解答
解説
第1問
問1:正解④
<問題要旨>
清代の絵画(図1)とその作者(ア)、および清と対立した勢力(イ)に関する会話文を読み、アの人物名と、イに対する清の政策(康熙帝の政策)を組み合わせる問題です。
<選択肢>
①【誤】
アを「あ マテオ=リッチ」とするのが誤りです。マテオ=リッチは明末の宣教師です。図1の作者(ア)は円明園の設計に関わったとあり 、これは清の乾隆帝などに仕えたカスティリオーネ(い)です。また、政策文「X 軍機処を設置した」 のも誤りです。軍機処は雍正帝が設置しました。
②【誤】
アを「あ マテオ=リッチ」とするのが誤りです。
③【誤】
政策文「X 軍機処を設置した」 が誤りです。軍機処を設置したのは康熙帝ではなく雍正帝です。
④【正】
アは「い カスティリオーネ」 です。彼はイエズス会宣教師として清朝に仕え、円明園の設計にも参加しました 。 イ(ジュンガル) に対する清の政策として、「Y 康熙帝は、自ら軍を率いてモンゴル方面に遠征した」 は正しいです。康熙帝はジュンガルの指導者ガルダンを討つために3度親征(自ら遠征)を行いました。
⑤【誤】
アを「う アダム=シャール」 とするのが誤りです。アダム=シャールは明末から清初にかけて暦法(時憲暦)の作成で活躍した宣教師です。また、政策文「X 軍機処を設置した」 も誤りです。
⑥【誤】
アを「う アダム=シャール」 とするのが誤りです。
問2:正解①
<問題要旨>
清朝とチベット仏教の関係についての会話文 の空欄(ウ・エ)を補充する問題です。ウは清朝皇帝がとったチベット仏教における立場、エは図2 に描かれた人物(ジュンガルを滅ぼした皇帝)を指します。
<選択肢>
①【正】
清朝の皇帝、特に乾隆帝(エ)は、チベット仏教の「保護者」(ウ)として君臨し、モンゴルやチベットへの影響力を行使しました。また、イ(ジュンガル)を滅ぼして東トルキスタンを領有(新疆と命名)したのは乾隆帝(エ)の時代でした 。よって正しい組合せです。
②【誤】
エを「雍正帝」 とするのが誤りです。ジュンガルを最終的に滅ぼしたのは乾隆帝です。
③【誤】
ウを「指導者」 とするのが誤りです。チベット仏教の宗教的「指導者」はダライ=ラマなどであり、清朝皇帝は政治的・軍事的な「保護者」という立場をとりました。
④【誤】
ウを「指導者」 、エを「雍正帝」 とするのが誤りです。
問3:正解④
<問題要旨>
清代の藩部(モンゴル、新疆、チベット、青海など)であった地域の歴史について、最も適当な記述を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
内モンゴルのチャハル部を制圧したのは、ヌルハチではなく、その子のホンタイジです 。
②【誤】
19世紀後半、新疆のイリ地方を占領したのはイギリスではなくロシアです 。イリ条約(1881年)でロシアから清へ返還されました。
③【誤】
外モンゴル(モンゴル人民共和国)は、辛亥革命(1911年)に乗じて独立を宣言し、その後ロシア(ソヴィエト政権)の支援を受けて独立を達成しました 。日本の支援ではありません。
④【正】
1911年の辛亥革命で清朝が動揺すると、ダライ=ラマ13世はチベットの独立を宣言しました(1912年または1913年) 。これは史実と合致します。
問4:正解④
<問題要旨>
資料1・2 で題材となっている「ベーメン反乱」 から始まるヨーロッパの戦争を特定し、その戦争について正しく述べた文を選ぶ問題です。ベーメン(ボヘミア)の反乱をきっかけに、ハプスブルク家(オ家)、スペイン、フランス、ネーデルラント、イングランド、プロテスタント諸侯 などが介入したこの戦争は、三十年戦争(1618年~1648年)です。
<選択肢>
①【誤】
ルターの教えに触発され、ミュンツァーが指導したのは、ドイツ農民戦争(1524年~1525年)です 。
②【誤】
サン=バルテルミの虐殺(1572年)は、フランスのユグノー戦争中の出来事であり、三十年戦争(1618年~)より前です 。
③【誤】
ヨーク家とランカスター家が争ったのは、イギリスのバラ戦争(1455年~1485年)です 。
④【正】
三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約(1648年)では、アウクスブルクの和議(1555年)で認められたルター派に加え、カルヴァン派の信仰も公認されました 。
問5:正解②
<問題要旨>
空欄オ(オ家) 、すなわちハプスブルク家出身の君主について述べた文を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
アヴァール人を撃退し「大帝」と呼ばれたのは、フランク王国のカール大帝(カロリング家)です 。
②【正】
オーストリア継承戦争(1740年~1748年)を戦ったハプスブルク家のマリア=テレジアは、この戦争(および七年戦争)の結果、プロイセンに豊かな工業地帯シュレジエンを奪われました 。これは正しいです。
③【誤】
ウィーン体制下で神聖同盟(1815年)を提唱したのは、ロシア皇帝アレクサンドル1世(ロマノフ家)です 。
④【誤】
インド帝国の皇帝に即位した(1877年)のは、イギリスのヴィクトリア女王(ハノーヴァー家)です 。
問6:正解②
<問題要旨>
三十年戦争に関する二つのメモ の正誤を判断する問題です。
<選択肢>
①【誤】
メモ1 は誤りです。スウェーデン(グスタフ=アドルフ)の参戦理由は、プロテスタント擁護という宗教的側面と、バルト海覇権という政治的側面が不可分であり、「政治と宗教ははっきり区別されていた」 という主張の根拠にはなりません。
②【正】
メモ2 は正しいです。資料2 もハプスブルク家(オ家)の権力伸長 に対する各国の介入 を重視しています。カトリック国であるフランスが、政治的理由(反ハプスブルク)からプロテスタント側で介入したこと は、この戦争が単なる宗教対立ではなく、ヨーロッパの勢力争いであったことを示す好例です。
③【誤】
メモ1 が誤っています。
④【誤】
メモ2 が正しいです。
問7:正解③
<問題要旨>
オスマン帝国統治下のブルガリア人に関する文章 を読み、下線部「ブルガリア人としての明確な民族意識が希薄であった」 ことの背景を説明した文(あ・い) の正誤を判断する問題です。
<選択肢>
①【誤】
あ が誤りです。
②【誤】
あ が誤り、い が正しいです。
③【正】
「あ」 は誤りです。オスマン帝国では、非イスラーム教徒(キリスト教徒など)はジズヤ(人頭税)の支払い義務があり、法的に平等ではありませんでした。 「い」 は正しいです。オスマン帝国は、宗教共同体(ミッレト)単位での自治を認めており、ブルガリア人はギリシア正教会のミッレトに属していました。そのため、民族意識よりもギリシア正教徒としての一体感の方が強かったと考えられます。これは本文の記述 とも合致します。
④【誤】
い が正しいです。
問8:正解⑤
<問題要旨>
ブルガリアの独立過程に関する文章 の空欄補充です。カはブルガリアが自治国となった条約(19世紀後半)、キはブルガリアが独立を宣言した年の出来事を指します。
<選択肢>
①【誤】
「う 黒海が中立化された」 はパリ条約(1856年、クリミア戦争後)の内容です。
②【誤】
「う」 が誤りです。また、「Y ミドハト憲法の停止」 は1878年であり、ブルガリア独立(1908年)の年ではありません。
③【誤】
「え オスマン帝国がハンガリーを失った」 はカルロヴィッツ条約(1699年)の内容です。
④【誤】
「え」 「Y」 ともに誤りです。
⑤【正】
カ(自治国となった条約)は、ロシア=トルコ戦争(1877年~1878年)後のベルリン条約(1878年)を指します。この条約(会議)において、「お オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を獲得した」 ことも決定されました。 キ(独立宣言の年)は1908年です。この年には「X 青年トルコ革命の勃発」 が起こっており、ブルガリアはこの混乱に乗じて独立を宣言しました。
⑥【誤】
「Y」 が誤りです。
第2問
問1:正解②
<問題要旨>
ベトナム戦争の終結(1973年~1975年)に影響を与えた「1970年代初頭におけるアジアの冷戦構造の変化」 に該当する出来事を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
中ソ友好同盟相互援助条約の締結は1950年です 。1970年代初頭には中ソ対立が激化しており、逆の動向です。
②【正】
アメリカのニクソン大統領による中国訪問は1972年です 。米中が接近し、ソ連に対抗するという構図が生まれ、アジアの冷戦構造は大きく変化しました。これがベトナム和平(アメリカの撤退)にもつながりました。
③【誤】
中国の改革・開放政策の開始は1978年末からであり、「1970年代初頭」ではありません 。
④【誤】
韓国と北朝鮮の国際連合への同時加盟は、冷戦終結後の1991年です 。
問2:正解③
<問題要旨>
ベトナムにおける国家と民族の歴史 について、最も適当な記述を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
ベトナム北部が中国支配から独立したのは10世紀(呉朝など)です 。扶南は1世紀~7世紀頃にベトナム南部にあった国家で、関連性がありません。
②【誤】
パガン朝はビルマ(ミャンマー)の王朝です 。ベトナム中南部にあったインド文化を受容した国家はチャンパー(占城)などです。
③【正】
19世紀初頭(1802年)、阮福暎(グエン=フック=アイン、嘉隆帝)が西山朝を倒してベトナム全土を統一し、阮朝を創始しました。国号を(清の承認のもと)「越南(ベトナム)」と定めました 。
④【誤】
維新会(1904年)を組織したのはファン=ボイ=チャウです 。ホー=チ=ミン(阮愛国)はベトナム青年革命同志会(1925年)などを組織しました。
問3:正解①
<問題要旨>
ベネディクト=アンダーソンが『想像の共同体』を執筆するきっかけ となった、ベトナムのカンボジア侵攻や中越戦争に関する仮説 の空欄(ア・イ)を補充する問題です。
<選択肢>
①【正】
ベトナム戦争は、本文A にもある通り、「あ 冷戦下におけるイデオロギーをめぐる対立」(資本主義 vs 社会主義)という視点 で一般的に理解されていました(ア)。しかし、その後のカンボジア侵攻や中越戦争は、ベトナム、カンボジア(ポル=ポト政権)、中国という「X 同じ社会主義の国家」 同士の戦争(イ)でした。この事実は、従来のイデオロギー対立の視点(ア)では説明がつかなかったため、アンダーソンはナショナリズムという新たな視点を考察する必要に迫られたと考えられます。
②【誤】
イ が誤りです。これらの戦争は同じ「社会主義」国家間の戦争であった点が重要です。
③【誤】
ア が誤りです。ナショナリズム(い)の視点で見れば、民族が異なる国家間の戦争(イ)は理解可能であり、仮説の論理(理解できなかった)と矛盾します。
④【誤】
ア ・イ ともに仮説の文脈に合いません。
問4:正解②
<問題要旨>
1911年のメキシコへの外国投資に関する表 と、それに関する二人の生徒の発言 の正誤を判断する問題です。
<選択肢>
①【誤】
中村さんの発言 は誤りです。「石油の投資部門で他国を上回っています」 とありますが、表 では石油部門はイギリス(55%)がアメリカ(38%)を上回っています。また、「農民が豊かになりました」 も史実と異なり、この時期(ディアス政権)は農民が土地を失い困窮したためメキシコ革命 が起きました。
②【正】
藤田さんの発言 は正しいです。フランス(ナポレオン3世)がメキシコ出兵(1861年~1867年)に失敗した のは史実です。また、表 を見ると、フランスは「工業への投資で第一位」 (55%) であり 、読み取りも正しいです。
③【誤】
中村さんの発言 が誤っています。
④【誤】
藤田さんの発言 が正しいです。
問5:正解②
<問題要旨>
図I、II、III に描かれている歴史的出来事を、年代の古いものから順に正しく並べる問題です。
<選択肢>
①【誤】
II (1910年代) と III (1867年) の順序が誤りです。
②【正】
I:ゴヤ作で、ナポレオン軍によるスペイン市民の処刑(1808年)を描いています 。 III:マネ作で、メキシコ皇帝(マクシミリアン)の銃殺場面(1867年)を描いています 。 II:リベラ作の壁画で、メキシコ革命(1910年~)の指導者サパタ とスローガン「土地と自由」(1910年代) が描かれています。 したがって、I → III → II の順となります。
③【誤】
II (1910年代) が最初に来ているのが誤りです。
④【誤】
II (1910年代) が最初に来ているのが誤りです。
⑤【誤】
III (1867年) が最初に来ているのが誤りです。
⑥【誤】
III (1867年) が最初に来ているのが誤りです。
第3問
問1:正解④
<問題要旨>
民国元年(1912年) よりも後に起こった出来事について述べた文を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】 総理各国事務衙門(総理衙門)の設置は、アロー戦争後の1861年(清朝)です 。
②【誤】 中国同盟会の結成は、1905年(清末)です 。
③【誤】 興中会の結成は、1894年(清末)です 。
④【正】 中国共産党の結成(第一回党大会)は、1921年(中華民国期)です 。1912年より後です。
問2:正解③
<問題要旨> 台湾の民主化に関する会話文 の空欄補充(ア) と、アジアの民主化(下線部⑧) に関する文(X・Y) の組合せ問題です。
<選択肢>
①【誤】
アを「あ「文化政治」の採用」 とするのが誤りです。「文化政治」は1920年代に日本が朝鮮で行った統治方針です。空欄アは蔣経国時代(1978年~1988年) の民主化の動きであり、「い 戒厳令の解除」(1987年) が該当します。
②【誤】
ア(あ) とY(光州事件は韓国) の両方が誤りです。
③【正】
アは「い 戒厳令の解除」 です。蔣経国は1987年に戒厳令を解除し、台湾の民主化が本格化するきっかけを作りました。 下線部⑧(アジアの民主化) に関し、「X インドネシアでスハルト政権が崩壊した」 は正しいです。1998年、アジア通貨危機を背景にスハルトの長期独裁政権が倒れました。
④【誤】
Yを「中国で光州事件が起こった」 とするのが誤りです。光州事件は1980年の韓国での民主化運動弾圧事件です。
問3:正解②
<問題要旨>
台湾の政治史 と経済成長率のグラフ を踏まえた、二人の生徒のメモ の正誤を判断する問題です。
<選択肢>
①【誤】
山岸さんのメモ は誤りです。第1次石油危機(1973年)の翌年(1974年)からの5年間(1974年~1978年) には、グラフ によると1976年、1977年、1978年に経済成長率が10%を超えています。「10%を上回った年はなかった」 という記述は誤りです。
②【正】
嶋田さんのメモ は正しいです。李登輝の総統在任時期(1988年~2000年) の経済成長率は、グラフ で1998年(約4%) のみ5%を下回りますが、他はすべて5%を超えています 。また、最後の年(2000年) の総統選挙で民進党の陳水扁が勝利し、初の政権交代が起きた のも史実です。
③【誤】
山岸さんのメモ が誤っています。
④【誤】
嶋田さんのメモ が正しいです。
問4:正解③
<問題要旨>
イギリスの植民地支配 に関連し、イギリスが自国の植民地以外の地域に経済進出しようとした事例 を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
イギリス連邦経済会議(オタワ会議、1932年)は、自国と植民地(連邦内)との結びつきを強めるブロック経済政策であり、植民地以外への進出とは言い難いです 。
②【誤】
ラテンアメリカ諸国の独立(19世紀前半)を支持し、経済進出を図ったイギリス外相はカニングです 。ジョセフ=チェンバレン は19世紀末の帝国主義政策(南アフリカ戦争など)を推進した植民相です。
③【正】
アヘン戦争(1840年~1842年)の結果、イギリスは南京条約などで清(植民地ではない)に開国させ、協定関税(関税自主権の喪失)などを認めさせることで、不平等条約下に経済進出を果たしました 。
④【誤】
オスマン帝国がイギリス商人に特権(カピチュレーション)を認めたのは16世紀末であり、「19世紀後半に初めて」 ではありません。
問5:正解①
<問題要旨>
アフリカ南部のイギリス植民地に関する会話文 と人口統計表 を読み、表の空欄イ・ウに入る地域名と、文中の空欄エに入る文(トランスヴァール共和国などの説明)を組み合わせる問題です。
<選択肢>
①【正】
イ・ウの分析:本文 に「ベチュアナランドは、白人の割合が圧倒的に低かった」 とあり、表 のイ(白人0.8%)がベチュアナランドに該当します。一方、「ナタール植民地は、白人の割合が(ケープ植民地と同様に)高かった」 とあり、ウ(白人8.8%)がナタールに該当します。 エの分析:トランスヴァール共和国とオレンジ自由国は、1895年時点ではブーア人の独立国でしたが、南アフリカ戦争(1899年~1902年)でイギリスに敗れて植民地となりました。したがって「あ 1895年の地図では独立していますが、後にイギリスの植民地になりました」 が正しいです。 組合せは「イ=ベチュアナランド保護領、ウ=ナタール植民地、エ=あ」 となります。
②【誤】
エが誤りです。「い 独立を維持しました」 ではなく、併合されました。
③【誤】
イとウが逆です。ベチュアナランドの方が白人比率が「圧倒的に低い」 です。
④【誤】
イ、ウ、エのすべてが誤りです。
第4問
問1:正解③
<問題要旨>
サラーフ=アッディーン(サラディン)によって建てられた王朝(アイユーブ朝) が、クーデタで倒された 後に誕生した新王朝についての記述を選ぶ問題です。アイユーブ朝を倒してエジプトに成立したのはマムルーク朝です。
<選択肢>
①【誤】
カイロを建設し、首都としたのは、ファーティマ朝(10世紀)です 。
②【誤】
トゥグリル=ベクはセルジューク朝の建国者です。1055年にバグダードに入城しました 。
③【正】
マムルーク朝は、1260年のアイン=ジャールートの戦いで、モンゴル帝国(イル=ハン国)の侵攻軍を破り、シリア・エジプトへの西進を阻止しました 。
④【誤】
アンカラの戦い(1402年)でオスマン軍を破ったのは、ティムール朝のティムールです 。
問2:正解④
<問題要旨>
フランス王(ルイ9世)が、エジプトの新王朝(マムルーク朝)とダマスクスの旧王朝(アイユーブ朝残存勢力)との間でどのような行動をとったか、資料 を読み解く問題です。
<選択肢>
①【誤】
十字軍(第7回十字軍)はエジプト攻撃に失敗し、王は捕虜となっています 。また、王は両者を和解させたのではなく、エジプト側につきました 。
②【誤】
王は「エジプトの将軍に協力する」(=ダマスクスの勢力に対抗する手助けをする) ことを選んでおり、「どちらにも協力しなかった」 わけではありません。
③【誤】
遠征は成功していません 。また、協力したのはダマスクス側ではなくエジプト側です 。
④【正】
「十字軍遠征に失敗した王」(ルイ9世) は、ダマスクスとエジプトの双方から協力要請を受けました 。最終的にエジプト側が「イェルサレムを王に引き渡す」 ことを条件としたため、王は「エジプトの将軍に協力する」(=ダマスクスと敵対する) ことを選びました。資料の内容と合致しています。
問3:正解③
<問題要旨>
資料 に登場する王(エジプトを攻撃したフランス王=ルイ9世) の事績(あ・い) と、彼が主導した十字軍(第7回十字軍)の経路として最も適当な経路(a~c) との組合せとして正しいものを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
経路a(陸路) ではありません。
②【誤】
経路b(コンスタンティノープル攻撃) は第4回十字軍です。
③【正】
事績「あ 王権を南フランスに拡大させた」 は正しいです。ルイ9世はアルビジョワ十字軍の成果を継承し、南フランスでの王領を固めました。 経路「c」 は、フランス南部から海路でエジプトに向かうルート を示しており、「エジプトを攻撃した」 第7回十字軍の経路として正しいです。
④【誤】
事績「い 教皇ボニファティウス8世と対立した」 はフィリップ4世の事績です。経路a も誤りです。
⑤【誤】
事績「い」 と経路「b」 の両方が誤りです。
⑥【誤】
事績「い」 が誤りです。
問4:正解②
<問題要旨>
朝鮮王朝の武将、李舜臣 の事績について述べた文を選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
衛所制は、明(中国)の軍事制度です 。
②【正】
李舜臣は、16世紀末の豊臣秀吉による朝鮮侵攻(壬辰・丁酉の倭乱、文禄・慶長の役) において、朝鮮水軍を率いて日本軍(倭)と戦い、これを撃退する上で大きな功績を挙げました 。選択肢ではこれを「倭寇の討伐」 と表現していますが、文脈(16世紀末の侵攻)と他の選択肢の明確な誤りから、これが正解となります。
③【誤】
朝鮮通信使は、秀吉の侵攻後、国交を回復した江戸幕府に対して朝鮮王朝が派遣した使節団です 。李舜臣は侵攻中に戦死しており、関わっていません。
④【誤】
八旗は、後金(清)のヌルハチが編成した社会・軍事組織です 。
問5:正解③
<問題要旨>
『朝鮮王朝実録』が、従来の都市部から「各地の山の中に保管されるようになった」 きっかけを、本文 に基づいて選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
焚書・坑儒は、中国の秦の始皇帝による思想弾圧です 。
②【誤】
『大蔵経』の作成(高麗版大蔵経)は、仏教が盛んだった高麗時代の出来事です 。
③【正】
本文 に、「16世紀末に外国勢力の侵攻を受け」て「4部あった実録のうち、3部が焼失」し、その後の復刊に際して「再度の焼失の危険を避けるために、実録は各地の山の中に保管されるようになった」と明記されています。この16世紀末の侵攻とは豊臣秀吉の侵攻(文禄・慶長の役)を指します 。
④【誤】
金属活字による書物の出版は高麗時代末期から行われており、17世紀初頭 の保管場所変更の直接的なきっかけではありません 。
問6:正解④
<問題要旨>
朝鮮王朝第26代君主「高宗」(下線部◎) の事績(あ・い) と、高宗・純宗の実録が『朝鮮王朝実録』に含まれない理由(ア) の組合せ問題です。
<選択肢>
①【誤】
事績「あ 戊戌の変法を実施した」 は中国(清)の出来事です。理由「X 大韓帝国の時代に編纂された」 も誤りです(編纂は1927年~) 。
②【誤】
事績「あ」 が誤りです。
③【誤】
理由「X」 が誤りです。
④【正】
事績「い ハーグ万国平和会議に密使を派遣した」 は正しいです。高宗は1907年、日本の韓国保護国化に抗議するため密使を送りました(ハーグ密使事件)。 理由「Y 日本の植民地時代に編纂された」 も正しいです。高宗・純宗の実録が編纂された時期(1927年~1935年) は、日本統治時代(1910年~1945年)にあたります。そのため、日本側の意向が反映された可能性があり、朝鮮王朝の正史とは区別されています。
問7:正解③
<問題要旨>
第一次世界大戦中の塹壕戦 に関する会話文の空欄(イ・ウ)を補充する問題です。イは塹壕が掘られた背景 、ウは写真1 に写る新兵器 を指します。
<選択肢>
①【誤】
イ が誤りです。マルヌの戦い(1914年) の結果、戦争は早期終結せず、長期化しました。
②【誤】
イ が誤りです。ウの「Y マスケット銃」 も誤りです。マスケット銃は近世の火器であり、第一次世界大戦の連射兵器ではありません。
③【正】
イは「い この戦争は膠着状態となり、塹壕が掘られた」 が正しいです。マルヌの戦い でドイツ軍の進撃が止まり、西部戦線は膠着状態(塹壕戦)に陥りました。 ウは「X 機関銃」 が正しいです。写真1 の形状や「多くの銃弾を連射できる」 との記述から機関銃と判断でき、第一次世界大戦で多用された新兵器です。
④【誤】
ウ(Y) が誤りです。
問8:正解④
<問題要旨>
両大戦間期(1919年~1939年)における「平和構築を目指す国際的な試み」(下線部④) として適当なものを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
ベルリン会議(1878年)やベルリン=コンゴ会議(1884年~1885年)は、第一次世界大戦前の帝国主義時代の出来事です 。
②【誤】
ジュネーヴ海軍軍縮会議(1927年)は、補助艦の保有制限を目指しましたが、各国の対立により「制限」には至らず、失敗に終わりました 。
③【誤】
ブレスト=リトフスク条約(1918年3月)は、ロシアのソヴィエト政権がドイツ側と結んだ単独講和条約であり、戦後の「平和構築」のための国際協調とは趣旨が異なります 。
④【正】
ケロッグ=ブリアン協定(不戦条約、1928年)は、アメリカとフランスが提唱し、多くの国が署名しました。国際紛争解決手段としての戦争を放棄することを宣言した、両大戦間期の代表的な平和構築の試みです 。
問9:正解①
<問題要旨>
会話文 と写真 を参考に、第一次世界大戦の特徴について述べた文(う・え) の正誤を判断する問題です。
<選択肢>
①【正】
「う 毒ガスや戦車が、新兵器として使用された」 は正しいです。本文でも「マスクのようなもの」(毒ガスを示唆) や「新兵器の開発」 に言及されており、毒ガス、戦車、機関銃、飛行機、潜水艦などは第一次世界大戦で本格的に使用された新兵器です。 「え 女性が、軍需産業に動員された」 も正しいです。写真2 や本文 にある通り、男性が兵士として前線に動員されたため、女性が「銃後」の工場(軍需産業など)で労働力として動員されました(総力戦) 。
②【誤】
え が正しいです。
③【誤】
う が正しいです。
④【誤】
う ・え ともに正しいです。
第5問
問1:正解①
<問題要旨>
元代の首都圏に関する会話文 の空欄(ア・イ)を補充する問題です。アは上都と大都を建設した人物 、イはその人物の行動を説明した文 です。
<選択肢>
①【正】
アは「あ フビライ」 です。フビライ(元世祖)が、モンゴル高原の夏の都・上都(開平府)と、中国北部の冬の都・大都(北京)を建設しました 。 イは「X 上都と大都を中心として、北京一帯からモンゴル高原に広がる首都圏を建設した」 が正しいです。本文 の記述と合致します。
②【誤】
イ が誤りです。「Y 中国の伝統的な官僚制度は採用しなかった」 とありますが、元朝は中書省など中国の官僚制度も部分的に採用しました。
③【誤】
ア が誤りです。「い オゴタイ」 の首都はカラコルムです。
④【誤】
ア(い) とイ(Y) の両方が誤りです。
⑤【誤】
ア が誤りです。「う チンギス=ハン」 の首都もカラコルムです。
⑥【誤】
ア(う) とイ(Y) の両方が誤りです。
問2:正解③
<問題要旨>
空欄ウ(元に滅ぼされた 、都が臨安(杭州) の王朝)についての記述を選ぶ問題です。臨安を都とし、元に滅ぼされたのは南宋です。
<選択肢>
①【誤】
燕雲十六州を遼に割譲したのは、五代十国の後晋です 。
②【誤】
猛安・謀克は、金(女真族)の制度です 。
③【正】
南宋は、北方の金と対立し、紹興の和議(1142年)で淮河を国境線と定め、臣下の礼をとるなど、屈辱的な和議を結びました 。
④【誤】
両班(ヤンバン)は、高麗や朝鮮王朝の支配階層です 。
問3:正解⑥
<問題要旨>
元代の交通と交易に関する三人の生徒のメモ の正誤を、本文 を参考に判断する問題です。
<選択肢>
①【誤】 松本さんのメモ も正しいです。
②【誤】 今井さんのメモ も正しいです。
③【誤】 高木さんのメモ は誤りです。「メキシコ銀」 が中国に流入するのは16世紀以降であり、元代(13~14世紀)ではありません。
④【誤】 高木さんのメモ が誤りです。
⑤【誤】 高木さんのメモ が誤りです。
⑥【正】
今井さんのメモ :本文 の「首都圏は陸上と海上の交通交易路の結節点」という記述と合致し、正しいです。 高木さんのメモ :「メキシコ銀」 の記述が時代的に誤りです。 松本さんのメモ :元は大運河と海運で江南と大都を結びました。杭州(臨安) は大運河の起点 であり、海上交通の拠点でもあったため、正しいです。 よって、今井さん と松本さん の二人が正しいです。
問4:正解④
<問題要旨>
古代ローマとアテネの「自由」の理解の違いに関する資料 を読み、資料から読み取れる内容(あ・い) と、両者に関する史実(V・W) の組合せを選ぶ問題です。
<選択肢>
①【誤】
あ(ローマ貴族は平等な自由を志向) は資料 と逆で誤りです。V(アテネの役職は多くが選挙) も誤りです(多くは抽籤)。
②【誤】
あ が誤りです。
③【誤】
V が誤りです。
④【正】
読解「い 古典期のアテネ人は、政治的な「平等」が何よりも重要だと考えた」 は、資料 の「「平等」が本質的な前提であった」と合致し、正しいです。 史実「W 共和政期のローマでは、ホルテンシウス法が成立した後、貴族と富裕な一部の平民が新しい支配層(ノビレス)となって政治の実権を握った」 は史実として正しいです。
問5:正解②
<問題要旨> 下線部「アテネの民主政」 の歴史について、最も適当な記述を選ぶ問題です。
<選択肢> ①【誤】 債務によって市民が奴隷とされることを防いだのはソロンです 。ゼノン はストア派の創始者です。
②【正】 クレイステネスは、前6世紀末に従来の血縁に基づく部族制を解体し、地縁に基づく10部族制を創設するなど、アテネ民主政の基盤を確立しました 。
③【誤】 ヘシオドス は前8世紀~前7世紀頃の詩人であり、ソフィスト(前5世紀頃の思想家・弁論家) ではありません。
④【誤】 平民会と護民官 は、古代ローマの共和政で設置されました。
問6:正解①
<問題要旨>
「古代ローマの共和政」 と「フランスで最初に成立した共和政」 を比較した二つの意見 の空欄(エ=類似点、オ=相違点)を補充する問題です。
<選択肢>
①【正】
エ(類似点):「X 独裁的な政治が行われた」 。ローマ共和政末期(スッラ、カエサルなど)と、フランス第一共和政(ロベスピエールの恐怖政治)は、ともに独裁的な政治が出現した点で類似していると言えます 。 オ(相違点):「Y 議員を選挙で選ぶ議会があった」 。フランス第一共和政の国民公会は選挙で選ばれましたが、ローマ共和政の元老院は市民による直接選挙で選ばれるものではありませんでした 。これは明確な相違点です 。
②【誤】
オが誤りです。「Z 女性に参政権(選挙権)があった」 は、フランス第一共和政でもローマでも実現しておらず、相違点になりません。
③【誤】
エ とオ の文が逆です。
④【誤】
オ(Z) が誤りです。
⑤【誤】
エ(Z) が誤りです。
⑥【誤】
エ(Z) が誤りです。

