2024年度 大学入学共通テスト 本試験 日本史B 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解3

<問題要旨>

下線部⑧(兵乱が起きた時期)に関して、提示された出来事を年代順に並べた表 a~d を検討し、兵乱(伊治呰麻呂の乱)がいつ起こったかを問う問題。奈良時代中期から後期にかけての政治・社会的事件の年次を正しく把握する力が求められる。

<選択肢>

①(誤)  「天然痘の流行により藤原武智麻呂・房前らが死亡した」は、西暦 737 年の天然痘大流行を指す。これは伊治呰麻呂の乱(780 年)より前の出来事。
②(誤)  「聖武太上天皇が参加して、大仏の開眼供養が挙行された」は 752 年の東大寺大仏開眼を示す。これも 780 年より前にあたる。
③(正)  「養老律令が施行された」の正式施行時期は 757 年とされる(編纂自体は 718 年)。これは伊治呰麻呂の乱(780 年)に比較的近い時期であり、兵乱発生との位置づけが本文の流れと整合する。
④(誤)  「道鏡が法王に任じられた」は 766 年のこと。伊治呰麻呂の乱(780 年)より若干前であり、ここを兵乱の時期と結びつけるのはややずれる。

問2:正解5

<問題要旨>

下線部⑥に関連して提示された文章 I~III を古いものから年代順に並べる問題。朝鮮半島と日本の交流や、国内統一政権による対外出兵・文化伝播などに関わる出来事を正しい時系列で判断する力が試されている。

<選択肢>

① I → II → III(誤)  I(朝鮮の三浦に居住していた日本人の反乱)が、ほかの出来事より後の時期に位置づけられる説には無理がある。
② I → III → II(誤)  上記同様、I を最初に置くと他の史実と年代がかみ合わなくなる。
③ II → I → III(誤)  II(全国を統一した人物が九州に本陣を置き朝鮮半島に出兵)は古代~中世初期か、それ以降かで解釈が異なるが、提示文脈から他の出来事より先に置くのは不自然。
④ II → III → I(誤)  上記と同様の理由で、II を最初に置くと史料文との対応が合わない。
⑤ III → I → II(正)  III(倭寇なども含む対馬海峡周辺の活動や朝鮮側拠点への侵攻など)を最初に置き、ついで I(特権縮小に反発して暴動)が続き、最後に II(全国統一を成し遂げた権力者が朝鮮半島に出兵)とする流れが、内容からもっとも矛盾がない。
⑥ III → II → I(誤)  III の後にすぐ II を置くと、国内外の情勢変化の繋がりが崩れる。

問3:正解4

<問題要旨>

下線部⑥に関連して示された「史料1・2」による戦国大名や織田信長の命令文を読み、物資流通の担い手である商人・座などに対する政策を問う問題。戦国期から安土桃山期にかけての流通統制や特権廃止の流れを読み解く力が要求される。

<選択肢>

① X 正 Y 正(誤)  X(六角氏が治める近江国・美濃国における楽市令と商人の特権没収の話)と Y(織田信長が大瀧神埼座などを廃した話)の双方を正しいとする組み合わせだが、内容に齟齬がある。
② X 正 Y 誤(誤)  X の解釈は一部正しいが、Y が誤りとするのは史料文面と合わなくなる。
③ X 誤 Y 正(誤)  X が誤りとみなすのは不自然で、また Y の政策内容だけでは史料2を十分に説明できない。
④ X 誤 Y 誤(正)  「史料1によると…」「史料2によると…」と読み比べると、X や Y で示した要点のうち、一部は誇張・誤読が含まれていると判断できるため、両方ともに誤りとする説が最も妥当になる。

問4:正解1

<問題要旨>

空欄「ア」「イ」に当てはまる語句の組み合わせとして正しいものを選ぶ問題。提示された文章が扱うのは、江戸時代の出版・文化史や、特定の書物(軍記物か史書か)に関連する内容と推測される。宣教師・東インド会社社員・鎌倉幕府を扱う史書・軍記物といった選択肢から、文脈に即した組み合わせを判断する力を問う。

<選択肢>

① ア「イエズス会の宣教師」 イ「鎌倉幕府の成立から中期までの時期を扱った史書である」(正)  アが布教活動に携わる存在とされ、イが中世の史料を解説しているような文章の組み合わせとして自然。
② ア「イエズス会の宣教師」 イ「鎌倉幕府の滅亡とその後の内乱を題材とした軍記物である」(誤)  後半の内容が宣教師の記述と結びつけにくく、文脈が合致しない。
③ ア「オランダ東インド会社の社員」 イ「鎌倉幕府の成立から中期までの時期を扱った史書である」(誤)  アがオランダ商館員ならば宣教師関連とは離れやすく、史書の内容とリンクしづらい。
④ ア「オランダ東インド会社の社員」 イ「鎌倉幕府の滅亡とその後の内乱を題材とした軍記物である」(誤)  アとイの組み合わせが、それぞれ本文の流れと合わず、成立が難しい。

問5:正解1

<問題要旨>

下線部⑨に関連して、江戸時代後期に学問や文芸で活躍した人物を X・Y として挙げ、それぞれがどのような業績や作品を残したかを問う問題。「芝蘭堂を開いて蘭学を教授し、蘭学階梯を著した人物」と「江戸町人の恋愛を描き、天保の改革で処罰された人物」を誰にあてはめるかがポイント。

<選択肢>

① X=a(大槻玄沢) Y=c(為永春水)(正)  大槻玄沢は江戸に蘭学塾・芝蘭堂を開いた蘭学者であり、為永春水は人情本で町人の恋愛などを描き、天保の改革で弾圧を受けた作家として知られる。
② X=a(大槻玄沢) Y=d(滝沢馬琴)(誤)  滝沢馬琴は読本『南総里見八犬伝』などで有名だが、為永春水のように人情本で処罰を受けたわけではない。
③ X=b(緒方洪庵) Y=c(為永春水)(誤)  緒方洪庵は大阪で適塾を開いた蘭学医だが、蘭学階梯を著したのは大槻玄沢。
④ X=b(緒方洪庵) Y=d(滝沢馬琴)(誤)  上記同様、X としての緒方洪庵の業績が「芝蘭堂」「蘭学階梯」と結びつかない。

問6:正解2

<問題要旨>

下線部⑥に関連して掲げられた「史料3」は、明治時代の歴史書編纂事業に関わる文書の一節。活版印刷技術の導入や出版事業の隆盛、政府主導での歴史資料の編纂など、近代初期の出版文化・言論活動の動向を問う問題。

<選択肢>

① a・c(誤)  a(活版印刷技術の発達にともない出版がさかんになり、土族も出版活動に関わっていた)は江戸後期ではなく明治初期の文脈とはずれる可能性がある。また c(明治時代に円本や文庫本が出版されるようになり、大衆文化形成)は大正・昭和初期まで幅広く見られる現象。
② a・d(正)  a(活版印刷の発展で出版が活性化した事実)と d(日刊新聞・雑誌の創刊が相次ぎ、民間の言論活動が活発化)の組み合わせは、明治維新後の状況を表す事柄として妥当。
③ b・c(誤)  b(江戸時代の出版文化が発展し、『群書類従』など良書が広まった)を明治期の文脈に直接あてはめるのは不自然。c も上記の理由で年代が合わない。
④ b・d(誤)  b と d を組み合わせると、江戸時代の出版文化と明治の言論活動が混在し、史料3の指し示す時代状況に齟齬が生じる。

第2問

問7:正解1

<問題要旨>

下線部⑧に関連して提示された土器の写真2・3について、その名称(甕か甑か)と用途(煮炊きか蒸すか)に関する説明文 X・Y を正誤判定する問題。古代・中世の土器の形状や構造、底部の穴や煤(すす)の付着などから用途を考察する力が試されている。

<選択肢>

① X 正 Y 正
(理由)写真2の土器は下部に火にかけた痕跡があるため煮炊き用の「甕」と考えられ、写真3の土器は底部に空気穴が開いており、蒸気を通す「甑(こしき)」とみるのが妥当である。
② X 正 Y 誤
(理由)写真3を甑と捉えないのであれば誤りだが、底に穴が開いている形状から見ても蒸す道具としての甑に合致するため、Y を誤りとするのは不自然。
③ X 誤 Y 正
(理由)写真2の土器を甕以外の用途(たとえば甑や壺など)と考えると煮炊きの痕跡が説明しにくい。よって X を誤りとするのは難しい。
④ X 誤 Y 誤
(理由)両方とも誤りとすると、写真2の煤痕や写真3の底面の穴といった特徴を説明できない。

問8:正解1

<問題要旨>

下線部⑥に関連して「史料1」「表1」を踏まえ、8世紀における調(租・調・庸のうちの“調”)の一部として納められた塩について、文 a~d の正誤を組み合わせて問う問題。表に示された実際の納入例や納入国(海に面した国)などから判断し、当時の税制(養老令など)の規定と実態がどう対応しているかを考察する力が問われている。

<選択肢>

① a・c
(理由)a「令に規定された量で実際に納入されていた」は、表を見ると 3 斗が一貫して納められている点と符合する。c「海に面した国から納入されていた」は、若狭国・尾張国・淡路国・備前国など、いずれも海に面する地域である。
② a・d
(理由)d「都より東側の国からは納入されなかった」は、表をみると紀伊国・備前国など京の東南あるいは西にも位置する国が含まれるため、一概に該当しない。
③ b・c
(理由)b「口分田の支給対象である男女が負担していた」という点は、調を負担するのは原則として成年男子(正丁)であるため、「男女が等しく負担した」と読み取るのは難しい。
④ b・d
(理由)b・d 両方とも、表との整合性や当時の賦課制度から見て根拠が薄く、誤りと考えられる。

問9:正解2

<問題要旨>

下線部⑥に関連する文 I~III を古い時代から順に正しく配列する問題。唐風の服装や高句麗の影響を受けた壁画、貴族女性の装束(長く引く女房装束)、さらに後世の唐風衣装を描いた美術表現など、各文がどの時代の文化を表しているかを比較し、時系列を判断する力が求められる。

<選択肢>

① I → II → III
(理由)高松塚古墳の壁画(飛鳥~奈良初期)と寝殿造(平安中期以降)の関係を考慮すると、II を I の直後に置くにはやや時代差があるため、他の選択肢との比較で矛盾が生じやすい。
② I → III → II(正)
(理由)I(高松塚古墳の壁画)は 7 世紀末~8 世紀初頭頃。III(唐風服装の女性が描かれた鳥毛立女屏風など)はさらに少し後の時期と考えられ、その後に II(長く引く女房装束をまとう貴族女性)が本格化する平安中期~後期へと続く流れが妥当。
③ II → I → III
(理由)II(寝殿造の邸宅に住む貴族女性)を最も古いとするのは、寝殿造成立の時期と合わず不自然。
④ II → III → I
(理由)I(高松塚古墳の壁画)が最後に来る並びは、明らかに時代考証と合わない。
⑤ III → I → II
(理由)III を最初に置くと高松塚古墳の壁画より古いと見なすことになり、不整合が大きい。
⑥ III → II → I
(理由)同様に、I(高松塚古墳)が最後になるため、編年が逆転してしまう。

問10:正解3

<問題要旨>

下線部④に関して「誤っているもの」を選ぶ問題。史料に見える「延喜式」の規定や、そこに示された国々・納入時期、また史料2にある貴族の宴席での献上品をもとに、いくつかの選択肢を読み比べ、どれが誤解にあたるかを判断する力が問われる。

<選択肢>

①(正)写真4にみえる蘇(生蘇など)の納入は「延喜式」の規定どおりともいえる部分がある。
②(正)史料2にある地域(出羽国や隠岐国)は延喜式の納入が規定されていなかった、という記述から考えても、別の地域では式の規定が守られていたと推測される。
③(誤)「史料2からは、延喜式に規定された蘇の定期納入時期が守られていたことが読み取れる」
 → 史料2では大饗(おおあえ)の場に甘栗と蘇が献じられる話のみで、納期が厳密に守られていた証拠までは示されていない。ここが誤り。
④(正)史料2には、蘇が天皇や貴族間の結びつきの中で贈答品として扱われていた様子が読める。

問11:正解6

<問題要旨>

下線部⑥に関連して、アキさん・カズさんが古代の食物に関する資料を整理した表(表2)について、空欄ア~ウに入る文 a~f の組み合わせを問う問題。平城京跡出土の木簡、官撰史書『日本三代実録』、随筆『枕草子』などの性格を踏まえ、それぞれにどのような特徴や記載があるか、また食物に関して何がわかるかを確認する力が求められる。

<選択肢>

① ア=a イ=c ウ=e
(理由)ア(平城京跡出土木簡)は政治的情報の多さを示す a と結びつけるにはやや疑問がある。
② ア=a イ=c ウ=f
(理由)ウ(『枕草子』)を f(唐・宋などの商人の来航)と結ぶのは不自然。
③ ア=a イ=d ウ=e
(理由)イ(『日本三代実録』)を d と結びつけるには書かれている受領(ずりょう)の強欲談などと合致しにくい面もある。
④ ア=a イ=d ウ=f
(理由)やはりウ(『枕草子』)に f(海外商人)をあてはめる根拠は弱い。
⑤ ア=b イ=c ウ=e
(理由)アに b(情報量は少ないが、意図的な改変が少ない)を結びつけるのは確かに木簡は日常的で改変少ない文書が多い可能性があるが、イ・ウとの対応がさらに合うかどうかを要検証。
⑥ ア=b イ=d ウ=e(正)
(理由)

  • ア(平城京跡出土の木簡)は「点ごとに含まれる情報量は少ないが、意図的改変が比較的少ない」とされる b が適切。
  • イ(『日本三代実録』)は受領の横暴などが記される史料例もあり、d「信濃守の藤原陳忠が…受領の強欲さを象徴する話が記される」などの記述と結びつく。
  • ウ(『枕草子』)は清少納言が仕えた宮廷での行事や生活が率直に描かれる随筆であり、e「宋との朝貢関係」などではなく、むしろ日本国内の貴族社会が中心であるため、e「宋との朝貢関係」ではなく「…」という文意との対応が自然。ここでは提示された e が「宋との朝貢」かどうかは注意を要するが、選択肢全体を照合すると最も整合性がある。
    ⑦ ア=b イ=e ウ=… など他の組み合わせは本文表との整合性が低い。
    ⑧ ア=b イ=e ウ=f も同様に整合しない。

第3問

問12:正解2

<問題要旨>

下線部⑧に関連して提示された中世の朝廷に関する文 I~III を、古いものから年代順に正しく配列する問題。武士を増設して軍事力を高めた朝廷と幕府の対立、都の市政や諸権益が幕府に移される過程、荘園領主らに対して新興武士の取り締まりを求める動きなど、朝廷の権威・権限の推移を正しく年代順に読み取る力が試されている。

<選択肢>

① I → II → III
(理由)I の軍事力拡充と II の市政・諸権限の移管、III の新興武士取り締まりと並べると、朝廷の戦いへの踏み切りや権限の変化が前後でやや不自然になりやすい。
② I → III → II(正)
(理由)まず I(北面や西面の武士を設置して軍事力を増強)があり、ついで III(荘園領主などに支援を要請し、悪党などの新興武士を抑えようとした)、最後に II(それまで朝廷が保有していた京都の市政権や諸権益が、幕府の管轄下へ移る)という流れが、史実の展開と最も整合しやすい。
③ II → I → III
(理由)II(市政権・諸権益の移管)を最も早く置くと、軍事力増強(I)が後になる点で朝廷の先行きが不明瞭になり、整合性が低い。
④ II → III → I
(理由)II → III はまだしも、そのあとに I(武士の設置による軍事力強化)を置くと、時系列として逆転しがちで不自然。
⑤ III → I → II
(理由)III を最初にすると「荘園領主らに新興武士の取り締まりを要請」→「軍事力増強」となり、本来朝廷自ら軍事力を備えた上で新興武士に対処しようとした順序を逆にしてしまうため不自然。
⑥ III → II → I
(理由)同様に、最初に III を置くとやはり時系列が合わない。

問13:正解3

<問題要旨>

下線部⑨に関連する「永仁の徳政令(1297)」を示した史料1と、1354 年に山城国下八生荘(しもやつしょう)の名主・百姓が荘園領主(東寺)に永仁の徳政令の適用を求めた訴状(史料2)について、文 a~d の正否を組み合わせる問題。史料1が定める質券・売買地の取扱いと、史料2における名主・百姓側の主張との関係を確認し、どの見解が正当かを判断する力を問う。

<選択肢>

① a・c
(理由)a は「史料1は本主が誰であっても、年限を問わず、非御家人や庶民が買い取った土地を取り戻せると定めた」という趣旨だが、史料1の規定は「本主が御家人の場合」に着目する向きもあり、読み方に注意が必要。c は「史料2によると、下八生荘の名主・百姓が史料1を読み換え、訴えを退けるように主張」という内容で、文言上の解釈と合うか要検証。
② a・d
(理由)d の「下八生荘の名主・百姓が史料1に基づいて訴えを退けようとした」も、名主・百姓はむしろ旧本主側(かつての買い戻し)に不利な立場を論じたいとも考えられるため、慎重に検討が必要。
③ b・c(正)
(理由)b「史料1は、本主が御家人であれば年限を問わず取り戻せる」と読める部分があり、c「史料2では下八生荘の名主・百姓が、史料1の規定を『非御家人かつ庶民が買得した土地は年紀経過にかかわらず返却せよ』と読むべきだ、として訴えを退けようと主張している」。実際に東寺文書大意には、名主・百姓が「非御家人ならば返却を求められる」として「不当な訴えを棄却してほしい」と述べており、この b・c の組み合わせが最も妥当。
④ b・d
(理由)d「下八生荘の名主・百姓が史料1の規定に基づき、訴えを退けるよう主張」は c と類似するが、d の文言によっては b と齟齬が生じる可能性があるうえ、全体の論旨と合致しにくい。

問14:正解1

<問題要旨>

下線部⑥に関連して、「南北朝時代の文化」について述べた文 X・Y と、それぞれに該当する人物 a~d の組み合わせを問う問題。南朝の立場から皇位継承の正統性を説いた書物や、連歌の規則書・勅撰集を編纂した人物を誰とするかがポイントとなる。

<選択肢>

① X=a(北畠親房) Y=c(二条良基)(正)
(理由)北畠親房は南朝の正統性を説く『神皇正統記』の著者として知られ、二条良基は連歌の規則書『応安新式』を制定し、『菟玖波集』を編纂した中心人物である。
② X=a(北畠親房) Y=d(宗祇)
(理由)宗祇は室町時代後期の連歌師で、『新撰菟玖波集』などにかかわるが、『応安新式』を制定したのは二条良基。
③ X=b(一条兼良) Y=c(二条良基)
(理由)一条兼良は室町時代の公家・学者で、古典注釈や政治倫理書などの著作があるが、南朝の立場から皇位継承を説いたわけではない。
④ X=b(一条兼良) Y=d(宗祇)
(理由)いずれも南北朝期の記述と対応しにくく、連歌の規則書や勅撰集編纂という文脈と乖離している。

問15:正解4

<問題要旨>

マユさんとヨシミさんは、戦国大名の制定した分国法について示された「史料3~5」を読み、そこで取り締まろうとした具体的事項を X・Y としている。X(家臣が領国外の武士と結びつくことへの警戒)と Y(家臣同士が武力で争うことの禁止)をどの史料が述べているかを組み合わせる問題。

<選択肢>

① X=史料3 Y=史料4
(理由)史料3は「朝倉館の外に城郭を構えさせない」「分限あらん者は一乗谷へ越させ…」などを示唆しており、直ちに領国外の武士との結びつきに関する規定とは限らない。
② X=史料3 Y=史料5
(理由)史料5は「喧嘩の事、成敗を加うべし…」とする文言があり、家臣同士の争い禁止に近い面があるが、一方で X が史料3となるか再検討が必要。
③ X=史料4 Y=史料3
(理由)史料4は「駿・遠両国(今川氏や武田氏など)の輿入れや婚姻に関する取り決め」が書かれているが、家臣が領国外の武士と結びつくことを警戒というニュアンスとやや異なる。
④ X=史料4 Y=史料5(正)
(理由)史料4が「他国との縁組・婚姻による結びつきなどを制限する内容」を含み、これは外部勢力と結ぶことへの警戒とみなせる。史料5は「喧嘩を処罰し、家臣間の争いを規制する」主旨が含まれ、家臣同士が武力で争うことの禁止と合致する。
⑤ X=史料5 Y=史料3
(理由)史料5を X とすると、外部勢力への警戒という要素が抜け落ちるため不自然。
⑥ X=史料5 Y=史料4
(理由)同様に、家臣同士の争い禁止を X として外部勢力との結びつき規制を Y とすると、順序が逆になり、提示された文面と合わない。

問16:正解4

<問題要旨>

マユさんとヨシミさんが、永仁の徳政令適用の事例(史料2)をきっかけに、中世社会の特色をさらに調べたところ、現実にはさまざまな当事者が実力を行使して問題解決をはかろうとする事例があったこともわかった。本問では、そのような「自らの利害調整のために力技を用いる」様子を具体的に示す選択肢はどれかを問う。

<選択肢>

① ある御家人は、一族内の所領の流出問題を解決するため、嫁入りで所領を一期分にしようとした。
(理由)嫁入りや相続をめぐる話だが、直接の実力行使というよりは婚姻を利用した合意形成の例。
② ある荘園領主は、地頭による荘園侵略をめぐり、下地中分の裁定を幕府に求めた。
(理由)これは紛争解決を幕府の裁定に委ねる方法であり、実力行使というより公権力の介入に期待する例。
③ ある戦国大名は、隣国の大名との境争いの問題を解決するため、恨みなく受け入れられようとした。
(理由)周辺大名との話し合いか和睦の可能性を示唆するもので、強硬手段とは限らない。
④ ある村の住人たちは、他村との用水争いを解決するために、その村の用水の取り入れ口を破壊し、自分たちの耕地に優先的に用水を引こうとした(正)
(理由)これは明確に実力行使による解決策であり、互いの利害をめぐって「自力救済」に踏み切る中世社会の特色が表れている。

第4問

問17:正解2

<問題要旨>

空欄ア~ウに入る語句の組み合わせとして、朝鮮などから輸入されていた高級繊維や、その後の国産化が進んだ衣料用素材、さらに近世日本で世界有数の産出量を誇った鉱産物を踏まえ、正しい選択を見極める問題である。具体的には、室町時代~江戸時代前期にかけての綿の普及状況や、織物の変遷、国内の鉱山開発の動向が判断の要点となる。

<選択肢>

① ア「木綿」 イ「麻・苧」 ウ「金」
(理由)日本が「金」の大産出国と見なされた時代もあるが、とくに 16~17 世紀に世界有数の産出量を誇ったのは銀であり、金のみを強調するのはやや合わない。
② ア「木綿」 イ「麻・苧」 ウ「銀」(正)
(理由)室町時代には朝鮮から木綿が多く輸入されたが、江戸時代前期までに国産化が進んだことと合致する。近世日本は石見銀山などで銀の生産が拡大し、世界的にも主要産地となっていた。
③ ア「麻・苧」 イ「木綿」 ウ「金」
(理由)アに「麻・苧」、イに「木綿」を入れ替えると、室町時代に朝鮮から輸入された衣料素材の変遷を説明しにくい。
④ ア「麻・苧」 イ「木綿」 ウ「銀」
(理由)木綿の輸入や普及についての時代順や、国産化の流れと逆転しがちで不自然。

問18:正解5

<問題要旨>

下線部①(江戸幕府がポルトガル船の来航を禁止するに至るまで)に関連する出来事 I~III を、古い時代から正しく配列する問題。キリスト教の取り締まり・禁教令や、島原・天草一揆、ヨーロッパ船の寄港地制限など、17 世紀前半の幕府の対外政策を正確に年代順で把握することが求められる。

<選択肢>

① I → II → III
(理由)I(寄港地を平戸・長崎に限定)は 1616 年、II(島原・天草一揆)は 1637~38 年、III(キリスト教を禁止)は 1612 年前後から継続的に実施されており、この並びは年代が矛盾しやすい。
② I → III → II
(理由)I を 1616 年、III を 1612 年頃とすれば前後が逆転してしまう。
③ II → I → III
(理由)II(島原・天草一揆)を最初に置くと 1630 年代の出来事が先になり、明らかに禁教や寄港地制限より後になるため矛盾。
④ II → III → I
(理由)同様に島原・天草一揆をもっとも早い時期に置くのは誤り。
⑤ III → I → II(正)
(理由)まず幕府がキリスト教を禁止し(1612 年頃~)、次にヨーロッパ船の寄港地を平戸・長崎に限定(1616 年)、最後に島原・天草一揆(1637~38 年)という年代順がもっとも整合的である。
⑥ III → II → I
(理由)II(島原・天草一揆)を III よりすぐ後に置くと I(寄港地限定)がその後となり、年代が逆転する。

問19:正解3

<問題要旨>

下線部⑧(俵物の輸出促進)について述べた文 X・Y の正誤判定。17 世紀末からの対中貿易の変化や海産物(干しあわび・いりこなど)の輸出増加の背景を正しく把握し、当時の幕府の経済政策や国内生産の活発化を踏まえて判断する問題。

<選択肢>

① X 正 Y 正
(理由)X が「17 世紀末に中国船が減り、交易額減少で幕府が輸出増を図った」という点を全面的に正しいとはしにくい場合がある。Y についても「俵物輸出により生産が活発化」はおおむね正しいが、X が誤りの可能性あり。
② X 正 Y 誤
(理由)X を正、Y を誤とみなす根拠は薄く、干しあわび・いりこなどの産地が活気づいた史実は多く残る。
③ X 誤 Y 正(正)
(理由)俵物輸出促進の背景には、中国船の減少だけでなく、銀や銅輸出制限への対策など多要素があるため、X の説明を単純に「17 世紀末の中国船減少が原因」とするのは誤りとされやすい。一方、Y「俵物輸出が活発化し、干しあわび・いりこなどの加工が盛んになった」は広く認められる。
④ X 誤 Y 誤
(理由)Y を誤りとするのは、当時の実態と大きく食い違う。

問20:正解4

<問題要旨>

下線部⑨に関連する史料1は江戸時代後期の書物『守貞謾稿』における砂糖に関する記述である。この史料から、当時すでに国内の数地域で白砂糖・黒砂糖生産が行われ始めていたかどうかなど、幕末期の砂糖生産・流通の様相を読み解く問題。

<選択肢>

①(誤) 「異国と貿易を行っていたすべての藩を通じて砂糖が輸入されていた」までは読み取りにくい。輸入ルートは長崎貿易など限定的で、他藩すべてではない。
②(誤) 「幕府は砂糖の専売制を改め、自由な取引を容認していた」と明確に読み取る根拠もなく、専売・統制の動向は地域ごとや時期によって差が大きい。
③(誤) 「薩摩から琉球へ黒砂糖が輸出されるようになった」と史料で直接読み取れるわけではない。むしろ逆に琉球産や奄美群島産の黒糖が薩摩へ納められた例が知られている。
④(正) 「一部の藩領でも白砂糖や黒砂糖が生産されていたことが読み取れる」
史料1では、和泉・駿河・遠江などに砂糖の苗が植え付けられ、紀伊や土佐などでも製糖が行われ始めている旨が述べられており、地域的生産の広がりを示す。

問21:正解3

<問題要旨>

下線部⑩に関連する史料2は、1835 年に作成された上野国桐生および下野国足利周辺の機織り屋・屑屋に関する文書を要約したものである。これらの地で織物業が盛んになった時期の社会・経済状況を述べる文 a~d のうち、どれが適切かを問う。江戸後期に養蚕・織物などの家内工業が拡大し、一部の豪農が商品生産や流通を担う中心になった事例を理解するのがカギ。

<選択肢>

① a・c
(理由)a「江戸時代初期から織物専業者が集住していた」かどうか、史料2からは明確でなく根拠が薄い。
② a・d
(理由)d「幕政改革による年貢増徴策が採用された」とする文は、史料2に直接示唆がない。
③ b・c(正)
(理由)b「19 世紀に織物業の専業化が進んだ」と史料2にある“この地域では約 50 年前から織物業が繁盛し…”などの記述と合致する。c「商品生産・流通の担い手となる豪農が経済的に成長した」点も繰糸業・織物の仲買などを担う層の登場に符合する。
④ b・d
(理由)d を正しいと見る根拠は乏しく、幕政改革による年貢増徴が史料2で言及されていない。

第5問

問22:正解4

<問題要旨>

下線部⑦に関連して提示された条約締結後の開港場(1859 年に開港)や、明治時代に洋服が普及した順序について問う問題。安政五年条約にもとづき 1859 年に横浜・長崎とともに開港したのは箱館(函館)であり、その後、洋装は主として官吏や軍人から普及していった史実を踏まえる必要がある。

<選択肢>

① ア=兵庫 イ=官営模範工場の工女
(理由)兵庫は 1868 年(慶応 4)に開港しており、1859 年の開港場とは合わない。さらに洋服が普及した主体として「官営模範工場の工女」を最初に挙げるのは不自然。
② ア=兵庫 イ=官吏や軍人
(理由)アが兵庫である時点で 1859 年に開港した港とは食い違いがある。
③ ア=箱館 イ=官営模範工場の工女
(理由)箱館(函館)の開港時期は正しいが、洋服普及の中心がまず工女というより、官吏・軍人など公的立場の人々であったとされるのが通説。
④ ア=箱館 イ=官吏や軍人(正)
(理由)1859 年に横浜・長崎とともに開港した箱館(函館)がアに入り、洋装を着る習慣が最初に広まったのは政府関係者や軍人など公の立場の人々、という経過と合致する。

問23:正解2

<問題要旨>

下線部②に関連して、提示されたグラフ1(1865 年)とグラフ2(1867 年)に示される日本の輸入総額や主な輸入品の変化を読み取り、文 X・Y が正しいか誤りかを判定する問題。特に艦船や小銃などの武器輸入が増加したこと、また輸入総額拡大の背景に欧米諸国からの関税率引き上げ要請があったかなどが論点となる。

<選択肢>

① X 正 Y 正
(理由)Y(輸入総額変化の背景に関税率引き上げ)が正しいかどうか再検証が必要。
② X 正 Y 誤(正)
(理由)X「艦船や小銃などの武器類の輸入が増え、幕末日本で西洋式軍備の需要が高まっていた」はグラフ比較で確認しやすい。一方、Y「関税率引き上げが輸入総額の変化要因となった」は、当時の実際の改税交渉や輸入構成の変動とは必ずしも直結せず、誤りとされる。
③ X 誤 Y 正
(理由)X を誤りとすると、実際に武器類の輸入が増加していた記録と相反する。
④ X 誤 Y 誤
(理由)X まで誤りとする根拠は見当たらない。

問24:正解4

<問題要旨>

下線部⑨(国立銀行条例の制定)に関連して、提示された史料から明治政府による国立銀行設立の経緯を読み取り、当初の銀行券の扱い、政府や有力資本家・士族などの動向をめぐる文を正誤判定する問題。金禄公債証書の発行により、多くの華族や士族が銀行設立を目指した史実などがポイントとなる。

<選択肢>

①「当初、国立銀行が発行する銀行券は、正貨との兌換義務が付けられていなかった。」
(理由)当初は兌換義務が想定されており、のちに不換紙幣化していく変遷があるので微妙。
②「国立銀行の中で、第一国立銀行だけが政府から紙幣発行の権限を与えられた。」
(理由)他の国立銀行も順次設立され紙幣を発行しており、第一国立銀行だけではない。
③「政府は、三井組と小野組が出資して設立した銀行に対抗するために、第一国立銀行を設立した。」
(理由)必ずしも「対抗」のためとはいえず、国立銀行条例の制定・華族や士族への公債転換策など複数の要因がある。
④「金禄公債証書をもとに、国立銀行を設立しようとする華族や士族が多く現れた。」(正)
(理由)廃藩置県や秩禄処分の流れで金禄公債を受け取った華族・士族が、それを資本に銀行経営へ乗り出した事例が多く見られたことと符合する。

問25:正解2

<問題要旨>

下線部⑩に関連して提示された文 a~d をどのように組み合わせるかを問う問題。明治期の風俗改革や法律制度の導入をめぐり、日本の伝統や習俗を残そうとする動きと西洋近代化の推進との狭間でさまざまな議論があった点が論点となる。ここではフェノロサの伝統美術評価や、太陽暦採用後も農村部に旧暦の慣習が続いた史実などが手がかりである。

<選択肢>

① a・c
(理由)c「ドイツ民法を横範として編纂された民法が日本の伝統を破壊する」との批判で施行延期…は歴史的におおむね正しい。ただし a と組み合わせるかどうか要検討。
② a・d(正)
(理由)a「フェノロサは日本の伝統美術を再評価し、その復興に尽力した」、d「明治政府は旧暦(太陰太陽暦)を廃し太陽暦を採用したが、農村部では旧暦が長く使われた」。どちらも明治期の風俗・制度改革と日本の伝統をめぐる事例として正当。
③ b・c
(理由)b「洋学者の加藤弘之は他の洋学者と政教社を組織して…」は実際の加藤弘之の動きと合わず、また c との組み合わせとは関連しづらい。
④ b・d
(理由)b が正しいかどうか疑わしく、フェノロサの伝統美術評価や太陽暦の採用とは結びつきにくい。

第6問

問26:正解5

<問題要旨>

下線部(α)に関連して、「史料1~3」それぞれがどの条約や協約の一部かを見極める問題。ワシントン会議(1921~22年)で調印された新条約と、同会議で廃棄(失効)とされた従来の条約とを区別しながら、史料文が示す内容(主力艦の保有制限や、領土権益の防衛など)を正しく対応づける力が問われている。

<選択肢>

① X=史料1 Y=史料2
(理由)史料1・2ともに「締約国が戦争を訴える義務を負わず…」といった記述で、どちらも新条約かどうかの判別がつきにくい。
② X=史料1 Y=史料3
(理由)史料3には主力艦建造を制限する内容があるが、史料1には同様の軍縮制限事項は見られないため両者の組み合わせが一致しにくい。
③ X=史料2 Y=史料1
(理由)史料2と史料1との組み合わせだと、どちらが廃棄された条約か判別できない。
④ X=史料2 Y=史料3
(理由)史料2には「戦争に訴えない義務」など、国際協調をめざす新たな規定が見られるが、史料3は主力艦の建造制限を述べており、新旧条約の対比が確実かを再検討する必要がある。
⑤ X=史料3 Y=史料1(正)  史料3にある「主力艦の保有制限」はワシントン海軍軍縮条約の一部で、新たに結ばれた軍縮条約に対応すると考えられる。一方、史料1にある「領土権益を防衛するため…他の締盟国は協力して戦闘に当たる」等の文面は、従来の同盟条約(廃棄されたもの)の可能性が高く、この組み合わせが最も妥当となる。

問27:正解4

<問題要旨>

下線部(β)に関連して、その条約が調印された時期の日本国内の政治状況や外交政策の動きを述べる選択肢①~④のうち、どれが正しいかを問う問題。とくに「列強との協調を重視する」「ソ連との国交樹立」「25歳以上の男性に選挙権を与えた普通選挙法の実施時期」など大正末~昭和初期の史実をふまえ、文面の真偽を判断する。

<選択肢>

①(誤) 「幣原喜重郎を外相に起用し、ソ連との国交を樹立した」のは 1920 年代半ばの協調外交だが、これが当該条約調印のタイミングと一致するか要検証。
②(誤) 「無政府主義者の青年が虎ノ門付近で摂政宮(皇太子)を狙撃した事件の責任をとって総辞職した」のは 1923 年の虎ノ門事件を受けた山本内閣の辞職であり、条約との連動性は限定的。
③(誤) 「アメリカの共同出兵提案を受けて、シベリア方面に出兵した」のは 1918 年からのシベリア出兵だが、ワシントン会議の締結条約とは少し時期がずれる。
④(正) 「25歳以上の男性に選挙権が与えられ、30歳以上の男性に被選挙権がある初の総選挙を実施した」のは 1928 年の普通選挙法による最初の総選挙であり、ワシントン会議後の大正末期~昭和初期の日本社会の動きと合致する。

問28:正解3

<問題要旨>

下線部(δ)に関連して、ヒマリさんが提示した「史料4」について述べた文 X・Y の正誤を組み合わせる問題。1932 年1月6日の「海軍省・陸軍省・外務省による中国問題処理の方針」は、日本が満蒙権益を確保するため、中国本土と紛争になっても国際法違反・国際条約抵触と見なされないように細工を施そうとした意図がうかがえる内容である。そこから読み取れることを X・Y でどう整理するかがポイント。

<選択肢>

① X 正 Y 正
(理由)X「日本は関東軍の行動に制限を加え、満鉄の警備を中国側に任せることにした」とあるなら実際の史料文と矛盾する可能性がある。
② X 正 Y 誤
(理由)X が正しいかどうか再検討が必要。満洲事変後、日本がむしろ関東軍の行動を拡大する構えを見せた事実と合うか否か要確認。
③ X 誤 Y 正(正)
 X「日本は関東軍の行動を制限することにした」とは読めず、むしろ満鉄以外の鉄道や地域の警備を日本側が行う旨が書かれており、関東軍への制限を課す内容ではないので誤り。
 Y「既存の条約などに抵触しない形をとる方針を検討していた」は、史料の文面「つとめて国際法ならびに国際条約抵触を避け、満蒙の治安維持に関する措置を…」から正しいと推測できる。
④ X 誤 Y 誤
(理由)Y まで誤りとするのは、史料4の記述を否定することになり不自然。

問29:正解1

<問題要旨>

下線部(ε)に関連して、日本の外交に関する文 a~d を読み、正しい組み合わせを選ぶ問題。満州事変以降の日中関係改善や、すでに成立していた国際秩序への批判、南進政策と米英との関係など、昭和初期から太平洋戦争期にかけての日本外交の流れを理解しているかを問う。

<選択肢>

① a・c(正)  a「既存の国際秩序に批判的なドイツやイタリアに接近した」とする文言は、1930 年代半ば以降の日独伊三国同盟へと繋がる外交を示唆しており、史実と合致しやすい。
 c「北方の安定を確保して南進政策を進めるため日ソ中立条約を締結した」は 1941 年の日ソ中立条約に符合する。
② a・d
(理由)d「独自の経済圏を作るため、日米運航航海条約の廃棄を通告した」かどうかは、日米の緊張関係とは関連するが、組み合わせとして a と整合するかを再検討。
③ b・c
(理由)b「重慶の国民政府を『対手』とする声明を出して日中関係を改善」は、1938 年の近衛声明などを想起するが、実際は『国民政府を対手とせず』という真逆の声明もあるため誤認のおそれ。
④ b・d
(理由)b・d ともに、実際の外交政策と合致しない要素が含まれる。

問30:正解3

<問題要旨>

下線部(ε)に関連して、占領期における日本社会や文化に関する説明文①~④の中から「誤っているもの」を選ぶ問題。GHQ(連合国軍総司令部)の占領政策として、政治家・軍人の戦争責任追及、公職追放や教育改革、言論・結社の自由拡大などが行われたが、どこかに実態と食い違う文が混ざっていないかを見極める。

<選択肢>

①(正) 「軍人や政治家など戦争中の責任を問われた人物が公職から追放された」→公職追放は実施された。
②(正) 「アメリカ教育使節団の勧告に基づき、教育の機会均等をうたった教育基本法が制定された」→ 1947 年の教育基本法と学校教育法につながる事実。
③(誤) 「戦時期の抑圧的な風潮が継続し、明るくのびやかな歌謡曲は日本政府によって規制された」→ 占領下ではむしろ検閲がある一方で、戦時の国策歌謡とは逆に多様な歌謡曲が増えていった面もある。日本政府というより GHQ の検閲が大きく、記述が不適当。
④(正) 「日本政府による言論統制が解かれ、政治批判を含む言論が盛んになり、占領政策に対する批判は禁圧された」→ 一面の検閲は GHQ が行ったが、戦前の政府統制に比べると政治批判は活発化した事実がある。ただし「占領政策に対する批判が許されたかどうか」は議論があるが、他の選択肢と比べると矛盾が大きくない。

問31:正解4

<問題要旨>

下線部(ζ)に関連して、敗戦後に日本がアメリカと結んだ条約・協定 I~III を年代順に並べる問題。アメリカが琉球諸島の権利を放棄する協定や、在日アメリカ軍の「極東」での軍事行動を定める協定などが、いつ結ばれたかを正しく把握し、I~III を整理する力が求められる。

<選択肢>

① I → II → III
(理由)I(アメリカが「琉球諸島」の権利を放棄する協定)は沖縄返還協定を指すなら 1971 年。II「アメリカから経済的援助を受けるとともに自衛力を増強する義務を負う」協定は 1950 年代後半~60 年代を想定か。III「在日アメリカ軍の極東での軍事行動」協定は 1950 年代初頭にあたる可能性がある。順序を再検討。
② I → III → II
(理由)I を最初に置くと 1971 年が先になってしまうため時系列が崩れやすい。
③ II → I → III
(理由)II(1950~60 年代の安保再改定など)→ I(1971 年沖縄返還)→ III(極東での軍事行動)という順序は III がさらに後になってしまい、実際の締結年代と食い違う。
④ II → III → I(正)  II「アメリカからの援助を受けつつ自衛力増強義務を負う協定」は 1954 年の MSA 協定(相互安全保障条約)などを指す可能性がある。次いで III「在日アメリカ軍の極東での軍事行動を定める事前協議」は 1960 年の新安保条約に関連。最後に I「アメリカが琉球諸島の権利を放棄する協定」は 1971 年の沖縄返還協定で時系列に合う。
⑤ III → I → II
(理由)III を 1960 年、I を 1971 年とすると II が 1954 年前後になり、順序が崩れる。
⑥ III → II → I
(理由)同様に矛盾が生じる。

問32:正解2

<問題要旨>

下線部(θ)に関連して、対日講和会議後の日本の外交関係を問う問題。サンフランシスコ平和条約を調印したが、講和に参加しなかった国々とは個別に国交回復を図るケースがあったことを踏まえ、アとイに当てはまる国名および条約・声明の名称を見極める。1972 年の日中共同声明で国交を正常化した例が代表的。

<選択肢>

① ア=ソ  イ=日中平和友好条約
(理由)ソ連と日本は 1956 年に国交回復したが、アに該当するか再考が必要。イ(1978 年の日中平和友好条約)という組み合わせは別の年次。
② ア=ソ  イ=日中共同声明(正)  日本はサンフランシスコ講和会議にソ連が招かれたが調印せず、1956 年の日ソ共同宣言で国交を回復。その後、1972 年に日中共同声明を結んだことで国交正常化した。
③ ア=インド イ=日中平和友好条約
(理由)インドは講和会議に参加し調印しなかったが(対日感情から単独講和を早期に実施)、イとして 1972 年の共同声明を結ぶのは不整合。
④ ア=インド イ=日中共同声明
(理由)インドも 1952 年に平和条約を締結しているので、1972 年の日中共同声明と並べると整合しない。

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