2026年度 大学入学共通テスト 追試験 歴史総合 解答・解説

2026年度 大学入学共通テスト 追試験「歴史総合」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。

目次

解答

解説

2026年度大学入学共通テスト追試験の歴史総合は、満点50点・試験時間30分で、第1問(配点25)・第2問(配点25)の2大問、全16問がすべて必答です。解答番号が1ではなく101から116で始まるのは、地理総合・歴史総合・公共の3科目が1冊100点満点の問題冊子にまとめられているためで、受験生はこの3科目のうちから2科目を選び、計60分で解答します。

第1問は「人々にとっての様々な戦争経験」を主題とし、A(問1〜問4)が近代における軍隊と人々の関係を、フランス・プロイセン(ドイツ)・日本の徴兵制、西南戦争での士族徴募をめぐる岩倉具視と木戸孝允の意見、フランス領西アフリカの兵役義務と市民権、甲午農民戦争の性格から問います。B(問5〜問8)は現代の戦争が各地の社会に与えた影響に移り、大西洋憲章とチャーチルの植民地観、総力戦下の日本とアメリカ合衆国の女性労働、国家の正規軍以外の主体が関わる戦争の年代配列、探究課題と資料の対応を扱います。第2問は「歴史における旅とその役割」を主題とし、A(問1〜問2)が宗教と旅(江戸時代の伊勢参りと近代のメッカ巡礼)、B(問3〜問5)が指導者の旅(イブラヒムのユーラシア旅行、ダライ=ラマ13世の亡命、王族・皇族の訪問と外交関係)、C(問6〜問8)が移動の自由化(1964年の海外旅行自由化、プラザ合意とシェンゲン協定、班活動のまとめ)です。第1問は「歴史総合,世界史探究」の第1問、第2問は「歴史総合,日本史探究」の第1問と同一の問題ですから、これらを併願する受験生は同じ問題を二度解かないよう解き分けてください。

この回でつまずきやすいのは、選択肢が指す時期のずれです。「植民地帝国が解体する中で」(第二次世界大戦後)を19世紀の徴兵制の説明に混ぜる、神武景気(1954〜57年)を1965年以降の統計表の時期に持ち込む、シェンゲン協定の実施(1995年)と東西ドイツ統一(1990年)の前後を入れ替えるといった作りが並びます。統計表の設問は計算が決め手で、1965年の観光目的の渡航者は163,000人×29%=約4万7千人で10万人に届かず、商用目的は割合が48%→26%→14%と下がる一方で実数は約7万8千人→約25万人→約44万人と増えている、というように割合と実数を分けて押さえる必要があります。なお第2問問3で参照が求められているイブラヒムの経路を示した地図は、歴史総合の問題冊子では省略されており、同じ設問は「歴史総合,日本史探究」では地図とともに第1問問3として出題されています。当サイトの解説は、その地図に示された経路(シベリア方面を出発して大陸を東へ横断し、満洲から日本列島へ渡り、中国沿岸に戻って南下、東南アジアとインド亜大陸を西へ進み、アラビア半島を北上して地中海東岸に至る)に基づいて通過順を説明しています。

第1問 徴兵制と総力戦——人々の戦争経験(配点25)

歴史総合の授業で「人々にとっての様々な戦争経験」という主題を立てた生徒たちの会話文・資料・メモをもとにした大問です。A(問1〜問4)は近代における軍隊と人々の関係を、フランス・プロイセン・日本の徴兵制、西南戦争での士族徴集をめぐる岩倉具視と木戸孝允の意見、フランス領西アフリカの兵役と市民権、甲午農民戦争から問います。B(問5〜問8)は現代の戦争が各地の社会にもたらした影響を、第二次世界大戦期の風刺画、日米の女性労働、正規軍以外の主体が関わる戦争、探究課題と資料の対応から問います。

問1:正解 ①(解答番号101/配点3)

<問題要旨>

フランス・プロイセン・日本の徴兵制について生徒が話し合う会話文で、プロイセンで1867年に徴兵制を整備した首相の名(ア)と、フランスとドイツの徴兵制の確立について会話文からまとめられる内容(イ)の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

人名は在任した国と時期で、イは徴兵制が広がった歴史的文脈で決まります。ビスマルクは1862年にプロイセン首相となり軍制改革を進めた人物で、1867年という年と在任期間が一致します。イについては、フランスが革命期の導入から第三共和政期の確立へ、ドイツがプロイセン中心の統一からドイツ帝国全体への拡大へと進んだという会話文の流れを、国民国家の形成と結び付けます。

<選択肢>

ア=ビスマルク【正】

1862年からプロイセン首相を務め、議会の反対を押し切って軍制改革を推し進めた人物。1867年という年に在任しており、その徴兵制がドイツ帝国全体へ拡大されたという記述ともつながる。

ア=メッテルニヒ【誤】

ウィーン体制を主導したオーストリアの宰相で、1848年の三月革命で失脚している。国が異なるうえ、1867年にはすでに政治の舞台を去っており、主体と時期の二重の入れ替えになっている。

イ=国民国家の形成に伴って確立された【正】

フランスは革命の際に徴兵制を導入し、プロイセンとの戦争を機としたナショナリズムの高まりの中で第三共和政期に確立した。ドイツも統一の戦争を経てドイツ帝国全体へ拡大しており、どちらも国民国家がつくられる過程と重なる。

イ=植民地帝国が解体する中で確立された【誤】

植民地帝国の解体が本格化するのは第二次世界大戦後であり、19世紀後半の徴兵制確立とは時期が合わない。会話文でも各国は確立した軍隊を用いて植民地獲得に乗り出したとされており、因果が逆になっている。

正解【①】

1867年のプロイセン首相はビスマルクで、フランスとドイツの徴兵制はいずれも国民国家形成の過程で確立したので、①が正解です。

問2:正解 ②(解答番号102/配点3)

<問題要旨>

西南戦争で士族を徴集するかどうかをめぐる岩倉具視の意見(資料1)と木戸孝允の意見(資料2)が示され、そこから読み取れる事柄や背景について述べた4つの文あ〜えのうち、正しいものの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

資料は書かれている語句をそのまま使って判定し、残りは日本の徴兵制と西南戦争の基本事項に戻します。岩倉は、兵員不足となる場合にはやむを得ないとしたうえで、東京で強壮な人員を徴集して訓練し出発させることを提案しており、兵員増強の提案として読めます。木戸が懸念したのは、薩摩を討ってもまた別の小薩摩のような存在を生み出すという国内の問題であり、外国勢力の侵略ではありません。

<選択肢>

あ【正】

岩倉の意見は、にわかに士族を徴募することの危うさを認めつつ、兵員不足となる場合にはやむを得ないとして、東京で強壮な人員を徴集し訓練して出発させることを提案している。士族の徴募による兵員増強の提案という理解でよい。

い【誤】

木戸が挙げた理由は、薩摩を討ってもまた別の小薩摩のような存在を生み出してしまうという国内の反乱勢力の再生産である。懸念の対象を国内から国外へすり替えた誤り。

う【誤】

西南戦争の反乱軍の主力は、私学校に集まった鹿児島の士族であって、徴兵制に基づく軍隊ではない。徴兵制に基づく政府軍と反乱軍を取り違えた、主体の入れ替えによる誤り。

え【正】

1873年の徴兵令は四民平等の理念のもとで、士族と平民の区別なく兵役の義務を課すものであった。だからこそ、士族だけを臨時に徴集することが兵制を破るものとして問題になった。

正解【②】

あと えが正しいので、②が正解です。

問3:正解 ③(解答番号103/配点3)

<問題要旨>

フランス領西アフリカのセネガルの4都市の住民について、市民権と兵役義務の関係をまとめたノートと、1916年9月29日にフランス本国の国会で成立した法律(資料3)をもとに、ノートの空欄に入る語句(ウ)と、ディアニュのような植民地の人々の行動を述べた文(エ)の組合せを選ぶ設問です。資料3は問題冊子では省略されています。

<考え方>

ウは1916年という年と、フランスが兵力不足に直面したというノートの記述で決まります。清仏戦争は1884年から85年で、20世紀初頭に続く記述の流れにも兵力不足という状況にも合いません。エは、兵役義務を果たさなければ市民権を持てない状況が生じていたという条件と、ディアニュが黒人として初めて本国の国会議員となり法律を成立させたという事実を重ねれば、戦争協力を通じて権利を獲得する方向だと決まります。

<選択肢>

ウ=第一次世界大戦【正】

1916年に成立した法律であり、その直前にフランスが兵力不足に直面したという記述と合う。総力戦の下で植民地からの動員が拡大した時期でもある。

ウ=清仏戦争【誤】

1884年から85年の戦争で、1916年という年や20世紀初頭という時期の記述に合わない。時期の入れ替えによる誤り。

エ=政治的権利の獲得のために戦争に協力し【正】

兵役義務を果たさなければ市民権を持てない状況にあったため、兵役を引き受けることが権利の獲得につながる。ディアニュが本国の国会という制度の内側で法律を成立させたという行動とも一致する。

エ=動員に反発して宗主国に対する反乱を企て【誤】

ディアニュは本国の国会議員となって法律を成立させており、宗主国の制度の内側で行動している。反乱を企てたとするのは、行動の方向を正反対にした誤り。

正解【③】

ウは第一次世界大戦、エは政治的権利の獲得のために戦争に協力したという内容になるので、③が正解です。

問4:正解 ④(解答番号104/配点3)

<問題要旨>

甲午農民戦争の性格と、それと同様の性格を持つと考えられる他の事例、その事例が起こった地図中のおおよその地域a〜cの3つを組み合わせて選ぶ設問です。地図には日本列島を囲むa、大陸側の中国北部を囲むb、台湾を囲むcが示されています。

<考え方>

まず甲午農民戦争の経過に戻ります。1894年、朝鮮政府が反乱の鎮圧のため清に援軍を求め、これに対抗して日本も出兵したので、外国軍の軍事介入があった戦争です。同じ性格を持つのは列強8か国の連合軍が出兵した義和団戦争で、戊辰戦争に外国軍の軍事介入はありません。義和団の運動は山東から北京周辺へ広がった中国北部の出来事なので、地図では大陸側のbが対応します。

<選択肢>

①【誤】

甲午農民戦争の性格の判断が誤り。清と日本の出兵を招いており、自国の軍隊のみで終結していない。

②【誤】

性格の判断が誤りであるうえ、外国軍の軍事介入がなかった戊辰戦争は同様の性格を持つ事例にならない。

③【誤】

性格の判断が誤りで、さらに戊辰戦争は日本国内の戦いなので、大陸側のbという地域にも当たらない。

④【正】

甲午農民戦争は外国軍の軍事介入があった戦争であり、8か国連合軍が介入した義和団戦争が同様の性格を持つ。義和団戦争の舞台は山東から北京周辺の中国北部で、大陸側を囲むbに当たる。

⑤【誤】

性格と事例は正しいが、地域の判断が誤り。cは台湾を囲んでおり、義和団の運動の舞台ではない。

⑥【誤】

戊辰戦争に外国軍の軍事介入はなく、事例の選択が誤り。台湾を囲むcも戊辰戦争の舞台ではない。

正解【④】

外国軍の軍事介入という性格、義和団戦争という事例、中国北部のbという地域がそろう④が正解です。

問5:正解 ④(解答番号105/配点3)

<問題要旨>

第二次世界大戦中の1943年4月17日の新聞に掲載された風刺画をもとにしたパネルについて、パネルの空欄に入る文(オ)と、風刺画が描くチャーチルの考え(XかY)の組合せを選ぶ設問です。風刺画は問題冊子では省略されています。

<考え方>

オは、チャーチルの考えを論じる枠組みであることと、2つの文の内容で決まります。「五族協和」を掲げて独立国を建国する趣旨を述べたものは1932年の満洲国に関わるもので、イギリスの首相と結び付きません。戦争目的と戦後世界の共通原則を示し、後に国際連合の礎となったものは1941年の大西洋憲章で、チャーチルがローズヴェルトとともに発表したものです。チャーチルは大西洋憲章の民族自決をドイツの占領下に置かれたヨーロッパに限ると説明し、インドなど自国の植民地への適用を認めなかったので、描かれている考えはYになります。

<選択肢>

オ=「五族協和」を掲げ、独立国を建国する趣旨を述べたもの【誤】

「五族協和」は1932年に建国された満洲国が掲げたスローガンで、イギリスの首相であるチャーチルの考えを論じる枠組みに合わない。主体の入れ替えによる誤り。

オ=戦争目的と戦後世界の共通原則を示して、後に国際連合の礎となるもの【正】

1941年の大西洋憲章にあたる。チャーチルとローズヴェルトが連名で発表し、領土不拡大や民族自決などの原則を示して、後の国際連合憲章につながった。

X【誤】

チャーチルは大西洋憲章の民族自決をドイツの占領下に置かれたヨーロッパの諸民族に限ると説明し、インドをはじめ自国の植民地への適用を認めなかった。普遍的な適用を追求していたとするのは実際と逆である。

Y【正】

イギリス帝国の維持を前提とするチャーチルの立場は、アジア・アフリカの人々を植民地支配から解放することには否定的であった。大西洋憲章を掲げながら植民地支配を続ける姿勢が風刺の対象になっている。

正解【④】

オは大西洋憲章にあたる い、チャーチルの考えはYなので、④が正解です。

問6:正解 ③(解答番号106/配点3)

<問題要旨>

戦争終結に伴う復員者への対策を述べた1945年11月の日本政府の文書(資料4)と、アメリカ合衆国の業種別女性労働者数を1940年・1944年・1950年で比べたグラフが示され、そこから読み取れる事柄や、その背景について最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

グラフは数値で切ります。製造業の女性労働者数は1940年の約250万人から1944年には約560万人へと倍以上に増えており、1944年が第二次世界大戦の最中であることを重ねれば、総力戦の下での動員が背景だと判断できます。残りは、日本の女性参政権の実現時期、アメリカ合衆国の女性参政権の実現時期、そして文書が何を目指したものかで判定します。

<選択肢>

①【誤】

日本で女性議員が誕生したのは、女性参政権が認められた後の1946年4月の総選挙である。1945年11月の時点ではまだ誕生しておらず、時期の前後が入れ替わっている。

②【誤】

資料4は、現在就職している女子などを家庭に復帰させ、その代わりに復員者を就職させるという内容で、性別役割分業を前提として強める方向である。目指したものを正反対に読み替えた誤り。

③【正】

製造業の女性労働者数はグラフで1940年の約250万人から1944年には約560万人へ増えている。1944年は第二次世界大戦中であり、男性が軍に動員された分の労働力を女性が担ったという総力戦下の動員が背景と考えられる。

④【誤】

アメリカ合衆国で女性参政権が実現したのは1920年の憲法修正第19条によるもので、第二次世界大戦より前である。総力戦の結果として戦後に実現したとするのは時期の入れ替えになる。

正解【③】

1944年に製造業の女性労働者数が大きく伸びた背景を総力戦下の動員に求める③が正解です。

問7:正解 ⑤(解答番号107/配点3)

<問題要旨>

国家の正規軍以外の主体も関わる戦争の事例を3つのメモにまとめ、そこに書かれている出来事を古いものから年代順に並べる設問です。

<考え方>

それぞれのメモがどの戦争を指すかを特定し、時期を押さえます。メモⅠはアメリカ軍に支援された南部の政権と、北部の政権に結び付いた反政府組織が争ったインドシナ半島の対立なのでベトナム戦争、メモⅡはフセイン政権崩壊後の国内秩序の維持なのでイラク戦争後、メモⅢは国民党とともに抗日民族統一戦線を形成した共産党のゲリラ戦なので日中戦争です。

<選択肢>

メモⅠ=1960年代(ベトナム戦争)

アメリカ合衆国が南ベトナムの反共政権を支援し、北ベトナムと結び付いた南ベトナム解放民族戦線と争った。アメリカの本格的な軍事介入は1965年の北爆以降である。

メモⅡ=2003年以降(イラク戦争後)

フセイン政権が崩壊したのは2003年のイラク戦争によるもので、その後の治安維持に民間の軍事警備会社が広く用いられた。3つの中で最も新しい。

メモⅢ=1937年から1945年(日中戦争)

西安事件を経て国民党と共産党が抗日民族統一戦線を形成したのは1937年で、共産党は農村を拠点にゲリラ戦を展開した。3つの中で最も古い。

正解【⑤】

古い順にメモⅢ(1937年から)、メモⅠ(1960年代)、メモⅡ(2003年以降)となるので、⑤が正解です。

問8:正解 ①(解答番号108/配点4)

<問題要旨>

「現代の戦争が人々に与えた影響」という主題を探究するための2つの課題あ・いと、それぞれの課題を考察するための学習活動に用いる資料W〜Zの組合せとして正しいものを選ぶ設問です。

<考え方>

課題に書かれた出来事と資料の時期・地域が一致するかで決まります。第4次中東戦争は1973年で、アラブ産油国の石油戦略が第1次石油危機を引き起こし、原油価格の高騰が人々の暮らしを直撃しました。アメリカ合衆国の「対テロ戦争」は2001年の同時多発テロ事件を受けたもので、最初の軍事攻撃の対象はアフガニスタンでした。

<選択肢>

あ(第4次中東戦争)=W【正】

1973年の第4次中東戦争を機にアラブ産油国が石油戦略をとり、第1次石油危機が起こった。原油価格の推移を示すグラフは、戦争が人々の暮らしに与えた影響をたどる資料になる。

い(「対テロ戦争」)=Y【正】

「対テロ戦争」を宣言したアメリカ合衆国が最初に軍事攻撃を行ったのはアフガニスタンである。現地で人道支援を行った中村哲の活動記録は、攻撃が引き起こした社会的混乱を知る資料になる。

X【誤】

鉄のカーテン演説は1946年で、冷戦の始まりに関わる資料である。第4次中東戦争の影響を考察する資料としては、時期も主題も合わない。

Z【誤】

第1回原水爆禁止世界大会は1955年に広島で開かれた。核兵器をめぐる運動の資料であり、「対テロ戦争」による社会的混乱を考察する資料にはならない。

正解【①】

あにはW、いにはYが対応するので、①が正解です。

第2問 「旅」からたどる宗教・指導者・移動の自由(配点25)

「歴史における旅とその役割」を主題とした探究学習の記録を読み進める大問です。A(問1〜問2)は博物館「宗教と旅」の展示から江戸時代の伊勢参りと近代のメッカ巡礼を、B(問3〜問5)はイスラーム指導者イブラヒムとダライ=ラマ13世の旅、および王族・皇族の訪問と外交関係を、C(問6〜問8)は戦後日本の海外旅行自由化とヨーロッパの域内移動自由化を扱い、最後に班活動全体のまとめを問います。

問1:正解 ①(解答番号109/配点3)

<問題要旨>

江戸時代の伊勢神宮参詣(伊勢参り)を描いた図、博物館の展示見学用ワークシート、江戸を出発する伊勢参りの旅程例の3点が与えられ、これらに関する文あ・いの正誤の組合せを選びます。ワークシートは「一般的に女性の関所の通過は取り締まられていました」と前置きしたうえで、伊勢参りではどうだったのかを図から読み取るよう促しています。旅程例は江戸→伊勢神宮(伊勢)→住吉大社(摂津)→金刀比羅宮(讃岐)→厳島神社(安芸)→北野天満宮(山城)→善光寺(信濃)→江戸という順路です。

<考え方>

資料の読み取りなので、あ・いのそれぞれについて「どの資料のどこを見れば言えるか」を分けて確かめます。あは図に描かれた参詣者の姿を見ればよく、女性の髪型と装いをした人物が一団の中に複数描かれています。ワークシートがあえて女性の関所通過に注意を向けているのも、図から女性の参詣を読み取らせる誘導です。いは旅程例の行き先の広がりを見ればよく、伊勢のほか摂津・讃岐・安芸・山城・信濃と広範囲に及んでいます。

<選択肢>

あ【正】

図には女性の髪型と装いをした参詣者が一団の中に描かれています。ワークシートが「一般的に女性の関所の通過は取り締まられていました」としたうえで「伊勢参りではどうだったのか、図から読み取ってみましょう」と促しているのも、この読み取りへの誘導です。取り締まりが一般的であっても、伊勢参りには女性も加わっていたことが図から分かります。

い【正】

旅程例は江戸を出て伊勢神宮(伊勢)だけでなく、住吉大社(摂津)・金刀比羅宮(讃岐)・厳島神社(安芸)・北野天満宮(山城)・善光寺(信濃)と各地の名所をめぐって江戸に戻ります。五街道や脇往還、宿駅の整備を背景に、伊勢神宮以外の広範囲の名所を訪れる者がいたことが読み取れます。

正解【①】

あ・いはともに正しく、あ―正、い―正の組合せとなる①が正解です。

問2:正解 ③(解答番号110/配点3)

<問題要旨>

「近代のメッカ巡礼」の解説文が与えられ、空欄アには18世紀末にエジプトを混乱させた出来事、空欄イには西洋主導の近代化・グローバル化を阻んだものが入り、その組合せを選びます。解説文は、19世紀にヨーロッパの旅行会社がインドからのメッカ巡礼のパック旅行を始めたものの、高額だったことや地理に不案内だったことから、昔からメッカに拠点を置く巡礼旅行の仲介業者との競争に敗れたと述べています。

<考え方>

空欄アは「18世紀末」という年代だけで絞れます。ナポレオン率いるフランス軍のエジプト遠征は1798年で18世紀末にあたり、イギリスのエジプト保護国化は1914年なので時期が合いません。空欄イは解説文の結論をそのまま使います。西洋の旅行会社が敗れた相手は「昔からメッカに拠点を置く巡礼旅行の仲介業者」なので、それを言い換えた語句が入ります。

<選択肢>

ア=フランス軍の侵攻【正】

ナポレオンのエジプト遠征は1798年で「18世紀末」に一致します。もう一方の「イギリスによる保護国化」は1914年のことで、100年以上ずれます(時期の前後による誤り)。

イ=伝統的な旅行手配の仕組み【正】

解説文では、近代的なヨーロッパの旅行会社が「昔からメッカに拠点を置く巡礼旅行の仲介業者」に敗れています。近代化を阻んだ側は在来の仲介業者なので、伝統的な旅行手配の仕組みが入ります。「近代的な多国籍企業」は敗れた側の性格であり、勝った側と負けた側の主体が入れ替わっています。

正解【③】

ア=フランス軍の侵攻、イ=伝統的な旅行手配の仕組みの組合せとなる③が正解です。

問3:正解 ④(解答番号111/配点3)

<問題要旨>

20世紀初頭にユーラシア各地を旅したイスラーム指導者イブラヒムの主な旅程を示した地図と、彼が訪れた都市Ⅰ〜Ⅲの説明が与えられ、通過した順に配列します。都市Ⅰは「スルタンの専制政治を倒す立憲革命が起こった都市」、都市Ⅱは「伊藤博文が安重根に暗殺された都市」、都市Ⅲは「孫文らが中国同盟会を結成した都市」と説明されています。なお、この設問が参照する地図は歴史総合の問題冊子では省略されています。同じ設問が「歴史総合,日本史探究」では地図付きで出題されているため、以下ではその地図に示された経路に基づいて説明します。

<考え方>

先に3つの都市名を確定させ、そのうえで旅程の向きに当てます。都市Ⅰは「スルタン」という語からオスマン帝国で、青年トルコ革命(1908年)が起こったイスタンブル。イランの君主はシャーなのでテヘランは当たりません。都市Ⅱは伊藤博文が暗殺された地(1909年)でハルビン、都市Ⅲは中国同盟会が結成された地(1905年)で東京です。旅程は、出発地がユーラシア大陸北部のシベリア方面に置かれ、矢印はそこから東へ延びて大陸を横断し、まず日本海に面した大陸側(満洲)に達します。そこから日本列島へ渡り、再び中国沿岸に戻って南下し、東南アジアを経てインド亜大陸を西へ横切り、アラビア半島を北上して地中海東岸の到着地に至ります。到着地はオスマン帝国の首都イスタンブルなので、通過順はハルビン(都市Ⅱ)→東京(都市Ⅲ)→イスタンブル(都市Ⅰ)となります。

<選択肢>

①【誤】

都市Ⅰ(イスタンブル)を最初に置いています。イスタンブルは旅程の終点である到着地で、出発後に最初に通過する都市ではありません。

②【誤】

同じく都市Ⅰ(イスタンブル)を先頭に置いており、到着地を出発直後に通過する配列になってしまいます。

③【誤】

都市Ⅱ(ハルビン)の次に都市Ⅰ(イスタンブル)を置き、都市Ⅲ(東京)を最後にしています。旅程は大陸北部から東へ進み、そこから南・西へ折り返して地中海東岸に至る一本の道筋なので、いったんイスタンブルまで西進してから東京へ戻ることはありません。

④【正】

ハルビン(都市Ⅱ)→東京(都市Ⅲ)→イスタンブル(都市Ⅰ)の順です。大陸を東へ横断して満洲に入り、日本へ渡り、中国沿岸・東南アジア・インド・アラビアを経て地中海東岸の到着地に至るという旅程の向きと一致します。

⑤【誤】

都市Ⅲ(東京)を最初に置いています。出発地は大陸北部で、日本列島に渡る前に満洲のハルビンを通ります。

⑥【誤】

都市Ⅲ(東京)→都市Ⅱ(ハルビン)→都市Ⅰ(イスタンブル)の順としており、東京とハルビンの前後が入れ替わっています。

正解【④】

ハルビン(都市Ⅱ)―東京(都市Ⅲ)―イスタンブル(都市Ⅰ)の順となる④が正解です。

問4:正解 ②(解答番号112/配点3)

<問題要旨>

ダライ=ラマ13世の1904年から1913年までの移動をまとめたノートが与えられ、空欄ウに入る語句(あ・い)と、イギリスがダライ=ラマ13世の支援要求を拒否する根拠となった資料(X・Y)の組合せを選びます。ノートには、1910年にラサへ清軍が迫って英領インドに逃れた際「イギリスはロシアとの取決めに基づき、要求を拒否した」とあり、1913年には空欄ウを経て中国の軍隊も撤退したためラサに帰還したと記されています。資料Xは香港をイギリスに与えることを皇帝が許したという内容、資料Yは両国がイランにおける利益対立の動機を回避することに合意したという内容です。

<考え方>

ウは1913年に「当時の中国の軍隊」が撤退する原因となった出来事なので、清朝を倒した辛亥革命(1911〜12年)が入ります。西安事件は1936年で、20年以上あとの出来事です。資料はノートの「イギリスはロシアとの取決めに基づき」という一文をそのまま手がかりにします。英露間の取決めとは1907年の英露協商で、イランなどでの勢力範囲を分け合った協定にあたり、資料Yの「両国は、イランにおけるそれぞれの利益に関するあらゆる対立の動機を回避する」がこれに対応します。

<選択肢>

ウ=あ(辛亥革命)【正】

1911年に始まり1912年に清朝を倒した辛亥革命により、チベットに入っていた中国の軍隊は撤退しました。1913年にラサへ帰還できた前提として年代が合います。

ウ=い(西安事件)【誤】

西安事件は1936年に張学良が蔣介石を監禁した事件で、1913年より20年以上あとの出来事です。時期がまったく合いません。

資料X【誤】

「香港一島をイギリスに与え」という内容は、アヘン戦争の講和条約である南京条約(1842年)にあたります。イギリスと清との間の条約であって、ノートがいう「ロシアとの取決め」ではありません。

資料Y【正】

「両国は、イランにおけるそれぞれの利益に関するあらゆる対立の動機を回避する」という内容は、1907年の英露協商にあたります。イギリスがロシアとの協調を崩さないためにチベットへの関与を避けた、というノートの記述の根拠になります。

正解【②】

ウには辛亥革命(あ)が入り、拒否の根拠は英露協商にあたる資料Yなので、あ―Yの組合せとなる②が正解です。

問5:正解 ③(解答番号113/配点4)

<問題要旨>

王族・皇族による訪問の事例あ〜えが与えられ、それらを比較した文として最も適当なものを選びます。事例は、あ=英仏協商締結の前年のイギリス国王によるフランス訪問、い=第3次日韓協約締結の年の日本の皇太子による韓国訪問、う=サライェヴォ事件のきっかけとなるオーストリアの帝位継承者によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ訪問、え=四カ国条約締結の前年の日本の皇太子によるイギリス訪問です。

<考え方>

「〜の前年」「〜の年」という手がかりから各事例の時期を確定させ、そのうえで訪問した側と訪問先の関係を確かめます。あは英仏協商(1904年)の前年で1903年、いは第3次日韓協約の年で1907年、うはサライェヴォ事件の1914年、えは四カ国条約が結ばれたワシントン会議期の直前で、第一次世界大戦後の1920年代初めです。時期が確定すれば、「両大戦間期」「訪問の時点で同盟を結んでいた」といった言い切りは反例を1つ探すだけで落とせます。

<選択肢>

①【誤】

あ・うがドイツを抑えるために協調した事例だとしますが、うのボスニア・ヘルツェゴヴィナは1908年にオーストリアが併合した自国領で、国同士の協調ではありません。しかもオーストリアはドイツと三国同盟を結ぶ側であり、対独協調にはあたりません。対独協調に当てはまるのはあ(英仏協商)だけです。

②【誤】

訪問の時点で同盟を結んでいたとしますが、あは英仏協商締結の前年(1903年)の訪問で、この時点でイギリスとフランスの間に同盟も協商もありません。国王の訪問が協商成立を後押しした側なので、因果が逆になっています。

③【正】

いの訪問先である韓国では、保護国化に対して義兵運動やハーグへの密使派遣など日本への反発が広がっていました。うの訪問先であるボスニア・ヘルツェゴヴィナでも、併合したオーストリアへのセルビア系住民の反発が強く、それが帝位継承者の暗殺(サライェヴォ事件)につながりました。訪問先で訪問した側の国への反発が起こっていた点で共通します。

④【誤】

両大戦間期の出来事だとしますが、いは第3次日韓協約が結ばれた1907年の訪問で、第一次世界大戦(1914年開始)より前です。第一次世界大戦後にあたるのはえだけで、時期は共通しません。

正解【③】

訪問先で訪問した側の国への反発が起こっていたという共通点をもつのはい・うの事例なので、③が正解です。

問6:正解 ④(解答番号114/配点3)

<問題要旨>

1964年の海外旅行自由化以降の日本人海外渡航者について、渡航者総数と渡航目的(観光・商用・その他)の割合を示した表が与えられ、表から読み取れることやその背景を述べた文あ〜えのうち正しいものの組合せを選びます。表の数値は、1965年が渡航者総数163,000人(観光29%・商用48%・その他23%)、1971年が961,000人(66%・26%・8%)、1977年が3,151,000人(84%・14%・2%)です。

<考え方>

表が示すのは割合なので、「渡航者数」を問う文は必ず総数×割合で実数に直します。1965年の観光目的は163,000×29%≒47,000人で10万人に届きません。商用目的は1971年が961,000×26%≒250,000人、1977年が3,151,000×14%≒441,000人で、割合は48%→26%→14%と下がっているのに実数は増えています。残るう・えは、表が示す1965〜77年という時期に起こったかどうかを年代で判定します。

<選択肢>

あ【誤】

海外旅行自由化の翌年は1965年で、観光目的の渡航者数は163,000人×29%=約47,000人。10万人を超えていません。割合の29%だけを見て実数を出さないと誤りに気づけない、割合と実数の混同を突いた文です。

い【正】

ドル=ショックは1971年。商用目的の渡航者数は1971年が961,000人×26%=約250,000人、1977年が3,151,000人×14%=約441,000人なので、実数は増えています。割合が下がっていることと混同しないよう注意します。

う【誤】

神武景気は1954〜57年で、表が示す1965〜77年より前の好況です。この時期にあたるのはいざなぎ景気(1966〜70年)で、景気の名称と時期が入れ替わっています。

え【正】

日本の国民総生産(GNP)が資本主義国の中で第2位となったのは1968年で、表が示す時期に含まれます。高度経済成長による所得の増加が、観光目的の渡航者の急増を支えました。

正解【④】

正しいのはい・えで、④が正解です。

問7:正解 ③(解答番号115/配点3)

<問題要旨>

1980年代以降の旅行に関する動きをまとめたノートが与えられ、そこから読み取れることや背景を述べた文として最も適当なものを選びます。ノートには、プラザ合意による先進国間の為替レート調整が日本人の海外渡航に影響したこと、1985年にヨーロッパ共同体(EC)に加盟するいくつかの国が域内移動に関してパスポート管理を廃止するシェンゲン協定に調印し、1995年に実施されたことが記されています。

<考え方>

ノートに書かれている内容を言い換えただけの選択肢と、ノートの外の年代知識で真偽が決まる選択肢に分けて処理します。シェンゲン協定については「域内移動に関して、パスポート管理を廃止する」とノートに明記されているので、これを言い換えた文が正しくなります。残りはプラザ合意後の為替の方向、ユーロ導入の年、東西ドイツ統一の年で判定します。

<選択肢>

①【誤】

プラザ合意(1985年)はドル高是正のための協調介入で、以後は急速な円高が進みました。円安と円高が逆になっています。日本人の海外渡航が増えたのも円高で渡航費が実質的に安くなったためで、円安では説明がつきません。

②【誤】

ヨーロッパ連合(EU)が成立したのは1993年(マーストリヒト条約発効)で、単一通貨ユーロの導入は1999年(現金の流通開始は2002年)です。同時ではなく、時期の前後による誤りです。

③【正】

ノートに「域内移動に関して、パスポート管理を廃止するシェンゲン協定」と明記されています。協定の実施により、参加国の域内では国境での出入国審査なしに自由に移動できるようになりました。

④【誤】

東西ドイツの統一は1990年で、シェンゲン協定の実施(1995年)より前の出来事です。前後が入れ替わっています。

正解【③】

ノートに明記されたシェンゲン協定の内容をそのまま言い換えた③が正解です。

問8:正解 ②(解答番号116/配点3)

<問題要旨>

班活動のまとめとして作成された2つのメモの正誤を判断します。メモ1は、1班が扱った江戸時代の伊勢参りと3班が扱った現代社会の旅の事例から、それぞれの時代における地域内の移動や国境を越えた移動が徐々に衰退していく状況が読み取れるとします。メモ2は、2班が扱ったイブラヒムやダライ=ラマ13世の事例から、彼らが宗教的に共通する諸民族と連携することで大国に対抗しようとしたことが読み取れるとします。

<考え方>

メモが引いている事例に戻って、方向が合っているかを確かめます。伊勢参りは交通網の整備を背景に広範囲の名所をめぐる旅が流行した事例、現代社会の事例は渡航者総数が16万3千人から315万1千人へ増え、ヨーロッパでもパスポート管理が廃止された事例で、いずれも移動の拡大を示します。一方イブラヒムは「ムスリムが連帯することで列強に対抗できる」と考えた人物、ダライ=ラマ13世はチベット仏教信仰を共有するモンゴルと相互に独立を確認する条約を結んだ人物で、どちらも宗教を共有する相手との連携による大国への対抗にあたります。

<選択肢>

①【誤】

メモ1のみ正しいとしますが、メモ1の「徐々に衰退していく」は事例の示す方向と逆です。伊勢参りの流行、渡航者数の急増、パスポート管理の廃止はいずれも移動の拡大を示しています。

②【正】

メモ1は移動が衰退したとする点で誤りです。メモ2はイブラヒムのムスリムの連帯による列強への対抗、ダライ=ラマ13世のモンゴルとの相互独立を確認する条約という事例の内容と合致し、正しいといえます。

③【誤】

メモ1が事例と逆の方向をまとめているため、二つとも正しいとはいえません。

④【誤】

メモ2は宗教を共有する相手との連携という事例の内容と合致しているので、二つとも誤っているとはいえません。

正解【②】

メモ1は移動の方向を逆にとらえており誤り、メモ2は事例と合致して正しいので、②が正解です。

※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

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