2019年度 大学入試センター試験 本試験 日本史A 解答・解説

目次

解答

第1問

問1:正解1

<問題要旨>
合唱コンクールで歌われる曲に関する会話文中の空欄「ア」「イ」に当てはまる作曲家と音楽教育機関の名称を問う問題である。作曲した楽曲の特徴や、当時の音楽教育の受け皿となった学校の名称を正しく把握できるかがポイントとなる。

<選択肢>
①【正】
「ア」に滝廉太郎、「イ」に東京音楽学校を入れる組合せである。滝廉太郎は『花』『お正月』『荒城の月』などの曲を作曲しており、若くして病没したが現在でも有名な作品を多く遺した人物として知られる。また、滝廉太郎は東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部の前身)で学び、西洋音楽の手法を日本の歌曲に取り入れた先駆的作曲家とされるため、史実とも合致する。

②【誤】
「ア」に滝廉太郎、「イ」に東京専門学校を入れる組合せ。東京専門学校は現在の早稲田大学の前身であり、音楽教育を専門に担った機関ではない。従って、滝廉太郎が学んだ音楽学校としては整合しない。

③【誤】
「ア」に島村抱月、「イ」に東京音楽学校を入れる組合せ。島村抱月は文学者・評論家として有名であり、音楽教育の専門家や歌曲の作曲者ではない。したがって、『花』や『お正月』を作曲した人物として挙げるのは不適当である。

④【誤】
「ア」に島村抱月、「イ」に東京専門学校を入れる組合せ。そもそも島村抱月は音楽ではなく文芸分野での活動が中心であり、東京専門学校も音楽専門の教育機関ではない。この組合せも曲の作曲者・学習先としては誤りである。

問2:正解2

<問題要旨>
下線部(a)で示された「明治政府の近代化政策」と関連づけて、文X・文Yが正しいか誤っているかを問う問題。文Xは条約改正交渉における欧化政策、文Yは徴兵令と免役規定に関する内容であり、歴史的事実を正しく把握しているかどうかがポイントとなる。

<選択肢>
① X 正/Y 正【誤】
文X・文Yともに正しいとする見解。文Xにある「鹿鳴館を建設するなど極端な欧化政策を推進した」は事実であるが、文Yについては兵役義務が課されて以降、多数の免役規定が一貫して太平洋戦争期まで存続したかどうかに疑義がある。

② X 正/Y 誤【正】
文Xは、井上馨が条約改正を円滑に進めるため欧米流の社交場として鹿鳴館を建てるなどの欧化政策を採ったことを述べており、これは史実に合致する。
一方、文Yの「徴兵令が定められた際に設けられた多数の免役規定が、アジア太平洋戦争期まで継続した」という点は誤りと考えられる。徴兵制は1873(明治6)年に導入され、当初は様々な免役・猶予規定が存在したものの、その後は改正が重ねられ、兵役の対象は徐々に拡大された。よって「多数の免役規定が同じ形で太平洋戦争期まで残った」とは言い難いため、この文Yは誤りとなる。

③ X 誤/Y 正【誤】
文Xが誤りとするのは、鹿鳴館を中心とした欧化政策が史実として確認されている点から不適当。文Yについては正しいとは断定しにくい内容が含まれるため、この組合せは成立しない。

④ X 誤/Y 誤【誤】
文Xについては鹿鳴館政策が存在した史実から誤りとする根拠が薄い。Yについても同様にすべて誤りというのは不当で、この組合せも成り立たない。

問3:正解4

<問題要旨>
下線部(③)で触れられている近代日本の領土拡張と関連し、史料1と史料2(いずれも「新たに編入・獲得した領土」を踏まえた歌の歌詞)について述べた文a〜dの正誤を組み合わせで問う問題。歌の改変意図や、沖縄・台湾をめぐる状況を正しく理解しているかが問われる。

<選択肢>
① a・c【誤】
a「史料1、史料2はいずれもこれから獲得しようとしている領土を具体的に示し、そのために出征していく人々の活躍を願っている」
c「史料1にある『沖縄』は、台湾出兵の結果、清国の同意を得て日本の領土となった」
いずれも内容にずれがあり、特にcは沖縄が「台湾出兵(1874年)」の結果のみで日本の領土になったわけではなく、琉球処分(1879年)など一連の過程を経て沖縄県に編成された経緯があるので正確性に疑問がある。

② a・d【誤】
aは上記の通り不正確。d「史料2の『台湾』の領有が実現した際には、現地で激しい抵抗運動が起こった」の趣旨自体は事実として反抗があったことは知られるが、文脈としてbとの組み合わせを排除はできない。

③ b・c【誤】
b「史料1、史料2は、いずれも新たに編入・獲得した領土を具体的に示し、その地に赴いていく人々の活躍を願っている」
cは上記の通り不正確な説明が含まれるため、この組み合わせも正解とは言えない。

④ b・d【正】
bは、史料1と史料2の歌詞に新たに組み入れられた領土(沖縄、台湾など)を示し、その土地で人々が活躍していくことを歌詞中で願っている内容と整合する。
dは、日本による台湾領有時に現地で抗日運動が発生したという点で史実と符合する。以上からbとdが正しい組合せとなる。

問4:正解4

<問題要旨>
下線部(c)「学校教育を通して近代国家の担い手を育てるという試みの一環として、合唱は導入された」に関連し、近現代の教育政策の変遷を問う問題。特に戦後占領期に導入された教育委員会制度など、教育行政の改革が正しく理解されているかがポイント。

<選択肢>
①【誤】
「明治初期には、児童の個性や自発性を尊重する自由教育運動が進められた」という説明は、実際には明治初期より後の大正期に「大正自由教育運動」が台頭する。明治初期は政府主導の富国強兵や中央集権的な教育制度が優先された時期で、この記述は時期がずれている。

②【誤】
「日露戦争末期には、大都市の小学校の児童が地方の農村に集団疎開した」というのは、第二次世界大戦(太平洋戦争)下での学童疎開に近い内容であり、日露戦争(1904~1905)当時に学童が地方へ大量疎開した事実はない。

③【誤】
「大正期には、教育勅語が発布され、教育の民主化が進められた」というのは史実と異なる。教育勅語は1890(明治23)年に発布され、大正期はむしろ勅語体制の見直しや自由主義的教育の動きが一部みられたが、「教育の民主化」が大々的に進められたのは第二次大戦後である。

④【正】
「占領期には、公選制の教育委員会が都道府県・市町村単位で設置された」は1948(昭和23)年に教育委員会法が制定され、公選制教育委員会制度が発足した事実と合致する。戦後改革の一環としての教育行政改革であり、これが正しい。

問5:正解3

<問題要旨>
下線部(d)「日中戦争の開始後も…」などの話題に関連し、日中戦争からアジア太平洋戦争(太平洋戦争)期に行われた政策に関する4つの記述のうち、どれが誤っているかを問う問題。実際の戦時下政策と照らし合わせて真偽を判別することが求められる。

<選択肢>
①【正】
「植民地や占領地で、神社参拝の強制や日本語教育の実施などの皇民化政策を行った」
朝鮮半島や台湾などで進められた「皇民化政策」において神社参拝や日本語の強制などが実際に行われたことは史実に合致する。

②【正】
「労働力不足を補うため、朝鮮人・中国人を動員して日本本土の鉱山などで働かせた」
戦時中、国内の労働力不足を補う目的で朝鮮半島・中国大陸などから強制的に労働力を動員したことは史実として確認されている。

③【誤】
「日本支配下のアジア諸地域の代表者を集め、万国平和会議を開催した」
実際には日本が大東亜会議(1943年)を開いたことはあるが、「万国平和会議」のような普遍的平和会議を開催し、幅広い諸地域の代表を民主的に招集したわけではない。宣伝色の強い名目上の会議や「大東亜共栄圏」の理念は掲げたが、ここでいう「万国平和会議」のようなものが行われた事実は見当たらないので誤り。

④【正】
「町内会・部落会・隣組などの住民組織に、大政翼賛会の活動の末端を担わせた」
戦時体制の強化に伴い、隣組などの住民組織を通じて国家総動員体制を支えさせたことは史実に合致する。

問6:正解4

<問題要旨>
下線部⑥に関連して示された写真I~IIIを年代順(古いものから新しいものへ)に正しく並べる問題。写真の説明文には、それぞれ「紀元二千六百年」「原水爆禁止世界大会」「ベトナム戦争への反対運動」など異なる時代背景が示されており、正確な年代を推定しながら並べることが求められる。

<選択肢>
① I → II → III【誤】
写真I「ベトナム戦争に反対してフォークソングを歌う人々」は1960年代後半から1970年代のイメージが強い。一方、写真II「紀元二千六百年を祝う産業報国会のパレード」は1940(昭和15)年に行われた行事、写真III「第1回原水爆禁止世界大会で合唱する人々」は1955(昭和30)年に開催。よってI → II → IIIでは年代順が前後してしまう。

② I → III → II【誤】
Iが1960年代後半~70年代、IIIが1955年、IIが1940年であるので、この順番も時系列が逆になる。

③ II → I → III【誤】
II(1940年)の次にI(1960年代後半~70年代)、最後にIII(1955年)という並びも、IIIがIより年代的に古いのに最後になっているので誤り。

④ II → III → I【正】
写真II(1940年ごろ)→ 写真III(1955年)→ 写真I(1960年代後半~70年代)。紀元二千六百年祝賀行事が太平洋戦争開戦以前の時期、原水爆禁止運動が戦後1950年代、ベトナム戦争への反対運動がさらに後の1960年代後半という流れで整合する。

第2問

問7:正解1

<問題要旨>
江戸幕府から明治政府への移行期における政治的布告・改革と、新政府が創設した機関について問う問題。空欄「ア」に入るのが幕末に出された重要な政治的宣言か、あるいは新政府が掲げた方針か、そして「イ」が立法や司法などを担う新政府の機関かを見極めることがポイントとなる。

<選択肢>
①【正】
「ア」に“王政復古の大号令”、「イ」に“元老院”を入れる組合せ。1867年末に出された「王政復古の大号令」は、幕府廃止と天皇親政への転換を図る宣言として有名である。ついで明治政府は立法機関として元老院(1875年設置)を置き、立憲制へ向けて体制を整えていった。史実と整合するため正しい。

②【誤】
「ア」は①と同じ“王政復古の大号令”だが、「イ」が“大審院”となっている。しかし大審院は明治期に司法の最上級機関として設置されたもので、立法機関としての役割を果たした元老院とは異なる。問題文の文脈でいう「イ」に大審院を当てはめるのは不適切である。

③【誤】
「ア」に“五榜の掲示”、「イ」に“元老院”を入れる組合せ。五榜の掲示(1868年)は、民衆向けに出された禁令・心得などを示した高札であり、“王政復古の大号令”とは性質が異なる。新政府への転換の直接的な布告としては“王政復古の大号令”が該当し、こちらの組合せは筋が通らない。

④【誤】
「ア」に“五榜の掲示”、「イ」に“大審院”の組合せ。③と同様、五榜の掲示は民衆への布告であって幕府廃止や天皇親政の転換を示す大きな政治的宣言ではない。また大審院と合わせる必然性も文脈上乏しいため誤りとなる。

問8:正解4

<問題要旨>
幕末期の外交・朝廷政策において、井伊直弼と安藤信正がそれぞれどのような行動をとったか、またその内容が史実と合致するか否かを問う問題。文X・文Yの正誤の組合せを見極める。

<選択肢>
① X 正/Y 正【誤】
文X「井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得て、開国に踏み切った」、文Y「安藤信正は、朝廷との融和をはかる公武合体に反対し、老中を辞職した」が、ともに正しいとする主張。
しかし史実では、井伊直弼は日米修好通商条約などを朝廷の正式な勅許なしに締結しており、孝明天皇の勅許を正式に得たわけではない。また安藤信正は公武合体の推進派であり、これに反対して辞職したのではない。よっていずれも正しいとは言えない。

② X 正/Y 誤【誤】
文Xのみ正しいとするが、上記の通り井伊直弼が天皇の勅許を得て開国したわけではなく、朝廷の意向に逆らって条約を締結したことが知られているため、文Xを正しいとするのは誤りである。

③ X 誤/Y 正【誤】
文Xは確かに誤りだが、文Yを正しいとすることも史実とは合致しない。安藤信正は公武合体路線を推進したが、それを巡る混乱(坂下門外の変など)によって辞職するに至ったのであって、公武合体に「反対して」辞職したわけではない。

④ X 誤/Y 誤【正】
文Xも文Yも史実に合致しない。井伊直弼は孝明天皇の勅許を得ずに条約締結に踏み切った経緯があり、安藤信正は公武合体をむしろ推し進めた立場にあった。したがってX・Y双方とも誤りである。

問9:正解3

<問題要旨>
廃藩置県(1871年)をはじめとする明治初期の東京について述べられた複数の文から、史実に合致するものを正しく選ぶ問題。旧藩主(知藩事)の処遇や新しい行政制度・改革の実施状況などが焦点である。

<選択肢>
①【誤】
「戊辰戦争によって江戸城は焼失し、その跡に皇居が造営された」という内容。江戸城は無血開城であり、実際に大規模な焼失は起こっていない。そのまま皇居として改修されていったため、ここでいう「焼失」説は事実と異なる。

②【誤】
「はじめての電信が、東京~新潟間に開通した」という内容。日本で最初に開通した電信は1869年の東京~横浜間であり、東京~新潟間ではない。よって誤り。

③【正】
「廃藩置県によって旧藩主は知藩事を罷免され、東京へ居住させられた」という内容は史実に合致する。廃藩置県の結果、知藩事は罷免され、旧大名たちは東京に移り住むことを命じられた。

④【誤】
「自由民権運動の全国的組織である愛国社は、東京で結成された」という内容は事実と異なる。愛国社は1875年に大阪で結成されており、東京ではない。

問10:正解3

<問題要旨>
華族制度にかかわる明治以降の法制や待遇について問う問題。華族への家禄や爵位付与のほか、大日本帝国憲法における軍隊統帥権、貴族院議員資格などが正しく理解されているかを確かめる。

<選択肢>
①【正】
「廃藩置県後も、政府は華族に家禄を支給した」は史実として正しい。旧大名などを含む華族たちは、家禄や秩禄を一定期間受け続け、のちに秩禄処分によって徐々に廃止されたものの、すぐに廃止になったわけではない。

②【正】
「華族令によって、華族には爵位が与えられた」は事実に合致する。1884年(明治17)年の華族令により公・侯・伯・子・男の五爵制が導入された。

③【誤】
「大日本帝国憲法によって、天皇と華族に軍隊の統帥権が認められた」は誤り。大日本帝国憲法では、統帥権は天皇が有する最高権限であり、華族に軍の統帥権が与えられたわけではない。

④【正】
「華族は貴族院議員になる資格を持っていた」は憲法下の貴族院(上院)で、皇族・華族が議席を有した事実と合致する。

第3問

問11:正解3

<問題要旨>
幕末から明治維新期にかけて勃発した複数の戦い(禁門の変、鳥羽・伏見の戦い、西南戦争、萩の乱)について、その時期・規模・性質を正しく理解し、最初の戦闘と最大の士族反乱をどれに当てはめるかを問う問題。空欄「ア」が幕府側と新政府軍の最初の大規模衝突、「イ」が最大規模の士族反乱を指す。

<選択肢>
①【誤】
「ア」に禁門の変(蛤御門の変・1864年)、「イ」に西南戦争を入れる組合せ。禁門の変は長州藩と幕府・会津藩・薩摩藩などとの衝突であり、戊辰戦争本格化以前の出来事であって「最初の戦い」と呼ぶのは不適切。

②【誤】
「ア」に禁門の変、「イ」に萩の乱を入れる組合せ。上記と同様、禁門の変は戊辰戦争とは別の前段階の衝突であるうえ、萩の乱は1876年に山口県で起きた士族反乱であるが、西郷隆盛が率いた西南戦争(1877年)のほうが規模が大きく「最大の士族反乱」とされる。

③【正】
「ア」に鳥羽・伏見の戦い(1868年)、これは事実上の戊辰戦争の緒戦にあたり、新政府軍と旧幕府軍の最初の大規模衝突と位置づけられる。「イ」に西南戦争(1877年)は、明治政府に対する最大規模の士族反乱として知られる。史実と合致するため正しい。

④【誤】
「ア」に鳥羽・伏見の戦い、「イ」に萩の乱を入れる組合せ。鳥羽・伏見の戦いを「最初の大戦闘」に当てる点は良いが、最大規模の士族反乱は萩の乱(1876年)ではなく翌年の西南戦争である。

問12:正解1

<問題要旨>
文明開化期(明治初期)の都市整備や思想の普及について述べた文X・文Yの正誤を組み合わせる問題。東京銀座の近代化や福沢諭吉の出版活動が史実に合うかどうかが論点となる。

<選択肢>
①【正】
X「東京銀座には洋風の煉瓦造りの建物が建てられ、ガス灯が使用された」は、明治初期に始まった銀座煉瓦街(1872年の大火後の再開発)などで実際に行われた都市整備と合致する。
Y「福沢諭吉が『西洋事情』『学問のすゝめ』を著し、欧米の近代思想を紹介した」も事実と整合するため、X・Yともに正しい。

②【誤】
Xは正しいとするが、Yは誤りとする組合せ。福沢諭吉の著作については『西洋事情』『学問のすゝめ』を通じて欧米思想を紹介したことが史実のため、Yを誤りとはできない。

③【誤】
Xを誤り、Yを正しいとする組合せ。銀座煉瓦街やガス灯の導入は確かな史実であり、これを誤りとするのは不適切。

④【誤】
X・Yともに誤りとする組合せ。上記の通り、どちらも明治期の実態や人物の活動に合致しているため誤り。

問13:正解6

<問題要旨>
自由民権運動(1870年代後半~1880年代)の主な出来事を時系列順に配列する問題。選択肢のI・II・IIIを古いものから順に並べる必要がある。

<選択肢の内容整理>
I「大同団結運動と三大事件建白運動の高揚に対し,政府は保安条例を制定した」
II「国会開設の勅諭が出ると,自由党や立憲改進党などの政党が結成された」
III「征韓論争に敗れた板垣退助らは,民撰議院設立の建白書を左院に提出した」

【史実上の年代】

  • III:民撰議院設立建白書(1874年)
  • II:国会開設の勅諭(1881年)を受けて政党結成(自由党・立憲改進党など)
  • I:大同団結運動・三大事件建白運動(1886~1887年頃) → 保安条例(1887年)

以上を古い順に並べると、III → II → I となる。

<選択肢>
① I – II – III【誤】 順番が逆
② I – III – II【誤】 順番が逆
③ II – I – III【誤】 順番が逆
④ II – III – I【誤】 順番が逆
⑤ III – I – II【誤】 IIがIより後のはずが、この順ではIIが最後にならない
⑥ III – II – I【正】 1874年 → 1881年 → 1887年の順に合致する

問14:正解2

<問題要旨>
掲載された風刺画(史料)に関する文a~dの正誤を組み合わせる問題。史料中の代議士が誰か、そして内容が「主張を聞くべきか(d)」か「耳を貸さなくてよい(c)」かなどが問われる。

<選択肢>
a「この代議士は田中正造である」
b「この代議士は幸徳秋水である」
c「この史料は、代議士の主張に耳を傾ける必要はないと述べている」
d「この史料は、代議士の主張に耳を傾けるべきだと述べている」

① a・c【誤】
田中正造であり、かつ「主張を聞く必要はない」と描いているわけではない点で史料解釈に矛盾がある。

② a・d【正】
a:田中正造は足尾銅山公害を追及した代議士として知られ、しばしば議会で政府批判を行った。本史料の風刺画は彼を揶揄しつつも、議員の訴えに注目すべき内容が描かれている。
d:「代議士の主張にこそ耳を傾けるべき」という風刺の結びになっていると読めるため、史料の意図とも合致する。

③ b・c【誤】
bは幸徳秋水(社会主義運動家)であり、議会の代議士として足尾銅山問題に取り組む田中正造とは全く異なる立場。cの内容も史料のニュアンスに合わない。

④ b・d【誤】
bにある「幸徳秋水」は社会主義者で、帝国議会議員を務めたわけではない。従って代議士としての描かれ方は史実と整合しない。

問15:正解2

<問題要旨>
明治・大正期における社会運動や労働問題を問う問題。社会主義・労働組合運動の始まりや政府弾圧などの時期・内容を正しく把握しているかがポイントとなる。

<選択肢>
①【誤】
「安部磯雄らが,日本最初の社会主義政党である日本共産党を結成した」という記述。日本共産党が結成されたのは1922年だが、これは非合法下での活動であり、安部磯雄が中心というわけでもない。また最初の合法的社会主義政党としては日本社会党(1906年)などがあるので、やや不正確。

②【正】
「鈴木文治が,労働者の相互扶助と地位向上を目的に,友愛会を組織した」は史実に合致する。友愛会は1912年に結成され、のちに日本労働総同盟の前身となった団体である。

③【誤】
「第2次桂太郎内閣は,労働者保護立法である労働組合法を制定した」という内容だが、労働組合法が成立したのは戦後(1949年)であり、明治・大正期にこの種の労働保護立法が整備されたわけではない。

④【誤】
「第2次西園寺公望内閣は,大逆事件で多数の社会主義者を逮捕・起訴した」は、大逆事件(1910~1911年)で逮捕・起訴された幸徳秋水ら多数の社会主義者を死刑などに処したが、このときの内閣は第2次桂太郎内閣に交代していた時期とも複雑に絡む(大逆事件に関連する始動は第2次桂内閣下)。少なくとも「第2次西園寺公望内閣が直接多数の社会主義者を…」という書き方は正確性を欠く。

問16:正解4

<問題要旨>
明治・大正期における女性の政治的活動や社会的地位に関して述べた4つの文のうち、誤っているものを選ぶ問題。女性解放運動や民権運動、あるいは法律上の扱いの変遷を理解する必要がある。

<選択肢>
①【正】
「岸田俊子が自由民権運動に参加し、演説会で活躍した」は史実と合致する。岸田俊子は女性演説家として活躍した一人。

②【正】
「平塚らいてうらは、女性の解放をめざして青鞜社を結成した」もよく知られた史実である。1911年に平塚らいてう(平塚明)らが結成し、雑誌『青鞜』を発刊した。

③【正】
「山川菊栄らは、社会主義の立場から女性解放をめざす赤瀾会を組織した」も事実と一致する。赤瀾会(1919年結成)は山川菊栄や伊藤野枝ら女性社会主義者による団体である。

④【誤】
「新民法(明治民法)によって、戸主制度が廃止され、男女同権の家族制度が定められた」は誤り。実際の明治民法(1898年施行)では家父長制が敷かれ、戸主制度も存続し、男女同権にはほど遠い内容であった。よってこれは誤りである。

第4問

問17:正解1

<問題要旨>
日露戦争後から太平洋戦争期にかけての日米関係を扱う問題。とくに1917年に結ばれた協定(ア)と、日本軍が進駐した地域(イ)との組合せを問う。日米の対立激化の一因となった日本軍の南方進出先がどこであったかも含め、史実に即した知識が求められる。

<選択肢>
①【正】
「ア」に石井・ランシング協定(1917年)、「イ」にフランス領インドシナ(仏印)を入れる組合せ。石井・ランシング協定は日本が中国における特殊権益を、アメリカが中国の門戸開放をそれぞれ相互に承認した協定である。一方、1940年代に日本が南部仏印へ進駐したことがアメリカの経済制裁強化を招き、最終的に太平洋戦争へ至った。これらの史実と文脈が合致する。

②【誤】
「ア」に石井・ランシング協定、「イ」にフィリピンの組合せ。日本軍が対米開戦以前に軍を送り込んだ南方進出先としては仏領インドシナが決定的であり、当時アメリカ領であったフィリピンへの進駐は太平洋戦争勃発後の動きとなる。

③【誤】
「ア」に桂・タフト協定(1905年)、「イ」にフランス領インドシナ(仏印)の組合せ。桂・タフト協定は日露戦争後、日本の韓国支配とアメリカのフィリピン領有を相互に承認した協定であり、仏領インドシナ進駐と直接関連しない。

④【誤】
「ア」に桂・タフト協定、「イ」にフィリピンの組合せ。桂・タフト協定は日米間でフィリピンと韓国の相互承認を主題とするもので、問題文の流れ(1917年協定&のちの仏印進駐)にはそぐわない。

問18:正解4

<問題要旨>
下線部(a)に関連して述べた人物の行動を正しいか誤りかで問う問題。ここでは「首相として何をしたか」という具体的な業績が適切かどうかを見極めることがポイントになる。

<選択肢>
①【誤】
「日本全権として、ポーツマス条約に調印した」という首相の行動を指しているが、ポーツマス条約(1905年)は小村寿太郎が全権として調印にあたり、首相ではない。また首相が直接条約に調印したわけでもないため、この文は不正確と言える。

②【誤】
「初代朝鮮総督として、武断政治を実施した」は寺内正毅などが該当するが、これを“首相として”の業績だとするのは誤り。初代朝鮮総督は元帥陸軍大将・寺内正毅で、首相在任中の行動とは区別されるべきである。

③【誤】
「首相として、降伏文書に調印した」は降伏文書(1945年9月)への署名は外相の重光葵が行い、当時の首相(鈴木貫太郎~東久邇宮稔彦王)は署名していない。よってこの表現は誤りになる。

④【正】
「首相として、新憲法の制定に着手した」は、敗戦直後の内閣(幣原喜重郎~吉田茂)のもとで新憲法制定が進められた史実と合致する。GHQの指示やマッカーサー草案を基に日本政府が新憲法づくりを進めたため、これを“首相としての業績”と捉えるのは妥当である。

問19:正解4

<問題要旨>
下線部(b)に関連して、近現代における海外での日本人の動向を問う問題。戦時中・戦後における移住や抑留、あるいは帰国困難者などに関する史実を整理する必要がある。

<選択肢>
①【誤】
「日朝修好条規の締結をきっかけに、朝鮮で東洋拓殖会社が設立された」は時期的に齟齬がある。東洋拓殖会社は日露戦争後(1908年)に創設されたもので、日朝修好条規(1876年)との直接的関連ではない。

②【誤】
「日露戦争の後に、多数の日本軍の軍人・軍属がシベリアに抑留された」は事実としては日露戦争後のシベリア抑留ではなく、第二次世界大戦末期~終戦直後にソ連によって抑留された多くの日本兵が存在した。よって日露戦争後ではない。

③【誤】
「満州事変の勃発により、満州への移民が廃止された」は逆で、満州事変(1931年)以後、日本は国策として満州開拓移民をむしろ推進していったため、ここで“廃止された”というのは誤り。

④【正】
「アジア太平洋戦争(太平洋戦争)敗戦前後の混乱のなかで、中国から帰国できず、残留孤児となる者が生じた」は史実として確かである。戦乱の混乱期に日本人子女が現地に取り残され、いわゆる“残留孤児”問題が戦後長く続いた。

問20:正解1

<問題要旨>
下線部(ウ)(エ)に関連して、GHQ(連合国軍総司令部)が日本政府に対して指令・統治政策を行う際の語句を問う問題。連合国の占領政策では、表現や報道に対する一定の規制がしかれたことがポイントとなる。

<選択肢>
①【正】
「ウ=間接」「エ=抑制する」の組合せ。GHQは日本政府を通じて間接統治を行いながら、報道や出版などに対して検閲に近い形で抑制を加えることもあった。したがって、間接統治と抑制のセットは史実と合致する。

②【誤】
「ウ=間接」「エ=増加させる」。表現規制において“増加させる”は文脈として不自然。GHQがむしろ検閲や報道制限などに該当する“抑制”を行った実態がある。

③【誤】
「ウ=直接」「エ=抑制する」。GHQは日本国内の行政機構を掌握しつつも、あくまで日本政府を通じて命令を実施する“間接統治”方式をとったため、“直接”ではない。

④【誤】
「ウ=直接」「エ=増加させる」。GHQが占領の初期から直接すべてを管理したわけではなく、日本政府を残して施策を遂行した「間接統治」が基本形態。また、表現を“増加させる”という表現も不適切である。

問21:正解2

<問題要旨>
幕末以降、日本を訪れたり、滞在したりしたアメリカ人に関する記述が正しいかどうかを見分け、誤った文を選ぶ問題。ハリス・モース・フェノロサ・クラークなど有名外国人顧問や訪日経験者の業績に基づいて判断する。

<選択肢>
①【正】
「ハリスは、江戸幕府に通商条約の締結を求めた」は史実に合致する。1858年の日米修好通商条約につながる交渉で知られる。

②【誤】
「モースは、地方制度について明治政府に助言した」という記述は誤りである。モース(Edward S. Morse)は動物学者・貝塚研究で知られ、大森貝塚の発掘などを行った人物。地方行政制度に助言したわけではなく、生物学・考古学に功績がある。

③【正】
「フェノロサは、日本の伝統美術を高く評価した」は史実に合致する。アメリカ出身の美術史家として、日本美術の復興・評価に大きく貢献した人物である。

④【正】
「クラークは、札幌農学校で教育に当たった」はクラーク(William S. Clark)が1876年に札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭として招かれた史実と一致する。

問22:正解3

<問題要旨>
下線部(④)に関連して示されたGHQの検閲や報道指針に関する史料(指示文書)を読み、文X・文Yがそれぞれ正しいか誤っているかを問う問題。自由な言論を完全に保証したわけではなく、「公安を害する内容」や「連合軍への不信や怨嗟をあおる報道」を禁じた点が焦点となる。

<選択肢>
① X 正/Y 正【誤】
X「GHQは、真実であれば公安を害することでも報道することを許している」、Y「GHQは、連合軍に対する不信や怨嗟を招く報道を禁止している」がともに正しいとするが、GHQが“真実であればいかなる内容でも報道を許可”したというのは不正確。事実であっても公序良俗や連合軍批判などは検閲対象となった。

② X 正/Y 誤【誤】
Xのみを正しいとするが、上記のとおりX自体が誤りの可能性が高い。Yが誤りというのも、GHQは実際に連合軍への批判や不信を招く報道を禁止しているので、Yを誤りとするのはおかしい。

③ X 誤/Y 正【正】
X「GHQは、真実であれば公安を害することでも報道を許している」は実際には検閲対象が広かったため誤り。Y「GHQは、連合軍に対する不信や怨嗟を招くような報道を禁止している」は史料記述とも合致するため正しい。

④ X 誤/Y 誤【誤】
両方とも誤りとするのは不適当。連合軍への批判を禁じた点は実際の指令文書にもみられるため、Yは正しいと言える。

問23:正解3

<問題要旨>
朝鮮戦争勃発(1950年)以降の日米関係について、1951年のサンフランシスコ平和条約に続いて締結された協定を「オ」、1960年代にアメリカのアジア政策に協力しつつ日韓国交正常化・沖縄返還交渉を進めた首相を「カ」として問う問題。

<選択肢>
①【誤】
「オ=日米相互防衛援助協定(MSA協定)」「カ=佐藤栄作」。MSA協定は1954年に結ばれたが、一方1952年にまず日米行政協定が締結されており、これが在日米軍の駐留を定める初期の協定となった。また1960年代に日韓基本条約や沖縄返還を進めた首相は佐藤栄作で合っているが、「オ」をMSA協定にするのは時系列的に直後の協定を指す問題にはそぐわない。

②【誤】
「オ=日米相互防衛援助協定(MSA協定)」「カ=大平正芳」。1960年代後半に沖縄返還交渉や日韓条約を進めた首相は佐藤栄作であり、大平正芳が首相になるのは1978年以降。さらに「オ」にも同様の不整合がある。

③【正】
「オ=日米行政協定」「カ=佐藤栄作」。1952年にサンフランシスコ平和条約発効と同時に結ばれた日米行政協定によって、米軍の日本国内駐留条件などが定められた。1960年代に首相としてアメリカのアジア政策に協力しつつ日韓基本条約(1965年)締結や沖縄返還(1972年に実現)を推進したのは佐藤栄作であり、史実と整合する。

④【誤】
「オ=日米行政協定」「カ=大平正芳」は上記のとおり、1960年代の首相が大平正芳ではないため該当しない。

問24:正解3

<問題要旨>
1990年代の日米の軍事・防衛関係に関する文a~dについて、正しい組合せを選ぶ問題。湾岸戦争後の日本の対応やPKO(国連平和維持活動)協力法の成立、新ガイドライン関連法の成立、在日米軍基地への反対運動などが論点となる。

<選択肢>
a「湾岸戦争の際、日本は多国籍軍への資金援助要請を拒絶した」
b「湾岸戦争後、国会でPKO協力法(国連平和維持活動協力法)が成立した」
c「日米協力のための新ガイドライン関連法が成立した」
d「在日米軍基地に反対する運動が広がり、砂川事件が起こった」

【史実確認】

  • a:湾岸戦争(1991年)時、日本は拒絶ではなく多額の財政支援を行った。よって誤り。
  • b:湾岸戦争後の1992年にPKO協力法が成立したのは事実。
  • c:新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)は1978年初版、その改定が1997年、それに基づく関連法が1999年に成立している。よって90年代後半に法整備が進んだ事実と合致する。
  • d:砂川事件は1950年代(1957年)の米軍基地拡張反対運動が発端であり、90年代ではない。

① a・c【誤】 aが誤りのため×
② a・d【誤】 aもdも時代がずれた内容で誤り
③ b・c【正】 b・cはいずれも90年代の日本における軍事・防衛政策と合致する
④ b・d【誤】 dは1950年代の砂川闘争で、90年代ではない

第5問

問25:正解1

<問題要旨>
明治初期に横浜や神戸などの開港場が成立した際、そこでの外国人居留や貿易に関して正しく理解しているかを問う問題。とくに条約に基づく外国人の待遇や日本の関税自主権の有無が焦点となる。

<選択肢>
①【正】
「開港場では、外国人は領事裁判権で保護された」は安政の五カ国条約など不平等条約に基づき、居留地内の外国人が自国領事裁判権の下に置かれた史実と合致する。

②【誤】
「日本は貿易品に自由に関税をかけることができた」は誤り。条約改正まで日本は関税自主権を失っており、関税率を独自に決定できなかった。

③【誤】
「日本の主要な輸入品は茶であった」は当時、茶はむしろ日本の主要輸出品であり、イギリスやアメリカなどへ盛んに輸出された。輸入の中心は毛織物や綿織物といった外国製品などである。

④【誤】
「開港場に住む外国人は、日本国内を自由に旅行できた」は不正確。居留地以外への旅行には制限があり、自由に国内各地を往来できる状況ではなかった。

問26:正解4

<問題要旨>
明治期の産業の発展過程を問う問題。鉄道や製糸・紡績などの工業化が進む時代ではあるが、農業との比重の変化や時期などを正確に把握することが求められる。

<選択肢>
①【正】
「鉄道業において、会社設立ブームが起こった」は事実。1880年代には民間資本を中心とする鉄道会社が相次ぎ設立され、鉄道敷設が盛んになった。

②【正】
「製糸業の生産高で、器械製糸が座繰製糸を上回るようになった」も明治後期には事実となる。座繰製糸は在来の手作業方式だったが、やがて器械製糸が主流となった。

③【正】
「綿紡績業で、綿糸の輸出高が輸入高を上回るようになった」は1890年代半ば以降、大規模紡績工場の整備と技術革新によって輸入に依存していた綿糸が国産化され、さらに輸出が伸びた史実と符合する。

④【誤】
「工業生産額が、農業生産額を上回るようになった」というのは明治期前半~中期の段階では早すぎる。明治中期までは依然として農業生産額が大きく、工業が農業を上回るのは大正期以降と考えられるため、この文は誤り。

問27:正解3

<問題要旨>
下線部(⊂原敬内閣)に関連して、原敬が行った政策を問う問題。納税額による選挙権制限の緩和や大学令の制定など、政党内閣としての取り組みを正しく把握する必要がある。

<選択肢>
① X 正/Y 正【誤】
X「納税額による制限を廃止し、25歳以上の男子に選挙権を与えた」が正しいとするが、原敬内閣(1918-1921)では選挙権納税額の引き下げを行ったものの、完全な撤廃や普通選挙の実施には至っていない。
Y「大学令を制定し、帝国大学のほかに公立大学・私立大学の設置を認めた」は1918年の大学令に合致し、ここは正しいが、Xは誤りである。

② X 正/Y 誤【誤】
Xを正しいとし、Yを誤りとする組合せ。Yの大学令(1918年)は事実であり、Yを誤りとするのは不適切。

③ X 誤/Y 正【正】
X「納税額制限を完全に廃止」は誤り。原敬は選挙権資格の納税額を引き下げただけであり、普通選挙を実現したのは加藤高明内閣下(1925年)。
Y「大学令を制定して公立・私立大学の設立を認めた」は正しい。

④ X 誤/Y 誤【誤】
大学令の制定を誤りとするのは事実に反するため不適切。

問28:正解3

<問題要旨>
大正期から昭和初期にかけて活躍した思想家や文学者について、それぞれの作品・業績を正確に対応付ける問題。X・Yにあたる人物が誰か、そして提示された作品がどの作家によるかを見極める。

<選択肢>
X「貧富の格差を題材にした『貧乏物語』を著し、マルクス主義の研究を進めた人物」
Y「労働者のストライキを描いた『蟹工船』を著し、プロレタリア文学興隆の一翼を担った人物」

  • 『貧乏物語』=河上肇(b)
  • 『蟹工船』=小林多喜二(c)

① X→a/Y→c【誤】 a「横山源之助」ではない。
② X→a/Y→d【誤】 いずれも当てはまらない。
③ X→b/Y→c【正】 河上肇と小林多喜二で対応が正しい。
④ X→b/Y→d【誤】 y→d「川端康成」はプロレタリア文学ではなく耽美派・新感覚派の作家。

問29:正解6

<問題要旨>
1930年代の満州事変以降、中国・ソ連との軍事衝突の時系列を把握しているかを問う問題。
I「関東軍が、ノモンハンでソ連軍と衝突した」(1939)
II「日本軍が、北京郊外の盧溝橋付近で、中国軍と衝突した」(1937)
III「関東軍が、奉天付近の柳条湖で満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍のしわざとした(満州事変)」(1931)

古い順に並べると、III(1931) → II(1937) → I(1939)

<選択肢>
① I – II – III【誤】 順番が逆
② I – III – II【誤】 順番が逆
③ II – I – III【誤】 順番が逆
④ II – III – I【誤】 順番が逆
⑤ III – I – II【誤】 1931 → 1939 → 1937の順なので誤り
⑥ III – II – I【正】 1931 → 1937 → 1939の順番で正しい。

問30:正解2

<問題要旨>
戦後高度経済成長期に形成された「太平洋ベルト地帯」と、1960年代以降に登場した革新自治体に関する空欄を正しく組み合わせる問題。大都市圏での公害対策や社会福祉政策など、革新首長が積極的に取り組んだ事例が特徴的である。

<選択肢>
①【誤】
「ア=太平洋/イ=保守合同」では、イが60年代に都市部を中心に登場した革新系首長を示す語として不適切。「保守合同」は1955年の自由党と日本民主党の合同を指す。

②【正】
「ア=太平洋/イ=革新自治体」の組合せ。京浜・中京・阪神などを結ぶ「太平洋ベルト」は高度経済成長期の工業集積地帯として発展。1960年代後半〜70年代にかけて公害対策や住民福祉に積極的な革新自治体がいくつか誕生した史実と合致する。

③【誤】
「ア=日本海/イ=保守合同」。高度成長期の主要工業地帯は太平洋岸が中心であるため、日本海ベルトという表現は通常用いない。

④【誤】
「ア=日本海/イ=革新自治体」。同様の理由でアが誤りとなる。

問31:正解4

<問題要旨>
第二次世界大戦後、日本が加入した国際経済機構を、X・Yそれぞれの内容と加盟年から正しく判別する問題。通貨の安定や資本取引の自由化を目指す機関が何であったかがポイントとなる。

<選択肢>
X「通貨の安定などを目的とし、日本は1964年に、独自に為替管理ができない国(=IMF8条国)に移行した」 → b(IMF:国際通貨基金)
Y「国際的な資本取引の自由化などを目的とし、日本は1964年に加入した」 → d(OECD:経済協力開発機構)

① X→a/Y→c【誤】 aはILOで、cはGATT。1964年にILOやGATTへ参加という組合せではない。
② X→a/Y→d【誤】 aはILOで、IMFではないため不適当。
③ X→b/Y→c【誤】 bはIMFでXは合うが、Y→c(GATT)では1964年にGATTへ新規加盟というわけではなく、日本は1955年にGATTに正式加盟している。
④ X→b/Y→d【正】 X(IMF8条国移行・1964年)、Y(OECD加盟・1964年)が史実と合致する。

問32:正解1

<問題要旨>
1975年と1994年の世界主要港の貨物取扱量を比較した表をもとに、神戸港の順位とアジアNIESおよび日本の港湾の伸長度合いについて、文X・文Yの正否を問う問題。

文X:「1975年と1994年を比べると、神戸は貨物取扱量が増えたにもかかわらず、順位を下げている。」
文Y:「1994年の上位10港のうち、半分以上は日本とアジアNIES(A-NIES)の港湾である。」

<選択肢>
① X 正/Y 正【正】
1975年の神戸は第3位(貨物量90)→ 1994年は第6位または第7位(貨物量292)へと順位を落としたが、取り扱い個数自体は増加している点でXは正しい。
1994年上位10港中、香港・シンガポール・高雄・釜山とNIES地域に属する港が4つ、日本は神戸・横浜の2港を含めると計6港が日本+アジアNIESに該当し、半分以上を占めるのでYも正しい。

② X 正/Y 誤【誤】
Yも正しいため、これを誤りとするのは不適当。

③ X 誤/Y 正【誤】
Xは表を見れば正しい記述なので、誤りにするのは不適切。

④ X 誤/Y 誤【誤】
両方とも史実に合っているため、これは成り立たない。

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