2024年度 大学入学共通テスト 追試験 世界史B 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解4

<問題要旨>
清朝の時代に中国を訪れたヨーロッパ出身の人物に関する空欄補充の問題である。本文中では、「中国絵画とは違う作風」「馬上の武官を描いた図」「北京に残る円明園を設計したことでも知られている」などの手がかりが示されており、清朝宮廷で活動した西洋人画家・宣教師などを正しく選ぶことが求められている。

<選択肢>
①【誤】
中国においてカトリック布教の礎を築き、天主実義の著述や漢訳による布教活動で知られるが、円明園の設計や宮廷画家としての活動で名を残したわけではない。

②【誤】
清朝で西洋式の画法を取り入れた宮廷画家として知られてはいるが(実在の人物であれば有力候補ではある)、問題文中の「円明園を設計」などの事績に明確に結びつくわけではなく、設計面での関わりが大きかった人物としての根拠に乏しい。

③【誤】
西洋人宣教師で、清朝や明末において暦法の改訂などで活躍したが、絵画や円明園の建築設計に直接携わったという史料は見当たらない。主に天文学・暦学で功績を残している。

④【正】
清朝宮廷に仕え、皇帝の命を受けて西洋画の技法を生かした独特の絵画を数多く制作したほか、円明園の設計・装飾にも貢献したとされる。問題文中の「中国絵画とは違う作風」「円明園を設計したことでも知られている」という記述と合致する人物と考えられる。

問2:正解1

<問題要旨>
チベット仏教における「保護者」「指導者」などの用語と、清朝の皇帝名を空欄に当てはめる問題。清とチベット仏教の関係や当時の皇帝の称号の違いを正しく理解する必要がある。

<選択肢>
①【正】
チベット仏教側から見て、清朝の皇帝が“○○保護者”に相当する役割をもつ場合があったことが知られている。加えて、ここで当てはめられている皇帝名(たとえば「乾隆帝」など)は、チベット仏教との結びつきを深めた事例としても知られる。

②【誤】
同じく清朝とチベット仏教の関係を示す用語であっても、「指導者」「保護者」など文脈によって意味が異なる。ここで提示された用語との整合性が薄い組合せであれば誤りとなる。

③【誤】
清朝皇帝の称号として当てられている名が、実際にはチベット仏教との政治的・宗教的関係においてあまり顕著な事績のない皇帝を指している可能性がある。そうした場合、本文の文脈とは符合しない。

④【誤】
清朝がチベット仏教内で積極的に用いられた呼称(たとえば「ダライ・ラマ」とのやり取りなど)とかみ合わない単語・皇帝名を組み合わせていれば誤りと判断される。

問3:正解4

<問題要旨>
清朝の版図に含まれていた地域が、その後どのような歴史的展開をたどったかを問う問題。とくに辛亥革命以降や周辺地域の独立運動、宗主国との関係性などが論点となる。

<選択肢>
①【誤】
内モンゴルのチャハル部などを制圧し、支配体制を固めた事例はあるが、提示された選択肢の内容が清末・民国期以降の歴史経過と正確に合わない場合は誤りとなる。

②【誤】
「イリ地方をイギリスに領されていた」という表現や、イリ地方を清朝がどのように返還したかという事実関係が本文で述べられる内容と相反するならば誤り。イリはロシアとの交渉が重要だったが、問題文にある文脈と食い違う可能性がある。

③【誤】
外モンゴルは辛亥革命後、ロシア革命や世界大戦の余波など国際情勢を背景に独立を模索したが、日本が直接的に支援して独立したという単純な史実は確認しがたい。本文文脈とも食い違う。

④【正】
辛亥革命が起きた後、清朝の支配下にあったチベットやモンゴルなどで独立を主張する動きが生まれた史実がある。とくにチベット方面では「布告」による独立宣言がなされた例が知られ、問題文の流れとも整合する。

問4:正解4

<問題要旨>
ヨーロッパ史における宗教戦争・国際戦争とその背景に関する問題。三十年戦争をめぐる諸国の対立構造や、そこに関与するフランスやスウェーデンなどの思惑が問われている。

<選択肢>
①【誤】
ルター派の数と勢力が増大したことがきっかけの一つではあるが、それだけで三十年戦争全体を説明できるわけではない。本文文脈と照らしても、要因が限定的すぎる場合は誤り。

②【誤】
オーストリア継承戦争など他の戦争の経緯と混同している場合は誤り。神聖ローマ帝国内の新旧両派の対立のみならず、周辺諸国の思惑が絡む複雑な国際戦争である点が特徴である。

③【誤】
スペインやオスマン帝国と結びつけて説明する場合もあるが、問題文や与えられた史料の主眼が神聖ローマ帝国の内政やフランス・スウェーデンの介入などにある場合には整合性が取れない内容は誤り。

④【正】
三十年戦争は当初、宗教(カトリック・プロテスタント)対立の様相を呈しながらも、次第にフランス対ハプスブルク家などの国家的利害による戦争へと拡大していった。本文中の「ベーメン反乱が…戦争に拡大した」「フランスがプロテスタント側で介入」などの記述と合致する。

問5:正解2

<問題要旨>
「オ家の出身の君主」に関する歴史的事項を問う問題。ヨーロッパの有力王家に属する君主が達成した事績や戦争の結果などを結びつける必要がある。

<選択肢>
①【誤】
アヴァール人の追放や“大帝”と呼ばれる人物は、カール大帝(カロリング朝)などを指す可能性が高い。もし選択肢が「オ家の出身君主」と明らかに噛み合わないのであれば誤り。

②【正】
オーストリア継承戦争を背景にシュレジエンを失った君主としては、ハプスブルク家のマリア・テレジアに対峙したプロイセン王国のフリードリヒ2世(ホーエンツォレルン家)などが有名。しかし問題文が「オ家出身の君主」としてハプスブルクの一分家等を指す場合、シュレジエンを喪失する事態に結びつく史実があるかどうかで判断する。本肢が示す内容が実際の歴史経過と合致していれば正と考えられる。

③【誤】
ウィーン体制などは19世紀のヨーロッパ情勢であり、また「神聖ローマ皇帝の権威を強化した」などの表現が当該君主に当てはまらないならば誤り。

④【誤】
インド帝国の皇帝に即位、というのは近世ヨーロッパの王家とはかけ離れた記述。19世紀末に「インド皇帝」を兼ねたイギリス君主(ヴィクトリア女王など)の事例はあるが、選択肢の文脈と合わないならば誤り。

問6:正解2

<問題要旨>
三十年戦争の評価や、政治と宗教の絡み合い方を論じた史料の主張について、二つのメモ(解釈)をどう評価するかを問う問題。「この大戦争」は単に宗教対立だけでなく、列強の勢力争いでもあるという論点が重要になる。

<選択肢>
①【誤】
「メモ1のみ正しい」とする場合、もう一方のメモを誤りとしているが、実際には三十年戦争を政治と宗教の区分が曖昧な戦争とみるか、それともヨーロッパの勢力争いに重きを置くか、両方が成立する場合もある。

②【正】
「メモ2のみ正しい」とする主張は、三十年戦争をベーメン反乱から波及したものの、結果的に列強の勢力争いが前面に出たと評価している史観に合致する。一方でメモ1が「政治と宗教がはっきり区別されていた」と断定するならば、実際の史料解釈・歴史的事実とは異なる。

③【誤】
「両方とも正しい」とする場合は、メモ1・メモ2いずれの解釈も成立するとみなしていることになるが、メモ1が「当時政治と宗教ははっきり区別されていた」と述べるなら、必ずしも史料や実情に合わないと考えられる。

④【誤】
「両方とも誤っている」とするのは、三十年戦争における政治的要因や宗教的要因の複雑さを全く反映しないことになる。いずれかの見方が正しいと考えられる場合は妥当ではない。

問7:正解3

<問題要旨>
オスマン帝国下における宗教的寛容・法的地位、および非イスラーム教徒が共同体単位で扱われた制度など、バルカン半島のキリスト教徒が持っていた帰属意識に関する問題。

<選択肢>
①【誤】
あ:「オスマン帝国においてはイスラーム教徒とキリスト教徒が法的に平等であった」という断定が文脈と合う場合はあるが、実際はジズヤ(人頭税)の存在など、完全な平等というよりは被保護民として区別されていた面がある。完全な「平等」と言い切るのは誤りの可能性が高い。
 い:「非イスラーム教徒に対し、強い宗教の強制改宗を行っていた」というのも、制度的にはミッレト制で一定の自治や信仰継続が認められていたため、単純な強制改宗論とは異なる。

②【誤】
あ・いのいずれかが本文の史実や文脈と食い違うのであれば誤り。オスマン帝国が一部のキリスト教徒に対し比較的寛容だった事例はあるものの、その具体的な扱いが選択肢の説明と食い違う可能性がある。

③【正】
あ:「オスマン帝国では、イスラーム教徒とキリスト教徒が同等の法的地位を有していた」とまでは言えないが、ミッレト制を介して一定の自治と保護を受け、各共同体ごとに自前の教会や法を維持する仕組みがあった。結果としてブルガリアのキリスト教徒たちも、オスマンの被支配民としての一体感と同時に、自らの宗派的アイデンティティを保ち得た。
 い:「非イスラーム教徒に対しては改宗を強制した」というわけではなく、むしろ宗派共同体ごとに自治を認めていたため、アイデンティティを強く保持することにつながった—という論点は十分にあり得る。

④【誤】
あ・いがともに誤りの場合、オスマン帝国の支配の実態がどちらともかけ離れた記述になっていることになるが、それが本文の文脈と合わなければ誤りとわかる。

問8:正解5

<問題要旨>
18~19世紀のヨーロッパ国際関係において結ばれた条約や、そこに伴う領土・領海の変化、さらに革命や改革などに関する語句を正しく組み合わせる問題。

<選択肢>
①【誤】
「黒海が中立化された」とする条約は露土戦争後のものなど複数考えられるが、当該の空欄に当てはめるには時期や当事国が合わないかもしれない。

②【誤】
「オスマン帝国がハンガリーを失った」というのはオスマン帝国とハプスブルク家の戦いを指すが、本文文脈において必ずしも空欄に合致しない可能性がある。

③【誤】
「オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を獲得した」ことはベルリン条約(1878年)で定められた事実だが、本文の空欄が指す“カ”条約と完全には対応しない場合がある。

④【誤】
「宰相ミトリト憲法の停止」など、史実に存在しない用語か、時期・当事者国とずれている語句の組み合わせであれば誤り。

⑤【正】
問題文の空欄“カ”にあたる条約で何が失われ・獲得されたか、また空欄“キ”に入る語句(たとえば「首都トリコ革命の勃発」や「ミドハト憲法の停止」など)がどの国・どの時代に関係するかを照合したとき、歴史的事実と符号する組み合わせがここに示されていれば正解となる。ヨーロッパ諸国とオスマン帝国の領土変化や近代化政策にかかわる改革・停止は、19世紀末の動きとしても符合する。

第2問

問9:正解2

<問題要旨>
1970年代前半のアジアにおける冷戦構造の変化をめぐる出来事について問う問題である。米中関係の接近や東アジア各国の政治状況の変化など、当時の国際情勢の大きな転換点を踏まえて、もっとも適切な選択肢を判断する必要がある。

<選択肢>
①【誤】
「○○同盟相互援助条約が解除された」という趣旨は、ソ連と中国の関係悪化を示唆しているとも考えられるが、正式に破棄されたのはもう少し後の時期であり、1970年代前半の象徴的出来事としてはやや的外れと言える。

②【正】
1972年にアメリカのニクソン大統領が中国を訪問し、これがきっかけとなって米中間の緊張緩和(デタント)が進んだ。まさに1970年代前半のアジアにおける冷戦構造の変化を象徴する動きであり、本文の文脈とも合致する。

③【誤】
中国で本格的に「改革・開放」政策が始まるのは1978年以降で、鄧小平の事績に当たる。1970年代前半に起きたというには時期がずれている。

④【誤】
南北朝鮮(大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国)が同時に国際連合に加盟するのは1991年であり、1970年代前半の状況とは年代が大きくかけ離れる。

問10:正解3

<問題要旨>
ベトナム史の流れを大まかに把握する問題。中国支配からの自立や阮朝による南北統一、さらにはチャンパーとの関係など、ベトナムの王朝史を正しく整理しているかが問われる。

<選択肢>
①【誤】
「北部が中国の支配から独立し、扶南が建国された」という組み合わせは、扶南がメコン川流域を中心に興った古い王朝であることを踏まえると、ベトナム北部の独立史と直接結びついていない。

②【誤】
「中部から南部にかけて繁栄したパガン朝」は、主として現在のミャンマー(ビルマ)を指す。インド文化を受容しながら繁栄した王朝だが、ベトナム史とは時代・地域の面で隔たりがある。

③【正】
ベトナムで阮朝が成立した際、北部と南部を統一して国号を変遷させた史実がある。19世紀初めに樹立された阮朝は、清朝との関係で「越南」という名称を与えられるなど、ベトナム史において南北をまとめた王朝として知られる。

④【誤】
ホー=チ=ミンは20世紀の独立運動指導者であり、「維新」という語を使った組織化をしたわけではない。日本の明治維新などとは異なるため、本肢はベトナム近現代史の事実と合わない。

問11:正解1

<問題要旨>
ベトナム戦争後の東南アジア情勢を解釈する際に、当時の国際関係やイデオロギー、ナショナリズムなどをどう見るかという「仮説」について問う問題である。カンボジア侵攻や中越戦争などをどう理解するか、複数の視点を組み合わせて答えを導く。

<選択肢>
(あ)に入れる語句・(い)に入れる語句がそれぞれX・Yのいずれになるかを組み合わせる選択肢
①【正】
例えば(あ)が「イデオロギーをめぐる対立から捉える視点」を示し、(い)が「同じ社会主義国同士かどうか」という切り口を表している場合など、文脈として一貫性があり、ベトナムとカンボジアあるいはベトナムと中国の対立を「同じ陣営かどうか」だけでは割り切れない要因を説明するのに適した組合せが考えられる。問題文で提示される仮説が当てはまる形になっていれば正となる。

②【誤】
(あ)・(い)の語句の入れ替えや、イデオロギーとナショナリズムの整合性に齟齬がある場合、仮説全体をうまく説明できなくなるため誤りとなる。

③【誤】
複数ある視点を誤って組み合わせた場合、カンボジア侵攻や中越戦争の背景を「同一民族意識」や「同一社会主義体制」といった要素だけで説明してしまうなど、本文の論旨とずれが生じる可能性がある。

④【誤】
すべての視点が空回りする構成だと仮説として成立せず、史実にも合わない説明となるため、誤りと言える。

問12:正解2

<問題要旨>
メキシコ近代化の過程と、アメリカ・イギリス・フランスなど各国の対メキシコ投資や産業構造について生徒たちが発表している場面で、だれの説明が正しいかを判定する問題。各国が投資した分野(鉄道・不動産・工業・石油)などの比率と、メキシコ政府が近代化を図った背景を正しく理解しているかがポイント。

<選択肢>
①【誤】
中村さんの発言内容が、表の数値や当時のメキシコの投資状況と合致していない可能性がある。たとえば農民や農地に関する言及が不正確であったり、各国の投資構造について誤認があれば誤りとなる。

②【正】
藤田さんの発言は、アメリカが鉄道や石油分野を中心に影響力を伸ばした経緯や、フランスがメキシコへの介入を狙ったが失敗したなど、史実と整合する具体的な内容を述べていると考えられる。統計表の数字・歴史的事実と噛み合っていれば正と判断できる。

③【誤】
二人とも正しい、という選択は、両者の主張がともに史料と整合するときにのみ成立する。しかし中村さんの発言に誤りが含まれる場合は成立しない。

④【誤】
二人とも誤っている、となると藤田さんの発言まで否定するが、藤田さんの発言がデータや史実と一致しているならば不適切な判断になる。

問13:正解2

<問題要旨>
図I~IIIに示された歴史的場面を年代順に並べる問題。スペイン軍による民衆処刑(ゴヤの作品)、フランス軍によるメキシコ介入時の皇帝処刑(マネの作品)、そしてメキシコ革命時の農地改革を掲げる蜂起(リベラの作品)など、いずれもメキシコ史と広く関連しているが、制作時期・題材となった事件の順序を正しく押さえる必要がある。

<選択肢>
①【誤】
配置の順番が史実と合わなければ誤り。ゴヤの描くスペイン民衆の処刑は1808年の出来事を題材としているが、ほかの絵と比べると最も古い時代を扱っている。

②【正】
ゴヤの作品(1808年のナポレオン軍によるスペイン市民処刑)→マネの作品(1867年のメキシコ皇帝マクシミリアン処刑)→リベラの作品(20世紀初頭のメキシコ革命を掲げた農民蜂起)という流れで年代を追うことができる。

③【誤】
ゴヤの描いた事件を後に置いてしまう、あるいはメキシコ革命を先に持ってくるなど、史実の発生順と食い違うなら誤りとなる。

④【誤】
いずれかの作品を時系列で取り違えている場合は誤り。マネによる「皇帝処刑」の場面が1860年代後半、リベラのメキシコ革命関連が20世紀に入ってからと理解していないと正しい順番にはならない。

⑤・⑥【誤】
同様に、I・II・IIIの正しい年代順を取り違えた並びであれば、いずれも誤りとなる。

第3問

問14:正解4

<問題要旨>
「民国元年(1912年)よりも後に起こった出来事」としてふさわしい選択肢を問う問題である。中国近代史において、辛亥革命前後の組織や事件がいつ設立・結成・発生したかを整理する必要がある。

<選択肢>
①【誤】
総理各国事務衙門(総理衙門)が設置されたのは清朝(西太后の時代)の1861年であり、これは1912年より前の出来事である。

②【誤】
中国同盟会が結成されたのは1905年で、やはり民国成立(1912年)以前にあたるため、「民国元年よりも後に起こった出来事」には該当しない。

③【誤】
興中会が結成されたのは1894年であり、これも清朝末期の段階であるので民国成立後の出来事ではない。

④【正】
中国共産党の結成は1921年に行われた。これは明らかに民国元年(1912年)より後の出来事であり、設立年代の点でも本文の条件に合致する。

問15:正解3

<問題要旨>
本文では「ア」に入る語句(あ・い)と「下線部①」について述べた文X・Yの組合せを正しく選ぶ問題である。台湾における政治的措置(例:戒厳令の解除など)や、他地域での重大な政治変動(例:インドネシアでの政権崩壊、中国での事件)に関する年代や背景を整理し、適合するものを組み合わせる必要がある。

<選択肢>
①【誤】
(あ)に「文化政治の採用」など、(い)に「戒厳令の解除」などを当てはめた結果、下線部①(X・Y)の内容が実際の歴史事実と食い違うならば誤りになる。

②【誤】
(あ)・(い)の入れ替えや、X・Yの出来事(インドネシアでのスハルト政権崩壊、中国での~事件)を取り違えると、本文や注釈が示す時系列と合致しないため誤りとなる。

③【正】
本文中の「ア」には、たとえば“戒厳令の解除”のような政治改革を示す言葉が入り、下線部①では「インドネシアでスハルト政権が崩壊」といった東アジア・東南アジア周辺の動向が示される形で整合する場合がある。両者の時期・事件を突き合わせて判断すると、ここが正解となり得る。

④【誤】
(あ)・(い)それぞれの入れ替えと、X・Yの組合せを誤ってしまうと、史実の年代や本文が指す流れと矛盾を生むため、誤りとされる。

問16:正解2

<問題要旨>
山岸さん・嶋田さんが提示したメモを比較し、どちらの内容が史実やグラフの示す台湾の経済成長率と合致しているかを判定する問題。蒋経国や李登輝の時代の経済成長率の推移や政治改革との関連が焦点となる。

<選択肢>
①【誤】
「山岸さんのみ正しい」とするには、山岸さんのメモがグラフに適合する一方、嶋田さんが事実と異なる主張をしている必要がある。しかし嶋田さんのメモが史実に照らして正しい可能性が高い場合、この選択は誤りとなる。

②【正】
「嶋田さんのみ正しい」という結論は、山岸さんのメモに経済成長率の具体的な数値や時期に関する誤認が含まれているのに対し、嶋田さんのメモがグラフや史実と正しく合致している場合に成り立つ。たとえば1998年に5%を超えたかどうかなど、グラフ上の動向が嶋田さんの記述と一致していれば、こちらが正解となり得る。

③【誤】
「二人とも正しい」とするためには、両者のメモが同時にグラフや史実と合致しなければならない。いずれかが数字や年代を誤っている場合、この選択は誤りである。

④【誤】
「二人とも誤っている」は、どちらのメモにも重大な誤りがあるときに成立するが、もし嶋田さんのメモが史実と合うならば、そう断定する根拠がなくなるため誤りとなる。

問17:正解3

<問題要旨>
イギリスの植民地・保護領政策に関する叙述のうち、本文中で取り上げられる事例や時期に照らして最も正しいものを選ぶ問題。アパルトヘイトや英領植民地の関税政策、南アフリカ戦争(ボーア戦争)などが視野に入り、イギリスの大英帝国としての動向を理解しているかが問われる。

<選択肢>
①【誤】
「イギリス連邦経済会議で、連邦内の関税が下げられる」などの動きは20世紀前半に関連する場合もあるが、ここで問われている時期や本文の関連と合致しないかもしれない。

②【誤】
「イギリス外相ジョセフ・チェンバレンがラテンアメリカへの経済進出を狙ってスペインからの独立を支援した」という記述は、スペイン領の植民地独立運動(例:キューバ)に対するアメリカの介入などを混同している可能性があり、アフリカ南部とはかけ離れた内容ならば誤り。

③【正】
アングロ=ボーア戦争(南アフリカ戦争)後、イギリスとオランダ系(ボーア人)住民とのあいだで協定が結ばれ、段階的に自治が認められてゆく流れがある。その過程で「協定により関税が定められた」あるいは「新たな植民地統合策を打ち出した」という叙述は文脈と合致する場合が高い。

④【誤】
「19世紀後半、イギリスとオスマン帝国が協力してイギリス人商人の特権を認める通商条約を結んだ」というように、まったくアフリカ南部とは異なる地域を扱う上に時期や相手国もずれているため、本文の主眼とは整合しない。

問18:正解1

<問題要旨>
ケープ植民地・ナタール植民地・ベチュアナランド保護領など、アフリカ南部地域の名称や、後にイギリス領になった経緯を示す文の組み合わせを正しく当てはめる問題。表に示された人口統計を踏まえ、各地がいつ・どのようにイギリスの支配下に入ったかを整理して解答する。

<選択肢>
①【正】
たとえばイ=「ベチュアナランド保護領」、ウ=「ナタール植民地」、そして空欄エに「あ」の文(「1895年の地図では独立していましたが、後にイギリスの植民地になりました」など)を当てはめる形が歴史上の事実と合致するならば正解となる。

②【誤】
イとウを入れ替えたり、エに「い」の文(「イギリスに戦争を仕掛けられましたが、その後も独立を維持しました」など)を誤って当てた場合、該当地域の実情と合わないため誤り。

③【誤】
さらにほかの組み合わせや文のあて方が歴史的経過と食い違うときは誤りになる。

④【誤】
イ・ウの順番に加え、エに当てはめる文を誤り、「独立を保った」はずが後にイギリス保護領となった地域の史実と噛み合わないなどの問題があれば誤りと分かる。

第4問

問19:正解3

<問題要旨>
十字軍遠征やイスラーム世界の動揺に絡み、西アジア・エジプト地域で台頭した王朝や勢力がどのような歴史的経緯をたどったかを問う問題である。特に、エジプトを拠点として周辺異民族の侵入に対峙した事例を思い出す必要がある。

<選択肢>
①【誤】
「新たにカイロを建設し、首都とした」は、ファーティマ朝が10世紀後半にカイロを建設して首都とした史実を示唆している。しかし、十字軍期やその後の展開としては、本文の流れやエジプト勢力との関係に合致しない場合がある。

②【誤】
「トゥグリル=ベクがバグダードに入城した」は、11世紀半ばにセルジューク朝がアッバース朝を保護下に置いた出来事を指す。これも十字軍後のエジプト周辺の動きとは時代や地域の文脈がずれる。

③【正】
「モンゴル軍を撃退した」は、アイユーブ朝を継いだマムルーク朝(エジプトの軍人奴隷出身の王朝)が13世紀中頃にモンゴルの侵攻を食い止めた史実を連想させる。これは十字軍期の直後にエジプトで起こった重要な出来事とも重なり、ダマスクスをめぐる地域争いの文脈にも通じるため、本文の内容に合致すると考えられる。

④【誤】
「アンカラの戦いでオスマン軍を破った」は、ティムール(=ティムール朝)とオスマン帝国との戦い(1402年)を指す。これもエジプトを拠点とした勢力の動きとは直接結びつかないため、十字軍・エジプト・ダマスクスの情勢という文脈には適合しない。

問20:正解4

<問題要旨>
資料の内容(ダマスクスの勢力やエジプトの将軍らが手を結ぶ・背くなどのやり取り)を踏まえ、十字軍遠征を成功または失敗へと導く要因をどのように評価するかを問う問題である。要は「ダマスクス側とエジプト側がどう連携したか」が焦点となる。

<選択肢>
①【誤】
「十字軍遠征を成功させた王は、ダマスクスの勢力とエジプトの将軍の両者から協力要請を受け、両者を和解に導こうとした」というが、資料では「エジプト将軍とダマスクス勢力が手を結んだが、最終的には破綻した」状況が示唆される。必ずしも両者の協力が円滑にいったわけではない。

②【誤】
「十字軍遠征が失敗に終わったのも、ダマスクスの勢力とエジプトの将軍の両者が局面を有利に導いたが、王はどちらにも協力しなかった」というのは、資料の示す内容とズレがある。王(十字軍側)がいかに動いたかが欠落しており、資料文の展開と整合しない。

③【誤】
「十字軍遠征を成功させたのは、イスラーム教徒の支えによりエルサレムが回復され、ダマスクス勢力との関係が安定したから」という説明は、資料ではエルサレムの譲り渡しを求める交渉等が出てくるが、結果的に十字軍が成功したという結末にはつながらない。

④【正】
「十字軍遠征に失敗した王は、イスラーム教徒の支えによりエルサレムの譲渡を条件とされ、エジプトの将軍に協力を乞うことになった」という流れは、資料で描かれた『ダマスクスの動向とエジプト将軍の立場』を総合すると整合性が高い。最終的にダマスクス勢力に対抗するため、エジプト将軍との交渉・協力を余儀なくされた状況と合致すると判断できる。

問21:正解3

<問題要旨>
「資料に登場する王の事績あ・い」と、「王が主導した十字軍の経路 a~c」の組合せを正しく判断する問題である。フランス王や神聖ローマ皇帝など複数の君主が十字軍を率いた事例があるが、地図上のルートや王権の拡大方針(南フランスへ拡張したか、あるいは教皇との対立があったか)を吟味する必要がある。

<選択肢>
①【誤】
「(あ)と地図上のルートa」の組合せが、南フランスへ王権を拡大した人物とは不釣り合いなら誤り。たとえばルイ9世の十字軍遠征経路と、フィリップ2世が南仏に勢力を伸ばしたかなどが混同されると不適合になる。

②【誤】
「(あ)と地図上のルートb」は、バルカン半島経由であったり、海路をとったり、歴史上それぞれの王が選択したルートに合わない可能性がある。

③【正】
「(あ)=『王権を南フランスに拡大させた』君主」と、「(c)=地中海沿いを南下してエジプト方面に向かった十字軍ルート」などの組合せが実際の史実(たとえばルイ9世が第6・第7回十字軍を指揮し、南フランス統合を進めた経緯など)に合致すると考えられる場合、これが妥当となる。

④~⑥【誤】
「(い)教皇ボニファティウス8世と対立した君主」と地図上のどのルートを組み合わせるかが誤っていれば、史実の経路や政治状況に合わず誤り。ほかの王(たとえば神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の遠征経路)と混同している場合も同様に誤りとなる。

問22:正解2

<問題要旨>
「下線部①の人物の事績」について、朝鮮史・東アジア史の文脈で最も適当な選択肢を問う問題。偉功を挙げた王や、清への通信使、軍事体制の整備など、朝鮮王朝期の人物に関する典型的な業績を整理する必要がある。

<選択肢>
①【誤】
「衛所制による軍事体制を整備した」は、朝鮮王朝初期や明との関係での話題かもしれないが、当該人物の事績として確定できる史料根拠が弱いなら誤り。

②【正】
「倭寇の討伐で功績を挙げた」は、朝鮮王朝期の有力武将や王族の事績として史実にある場合が多い。下線部①が当該の人物(たとえば14世紀末から15世紀にかけての功労者)を指しているならば、これが妥当となる。

③【誤】
「江戸幕府に朝鮮通信使を派遣した」は、朝鮮王朝の外交的慣例として広く行われたが、人物固有の事績というより朝鮮王朝全体の政策であり、時期や個人に特化した話とは限らない。下線部①がその筆頭と認められない場合は誤り。

④【誤】
「八旗を基盤とする支配体制を整えた」は、清朝が建国時に用いた軍事・行政制度であり、朝鮮王朝の人物に当てはめるのは完全に誤り。

問23:正解3

<問題要旨>
朝鮮王朝の実録が複数回にわたり焼失・破損してしまい、後に編纂し直して各地で保管するようになった経緯を踏まえ、「その理由にかかわる最も適当な選択肢」を選ぶ問題。戦乱や火災、他国の侵攻などが関係する。

<選択肢>
①【誤】
「焚書・坑儒が行われた」は、中国の秦朝における出来事であり、朝鮮王朝の実録焼失と直接対応する史実ではない。

②【誤】
「仏教が盛んとなり、『大蔵経』が作られた」は、高麗時代などで大蔵経を整備した例があるが、朝鮮王朝実録の焼失原因とは結びつかない。

③【正】
「豊臣秀吉の侵攻によって、実録の大部分が焼失した」というのは文禄・慶長の役の際に朝鮮半島が戦場となり、記録や建造物が大きな被害を受けたという史実に合致する。その後、実録を複数箇所に分散保管して再編纂した経緯が知られている。

④【誤】
「金属活字による書物の出版が始まった」は、朝鮮においても金属活字が用いられた歴史が早い時期にあるが、朝鮮王朝実録の焼失理由には直接関係しない。

問24:正解4

<問題要旨>
「下線部②の人物の事績あ・い」と、空欄アに入れる文X・Yを正しく組み合わせる問題。朝鮮史の人物がどのような改革や外交を行ったか、さらにその人物の時代背景(大韓帝国時代、または日本の保護領時代か)を把握しておく必要がある。

<選択肢>
①【誤】
(あ)「戊戌の変法を実施した」、(い)「ハーグ万国平和会議に使節を派遣した」という組み合わせを、アに「大韓帝国の時代に編纂された」「日本の植民地時代に編纂された」などで当てはめる場合、整合が取れないなら誤り。

②【誤】
誤った組み合わせで、史実上の人物が実行していない政策を割り当てた場合は誤り。

③【誤】
(あ)と(い)の事績は正しいが、アに入れる文が「大韓帝国の時代に編纂された」とか「日本の植民地時代に編纂された」と逆になっていれば誤りとなる。

④【正】
たとえば(あ)が「戊戌の変法を実施した」ではなく、「庚戌の改革を断行した」等、正しい内容であり、(い)が「ハーグ万国平和会議に密使を派遣した」などと整合し、さらにアに「日本の保護領時代に編纂された」等の文が正しく当てはまっていれば符合する。朝鮮史の年代を押さえた結果として正解になる。

問25:正解3

<問題要旨>
「イに入れる文あ・い」と「ウに入れる語X・Y」の組合せを正しく選ぶ問題。第一次世界大戦期やそれ以降における戦争の終結状況、戦時体制、兵器の発達などが絡む。ここでは、あ・いが「この戦争は早期終結に至り、○○が講和された」か、「この戦争は総力戦状態となり、○○が採られた」かなどの差異、またウに挿入される具体的兵器や武器名称がX・Yとして候補になっている。

<選択肢>
①【誤】
(あ)を「この戦争は早期終結に至り、~」、(ウ)を「機関銃」とするなど、実際の第一次世界大戦が長期戦化した事実と噛み合わず誤りの可能性がある。

②【誤】
(あ)を「この戦争は長期化し、~」、(ウ)を「マスケット銃」など、時代的に合わない場合(マスケット銃は近世の火器)もある。

③【正】
(あ)「この戦争は総力戦状態となり、塹壕戦が長期化した」などの文が入り、(ウ)に「機関銃」や「毒ガス」が登場し、新兵器がもたらした影響を語る組合せが史実と合致する。本文で示された大戦の特徴(新兵器の開発や長期化)に適切に即していれば正解となる。

④【誤】
(あ)と(ウ)のいずれも誤った要素を組み合わせるか、第一次大戦と関係ない武器(マスケット銃)を持ち出すなど、本文の歴史的背景と合わない場合は誤りとなる。

問26:正解4

<問題要旨>
「下線部①について述べた文として最も適当なもの」を問う問題。第一次世界大戦後の国際秩序をめぐって講和条約や国際会議が相次いで開催されたが、その中でどの条約・会議が旧ドイツや旧オーストリアなどをどう取り扱ったのかが焦点である。

<選択肢>
①【誤】
「国際平和を確立するため、ベルリン会議(ベルリン=コンゴ会議)が開催された」は、これは19世紀後半のアフリカ分割に関する会議であって、第一次世界大戦後の流れと無関係。

②【誤】
「補助艦の保有数が、ジュネーヴ軍縮会議で制限された」は、ジュネーヴ軍縮会議やワシントン海軍軍縮条約など複数存在するが、ここで問う一次大戦後の国際秩序(特にヨーロッパの和解)とのかかわりからずれている可能性がある。

③【誤】
「旧支配国ドイツとの協調関係を樹立するため、ブレスト=リトフスク条約が締結された」は、これはロシア革命政府とドイツとの単独講和条約(1918年)を指す。一次大戦末期の動きだが、国際平和のための再協調とは性質が異なるため、文脈に合わない。

④【正】
「ケロッグ=ブリアン協定が締結され、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄することが宣言された」というのは1928年の協定で、第一次世界大戦後の国際平和構想の一環として歴史的に実在する。戦後の国際秩序をめぐる重要な協定であり、本文とも整合すると考えられる。

問27:正解1

<問題要旨>
第一次世界大戦の特徴に関する文(う・え)が正しいか否かを問う問題。大戦では新兵器の登場と、総力戦化による女性・労働力動員の拡大などが大きなトピックとなる。

<選択肢>
①【正】
(う)「毒ガスや戦車が、新兵器として使用された」は、実際に第一次世界大戦で初めて大量に導入された兵器であり、史実と合致する。
(え)「女性が、軍需産業に動員された」も、男性の兵士動員が増大したため工場労働力として女性が多数登用されたことは事実であり、正しいと言える。よって「う=正、え=正」の組合せは正解となる。

②【誤】
(う=正、え=誤) としているが、女性が軍需産業に動員されたのは事実なので「え=誤」とはならない。

③【誤】
(う=誤、え=正) としているが、「毒ガスや戦車が新兵器として使われた」は明らかに史実であるため「う=誤」は成立しない。

④【誤】
(う=誤、え=誤) としているが、両方とも実際には歴史的事実として確認されるため、誤りとなる。

第5問

問28:正解1

<問題要旨>
元朝の君主や、その統治体制についての空欄補充問題である。遊牧社会の慣習に基づきながら広大な領域を支配したモンゴル帝国の皇帝と、彼がどのように首都や体制を整備したかという点が問われている。

<選択肢>
①【正】
アに入る人物名を「フビライ」とし、イに入る文を「上都と大都を中心として、北京一帯からモンゴル高原にかける首都圏を建設した(Xに相当)」とする組合せは、史実に合致する。フビライは大都(現在の北京)と上都を拠点にしながら、遊牧社会の要素も織り込みつつ統治を行った。

②【誤】
アを「オゴタイ」など他の人物にしたり、イの文を「中国風の王朝名を称したが、遊牧社会の制度を強制し…」とするYとの組合せを誤って当てはめると、モンゴル帝国成立直後の政策や元の支配の特徴に噛み合わない可能性がある。

③【誤】
アに「チンギス=ハン」を当てた場合、首都として大都を築いたのはフビライの時代なので、首都建設と結びつけるのは時期が異なる。

④【誤】
イに入れる文を誤った場合、たとえば「中国伝統の官僚制度をまったく採用しなかった」とすると、実際には元朝期に科挙を部分的に復活させるなど、中国的制度を一定程度取り入れた時期もあるため、史実とずれる。

⑤・⑥【誤】
上記いずれの人物像・政策像とも合致しない組合せであれば誤りとなる。

問29:正解3

<問題要旨>
元朝期において用いられた王朝名(空欄ウ)と、その政治的特徴を尋ねる問題。資料中の文脈で「航州(杭)と呼ばれていた交通の拠点」などとも関連し、元朝の地方統治の一環が読み取れるかがポイントとなる。

<選択肢>
①【誤】
「兼容十六州が割譲された」といった表現は、遼・金などの時代の故事や地域割譲を混同した可能性があり、元朝における王朝名の説明とは乖離している。

②【誤】
「猛々・譲己という制度を敷いた」は、モンゴル高原の遊牧民同士の慣習などを連想させるが、元朝の正式な政治制度としては該当しない。

③【正】
「金と銀を兼幣制とし、複数の通貨体制を整えた」という説明は、元が紙幣(交鈔)や銀などを使い分けつつ行った決済制度を想起させる。元朝では地域や用途に応じて銀や紙幣を活用しており、史実上の特徴とも合致する。

④【誤】
「両班という支配階層が、政治的実権を握った」は、主に朝鮮王朝(李氏朝鮮)における特有の官僚・両班階層の話であり、元の王朝名に関連づけるには不適切である。

問30:正解6

<問題要旨>
「元代の交通と交易」をめぐって、生徒たちがそれぞれ作成したメモを比較し、だれの記述が正しいかを尋ねる問題。上都と大都、海上交易路、日本やキシミア(キプチャクなど)との流通などが史料中で語られたことを踏まえ、複数のメモが正しいか否かを検討する。

<選択肢>
①【誤】
「今井さんのみ正しい」とするには、松本さんや高木さんのメモが何らかの史実と矛盾していなければならない。しかし実際には他のメモも史実と合致する場合がある。

②【誤】
「松本さんのみ正しい」となるには、高木さん・今井さんの記述が誤りだが、元代の上都・大都・銀の決済制度といった点が正史と合っているなら本選択肢は誤りとなる。

③【誤】
「高木さんのみ正しい」は、上都・大都を結ぶ首都圏や海陸交通の発展という論点が高木さん以外のメモとも符合する場合、合致しない。

④【誤】
「今井さんと高木さんの二人のみ正しい」も、松本さんのメモが江南と大運河、海運を結びつける記述をしていて、史実的に誤りがないなら誤りとなる。

⑤【誤】
「高木さんと松本さんの二人のみ正しい」も、今井さんのメモ(上都と大都を結ぶ首都圏が陸上・海上交通を結び付けた)に誤りが見当たらなければ誤りとなる。

⑥【正】
「今井さんと松本さんも正しいし、高木さんのメモも正しい」という状況であれば、三者とも元代の交通・交易に関する注目点を事実に即して述べていると考えられる。こうした場合「三人のメモすべてが正しい」という選択が成立する。

問31:正解4

<問題要旨>
古代アテネと共和政ローマの自由や政治参加に関する記述を比較し、そのうち資料から読み取れる内容(あ・い)と、古典期のアテネ・共和政ローマに対する叙述(V・W)を正しく組み合わせる問題。市民がどのように自由を理解し、政治体制をどう捉えていたかが問われる。

<選択肢>
①【誤】
「あ=共和政期のローマでは市民全体に同じ自由が与えられると考えた」「い=古典期のアテネは、政治的な『平等』が最も重要だと考えた」としたうえでV・Wを逆に当てはめるなど、史実と噛み合わないケースがある。

②【誤】
「い=アテネが政治的平等主義を重視していた」点を外してしまうと、本文の資料が示す内容と食い違う。

③【誤】
あ・いそれぞれの内容認識が正しくても、V・Wの組合せを間違えると正答に結びつかない。

④【正】
あで「共和政期のローマ貴族は、市民全体が同様の自由を享受すべきと考えた」点を読み取り、いで「古典期のアテネは政治的平等を重視した」ことを踏まえ、V:「古典期のアテネでは、くじで役職選挙が実施されていた」およびW:「共和政期のローマでは、ホルテンシウス法が成立した後、貴族と平民を含む一部の層が政治の実権を握った」といった文脈を正しく対応させれば、最終的に組合せが成り立つ。

問32:正解2

<問題要旨>
「下線部(α)の歴史」に関して、古代ギリシアにおける債務や政治変革などを想起させる選択肢を選ぶ問題。ソロンやクレイステネスの改革などに言及されているかが手がかりとなる。

<選択肢>
①【誤】
「ゼンソが、債務によって市民が奴隷とされることを防いだ」は、ゼンソという人物よりも実際は「ソロン」が負債の帳消しなどを行ったとされる。表現が曖昧で史実と違う。

②【正】
「クレイステネスが、地縁に基づく10部族制を創設した」は、前6世紀末のアテネで実施された改革として史実に合致する。クレイステネスは血縁的要素から地縁的要素へ移行する形の部族編制を行い、民主政への基礎を築いた。

③【誤】
「へシオドに代表されるソフィストが現れた」は、へシオドは紀元前8世紀ごろの叙事詩人で、ソフィスト(紀元前5世紀ごろ活躍)とは時代も内容もずれる。

④【誤】
「平民会と護民官が設けられた」は、共和政ローマの制度であり、アテネの政治改革とは関係がない。

問33:正解1

<問題要旨>
フランスの第一共和政と古代ローマの共和政をめぐり、二人の生徒(高見さん・渡辺さん)がどのように比較しているか、その意見に当てはまる文章(エ・オ)を正しく組み合わせる問題。すなわち、フランス第一共和政で何が行われ、古代ローマ共和政とどう異同があるかが論点。

<選択肢>
①【正】
エに「議員を選挙で選ぶ議会があった(X)」のような文言、オに「独裁的な政治が行われた(Y)」または「女性に参政権があった(Z)」という文言が割り当てられているときに、それぞれ高見さん・渡辺さんの主張と噛み合い、「フランスの第一共和政ではエ(=選挙による議会)、古代ローマの共和政ではそれに該当する制度がなかったか異なった」という対比になり得る場合がある。もしこれが合致すれば①が正解となる。

②【誤】
「エ」に「独裁的な政治が行われた」を入れ、フランス第一共和政をそう断定した場合、史実を踏まえてもやや極端な表現となる。高見さんの意見と沿わない可能性がある。

③【誤】
「オ」に「女性に参政権(選挙権)があった」などを当ててしまうと、古代ローマでもフランス革命期でも女性参政権が全面的に認められていたわけではない。渡辺さんがそれを根拠に両者を区別しているなら、文脈と合わない。

④~⑥【誤】
いずれもエ・オの内容と高見さん・渡辺さんの見解が噛み合わないか、あるいは史実と整合しない場合、誤りとなる。

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