解答
解説
第1問
問1:正解2
<問題要旨>
19世紀後半のフランスの政体・外交政策に関する問題です。本文中で「万国博覧会」や当時のフランス君主との関係が言及されており、その時代のフランスが行った対外政策が問われています。
<選択肢>
① バタヴィアを拠点に、植民地支配を広げた
…バタヴィア(現在のジャカルタ)を中心とする植民地経営はオランダの動きであり、フランスではありません。
② メキシコ干渉のために出兵した
…第二帝政期のフランス皇帝(ナポレオン3世)は、1860年代にメキシコへ軍を派遣しました。これがいわゆる「メキシコ出兵」であり、当時のフランスの重要な対外政策の一つです。
③ オーストリア、イタリアと三国同盟を結んだ
…ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(1882)はドイツ帝国主導の同盟であり、フランスが加わることはありませんでした。
④ 失業者救済を目指して、国立作業場を設立した
…失業者救済を目的とする国立作業場は、1848年の2月革命直後の臨時政府での政策です。第二帝政の政策としては該当しません。
問2:正解1
<問題要旨>
アロー戦争(第二次アヘン戦争)や北京条約など、19世紀半ば以降の清朝と欧米諸国との条約締結に関する問題です。本文中では「フランスがイギリスとともに出兵したこと」や「天津開港」などに触れており、空欄の戦争がどの戦争を指すかを見極め、関連する出来事が正しいかどうかを判断する設問となっています。
<選択肢>
(あ) フランスは、イギリスとともに出兵した
…1856年に始まるアロー戦争(第二次アヘン戦争)では、イギリスとフランスが連合して清に出兵しました。これは史実と合致します。
(い) 北京条約によって天津が開港された
…1860年に締結された北京条約(北京条約・北京協約とも)で天津は開港され、キリスト教布教の自由なども認められました。こちらも事実です。
よって、(あ)・(い)ともに正しい組み合わせが該当します。
問3:正解1
<問題要旨>
1867年のパリ万国博覧会に日本から関係者が関わった背景と、本文中に示された画家の作品(図版X・Y)の対応を組み合わせる問題です。「野中」がパリ万博にどのような経緯で関係したのか(佐賀藩か薩摩藩か等)や、図版の絵画がどの画家のものかを判断し、正しい組合せを選ばせています。
<選択肢>
設問では「う」「え」などで示された“野中がどの藩の関係者だったか”と、「X」「Y」で示された2つの絵画(一方はルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』のような印象派の作品、もう一方はレンブラント『夜警』のような17世紀オランダ絵画)を対応させるかたちとなっています。
① う―X
…「う」=佐賀藩などパリ万博との関係を持つ藩であったこと、X=印象派風の近代フランス絵画(本文中の挿絵は賑やかな屋外の踊りの場面)を示す可能性が高く、組み合わせとして自然です。
② う―Y
…Yの絵は17世紀オランダの集団肖像画風で、パリ万博と即座に結びつけるには不自然です。
③ え―X
…「え」=薩摩藩関係とするならば、他史料との関連づけや絵画の内容次第ですが、文脈上は合わない可能性が高いです。
④ え―Y
…こちらも組み合わせとしては根拠に乏しいです。
以上の理由から、最も妥当な組み合わせが①となると考えられます。
問4:正解2
<問題要旨>
中国と周辺諸国の朝貢関係や冊封体制などの歴史を念頭に、4つの選択肢の中から正しい事例を選ぶ問題です。琉球や朝鮮、邪馬台国、元・明などとどのような関係があったか、史実との整合性が問われています。
<選択肢>
① 新羅が、唐と結んで百済と高句麗を滅ぼした
…7世紀後半に新羅と唐が連合して百済・高句麗を相次いで滅亡させたこと自体は歴史的事実ですが、その後新羅が唐と対立して領域を確定した経緯などもあり、設問の文面次第では誤りとされる場合があります。
② 琉球が、清に朝貢した
…琉球王国は明・清時代を通して中国に朝貢しており、いわゆる冊封体制のもとで国王の冊封を受けていました。これはよく知られた歴史的事実です。
③ 邪馬台国の卑弥呼が、漢に使いを送った
…卑弥呼が使者を送ったのは三国時代の魏であって、後漢や前漢ではありません。「漢」と表記すると厳密には史料と一致しないため誤りになります。
④ 豊臣秀吉の朝鮮侵略の際、元が朝鮮に援軍を送った
…秀吉による朝鮮侵略(文禄・慶長の役)のとき、援軍を出したのは当時の明(中国)であり、元朝ではありません。よって誤りです。
設問文の意図などから、②が最も適切な記述となることが考えられます。
問5:正解5
<問題要旨>
近代朝鮮(大韓帝国期直前)において「独立」を標榜した団体と、その団体が刊行した新聞の特徴、あわせて「ハングル」という文字の成り立ちを問う問題です。「ウ」に入る語句としてどの国からの独立を意味するか、また下線部(ハングルについての説明)X・Yのどちらが正しいかを判断する形式になっています。
<選択肢>
[ウに入れる語句]
あ 日本からの独立
い ロシアからの独立
う 清からの独立
[X・Yについて述べた文]
X 母音字と子音字を組み合わせて用いる文字である。
Y 日本で仮名文字(かな文字)が成立する以前に作られた。
- あ―X
- あ―Y
- い―X
- い―Y
- う―X
- う―Y
…朝鮮半島が19世紀末に掲げた「独立」は清(中国)の冊封体制からの自立を指すことが多いです。またハングルは母音字と子音字を組み合わせる性質をもちますが、日本の仮名の成立(古代の万葉仮名など)よりも後に体系化された文字です。したがって「Y」は史実と違う説明になります。よって「清からの独立」を示す「う」と「母音字と子音字を組み合わせて用いる文字である」を示す「X」の組み合わせ、すなわち5)が正しい選択となります。
問6:正解1
<問題要旨>
下線部で示された国(大韓帝国など)が存続していた時期(1897〜1910年)に、朝鮮半島で起こった出来事を問う問題です。日本が清に勝利した後の状況下で、朝鮮半島が大韓帝国を名乗った時期にどんな歴史的変化があったかを理解する必要があります。
<選択肢>
① 日本の統監府(統監)が置かれた。
…日露戦争後のポーツマス条約(1905)の翌年に統監府が設置されるなど、大韓帝国下で日本による干渉が強まったのは史実です。
② 甲午農民戦争が起こった。
…甲午農民戦争(東学農民戦争)は1894年であり、大韓帝国成立(1897年)より前です。
③ 李承晩が初代大統領となった。
…李承晩が初代大統領となるのは1948年(大韓民国樹立)であり、大韓帝国の時代より後です。
④ 三・一独立運動が起こった。
…三・一独立運動は日本の韓国併合後、1919年に起こったため、大韓帝国期ではありません。
したがって、①が大韓帝国期の出来事として最も適切と考えられます。
第2問
問7:正解2
<問題要旨>
第一次世界大戦前夜のヨーロッパ情勢を背景に、ある「事件」が起点となって戦争が拡大した経緯を問う問題です。サラエヴォ事件など、20世紀前半における重要な転換点が論点となっています。
<選択肢>
① 「フランコが、スペイン内戦で反乱を起こす」
…スペイン内戦(1936~1939年)の発端であり、第一次世界大戦とは直接関係ありません。
② 「サライェヴォで、オーストリアの帝位継承者が暗殺された」
…1914年に起こったサラエヴォ事件で、オーストリア皇太子が暗殺されたことがヨーロッパ諸国の緊張を高め、第一次世界大戦の直接的なきっかけになりました。
③ 「南フランスのヴィシーで、対独協力政府が樹立された」
…これは第二次世界大戦下のフランスで、ナチス・ドイツ占領期(1940年以降)に成立したヴィシー政権を指します。第一次世界大戦の発端とは関係ありません。
④ 「ドイツが、ソヴィエト政権とブレスト=リトフスク条約を結んだ」
…ブレスト=リトフスク条約(1918年)は、ロシア革命後にドイツとソヴィエト政権が締結した条約で、第一次大戦末期の出来事です。開戦のきっかけとは異なります。
問8:正解2
<問題要旨>
ユーゴスラヴィア史の各時代(章)に関連づけて、ある語句(「I」に入れる語)と、さらに別の出来事(「オ」に入れる文)を正しく対応させる問題です。両大戦間期・冷戦期・非同盟運動・オーストリア=ハンガリー帝国による併合など、ユーゴスラヴィアの歴史にまつわる出来事が論点となっています。
<選択肢(組み合わせの一例)>
① あ―X
② あ―Y
③ い―X
④ い―Y
- 「あ」=「冷戦」、または「両大戦間期」を表す可能性
- 「い」=「両大戦間期」、または「冷戦」を表す可能性
- 「X」=「ベオグラードで非同盟諸国首脳会議が開かれた」(1961年)
- 「Y」=「オーストリアによってボスニア・ヘルツェゴヴィナが併合された」(1908年)
実際には、ユーゴスラヴィア史において「非同盟諸国首脳会議」は第二次大戦後の冷戦期、ティトー政権下でベオグラードを舞台に開かれた出来事です。一方、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合は第一次大戦直前(両大戦間ではなく第一次大戦前)に起こった出来事です。そのため、「I」「オ」の時代区分に合わせた正しい対応付けがポイントです。
問9:正解1
<問題要旨>
1970年代のオイルショック後、アメリカ合衆国の経済・社会構造がどのように変化したかを問う問題です。高度経済成長が終焉し、次の時代へ移行する際の政策や国際体制との関連が論点になります。
<選択肢>
① 「政府による経済の規制を減らす政策(レーガノミックス)が採られた。」
…1980年代のアメリカ合衆国では、減税や金融規制緩和など「小さな政府」を志向する政策が進められ、いわゆる「レーガノミックス」が象徴的です。
② 「ニューディールが推進された。」
…ニューディール政策(1930年代)は大恐慌への対策として実施されたもので、1970年代後半以降とは時期も政策の方向性も異なります。
③ 「ドルを基軸通貨とする国際経済体制を成立させた。」
…第二次大戦後のブレトン・ウッズ体制(1944年)に関する記述であり、1970年代前後のオイルショック後の政策転換ではありません。
④ 「『金ぴか時代』と呼ばれる経済成長期を迎えた。」
…19世紀末のアメリカは「Gilded Age(まばゆい繁栄期)」と呼ばれますが、オイルショック後の不況期とは異なります。
問10:正解2
<問題要旨>
アユタヤ朝の時代にタイで信仰された仏教の形態や、その伝播ルートを問う問題です。「上座仏教」と「大乗仏教」のどちらが伝わったか、またインドからどのような経路で伝わったかなどが論点です。
<選択肢>
あ:上座仏教(上座部仏教)
い:大乗仏教
X:インドから、中央アジア・中国を経由してタイに伝わった。
Y:インドから、セイロン(スリランカ)を経由してタイに伝わった。
① あ―X
② あ―Y
③ い―X
④ い―Y
タイの主流仏教は上座仏教であり、スリランカ(セイロン)から東南アジアへ伝播した歴史が広く認められています。この観点からすると、「上座仏教」かつ「セイロンを経由して伝わった」という組み合わせが適切と考えられます。
問11:正解4
<問題要旨>
空欄「イ」に入る国の対外進出の歴史に関する問題で、近代~現代にかけてその国が獲得・進出した領域などがテーマになります。アジア・アフリカ・太平洋などで起こった植民地支配や資源獲得戦争を手がかりに、どの選択肢が該当するかを判断する問題です。
<選択肢>
① アンボイナ事件を起こして、モルッカ諸島(マルク諸島)に進出した。
…17世紀の香料諸島をめぐる植民地争いに関する出来事で、主としてオランダ・イギリス間の衝突が典型例です。
② 南アフリカ戦争を起こし、勝利した。
…19世紀末~20世紀初頭にイギリスがトランスヴァール共和国などを相手に戦った戦争です。
③ ボトン銀山を開発した。
…一般的には日本の近世史で有名な銀山として石見銀山や生野銀山などがありますが、「ボトン銀山」は特定の国の歴史と直結する題材かどうか要検証です。
④ タヒチを獲得した。
…フランス領ポリネシア(タヒチ)は19世紀にフランスが勢力を及ぼし、最終的に保護領・植民地とされました。南太平洋地域への植民地支配という文脈で論じられます。
問12:正解2
<問題要旨>
18~19世紀のタイ(シャム)における地図や、ヨーロッパ勢力との関わりによって地図の描き方や国境の概念が変化していく歴史を問う問題です。ラタナコーシン朝(バンコク朝)以降、西洋の測量技術や地理学を取り入れることで近代的な国境が形成されていった経緯が論点となります。
<選択肢>
① 18世紀の地図では、説話的な仏教世界と実際のタイの国家が、国境線を挟んで隣接していた。
…18世紀頃の地図は仏教説話に基づくシンボルなどを描きつつ、実在する地名も記す特徴がありましたが、現代のような明確な国境線の認識はまだ乏しかったと言えます。
② ラタナコーシン朝の下で、タイは西洋の地理学を受容し、測量に基づく地図が作成された。
…19世紀以降、ヨーロッパ諸国との条約交渉や領土保全のため、西洋式の地理・測量技術を取り入れた近代的地図作成が進みました。
③ 19世紀末にタイは植民地化され、地図はヨーロッパ人の領土主張を反映したものとなった。
…タイ(シャム)は東南アジアで唯一、欧米列強の植民地にならず独立を維持した国です。
④ 冷戦期のタイでは、隣接する社会主義国との同質性を強調する地図が作られた。
…タイは東南アジア条約機構(SEATO)などに加盟し、共産勢力に対抗する側として立ち回った経緯があり、同質性を強調するような地図を作ったというのは史実とは異なります。
問13:正解3
<問題要旨>
ヨーロッパ現代史における政権の変遷や戦時下での政府成立を問う問題です。時期ごとに異なる体制が生まれたことを正しく把握しているかが論点になります。
<選択肢>
① 「フランコが、スペインにおいて人民戦線内閣に対して反乱を起こした。」
…1936年のスペイン内戦につながる出来事です。
② 「サライェヴォで、オーストリアの帝位継承者が暗殺された。」
…第一次世界大戦の発端となったサラエヴォ事件(1914年)です。
③ 「南フランスのヴィシーに、対独協力政府が樹立された。」
…第二次世界大戦中(1940年以降)、フランスがドイツに降伏したあと南部に成立したヴィシー政権を指します。戦時中の特別な政府形態として知られています。
④ 「ドイツが、ソヴィエト政権とブレスト=リトフスク条約を結んだ。」
…1918年に締結された、ロシア革命後の出来事です。
問14:正解1
<問題要旨>
ユーゴスラヴィアの第二章・第三章に当たる時代のキーワードを文中の空欄に当てはめる問題です。両大戦間期や冷戦期、非同盟運動、さらにはオーストリア=ハンガリー帝国による併合などの歴史事実に照らし合わせて、正しく当てはめる必要があります。
<選択肢の例>
① あ―X
② あ―Y
③ い―X
④ い―Y
- 「あ」=「冷戦」もしくは「両大戦間期」
- 「い」=「冷戦」もしくは「両大戦間期」
- 「X」=「非同盟諸国首脳会議がベオグラードで開催された」
- 「Y」=「オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した」
時代区分と出来事の正しい対応を踏まえた上での選択となります。
問15:正解3
<問題要旨>
下線部ⓒに関連して、ヨーロッパ列強の国際会議や条約の結果どのような独立や併合が認められたか、バルカン半島での同盟形成などが論点になる問題です。19世紀末から20世紀初頭にかけて、国際会議の決議を通じて各国の独立が承認される過程や、逆にいくつかの領土が分割されていく経過が焦点となります。
<選択肢>
① 「ベルリン会議で結ばれた条約によって、ルーマニアの独立が認められた。」
…1878年のベルリン条約で、ルーマニア、セルビア、モンテネグロなどの独立が承認されました。
② 「西ドイツが、東ドイツに併合(編入、吸収)された。」
…実際は1990年に東ドイツ(ドイツ民主共和国)が西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に統合される形で再統一が行われたので、この文言は史実に反します。
③ 「ロシア、プロイセン、オーストリアによって、ポーランドが分割された。」
…18世紀後半にポーランドは3回にわたって分割されました(1772、1793、1795年)。これは歴史上有名なポーランド分割で、まさにロシア・プロイセン・オーストリアによるものです。
④ 「セルビア、ギリシア、ブルガリア、モンテネグロの四か国によって、バルカン同盟が結ばれた。」
…1912年に結成されたバルカン同盟は、列強をにらんでオスマン帝国に対抗するためのもので、たしかにこれら4か国が参加しました。
それぞれの条文の成立時期や内容を照らし合わせると、18世紀後半のポーランド分割について述べた③の記述が、ベルリン会議やバルカン同盟とは別種の事例であることなどを見極める必要があります。
第3問
問16:正解2
<問題要旨>
南アジアの大河の下流域における歴史を問う問題です。本文では河川名を伏せてありますが、ヒマラヤ山脈からベンガル地方に流れ込む河川の流域文明や政治的変遷が主題となっています。
<選択肢>
① 「モエンジョ=ダーロ(モヘンジョ=ダロ)の遺跡に代表される古代文明が栄えた。」
…モエンジョ=ダーロなどはインダス川流域におけるインダス文明の遺跡を示し、ガンジス川下流域とは場所を異にします。
② 「アーリヤ人が進出してきた後、都市国家(王国)が形成された。」
…インド亜大陸にアーリヤ人がパンジャーブ地域を中心に進入した後、ガンジス川流域の各地には都市国家(マガダ国など)や王国が形成され、次第に仏教やジャイナ教の成立へとつながっていきます。ガンジス川流域史として広く知られた経緯です。
③ 「マウリヤ朝が成立し、アクバルのときに支配を拡大した。」
…マウリヤ朝は前4~前2世紀頃に成立した古代インドの王朝ですが、アクバルは16世紀のムガル帝国皇帝です。時代も王朝も異なるため、一文中で同時に論じるのは史実と合いません。
④ 「下流域に、抑南が建国された。」
…「抑南」は東南アジア方面で用いられる場合があり、インド亜大陸北東部のガンジス川下流域とは無関係です。
問17:正解3
<問題要旨>
ベンガル地方の植民地期やインド独立運動の文脈で、植民地支配に対する住民の反発がどのような形で高まったかを問う問題です。空欄「イ」に入れるべき出来事として、インド民族運動史上の重要な運動・方針を選ぶ形になります。
<選択肢>
① 「ガンディーが、塩の行進を行った」
…1930年にガンディーが不当な塩税に抗議するため行った有名な非暴力運動です。ベンガル分割令の反発という流れとは直接つながりが薄いです。
② 「ウラービー(オラービー)の反乱が起こった」
…ウラービーの反乱は1880年代のエジプトにおける民族主義運動であり、インドとは無関係です。
③ 「国民会議派(国民会議)が、スワラージやスワデーシなどの方針を掲げた」
…ベンガル分割令(1905年)への反対運動を背景に、イギリス商品排斥(スワデーシ)や自治獲得(スワラージ)を訴える動きが盛り上がりました。これはベンガル地方を中心に盛んな抵抗運動として知られています。
④ 「ネルーの下で、プールナ・スワラージが採択された」
…プールナ・スワラージ(完全独立)の決議は1930年にインド国民会議派が採択した方針ですが、ベンガル分割令の最初期の反発期(1905年前後)よりは少し後の段階です。
問18:正解2
<問題要旨>
ベンガル地方が複数の国にまたがる経緯(東部・西部の分離独立など)を問う問題です。いわゆる1947年のインド・パキスタン分離独立や、それに続く1971年のバングラデシュ独立などの史実と照らし合わせて、下線部ⓐに該当する出来事を選ぶ形です。
<選択肢>
① 「東部がインドの一部として、西部がパキスタンの一部として、植民地支配から脱した。」
…実際にはインド・パキスタン分離独立(1947年)で「インド領」と「東西パキスタン」に分かれましたが、東西のパキスタンが同時に成立した形であり、東がインドに残ったわけではありません。
② 「西部がインドの一部として、東部がパキスタンの一部として、植民地支配から脱した。」
…ベンガル地方のうち西ベンガルはインド領に、東ベンガルはパキスタン(東パキスタン)側に組み込まれました。1947年の分離独立期の実態に合致します。
③ 「東部が、バングラデシュとして独立した。」
…バングラデシュ独立(1971年)はパキスタンからの分離独立ですが、本文が指す第一段階の「分割」は1947年の分離独立ですので、ここではまだバングラデシュには至っていません。
④ 「西部が、バングラデシュとして独立した。」
…実際に独立したのは東パキスタンがバングラデシュとして独立したのであって、西部ではありません。
問19:正解1
<問題要旨>
19世紀のある国における改革や動向を問う問題です。本文では「ウ」の国が19世紀に起こした出来事として挙げられるものを考え、その中で最も歴史的事実に合致するものを選ぶ設問になっています。
<選択肢>
① 「ミドハト憲法が発布された。」
…19世紀オスマン帝国(特に1876年)における立憲改革としてミドハト憲法が知られます。近代化を図るタンジマート改革の流れの一環として位置づけられる大きな出来事です。
② 「タバコ・ボイコット運動が起こった。」
…これは1890年代のイラン(カージャール朝)における動きであり、オスマン帝国ではありません。
③ 「ローザン条約を結んだ。」
…ローザンヌ条約は1923年にトルコ共和国成立後に結ばれた条約であり、19世紀ではありません。
④ 「トルコマンチャーイ条約を結んだ。」
…これは1828年、ロシアとカージャール朝イランとの間の条約であり、オスマン帝国の改革とは関係ありません。
問20:正解4
<問題要旨>
バイロン(イギリスの詩人)によるギリシア独立戦争への関与など、19世紀ヨーロッパの民族主義やロマン主義との絡みを問う問題です。エルギンの行為を正当化するか非難するか、また当時の社会的背景(ロマン主義や民族自決など)をどのようにとらえるかが焦点です。
<選択肢>
あ 「大理石彫刻を持ち帰ったエルギンの行為に、問題はない」
い 「エルギンの行為は強奪にほかならず、非難されるべきである」
X 「民族自決を内容に含む『平和に関する布告』が出された」
…これは第一次世界大戦中(1918年)のソヴィエト政権による布告などが想起され、バイロンの時代(19世紀前半)とは異なる歴史的文脈です。
Y 「ロマン主義が広まり、民族の個性や文化、地域の伝統が重視されるようになった」
…19世紀初頭のヨーロッパで隆盛したロマン主義は、ギリシア独立戦争支援やバイロン自身の行動にも大きく影響を与えたといわれます。民族・国民の独自性を高めようとする雰囲気が背景にあるのも事実です。
バイロンはギリシア独立に直接参加しようとするほど熱意を持ち、エルギンの彫刻持ち出しには批判的態度を示す詩文を残しているため、「強奪だ」と非難する立場と、ロマン主義的な民族自決の流れを重視する文脈(Y)が結びつくのが自然と推測されます。
問21:正解2
<問題要旨>
古代ギリシア・ローマの文化や学術の受容・発展を題材とした問題です。下線部⑬に関して、どの選択肢が正しい波線部の説明かを選ぶ形式です。
<選択肢>
① 「ボッティチェリは『アテネの学堂』で、古代ギリシアの学者たちの姿を描いた。」
…『アテネの学堂』を描いたのはルネサンス期の画家ラファエロです。ボッティチェリではありません。
② 「アラビア語に翻訳されたアリストテレスの著作が、中世のイベリア半島で、ラテン語に翻訳された。」
…イスラーム世界を通じてギリシア哲学の文献がアラビア語に翻訳され、さらにレコンキスタ期のトレドなどでラテン語に重訳され、ヨーロッパに再紹介された経緯はよく知られています。これは史実に合致します。
③ 「古代ローマ帝国では、剣闘士の闘技場として、アクロポリスが建設された。」
…アクロポリスは古代アテネの城塞であり、ギリシアのポリスに由来するものです。ローマ時代の剣闘士競技場はコロッセウムなどの別施設です。
④ 「太西洋三角貿易で蓄えた富により、イタリアの諸都市でルネサンスが始まった。」
…ルネサンスは14~16世紀頃にイタリアの諸都市で興った運動ですが、その発展には地中海交易などが関係しており、アメリカ大陸との三角貿易(大西洋三角貿易)の直接的な富が要因になったわけではありません。
問22:正解4
<問題要旨>
パリ講和会議をめぐる中国国内の反応に関する問題です。五・四運動(1919年)につながった背景や新文化運動などが論点で、メモ1に記された出来事の背後要因を問う形になります。
<選択肢>
① 「五・三〇事件によって、反帝国主義運動(民族運動)が高まった。」
…五・三〇事件は1925年に上海の在華英国警察が中国人労働者を発砲した事件で、五・四運動の直後ではなく、その後の反帝国主義運動の一環です。
② 「第1次国共合作が成立した。」
…国民党と共産党の第一次合作は1924年で、五・四運動(1919年)より後に生じた枠組みです。
③ 「抗日民族統一戦線の結成が呼び掛けられた。」
…中国では1930年代(特に1937年の盧溝橋事件以降)に抗日統一戦線が重視されるようになるため、時期が異なります。
④ 「儒教思想を批判する新文化運動が展開された。」
…五・四運動の大きな特徴のひとつが、新文化運動(白話運動、伝統的儒教批判など)と絡んだ知識人層の改革思想でした。パリ講和会議への不満とあいまって起こった五・四運動は、従来の文化・思想に対する批判と新しい文化への希求を推進したとも言われます。
問23:正解1
<問題要旨>
メモ2に示された大規模な政治運動のさなか、中国と国際情勢との関わりで起こった重大な外交的出来事を問う問題です。米中関係や香港の返還など、中国の近現代史での大きな転換点が論点になります。
<選択肢>
① 「ニクソン大統領が、中国を訪問した。」
…1972年にアメリカのニクソン大統領が中華人民共和国を訪問し、米中関係が大きく転換しました。毛沢東や周恩来との会談は国際政治史上の一大出来事です。
② 「香港が、中国に返還された。」
…香港の返還は1997年で、文化大革命期(1966~76年)とは時期が異なります。
③ 「中ソ友好同盟相互援助条約が締結された。」
…これは1950年にソ連と中華人民共和国との間で結ばれたもので、文化大革命期とは異なるタイミングです。
④ 「中国が、北朝鮮に義勇軍を派遣した。」
…朝鮮戦争への中国人民志願軍の参戦は1950年~53年頃であり、やはり文化大革命の時期とはずれています。
問24:正解3
<問題要旨>
メモ3にある「オ」の政策を推進した指導者が誰なのか、その政策はどのような理念に基づくかを問う問題です。いわゆる中華人民共和国の改革開放政策とそれ以前の集団化政策(人民公社など)との対比が焦点になります。
<選択肢(組み合わせ例)>
あ:劉少奇
い:鄧小平
X:市場経済であっても資本主義とは限らない、というような議論を含む資料
Y:5億農民の共産主義的自覚を高める工業・農業・商業・文化などの統合…をめざす資料
① あ―X
② あ―Y
③ い―X
④ い―Y
- 劉少奇は毛沢東期にも重要な地位にあったが、文化大革命で失脚している。
- 鄧小平は1978年以降の改革開放を主導し、「社会主義市場経済」の方向を打ち出したとされる。
- Xは市場経済を社会主義の中でも活用するかどうか、という改革開放路線っぽい文面で、鄧小平の主張に近い。
- Yは大躍進政策~人民公社化などの集団化を想起させ、毛沢東やその周辺の政策に近い立場です。
以上から、「鄧小平(い)」と「市場経済を社会主義の中でも用いることを試みる資料(X)」の組み合わせが最も整合的といえます。
第4問
問25:正解2
<問題要旨>
ナポレオン時代から重要視されてきたエジプト周辺の地理戦略を背景に、スエズ運河建設時にかかわったフランス人技師や、イギリスが遮断されたかった地域がどこであるかを問う問題です。本文中ではナポレオンが「イギリスと〇〇を断つため、この地域へ遠征した」とあり、さらにスエズ運河の建設主導者としてフランス人の名が示されています。
<選択肢>
① あ―X
…「あ」は「インド」または「ケープ植民地」とされ、「X」は「ラッフルズ」です。ラッフルズ(Raffles)はシンガポールの基礎を築いた人物であり、スエズ運河の建設とは無関係です。
② あ―Y
…「あ」を「インド」とし、「Y」を「レセップス(Lesseps)」とする組み合わせです。ナポレオンがイギリスのインドとの連絡を断つためエジプトへ遠征したという史実と合致し、スエズ運河の建設を主導したフランス人技師といえばレセップスが知られています。
③ あ―Z
…「あ」を「インド」とし、「Z」を「ゴードン」とする組み合わせです。ゴードン(Gordon)は19世紀後半にスーダンで活動した将軍として知られ、スエズ運河建設には直接かかわっていません。
④ い―X
…「い」を「ケープ植民地」とし、「X」を「ラッフルズ」とする組み合わせです。いずれもスエズ運河とは関連が薄いです。
⑤ い―Y
…「い」を「ケープ植民地」とし、「Y」を「レセップス」とする組み合わせであり、ナポレオンのエジプト遠征やスエズ運河と結び付きにくいです。
⑥ い―Z
…「い」を「ケープ植民地」とし、「Z」を「ゴードン」とする組み合わせです。やはりスエズ運河建設とは離れた文脈になります。
問26:正解4
<問題要旨>
スエズ運河が開通(1869年)した後、どの歴史上の使節や船団が実際にこのルートを利用したかを問う問題です。選択肢のうち、いつ・どの経路で日本と往来したかを検討しながら判断します。
<選択肢>
① アメリカから日本に派遣されたペリーの艦隊
…1853~1854年の来航であり、スエズ運河開通前です。大西洋から喜望峰や太平洋を経由したとみられ、スエズ経由ではありません。
② ロシアから日本に帰国した大黒屋光太夫の一行
…18世紀末に遭難し、ロシア経由で日本へ帰る際(1792年頃)に根室へ到達しています。スエズ運河とは時代的にも地域的にも関わりません。
③ 太平洋を探検したクックの船団
…18世紀後半に南太平洋各地を航海・探検しましたが、やはりスエズ運河開通前で、大西洋~太平洋航路をたどっています。
④ ヨーロッパから日本に戻った岩倉使節団
…1871年末に出発し、欧米各国を歴訪して1873年に帰国しました。スエズ運河開通(1869年)の後であり、実際にスエズ運河を経由して帰国したとされます。
問27:正解4
<問題要旨>
下線部⑥(スエズ戦争など)が起こった時期と、「う」「え」に示された出来事(パレスチナ解放機構PLOの結成、エジプトでナセルらが王政を打倒したクーデター)の年代順を正しく並べる問題です。ナセルの自由将校団による王制打倒は1952年、スエズ戦争は1956年、PLOの結成は1964年と年代がそれぞれ異なります。
<選択肢>
① う → え → 下線部⑥
…「う」(PLO結成)を1952年より先に置くのは年代的に誤りです。
② う → 下線部⑥ → え
…1952年→1956年→1964年の順には合わないため間違いです。
③ え → う → 下線部⑥
…「え」(ナセルらのクーデター1952年) → 「う」(PLO結成1964年) → 下線部⑥(1956年のスエズ戦争?)となると、スエズ戦争の順番が後ろになってしまいます。
④ え → 下線部⑥ → う
…「え」(1952年) → 下線部⑥(1956年のスエズ戦争) → 「う」(1964年のPLO結成)という時系列が正しい順番となります。
⑤ 下線部⑥ → う → え
…スエズ戦争より前にPLOができたとするのは誤りです。
⑥ 下線部⑥ → え → う
…スエズ戦争(1956年)の後にナセルがクーデター(1952年)を起こしたことにするのも誤りです。
問28:正解2
<問題要旨>
本文中の「ウ」に該当する都市または地域の歴史に関する問題で、選択肢の中から最も史実に合致するものを選びます。中国近代史においては、共産党結成にかかわる都市や、列強との条約による割譲などが争点になります。
<選択肢>
① 「北京の都が置かれた。」
…中国史全体では複数回ある話ですが、問題文中の記述とは結びつきが弱い可能性があります。
② 「中国共産党による北伐の起点となった。」
…「北伐」とは1920年代に国民党が展開した軍事行動を指しますが、「中国共産党による北伐」とすると表現に違和感があります。ただし「中国共産党が起点となった都市」と読み替えられるなら、上海での第1回党大会(1921)や広州での国共合作などと結びつく可能性があり、問題文との関連性を検証する必要があります。
③ 「南京条約によってイギリスに割譲された。」
…南京条約(1842年)で割譲されたのは香港島であり、「ウ」が香港であれば可能ですが、本文内容と合致するか要確認です。
④ 「支族が持ち帰った仏典を収めるための大雁塔が建てられた。」
…これは唐代の長安(現・西安)に大雁塔が建立された歴史を示しており、近現代の文脈とはかけ離れています。
(※本問題は解答が②とされていますが、実際には「共産党の成立」と「北伐」をどう結びつけるかなど要検証です。いずれにせよ問題文との対応上、②が最も適切な選択肢とされる形です。)
問29:正解4
<問題要旨>
1880年~1915年までの中国からの紅茶輸出量の推移を示したグラフを読み取り、さらに下線部⑧(ロシア向けの茶輸出など)当時に起こった出来事を組み合わせる問題です。あわせて「あ」「い」で示される輸出量の変動パターンからも史実を探り、清末から列強が衝突した出来事(山東半島や満州での日独・日露の軍事的衝突など)を判断します。
<選択肢>
① あ―X
…「あ」は「武器で清の軍隊による蜂起が起こった年から翌年にかけて、全ての国への輸出量が減少している」という読み取り、Xは「山東半島(膠州湾)における日本とドイツの軍事的衝突」を示すが、この組み合わせがグラフの時期と合うか要検証。
② あ―Y
…「あ」の読み取りと「Y(遠東半島における日本とロシアの軍事衝突、すなわち日露戦争か)」の組み合わせです。
③ い―X
…「い」は「グラフの最終年におけるイギリスへの輸出量は、潜伏していた戦争の年の2分の1以下である」などの解釈。Xは日独衝突。時期との対応を確認します。
④ い―Y
…「い」を「最終年(1915年)におけるイギリス向け輸出量は、日清・日露戦争などの年に比べて半分以下になっている」などと解釈し、その時期に「Y(日露の軍事的衝突)」があったと結びつけます。1904~1905年の日露戦争後、中国国内や輸出入に大きな変化があったことと、グラフ上の動向が合致するという論理で判断されます。
問30:正解3
<問題要旨>
グラフ(1880~1915年)の時期に、アフリカ大陸でどのような大きな出来事があったかを問う問題です。19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米列強がアフリカを植民地化する過程や、現地での抵抗運動が焦点になります。
<選択肢>
① 「イタリアが、二度にわたってモロッコ事件を起こした。」
…モロッコ事件は1905年と1911年にドイツが関与して起こした国際紛争で、イタリアではなくドイツが絡む事件です。
② 「アフリカ統一機構(OAU)が結成された。」
…OAUの結成は1963年で、20世紀後半の出来事です。
③ 「スーダンで、マフディーの反乱(マフディー派の抵抗運動)が起こった。」
…1881年に始まるマフディーの反乱は19世紀末のスーダンを舞台とする大規模な対英抵抗運動であり、1880~1915年の年代と重なります。
④ 「『アラブの春』で、チュニジアの独裁政権が倒れた。」
…2010~2011年のことであり、19~20世紀初頭とはかけ離れています。