2020年度 大学入試センター試験 本試験 日本史B 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解1

<問題要旨>
近代的な学校制度の始まりと、キリスト教の宣教師による日本への布教について問う問題です。本文では、文部省の設置翌年に公布された近代的教育制度を示す語句(ア)と、16世紀半ばに来航したイエズス会宣教師(イ)に関する組合せを尋ねています。

<選択肢>
①【正】「ア=学制」「イ=フランシスコ=ザビエル」の組合せです。1871年に文部省が設置された翌年(1872年)に制定されたのが「学制」であり、16世紀半ば(1549年)に来日したイエズス会宣教師がフランシスコ=ザビエルであるため、この組合せが正しいと考えられます。

②【誤】「ア=学制」「イ=ヤン=ヨーステン」の組合せです。ヤン=ヨーステンは17世紀初頭に来日したオランダ人(オランダ船リーフデ号の乗組員)であり、キリスト教宣教師ではありません。そのため本文の記述と一致しません。

③【誤】「ア=教育令」「イ=フランシスコ=ザビエル」の組合せです。「教育令」は1879年の制度であり、文部省設置(1871年)翌年に公布された近代的学校制度(1872年の学制)とは異なります。

④【誤】「ア=教育令」「イ=ヤン=ヨーステン」の組合せです。上記③と同様、「教育令」は本文で示す最初の近代的学校制度(学制)とは合いません。また「イ」にヤン=ヨーステンをあてはめる点も、宣教師に関する本文の流れと矛盾します。

問2:正解1

<問題要旨>
提示された図1(平安京の復元図の一部)と図2(『続日本紀』の写本)について、「X:大学別曹の所在地を示す」「Y:金沢文庫の由来」を述べた文の正誤を問う問題です。藤原氏の大学別曹や北条実時による金沢文庫の設立が正しく言及されているかを判断する内容です。

<選択肢>
①【正】Xが正しく、Yも正しい組合せです。

  • Xについて:藤原氏は貴族として自家出身者の教育や学問奨励のために大学別曹を設置しましたが、平安京の図にその所在を示す記述は史料的にもあり得ます。
  • Yについて:金沢文庫は鎌倉時代に北条実時が金沢(現在の神奈川県横浜市金沢区)に設けた図書館で、そこに『続日本紀』写本が収蔵されていたというのも史実に即しています。

②【誤】Xが正しく、Yが誤っている組合せです。問題文の内容がともに正しいと読めるため、Yを誤りとみなす根拠は見当たりません。

③【誤】Xが誤りで、Yが正しい組合せです。図1に大学別曹が示されている点は史実と合致するため、Xを誤りとするのは妥当ではありません。

④【誤】Xが誤り、Yが誤りの組合せです。大学別曹の所在に関する言及や金沢文庫に関する言及がともに誤りとする理由は本文や史実と照らして見つかりません。

問3:正解4

<問題要旨>
古代から近現代に至るまでの日本の教育制度・教育観の流れをまとめた文章を読み、選択肢の中から正しい記述を選ぶ問題です。寺院での庶民教育、武士の子弟による寺院での学び、さらに町人が出資して寺子屋や懇徳堂を開設したこと、日中戦争下での国民学校への改称など、時代ごとの教育の特色に着目する必要があります。

<選択肢>
①【誤】「平安時代に空也が設けた綜芸種智院で庶民も教育を受けることができた」という趣旨です。空也の名や綜芸種智院は醍醐天皇期の学問所に関連して混同されやすい話題ですが、庶民が広く学んだというかたちで取り上げるには時期や制度の実態にずれがあります。

②【誤】「室町時代の地方武士の子弟は寺院などに預けられ、『読史余論』などを使った教育を受けていた」という趣旨ですが、『読史余論』は江戸時代初期に書かれた著作で、室町時代の地方武士の教育内容としては不自然です。

③【誤】「江戸時代に町人たちが資金を出し合い、京都に町人教育のための懇徳堂を開いた」という趣旨です。懇徳堂は大阪の町人らが設立した町人教育施設として知られ、京都ではなく大坂での事例が有名です。

④【正】「日中戦争が長期化するなか、小学校が国民学校へ改められ、国家主義的な教育が強化された」という趣旨です。1941年(太平洋戦争前夜)に小学校を国民学校と改称し、国家主義的な教育が強まったことは史実として正しいため、これが正解となります。

問4:正解5

<問題要旨>
外国から伝わった新たな技術が、その後の日本にどのような影響を与えたかを年代順(古いもの→新しいもの)に並べかえる問題です。本文中では「海外からの技術導入」や「日本国内への伝播」の事例が挙げられており、それぞれの年代を正しく把握して並べる必要があります。

選択肢は I・II・III の文をどの順番に並べるか(①~⑥)で示されますが、ここでは正解が「⑤ III – I – II」だったと考えられます。以下、それぞれの文の内容とおおよその年代を踏まえた検討です。

<選択肢>
① I – II – III【誤】
海外技術の導入時期を考えると、ヨーロッパ式の鉄砲伝来(I)は16世紀半ば、朝鮮人陶工による新技術(II)は16世紀末~17世紀初頭にかけて伝わったとされますが、東大寺再建への陳和卿(III)は鎌倉時代前期(13世紀)頃に活躍したとされ、年代順に当てはめるとこの順ではありません。

② I – III – II【誤】
(III)の陳和卿は(II)の朝鮮人陶工よりも早い時代ですが、(I)の種子島への鉄砲伝来(1543年頃)と(III)の東大寺再建(13世紀初頭)の順序が逆転しており、この並びでは時系列が合いません。

③ I – I – III【誤】
表記ゆれか誤記の可能性がありますが、いずれにせよ年代の前後関係を考慮すると不自然になります。

④ II – III – I【誤】
秀吉の朝鮮侵略の際に連れてこられた陶工の話(16世紀末~17世紀初頭)を最初に置き、そのあとに13世紀の陳和卿を置き、最後に16世紀半ばの鉄砲伝来を置くため時代が前後し、正しい時系列になりません。

⑤ III – I – II【正】
陳和卿(鎌倉時代初期、13世紀)→ 鉄砲の伝来(16世紀中頃)→ 朝鮮出身の陶工による新技術の伝播(16世紀末~17世紀初頭)という順に並ぶため、最も古いものから新しいものへと正しい年代順に合致します。

⑥ III – II – I【誤】
陳和卿(13世紀)の後に陶工(16世紀末~17世紀初頭)、さらに鉄砲伝来(16世紀中頃)という順序になっており、鉄砲伝来より陶工の新技術伝播を先に置いている点で年代が逆転しています。

問5:正解3

<問題要旨>
「X・Y」として提示された2つの文が、それぞれ歴史書や歴史人物に関する説明文かどうかを判断し、さらにその文に対応する語句 a~d(『今昔物語集』・『栄華(栄花)物語』・本居宣長・伊藤仁斎)を正しく組み合わせる問題です。主に平安~鎌倉期の歴史物語や、近世国学者・儒学者の事績が問われています。

<選択肢>
① X=a、Y=c【誤】
Xを『今昔物語集』とする場合、それは説話集にあたります。藤原氏の繁栄を描くことを目的とした華やかな歴史物語とは性格が異なります。またYを本居宣長とするのも、古事記伝などの国学研究と説明文の内容が合わない恐れがあります。

② X=a、Y=d【誤】
Xを『今昔物語集』、Yを伊藤仁斎にした場合、伊藤仁斎は儒学者であり、日本古来の思想・生活を究明する人物というよりは朱子学批判・古義学の提唱で知られています。選択肢の文意とはずれがあります。

③ X=b、Y=c【正】
X「この書物は、藤原氏の繁栄の歴史を描くことを目的に、かなを用いて著された」→ これは『栄華(栄花)物語』の特徴と合致します。平安時代後期に書かれた編年体の歴史物語で、藤原道長を中心とする摂関家の栄華を描き、かな文学としても有名です。
Y「この人物は、仏教や儒教が伝わる前の日本古来の思想や生活を究明する目的で、歴史書の研究を進めた」→ これは本居宣長の国学研究(『古事記伝』など)を想起させ、神代からの日本の思想を探究した人物として知られています。

④ X=b、Y=d【誤】
Yを伊藤仁斎にしてしまうと、本居宣長のような古事記などの研究を通じて日本古来の思想を究明した人物像とは重なりません。

問6:正解3

<問題要旨>
提示された史料(津田左右吉が『古事記』『日本書紀』の性質を分析している研究)の一部をもとに、本文中にある「記紀の上代部分」に関する論点や、その研究が出版された時期の思想・政治状況を踏まえた選択肢 a~d を正しく組み合わせる問題です。大正期における歴史学の出版事情や、言論統制などの影響をふまえながら、どの主張がいつの時期にどのように提示されたかを検討する必要があります。

<選択肢>
① a・c【誤】
a「津田は、記紀の上代の記述には編纂当時の人々の手が加わっていないので史実とみなせると主張している」
c「史料の書籍が刊行された大正期には、吉野作造が民意を政治に反映させるべきだと主張した」
史料を読む限り、津田左右吉はむしろ「編纂当時の思想や文脈が反映されている」という観点から批判的に分析した人物として知られています。

② a・d【誤】
aは①と同じく誤りの可能性が高く、d「史料が刊行された大正期に、三宅雪嶺が『日本人』を創刊し、国粋(国粋保存)主義を唱えた」も、大正期という時代状況とは少しずれており、三宅雪嶺は明治期から国粋主義を唱えていますが、問題文の流れと組合せるには根拠が弱いです。

③ b・c【正】
b「津田は、記紀の上代の記述には編纂当時の思想がよく表れていると主張している」→ これは津田左右吉の研究姿勢を示す定評ある見解に近いです。
c「史料の書籍が刊行された大正期には、吉野作造が民意を政治に反映させるべきだと主張した」→ 吉野作造は大正デモクラシーを代表する論客として、民本主義を提唱していたことで知られ、大正期の思想状況とも一致します。

④ b・d【誤】
dは三宅雪嶺の主張と発行誌『日本人』の創刊(明治期)を指しており、大正期に焦点を当てるならば吉野作造の民本主義の方が史料文の流れに合致します。以上の点から、この組合せは不適当といえます。

第2問

問7:正解4

<問題要旨>
律令国家が成立した初期に、中央政府が九州南部(隼人の居住地)や東北地方(蝦夷の居住地)をどのように支配下に組み入れたかを問う問題です。本文では、九州南部に新たな国を設置したこと(ア)と、東北地方で国府とともに置かれた施設(イ)についての記述を読み取り、正しい組合せを判断する必要があります。

<選択肢>
① ア=肥後国 イ=大宰府【誤】
 肥後国は古くから存在した熊本県周辺の国名であり、「8世紀初頭に薩摩国に続けて新たに置いた国」という本文の趣旨に合いません。また、大宰府は九州北部を管轄する役所であり、本文中で言及される東北地方の国府周辺とは関係が薄いです。

② ア=肥後国 イ=鎮守府【誤】
 アが肥後国になる点は①と同様、不適切です。さらに鎮守府は東北地方の蝦夷支配の拠点として多賀城などに置かれた施設であり、こちらは本文後半の東北の記述と結びつくものの、ア=肥後国の前提が誤っています。

③ ア=大隅国 イ=大宰府【誤】
 大隅国は8世紀初頭、薩摩国に続けて九州南部に設置された国として本文の流れに合致しますが、イを「大宰府」とするのは不適切です。九州南部ではなく東北地方における施設としては「鎮守府」が置かれた点が本文から読み取れます。

④ ア=大隅国 イ=鎮守府【正】
 大隅国は薩摩国に続いて九州南部に設けられ、720年には隼人の反乱が起こったことが記録されています。また東北地方の多賀城では、陸奥国府とともに鎮守府が置かれたとされ、本文の記述と時系列が一致します。したがって、この組合せが最も適切です。

問8:正解1

<問題要旨>
下線部(ア)に関連して、北海道や東北地方、南西諸島など律令国家成立期の周辺地域の様相を述べた文 a~d から、正しい組合せを選ぶ問題です。各地の考古遺跡や文化(縄文文化・弥生文化・貝塚文化など)の違いを正しく把握することで正誤を判断します。

<選択肢>
① a・c【正】
 a「東北地方では、縄文時代の遺跡として三内丸山遺跡が発見されている」
 → 三内丸山遺跡は青森県にある縄文時代中期の大規模集落遺跡で、東北地方の縄文遺跡として知られています。
 c「南西諸島では、弥生文化とは異なる貝塚文化が展開した島々があった」
 → 沖縄や奄美を含む南西諸島には、本土の弥生文化とは系統が異なる貝塚文化が続いていた地域が存在したとされ、本文の説明と合致します。

② a・d【誤】
 d「種子島・屋久島は、10世紀になってから中央政府の支配領域に組み込まれた」
 → 本文には南九州への支配拡張の記述が出てきますが、10世紀以降という限定的な時期設定には疑問点が残ります。また a・d の組合せでは c の記述を排除する形となり、三内丸山遺跡と併せた説明としては不整合です。

③ b・c【誤】
 b「北海道では、弥生時代になると水稲耕作が行われるようになった」
 → 北海道では当時、続縄文文化が継続しており、本州のような本格的水稲耕作が一気に広がったわけではありません。したがって b の内容には疑義が生じます。

④ b・d【誤】
 b・d いずれの内容も、本文や考古学的見解と齟齬を来す点があり、正しいとみなすのは難しいです。

問9:正解1

<問題要旨>
図1(下野国府跡)と図2(徳丹城跡)を比較し、X・Y の文から分かる施設配置の特徴を問う問題です。国府(地方統治の拠点)と、城柵(蝦夷への対処や支配の拠点)とでは構造に違いがあるかどうか、図の記号・配置から読み取る必要があります。

<選択肢>
① X=正 Y=正【正】
 X「下野国府にも徳丹城にも、政庁とは別に役人が執務する施設が置かれている」
 → 図中の官衙(官庁)や曹司(役所)と呼ばれる建物が配置されており、両方に類似の行政施設が存在します。
 Y「徳丹城は下野国府とは異なり、政庁と役所などを囲む外郭を備えている」
 → 図2の徳丹城には外郭が描かれていることが確認でき、柵や城壁の存在を示す構造が国府跡と異なる大きな特徴となります。

② X=正 Y=誤【誤】
 Y の指摘が本文・図に即して正しいため、これを誤りとみなす根拠は見当たりません。

③ X=誤 Y=正【誤】
 X の「両方に政庁のほかにも執務施設がある」という記述は図1と図2の共通点として認められ、X を誤りとすることはできません。

④ X=誤 Y=誤【誤】
 X も Y も本文・図から読み取れる内容に合致しているため、両方とも誤りとはいえません。

問10:正解3

<問題要旨>
奈良時代以降の蝦夷の抵抗と、それに対応するために築かれた城柵の名称を問う問題です。本文では「780年に◯◯が反乱を起こした」「坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、北上川中流域に◯◯城を築く」といった記述を読み取り、それぞれ(ウ)・(エ)に当てはまる語を組み合わせます。

<選択肢>
① ウ=阿弖流為 エ=志波城【誤】
 阿弖流為(アテルイ)は蝦夷の指導者として有名ですが、780年の反乱を起こした人物としては史料上「伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)」の名前が登場します。志波城は北上川中流域に築かれた城柵であり、こちら自体は蝦夷制圧策における拠点の一つですが、ウとの組み合わせが誤っています。

② ウ=阿弖流為 エ=秋田城【誤】
 秋田城は出羽国側の日本海岸沿いに築かれた城柵であり、坂上田村麻呂の北上川流域の征討拠点としては志波城の方が適切です。またウに阿弖流為をあてると、780年の反乱を伊治呰麻呂で説明する本文の流れとは食い違います。

③ ウ=伊治呰麻呂 エ=志波城【正】
 780年に反乱を起こした蝦夷指導者として知られるのが伊治呰麻呂です。また平安時代初期に坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、胆沢城・志波城などを築いて北方経略を進めたことが史実としても確かで、本文の内容とも合致します。

④ ウ=伊治呰麻呂 エ=秋田城【誤】
 秋田城は8世紀前半から外交や軍事拠点として活用されてきましたが、坂上田村麻呂の築城として本文が示唆する拠点は志波城に当たります。よってエを秋田城とするのは不適切です。

問11:正解2

<問題要旨>
「X:桓武天皇の時代に行われた徳政相論(徳政論争)で、蝦夷征討の中止を主張した人物」「Y:唐風の書に優れた嵯峨天皇・空海と並び三筆の一人と称された人物」を、それぞれ a~d の人物名(藤原緒嗣・藤原仲成・橘諸兄・橘逸勢)から正しく選ぶ問題です。桓武朝の蝦夷征討と政治方針に関わった公卿、ならびに平安初期に活躍した名筆家を識別する必要があります。

<選択肢>
① X=a Y=c【誤】
 X=藤原緒嗣 は正しいとしても、Y=橘諸兄は三筆とは関係がなく、政治家として聖武朝で政権を握った人物です。

② X=a Y=d【正】
 X「徳政相論で蝦夷征討の中止などを主張した」のは藤原緒嗣です。菅野真道との論争で、軍事・造作の中止を訴えました。
 Y「唐風の書に優れ、嵯峨天皇・空海と合わせて三筆と称された」のは橘逸勢です。

③ X=b Y=c【誤】
 b の藤原仲成は平城太上天皇(平城上皇)側に立った変事(薬子の変)で知られる人物ですし、c=橘諸兄は前述のとおり三筆には含まれません。

④ X=b Y=d【誤】
 X=藤原仲成 が徳政相論を主導した史実はありません。よってこの組合せは不適切です。

問12:正解1

<問題要旨>
提示された史料は、斉明天皇5(659)年7月の『日本書紀』の記事をもとにしたもので、小錦下 坂合部連石布(さかいべのむらじ いしふ)が遣唐使として唐に渡り、そこに蝦夷(えみし)の男女を連れて行ったとの内容が示されています。唐の皇帝との問答や、蝦夷がどのように暮らしているかを説明している点が読み取れるかどうかを判断する問題です。

<選択肢>
① a・c【正】
 a「遣唐使が、蝦夷を連れて唐に渡ったことが読み取れる」
 → 史料に、遣唐使が蝦夷男女を唐天子(皇帝)に示したとあるため合致します。
 c「蝦夷について、肉を食べ、山の中で樹木の下に居住していると説明されている」
 → 皇帝からの質問に対して、蝦夷は山中で樹下に住む旨を述べており、史料の描写と一致します。

② a・d【誤】
 d「蝦夷について、穀物を食べ、建物に居住していると説明されている」
 → 史料では、蝦夷が山の中で樹下に暮らし、五穀を育てることは無い(あるいは肉を食べて暮らしている)との問答が記されています。よって d は本文と異なります。

③ b・c【誤】
 b「遣唐使が、唐の皇帝に質問をする様子が読み取れる」
 → むしろ皇帝から問われて遣唐使が答える形であり、遣唐使が積極的に質問する場面の記述はありません。

④ b・d【誤】
 b・d ともに史料の内容と食い違う点があり、正しい組合せとはいえません。

第3問

問13:正解2

<問題要旨>
僧兵を擁する大寺院の強訴(神輿や神木を担いで朝廷に押しかける行為)と、平安時代末期の武士の地位に関する問題です。X・Y それぞれの文の正誤を判断することで、当時の院政期から鎌倉成立前後にかけての政治・社会状況を読み取ります。

<選択肢>
① X=正 Y=正【誤】
 X の「延暦寺や興福寺など大寺院が僧兵を組織し、神輿や神木を担いで朝廷に要求を認めさせようとした」は史実に合致しますが、Y も正しいとすると、平安末期の武士の地位が下がったという点を肯定することになり、これは史実と食い違う可能性が高いため誤りとなります。

② X=正 Y=誤【正】
 X の大寺院による強訴は、院政期から鎌倉時代にかけて繰り返された行為であり、正しい内容といえます。
 Y の「平安時代末期、朝廷が強訴を抑えるため地方武士を大量に動員した結果、武家の棟梁の地位は低下した」は、むしろ武士階層が徐々に力を強めていった史実と逆行するため誤りです。

③ X=誤 Y=正【誤】
 X は大寺院の僧兵・強訴に関する記述であり、歴史的事実として正しいためこれを誤りとするのは不適切です。

④ X=誤 Y=誤【誤】
 X は正しい記述なので誤りと見なせず、Y だけでなく X まで誤りとするのは整合しません。

問14:正解4

<問題要旨>
鎌倉時代後期、紀伊国阿氏河庄(あしがわのしょう)の百姓たちが荘園領主へ訴願するために作成した史料に関する問題です。本文では、逃亡した百姓の耕地の麦を蒔くよう命じられたこと、および地頭から頻繁に使役された結果、材木納入が遅れたと主張している点などが読み取れます。選択肢 a~d の内容をつなぎ合わせ、正しい組合せを選ぶ必要があります。

<選択肢>
① a・c【誤】
 a「逃亡した百姓を連れ戻して麦を蒔かせるよう命じられた」とありますが、史料中では「麦蒔きをするのは残った百姓自身」という描写が示唆されており、逃亡百姓を連れ戻す点を強調してはいません。また c を組み合わせても本文の主張とは一部ずれが生じます。

② a・d【誤】
 a の内容が上記と同様に疑わしく、d「地頭から頻繁に使役されたため納入が遅れた」は正しい要素を含むものの、a との組合せ全体として本文と整合しません。

③ b・c【誤】
 b「逃亡した百姓の耕地に麦を蒔くよう命じられた」は史料に合致しますが、c「荘園領主から頻繁に使役されたため材木納入が遅れた」とするのは、実際に史料では地頭・近夫の存在が強調される場面があるため、c を適用するのは史料の文意に合わない可能性が高いです。

④ b・d【正】
 b「逃亡した百姓の耕地に麦を蒔くよう命じられた」→ 史料では残った百姓たちが逃亡者の耕地を耕作して麦を蒔いている様子が読み取れます。
 d「地頭から頻繁に使役されたため材木の納入が遅れた」と主張している→ 史料では『地頭の指図で材木の山出しをしなければならず、納入が送れた』旨が記されており、これが本文に最もよく一致します。

問15:正解2

<問題要旨>
中世の都市や市井の様子に関する選択肢から、正しい記述を一つ選ぶ問題です。ここでは大内氏の城下町として栄えた山口に文化人が集まり、書籍の出版など文化活動が盛んだったかどうかなどを判断する必要があります。

<選択肢>
①【誤】「多くの禅僧が招かれた鎌倉には、天竜寺や建仁寺などが建立された」
 天竜寺・建仁寺はいずれも京都にある寺院であり、鎌倉にある代表的禅寺は建長寺や円覚寺などです。よってこの記述は誤りとなります。

②【正】「大内氏の城下町山口には文化人が集まり、書籍の出版も行われた」
 戦国大名として西国を支配した大内氏は、山口を京や博多にならう文化都市として整備し、多くの文化人を招きました。また独自に出版事業を行ったとされる事例もあり、史実として妥当です。

③【誤】「奈良や堺では、大原女や桂女といった女性の行商人が進出した」
 大原女(おはらめ)は京都・大原地方に由来する炭や薪を都へ運ぶ女性行商人、桂女(かつらめ)は桂川で川魚を売る女性などで、ともに奈良や堺の事例というより、京都周辺に起源をもつ行商人として知られています。

④【誤】「京都の商工業者などからなる一向宗の信者たちが法華一揆を結んだ」
 一向宗(浄土真宗)と法華宗は別宗派であり、一向一揆と法華一揆はそれぞれ異なる集団です。よってこの文は誤りです。

問16:正解2

<問題要旨>
中世の武士について述べた4つの文のうち「誤っているもの」を選ぶ問題です。戦乱を描く軍記物語、国人一揆の結成、地侍の成長などを正しく押さえたうえで、どれが史実と合わないかを判断する必要があります。

<選択肢>
①【正】「あいつぐ戦乱や武士の活躍を描く軍記物語が数多く作られた」
 平家物語や太平記など、武士の活躍を題材にした軍記物が多く生まれたのは中世の特徴です。

②【誤】「幕府の指示を受けて年貢などを奪い取る武士たちが、悪党とよばれた」
 悪党は主として在地領主の立場で独自に年貢を奪う、あるいは荘園領主や幕府に抵抗するなど、支配秩序から逸脱した武士集団を指します。幕府の指示を受けて公然と年貢を奪うわけではなく、この記述は史実とそぐわないため誤りです。

③【正】「地方の国人たちは、しばしば紛争解決などのために一揆を結んだ」
 地域の武士(国人)が集団的に盟約を結ぶ国人一揆などは中世後期に多く見られました。

④【正】「農村で成長した地侍の中には、戦国大名の家臣になる者が現れた」
 地侍・国衆のなかには、有力戦国大名の被官となって組織化される動きがあり、これも史実に合致します。

問17:正解2

<問題要旨>
戦国大名の領国支配において、X・Y それぞれが「治水・灌漑の整備」や「役人を派遣して指出検地を行う」かどうかを問う問題です。戦国大名の政策は領内の開発・整備に熱心でしたが、近世的な検地の形態(指出検地など)は豊臣政権以降に全国規模で進められたため、その史実と照合しながら正否を判断します。

<選択肢>
① X=正 Y=正【誤】
 X「治水や灌漑施設の整備を行った」は多くの戦国大名が領内経営の一環として実践したため妥当です。しかし Y も正しいとすると、戦国大名が既に指出検地を徹底していたことになり、必ずしも一般的なやり方とはいえません。

② X=正 Y=誤【正】
 X の治水・灌漑整備は戦国大名が領民に対して行った代表的施策で、領国経営の基本として記録に残る事例が多数あります。
 Y の「役人を現地に派遣して、田畑の面積を測量する指出検地」を一律に戦国大名が実施していたとするのは、豊臣政権以降の太閤検地に近い要素を含み、やや時期的・制度的に早すぎます。そのため誤りです。

③ X=誤 Y=正【誤】
 X の治水・灌漑を実施しなかった戦国大名は少なく、これを誤りとする根拠は希薄です。

④ X=誤 Y=誤【誤】
 X は正しい事例が多く、両方とも誤りとする選択肢は不適切です。

問18:正解1

<問題要旨>
中世から近世初期にかけての流通経済について、文 I・II・III を年代順(古いもの→新しいもの)に配列する問題です。問丸の成立、永楽通宝の流通、そして関所や座の廃止などの政策が取られた時期を正しく整理する必要があります。

<選択肢>
① I → II → III【正】
 I「各地の湊や荘園に、年貢などの運送や保管にあたる問丸が現れた」→ 中世(鎌倉~南北朝期)頃からの現象
 II「新たに永楽通宝が中国から輸入され、流通し始めた」→ 15世紀以降、大内氏や堺商人などの対明貿易を通じて広がった貨幣
 III「関所や座の廃止など、商業取引を円滑にする政策がとられた」→ 戦国大名や織田信長・豊臣秀吉の天下統一政策以降に顕著

② I → III → II【誤】
 永楽通宝が流通し始めたのは座の廃止などより前に位置付けられるため、この順序は誤りです。

③ II → I → III【誤】
 永楽通宝の流通(15世紀)を、問丸登場(鎌倉~南北朝期)より先に置くのは時系列が逆転しています。

④ II → III → I【誤】
 同様に II → III → I では問丸の成立時期をさらに遅らせることになり、史実から大きく外れます。

⑤ III → I → II【誤】
⑥ III → II → I【誤】
 いずれも問丸登場より関所や座の廃止を先に置くなど、時系列が合いません。

第4問

問19:正解1

<問題要旨>
戦国期・江戸期における銀山の直轄支配や、それに伴う幕府の貿易制限策を問う問題です。本文では「ア」に特定の銀山が入り、「イ」に幕府が発布した法令が入る形で示されています。戦国大名や徳川氏が石見銀山・生野銀山などをめぐって採掘権を掌握し、江戸中期には銀流出防止のために貿易額を制限する政策が行われました。

<選択肢>
①【正】「ア=石見銀山 イ=海舶互市新例(正徳新令)」
 石見銀山(島根県)は戦国期から江戸期にかけて重要な銀の産地となり、幕府も直轄するほど重視しました。また海舶互市新例(1715年)は長崎貿易の制限強化を狙った法令で、銀の海外流出を防ぐ狙いがあり、本文の流れとも合致します。

②【誤】「ア=石見銀山 イ=相対済し令」
 相対済し令(1719年)は金銭貸借の当事者間交渉に委ねる法令で、銀流出規制とは直接関係がありません。本文で述べられる貿易制限策に対応する法令とは合わないため誤りです。

③【誤】「ア=生野銀山 イ=海舶互市新例(正徳新令)」
 生野銀山(兵庫県)も幕府直轄鉱山として知られますが、本文の主眼となる代表的な銀山としては石見銀山を挙げるのが通説的です。さらにその前後の描写とも整合を欠くおそれがあります。

④【誤】「ア=生野銀山 イ=相対済し令」
 上記②・③の問題点が合わさった形であり、両方とも本文中の銀山・法令に当てはめるには不適切です。

問20:正解5

<問題要旨>
下線部(㋑)に関連して提示された文 I・II・III を、年代が古い順に並べ替える問題です。文それぞれが「大友氏のキリスト教保護(16世紀)」「糸割符制度の開始(江戸初期)」「スペイン船の来航禁止(江戸初期)」といった歴史事象を示唆しており、その時系列を正確に把握する必要があります。

<選択肢>
① I → II → III【誤】
 I「京都・堺・長崎の商人に、生糸の一括購入をさせる制度(糸割符制)」は江戸初期(1604年~)に始まります。
 II「幕府がスペイン船の日本来航を禁止した」のは1624年から。
 III「貿易熱心な豊後の大名・大友義鎮(宗麟)がキリスト教布教を保護した」は安土桃山期(16世紀後半)。
 この選択肢は III が最初に来ないため誤りです。

② I → III → II【誤】
 時系列では、大友義鎮(宗麟)の保護(16世紀)→ 糸割符制度開始(17世紀初頭)→ スペイン船来航禁止(1624年)という順が自然なので、I→III→II の並びは矛盾します。

③ II → I → III【誤】
 II を最初に置くと1624年(スペイン船来航禁止)が最初になり、16世紀の大友氏のキリスト教保護が後回しになるため、実際の時系列と逆転します。

④ II → III → I【誤】
 スペイン船来航禁止(1624年)を最初にし、大友義鎮(16世紀)をその後に置く構成になり時系列が合いません。

⑤ III → I → II【正】
 16世紀後半に大友義鎮(宗麟)がキリスト教を保護(文III)。
 江戸初期1604年頃から幕府が糸割符制度を始める(文I)。
 1624年にスペイン船の来航を禁止(文II)。
 以上の順序が史実と合致します。

⑥ III → II → I【誤】
 I(糸割符制度)より II(1624年の来航禁止)が先に来る形となり、史実の順序と合わないため誤りです。

問21:正解3

<問題要旨>
近世の貨幣制度に関して述べた4つの文のうち、正しいものを選ぶ問題です。徳川幕府は収入増や物価対策のため、たびたび貨幣改鋳を実施しました。丁銀・豆板銀などの秤量貨幣や、小判などの計数貨幣の区分を念頭に判断します。

<選択肢>
①【誤】「丁銀は東日本、小判は西日本で通用した」
 丁銀や豆板銀は主に銀の秤量貨幣として全国で用いられ、小判(計数貨幣)もまた全国流通しました。東西で明確に分かれていたわけではありません。

②【誤】「小判は取引のたびに両替商で重さを量って使用する貨幣」
 取引のたびに重さを量っていたのは秤量貨幣(丁銀や豆板銀)が中心です。小判は表面に額面が刻印されている計数貨幣にあたり、この説明は誤りです。

③【正】「元禄時代、幕府は収入を増やすため貨幣改鋳を行った」
 元禄改鋳(1695年~)では金銀含有量を引き下げ、幕府の鋳造益を狙いました。これは事実として確認できます。

④【誤】「松平定信は南鐐二朱銀を鋳造して貨幣制度の統一を試みた」
 南鐐二朱銀(幕府による金銀比価の見直しの一環)は享保期の改革などで登場する要素があり、松平定信(寛政の改革)との直接的な関連は薄いです。

問22:正解2

<問題要旨>
近世における技術の進展や日本各地への伝播について、正しい記述を選ぶ問題です。反射炉の築造や塩田の開発、活字印刷術など、藩政改革や西洋技術導入に関わる事例を見極めます。

<選択肢>
①【誤】「桐生の織屋が独占していた高機(たかばた)の技術が西陣などに伝えられた」
 織物技術が広まった事例はあるものの、桐生(群馬)の独占的技術を西陣(京都)へ、という記述は根拠が曖昧で大きな誤りがある可能性があります。

②【正】「佐賀藩は反射炉を築き、大砲を鋳造した」
 幕末期に佐賀藩の鍋島氏が反射炉を建設し、西洋式大砲鋳造の先駆けとなったことは史実と合致します。

③【誤】「入浜式に代わって揚浜式の塩田が瀬戸内海沿岸で発達し、塩の生産量が増大」
 実際には逆で、古い揚浜式を改良した新しい入浜式が瀬戸内沿岸で普及し塩生産が拡大しました。この記述は逆転しているため誤りです。

④【誤】「シドッチによって活字印刷術がもたらされ、キリシタン版が出版された」
 江戸中期に密航入国し尋問を受けたイタリア人宣教師シドッチと、キリシタン版(安土桃山期の印刷物)とは時代的にも関連がありません。

問23:正解4

<問題要旨>
近世の村・農業について述べた4つの文のうち「誤っているもの」を選ぶ問題です。本百姓・水呑百姓の区分、農具の改良や特産品の生産などは史実として確認できますが、問屋との流通独占に対する「国訴」など具体的事例の真偽を見極めます。

<選択肢>
①【正】「村には本百姓のほかに、田畑を持たない水呑百姓も居住した」
 江戸時代の村では、石高を持ち年貢を負担する本百姓と、田畑を持たず労働を提供する水呑百姓との身分区分が一般的に見られます。

②【正】「農具として、深く耕すことができる備中鍬(びっちゅうぐわ)が普及した」
 備中鍬は岡山県(旧備中国)で考案された深耕用の鍬で、江戸期に広まった代表的農具です。

③【正】「特産品として、紅花(べにばな)の生産が出羽でさかんになった」
 出羽(現在の山形県)では紅花の栽培が盛んで、京都方面への出荷が行われていた史実があります。

④【誤】「関東の村々では、江戸の問屋による米・繭などの流通独占に反対する国訴が組織された」
 実際に在郷商人や農民が問屋に対抗した事例はありますが、「関東の村々が国訴として幕府に対し広域的に流通独占を訴えた」という大規模な動きは一般的な史実として確立していません。記述が過度に断定的で誤りと判断されます。

問24:正解3

<問題要旨>
提示された史料は、鳥取藩内での鉄穴流し(かんなながし)に関する1823年の文書です。川底の土砂堆積や山林荒廃によって村々が疲弊するといった状況が記されているかどうかを示す X・Y の文の正誤を判定する問題です。

<選択肢>
① X=正 Y=正【誤】
 X「鉄穴流しによって川底が上昇し、洪水対策を行ったところ効果があった」と史料が肯定的に述べているかは疑問です。Y も正しいとした場合は、両方とも肯定する形になりますが、本文の流れとは整合しない可能性があります。

② X=正 Y=誤【誤】
 X を正とするにも根拠が薄く、Y を誤とするのも史料の読解と矛盾するため不適切です。

③ X=誤 Y=正【正】
 X「鉄穴流しによって川底が上昇したため洪水対策を行い、効果があった」とするのは、史料本文にある記述とは異なります。どちらかといえば川底上昇が地域を危機にさらしている様子が示唆されています。
 Y「炉や鉄穴流しの場が増加した結果、砂鉄採取のための森林破壊が進み、村々の疲弊を招いている」との指摘は史料の内容と合致します。

④ X=誤 Y=誤【誤】
 史料が指摘するのは、川底上昇や山林荒廃による被害であり、Y の要点は本文と一致するため誤りとはいえません。

第5問

問25:正解3

<問題要旨>
江戸幕府がアメリカとの間で結んだ通商条約と、明治初期に各地で設立された政治結社を正しく組み合わせる問題です。開国のきっかけとなった条約がどれか、また自由民権運動期に土佐で結成された立志社や、東京で結成された交詢社などの団体を正確に区別する必要があります。

<選択肢>
①【誤】 ア=日米和親条約 イ=立志社
 日米和親条約(1854年)は下田・箱館の開港を定めたもので、自由貿易の本格的開始とは異なります。また立志社は1874年、土佐で結成された政治結社であり、この組合せでは時期や内容がずれます。

②【誤】 ア=日米和親条約 イ=交詢社
 アが日米和親条約になる点は①と同様に不適切です。交詢社は1879年、福沢諭吉らによって東京で結成された団体で、自由民権運動期に政治結社として活動しましたが、アとの整合性に欠けます。

③【正】 ア=日米修好通商条約 イ=立志社
 1858年の日米修好通商条約は、アメリカと自由貿易を本格化させるきっかけとなりました。イの立志社は1874年、板垣退助らによって土佐で結成され、自由民権運動を推進する代表的な政治結社の一つです。両方とも史実に合致します。

④【誤】 ア=日米修好通商条約 イ=交詢社
 アの条約は正しいとしても、交詢社は東京を拠点にした団体であり、土佐の立志社と混同すると問題文の流れとは食い違いが生じます。

問26:正解4

<問題要旨>
下線部(㋑)で示された、幕府による経済政策の一環として「どのような措置がとられたか」を問う問題です。株仲間や物流の在り方、あるいは物価対策などを列挙した選択肢の中から、正しい内容を選ぶ形式になっています。

<選択肢>
①【誤】「金貨の改鋳を行い、それによって物価が下落した」
 実際には、金貨や銀貨の改鋳は含有量の変化をもたらし、インフレなどを引き起こすケースもありました。改鋳が物価下落につながるという一方的な断言は史実と合いません。

②【誤】「株仲間が物価高騰の要因になっていると考え、これを解散させた」
 株仲間解散(1841年の天保の改革)などの事例はありますが、問題文で直ちに株仲間解散を断行したとは限らず、またその効果をめぐる議論も様々です。

③【誤】「薪水給与令を出して、薪水給与などの形で日用品の価格高騰を抑えた」
 薪水給与令(1842年)は異国船打払令の緩和策として漂着外国船への薪水供給を認める法令であり、物価対策のための施策ではありません。

④【正】「生活などを、産地から横浜へ直接出荷することを禁じた」
 幕府は物価の急騰や国内流通の混乱を恐れ、横浜での直買付・直売を制限して中央統制を図った事例が知られています。特に開港後の横浜における流通混乱を抑えるため、産地の生糸や農産物を直接持ち込むことを規制したことは歴史的に確認できる施策です。

問27:正解4

<問題要旨>
下線部(㋒)に関して、幕末から明治前期にかけて起きた民衆運動や事件を、提示された I・II・III の文を年代順(古いもの→新しいもの)に正しく並べる問題です。生糸価格の下落による打毀しや「ええじゃないか」、血税騒動などの歴史的順序を見極める必要があります。

<選択肢>
① I → II → III【誤】
 I として「生活の値下がりで打撃を受けた農民たちが困民党を結成した」は、むしろ明治中期(1880年代)の運動に近い内容です。一方、II「ええじゃないか」(1867年頃)、III「血税騒動」(1873~1874年頃)と比べると、I は最も新しい時期に位置づけられます。

② I → III → II【誤】
 同様に I を最初に置くと時代が逆転します。III(血税騒動)を中間に、II(ええじゃないか)を最後に置くのも誤りです。

③ II → I → III【誤】
 II「ええじゃないか」(1867年頃)を先にし、続いて I「困民党」(1880年代)、最後に III「血税騒動」(1873~1874年頃)を置く順は、III と I が逆転してしまいます。

④ II → III → I【正】
 II「ええじゃないか」→ 1867年前後
 III「血税騒動」→ 1873~1874年頃
 I「生糸の値下がりなどで打撃を受けた農民たちが、困民党などを結成して高利貸・警察を襲撃した」→ 1880年代(佐賀の2月騒動や秩父事件なども含めて、やや後期の動き)
 よって年代順としては II → III → I が最も自然です。

⑤ III → I → II【誤】
⑥ III → II → I【誤】
 いずれも実際の発生時期とずれるため不正解です。

問28:正解2

<問題要旨>
下線部(ロ)で示された時期と同じ頃に起きた他の出来事を列挙し、その中から誤りを選ぶ問題です。明治政府の政治制度改革の進展、あるいはアジア情勢(朝鮮半島の甲申政変など)との時期的対応関係を正しく把握する必要があります。

<選択肢>
①【正】「太政官制が廃止され、新たに内閣制度が定められた」
 1885年(明治18年)に太政官制を廃止し、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任しました。これは明治国家体制整備の流れに合致する時期的事象です。

②【誤】「洋画の分野で二科会が創立され、文部省美術展覧会(文展)に対抗した」
 二科会の創立は1914年(大正3年)であり、文展への対抗として設立されたものです。これは明治中期(1880年代)の改革期とは時期が離れており、同時期に起きた出来事とするのは誤りです。

③【正】「三菱(三菱会社)と共同運輸会社が合併して、日本郵船会社が設立された」
 日本郵船会社の設立は1885年であり、①とも同時期に起きた出来事として妥当です。

④【正】「朝鮮で甲申事変(甲申政変)が発生し、清軍によって鎮圧された」
 甲申事変は1884年末に起きた事件で、清国が介入して独立党の運動は失敗に終わりました。これも明治中期の外向的情勢とほぼ同じ頃の出来事です。

第6問

問29:正解4

<問題要旨>
明治初期から大正にかけて、政府が発布した言論・出版取締法規(ア)と、社会主義思想への政府弾圧事件(イ)を正しく組み合わせる問題です。1875年制定の新聞紙条例や治安警察法の成立年、1910年の大逆事件などの時系列・内容を踏まえて判断します。

<選択肢>
①【誤】 ア=治安警察法 イ=三・一五事件
 治安警察法(1900年)は労働運動や社会運動に対する統制法規ですが、三・一五事件(1928年)はいわゆる特高警察による共産党員の大量検挙事件で、組合せとして本文の文脈とは合いにくいです。

②【誤】 ア=治安警察法 イ=大逆事件
 大逆事件(1910年)は明治末期に起きた社会主義・無政府主義者への弾圧事件ですが、アに治安警察法を持ってくると、本問で示される1875年「〇〇が出されて~」の時期には合致しません。

③【誤】 ア=新聞紙条例 イ=三・一五事件
 新聞紙条例(1875年)をアに当てる点は本文の「1875年のア」に符合しますが、イを三・一五事件(1928年)とすると、大逆事件(1910年)よりも後の出来事を当てはめることになり、本文で強調される「1910年に多くの社会主義者が検挙された」という流れと一致しません。

④【正】 ア=新聞紙条例 イ=大逆事件
 新聞紙条例(1875年)で政府が報道・言論を規制した事実と、1910年の大逆事件で社会主義者らが処罰された事実が本文の説明と整合します。したがってこの組合せが最も適切です。

問30:正解2

<問題要旨>
下線部(A)に関連して、「従軍記者と戦争」に関する文 I~III を年代順に並べる問題です。台湾出兵(1874年)・西南戦争(1877年)・日露戦争(1904~05年)の3つの出来事に従軍した新聞記者や作家を正しい時系列で整理する必要があります。

<選択肢>
① I → II → III【誤】
 I「[東京日々新聞]の岸田吟香が台湾出兵に従軍」(1874年)
 II「博文館から派遣された田山花袋が日露戦争に従軍」(1904~05年)
 III「[郵便報知新聞]の犬養毅が西南戦争に従軍」(1877年)
 I→II→III とすると日露戦争(II)が1877年(III)より先に来るため、時系列が崩れます。

② I → III → II【正】
 1874年の台湾出兵(I)→ 1877年の西南戦争(III)→ 1904~05年の日露戦争(II)という順序が史実と合致し、本文の従軍記者それぞれの派遣時期と合います。

③ II → I → III【誤】
 II(日露戦争)を最初に置くと、台湾出兵・西南戦争より前になってしまうため不自然です。

④ II → III → I【誤】
 同様に II を先に置くと時系列が大きく逆転します。

⑤ III → I → II【誤】
⑥ III → II → I【誤】
 いずれも台湾出兵(I)を西南戦争(III)より後に置くことになるため不適切です。

問31:正解1

<問題要旨>
「日露戦争後の外交」をめぐる4つの文から正しいものを選ぶ問題です。日露戦争(1904~05年)講和後に日本が朝鮮へどのように介入し、統監府を設置したかなどを判定します。

<選択肢>
①【正】「日本は、韓国の外交権を奪ったうえで漢城に統監府をおき、伊藤博文がその初代統監となった」
 1905年の第二次日韓協約(桂・タフト協定とは別)によって韓国の外交権を奪い、統監府を設置。初代統監には伊藤博文が就任したのは史実と合致します。

②【誤】「日本を中心とする列国の軍隊によって、清国内の民衆反乱が鎮圧され、北京議定書が結ばれた」
 これは1900年の義和団事件(北清事変)に関する記述であり、日露戦争後というより義和団事変前後の出来事です。

③【誤】「日本は、軍艦を江華島付近に派遣して朝鮮を挑発し、これを機に開国させた」
 これは1875年の江華島事件(朝鮮の開国を迫った)に関する記述であり、日露戦争後とは時期が異なります。

④【誤】「日本は、韓国での権益を確保するためにロシアと協調する外交路線ではなく、イギリスと同盟を結ぶ路線を選んだ」
 これは日英同盟(1902年)を指す内容ですが、厳密には「日露戦争後の外交」として挙げるにはやや時期が早く、説明不足です。

問32:正解3

<問題要旨>
下線部(C)に関連して、第一次世界大戦後の日本経済や社会状況をめぐる4つの文から「誤っているもの」を選ぶ問題です。好景気で物価高騰が起き、労働者の生活が圧迫されたことや、日本が債権国へ転換し重化学工業の拡大が進むなど、戦間期の経済構造を正しく理解しているかが問われます。

<選択肢>
①【正】「物価の急騰が賃金の上昇を上回り、労働者の生活を圧迫した」
 大戦景気の反動や米騒動など、物価高騰による労働者への影響は事実です。

②【正】「債務国だった日本は、これを機に債権国になった」
 日清・日露戦後の賠償金や第一次世界大戦での輸出超過によって資本を蓄積し、1910年代後半以降、日本は列強に比肩する債権国へ移行しました。

③【誤】「造船業など重化学工業が拡大する一方で、繊維産業は衰退した」
 戦間期、日本は依然として繊維(綿紡績や絹織物)が主要な輸出産業であったため、繊維部門が急速に衰退したわけではありません。これが誤り。

④【正】「輸入超過であったそれまでの貿易収支は、一転して輸出超過となった」
 大戦景気でアジア市場への輸出が伸びた結果、輸出が輸入を上回る構造へ転換したのは事実と考えられます。

問33:正解2

<問題要旨>
下線部(C)に関連して示される「X:雑誌『東洋経済新報』で植民地放棄論を展開した人物」と「Y:民衆の政治意識の成長を促した総合雑誌」とを、語句 a~d(石橋湛山・北一輝・『自権』・『中央公論』)から正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>
① X=a Y=c【誤】
 X=石橋湛山は適切ですが、Y=『自権』はあまり大きく発展した総合雑誌ではなく小規模の政治雑誌に近い存在とみられ、本文の流れとずれます。

② X=a Y=d【正】
 X「東洋経済新報」において植民地放棄論を展開したのが石橋湛山です。
 Y「民衆の政治意識を成長させた総合雑誌」として『中央公論』は大正デモクラシー期に部数を伸ばし、討論の場にもなった著名な総合雑誌としてふさわしいです。

③ X=b Y=c【誤】
 b=北一輝は国家改造案など強権的・国家主義的な理論を展開した人物であり、植民地放棄論を主張した石橋湛山とは正反対の立場です。

④ X=b Y=d【誤】
 Xを北一輝とする根拠がなく、また Y=『中央公論』はあっても Xとの組合せに矛盾が生じます。

問34:正解4

<問題要旨>
大正期の政治・社会に関する4つの文から、正しいものを選ぶ問題です。護憲運動や政党内閣の展開、第一次世界大戦期・大正政変期に起きた出来事などを正確に把握して判断します。

<選択肢>
①【誤】「血のメーデー事件(メーデー事件)をきっかけに、破壊活動防止法が制定された」
 1920年代~1930年代の労働運動弾圧に様々な法令が使われましたが、破壊活動防止法は戦後(1952年制定)の法律です。

②【誤】「第1次若槻礼次郎内閣は、ジーメンス(シーメンス)事件の責任を問われて総辞職した」
 シーメンス事件(1914年)は山本権兵衛内閣が退陣のきっかけとなりました。若槻礼次郎内閣が倒れたのは1927年の金融恐慌です。

③【誤】「労働組合が解散させられ、大日本産業報国会が結成された」
 大日本産業報国会は1938年に成立した戦時下の労務統制組織であり、大正期というより日中戦争以降の時期に当たります。

④【正】「護憲三派の提携が成立し、第二次護憲運動を展開した」
 1924年に加藤高明内閣が成立し、護憲三派(憲政会・立憲政友会の一部・革新倶楽部など)の協力で第二次護憲運動が成功を収めたことは大正期の重要な政治史実です。

問35:正解1

<問題要旨>
下線部(⑦)に関連して示された「X:アジア太平洋戦争期の女子挺身隊」「Y:国家総動員法にもとづく国民徴用令による動員」について、正誤を問う問題です。未婚女性を組織化した女子挺身隊や、軍需産業での国民動員の実態をどこまで正確に把握しているかが問われます。

<選択肢>
①【正】 X=正、Y=正
 X「アジア太平洋戦争(太平洋戦争)期には、未婚の女性が女子挺身隊に組織された」→ 公的には女子挺身隊が勤労動員として工場などへ派遣されました。
 Y「国家総動員法にもとづく国民徴用令により、重要産業への国民の動員が行われた」→ 1939年の国家総動員法、翌年の国民徴用令により労働力を強制的に動員しています。

②【誤】 X=正、Y=誤
 Y を誤りとする理由は薄く、現実に国民徴用令で動員が行われたため不適切です。

③【誤】 X=誤、Y=正
 X の女子挺身隊は戦時下の現実として存在し、これを誤りとする根拠はありません。

④【誤】 X=誤、Y=誤
 両方とも史実と合致するため誤りとすることはできません。

問36:正解1

<問題要旨>
下線部(⑧)に関連して、1946年に発表された風刺漫画が表す「農地改革」について問う問題です。図では「田」の字の上であぐらをかいている人物が地主か小作人か、また農地改革が自作農創出を目的としたのかどうかを判断する必要があります。

<選択肢>
① a・c【正】
 a「図の人物は地主を表している」→ 大きな椅子にどっかりと座っている風貌から地主と見なせます。
 c「この改革は自作農の増加を目指した」→ 戦後農地改革は、地主の小作地を政府が買い上げて小作人に安く売り渡し、自作農をできるだけ増やす方針でした。

② a・d【誤】
 d「この改革は自作農の減少を目指した」→ 農地改革はむしろ自作農化の促進が主眼ですから誤りです。

③ b・c【誤】
 b「図の人物は小作人を表している」→ 逆に小作人があぐらをかいている構図は不自然で、本文にも合いません。

④ b・d【誤】
 b・d ともに誤りの要素が組み合わさっており、妥当ではありません。

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