2023年度 大学入学共通テスト 本試験 世界史B 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解④

<問題要旨>

19世紀にフィンランドを支配していた国家(ロシア帝国)の歴史に関する知識を問う問題です。空欄アには「ロシア」が入ります。本文でフィンランドが19世紀に「当時帝国だった ア 」の領土になったとあり、19世紀のフィンランドはスウェーデンからロシア・アレクサンドル1世に割譲され、ロシア大公国となっていた史実から判断します。

<選択肢>

①【誤】

ピョートル1世(ビョートル1世)が北方戦争で戦った相手はスウェーデンであり、イギリスではありません。この戦争に勝利したロシアは、バルト海の覇権を握りました。

②【誤】

シュレスヴィヒ・ホルシュタインをめぐってプロイセン・オーストリアと戦ったのはデンマークです。このデンマーク戦争は、ドイツ統一の過程で起こりました。

③【誤】

ピウスツキが独裁を行ったのは、第一次世界大戦後に独立したポーランドです。

④【正】

BRICSとは、21世紀に著しい経済発展を遂げたブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)、南アフリカ(South Africa)の5か国の総称です。ロシア連邦がこれに含まれるため、この記述は正しいです。

問2:正解③

<問題要旨>

第一次世界大戦に関する基本的な理解を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

オスマン帝国は、ドイツやオーストリア=ハンガリー帝国と同じ同盟国側に立って参戦しました。協商国(連合国)はイギリス、フランス、ロシアなどを中心とする陣営です。

②【誤】

タンネンベルクの戦いは、東部戦線でドイツ軍とロシア軍が衝突した戦いです。フランス軍がドイツ軍の進撃を阻止したのは、西部戦線におけるマルヌの戦いです。

③【正】

イギリスは広大な植民地帝国であり、第一次世界大戦ではインドをはじめとする植民地から多くの兵士や物資を動員しました。

④【誤】

「十四か条の平和原則」を発表したのは、アメリカ合衆国のウィルソン大統領です。レーニンは「平和に関する布告」を発表し、全交戦国に無併合・無賠償・民族自決の原則での即時講和を呼びかけました。

問3:正解②

<問題要旨>

授業の内容と歴史的事実を照らし合わせ、三人の生徒が作成したメモの正誤を判断する問題です。

<選択肢>

①【誤】

室井さんのメモは誤りです。ニュージーランドで女性参政権が認められたのは1893年ですが、イギリスの自治領となったのは1907年です。したがって、「自治領となった後」という記述が時系列的に誤りです。

②【正】

渡部さんのメモは正しいです。第一次世界大戦中、男性が兵士として動員されたため、女性が工場労働などに従事し、社会における役割が増大しました。これが女性の地位向上につながり、イギリスでは1918年に30歳以上の女性に参政権が認められました。

③【誤】

佐藤さんのメモは誤りです。アメリカで女性参政権が認められたのは1920年です。一方、キング牧師が指導した公民権運動は1950年代から1960年代にかけての出来事であり、時代が全く異なります。

④【誤】

上記の通り、室井さんのメモが誤っているため、この選択肢は誤りです。

問4:正解②

<問題要旨>

資料から6世紀後半の中国(南北朝時代)の北方の社会状況を読み取り、その背景を推測する問題です。

<選択肢>

①【誤】

西晋を滅ぼしたのは匈奴ですが、資料で言及されている「平城に都が置かれていた時代」とは、北魏の初期の都が平城であったことを指しています。

②【正】

資料では、北方の女性が活発に社会活動を行っていた様子が描かれており、「平城に都が置かれていた時代からの習わしであろうか」と述べられています。平城を都としたのは鮮卑が建国した北魏です。遊牧民族である鮮卑の社会では、女性の地位が比較的高く、活動的であったため、その風習が北朝の社会に影響を与えたと考えられます。

③【誤】

六朝文化は、主に江南の漢人貴族社会で発展した文化であり、資料で述べられている北方の活発な女性の風習とは直接関係ありません。

④【誤】

隋による南北統一は6世紀末(589年)の出来事です。資料で述べられている風習は、それ以前の分裂時代に由来するものと考えられます。

問5:正解①

<問題要旨>

北朝の風習が後の時代に与えた影響、特に中国史上唯一の女帝である則天武后が登場した背景を考察する問題です。

<選択肢>

①【正】

則天武后が登場したのは唐の時代です。唐を建国した李淵・李世民の一族は、北朝の有力な軍人貴族層(関隴集団)の出身であり、鮮卑をはじめとする北方の遊牧民族の血を引いていたとされます。そのため、北朝の比較的女性が活発であった風習の影響を受けており、これが則天武后のような女性権力者が現れる素地の一つになったと考えられます。

②【誤】

科挙官僚が政治の担い手となるのは、則天武后の時代も含めて唐代を通じて進展しますが、これが女性皇帝の出現の直接的な背景とは言えません。むしろ貴族層の力がまだ強かった時代です。

③【誤】

隋の大運河の完成は、南北の経済的・文化的な統合を進めましたが、これが女性皇帝の出現に直接結びつくわけではありません。

④【誤】

北魏の孝文帝による漢化政策は、鮮卑の風習を漢人の風習に改めようとするものでした。これは、資料に見られるような活発な女性のあり方とは逆の方向性の政策です。

問6:正解④

<問題要旨>

6世紀後半以降の儒学の普及に関連する出来事を選ぶ問題です。下線部⑤は、北方の活発な女性のあり方が失われ、南方の女性のような振る舞いが模範的とされた理由として「この時代以降の儒学の普及」を挙げています。

<選択肢>

①【誤】

清談は、政治的な現実から離れて老荘思想などについて論じるもので、主に魏晋南北朝時代の貴族の間で流行しました。「この時代以降」の出来事ではありません。

②【誤】

董仲舒の提案により儒学が官学とされたのは、前漢の武帝の時代(前2世紀)であり、6世紀後半よりはるか以前の出来事です。

③【誤】

寇謙之は北魏の道教(新天師道)を確立した人物であり、儒学ではありません。

④【正】

『五経正義』は、唐の太宗の命で孔穎達らが編纂した、五経の公式な注釈書です。これにより儒学の解釈が統一され、科挙の教科書として用いられるなど、儒学の普及と固定化に大きな役割を果たしました。唐代(7世紀)の出来事であり、「この時代以降」に合致します。

第2問

問1:正解②

<問題要旨>

文章と家系図を読み解き、アンリ4世の紋章の意味を理解する問題です。

<選択肢>

①【誤】

右の図柄はアンリ4世の母方の家系(ナバラ王国)の紋章(金の鎖)であり、クレシーの戦いの旗の図柄(ユリ)ではありません。

②【正】

左の図柄はユリの紋章で、フランス王家の象徴です。家系図を見ると、アンリ4世はルイ9世を共通の祖先としており、カペー朝の血を引いていることがわかります。したがって、この紋章はアンリ4世がカペー朝以来のフランス王家の正統な後継者であることを示しています。

③【誤】

この紋章は、フランス王家の正統性と、母方から受け継いだナバラ王家の血統を示しており、イングランド王家との統合を表すものではありません。

④【誤】

アンリ4世は、母であるジャンヌ=ダルブレからナバラ王位を継承しました。父からではありません。

問2:正解①

<問題要旨>

下線部⑧のユグノー(フランスのカルヴァン派プロテスタント)に関連する、ヨーロッパの宗教改革期の出来事を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

サン=バルテルミの虐殺は、フランスの宗教戦争(ユグノー戦争)中の1572年に、カトリック勢力が多くのユグノーを虐殺した事件です。ユグノーに関連する出来事として正しいです。

②【誤】

ドイツ農民戦争を指導したのは、ルター派の急進的な説教家トマス=ミュンツァーです。ツヴィングリはスイスのチューリヒで宗教改革を行いました。

③【誤】

国王至上法(首長法)を制定してイギリス国教会を設立したのは、ヘンリ8世です。ヘンリ7世はテューダー朝の創始者です。

④【誤】

イグナティウス=ロヨラがイエズス会を結成したのは、カトリック側の対抗宗教改革の一環であり、プロテスタントの活動ではありません。

問3:正解②

<問題要旨>

宰相マザランの死後に親政を開始したフランス国王と、その時代の財政状況を特定する問題です。

<選択肢>

空欄ア:宰相マザランが死去した1661年に親政を開始したのは、「太陽王」として知られるルイ14世です(あ)。ルイ16世はフランス革命期の国王です(い)。

空欄イ:ルイ14世は、スペイン継承戦争など数々の侵略戦争を繰り返したため、国家財政は常に悪化していました(Y)。ネッケルはルイ16世の時代の財務長官であり、財政改革を試みました(X)。

したがって、「あ-Y」の組み合わせが正しくなります。

問4:正解③

<問題要旨>

空欄ウに入る王朝(後ウマイヤ朝)が10世紀に支配していたイベリア半島の歴史に関する記述を選ぶ問題です。10世紀にカリフを称したバグダードのアッバース朝、カイロのファーティマ朝と並び立つ三カリフ時代の一角は、イベリア半島の後ウマイヤ朝です。

<選択肢>

①【誤】

ルーム=セルジューク朝は、トルコ系の人々が小アジア(アナトリア半島)に建てた王朝です。

②【誤】

イベリア半島における最後のイスラーム王朝はナスル朝です。ムラービト朝はそれ以前の王朝です。

③【正】

ムワッヒド朝は、12世紀に北アフリカからイベリア半島に進出したベルベル人のイスラーム王朝です。

④【誤】

ワッハーブ王国が成立したのは、イベリア半島ではなくアラビア半島です。

問5:正解①

<問題要旨>

イスラーム世界におけるカリフ制度の歴史について、正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

預言者ムハンマドの死後、イスラーム共同体の後継者として、選挙でアブー=バクルが選ばれ、初代の正統カリフとなりました。

②【誤】

カリフ制を廃止したのは、オスマン帝国滅亡後のトルコ共和国の初代大統領ムスタファ=ケマルです。アブデュルハミト2世はカリフの権威を利用してパン=イスラーム主義を掲げたオスマン帝国のスルタンです。

③【誤】

イラン系のシーア派王朝であるブワイフ朝は、バグダードに入城してアッバース朝カリフから大アミールの称号を得て実権を握りましたが、自らがカリフになったわけではありません。

④【誤】

サファヴィー朝はシーア派の十二イマーム派を国教としたイランの王朝であり、スンナ派の長であるアッバース朝のカリフを擁立することはありません。

問6:正解④

<問題要旨>

資料1と資料2の内容を正確に読み取り、ファーティマ朝の歴史とそのカリフの正統性に関する議論を理解する問題です。

<選択肢>

①【誤】

ファーティマ朝(909年建国)はアッバース朝(750年建国)の成立よりも後に成立した王朝です。

②【誤】

ファーティマ朝はシーア派の一派であるイスマーイール派が建てた王朝であり、スンナ派ではありません。また、資料1は系譜を根拠にカリフの正統性を否定しています。

③【誤】

資料2は、ファーティマ朝にシリアやエジプトを奪われたアッバース朝側の「無能力」が、ファーティマ朝の系譜を否定する言説を生んだと述べているのであり、ファーティマ朝がカリフの資格がないと判断しているわけではありません。

④【正】

ファーティマ朝は、スンナ派のアッバース朝カリフの権威を否定していました。資料2の著者は、対立相手であるアッバース朝カリフが地方総督に送った手紙の中に、ファーティマ朝カリフの系譜を認める記述があることを指摘し、これを証拠としてファーティマ朝のカリフがアリーの子孫であると認めています。

第3問

問1:正解④

<問題要旨>

図の出来事(ナポレオンのエルバ島からの帰還)が起こった時点(1815年)のフランスの統治者(国王)に関する問題です。

<選択肢>

①【誤】

アルジェリア出兵・占領を行ったのは、ブルボン復古王政のシャルル10世です。

②【誤】

恐怖政治を敷いたのは、フランス革命期のジャコバン派(ロベスピエールら)です。

③【誤】

国外逃亡を図りヴァレンヌで捕らえられたのは、フランス革命期の国王ルイ16世です。

④【正】

ナポレオンがエルバ島に流された後、フランスではルイ16世の弟であるルイ18世が即位し、ブルボン朝が復活していました(復古王政)。図の出来事は、このルイ18世の統治下で起こりました。

問2:正解②

<問題要旨>

文章中の地名(ハイチ、セントヘレナ)を地図上で特定する問題です。

<選択肢>

空欄ア:トゥサン=ルヴェルチュールが独立運動を指導したのは、カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島の西部、フランス植民地サン=ドマングであり、独立してハイチとなりました。これは地図上の a にあたります。

空欄イ:ナポレオンが最終的に流され、その生涯を終えたのは、南大西洋の孤島セントヘレナです。これは地図上の c にあたります。

地図上の b は、ナポレオンが最初に流された地中海のエルバ島です。

したがって、「ア-a」「イ-c」の組み合わせが正しいです。

問3:正解③

<問題要旨>

空欄ウに入る学問(朱子学)に関する正しい記述を選ぶ問題です。宋代に私立学校の書院で生まれた新しい学問とあることから、朱子学(宋学)を指していると判断します。

<選択肢>

①【誤】

科挙が創設されたのは隋の時代です。朱子学が興ったのは宋代であり、時代が異なります。

②【誤】

儒教・仏教・道教の三教の調和を説き、全真教を開いたのは、金の支配下にいた王重陽です。

③【正】

朱子学は、北宋に始まり、南宋の朱熹(朱子)によって大成されました。南宋の都は臨安です。朱子学は、儒学の経典の中でも特に『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書を重視しました。

④【誤】

知行合一を説いた王守仁(王陽明)は、明代の陽明学の創始者です。

問4:正解④

<問題要旨>

17世紀の思想家である顧炎武が念頭に置いていたであろう「書院を拠点とした争い」を特定する問題です。顧炎武が生きたのは明末清初の時代です。

<選択肢>

①【誤】

黄巾の乱は後漢末期(2世紀)の農民反乱であり、宗教結社である太平道が組織したものです。時代が全く異なります。

②【誤】

和平派の秦檜と主戦派の岳飛との対立は、南宋の時代(12世紀)の出来事です。

③【誤】

土木の変で皇帝(正統帝)がオイラトのエセン=ハンに捕らえられたのは、明の中期(15世紀)の出来事です。

④【正】

明の末期(17世紀初頭)、東林書院に集う官僚たち(東林派)が、魏忠賢ら宦官を中心とする勢力(非東林派)と激しく対立しました。この党争は、書院を拠点とした政治闘争の典型例であり、顧炎武が念頭に置いていたものと考えられます。

問5:正解①

<問題要旨>

下線部⑥の「科挙の開始より古い時代の人材登用制度」と、文章から読み取れる日本と朝鮮の科挙に対する考え方を組み合わせる問題です。

<選択肢>

下線部⑥の文:江戸時代の儒学者が理想としたのは、人柄を重視する制度です。漢代に地方長官が才能や人柄の優れた人物を推薦した郷挙里選がこれに該当します(あ)。その結果、推薦権を持つ地方豪族が中央政界に進出する足がかりとなりました。九品中正は魏晋南北朝時代の制度で、家柄が重視されるようになり、貴族の地位を固定化させる結果を招きました(い)。したがって、「あ」が適当です。

考え方の文:文章中で、朝鮮の知識人は「日本には科挙がないので官職が全て世襲で決まり、埋もれた人材がいる」と、科挙のない日本の世襲制を批判しています(X)。日本の儒学者は、人柄を重視する周代の制度を理想とし、科挙に批判的であったと述べられており、科挙の導入を提唱してはいません(Y)。したがって、「X」が適当です。

以上から、「あ-X」の組み合わせが正しいです。

問6:正解④

<問題要旨>

空欄オに入る18世紀中国で編纂された叢書の名前と、それを編纂した王朝(清)に関する正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

空欄オ:18世紀に編纂され、「四」という数字がつく大規模な叢書は、清の乾隆帝の時代に編纂された『四庫全書』です。『四書大全』は明の永楽帝の時代に編纂されたものです。

王朝の記述:『四庫全書』を編纂した王朝は清です。清は満州人の王朝であり、漢人男性に対して満州人の風習である辮髪を強制しました。中書省を廃止したのは明の洪武帝です。

したがって、『四庫全書』と「漢人男性に辮髪を強制した」の組み合わせが正しいです。

問7:正解①

<問題要旨>

前漢の時代の書籍目録である『漢書』芸文志の「六芸略」(儒学の経典を収める分類)に掲載されている可能性のある書籍を判断する問題です。

<選択肢>

あ『詩経』:五経の一つであり、儒学の重要な経典です。したがって、前漢の時代に存在し、「六芸略」に掲載されていたと考えられます。

い『資治通鑑』:北宋の司馬光が編纂した編年体の歴史書です。前漢の時代にはまだ存在していません。

したがって、「あのみ掲載されている」が正しいです。

問8:正解③

<問題要旨>

文章全体を参考に、中国における書籍分類の歴史について正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

文章中に「1世紀にはまだ四部分類がなかったのですか」「当時は史部という分類自体、存在しませんでした」とあり、史部という分類は定着していませんでした。

②【誤】

木版印刷の技術が普及したのは唐代以降のことです。史部に含まれる歴史書が増加した3世紀から6世紀にかけての時期ではありません。

③【正】

資料1は7世紀の書籍目録で、『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』が史部に分類されています。これらはすべて、皇帝の記録である「本紀」と個人の伝記である「列伝」を主体とする紀伝体の歴史書です。したがって、この記述は正しいです。

④【誤】

18世紀に編纂された『四庫全書』は、まさに四部分類に基づいて書籍を分類しています。したがって、四部分類が用いられなくなったという記述は誤りです。

第4問

問1:正解③

<問題要旨>

貨幣1を発行したビザンツ帝国、または貨幣2を発行したウマイヤ朝に関する正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

ゾロアスター教を国教としたのはササン朝ペルシアです。ビザンツ帝国ではキリスト教が国教でした。

②【誤】

パルティアを滅ぼしたのはササン朝ペルシアです。ウマイヤ朝が成立したのはそれより後の時代です。

③【正】

貨幣1を発行したビザンツ(東ローマ)帝国では、6世紀のユスティニアヌス帝の時代に、トリボニアヌスらに命じて『ローマ法大全』が編纂され、ローマ法が集大成されました。

④【誤】

バグダードに都を置いたのは、ウマイヤ朝を滅ぼしたアッバース朝です。ウマイヤ朝の都はダマスクスでした。

問2:正解②

<問題要旨>

授業の内容と歴史的事実に基づき、三人の生徒が作成したメモの正誤を判断する問題です。

<選択肢>

佐々木さんのメモ:【正】

本文に「貨幣2の発行者は、行政で用いる言語をアラビア語に変更させるなど、統治制度の改革を行っています」「アラビア文字のみが刻まれた独自の貨幣に改めましたが、これも行政で用いる言語の変更と同様の趣旨がある」とあり、メモの内容と合致します。

鈴木さんのメモ:【正】

本文に「貨幣2の裏面で、十字架が1本の棒の図柄に変えられている」「裏面にはアラビア語の銘文が刻まれ、預言者ムハンマドの名前も見られます」とあり、イスラーム教の信仰を打ち出したというメモの内容と合致します。

広田さんのメモ:【誤】

ソリドゥス金貨の発行を始めたのは、4世紀のコンスタンティヌス1世です。ヴァンダル王国を滅ぼした皇帝は6世紀のユスティニアヌス帝であり、時代が異なります。

したがって、佐々木さんと鈴木さんの二人のみが正しいです。

問3:正解⑤

<問題要旨>

文章を読み、登場人物の生きた時代の前後関係と、そこから導き出される推論を正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

空欄ア:ヘラクレイデスはアリストテレス(前4世紀)の弟子です。一方、資料1・2の著者は五賢帝時代(後1~2世紀)の人物です。マラトンの戦いは前490年なので、ヘラクレイデスの方が資料1・2の著者たちよりもマラトンの戦いに近い時代に生きていたことになります(い)。

空欄イ:松山さんは、「マラトンの戦いに時代が近い人物が信頼できるとしたら」という前提で考えています。ヘラクレイデスが伝えている使者の名前は「テルシッポス」です。したがって、この中ではテルシッポスが一番あり得そうだと考えていることになります(Y)。

以上から、「い-Y」の組み合わせが正しいです。

問4:正解①

<問題要旨>

空欄ウに入る戦争、すなわちマラトンの戦いを含むペルシア戦争に関する正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

ペルシア戦争は、アケメネス朝ペルシアの支配下にあったイオニア地方のギリシア人植民市が反乱を起こし、アテネなどがそれを支援したことがきっかけで始まりました。

②【誤】

ペルシア戦争でギリシアと戦ったのはアケメネス朝です。エフタルを滅ぼしたのは、ササン朝と突厥です。

③【誤】

ペルシア戦争の後、アテネを盟主として結成されたのはデロス同盟です。コリントス同盟(ヘラス同盟)は、後にマケドニアのフィリッポス2世がギリシアのポリスを支配下において結成したものです。

④【誤】

プラタイアイの戦いは、ペルシア戦争においてギリシア連合軍がペルシア陸軍に決定的な勝利を収めた戦いです。

問5:正解③

<問題要旨>

文章と資料の内容を総合的に判断し、マラトンの戦いの使者に関する記述として最も適当なものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

ペイシストラトスはマラトンの戦い(前490年)よりも前の時代(前6世紀)のアテネの僭主であり、この話を知ることはできません。

②【誤】

トゥキディデスは、ペルシア戦争の後のペロポネソス戦争を主題とした『歴史』を著した歴史家です。文章中にも彼の著作に関する言及はありません。

③【正】

文章中に「資料1を書いたのは『対比列伝』を著した人物」とあり、これはプルタルコスを指します。その資料1では、「ヘラクレイデスは、テルシッポスが(中略)と記している。しかし、今の多くの人々は、(中略)エウクレスだと言っている」とあり、使者の名前についてテルシッポス説とエウクレス説の二つを併記しています。

④【誤】

ヘロドトスの『歴史』では、フィリッピデスはスパルタへの援軍要請の使者として登場します。勝利を伝えたという話は記されていないため、資料2の記述はヘロドトスの記述を正確に反映しているとは言えません。

問6:正解③

<問題要旨>

空欄エに入る歴史的出来事と、資料1・2における「アングル人」という言葉の意味の違いを正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

空欄エ:資料1で、ゲルマンの三つの民(サクソン人、アングル人、ジュート人)がブリテン島を訪れたと記述されています。これは5世紀頃に起こったゲルマン人の大移動の一環です。

資料1の「アングル人」:サクソン人、ジュート人と並べて挙げられていることから、大陸から渡来してきた特定の部族集団の一つを指しています(あ)。

資料2の「アングル人」:ブリトン人、スコット人など他の言語集団と並べて挙げられており、文章の解説から、この時代にはサクソン人やジュート人をも含んだ、英語(古英語)を話す人々の総称として用いられていたことがわかります(い)。

したがって、「ゲルマン人の大移動」「あ」「い」の組み合わせが正しいです。

問7:正解②

<問題要旨>

資料1、2、3で述べられている出来事を年代順に正しく並べる問題です。

<選択肢>

資料1:マルキアヌス帝(在位450~457年)の時代にゲルマン人がブリテン島に移住した出来事を記しており、5世紀半ばの出来事です。

資料3:若き日の教皇グレゴリウス1世(教皇在位590~604年)がローマでアングル人の少年と出会った逸話を記しており、6世紀後半の出来事と考えられます。

資料2:筆者ベーダがこの著作を執筆している時点(731年頃)のブリテン島の言語状況を記しており、8世紀前半の状況です。

したがって、古いものから順に並べると「資料1→資料3→資料2」となります。

問8:正解②

<問題要旨>

下線部②のキリスト教の布教活動に関連して、キリスト教が社会に与えた影響について正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

フランク王国のクローヴィスが改宗したのは、アリウス派ではなくアタナシウス派のキリスト教でした。これにより、ローマ系住民(ガロ=ローマ人)の支持を得ることに成功しました。ノルマン人は後の時代に活動した人々です。

②【正】

ジョン=ボールは、14世紀のイギリスで発生したワット=タイラーの乱の指導者の一人で、聖職者でした。彼は聖書を引用して「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族であったか」と説き、身分制度を批判し農民一揆を思想的に支えました。

③【誤】

コンスタンティヌス帝は、313年のミラノ勅令によってキリスト教の信仰を公認しました。「統一法」ではありません。

④【誤】

第1回十字軍を提唱したのは、クレルモン公会議における教皇ウルバヌス2世です。ボニファティウス8世は、アナーニ事件でフランス王フィリップ4世と争った13世紀末から14世紀初頭の教皇です。

第5問

問1:正解①

<問題要旨>

下線部①のマラヤの宗主国、すなわちイギリスの東南アジアにおける歴史に関する正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

イギリスは1819年にジョホール王国からシンガポールを買収し、自由港として開発しました。ここはマラッカ海峡の要衝であり、東南アジアにおける交易・金融の拠点として発展しました。

②【誤】

イギリス東インド会社の貿易独占権が廃止されたのは1813年(対インド貿易)および1833年(対中国貿易)であり、19世紀後半ではありません。

③【誤】

清との間で公行の廃止を定めたのは、アヘン戦争の講和条約である南京条約(1842年)です。北京議定書(辛丑和約)は義和団事件の講和条約(1901年)です。

④【誤】

1932年のオタワ連邦会議では、世界恐慌への対策として、イギリス連邦内の関税を引き下げる一方、連邦外からの輸入品に高関税を課すブロック経済政策(スターリング=ブロック、ポンド=ブロック)が形成されました。廃止ではなく、確立です。

問2:正解③

<問題要旨>

1929年当時の統計表を読み解き、マラヤの主要な輸出品であったゴムの需要が高まっていた国(ア)と、その背景(③)を特定する問題です。

<選択肢>

空欄ア:マラヤとインドネシア(いずれもゴムの主要生産地)からの輸出先として大きな割合を占めている国は、当時、自動車産業の発展によりタイヤの原料であるゴムの需要が爆発的に増大していたアメリカ合衆国です(い)。

下線部③の背景:アメリカでは、フォード社がベルトコンベア方式による大量生産を導入し、T型フォードなどの自動車が普及しました(X)。これがゴムの需要を押し上げた最大の要因です。アウトバーン建設は、ドイツ(特にナチス政権下)で行われた政策です(Y)。

したがって、「い-X」の組み合わせが正しいです。

問3:正解②

<問題要旨>

表と文章を参考に、1929年当時の東南アジア各地の経済と貿易について正しく述べているものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

インドネシアの宗主国はオランダで、輸出比率は21.0%です。マラヤの宗主国はイギリスで、14.3%です。インドネシアの方が宗主国向けの割合が高いため、この記述は誤りです。

②【正】

マラヤはゴムプランテーションの労働力として多くの移民(印僑・華僑)が流入しました。表の「インドシナ」の輸出先を見ると、「マラヤ 10.8%」とあり、輸出額上位5地域の中に入っています。

③【誤】

強制栽培制度が行われたのは、オランダ領東インド(インドネシア)です。フィリピンはアメリカの植民地でした。

④【誤】

インドシナの輸出額が最大であった地域は香港(32.1%)です。香港はイギリスの植民地であり、インドシナの宗主国であるフランスの植民地ではありません。

問4:正解①

<問題要旨>

イングランドの人口統計表を読み取り、18世紀後半の人口動態の変化(イ)と、その背景にある農業の変化(ウ)を正しく組み合わせる問題です。

<選択肢>

イ:表1を見ると、「都市人口比率」は1750年の21.00%から1801年の27.50%へと上昇しています。

ウ:18世紀後半のイギリスでは、第2次囲い込み(エンクロージャー)によって農地が集約され、ノーフォーク農法などの新農法が普及する農業革命が進行しました。これにより食料生産が増大し、人口増加を支えるとともに、土地を失った農民が都市へ流入し労働者となりました。

したがって、「イー表1を見ると、都市人口比率が上昇している」と「ウー土地が囲い込まれ(第2次囲い込み)、新農法が導入された」の組み合わせが正しいです。

問5:正解①

<問題要旨>

グラフを読み解き、イギリスやアイルランドからアメリカ合衆国への移民数の変動と、その背景にある歴史的出来事を正しく結びつけている選択肢を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

1845年からアイルランドでジャガイモ飢饉が発生すると、多くの人々が食料を求めてアメリカへ移住しました。グラフを見ると、アイルランドからの移民数(点線)は1840年代後半から急激に増加しており、事実と合致します。

②【誤】

クロムウェルによるアイルランド征服は17世紀の出来事であり、19世紀のグラフとは時代が異なります。

③【誤】

アメリカの南北戦争は1861年から1865年にかけての出来事であり、1870年代初めではありません。

④【誤】

アメリカでフロンティアの消滅が宣言されたのは1890年です。グラフを見ると、その後1895年のイギリスからの移民数(実線)は、1890年よりも減少しています。

問6:正解②

<問題要旨>

下線部⑥の産業革命に関する正しい記述を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

大西洋の三角貿易は、ヨーロッパ(武器・雑貨など)、西アフリカ(奴隷)、アメリカ大陸・西インド諸島(砂糖・タバコ・綿花など)を結ぶ貿易です。茶やアヘンは主にアジアとの貿易に関連します。

②【正】

18世紀初頭、ダービー父子によって、石炭から作るコークスを用いた製鉄法が開発されました。これにより、良質な鉄の大量生産が可能になり、機械や鉄道の生産を支え、産業革命の進展に大きく貢献しました。

③【誤】

ラダイト運動(機械打ちこわし運動)は、機械化によって職を失うことを恐れた職人たちによる運動です。選挙権の拡大を目指した運動はチャーティスト運動です。

④【誤】

1833年の工場法は、主に年少者の労働時間を制限するなど、劣悪な労働条件を改善することを目的とした法律です。大気や水の汚染といった環境問題の改善を主目的としたものではありません。

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