しています。第3問問3は立場を先に選び、その選択に応じて次の空欄の正解が変わる形式で、どちらを選んでも得点できます。

第1問 災害の歴史(配点25)

歴史総合の授業で、現代的な諸課題の一つとして災害の歴史に着目し、班ごとにまとめの活動を行うという枠組みです。Aは疫病・飢饉・環境汚染を取り上げて災害の要因や開発との関係を考察し、Bは災害への対応と災害後の社会を、パネル・表・レポート・グラフを手がかりに発展的に考えます。

問1:正解 ③(解答番号1/配点3)

<問題要旨>

マラリアをめぐるモノ・人・病原体の移動を矢印で示した図と、矢印S・X・Y・P・Qの説明が与えられ、4つの文のうち正しいものの組合せを選ばせます。矢印は白抜きがモノ、中間の網かけが人、濃い網かけが病原体の移動を表します。

<考え方>

矢印ごとに「どこからどこへ」「いつのことか」を先に確定させます。Sはアンデス地方原産のキナノキをヨーロッパへ持ち帰った17世紀前半のモノの移動、Xは大西洋三角貿易で労働力として移動させられた人々で16世紀以降、Yはキナノキを原料とする治療薬を活用してアフリカ分割を推し進めたヨーロッパ人の移動で19世紀後半です。PとQはいずれも南アメリカへの病原体の移動で、Pはアフリカからの人の移動に、Qはヨーロッパからの人の移動に伴います。年代が確定すれば前後関係は機械的に決まります。

<選択肢>

あ【誤】

Yのアフリカ分割は19世紀後半、Xの大西洋三角貿易による人の移動は16世紀に始まっています。YはXの開始より後であり、時期の前後が逆になっています。

い【正】

Sは17世紀前半、Yは19世紀後半です。SはYより前に起こったことになります。

う【正】

Pはアフリカから南アメリカへの病原体の移動で、同じ向きの人の移動Xが奴隷として送られた人々を表しています。Pはこの人の移動に伴って起こったと考えられます。

え【誤】

Qはヨーロッパから南アメリカへの人の移動に伴う病原体の移動です。ヨーロッパ人が南アメリカへ渡るのはコロンブスの西インド諸島到達より後のことで、これも時期の前後が逆です。

正解【③】

年代を確定させた矢印どうしを比べると、正しいのは「い」と「う」の組合せになります。

問2:正解 ③(解答番号2/配点3)

<問題要旨>

イギリス・日本・アメリカ合衆国が19世紀末以降に行ったマラリア研究の動向をまとめた表が与えられ、日本の研究対象地域を示す空欄と、各国の研究が何のために利用されたかを示す空欄に入る語句・文の組合せを選ばせます。

<考え方>

空欄は1つずつ独立に決めます。前半は下関条約で日本が獲得した地域を問うもので、条約の内容を思い出せば足ります。後半は表に並ぶ研究対象地域、すなわちアフリカやインド、パナマ運河開削時のラテンアメリカの共通点から決まります。いずれも各国の勢力圏・植民地・運河開削地にあたり、時期が19世紀末から20世紀前半であることが判定の決め手です。

<選択肢>

ア=台湾【正】

下関条約で日本が獲得したのは台湾・澎湖諸島・遼東半島です。表の日本の研究対象地域として台湾が入ります。

ア=朝鮮【誤】

下関条約で清は朝鮮の独立を認めましたが、日本が朝鮮を獲得したわけではありません。韓国併合は1910年で条約とは別の出来事です。獲得地と独立の承認の取り違えです。

イ=自らの勢力圏や植民地を維持・拡大する【正】

表に挙がる研究対象地域はいずれも各国の勢力圏・植民地・運河開削地です。マラリア撲滅を目指した研究がその支配の維持・拡大に利用されたと読めます。

イ=第三世界の台頭に対抗する【誤】

第三世界が国際政治の場で台頭するのは1950年代以降です。表が示す19世紀末から20世紀前半という時期と合いません。

正解【③】

獲得地は台湾、研究の目的は勢力圏・植民地の維持拡大にあたるため、この組合せが正解です。

問3(1):正解 ④(解答番号3/配点3)

<問題要旨>

1896年から1897年にインドで発生・拡大した飢饉と、1984年から1985年にエチオピアで発生・拡大した飢饉をまとめた2つのパネルが与えられ、それぞれの飢饉の時期に起こった出来事を述べた2つの文の正誤の組合せを選ばせます。

<考え方>

パネルに明記された年代を押さえ、文中の出来事の年代と突き合わせるだけで決まります。一方は1896年から1897年、他方は1984年から1985年です。出来事の年代がこの範囲から外れていれば誤りと判断できます。

<選択肢>

あ【誤】

非暴力・不服従運動はガンディーが1919年以降に指導し、1920年代に本格化した運動です。1896年から1897年の飢饉の時期からは20年以上離れており、時期が合いません。

い【誤】

イタリアによるエチオピア侵略は、1895年に始まる戦争と、1935年に始まる侵攻です。1984年から1985年の飢饉の時期に始まったものではありません。

正解【④】

2つの文はいずれも飢饉の時期と出来事の年代がずれているため、ともに誤りとなります。

問3(2):正解 ②(解答番号4/配点3)

<問題要旨>

2つのパネルを比較した結果をまとめた2つのメモが与えられ、その正誤について述べた文を選ばせます。一方のパネルには飢饉が発生した地域と年間降雨量1,000mm以下の地域を重ねた地図、他方には1945年から2000年までの降雨量の指数を示した棒グラフが付いています。

<考え方>

棒グラフには、灰色の部分が平均的な降雨量を示し、棒が灰色より上だと例年より雨が多かった年、下だと少なかった年を意味すると注記されています。まず矢印が付された年の棒がどちら側に伸びているかを確認します。1984年を指す矢印の棒は灰色より下に伸びており、少雨の年です。灰色より大きく上に突き出た棒には1950年の矢印が付いています。これで一方のメモの後半が崩れます。もう一方のメモは両方の事例に共通する要因を問うもので、各パネルに書かれた要因を並べれば判定できます。

<選択肢>

メモ1【誤】

後半の記述が棒グラフの読みと合いません。矢印で示された1984年の棒は平均を示す灰色の部分より下に伸びており、雨が少なかった年です。最も多雨の年を指す矢印は1950年に付されています。目盛りと注記に従えば、最も降雨量が多かった時期に発生したという読みは否定されます。

メモ2【正】

一方のパネルには「不作にもかかわらず穀物の輸出が継続され、食糧価格が高騰した」という経済的な要因が、他方には隣国との戦争や国内政治の混乱という政治的な要因が記されています。どちらの事例でも経済または政治の状況が飢饉の深刻化に影響したと言えます。

正解【②】

棒グラフの読みで一方のメモが崩れ、他方は両パネルの記述から成り立つため、メモ2のみ正しいとする選択肢が正解です。

問4:正解 ④(解答番号5/配点3)

<問題要旨>

1986年4月26日に起こった原子力発電所事故に由来する放射性雲の一部が5月8日までに移動した経路を矢印で示した地図を含むレポートが与えられ、発電所があった国が当時属していた国家を示す空欄と、地図から分かることを示す空欄に入る語句・文の組合せを選ばせます。

<考え方>

前半は事故が起こった1986年という年で決まります。ウクライナを構成国としていた国家がこの年に存在していたかどうかを確認します。後半は矢印の到達範囲を見ます。矢印は発電所の位置から西へ大きく蛇行し、西ヨーロッパや北ヨーロッパにまで達しています。当時の東西の陣営の境界をまたいで広がっていることが読み取れます。

<選択肢>

ウ=ソ連【正】

1986年当時、ウクライナはソヴィエト社会主義共和国連邦の構成共和国でした。

ウ=独立国家共同体(CIS)【誤】

独立国家共同体が発足したのはソ連解体に伴う1991年です。1986年にはまだ存在せず、時期が合いません。

エ=政治体制の違いにかかわらず、広い地域において見られた【正】

矢印は東側の発電所から西ヨーロッパ・北ヨーロッパへ及んでおり、当時の東西両陣営にまたがって環境汚染が広がったことが地図から読み取れます。

エ=特定の政治体制の地域においてのみ見られた【誤】

矢印が東側の地域にとどまらず西ヨーロッパまで達している点と矛盾します。「のみ」という範囲の限定が地図の読みで否定されます。

正解【④】

1986年の時点ではソ連の構成国であり、汚染は政治体制を越えて広がったと読めるため、この組合せが正解です。

問5:正解 ①(解答番号6/配点4)

<問題要旨>

江戸時代以来の森林伐採とはげ山、明治時代の大規模な洪水、オランダ人技師デ=レーケをはじめとするお雇い外国人の意見を聞いた森林・河川の保全、そして1900年頃からの燃料用木材の生産量の減少を述べたレポートが与えられ、そこから読み取れる事柄やその背景として最も適当なものを選ばせます。

<考え方>

レポートの「産業革命の過程で主要なエネルギー源が変化した」という一文が、どの転換を指すのかを具体化するのが筋道です。日本の産業革命期に主要な燃料が何から何に替わったかを思い出せば、燃料用木材の生産量が減った理由が説明できます。ほかの選択肢は、レポートに書かれている内容と時期や範囲が食い違うかどうかで落とせます。

<選択肢>

①【正】

産業革命の過程で主要なエネルギー源が木材から石炭へ転換したため、燃料用木材の需要が減り、生産量が減少しました。これが森林資源の減少に一定の歯止めがかかった理由にあたります。

②【誤】

気候変動に対する国際的な関心が高まるのは20世紀後半以降です。お雇い外国人が招かれた明治初期の背景としては時期が合わず、背景の取り違えです。

③【誤】

生糸は当時の最大の輸出品で、生産の拡大は輸出の増加と結び付いています。そのほとんどが国内で消費されたというのは事実に反します。

④【誤】

レポートは森林の伐採が進んだのを「江戸時代以来」としています。森林破壊が明治維新の後に始まったとするのは、示された記述と時期が食い違います。

正解【①】

エネルギー源の木材から石炭への転換が燃料用木材の減少を説明するため、①が正解です。

問6:正解 ⑤(解答番号7/配点3)

<問題要旨>

ブラジル・中華民国・アメリカ合衆国からの関東大震災への支援額とその内訳を示した3つの円グラフが与えられ、グラフから読み取れる事柄3つと、グラフに示されたいずれかの国の当時の状況2つの組合せを選ばせます。円グラフの上には各国の支援額の合計が、下には「在留邦人」と「本国人など」を区別する凡例が付いています。

<考え方>

円グラフは凡例の網かけの濃さを先に確定させます。淡い網かけが在留邦人、濃い網かけが本国人などです。次に、問われているのが割合か実数かを区別します。円の中の百分率は割合、円グラフの上に示された合計額は実数で、この2つを混同すると読みを誤ります。ブラジルは淡い網かけが96.4パーセント、中華民国は濃い網かけが71.2パーセント、アメリカ合衆国は濃い網かけが89.0パーセントを占め、合計額は順に306、2,599、30,930(単位1,000円)です。

<選択肢>

あ【誤】

ブラジルの「本国人など」は濃い網かけの3.6パーセント、アメリカ合衆国の「在留邦人」は淡い網かけの11.0パーセントです。3.6は11.0より小さく、「高い」は成り立ちません。凡例の濃淡を取り違えると逆に読んでしまう箇所です。

い【誤】

中華民国は淡い網かけの「在留邦人」が28.8パーセント、濃い網かけの「本国人など」が71.2パーセントです。在留邦人の支援額は本国人などを上回っていません。

う【正】

円グラフの上の合計額を比べると、アメリカ合衆国30,930に対し中華民国2,599、ブラジル306(いずれも単位1,000円)です。3か国の中で最も多額でした。

X【正】

アメリカ合衆国では1924年の移民法により日本からの移民が事実上禁止され、排日的な動きがありました。グラフに示された国の当時の状況として適当です。

Y【誤】

五・四運動は1919年に起こった運動で、1923年の関東大震災より前の出来事です。震災後に発生したとするのは時期の前後が逆になっています。

正解【⑤】

合計額の比較から「う」が、グラフに示された国の当時の状況としてXが成り立つため、この組合せが正解です。

問7:正解 ②(解答番号8/配点3)

<問題要旨>

1995年から2012年までの、被災地で歴史資料の保全活動を行う民間団体(史料ネット)の結成と政府の動きを並べた表と、検討委員会のまとめの一部が与えられ、2つの震災名が入る空欄の組合せと、表から読み取れる事柄2つの組合せを選ばせます。

<考え方>

空欄は震災の発生年で決まります。1995年と2011年に起こった大震災をそれぞれ当てはめます。読み取りの方は、表に並ぶ史料ネットの結成年を1つずつ確認するのが筋道です。震災の発生年と一致しない結成年が1つでもあれば、「いずれも」という言い切りは崩れます。もう一方は、民間団体が保全した対象と、まとめが定めた政府側の保全対象を突き合わせて判定します。

<選択肢>

あ(オ=阪神・淡路大震災/カ=東日本大震災)【正】

阪神・淡路大震災は1995年、東日本大震災は2011年の発生で、表の年次と一致します。

い(オ=東日本大震災/カ=阪神・淡路大震災)【誤】

2つの震災の発生年が入れ替わっています。

X【誤】

表には2005年の岡山県、2010年の福島県、2012年の徳島県での結成が挙がっており、これらは大きな震災で被害が発生した年ではありません。「いずれも」という言い切りに反例があります。

Y【正】

史料ネットは国などから指定を受けていない文化財を含む歴史資料を保全しており、まとめも保全対象を未指定の文化遺産も含めたものと定めています。民間団体と政府の双方で、指定の有無によらず地域の文化財を保全する動きが見られたと言えます。

正解【②】

震災名の組合せは「あ」、読み取りはYが成り立つため、この組合せが正解です。

第2問 日本の漁業の歴史(配点15)

ミチさんとダイさんが日本の漁業の歴史を調べるという枠組みです。江戸時代の地引網漁を描いた絵、弥生時代後期から古墳時代前期の網漁の復元図、鎌倉時代の荘園の年貢物の報告などをもとに、縄文時代から江戸時代までを一続きに問います。

問1:正解 ②(解答番号9/配点3)

<問題要旨>

江戸時代後期の上総九十九里の地引網漁を描いた絵が与えられ、絵の中に網元・網子・船の位置が示されています。この図に関して述べた文として最も適当なものを選ばせます。

<考え方>

九十九里浜の地引網漁が何を獲り、その漁獲物がどう使われたかに戻れば決まります。この地域の主な漁獲物はイワシで、干して干鰯に加工され、綿作などの商品作物栽培に用いる肥料として上方へ出荷されました。その需要の増大が大規模な地引網漁を支えた背景です。ほかの選択肢は、別の地域の制度や別の産物がまぎれ込んでいないかを確認します。

<選択肢>

①【誤】

九十九里浜に大規模な網漁法を伝えたのは紀州など上方の漁民です。東北地方の漁民とするのは主体の入れ替えです。

②【正】

九十九里浜ではイワシを獲り、干鰯に加工して肥料として出荷しました。商品作物栽培の広がりによる干鰯需要の増大が、この地域で地引網漁が発達した背景です。

③【誤】

場所請負制は蝦夷地で松前藩が和人商人に漁場の経営を請け負わせた制度です。上総の地引網漁の網元をこの制度で説明するのは、地域と制度の取り違えです。

④【誤】

俵物はいりこ・干鮑・ふかのひれで、蝦夷地や瀬戸内などの産物が長崎貿易の輸出品となりました。九十九里浜のイワシ漁とは結び付きません。

正解【②】

肥料としての干鰯の需要の増大がこの地域の地引網漁を支えた背景であるため、②が正解です。

問2:正解 ①(解答番号10/配点3)

<問題要旨>

ある網元の下で行われていた漁業の仕組みを記したノートと、海産物の代金が一千貫文の場合の分配を示した図が与えられ、海で作業する者・陸で作業する者の労働内容と、網子に分配される賃金の額の組合せを選ばせます。図には必要経費が四百貫文と示されています。

<考え方>

労働内容は地引網漁の手順で決まります。沖へ漕ぎ出した船から網を仕掛け、岸へ寄せた網を陸で大人数が引くのが地引網漁で、図でも海で作業する者は少数、陸で作業する者は多数として描かれています。賃金は先に数字で出します。ノートには、必要経費を代金から差し引いてその残りの半分が網元の収入になり、残った金額が網子の賃金として分配されるとあります。一千貫文から四百貫文を引くと六百貫文、その半分の三百貫文が網元の収入で、残る三百貫文が網子の賃金です。

<選択肢>

ア=網を仕掛ける【正】

海で作業する者は船を使って沖で網を仕掛けます。図でも少人数で描かれており、船を用いる作業に対応します。

イ=網を引く【正】

地引網漁は岸に寄せた網を陸から大人数で引き上げる漁法です。図の陸で作業する者が多数であることとも合います。

ウ=三百貫文【正】

一千貫文から必要経費四百貫文を差し引くと六百貫文。その半分の三百貫文が網元の収入で、残る三百貫文が網子の賃金として分配されます。

ウ=六百貫文【誤】

六百貫文は必要経費を引いた残額にすぎず、まだ網元の収入を差し引いていません。分配の二段目を飛ばした数字です。

正解【①】

労働内容は海で仕掛け陸で引く形、賃金は計算により三百貫文と決まるため、①が正解です。

問3:正解 ②(解答番号11/配点3)

<問題要旨>

弥生時代後期から古墳時代前期の地引網漁の復元図と、石錘・土錘の出土や管状の土錘の伝来などをまとめたノートが与えられ、図やノートに関して述べた文として適当でないものを選ばせます。

<考え方>

適当でないものを選ぶ設問なので、ノートに書かれている内容と一致するかを1つずつ確かめます。ノートには、縄文時代の遺跡から漁具としての石錘・土錘が出土すること、網紐を通せる管状の土錘が弥生時代前期に大陸から伝わったこと、図では網の下部に土錘、上部に木の浮きを付けて高さを保っていること、土錘が近代まで多様化しながら用いられたことが書かれています。ここに書かれていない事柄が持ち込まれている選択肢を探します。

<選択肢>

①【適当】

縄文時代の遺跡からは漁具の石錘・土錘が出土し、貝塚からは魚骨や貝殻が見つかります。魚や貝を食べる当時の生活を知る手がかりになります。

②【適当でない】

丸木舟は縄文時代から作られ、各地の遺跡から出土しています。管状の土錘が伝わった弥生時代前期になって作られるようになったとするのは、時期の前後が合いません。

③【適当】

ノートには、図で網の下部に土錘、上部に木で作った浮きを付けて網の高さを保っていると書かれており、図は弥生時代後期から古墳時代前期の復元図です。この時期に土錘とともに浮きが利用されていたと推測できます。

④【適当】

ノートは土錘が網漁の方法や規模に応じて多様化し、近代まで用いられたとしています。土錘の変遷をたどれば網漁の歴史をたどれることになります。

正解【②】

丸木舟は縄文時代から作られており、管状の土錘の伝来と結び付けるのは時期が合わないため、②が適当でない文です。

問4:正解 ③(解答番号12/配点3)

<問題要旨>

1239年の伊予国弓削島荘の年貢物の報告から漁業関係を抜粋した史料が与えられ、「近年、関東の」に続く空欄に入る語句と、史料から読み取れる内容の組合せを選ばせます。

<考え方>

空欄は「関東の」という修飾で決まります。関東すなわち鎌倉幕府が各地に置いた職を考えます。読み取りの方は、史料の項目名が誰の取り分を示すかを確定させるのが筋道です。「公物」は荘園領主に納める年貢にあたる語、「預所」は荘園領主が現地に置いた代官で、「預所得分」はその取り分です。誰に納める分なのかを混同しないよう、項目名の意味を押さえます。

<選択肢>

あ=国司【誤】

国司は朝廷が任命して国の統治にあたらせた官職で、「関東の」という修飾に合いません。任命する主体の入れ替えです。

い=地頭【正】

地頭は鎌倉幕府(関東)が荘園や公領に置いた職です。地頭が置かれるようになって年貢物がそろわなくなったという史料の文脈にも合います。

X【正】

「公物」は荘園領主に納める年貢にあたります。公物分とある品目は弓削島荘から荘園領主に上納されたと読めます。

Y【誤】

預所は荘園領主が現地に置いた代官で、預所得分はその取り分です。朝廷への上納分ではなく、納める先の取り違えです。

正解【③】

空欄には地頭が入り、公物分は荘園領主への上納分と読めるため、この組合せが正解です。

問5:正解 ③(解答番号13/配点3)

<問題要旨>

縄文時代・鎌倉時代・江戸時代の漁業について調べたことや考察したことをまとめたノートが与えられ、縄文時代と江戸時代に関する2つの下線部の正誤について述べた文として最も適当なものを選ばせます。

<考え方>

縄文時代の下線部は、地形の形成と漁労の関係を問うものです。氷期の終わりに海面が上昇して日本列島が大陸から切り離され、入り江の多い海岸線ができたことが漁労の発達につながりました。江戸時代の下線部は、この大問で扱ってきた網元と網子の関係、および干鰯など商品流通の広がりと結び付けて判定します。

<選択肢>

下線部@(縄文時代)【正】

更新世末から完新世にかけての海面上昇により日本列島が形成され、入り江の多い海岸線ができました。各地の貝塚が示すように、これが漁労の発達を促しました。

下線部ⓑ(江戸時代)【正】

漁場・漁船・網を手配する網元と、雇われて働く網子という階層区分が漁業の現場にあり、干鰯などの商品流通の発展のなかで大人数を動員する組織的な漁業が行われました。

正解【③】

2つの下線部はいずれも成り立つため、ともに正しいとする③が正解です。

第3問 『伴大納言絵巻』と応天門の変(配点15)

マヤさんとヒデさんが先生を交えて絵画資料の読み取りに挑戦するという枠組みです。Aは『伴大納言絵巻』の一場面と『日本三代実録』の記事から応天門の変を読み解き、Bは同じ絵巻の成立時期・作者の伝承・詞書の内容を史料批判の観点から検討します。

問1:正解 ②(解答番号14/配点3)

<問題要旨>

『伴大納言絵巻』の一場面と、『日本三代実録』に記された事件関係記事の表が与えられ、図の一行が検非違使だと推測できる手がかりを示す空欄と、検非違使の性格を示す空欄に入る語句の組合せを選ばせます。

<考え方>

前半は、表と図のどちらに手がかりがあるかを見比べます。表で取調べが行われた場所として挙がっているのは勘解由使の役所で、検非違使とは別の役所です。一方、図には騎馬で弓矢を携えた一行が描かれており、その装備が手がかりになります。後半は、もともと律令制では五衛府などが犯人の逮捕にあたっていたという先生の説明から、検非違使が律令の規定にない官職であることを押さえます。

<選択肢>

ア=図中の一行の装備【正】

図には騎馬で弓矢を携えた一行が描かれており、京中の警察にあたる検非違使を推測する手がかりになります。

ア=表中の取調べが行われた場所【誤】

表に挙がる取調べの場所は勘解由使の役所です。勘解由使は国司の交替事務を審査する役所で、検非違使とは別です。図の一行を検非違使と推測する手がかりにはなりません。

イ=令に規定のない官職【正】

検非違使は嵯峨天皇の時期に置かれた令外官です。律令では五衛府などが犯人の逮捕を担っていました。

イ=令に規定のある官職【誤】

律令に規定された官職であれば、もともと律令制では五衛府などが犯人の逮捕にあたっていたという説明と矛盾します。

正解【②】

手がかりは図の装備で、検非違使は令外官であるため、②が正解です。

問2:正解 ③(解答番号15/配点3)

<問題要旨>

表に見える太政大臣が、この事件に関わった藤原氏の人物であることを受けて、その人物の説明2つと、その人物が関係した他の政争2つの組合せを選ばせます。

<考え方>

まず人物を特定します。表は応天門の変(866年)の推移を示し、8月19日に太政大臣に命じて天下の政治を摂らせたとあります。この太政大臣は藤原良房で、臣下として初めて摂政となった人物です。人物が決まれば、説明と政争のどちらが良房に対応するかは、それぞれの年代と関与した人物で切れます。よく似た説明や政争が別人のものとして並べられているので、人物名と年代をセットで確認します。

<選択肢>

あ【誤】

二つの律令すなわち大宝律令と養老律令の編纂に関わったのは藤原不比等です。人物の入れ替えです。

い【正】

藤原良房は幼少で即位した清和天皇の外祖父であり、臣下として初めて摂政となって政治の実権を握りました。

X【正】

承和の変(842年)では橘逸勢や伴健岑らが処罰され、皇太子恒貞親王が廃されて道康親王が新たに皇太子となりました。良房はこの事件を機に地位を固めています。

Y【誤】

宇多天皇に重用され策謀により大宰府に左遷されたのは菅原道真で、901年の出来事です。策謀の側にいたのは藤原時平であり、良房の時代より後にあたります。人物と時期の両方が合いません。

正解【③】

太政大臣は藤原良房と特定でき、幼帝の外祖父としての説明と承和の変が対応するため、③が正解です。

問3:正解 16が①のとき17は⑤、16が②のとき17は⑥(解答番号16・17/配点3)

<問題要旨>

政治の転換の契機となった古代の出来事として、7世紀半ばに大臣として権勢を振るった一族の父子が滅ぼされた出来事(あ)と、太上天皇と天皇の遷都をめぐる対立から太上天皇の側近が殺害されたり自害したりした出来事(い)の2つが挙げられ、まずどちらを選ぶかを答えたうえで、選んだ出来事が政治の転換の契機と考えられる理由を6つの選択肢から選ばせます。あを選べば①、いを選べば②をマークする形で、どちらを選んでも対応する適当な選択肢が用意されており、どちらを選んでも得点できる形式です。

<考え方>

先に2つの出来事を特定します。あは、大臣として権勢を振るった蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた645年の乙巳の変です。いは、平城太上天皇が平城京への遷都を図って嵯峨天皇と対立し、太上天皇の側近である藤原仲成が殺害され藤原薬子が自害した810年の出来事です。次に、それぞれの出来事の直後に何が始まったかを押さえます。乙巳の変の後には大化の改新と呼ばれる政治改革が進み、地方行政組織として評(こおり)が置かれました。810年の出来事の後には嵯峨天皇が蔵人頭を置き、天皇の命令が蔵人所を通して太政官に伝えられる仕組みが整いました。年代と、その出来事が直接引き起こした制度の変化を結び付けるのが筋道です。

<選択肢>

16=①(あ・7世紀半ばに大臣の一族の父子が滅ぼされた出来事)を選んだ場合【正】

あは蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた645年の乙巳の変です。この後に大化の改新と呼ばれる政治改革が進み、地方行政組織として評が設置されました。したがって17は⑤の「地方行政組織である評の設置などの政治改革が進められた」が対応します。①の八つの姓すなわち八色の姓が定められたのは684年で、壬申の乱を経た天武天皇の時期の施策なので外れます。②の都が近江に遷され最初の全国的戸籍が作られたのは、白村江の戦いの敗戦後の近江大津宮遷都と庚午年籍のことで、乙巳の変が直接もたらしたものではありません。④の摂政または関白の常置は10世紀後半以降のことで、時期が大きく離れています。

16=②(い・太上天皇と天皇の遷都をめぐる対立の出来事)を選んだ場合【正】

いは平城太上天皇が平城京への遷都を図って嵯峨天皇と対立し、太上天皇の側近が殺害・自害した810年の出来事です。この直後に嵯峨天皇は蔵人頭を置きました。したがって17は⑥の「天皇の命令が蔵人所を通して太政官に伝達されるようになった」が対応します。④の摂政または関白が常置されるようになるのは10世紀後半以降で、810年の出来事の直接の帰結ではありません。①の八色の姓は684年、②の近江大津宮遷都と庚午年籍は660年代から670年のことで、いずれも7世紀の出来事であり年代が合いません。

あを選んだ場合は評の設置を挙げた⑤、いを選んだ場合は蔵人所を挙げた⑥が対応し、どちらを選んでも得点できます。

問4:正解 ②(解答番号18/配点3)

<問題要旨>

『伴大納言絵巻』一巻を巨勢金岡の作とする15世紀の日記の記事と、同じ絵巻の詞書という2つの資料が与えられ、それらについて考察した2つのメモの正誤について述べた文を選ばせます。先生の発言では、この絵巻の成立と同時期に『源氏物語絵巻』『信貴山縁起絵巻』などが作られたことが示されています。

<考え方>

作者の伝承を検討するときは、絵巻の成立時期と、伝承される作者の活動時期を別々に確定させます。『源氏物語絵巻』『信貴山縁起絵巻』と同時期ということから、この絵巻の成立は院政期すなわち12世紀です。一方、巨勢金岡は会話文で「この絵巻物の題材となった事件が起こった時期に活躍した絵師」とされており、9世紀の人物です。両者は3世紀近く離れているため、成立時期に着目するとかえって伝承が疑われます。もう一方のメモは、詞書がどの立場から書かれているかを読み取ります。

<選択肢>

メモ1【誤】

絵巻の成立は『源氏物語絵巻』『信貴山縁起絵巻』と同時期の12世紀、巨勢金岡は事件が起こった9世紀の絵師です。成立時期に着目すると両者の年代が合わず、作者を巨勢金岡とする記述を事実だとは言えません。着目すると伝承が裏づけられるかのように述べる点で、判断が反転しています。

メモ2【正】

詞書は、応天門を焼いて左大臣源信に罪を負わせようとしたと述べており、伴善男が放火したという前提に立っています。そのうえで、大臣になろうと図ったのにかえって罪せられたのはどれほど悔しかったろうと、善男の心境を推し量っています。

正解【②】

成立時期の検討でメモ1が崩れ、詞書の書き方からメモ2が成り立つため、②が正解です。

問5:正解 ①(解答番号19/配点3)

<問題要旨>

文字資料と絵画資料を活用して歴史を考える作業のなかで持った2つの疑問と、それぞれに対する4つの考察が与えられ、正しい組合せを選ばせます。

<考え方>

前半は『古事記』『日本書紀』が完成した8世紀初めという時期から決まります。大宝律令の制定を経て律令国家が確立していく時期にあたり、国家の成り立ちを示す書物が求められた背景を考えます。後半は、絵画資料の種類ごとに誰が描かれているかで切ります。庶民の日常生活を知りたいのだから、庶民の姿が描かれた作品でなければなりません。

<選択肢>

あ=W【正】

『古事記』『日本書紀』は8世紀初めに完成しました。大宝律令の制定を経て律令国家が確立していく時期であり、国家意識の高まりが編纂の背景にあります。

あ=X【誤】

天皇親政による律令体制の復興が目指されたのは、延喜・天暦の治と呼ばれる10世紀のことです。記紀の編纂より2世紀後で、時期が合いません。

い=Y【正】

京都の市中と郊外の名所や風俗を描いた屏風には、働く人々や往来する人々の姿が描き込まれており、庶民の日常生活を知る手がかりになります。

い=Z【誤】

似絵は鎌倉時代に発達した貴族や武士の肖像画で、描かれるのは特定の人物です。写実的ではあっても庶民の日常生活を知る手がかりにはなりません。

正解【①】

記紀編纂の背景はW、庶民の日常生活を知る手がかりは風俗を描いた屏風のYであるため、①が正解です。

第4問 中世における女性と政治(配点15)

カイリさんのグループが中世における女性と政治との関わりをテーマに探究するという枠組みです。Aは北条政子と日野富子について、同時代の歴史書・政道書・僧の日記を並べて評価の違いを検討し、Bは鳥羽上皇の娘八条院を取り上げて、政治力があったかどうかを両論併記で考えます。

問1:正解 ③(解答番号20/配点3)

<問題要旨>

天台僧慈円が書いた歴史書『愚管抄』と、一条兼良が将軍足利義尚に政道を説いた『樵談治要』という2つの資料が与えられ、北条政子の評価に関して述べた文として最も適当なものを選ばせます。

<考え方>

2つの資料が何を述べているかを並べて突き合わせます。前者は実朝の代を「実質は政子の世であった」とし、後者は「もっぱら尼二位が鎌倉を支配して立派に政治をし」と述べています。どちらも政子が実権を握ったという評価です。ほかの選択肢は、資料に書かれていない事柄や、成立年代の違いを持ち込んでいないかを確認します。

<選択肢>

①【誤】

和田義盛が侍所の長官となったのは1180年で、源頼朝による任命です。実朝の代に政子が任じたのではなく、時期も主体も合いません。

②【誤】

後者の資料は、義時が政子の呼びかけを各地の御家人に伝えたと述べています。六波羅探題が置かれるのは承久の乱の後で、資料に書かれていない機関を持ち込んでいます。

③【正】

前者は実朝の代を実質は政子の世と述べ、後者は尼二位が鎌倉を支配して政治を行ったと述べています。いずれも政子が鎌倉幕府の実権を握ったという評価です。

④【誤】

『愚管抄』は承久の乱の頃すなわち13世紀前半の成立ですが、『樵談治要』は足利義尚に宛てた15世紀後半の書です。両方が13世紀成立とするのは誤りです。

正解【③】

2つの資料はいずれも政子が実権を握ったと評価しているため、③が正解です。

問2:正解 ②(解答番号21/配点3)

<問題要旨>

1477年の興福寺大乗院尋尊の日記に記された、日野富子が金利を取って自軍の大名小名に銭を貸し付けていたという記述と、富子の評価が従来と現在とで変わったことをまとめたノートが与えられ、2つの文の正誤の組合せを選ばせます。

<考え方>

貸し付けの評価は、ノートの現在の研究の内容に戻れば決まります。ノートは、富子の金融活動が幕府財政の運用に不可欠であり、貸し付けた相手への経済支援ともなっていたとしています。日記の「自軍の大名小名たちに貸し付けている」という記述と合わせれば、味方を助ける意味があったと読めます。もう一方の文は1477年という年から判断します。この年は応仁の乱が終結する年で、当時の関東の情勢と突き合わせて確認します。

<選択肢>

あ【正】

日記は富子が自軍の大名小名に貸し付けたと記し、ノートは貸し付けが相手への経済支援ともなっていたとしています。味方の武士を助ける意味もあったと言えます。

い【誤】

1477年は応仁の乱が終結する年で、当時将軍と対立していた鎌倉公方(古河公方足利成氏)は滅ぼされていません。のちに幕府と和睦しています。滅亡という結果を持ち込んだ点が誤りです。

正解【②】

貸し付けの意味は成り立ち、鎌倉公方が滅ぼされたという記述は事実に反するため、②が正解です。

問3:正解 ②(解答番号22/配点3)

<問題要旨>

八条院について、政治力がなかったと考える意見と、政治力があったと考える意見を並べたノートが与えられ、それぞれの意見の中の空欄に入る文の組合せを選ばせます。

<考え方>

前半は論の運びから決まります。所領が生涯を通じて大きく増えたという事実から言えることを述べ、そのうえで政治力とは直接結びつかないと続けるのですから、空欄には所領の増加が示す経済的な性格が入ります。後半は以仁王がどういう人物かで決まります。以仁王は平氏の打倒を呼びかけて挙兵した皇子であり、その子を保護する行動が平氏政権に対してどういう姿勢を示すかを考えます。

<選択肢>

ア=多くの資産を持っていた【正】

所領が増えたという事実から直接言えるのは資産の多さです。だからこそ政治力とは直接結びつかないという論が成り立ちます。

ア=開発領主であった【誤】

開発領主は自ら土地を開発して所領とした在地の領主です。八条院の所領は上皇から譲られたものを中心に形成されており、所領が増えたという事実から開発領主であることは導けません。

イ=平氏政権との対立【正】

以仁王は平氏の打倒を呼びかけて挙兵した皇子です。治承・寿永の内乱期にその子を保護するのは、平氏政権と対立する姿勢を示す行動にあたります。

イ=平氏政権との協調【誤】

平氏に討たれた以仁王の子を保護することは、平氏政権への協調にはつながりません。姿勢の向きが逆になっています。

正解【②】

所領の増加が示すのは資産の多さ、以仁王の子の保護が示すのは平氏政権との対立であるため、②が正解です。

問4:正解 ③(解答番号23/配点3)

<問題要旨>

鳥羽上皇が院政を行っていた時期について述べた2つの文と、八条院領について述べた2つの文が与えられ、最も適当なものの組合せを選ばせます。

<考え方>

前半は院政期の政治のしくみを問うもので、知行国の制度と院の文書の効力を区別して確認します。知行国は、院の近親や上級貴族が知行国主として一国の支配権を得る制度で、知行国主は子弟らを国司に任じ、現地には目代を派遣しました。知行国主と国司は同じではありません。後半は、荘園のあり方と、よく似た名前の所領群の由来で切ります。

<選択肢>

あ【誤】

知行国主となったのは院の近親や上級貴族で、知行国主は子弟らを国司に任じました。「国司が知行国主として」とするのは、両者を同一視する語句のすり替えです。

い【正】

院政期には院庁下文や院宣が発せられ、太政官の手続きを経ずに国政を動かす力を持ちました。

X【正】

八条院領が形成された12世紀には、耕地だけでなく山野河海を含めて一定の領域をまとめて支配する領域型荘園が各地に成立しました。

Y【誤】

長講堂領は後白河上皇の所領を基とする所領群です。後鳥羽上皇とするのは人物の入れ替えです。

正解【③】

院庁下文・院宣の影響力と、領域型荘園の成立が成り立つため、③が正解です。

問5:正解 ④(解答番号24/配点3)

<問題要旨>

女性が主導権を握った家や国は滅びることを意味する「牝鶏晨す」という言葉が儒教の根本経典に見え、17世紀後半の教訓書や武家家訓で言及されるようになったことをまとめたノートが与えられ、ノートや江戸時代の女性に関して述べた文として最も適当なものを選ばせます。

<考え方>

ノートが示す時期は17世紀後半、すなわち幕藩体制が安定した時期です。この時期に儒教的な女性観が教訓書や家訓を通して広がったことを押さえます。そのうえで江戸時代の女性の実態を考えます。農村の農作業や織物業、都市の商家の経営など、女性の労働は経済的・社会的に重要でした。一方で武家の家政や幕政から女性は制度的に排除されていきました。

<選択肢>

①【誤】

儒教が日本に伝わったのは6世紀で、五経博士の渡来などが知られます。平安時代に初めて伝来したとするのは時期が合いません。

②【誤】

ノートはこの考え方が言及されるようになった時期を17世紀後半としています。17世紀後半は幕藩体制が安定した時期で、社会が不安定になり武力が必要になり始めた時期ではありません。時期の取り違えです。

③【誤】

『女大学』は女性に夫への従順を説く教訓書です。夫婦間の平等が説かれたとするのは内容が逆です。

④【正】

農村の農作業や織物業、商家の経営など、江戸時代の女性の労働は経済的・社会的に重要でした。一方で「牝鶏晨す」を引く武家家訓のように政治との関わりは戒められ、女性は政治から遠ざけられる傾向にありました。

正解【④】

女性の労働の重要性と政治からの排除が並存したという整理が、ノートの内容とも実態とも合うため、④が正解です。

第5問 近世の城郭と城下町(配点15)

教科書に掲載された天守の写真に魅了されたマチさんのグループが、近世の城郭に着目して調べるという枠組みです。城郭の主な特徴と気付いたことをまとめたノートを起点に、城郭が誕生した背景、桃山文化、1615年の文書、城下町の空間構成、城や館の通史までを順に問います。

問1:正解 ②(解答番号25/配点3)

<問題要旨>

近世の城郭が誕生した背景には中世から近世へ移行する時期の政治や社会の変化があったという下線部について、それに関して述べた文として最も適当なものを選ばせます。

<考え方>

巨大な石垣と何重もの堀という近世城郭の特徴が、何に対応するために生まれたのかを考えます。戦国時代に鉄砲が伝来・普及し、鉄砲隊を編成する集団戦術が用いられるようになったことが、防御施設の大型化を促しました。ほかの選択肢は、兵農分離が向かった方向、台場が築かれた時期、惣村が成立した時期を確認すれば落とせます。

<選択肢>

①【誤】

兵農分離により、武士は農村を離れて城下町に常住するようになりました。平時は農村に居住し戦時のみ城郭の周囲に集住するのは中世の在地領主のあり方で、変化の方向が逆です。

②【正】

鉄砲が普及し、鉄砲隊の編成など集団戦術が用いられるようになったことが、巨大な石垣や何重もの堀をもつ城郭が生まれた背景にあたります。

③【誤】

海岸に大砲を備えた台場が築かれたのはペリー来航後の1850年代です。中世から近世へ移行する時期の変化としては時期が大きく離れています。

④【誤】

惣村は室町時代に畿内などで成立しました。織豊政権の誕生によって惣村が成立したとするのは因果が逆転しています。

正解【②】

鉄砲の普及と集団戦術の採用が近世城郭の成立背景にあたるため、②が正解です。

問2:正解 ①(解答番号26/配点3)

<問題要旨>

安土城や大坂城が桃山文化を代表する建築物だったという下線部について、桃山文化の2つの特徴と、それぞれの具体的な内容4つの組合せを選ばせます。

<考え方>

特徴と内容は時期で機械的に切れます。桃山文化は16世紀後半から17世紀初めの文化です。権力者・豪商を担い手とする豪華で壮大な性格の具体例としては、城郭の内部を飾る障壁画が挙がります。対外交流の活発化に伴う国際色の具体例としては、南蛮貿易や宣教師の来日に伴って伝わった技術が挙がります。江戸時代中期以降のものが混ざっていないかを確かめるのが要点です。

<選択肢>

あ=W【正】

ふすま・壁・天井・屏風に金地に青や緑といった濃い色彩を用いて描く濃絵は、狩野永徳らが手がけた桃山文化の障壁画です。豪華で壮大な文化の具体例にあたります。

あ=X【誤】

友禅染が京都で生み出され華麗な着物が流行したのは元禄期、17世紀末から18世紀初めのことです。桃山文化より後で時期が合いません。

い=Y【正】

ヨーロッパから金属製の活字を用いた印刷技術が伝わり、宗教書や日本古典、辞書がローマ字で出版されました。いわゆるキリシタン版で、国際色豊かな文化の具体例です。

い=Z【誤】

蘭学が盛んになり洋画の技法で油絵や銅版画が制作されるのは18世紀後半以降です。江戸時代後期の内容で、桃山文化ではありません。

正解【①】

豪華壮大な性格は濃絵、国際色はキリシタン版が具体例となるため、①が正解です。

問3:正解 ④(解答番号27/配点3)

<問題要旨>

江戸幕府が大名の城郭を統制したという下線部に関連して、大名家に伝来した1615年の文書が与えられ、その資料の性格を説明した2つの文と、資料から読み取れる内容に関わる別の資料2つの組合せを選ばせます。

<考え方>

資料の性格は文体で決まります。この文書は「とも申し候」という伝え聞いた内容を重ね、末尾に「かいもく雑説も知れず候事」と噂の不明確さを記しています。命令を下す法令の文体ではありません。読み取れる内容は、上様と譜代大名の城以外は一つも残さず割る、所によっては一つずつ残す、という城の破却の話です。したがって対応する別の資料は、城の破却を命じた法令の文言を探します。城の修補や新築の規制とは論点が違う点に注意します。

<選択肢>

あ【誤】

伝聞を重ね、末尾で噂が判然としないと記す文体は、幕府が大名に命令を下す法令の文体ではありません。命令の形式を備えていないため、法令だとは言えません。

い【正】

伝え聞いた複数の説を並べ、噂の内容が判然としないと記しており、大名が入手した伝聞情報を書き留めたものと読めます。

X【誤】

居城の修補は言上し新たな築城は停止せよという内容で、武家諸法度が定めた城郭の修築規制にあたります。資料が述べているのは既存の城を破却するかどうかで、論点が異なります。

Y【正】

居城は残し、そのほかの城はすべて破却せよという内容で、一国一城令にあたります。上様と譜代大名の城以外は残さず割るという資料の内容に対応します。

正解【④】

文体から伝聞情報と判断でき、内容は城の破却に関わるため、④が正解です。

問4:正解 ④(解答番号28/配点3)

<問題要旨>

地方の城下町を平面的に示した概念図が与えられ、概念図に関して述べた4つの文のうち正しいものの組合せを選ばせます。太実線が街道、波線が河川、二重線が堀を示し、堀と河川によって区切られた区画Ⓐ・Ⓑ・Ⓒに武士や町人、寺社が身分別・職業別に居住・所在していると注記されています。

<考え方>

区画の位置と、灰色部分がどの線に沿っているかを順に確認します。Ⓐは二重線の堀に幾重にも囲まれた最も内側の区画で、天守がそびえる城の中心にあたります。Ⓒは西側で波線の河川に接する外側の区画です。灰色部分は、街道を示す太実線に沿って東西に細長く伸び、堀の外側にまで及び、河川を越えた先まで続いています。堀の内側にとどまらず街道に沿って外へ延びるというこの分布が、灰色部分が何の用地かを決めます。

<選択肢>

あ【誤】

Ⓐは堀に幾重にも囲まれた最も内側の区画で、天守がそびえる城の中心部にあたります。領民が信仰する寺社が集められる場所ではありません。寺社は城下町の外縁部に置かれるのが通例です。

い【正】

Ⓒの西側を波線の河川が流れています。河川は堀に代わる防衛線となる一方、舟運によって物資を運ぶ動脈としても機能しました。

う【誤】

灰色部分は街道に沿って東西に伸び、堀の外側や河川の対岸にまで及んでいます。防御を目的とする武家地であれば堀の内側に配置され、街道に沿って城外まで延びることはありません。街道との関係から武家地とは読めません。

え【正】

灰色部分は街道に沿って細長く伸び、街道が河川を渡る地点をまたいで続いています。人と物が行き交う交通の要衝であり、商業に都合の良い場所に立地する町人地と読めます。

正解【④】

河川の役割と、街道沿いに伸びる灰色部分が町人地であることが成り立つため、④が正解です。

問5:正解 ①(解答番号29/配点3)

<問題要旨>

城や館の歴史についてまとめた内容から、城や館について述べた4つの文のうち適当でないものを選ばせます。

<考え方>

築かれた時期と、何に備えたものかをそれぞれ確認します。古代の防御施設は、備えた相手によって名称も立地も異なります。北方の蝦夷に備えたものと、朝鮮半島や大陸の勢力に備えたものを区別するのが要点です。

<選択肢>

①【適当でない】

朝鮮式山城は白村江の戦いの敗戦後、唐・新羅の侵攻に備えて大野城・基肄城など西日本に築かれたものです。蝦夷に対する軍事的な拠点として築かれたのは出羽柵や多賀城などの城柵で、備えた相手と立地の両方が入れ替わっています。

②【適当】

鎌倉時代の武士の館は所領内の要地に築かれ、堀や塀をめぐらし、周囲に佃や門田と呼ばれる直営の耕地が置かれることがありました。

③【適当】

戦国大名は居館・居城の周辺に家臣や商工業者を集めて城下町を建設し、城下町は領国経済の中心としての役割を担うようになりました。

④【適当】

姫路城のように、近世に築かれて現存する城郭は地域の歴史を示す文化財であり、世界文化遺産に登録されたものもあります。

正解【①】

朝鮮式山城は蝦夷ではなく唐・新羅の侵攻に備えたものであるため、①が適当でない文です。

第6問 近現代の政治的リーダーシップ(配点15)

ミヅキさんとリョウさんが、近現代の日本における政治的リーダーシップについて考察する会話です。石橋湛山内閣の発足を描いた風刺漫画や社会党大会を描いた風刺漫画、『原敬日記』の記述を手がかりに、首相と与党・軍部との関係を明治期から1990年代まで問います。

問1:正解 ③(解答番号30/配点3)

<問題要旨>

55年体制末期に成立した、国連平和維持活動への自衛隊の派遣を可能にする法律に着目し、この法律が成立した背景について述べた2つの文の正誤の組合せを選ばせます。

<考え方>

対象となる法律を特定してから、2つの文の年代と突き合わせます。国連平和維持活動への自衛隊派遣を可能にした法律は1992年に成立した国連平和維持活動協力法です。背景を述べる文なのですから、1992年より前の出来事でなければなりません。この一点で前後関係が機械的に決まります。

<選択肢>

あ【誤】

自由民主党・日本社会党・新党さきがけの連立政権は1994年に成立した村山内閣で、日本社会党が自衛隊を合憲とする方針転換を行ったのもこの年です。1992年に成立した法律の背景としては時期が後で、前後が逆になっています。

い【正】

1991年の湾岸戦争で、日本は多額の資金協力を行ったものの人的な貢献を求める声が強まりました。これが国際貢献のあり方を問い直し、法律の成立につながる背景となりました。

正解【③】

連立政権による方針転換は法律の成立より後、湾岸戦争は前にあたるため、③が正解です。

問2:正解 ②(解答番号31/配点3)

<問題要旨>

石橋湛山内閣の発足を描いた1956年の風刺漫画と、1959年の社会党大会を描いた風刺漫画の2つが与えられ、2つの資料について考察したことや高度経済成長期の出来事に関して述べた4つの文のうち、正しいものの組合せを選ばせます。

<考え方>

2つの漫画がそれぞれどの政党を描いているかを確定させ、その政党がその後どうなったかを年代で追います。前者は首相をよそに2人が背伸びをして競い合う姿で与党内の派閥対立を、後者は大会の建物に出口を二つ作るという姿で党内対立と分裂の動きを描いています。そのうえで、それぞれの政党が資料の時期の後に分裂したのか統一したのかを確認します。残る2文は高度経済成長期の出来事として年代が合うかを見ます。

<選択肢>

あ【正】

前者の漫画が描く政党は派閥対立を抱えながらも政権を維持し続けました。後者の漫画が描く政党からは、1960年に西尾末広らが離党して民主社会党を結成しました。資料の時期の後に一部が分裂して別の政党を結成したことになります。

い【誤】

前者の政党は当時分裂しておらず、他党と連立して政権を維持したわけでもありません。後者の政党が左右両派の分裂を経て再統一したのは1955年で、後者の資料の時期より前です。分裂と統一の順序が入れ替わっています。

う【誤】

革新勢力の支援を受けた知事が大都市圏を中心に数多く誕生したのは1960年代後半以降で、高度経済成長の只中から末期にかけてのことです。高度経済成長が始まるとともに消えていったとするのは時期の前後が逆です。

え【正】

公害や環境破壊が社会問題化し住民運動が各地で高まるなか、1971年に環境庁が発足しました。高度経済成長期の出来事として年代が合います。

正解【②】

2つの政党のその後と、環境庁の発足がいずれも成り立つため、②が正解です。

問3:正解 ⑤(解答番号32/配点3)

<問題要旨>

首相と軍部の対立事例について述べた3つの文Ⅰ〜Ⅲを、古いものから年代順に配列させます。

<考え方>

選択肢を見る前に、3つの出来事をそれぞれ特定して年代を1つずつ確定させます。Ⅰは、青年将校により複数の要人が暗殺された二・二六事件の後、新たに就任した首相のもとで軍部大臣現役武官制が復活した出来事で、広田弘毅内閣の1936年です。Ⅱは、対米開戦回避を目指した首相の案に陸軍が反対して首相が退陣し、後任に陸軍大臣が就いた出来事で、第3次近衛文麿内閣が総辞職して東条英機が組閣した1941年です。Ⅲは、中国東北部で陸軍が鉄道線路を爆破した柳条湖事件に対し首相が不拡大方針を採ったものの陸軍が戦線を拡大した出来事で、第2次若槻礼次郎内閣の1931年です。年代は1931年・1936年・1941年となり、並べ方が一つに決まります。

<選択肢>

① Ⅰ―Ⅱ―Ⅲ【誤】

1936年・1941年・1931年の順で、最も古い1931年のⅢが最後に置かれています。

② Ⅰ―Ⅲ―Ⅱ【誤】

1936年・1931年・1941年の順で、Ⅰが1931年のⅢより前に置かれています。

③ Ⅱ―Ⅰ―Ⅲ【誤】

1941年・1936年・1931年の順で、新しいものから並んでいます。

④ Ⅱ―Ⅲ―Ⅰ【誤】

1941年・1931年・1936年の順で、最も新しいⅡが先頭に置かれています。

⑤ Ⅲ―Ⅰ―Ⅱ【正】

1931年・1936年・1941年の順で、古いものから正しく並んでいます。

⑥ Ⅲ―Ⅱ―Ⅰ【誤】

1931年・1941年・1936年の順で、ⅡとⅠが入れ替わっています。

正解【⑤】

柳条湖事件が1931年、軍部大臣現役武官制の復活が1936年、東条内閣の成立が1941年なので、Ⅲ―Ⅰ―Ⅱの⑤が正解です。

問4:正解 ①(解答番号33/配点3)

<問題要旨>

原敬内閣で首相が海軍大臣の事務を管理したという事実について、『原敬日記』からまとめたノートが与えられ、それが「新例を開く」ことになる理由を示す空欄に入る文2つと、ノートに関して述べた文2つの組合せを選ばせます。ノートには、ワシントン会議に海軍大臣を派遣すること、原が不在中の大臣事務を自ら管理すると表明したこと、反対する陸軍に原が自ら働きかけて同意を得たことが記されています。

<考え方>

空欄は、原敬自身がどういう立場の人物かで決まります。原は衆議院に議席を持つ政党政治家であり、軍人ではありません。軍部大臣の事務を軍人でない者が管理するのは前例がなく、それが「新例」と表現される理由です。後半は、ワシントン会議で結ばれた条約と、「軍閥攻撃論」が指す批判の対象を年代で確認します。原敬内閣は1918年から1921年で、この時期の陸軍批判が何をめぐるものだったかを押さえます。

<選択肢>

あ【正】

原敬は軍人ではありません。海軍大臣が不在の間、その役割を軍人以外が担うことになるため、前例のない措置として新例を開くと表現されました。

い【誤】

軍部大臣の任用範囲が現役ではない武官にも広がるのは、軍部大臣現役武官制が緩和された1913年の措置の内容です。原が自ら大臣事務を管理することとは別の話で、語句のすり替えです。

X【正】

ワシントン会議では、主力艦の保有量を制限する海軍軍備制限条約、中国の主権尊重・領土保全などを定めた九か国条約、太平洋地域の現状維持を定めた四か国条約が結ばれました。

Y【誤】

山東出兵は1927年から1928年の田中義一内閣のときの出来事で、原敬内閣より後にあたります。原の時期の陸軍批判はシベリア出兵をめぐるもので、時期が合いません。

正解【①】

軍人でない首相が軍部大臣の事務を担う点が新例であり、ワシントン会議で結ばれた3条約の記述も正しいため、①が正解です。

問5:正解 ③(解答番号34/配点3)

<問題要旨>

首相のリーダーシップや内閣の運営に影響を与えた組織や人物について、首相・内閣と組織・人物との関わりを述べた4つの文のうち、最も適当なものを選ばせます。

<考え方>

それぞれの内閣がどの組織・人物との関係で動いたかを、具体的な事件に当てはめて確認します。内閣の外にあって内閣を倒す力を持った組織として、天皇の諮問機関である枢密院があります。金融恐慌の際に緊急勅令案が枢密院で否決されて内閣が倒れた事例を思い出せば選択肢を絞れます。

<選択肢>

①【誤】

初期議会では政府は超然主義を掲げ、軍事費などの予算をめぐって民党と激しく対立しました。民党と継続的に協調関係を築いたわけではありません。

②【誤】

政党を基盤とする初めての政党内閣は1898年の第1次大隈重信内閣ですが、憲政党内の旧進歩党系と旧自由党系の対立から約4か月で崩壊しました。派閥対立を克服して長期政権となったとするのは事実に反します。

③【正】

1927年の金融恐慌の際、台湾銀行を救済する緊急勅令案が天皇の諮問機関である枢密院で否決され、第1次若槻礼次郎内閣は総辞職に追い込まれました。

④【誤】

戦前の無産政党の系譜をひく内閣は1947年に成立した片山哲内閣で、後継の芦田均内閣は民主党を首班とします。独立回復までの間そうした内閣が続いたわけではありません。

正解【③】

枢密院による緊急勅令案の否決が政党内閣を総辞職に追い込んだ事例が正しく述べられているため、③が正解です。

※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

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