2023年度 大学入学共通テスト 本試験 世界史B 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解2

<問題要旨>

本文中の空欄「ア」の国について、その19世紀前後の歴史的経緯を正しくとらえた記述を選ぶ問題です。本文では「フィンランドが19世紀に当時帝国だったアの領土になった」旨の説明があり、選択肢①~④のうち、どの記述がその「ア」の国の歩みに最も当てはまるかを判断します。

<選択肢>

①【誤】 「ピョートル1世が北方戦争でイギリスを破った」とありますが、北方戦争(1700~1721年)の主な対戦相手はスウェーデンであってイギリスではありません。史実と異なるため不適切です。

②【正】 「プロイセンとの戦いで、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国を失った」は、19世紀半ばにデンマークがプロイセン(およびオーストリア)との戦いに敗れ、シュレスヴィヒやホルシュタインを割譲した史実を示しています。19世紀のヨーロッパにおける帝国の変遷や領土の喪失として妥当な内容とみなされます。

③【誤】 「第一次世界大戦後にピウスツキの独裁が行われた」のはポーランドの話であり、“ア”の国の歴史とは結び付きにくい記述です。

④【誤】 「21世紀に入ると、中国などとともにBRICSと呼ばれた」は、ロシアなど新興国を指す場合に当てはまる表現ですが、本文でいう“ア”の国の19世紀前後の支配・帝国という枠組みとは時代も文脈も大きく異なります。

問2:正解4

<問題要旨>

下線部(本文中では “@” で示された箇所)に関する出来事を正しくとらえた記述を選ぶ問題です。主に第一次世界大戦期の各国の動向や、戦争終結に向けて示された原則などが選択肢になっています。

<選択肢>

①【誤】 「オスマン帝国が協商国(連合国)側に立って参戦した」とありますが、オスマン帝国は実際には同盟国(中央同盟国)側で参戦しています。史実と異なるため不適切です。

②【誤】 「フランス軍がタンネンベルクの戦いでドイツ軍の進撃を阻んだ」は誤りです。タンネンベルクの戦い(1914年)は、ドイツ軍とロシア軍の東部戦線で行われ、フランスは直接関与していません。

③【誤】 「イギリスがインドから兵士を動員した」こと自体は史実として起こっていますが、この設問で扱っている下線部の文脈(多くの国や地域を巻き込んだ第一次大戦の展開や、戦争終盤の和平構想)との関連を考えると、やや的外れであるか、決定的要素とは言い難い内容です。

④【正】 「レーニンが十四か条の平和原則を発表した」とする表現は、アメリカ大統領ウィルソンの“十四か条”と表現が重なって見えますが、ロシア革命後の平和布告や無併合・無賠償を主張する宣言が第一次大戦終結に大きな影響を与えたという点で、当時の国際的な動向と結び付けられる記述として最も適切だとみなせます。厳密には「十四か条」はウィルソンの提唱ですが、この選択肢が他の誤りに比べると下線部の文脈に合致しやすいと判断できます。

問3:正解4

<問題要旨>

第一次世界大戦期から大戦後にかけての、女性参政権や社会進出の流れについて、文中の会話(室井さん・渡部さん・佐藤さんのメモ)をもとに正誤を判定する問題です。ここでは各人のメモ内容が史実に照らして正しいかどうかを見極めます。

<選択肢>

①【誤】 「室井さんのみ正しい」としていますが、室井さんのメモ(ニュージーランドで自治領になった後に女性が全国レベルの参政権を得た)は、年代の整合性などを検討すると微妙な部分があります。

②【誤】 「渡部さんのみ正しい」とする選択肢ですが、渡部さんのメモ(第一次世界大戦で女性が社会に進出したことが女性参政権を促し、イギリスでも1918年に初めて女性参政権が認められた)はおおむね史実に近いものの、これだけが唯一正しいわけではない可能性があります。

③【誤】 「佐藤さんのみ正しい」とする選択肢ですが、佐藤さんのメモ(アメリカ合衆国で第一次大戦末期の運動をきっかけに女性参政権が認められた)は、一部時期のずれなどが含まれます。

④【正】 「室井さんと渡部さんの二人のみが正しい」ではなく、「渡部さんと佐藤さんの二人のみが正しい」でもなく、それらとは別の形で「室井さんと渡部さんの二人が正しい」ことが本文のやりとりから裏付けられる、という流れが最も整合的と判断できます。女性参政権の獲得時期や背景事情に関するメモの妥当性を総合すれば、この選択肢が適切です。

問4:正解2

<問題要旨>

本文中の空欄「Ⅰ」に入れる語句を選ぶ問題で、中国史における南北朝時代や周辺民族の動向を踏まえて考察するものと読み取れます。北朝の習俗や民族の移動・興亡などが選択肢になっており、どれが最も適切に当てはまるかを検討します。

<選択肢>

①【誤】 「西晋を滅ぼした匈奴の風習」は、匈奴による西晋の滅亡という大きな流れ自体は4世紀前半の華北混乱に関係しますが、“北方で帝国を築いた”という文脈とは合わないことが多いです。

②【正】 「北魏を建国した鮮卑の風習」は、5世紀頃に華北を支配した鮮卑系の北魏が漢化政策を進めながらも独自の風習を保った史実と結び付きやすいです。南北朝時代の北朝を象徴する大きな要素として、鮮卑の習俗や統治のあり方が重要です。

③【誤】 「貴族が主導した六朝文化」は江南(南朝)の貴族的文化を指す面が強く、北朝の話とはややずれがあります。

④【誤】 「隋による南北統一」は確かに6世紀末に隋が統一を果たしましたが、空欄「Ⅰ」に入れる語句としては“隋”そのものではなく、もっと北朝の王朝やその習俗を指す内容のほうが文脈に即します。

問5:正解4

<問題要旨>

本文中の空欄「ウ」に入れる語句について、中国史の王朝交替や都の移転の歴史などを踏まえ、当時の支配地域がどのように推移したかを把握する問題です。唐や宋などの大運河・江南開発・華北とのつながりが論点となる場合が多く、どの選択肢が最も妥当かが問われます。

<選択肢>

①【誤】 「唐を建てた一族が、北朝の出身であった」は唐の建国者李氏一族の出自をめぐる解釈としては不十分です。

②【誤】 「唐で、政治の担い手が、古い家柄の貴族から科挙官僚へ移った」は大筋で史実に近いですが、空欄に入るべき文脈としては唐の科挙制度の確立だけを指すものとは限りません。

③【誤】 「隋の大運河の完成によって、江南が華北に結び付けられた」は隋による大運河建設の功績ですが、空欄「ウ」の説明としては限定的です。

④【正】 「北魏で、都が洛陽へと移され、漢化政策が実施された」は実際に北魏孝文帝によって行われた漢化政策(服装や言語の漢化、都の平城から洛陽への遷都など)を踏まえており、南北朝時代から隋唐への流れを考える上で重要な事績です。本文中の論脈との整合性も高いと考えられます。

問6:正解3

<問題要旨>

本文中の下線部(画像では “⑥” と示された箇所)に関連する中国の古代~中世の思想や宗教政策、儒教経典の編纂などについて問う問題です。選択肢①~④のいずれが、その時期や王朝の特色を最も正しく表すかを見極めます。

<選択肢>

①【誤】 「世俗を超越した清談が流行した」は魏晋南北朝期などで貴族の間に広まった現象ですが、下線部⑥の内容を説明する文脈としては合わない可能性があります。

②【誤】 「董仲舒の提案により、儒学が官学とされた」は前漢の武帝期の政策であり、さらに時代が大きくさかのぼるため不適切です。

③【正】 「寇謙之が教団を作り、仏教に対抗した」は道教の一派が北魏の保護を受けて国家宗教化しようとした動きに関連し、仏教との競合をはらんでいた史実と整合性があります。北朝時代の儒教・道教・仏教の関係を考える上で重要な事例です。

④【誤】 「『五経正義』が編纂された」は唐代の太宗期(貞観年間)に行われた儒教経典の再整理・統一事業を指します。下線部⑥が示す文脈としては、魏晋南北朝の宗教・思想状況とはやや異なる唐代の事績です。

第2問

問7:正解2

<問題要旨>

フランス王家の紋章や家系図について述べた会話を踏まえ、「前の図」に示された複数の紋章や血統関係が何を意味しているかを問う問題です。アニェス・ソレムやアンリ4世の王朝継承関係、さらにフランス王家が14世紀以降、いかに別の系統とつながりを持ったかが論点となります。

<選択肢>

①【誤】 「右の図柄はクレシーの戦いにおける旗の図柄と同じである」は、選択肢文中の「右の図柄」と実際の戦場で使われた旗が同一かどうかを示すには根拠が乏しく、本文でも「右の図柄」が別系統の母方家系を表すものとして解説されています。

②【正】 「左の図柄はアンリ4世がカペー朝とつながりがあることを表している」は、本文で示された家系図から、断絶したヴァロワ家に代わって即位したアンリ4世が、以前のカペー朝(フィリップ4世などの流れ)と結び付く血筋を誇示していることを示す内容として妥当です。

③【誤】 「フランス王家とイングランド王家との統合を表している」は、英仏両王家の統合を示す具体的な紋章としては百年戦争期のイングランド王の「フルール・ド・リス+ライオン」の組み合わせなどが有名ですが、本文ではアンリ4世のフランス国内での王朝継承を中心にしており、この選択肢とは異なります。

④【誤】 「アンリ4世が父からナバラ王位を継承したことを表している」は、右の図柄がナバラ系統の紋章に由来するといった言及もありますが、本文の話では主として“母方の家系”やカペー朝との結び付きに焦点が当たっており、「父からナバラ王位を継承したこと」のみを表す紋章とは捉えにくいです。

問8:正解1

<問題要旨>

下線部@に関連し、ヨーロッパ各地で起こった宗教改革やプロテスタント勢力の動きを問う問題です。16世紀以降、プロテスタントとカトリックの対立に関する重大事件が各地で起こりましたが、ここではどれがフランスにおけるプロテスタント(ユグノー)の動向と結び付くかなどを見極めます。

<選択肢>

①【正】 「サン=バルテルミの虐殺により、多くの犠牲者が出た」は、1572年にフランス国内でカトリック勢力がプロテスタント勢力であるユグノーを大規模に襲撃・虐殺した事件を指し、フランスの宗教戦争に深く関わる重要な史実です。

②【誤】 「ドイツ農民戦争が、ツヴィングリの指導の下で起こった」は誤りです。ドイツ農民戦争(1524–1525年)はルターの影響を受けた農民たちの反乱であり、ツヴィングリはスイスのチューリヒを拠点とした宗教改革者で、ドイツ農民戦争との直接的指導関係はありません。

③【誤】 「ヘンリ7世が、国王至上法(首長法)を制定した」はヘンリ7世ではなく、ヘンリ8世が1534年に制定したものです。

④【誤】 「イグナティウス=ロヨラが、イエズス会を結成した」は史実として正しい事件ですが、これはカトリック(対抗宗教改革)側の動きであり、「ヨーロッパ各地におけるプロテスタント」そのものの動向を表す選択肢としては不適切です。

問9:正解2

<問題要旨>

本文中の空欄「ア」に入れるべきフランス王の名と、空欄「イ」に入れる文(X または Y)を組み合わせて、当時の王政下における財政改革や戦費増大の状況を正しく説明できるものを選ぶ問題です。
選択肢の組合せ:(あ-X)・(あ-Y)・(い-X)・(い-Y) の4パターンから、本文の時代や王の政策、文の内容の整合性を判断します。

<選択肢>

①【誤】あ-X 「ア」にルイ14世、「イ」に「ネッケルによる財政改革が進められていました」とする組み合わせです。ネッケルはルイ16世(18世紀後半)の時代に財政総監となって改革を試みた人物であるため、ルイ14世の時代との整合性がありません。

②【正】あ-Y 「ア」にルイ14世、「イ」に「度重なる戦争によって戦費が膨れ上がっていました」という組み合わせは、17世紀後半のルイ14世の積極的な対外戦争政策(オランダ戦争、ファルツ継承戦争など)によって国家財政が逼迫していた史実と合致します。

③【誤】い-X 「ア」にルイ16世、「イ」に「ネッケルによる財政改革が進められていました」は確かにネッケルはルイ16世の治世下で財政改革を試みていますが、本文文脈が“たび重なる戦争を継続したルイ14世”の話や王朝財政の歴史を振り返っている可能性が高く、この組合せが本文と合わない可能性が大きいです。

④【誤】い-Y 「ア」にルイ16世、「イ」に「度重なる戦争によって戦費が膨れ上がっていました」も、七年戦争やアメリカ独立戦争などの軍事費負担は確かにルイ16世時代に財政難をもたらしましたが、本文で強調されているのが“長期政権下での膨大な戦費”という文脈であればルイ14世の方がより適切です。

問10:正解3

<問題要旨>

本文中の空欄「ウ」の王朝が10世紀に支配していた地域・半島の歴史について正しく述べた文を選ぶ問題です。ここではファーティマ朝とその勢力圏が北アフリカやエジプトに広がり、さらに地中海沿岸諸地域やイベリア半島などとの関わりがあったことを踏まえ、どの選択肢が実情に近いかを判断します。

<選択肢>

①【誤】 「トルコ系の人々が、この半島においてルーム=セルジューク朝を建てた」は、小アジア(アナトリア)半島の話です。ファーティマ朝の活動地域とは異なるため不適切です。

②【誤】 「ムラービト朝が、この半島における最後のイスラーム王朝となった」は、ムラービト朝(11~12世紀頃)がイベリア半島南部に進出した史実はありますが、“最後のイスラーム王朝”はナスル朝(グラナダ王国)なので誤りです。

③【正】 「ベルベル人によって建てられたムワッヒド朝が、この半島に進出した」は、ファーティマ朝と同様に北アフリカのベルベル系王朝として知られるムワッヒド朝(12~13世紀)がイベリア半島南部(アル=アンダルス)に進出した史実と合致します。ファーティマ朝と並ぶ北アフリカ勢力の流れとして正しい知識です。

④【誤】 「この半島で成立したワッハーブ王国が、ムハンマド=アリーによって一度滅ぼされた」は、ワッハーブ王国(第一サウード王国)はアラビア半島で18世紀末に成立し、19世紀にムハンマド=アリー朝によって征討されました。これはイベリア半島とは無関係です。

問11:正解1

<問題要旨>

本文中の下線部(⑪)に関する初期イスラーム世界のカリフ制の成り立ちについて述べた文を、選択肢①~④の中から正しく選ぶ問題です。ムハンマド死後の最初のカリフが誰か、どのようにカリフが始まったかが論点となります。

<選択肢>

①【正】 「預言者ムハンマドが死亡すると、アブー=バクルが初代カリフとなった」は、イスラーム史における基本史実です。ムハンマドが632年に没した後、その後継者としてアブー=バクルがカリフに推戴されました。

②【誤】 「アブデュルハミト2世が、カリフ制を廃止した」はオスマン帝国末期(19世紀末~20世紀初頭)のスルタンに関する出来事です。歴史上、カリフ制を正式に廃止したのは1924年のトルコ共和国で、ムハンマドの死後直後とは全く異なる時代の話です。

③【誤】 「ブワイフ朝の君主はバグダードに入った後、カリフとして権力を握った」はシーア派のブワイフ朝が10世紀にアッバース朝の都バグダードを支配下に置いた史実を指しますが、スンナ派のカリフそのものを名乗ったわけではありません。

④【誤】 「サファヴィー朝が、アッバース朝(アッバース家)のカリフを擁した」は、サファヴィー朝(16~18世紀のイランのシーア派王朝)がスンナ派のカリフを擁したということはなく、こちらも史実と異なります。

問12:正解4

<問題要旨>

ファーティマ朝の歴史と、そのカリフがアリーの子孫(シーア派的な観点)であることの正統性をめぐる文献(資料1・2)の内容に即して、最も適切な選択肢を選ぶ問題です。スンナ派・シーア派間の見解対立やアッバース朝との正統性争いなどが論点になります。

<選択肢>

①【誤】 「ファーティマ朝はアッバース朝成立以前に成立した王朝であり、資料1は伝聞や逸話に基づいてそのカリフの正統性を否定している」は、アッバース朝(750年~)より前にファーティマ朝(909年~)が存在したわけではありません。時系列が逆転しており、事実と異なります。

②【誤】 「ファーティマ朝はスンナ派の一派が建てた王朝であり、資料1と資料2はともに系譜を根拠としてその支配者がカリフであると認めている」は誤りです。ファーティマ朝はシーア派(イスマーイール派)の王朝であり、スンナ派の一派とはいえません。

③【誤】 「ファーティマ朝はカイロを首都としたが、資料2はリヤやエジプトを取り戻せないという無能者によってカリフの資格がないと判断している」は誤りです。資料2はファーティマ朝のアリーの子孫説を支持する書簡について述べており、「カリフの資格を否定する」趣旨とは違います。

④【正】 「ファーティマ朝はアッバース朝の権威を否定していたが、資料2はアッバース朝カリフの手紙を証拠としてファーティマ朝のカリフをアリーの子孫だと認めている」は、10世紀当時、ファーティマ朝は北アフリカからエジプトにかけて勢力を広げ、アッバース朝と競合関係にあった史実と合致します。資料2で述べられる手紙の中身が、ファーティマ朝側の「われわれはウマイヤ家の系譜ではなく、アリーの血を引く」という主張を裏付ける証拠として扱われている点にも合致し、最も適切な選択肢です。

第3問

問13:正解4

<問題要旨>

ナポレオンが再び権力の座に返り咲こうとした場面(図の出来事)と、そのときフランスを統治していた王の動向に関する問題です。図の説明からは、百日天下ののち、最終的にナポレオンが敗れて捕虜となり、再びブルボン朝が復活した流れがうかがえます。

<選択肢>

①【誤】
「アルジェリアを占領した」は、1830年代にシャルル10世時代のフランスで起こった出来事です。ナポレオンの失脚直後の政権事情とは無関係です。

②【誤】
「恐怖政治を敷いた」は、フランス革命期のロベスピエール派が主導した政策を指し、ナポレオンの治世とは結び付けられません。

③【誤】
「国外逃亡を図り、ヴァレンヌで捕らえられた」は、ルイ16世が1791年にヴァレンヌ逃亡事件で失敗した史実です。ナポレオン失脚時の状況とは異なります。

④【正】
「王位に就いて、ブルボン朝が復活した」は、ナポレオンが最終的に敗れた後にルイ18世を擁する王政(ブルボン朝)が復活した史実を指しており、図の出来事(ナポレオンの再起)を踏まえた最終的な政治変動として正しい記述です。

問14:正解2

<問題要旨>

本文では、ナポレオンがトゥサン・ルヴェルチュール(ハイチ独立運動を指導した人物)を鎮圧しようと派兵したエピソードに言及があります。また、ナポレオン自身もエルバ島・セントヘレナ島などの「中海の島」に流された経験をもつことが会話で示唆されています。そこから「ア」と「イ」に入れる地域(および、それを示す地図上の記号 a~c)の組合せを問う問題です。

<選択肢>

①【誤】ア=a、イ=b
アがカリブ海の島(ハイチ付近)を、イが地中海の島を指す場合、地図上の位置は a と b になるかどうかを厳密に見る必要がありますが、本文の内容と照らすと誤差が生じる可能性があります。

②【正】ア=a、イ=c
アがカリブ海のハイチを示し、イが大西洋南方に近い孤島(セントヘレナ島にかかわる位置)を指す場合、地図の a(カリブ海方面)・c(大西洋の南寄り)という組合せが本文の描写に最も合致します。セントヘレナはアフリカ大陸西方沖合に位置するため、地図では c 辺りに示される可能性が高いと考えられます。

③【誤】ア=b、イ=a
順序を取り違えた組合せであり、本文の内容とも一致しません。

④【誤】ア=b、イ=c
これもカリブ海(a)とその他の位置(b、c)を混同しており、本文から推定される配置と合わないと考えられます。

⑤【誤】ア=c、イ=a
⑥【誤】ア=c、イ=b
いずれも、ハイチや地中海や南大西洋という位置関係を反転させてしまうため、本文の流れと整合しません。

問15:正解3

<問題要旨>

本文中の空欄「ウ」は、中国史で登場する「書院」を指していると推測されます。宋代以降に盛んになった私立学校(書院)について、どのような経緯や特徴があるかを問う問題です。

<選択肢>

①【誤】
「科挙が創設された時代に、書院を中心に新しい学問として興った」は、科挙の正式な開始は隋・唐代にさかのぼりますが、書院の盛行は宋代以降に顕著となり、科挙創設期と直接結び付けるのは誤りです。

②【誤】
「金の支配下で、儒教・仏教・道教の三教の調和を説いた」は、金朝(女真族の王朝)に限って書院が三教調和を掲げたという話は本文の文脈と異なります。

③【正】
「臨済が都を占領した時代に大成され、儒学の経典の中で特に四書を重視した」は要点を整理すると、「宋代の理学の台頭にともない、書院で四書が重視されるようになった史実」などを踏まえた表現とみなせます。実際、朱子学が宋代に大成し、書院がその学問的拠点として機能したことが本文でも示唆されていると考えられます。

④【誤】
「実践を重んじる王守仁が、知行合一の説を唱えた」は、王陽明(王守仁)の説としては正しい内容ですが、これは明代の理学者に関する記述であり、書院の発展そのものを説明する文脈とはややずれます。

問16:正解4

<問題要旨>

本文中の空欄「エ」には、王朝の交替期において政治を批判した集団や派閥に関する話が続く流れから、明末や清初の政争などが念頭にあると推測されます。選択肢の中に、東林派が政府批判を展開した史実が含まれているかどうかがポイントです。

<選択肢>

①【誤】
「宗教結社の太平道が、黄巾の乱を起こした」は後漢末期(2世紀末)の出来事です。本文で語られている学術や書院、明末~清初の状況とは時代的に異なります。

②【誤】
「和平派の秦檜らと主戦派の岳飛らが対立した」は南宋前期(12世紀)の対金政策をめぐる出来事であり、書院や学術改革などの文脈には直接当てはまりません。

③【誤】
「士火の変で、皇帝が捕らえられた」は「土木の変」(1449年)を指す可能性がありますが、これも明代中期の皇帝英宗がオイラトに捕虜とされた事件で、文中の「政府批判を行った政治的派閥」とは異なる話です。

④【正】
「東林派の人々が、政府を批判した」は、明末に政治的混乱のなかで東林党の官僚・士大夫が宦官や魏忠賢らと対立した史実を反映します。学問所(東林書院)を拠点とし、儒学に基づき政治を批判する姿勢が顕著だったため、本文文脈に合致します。

問17:正解1

<問題要旨>

下線部(ア)で示された「地方長官の推薦による官吏任用」とか「人材が何等級に分けられる」などの文と、本文に出てきた朝鮮・日本での人材登用制度に関する考え方との組合せを選ぶ問題です。あ(地方長官の推薦で貴族が政界に進出)・い(人材を9等級に分けて貴族の高官独占を抑制)という下線部説明と、X・Y(日本で科挙を採用しなかったことへの批判や封建制否定の議論)との組合せが問われます。

<選択肢>

①【正】あ-X
「地方長官の推薦による官吏任用が行われ、結果的に豪族が政界に進出するようになった」+「朝鮮の知識人が、科挙を採用せずに世襲や推薦制を容認する日本を批判した」などの流れを示す内容と整合します。

②【誤】あ-Y
「人材登用を封建制否定の観点で科挙導入を提唱した」というYとあの文脈を組み合わせるのはずれが生じます。

③【誤】い-X
④【誤】い-Y
い(人材を9等級に分ける九品官人法)と X・Y は魏晋南北朝期の中国史の制度を想起させますが、本文では朝鮮・日本の人材登用の話と絡めて論じていますので、正解の組合せとはならないと考えられます。

問18:正解4

<問題要旨>

本文中の空欄「オ」には、清代に編纂された大規模な書物である『四庫全書』や、明代の「四書大全」などが候補に挙げられています。あわせて、それを編纂した王朝がどのような政策を実施したかを問う問題です。

<選択肢>

①【誤】『四書大全』―「皇帝に権力を集中させるため、中書省を廃止した」
中書省の廃止は明の洪武帝(朱元璋)の政策ですが、『四書大全』は永楽帝期に編纂された典拠とされることもあり、このセットだけでは整合しません。

②【誤】『四書大全』―「漢人男性に辮髪を強制した」
辮髪の強制は清の時代の政策で、『四書大全』は明の編纂物と関係が深いため、時代の矛盾があります。

③【誤】『四庫全書』―「皇帝に権力を集中させるため、中書省を廃止した」
中書省の廃止は明初の話であり、『四庫全書』は清代の乾隆帝期に編纂されたものです。ここも食い違いがあります。

④【正】『四庫全書』―「漢人男性に辮髪を強制した」
『四庫全書』は乾隆帝(18世紀)の時代に大規模に編纂された典籍類聚です。清朝は支配地域内の漢人男性に辮髪を強制するなどの風俗政策を行ったことは史実として知られ、この組み合わせは時代・政策ともに合致します。

問19:正解1

<問題要旨>

次の書籍「あ」「い」が、『漢書』芸文志の六芸略に掲載されているかどうかを問う問題です。あは『詩経』、いは『資治通鑑』と推定されます(本文中で挙げられる古典)。『詩経』は中国で「五経」の一つとして古くから重要視されていますが、『資治通鑑』は司馬光が11世紀に編纂した通史であり、芸文志の六芸略(前漢時代の書物目録)には存在しないはずです。

<選択肢>

①【正】「あのみ掲載されている」
あ(『詩経』)は前漢の武帝期よりすでに経書として扱われており、『漢書』芸文志にも含まれる経典です。

②【誤】「いのみ掲載されている」は誤り。『資治通鑑』は後世(北宋時代)の編纂物です。

③【誤】「両方とも掲載されている」はあり得ません。

④【誤】「両方とも掲載されていない」も事実と反します。

問20:正解3

<問題要旨>

中国における書籍分類の歴史について、本文で四部分類がいつ確立されたか、どのような経緯で歴史書が増えたかといった流れを踏まえて、1世紀~7世紀ごろの書物編纂や分類の状況が問われる問題です。

<選択肢>

①【誤】
「1世紀には『史記』や『漢書』のような歴史書が既に存在し、史部という分類も定着していた」
史部を含む四部分類は6世紀末~7世紀ごろにまとめられたと考えられ、1世紀にはまだ確立されていません。

②【誤】
「3世紀から6世紀にかけて、木版印刷の技術が普及したことで、史部に含まれる歴史書の数が増加した」
木版印刷が本格的に普及するのは唐末~宋代以降(9~11世紀)とされ、3~6世紀にはまだ早過ぎます。

③【正】
「7世紀の書籍目録において、『史記』と同じ分類に、本紀と列伝を主体とする形式の書籍が収められた」
隋~唐期に『史部』として歴史書をまとめ、そこに司馬遷の『史記』の形式(本紀・列伝など)を踏襲した歴史書群が分類されていった経緯と一致します。

④【誤】
「18世紀までは、宣教師の活動によって西洋の学術が中国に伝わり、四部分類は用いられなくなっていた」
18世紀の清代でも四部分類(四庫全書など)が継続して使われ、大規模な書物編集に採用されています。宣教師の学術導入が四部分類を廃したという事実はありません。

第4問

問21:正解3

<問題要旨>

貨幣1と貨幣2が、それぞれどの国・王朝によって発行されたか、そしてその王朝がどのような特徴をもっていたかを問う問題です。本文では貨幣1がビザンツ帝国(発行都市コンスタンティノープル)で造られたソリドゥス貨に相当し、貨幣2はイスラーム政権(シリア半ばで発行されたウマイヤ朝のディナール等)をモデルにして改変されたことが示唆されています。

<選択肢>

①【誤】
「貨幣1の発行国では、ゾロアスター教が国教とされた」は、ササン朝ペルシアに当てはまる内容であり、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)には該当しません。

②【誤】
「貨幣2を発行した王朝は、パルティアを征服した」は、パルティアを滅ぼしたのはササン朝(3世紀)であり、貨幣2を発行したウマイヤ朝とは異なります。

③【正】
「貨幣1の発行国では、ローマ法の集大成が行われた」は、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝(在位6世紀)による『ローマ法大全』編纂を指す史実と合致します。

④【誤】
「貨幣2を発行した王朝は、バグダードに都を置いた」は、バグダードを都としたのはアッバース朝(8世紀以降)であり、貨幣2の発行者とされるウマイヤ朝は都をダマスクスに置いています。

問22:正解2

<問題要旨>

佐々木さん・鈴木さん・広田さんの三人が作成したメモの内容を検討し、それぞれが正しいかどうかを判定する問題です。貨幣2を発行した王朝が行った行政用語のアラビア語化や、イスラーム教を示す銘文、さらには貨幣1(ビザンツ帝国のソリドゥス金貨)の流通事情などが会話の中で説明されています。

<選択肢>

①【誤】佐々木さんのみ正しい
本文では、鈴木さんのメモの内容も正当である可能性が高く、佐々木さんのみの正しさに限定できません。

②【正】佐々木さんと鈴木さんの二人のみが正しい
佐々木さんのメモ:「貨幣2を発行した王朝は、各地の言語を行政用語として用いることを認めていたが、そこからアラビア語化への改革を進め、独自貨幣の発行もその一例だ」という趣旨は本文と一致。
鈴木さんのメモ:「貨幣2を発行した王朝は貨幣1を模倣しつつも、十字架の図柄を改変してクルアーン(コーラン)の言葉を刻み、イスラーム教を信仰していることを強調した」という点も本文と一致。
広田さんのメモは、ソリドゥス金貨の起源を「ヴァンダル王国を滅ぼした皇帝」から始まったかのように説明していますが、必ずしも本文と整合しているとは言い難く、細部に誤差があると判断できます。

③【誤】鈴木さんと広田さんの二人のみが正しい
④【誤】三人とも正しい
いずれも佐々木さんを外したり、全員正しいとしたりする点で本文の内容と合わなくなります。

問23:正解5

<問題要旨>

マラトンの戦いにまつわる古代ギリシアの史料(資料1・2)に登場する伝令使の名前や時代関係をめぐる会話を踏まえて、本文中の空欄「ア」「イ」に入れる語句・人名の正しい組合せを選ぶ問題です。
「ア」に入れるのは「資料1・2の著者が、ヘラクレイデスよりマラトンの戦いに近い時代に生きていたのか、それとも逆か」という比較。
「イ」に入れるのは「エウクレレス」「テルシッポス」「フィリッピデス」など、資料1・2で言及される使者の名をどれとするかを検討するものです。

<選択肢>

(あ・い)×(X・Y・Z)の6パターンのうち
①あ-X, ②あ-Y, ③あ-Z, ④い-X, ⑤い-Y, ⑥い-Z
ここでは正解が⑤であるため、あ=い(ヘラクレイデスは資料1・2の著者たちよりも戦いに「遠い」時代/近い時代?)かつ イ=Y(テルシッポス)などの組合せを採る形となります。

(具体的理由)
・資料1・2の著者プルタルコスやルキアノス等はいずれも紀元後の時代の人物で、ヘラクレイデス(紀元前4世紀頃)の方がマラトンの戦い(前5世紀初頭)には近いと思われる。
・使者の名として、資料1には「エウクレレス」、資料2には「フィリッピデス」とあるが、ほかに「テルシッポス」という伝承もあり、本文のやりとりで最も筋が通るのが(あ=い、イ=Y)の第5番目だと判断できます。

問24:正解1

<問題要旨>

空欄「ウ」に入れる戦争は、マラトンの戦いを含むペルシア戦争(前5世紀)だと推測されます。そこからイオニア地方の反乱がきっかけになったかどうか、誰と戦ったかなどを踏まえて、最も適切な記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】
「イオニア地方のギリシア人の反乱が、この戦争のきっかけとなった」は、前5世紀初頭、アケメネス朝ペルシアに支配されていたイオニアのギリシア人諸都市が反乱し、それがペルシア戦争勃発の契機になった史実と合致します。

②【誤】
「この戦争でギリシア人と戦った王朝は、エフタルを滅ぼした」は、エフタルを滅ぼしたのはササン朝ペルシアなど後世の出来事で、アケメネス朝やペルシア戦争とは異なります。

③【誤】
「この戦争の後に、アテネを盟主としてコリント同盟(ヘラス同盟)が結成された」は、実際には「デロス同盟」がアテネを盟主として結成されました。コリント同盟はマケドニア王フィリッポス2世が前4世紀にギリシア諸ポリスをまとめた同盟です。

④【誤】
「ギリシア軍が、この戦争中にプラタイアイの戦いで敗北した」は逆で、ギリシア連合軍がプラタイアイの戦い(前479)でペルシア軍を打ち破ったのが史実です。

問25:正解3

<問題要旨>

マラトンの戦いの勝利をアテネにもたらした伝令使について、本文をもとに記述を検討する問題です。ヘロドトスやプルタルコスなどがどのように伝えているか、資料1・2と照らし合わせて、誤り・正しい点を判断します。

<選択肢>

①【誤】
「アテネで僧となったペイシストラトスは、使者の話を知っていた可能性がある」は、ペイシストラトスはマラトンの戦いより前(前6世紀)の僭主で、加えて“僧となった”というのも聞かれない史実です。

②【誤】
「使者の話は、トゥキディデス(トゥキュディデス)の『歴史』に記されている」は誤り。トゥキディデスの『歴史』はペロポネソス戦争を中心とする史料で、マラトン伝令使の話は扱っていません。

③【正】
「プルタルコスは、使者の名前について異なる説を併記している」は、『対比列伝』などでプルタルコスが様々な伝承を紹介する際、同一の人物・出来事に別伝承があるときは複数説を併記することがあったとされ、本文の会話にも通じます。

④【誤】
「使者についての資料2の記述は、ヘロドトスの『歴史』を正確に反映している」は、本文で「資料2を書いた作者は五賢帝の時代(後世)に活躍し、ヘロドトスとの時代差がある」などの説明があり、正確な反映とは言いがたいとされています。

問26:正解3

<問題要旨>

空欄「I」に入れる語句と、資料1・2が示す「アングル人」の内容を指す文あ・いとの組合せを問う問題です。資料1で描かれる「ゲルマンの三つの民(サクソン人・アングル人・ユート人)」のブリテン島上陸と、資料2で紹介される「ブリトン人・ピクト人」などとの言語的状況から、アングル人がゲルマン系の一派として渡来したことが分かります。

<選択肢>

①【誤】東方植民 あ(サクソン人やユート人と並置される集団)
②【誤】東方植民 い
③【正】ゲルマン人の大移動 あ
 …あ = 「大陸から渡来してきた民の一つで、サクソン人やジュート人(ユート人)と並置される集団」を指しており、資料1・2の内容に合致します。
④【誤】ゲルマン人の大移動 い
 …い = 「サクソン人やジュート人をも含めた共通言語集団」という文章ですが、資料1・2の主眼は「サクソン・アングル・ユート」らがブリテン島に渡ってきた三部族であるという点にあり、「い」の文面とは微妙にずれます。

問27:正解2

<問題要旨>

資料1~3に記された出来事・事柄の年代が古い順にどう並ぶかを問う問題です。
資料1:マルキアヌス帝(5世紀中頃)即位の年にゲルマン人の三つの民がブリテン島へ…
資料2:ベーダが「今のブリテン島には五つの言語がある」と述べた(8世紀前半)
資料3:若き日の教皇グレゴリウス1世(6世紀末~7世紀初頭にかけて活躍)と関わるエピソード…
これらの出来事を実際の年代順に並べると、(1)資料1(5世紀) → (3)資料3(6世紀末~7世紀初) → (2)資料2(8世紀前半)となる組合せが正しいと推測されます。

<選択肢>

① 資料1 → 資料2 → 資料3
② 資料1 → 資料3 → 資料2
③ 資料2 → 資料1 → 資料3
④ 資料2 → 資料3 → 資料1
⑤ 資料3 → 資料1 → 資料2
⑥ 資料3 → 資料2 → 資料1

ここで正解が「② 資料1 → 資料3 → 資料2」となっており、5世紀のマルキアヌス → 6~7世紀グレゴリウス1世 → 8世紀ベーダ、という流れがもっともらしい順序です。

問28:正解2

<問題要旨>

下線部@に関連して、「キリスト教が社会に与えた影響」について正しく述べたものを選ぶ問題です。選択肢には古代・中世ヨーロッパのキリスト教の政治・社会への浸透に関するエピソードが並びます。

<選択肢>

①【誤】
「クローヴィスの改宗によって、フランク王国は先住のノルマン人の支持を得ることができた」は、ノルマン人は後世(9世紀以降)に北フランスへ侵入した集団であり、クローヴィス(5~6世紀初頭)との直接的関係はありません。

②【正】
「聖職者(司祭)のジョン=ボールが、『アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族(領主)であったか』と説教し、農民一揆を指導した」は、14世紀イギリスのワット=タイラーの乱(農民反乱)の背景で語られる有名な言葉に該当し、教会や聖職者が社会的メッセージを発信した例として正しい内容です。

③【誤】
「コンスタンティヌス帝は、勢力を増したキリスト教徒を統治に取り込むために、統一法を発布した」は、たしかにミラノ勅令(313年)などキリスト教公認、さらにニケーア公会議(325年)開催などがありましたが、ここで「統一法」と表現するかどうかは疑問で、内容がやや不正確と見なされます。

④【誤】
「ボニファティウス8世の提唱した第1回十字軍に、ヨーロッパ各地の諸侯や騎士が参加した」は、第1回十字軍を提唱したのは1095年の教皇ウルバヌス2世であり、ボニファティウス8世(13世紀末~14世紀初)は時代が異なります。

第5問

問29:正解1

<問題要旨>

下線部④の歴史に関する出来事を問う問題です。東南アジアをめぐる列強の動向や貿易拠点の獲得、貿易独占権の廃止など、19世紀以降の各国の政策が論点となっています。

<選択肢>

①【正】
「シンガポールを獲得して、東南アジアにおける交易の拠点とした」は、イギリスが1819年にシンガポールを獲得し、以後、東南アジア貿易の重要拠点として発展させた史実と合致します。

②【誤】
「19世紀後半に、自国の東インド会社の貿易独占権を廃止した」は、実際にはイギリス東インド会社の対インド貿易独占権廃止が1833年(19世紀前半)など複数回の段階的廃止があり、ここで言う“19世紀後半”という表現は時期にずれが生じます。

③【誤】
「清との間に、公行の廃止を定めた北京条約を結んだ」は、北京条約(1860年)の内容に“公行の廃止”はアヘン戦争後の南京条約(1842年)やその後の追加条約群の流れとも関連しますが、北京条約自体で公行廃止を定めたとするのは不正確です。

④【誤】
「オタワ会議(オタワ連邦会議)により、スターリング=ブロック(ポンド=ブロック)を廃止した」は、1932年のイギリス連邦経済会議(オタワ会議)では保護関税政策(ブロック経済)を強化した史実があり、スターリング=ブロック(ポンド=ブロック)の“廃止”ではなく、むしろ体制強化につながっています。

問30:正解3

<問題要旨>

本文中の空欄「ア」に入る国名(あ:ドイツ/い:アメリカ合衆国)と、下線部(β)の背景に関する文(X または Y)を正しく組み合わせる問題です。輸出市場が拡大する背景として大量生産方式の普及や自動車の普及、あるいはアウトバーン建設の進展など、どちらの国の事例かを見極める必要があります。

<選択肢>

① あ=ドイツ、X=「大量生産方式により、自動車の普及が進んだ」
② あ=ドイツ、Y=「アウトバーンの建設が進められた」
③ い=アメリカ合衆国、X=「大量生産方式により、自動車の普及が進んだ」
④ い=アメリカ合衆国、Y=「アウトバーンの建設が進められた」

ここで正解が③とされるのは、アメリカ合衆国でフォード式の大量生産方式が普及して自動車需要が高まった点を重視しているものと推測されます。

<選択肢>

①【誤】
アにドイツを入れ、かつX(大衆車など)はドイツでもVW(フォルクスワーゲン)などあり得ますが、本格的な大量生産方式といえばアメリカが典型です。

②【誤】
ドイツのアウトバーン建設が1930年代に進められましたが、本文の文脈では「大衆車と大量生産」を対応づけるのが妥当かどうかが疑わしいです。

③【正】
ア=「い(アメリカ合衆国)」、背景文X=「大量生産方式により自動車の普及が進んだ」は、1920年代のアメリカのモータリゼーションを示しており、本文の文脈に合致します。

④【誤】
アにアメリカ、背景文Y(アウトバーン建設)を結び付けるのは、アウトバーンがドイツの道路政策として知られるため不適切です。

問31:正解2

<問題要旨>

1929年前後の東南アジア各植民地の貿易構造を述べる本文を参照し、「コーヒー栽培の進むインドネシア」「ゴムプランテーションの労働移民の流入するマラヤ」「フィリピンの作物輸出事情」などを考察する問題です。どの選択肢が当時の統計・記述と最も合致するか判断します。

<選択肢>

①【誤】
「コーヒー栽培が進められたインドネシアは、宗主国向け輸出額の割合が4地域の中で最も低かった」は裏づけが弱く、インドネシア(オランダ領東インド)の主要輸出先は表中ではオランダが高率であり、“最も低い”とは言えません。

②【正】
「ゴムプランテーション(ゴム園)の労働者として移民が流入したマラヤは、インドシナの輸出額上位5地域の中に入っていた」は本文でも、表中マラヤの輸出先にア(イギリスや他国)が挙がり、ゴム需要が高かった点と合致します。マラヤが当時、ゴム輸出で重要な地位を占めていたことと整合します。

③【誤】
「フィリピンでは強制栽培制度による商品作物生産がなされており、アジア向けの輸出額は全体の2割以下であった」はフィリピンはアメリカ合衆国の支配下で、強制栽培制度(例えばオランダ領東インドの強制栽培制度など)とは文脈が異なります。

④【誤】
「インドシナの輸出額において最大であった地域は、インドシナと同じ宗主国の植民地であった」は当時フランス領インドシナの主要輸出相手国はフランスなどで、同じフランス領の植民地が最大相手かどうかは定かでなく、“最大であった”という断定は不適切です。

問32:正解1

<問題要旨>

イギリスの人口統計(表1, 2)を踏まえた会話で出てくる空欄「イ」「ウ」の文の組合せを問う問題です。都市人口比率の上昇や農村非農業人口の増加など、18世紀後半~19世紀にかけての産業革命期イギリスの変化をどう捉えるかが焦点となります。

<選択肢>

①【正】
「イ=表1を見ると、都市人口比率が上昇している」+「ウ=土地が囲い込まれ(第2次囲い込み)、新農法が導入された」は、18世紀イギリスで進んだエンクロージャーと農業技術革新を指し、都市人口比率の上昇と合わせて説明されやすいです。

②【誤】
「イ=都市人口比率が減少している」は史実と逆で、表からは上昇傾向です。

③【誤】
「イ=農村農業人口100人あたりの総人口が上昇している」は表2を見れば、農村農業人口がむしろ相対的に減っている可能性が示唆されます。
「ウ=鉄道建設が進み、全国的な鉄道網が完成した」は確かに19世紀中頃のイギリスで重要ですが、空欄ウの文脈としては“新農法”などとは別の話です。

④【誤】
「イ=農村農業人口100人あたりの総人口が減少している」+「ウ=穀物法の廃止により、穀物輸入が自由化された」は、穀物法の廃止(1846年)は産業資本家の利害と関係しますが、表1・2の記述から直接導かれる文脈とは少しずれます。

問33:正解1

<問題要旨>

本文中の空欄「エ」には、イギリスやアイルランドからアメリカ合衆国への移民数のグラフを見て、歴史上の出来事(ジャガイモ飢饉やアイルランド独立運動など)との関連を読み取る必要があります。選択肢①~④のうち、どのような年表・時系列で移民が増減したかが焦点です。

<選択肢>

①【正】
「1840年代中頃にアイルランドで大飢饉(ジャガイモ飢饉)が発生した後、1840年代後半にはアイルランドからの移民が増加している」は、実際に1845~1849年ごろのジャガイモ飢饉で多くのアイルランド人がアメリカ合衆国などへ移住し、人口流出が大きくなった史実と一致します。

②【誤】
「1850年代中頃にアイルランドがアロハニひこに改称され、土地没収が強行された後、1850年代後半にはアイルランドからの移民が増えている」は、記述に史実とかけ離れた表現が含まれます。

③【誤】
「1870年代初めにアメリカ合衆国で南北戦争が始まった後(…)」は南北戦争は1861~1865年で、時代が食い違います。

④【誤】
「1890年代初めにアメリカ合衆国でフロンティアの消滅が宣言され、1895年のイギリスからの移民は1890年より増加した」は、イギリスからの移民状況を説明する上でやや整合性に欠き、またフロンティア消滅宣言(1890年)との因果関係が直接的と断定はしがたいです。

問34:正解2

<問題要旨>

下線部(©)に関連し、産業革命期のイギリス社会における技術革新・社会運動・法律などの動きの中で、どれがもっとも正しいかを問う問題です。大西洋三角貿易やダービーによる製鉄法、選挙権拡大運動(ラダイト運動ではなくチャーティスト運動、あるいは機械打ちこわしはラダイト運動だが“選挙権”とは関係がない)、工場法制定の公害対策、などが考えられます。

<選択肢>

①【誤】
「大西洋の三角貿易を通じて、綿製品・茶・アヘンが取引された」は、三角貿易の中心物は奴隷・砂糖・ラム酒・綿製品などが主で、茶やアヘンを絡めると中国貿易(アヘン戦争周辺)と混同している可能性が高いです。

②【正】
「ダービーによって開発された、コークスを使用する製鉄法が利用された」は、18世紀前半にエイブラハム・ダービーがコークス製鉄法を改良した史実があり、イギリス産業革命期を象徴する技術革新の一つです。

③【誤】
「選挙権の拡大を目指して、ラダイト運動(機械打ちこわし運動)が発生した」は、ラダイト運動は機械化に反発する労働者運動であって、選挙権拡大を直接の目標とはしていません。

④【誤】
「1833年の工場法の制定によって、大気や水の汚染問題の改善が図られた」は、1833年工場法は労働条件の改善(児童労働の規制など)に関する法律であり、公害対策とは直接関係しません。

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