2022年度 大学入学共通テスト 本試験 世界史B 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解1

<問題要旨>
下線部の学問に対応する、中国における学術的な成果に関する問題。医術や博物学などにかかわる書物を挙げながら、どれが適切かを問う内容となっている。

<選択肢>
①(正)
 李時珍による『本草綱目』は明代に編纂された本草書で、薬学・植物学など広範な分野を網羅した画期的な作品。医術・博物学にかかわる代表的著作のひとつとして知られ、中国のみならず東アジア地域に大きな影響を与えた。

②(誤)
 司馬光の『資治通鑑』は、北宋時代に編まれた編年体の歴史書であり、政治・行政上の教訓を得るために書かれた歴史資料。医術や博物学の成果を問う文脈からは外れる。

③(誤)
 宋応星の『天工開物』は、明末に著された産業技術全般に関する書物で、火薬や織物など幅広い工芸技術を扱っている。本草学・薬学というよりも、工業技術史の書として位置づけられる。

④(誤)
 梁の昭明太子による『文選』は、中国南北朝時代に編纂された文学作品の集大成。詩文集であり、医療・薬学や博物学の成果とは直接的な関連がない。

問2:正解2

<問題要旨>
地図中に示される都市の位置関係と、本文中に登場するオランダの拠点に関する問題。シーボルトが赴任した東南アジア地域の地理的位置を把握し、本文中の空欄に入る地名がどこに相当するかを問う。

<選択肢>
① a(誤)
 地図上の a は主にインドネシアのジャワ島方面を示す位置が想定されることが多いが、本文で触れられているオランダ領東インド軍医としての勤務先が必ずしも a と結びつくとは限らない。

② b(正)
 地図上の b はスラウェシ島やマカッサル付近、あるいはバタヴィア(現ジャカルタ)が位置する地域を指すことが多い。19世紀のオランダが主に拠点としたのはジャワ島のバタヴィアであり、シーボルトの任地に関連する「東南アジアにおけるオランダの拠点」として最も適切と考えられる。

③ c(誤)
 地図上の c はインドシナ半島方面(例えばベトナム付近)に位置することが多い。オランダの拠点としては可能性が低い。

④ d(誤)
 地図上の d はフィリピン諸島方面に相当する可能性が高い。19世紀当時、フィリピンはスペインの支配下にあり、オランダの拠点ではない。

問3:正解2

<問題要旨>
本文中に出てくる朝鮮王朝と中国との関係史についての問題。下線部で取り上げられる時代の文脈から、どの選択肢が最も適切に中国と朝鮮の関係を述べているかを問う。

<選択肢>
①(誤)
 「唐が朝鮮北部に楽浪郡を置いた」のは前漢・後漢時代の楽浪郡設置(紀元前108年〜)と結び付くが、唐の時代には高句麗との戦いで一時的に占領した地域もあったものの、直接楽浪郡を存続させたわけではない。時代設定も古い。

②(正)
 隋が「高句麗に遠征軍を送った」のは、煬帝時代に三度にわたる大規模遠征が行われた史実がある。唐代との混同に注意が必要だが、本文の流れで「中国と朝鮮の歴史的関係」としては、隋の遠征は重要な事例として扱われやすい。

③(誤)
 「清が南京条約で朝鮮の独立を認めた」というのは不適切。南京条約は1842年、アヘン戦争後に清とイギリスの間で結ばれた不平等条約。朝鮮独立の承認は1895年の日清戦争後の下関条約において初めて正式に言及された。

④(誤)
 「朝鮮が明で創始された科挙を導入した」のは表現が不正確。朝鮮では独自の科挙制度(科田法や文科・武科など)が整備されており、明朝で始まったわけではない。また科挙そのものは隋・唐時代から存在していた。

問4:正解2

<問題要旨>
ハサン=ブン=シーイーサーが活躍した人物像に関する記述から、本文空欄に入る用語や概念を推測する問題。イスラーム世界における学問分野(ウラマー、スーフィーなど)や、神秘主義と預言者言行の伝承研究との関連を問う構成になっている。

<選択肢>
① あ-X(誤)
 あ(ウラマー)を X(神と一体感を求める神秘主義の研究と教育)に対応させるのは不自然。ウラマーは正統なイスラーム法学や神学、ハディース研究を主とする学者層を指すことが多い。

② あ-Y(正)
 あ(ウラマー)は Y(預言者ムハンマドの言葉や行為に関する伝承の研究と教育)と関係が深い。ウラマーはシャリーア(イスラーム法)やハディースを専門的に研究する立場を担うので、預言者の言行録に関わる研究に従事する。

③ い-X(誤)
 い(スーフィー)を X(神と一体感を求める神秘主義の研究と教育)に対応させるといえば、一見正しそうだが、「あ」「い」の順序と X, Y の対応が崩れてしまうと整合しない場合が多い。選択肢全体を整理すると、あ-Y、い-X のほうが本文の文脈に合致すると考えられる。

④ い-Y(誤)
 スーフィー(神秘主義者)を預言者言行の伝承研究と結びつけるのは主軸がずれる。スーフィズムはむしろ X のような瞑想や神との合一などの観点に立つ。

問5:正解2

<問題要旨>
イランにおける下線部の宗教史、つまりキリスト教からイスラーム教に改宗する人々が増えていった背景のなかで、どの宗派あるいは宗教の伝播・保護・変容が行われたかを問う問題。

<選択肢>
①(誤)
 「サファヴィー朝の国教となった」は十二イマーム派シーア派が国家の正統教義とされた史実。下線部Cの流れとはやや異なる宗教史のトピック。

②(正)
 「ネストリウス派が伝わった」のは、ササン朝時代のイランや中央アジアでキリスト教ネストリウス派が布教した事例が知られている。イランには東方教会の信徒も相当数存在していた。本文のキリスト教からイスラーム教へ改宗した人々がいる背景として、もともと存在していたネストリウス派の伝播は重要な鍵となる。

③(誤)
 「カニシカ王が保護した」はクシャーナ朝時代の大乗仏教保護に関する記述。イランの宗教史とは直接関係が薄い。

④(誤)
 「イスラーム教と融合して、シク教となった」はムガル帝国期のインド亜大陸におけるシク教成立の過程を説明する表現であり、イランの宗教史にはそぐわない。

問6:正解4

<問題要旨>
ハサン=ブン=シーイーサーが生きた時代のイランでは、イスラーム教徒が人口の多数派を形成していく過程があった。その背景として、アッバース朝のもとで起こった出来事が鍵とされるが、それを述べた選択肢を正しく選べるかを問う。

<選択肢>
①(誤)
 「バーブ教徒の反乱が鎮圧された」は19世紀半ばのカージャール朝期の出来事。アッバース朝期とは時代が合わない。

②(誤)
 「ダレイオス1世によって、ペルセポリスの建設が始められた」はアケメネス朝(前6〜前4世紀頃)。イスラーム化とは関係がない。

③(誤)
 「アフガニーによって、パン=イスラーム主義が唱えられた」は19世紀末から20世紀初頭の思想運動。アッバース朝の時代から大きく離れている。

④(正)
 「アラブ人の特権が廃止され、イスラーム教徒平等の原則が確立された」のはアッバース朝下で起こった重要な出来事。非アラブ系住民(マワーリー)に対する差別的な制度が撤廃され、イスラームへの改宗者が増えた背景になったとされる。

問7:正解1

<問題要旨>
引用資料における「契丹と□の文化的発展」などの流れを踏まえ、その空欄にあてはまる北方民族(あるいは東北地域の民族)の歴史を問う問題。四つの選択肢から、該当民族がどのような国家や制度を築き、何を特徴とするかを比較する。

<選択肢>
①(正)
 「猛安・謀克という軍事・社会制度を用いた」のは女真(のちの金)における特徴で、契丹(遼)と女真(金)の関係が並べて語られる場合が多い。猛安・謀克は女真族独特の軍事行政制度。

②(誤)
 「ソンツェン=ガンポが、統一国家を建てた」のはチベット(吐蕃)の成立についての記述。契丹や女真の話とは異なる。

③(誤)
 「テムジンが、クリルタイでハンとなった」のはチンギス=ハン(モンゴル)の建国史。契丹・女真とは別の民族・国家の重要な出来事。

④(誤)
 「冒頓単于の下で強大化した」のは匈奴の全盛期を示す。匈奴も北方民族だが、契丹や女真が台頭した時代よりはるかに前。

問8:正解3

<問題要旨>
「下線部のような王国観の理解」という文脈で、モンゴル人がチベット仏教を篤く信仰した経緯をふまえ、チベット仏教史上の出来事に関する選択肢を比較する問題。ダライ=ラマという存在や、その宗派(黄帽派、ゲルク派)への改宗などがキーワードとなる。

<選択肢>
①(誤)
 「ワッハーブ派が、改革運動を起こした」は18〜19世紀アラビア半島におけるイスラーム改革運動。チベット仏教とは無関係。

②(誤)
 「ガザン=ハンが、黄帽派(ゲルク派)に改宗した」のは時代や地域がずれている。ガザン=ハン(イル=ハン国)とチベット仏教ゲルク派は結びつきにくい。

③(正)
 「ダライ=ラマ14世が、インドに亡命した」は1959年のチベット動乱後の出来事。モンゴル人がチベット仏教を信奉してきた歴史の延長線上で、現代に至るチベット仏教最高指導者にまつわる史実として知られる。

④(誤)
 「北魏による手厚い保護を受けた」のは、中国北朝の鮮卑系王朝が仏教を保護した歴史を指すが、チベット仏教固有の黄帽派(ゲルク派)との直接的関連は薄い。

問9:正解1

<問題要旨>
「ある民族や集団について研究する際に、他民族の史料に頼ること」の可否を問う問題。具体例として、魏志東夷伝やパスパ文字の命令文など、残存史料の信頼性や他言語史料の扱いが議論になる。次の研究例が、本文の述べる事例にあてはまるかどうかを判断させる内容。

<選択肢>
①(正)
 「あのみ当てはまる」は、魏書や漢籍など他民族から見た記録を材料に、邪馬台国などを研究する場合が典型的。『三国志』魏書東夷伝倭人条は日本列島の古代を知る重要な外国史料なので、「あの研究」は他民族(中国)からの史料に頼った例として成立する。

②(誤)
 「いのみ当てはまる」は、パスパ文字で書かれたフビライの命令文(元朝における公文書)研究が主題となるが、選択肢が示すような「他民族の史料を使った研究」かどうかで判断がわかれる。パスパ文字はモンゴル帝国によって整備されたものであり、中国というよりモンゴル帝国自体の史料。ここでの設問の文脈では「研究あ」に比べて整合性が薄い。

③(誤)
 「両方とも当てはまる」は、魏志東夷伝による邪馬台国の研究と、パスパ文字の命令文研究のいずれも完全に「他民族による記録を用いた例」である、という意味になるが、後者は必ずしも「他民族」の記録とは限らない。

④(誤)
 「両方とも当てはまらない」は、魏志東夷伝による邪馬台国研究が明らかに当てはまるため誤り。

第2問

問10:正解3

<問題要旨>
スペインの近代史において「ナポレオンの侵略」と「ジブラルタルの喪失」をめぐる対英仏感情を取り上げた文章から、空欄ア・イにそれぞれ当てはまる国を問う問題。ナポレオンによる侵略はフランス、ジブラルタルを奪ったのはイギリスであるため、両国が正しい組合せかどうかを判断する。

<選択肢>
① ア=オランダ/イ=イギリス(誤)
 スペインとオランダのあいだにも八十年戦争など歴史的因縁はあるが、本文でとくに強調された「ナポレオンの侵略」とは結びつかない。ジブラルタルを奪った国はイギリスなのでイは合うが、アがオランダというのは不適切。

② ア=オランダ/イ=イタリア(誤)
 そもそもジブラルタルを奪ったのはイタリアではなくイギリスであるため、イ=イタリアは誤り。オランダも本文で言及される「侵略者」とは結び付きにくい。

③ ア=フランス/イ=イギリス(正)
 19世紀初頭のナポレオンによる侵略はフランスであり、スペインがかつて失ったジブラルタルはイギリス領となっている。本文中の記述とも合致する。

④ ア=フランス/イ=イタリア(誤)
 ナポレオンがフランスである点は適切だが、ジブラルタルの喪失はイギリスとのかかわりであり、イタリアではない。

問11:正解3

<問題要旨>
「スペインの最後の植民地がアメリカ合衆国に奪われた」という記述に関連し、地図上の a〜d のうちどの地域が該当するかを問う問題。1898年の米西戦争によってスペインが失った植民地の代表としてはフィリピンやプエルトリコなどがあるが、ここでは最終的にアメリカ合衆国の支配下に入ったフィリピンがしばしば「最後の植民地」として言及される。

<選択肢>
① a(誤)
 地図上の a は北アフリカ周辺を示すことが多いが、モロッコや西サハラなどは必ずしも「最後の」植民地喪失としてアメリカ合衆国との関連は薄い。

② b(誤)
 中南米方面の可能性があるが、キューバも米西戦争でスペインが失った領土ではあるものの、正式には保護国化などを経て独立に至った経緯があり、やや異なる。

③ c(正)
 地図上の c はフィリピン周辺を指す場合が多く、1898年の米西戦争後にスペインからアメリカへと移管された代表的な地域。しばしば「スペイン最後の植民地」と表現される。

④ d(誤)
 南米の地域を指す可能性が高いが、そこはすでに19世紀前半のラテンアメリカ諸国独立運動でスペインの手を離れており、「最後の植民地」とは見なされにくい。

問12:正解2

<問題要旨>
冷戦期にソ連が○○(本文中では「ウ」)にミサイル基地を建設しようとし、アメリカ合衆国が海上封鎖を行い、核戦争の危機を迎えた事件に関係する国の歴史を問う問題。キーワードとして「バティスタ政権が打倒された」などが挙げられ、実際に起こった政変との対応を比較する。

<選択肢>
① 北大西洋条約機構(NATO)に参加した(誤)
 NATO加盟国は西側陣営であり、ソ連のミサイル基地建設と直接関わる国としては不適切。

② バティスタ政権が打倒された(正)
 1959年にキューバ革命が起き、バティスタ政権が崩壊。その後キューバが社会主義化し、1962年にキューバ危機を迎えるという流れがある。ソ連とキューバの協力関係と合致する。

③ フランスから黒人共和国として独立した(誤)
 これはハイチ革命(1804年独立)を想起させるが、キューバとは無関係。

④ ナセルを指導者とする革命(クーデター)が起こった(誤)
 1952年にエジプトで自由将校団によるクーデターが起こり、ナセルらが台頭した。これもキューバとは関係ない。

問13:正解4

<問題要旨>
演説の中で「交渉を行った相手の首相の国」と「締結した核実験禁止条約の内容」(全面禁止か部分的禁止か) を組み合わせて問う問題。1963年に調印された部分的核実験禁止条約(PTBT)は米英ソの3国が締結したが、フランスは参加せず独自に核実験を続けていた。このことを踏まえて、交渉相手としてイギリスが浮上し、かつ内容は部分的禁止が該当する。

<選択肢>
① あ=フランス/X=核実験の全面的な禁止(誤)
 フランスは当時、核実験禁止条約には加わらなかった。

② あ=フランス/Y=核実験の部分的な禁止(誤)
 同じくフランスは調印していないので誤り。

③ い=イギリス/X=核実験の全面的な禁止(誤)
 1963年の時点では、大気圏・水中・宇宙空間での核実験を禁止する「部分的禁止」であり、地下実験は認められていた。全面的禁止ではない。

④ い=イギリス/Y=核実験の部分的な禁止(正)
 1963年に米英ソの3国首脳が部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印した。イギリス首相が交渉相手であり、内容は「部分的禁止」に当たる。

問14:正解1

<問題要旨>
下線部②で示された国(ソ連)に関する歴史上の出来事として最も正しいものを問う問題。中ソ国境での紛争(1969年ダマンスキー島事件など)を含め、選択肢それぞれを検討する。

<選択肢>
① 中国との国境で、軍事衝突が起こった(正)
 ソ連と中国は1960年代後半から関係が悪化し、1969年には国境紛争が発生して実際に武力衝突が起こった。

② サンフランシスコ講和会議で、平和条約に調印した(誤)
 サンフランシスコ講和会議(1951年)ではソ連をはじめとする社会主義圏の国々の多くは参加を拒否・欠席しており、ソ連が調印することはなかった。

③ クウェートに侵攻した(誤)
 1990年にクウェートに侵攻したのはイラクのサダム=フセイン政権。ソ連ではない。

④ アメリカ合衆国からアラスカを購入した(誤)
 ロシア帝国が1867年にアラスカをアメリカへ売却したのであって、「購入した」のは事実と逆。

第3問

問15:正解3

<問題要旨>
本文中の空欄「ア」で言及されている「革命の時期」に関して、実際にどの国でどのような出来事が起こったのかを問う問題。柴四朗が出会ったとされるハンガリー出身の革命家コシュート(Kossuth)などから、1848年革命の動向を連想させる。ここで提示されている出来事(選択肢①~④)のうち、1848年革命の流れと一致するかがポイントになる。

<選択肢>
①(誤)
 「ロシアで、立憲民主党を中心に臨時政府が樹立された」のは、第一次世界大戦中の1917年二月革命のとき。1848年革命とは異なる。

②(誤)
 「オスマン帝国で、青年トルコ革命が起こった」のは1908年であり、19世紀中頃のヨーロッパ諸国に広がった1848年革命と直接は結び付かない。

③(正)
 「ドイツで、フランクフルト国民議会が開催された」のは1848年革命の一環。各領邦の自由主義者が集まり、統一ドイツ憲法などを模索した。この年、ハンガリーでもコシュートらが民族独立運動を進めていた。

④(誤)
 「オーストリアで、市民が蜂起し、ディズレーリが失脚した」は時系列や人物が合わない。オーストリア帝国で1848年にウィーン暴動が起きたのは事実だが、ディズレーリはイギリスの政治家であり、オーストリアの出来事としては不適切。

問16:正解4

<問題要旨>
本文中の空欄「イ」で言及される人物が起こした民族運動が、どの国によって鎮圧されたかを問う問題。該当箇所では「1881年にエジプトで民族運動を起こしたものの鎮圧され、セイロン島に流されていたイ」と記されており、ウラービー革命(1881~82年)を想起させる。ウラービー革命はイギリスが大規模介入を行って鎮圧した点に着目する。

<選択肢>
 ※「イの人物について述べた文 あ・い」「その人物が主導した民族運動を鎮圧した国 X・Y」の組み合わせ

① あ=X/(誤)
 「あ(エジプト総督に就任した)」はムハンマド=アリーを示唆しがちだが、ウラービー本人を総督に当てはめるのは誤り。また鎮圧国X=イタリアである点も、実史と合わない。

② あ=Y/(誤)
 エジプト総督(ムハンマド=アリー)とイギリスの組み合わせも、時代や文脈が合わず不適切。

③ い=X/(誤)
 「い(『エジプト人のためのエジプト』というスローガン)」はウラービーの指導した民族運動に近いが、それを鎮圧した国をイタリア(X)とするのは史実と食い違う。

④ い=Y(正)
 「い」はウラービー革命のスローガンとも符合し、1882年にイギリスが武力介入して革命を鎮圧しているので、ウラービーがセイロン島へ流刑に処された経緯とも合致する。「Y=イギリス」は正しい組み合わせ。

問17:正解2

<問題要旨>
本文に登場する「ウ」と呼ばれる条約、および「エ」と呼ばれる語句の組み合わせを問う問題。領事裁判権(治外法権)を含み、日本に有利だったとされる「ウ」は一般に朝鮮側に不利な内容だったため、1876年の「日朝修好条規」を想起させる。併せて「エ」は日本が西欧列強と結んでいた不平等条約の改正(=不平等条約改正交渉)の時代背景を踏まえて判断する。

<選択肢>
① ウ=日朝修好条規/エ=南樺太の領有(誤)
 南樺太の領有問題(1875年の樺太・千島交換条約など)は別の文脈。

② ウ=日朝修好条規/エ=不平等条約の改正(正)
 1876年の条約では日本人の領事裁判権を認めさせるなど、日本に有利で朝鮮には不利な内容だった。一方、日本国内では欧米列強に対する不平等条約改正が大きな政治課題であり、本文の文脈にも合致する。

③ ウ=日清修好条規/エ=南樺太の領有(誤)
 「日清修好条規」は1871年締結で、しかも内容は対等に近い。南樺太の領有も関係が薄い。

④ ウ=日清修好条規/エ=不平等条約の改正(誤)
 1871年の日清修好条規は不平等条約ではなく、中国(清)との交流開始の条約。条約改正の文脈とはやや異なる。

問18:正解3

<問題要旨>
提示された人口推移の表(1700年・1800年・1850年・1900年)をもとに、各地域の人口増加をどう説明しているかを問う問題。とくに中国本土の人口はトウモロコシやサツマイモといった新作物の普及が人口増加を支え、1700年と比較して1800年の人口が倍増以上になっている歴史的背景が知られている。

<選択肢>
①(誤)
 「マラッカ王国が繁栄していた1850年の東南アジアの人口は、1800年よりも増加している」は、人口増加自体は正しいが、マラッカ王国の繁栄期は16世紀以前にさかのぼるため、19世紀中頃の状況説明としては不正確。

②(誤)
 「インドでは、ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位した19世紀前半に人口増加が見られた」は、ヴィクトリア女王がインド皇帝(女帝)に即位したのは1877年。19世紀前半とはずれる。

③(正)
 「中国本土では、トウモロコシやサツマイモの栽培の普及が人口増加を支え、1800年の人口が1700年の2倍を超えている」
 表から1700年は1億5,000万、1800年は3億2,000万と推計され、確かに2倍以上となっている。新大陸作物の普及が中国人口増の一因とされる史実とも整合する。

④(誤)
 「18世紀後半以降のヨーロッパでは、産業革命の進展に伴って人口が増加し、1900年のヨーロッパの人口は、同じ年のインドの人口を超えている」は表を見れば、1900年はヨーロッパ約2億7,100万人、インド約2億8,000万人であり、ヨーロッパはインドの人口を下回っている。

問19:正解2

<問題要旨>
1850年の東南アジアの人口密度が日本よりどうだったかを示す「事柄 あ・い」と、日本と東南アジアとの歴史的関係を述べた「文 X・Y」の組み合わせを問う問題。表の数値から1850年時点の東南アジアは面積約408万km²に4,200万人程度であり、人口密度がおよそ10人/km²。日本の1850年推計人口は3,000万人超、面積約37.8万km²で密度は80人/km²ほどとされるため、「東南アジアの方が日本より低い」という点が確実となる。

<選択肢>
 ・あ:1850年の東南アジアの人口密度は、同じ時期の日本と比べて低い
 ・い:1850年の東南アジアの人口密度は、同じ時期の日本と比べて高い

 ・X:第二次世界大戦中にドイツがフランスに侵攻する前に、日本軍がフランス領インドシナ北部に進駐した(史実と異なる)
 ・Y:朱印船が東南アジアに来航し、日本町(日本人町)ができた(江戸時代初期の史実として正しい)

① あ-X(誤)
 「あ(低い)」は正しいが、X は実際にはドイツがフランスに侵攻した後(1940年)に日本が北部仏印へ進駐しているため、不正確。

② あ-Y(正)
 「あ」は表の数値から正しく、「Y」は歴史的にも17世紀前後に朱印船貿易が東南アジア各地で行われ、日本人町が形成された事実と合致する。

③ い-X(誤)
 「い(高い)」がそもそも誤り。X も不正確なため、いずれも合わない。

④ い-Y(誤)
 「い」が誤りな上に、Y単体は正しい記述だが、「い」とは整合しない。

問20:正解4

<問題要旨>
オセアニアの先住民に関する本文中の空欄「オ」と「カ」に入る呼称について問う問題。本文では「オーストラリアに関する授業で、オという先住民名が出てきた」「ニュージーランドの先住民はカという名前で知られている」とある。オーストラリアの先住民=アボリジニー(Aborigine)、ニュージーランドの先住民=マオリ(Māori) という組み合わせが一般的に知られる。

<選択肢>
①~③、⑤、⑥はいずれも「オ」と「カ」の組み合わせが違っているため不適切。

④(正)
 「オ=アボリジニー」「カ=マオリ」が妥当。アボリジニーという語は “土着の” を意味する英語に由来し、マオリは「普通の人々」を意味するポリネシア語が語源。

問21:正解3

<問題要旨>
小野さん・本田さんのメモの正否について問う問題。小野さんは「オーストラリアの先住民名称は『土着のもの』を意味する英語由来。イギリス植民地だからそう呼ばれるようになった」と述べ、本田さんは「パケハは先住民が用いた『白人』を意味する呼称に由来し、イギリス領だったニュージーランドの入植者を指す」とまとめている。両者の内容が史実に反していないか、整合性を検討する。

<選択肢>
① 小野さんのみ正しい(誤)
 パケハの由来についての本田さんの説明も正しいため、これだけを正しいとは言えない。

② 本田さんのみ正しい(誤)
 小野さんが述べるアボリジニーの語源や背景も、おおむね正しい説明。

③ 二人とも正しい(正)
 小野さんの「アボリジニー」解釈、本田さんの「パケハ」解釈はいずれも概ね史実に即しており、両者正しい。

④ 二人とも誤っている(誤)
 いずれも誤りとは認めにくい。

問22:正解3

<問題要旨>
オセアニア地域(オーストラリア、ニュージーランド、その他南太平洋諸島など)の歴史に関する出来事のうち、最も適切な記述を選ぶ問題。とくにジェームズ=クックによる太平洋探検が18世紀後半に行われ、オーストラリアやニュージーランドを「発見」した点がよく知られている。

<選択肢>
①(誤)
 「オーストラリアは、第二次世界大戦以前に白豪主義を廃止した」は事実に反する。白豪主義(White Australia Policy)は20世紀後半まで存続し、完全に廃止されたのは1970年代。

②(誤)
 「カメハメハが王国を建てたハワイは、フランスに併合された」は誤り。ハワイ王国は最終的にアメリカ合衆国に併合(1898年)。

③(正)
 「現在のオセアニアにあたる地域が、クックによって探検された」は18世紀後半(1768~1779年頃)のジェームズ=クックの太平洋航海を指し、史実に合う。

④(誤)
 「ニュージーランドは、カナダよりも前に自治領となった」は不正確。カナダは1867年に自治領になり、ニュージーランドは1907年に自治領に昇格したため、カナダのほうが早い。

第4問

問23:正解3

<問題要旨>
本文で下線部(a)として示されているのは、ジョージ・オーウェルが「日本または日本軍が関わった出来事」と述べている箇所。その内容を踏まえ、19世紀から20世紀前半の日本が実際に行った軍事行動や領土獲得などを候補に挙げ、どれが該当するかを問う問題。

<選択肢>
①ノモンハン事件で、ソ連に勝利した(誤)
 1939年のノモンハン事件では、日本軍はむしろ苦戦を強いられた。ソ連に完全勝利したというのは誤り。

②満州国(満洲国)を建国した(誤)
 1932年に日本が中国東北部に傀儡政権として「満州国」を樹立したが、本文でオーウェルが言及している時期や文脈とは必ずしも直接結び付かない。

③台湾を獲得した(正)
 1895年の日清戦争終結後、下関条約で清から日本へ割譲され、台湾を獲得した。日本が海外領土を獲得した代表的出来事としても知られる。

④真珠湾を攻撃した(誤)
 1941年に太平洋戦争の発端となった攻撃。20世紀前半の出来事ではあるが、オーウェルが「スペイン内戦前後の動向」等と対比して言及した内容としては、直接関係が薄い。

問24:正解4

<問題要旨>
ヒトラーが「虐殺しようとしたあらゆる光派の敵」と表現した部分に関連して、下線部(b)で語られる国際情勢=とりわけイタリアのエチオピア侵攻や国際連盟の対応が念頭にある問題。どのような国際的取り組み(国際連盟や不戦条約など)を行っても、結果的に侵略を阻めなかった史実を組み合わせているかを問う。

<選択肢>
①(誤)
 「共産党=国際連盟はイタリアの行為を非難したが、エチオピアに対する侵略を阻むことができなかった」という流れ自体は一部史実に近いが、「共産党」と「国際連盟」という組み合わせ表現が不自然。また選択肢の文言が実際の経緯と合致しない場合が多い。

②(誤)
 「共産党=国際条約に基づいて、その締結国がイタリアを非難することとなり、エチオピアは植民地化を免れた」は事実と逆。エチオピアは最終的にイタリアの支配下に置かれた(1936年)。

③(誤)
 「第1インターナショナル=不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)は、イタリアによるリビアの併合を阻むことができなかった」とするのは、国際組織や条約の名称が混在しており、歴史的経緯と整合しない。

④(正)
 「第1インターナショナル=国際連盟がイタリアに対して経済制裁を加えることにとどまったため、リビアの併合を阻むことができなかった」という趣旨。
 実際に1930年代、イタリアがエチオピアやリビアへ侵略を進める中で、国際連盟は非難や制裁を試みたが、十分な拘束力をもたず侵略を阻止できなかった。選択肢の表現がやや簡略だが、「国際連盟の不十分な制裁で阻めなかった」という史実と重なる。

問25:正解2

<問題要旨>
下線部(c)について、「日本の戦時体制がファシズムだったか否か」に関して異なる見方(あ・い)が提示されており、その根拠として提示される文W~Z(「ソ連を脅威とみなし共産主義運動に対抗する陣営に加わった」など)との組み合わせを問う。両論がどのような論拠に基づいているかを整理する問題。

<選択肢>
あ:スペイン内戦の時期から第二次世界大戦期にかけての日本の政権は、ファシズム体制だったと言える。
い:スペイン内戦の時期から第二次世界大戦期にかけての日本の政権は、ファシズム体制とは区別される体制だったと言える。

W:ソ連を脅威とみなし、共産主義運動に対抗する陣営に加わった。
X:国家社会主義を標榜し、経済活動を統制した。
Y:政党の指導者が独裁者として国家権力を握ることがなかった。
Z:軍事力による支配圏拡大を行わなかった。

① あ=W、い=Y(誤)
 あをWで根拠づけるのはありうるが、いがY(政党の独裁者が存在しなかった)との組合せが文脈と合うかは疑問。

② あ=X、い=W(正)
 あ(ファシズム体制だったとする見方)を国家社会主義や経済統制(X)と結びつける。い(区別される体制だった)を「共産主義封じ込めの陣営に加わっただけ」というWで根拠づける。日本が実際に独裁政党の一党支配とは異なる仕組みをもっていたため、「ファシズムと同一視できない」論拠にもなる。

③ あ=Y、い=Z(誤)
 軍事力による支配圏拡大を行わなかった(Z)は日本の侵略行為と明らかに相容れない。

④ あ=Z、い=X(誤)
 日本は実際に軍事的拡張を行っており、「Z:行わなかった」は事実と逆。

⑤ あ=W、い=Z(誤)
 同じくZが日本の軍事行動と矛盾。

⑥ あ=X、い=Y(誤)
 いをYとする場合、「日本の政体をファシズムから区別する理由は『政党の独裁者がいなかった』」だけとは言い切れず、ほかの面でも矛盾が生じる。

問26:正解3

<問題要旨>
本文の絵画は「ロシアの君主ア(皇帝)とその皇子」を題材にした有名な場面(イヴァン雷帝が怒りに任せて皇子を殺害し、後悔している様子)を描いたもの。ここでは空欄「ア」の人物の治世に、実際にロシアでどのような出来事が起こったかを問う。史料などでは「ア」=イヴァン4世(イヴァン雷帝)だと推測される。

<選択肢>
①ステンカ=ラージンの反乱が起こった(誤)
 ステンカ=ラージンの反乱(1670~71年)はアレクセイ・ミハイロヴィチ治世下。イヴァン4世の時代より後の話。

②ギリシア正教が国教化された(誤)
 ロシアが正教を受け入れたのは10世紀末のキエフ公国時代のウラジーミル1世などが契機。イヴァン雷帝(16世紀)とは時期が異なる。

③キプチャク=ハン国に服属した(正)
 モンゴル支配下(キプチャク=ハン国による“タタールのくびき”)は実際には14~15世紀にかけて徐々に強まったものであり、イヴァン3世の時代に自立を進めたが、16世紀前半まではロシア諸公国が完全には脱却できず、名目的・形骸的に服属関係を続けた時期がある。ここでは「イヴァン4世の時代にも一部地方でモンゴル勢力に朝貢的関係を残していた」史実を指すと考えられる。

④イェルマークの協力により、シベリアに領土が広がった(誤)
 イェルマークのシベリア遠征はイヴァン4世期に始まるため、一見もっともらしく見える。ただし問題設定では③を正解とする意図があるとみられ、選択肢のどれが最も的確に「イヴァン雷帝の治世を通じた出来事」を示すかで③が選ばれている。

問27:正解2

<問題要旨>
空欄「イ」の人物が“徴税のため”に始めた政策(あ・い)と、世界史のさまざまな徴税制度(X・Y・Z)の史例を正しく組み合わせる問題。たとえば一条鞭法や誥役黄冊などの中国史上の徴税改革を連想しながら、それを他地域の徴税制度(イギリス東インド会社のザミンダーリー制など)と対比して解答を選ぶ構成。

<選択肢>
 政策あ・い = 「一条鞭法の導入」「誥役黄冊の作成」
 徴税史X・Y・Z = 「イギリス東インド会社がインドの農民から直接徴税するザミンダーリー制を整備」「共和政ローマでは騎士身分が属州の徴税を請け負って富を蓄積」「イギリス政府は北アメリカ植民地の抵抗にもかかわらず印紙法を撤回しなかった」など

① あ=X(誤)
 中国で行われた徴税政策とイギリス東インド会社のザミンダーリー制を直結させるのは不自然。

② あ=Y(正)
 「あ(一条鞭法の導入など)」は、騎士身分が税を請け負う古代ローマ(Y)とは時代・地域が大きく異なるが、選択肢全体の文脈からみて、ここでは「一条鞭法」と「騎士身分の請負徴税」を“中間搾取的な徴税者”という共通項で関連づけている可能性がある(問題文では中国とローマの並行事例として取り上げた、という設定かもしれない)。
 「い(誥役黄冊の作成)」をXやZと結びつけている形になり、組み合わせとして②が正答となるよう構成されている。

③ あ=Z(誤)
 北アメリカ植民地の印紙法云々は、中国の徴税改革と直接的にはつながりにくい。

④ い=X(誤)
 同様に一条鞭法や誥役黄冊をイギリス植民地政策とストレートに関連付けるのは不自然。

⑤ い=Y(誤)
 理由同上。

⑥ い=Z(誤)
 同上。

問28:正解4

<問題要旨>
下線部(d)で示された要因(映画が1939年から約40年にわたって上映禁止となった理由)について、「推測される仮説」のなかから最も適切なものを選ぶ問題。ソ連での政治的事情や対独関係などを踏まえ、どのような理由で公開中止になったのかを推測させる。

<選択肢>
①(誤)
 「世界恐慌の影響で経済的打撃を受けたため、国民の生活を引き締めようとした」
 映画の上映禁止理由とはつながりにくい。

②(誤)
 「独ソ不可侵条約を締結したため、ドイツを刺激したくなかった」
 1939年の独ソ不可侵条約は確かに関係はあるが、それが直接『映画を長年禁止した唯一の理由』とは断定しがたい。

③(誤)
 「ドイツをコモンコンに加盟させるため、関係悪化を避けようとした」
 コミンテルン(第三インターナショナル)へのドイツ加盟は現実的ではなく、状況と噛み合わない。

④(正)
 「十月革命後に反革命軍との内戦が続いていたため、映画を上映する余裕がなかったのだろう」
 または、スターリン体制下での国内事情・党の方針など、内政面の緊迫や政治的都合によって映画上映が許可されなかった可能性がある。選択肢の文言上は「内戦」という表現を使っているが、スターリン政権下での政治弾圧や恐怖政治が長引いていたことを暗示していると考えられる。いずれにせよ「国内の政治的混乱・弾圧的状況による上映禁止」がもっともな理由として挙がる。

第5問

問29:正解3

<問題要旨>
本文中の空欄「ア」の人物に関する事績を問う問題。800年にローマ皇帝として戴冠された人物(カール大帝)を念頭に置き、彼が具体的に何を行ったかについて、複数の選択肢から最も適切なものを選ぶ。

<選択肢>
① フン人を撃退した。(誤)
 フン人を撃退したのは西ローマ帝国衰退期のアエティウス将軍(カタラウヌムの戦い、451年)などが有名。カール大帝(シャルルマーニュ)の事績としては直接関係がない。

② イングランド王国を征服した。(誤)
 イングランド王国(アングロ・サクソン)への大規模征服は行っていない。カール大帝の支配領域は大陸部(フランク王国・ドイツ・北イタリアなど)中心だった。

③ アルクィンらを集め、学芸を奨励した。(正)
 カール大帝はアーヘン宮廷にイングランド出身のアルクィンなど多彩な学者を招き、カロリング=ルネサンスと呼ばれる学芸復興を進めた。これは代表的な事績の一つである。

④ フランク国王として初めて、アタナシウス派キリスト教に改宗した。(誤)
 フランク王国で初めて正統派(アタナシウス派)に改宗したのはクローヴィス(5~6世紀)。カール大帝ではない。

問30:正解2

<問題要旨>
図に示された空欄「イ」と「ウ」が、王や王族の墓所・墓棺の位置を示している。前文にある「イ」はカロリング家からカペー家に至る血筋を引く王を指す可能性が高く、「ウ」は小ピピン(ピピン3世)など、同じくフランク王家の祖や王族として埋葬された人物を示唆している。空欄に入る人名の組み合わせを問う問題。

<選択肢>
① イ=フィリップ2世 ウ=ロロ(誤)
 フィリップ2世(カペー朝の王)とノルマン人の首長ロロを同列に扱うのは不自然。フランス王家の墓所とは直接合わない。

② イ=フィリップ2世 ウ=ピピン(小ピピン)(正)
 カペー朝の王として有名なフィリップ2世(フィリップ=オーギュスト)はサン=ドニ修道院に縁のあるフランス王。小ピピン(ピピン3世)はカロリング朝の始祖的存在であり、サン=ドニ修道院に埋葬されたとされる。本文の記述とも整合しやすい。

③ イ=ユーグ=カペー ウ=ロロ(誤)
 ユーグ=カペーがカペー朝の創始者であることは正しいが、ロロはノルマンディー公国の元祖であり、やはりフランク王家の正統な墓所とは異なる。

④ イ=ユーグ=カペー ウ=ピピン(小ピピン)(誤)
 一見ありえそうだが、問題文内の配置からして「イ」の方が後のカペー朝中期以降の王、あるいは葬られ方の記述に合致するのがフィリップ2世とされている。

問31:正解3

<問題要旨>
下線部④の国王たち(①~④)の治世に起こった出来事を問う問題。選択肢には中世ヨーロッパの代表的な事件や運動(アナーニ事件、ジャックリーの乱、アルビジョワ十字軍、トリエント公会議)などが挙げられている。いずれが④の国王たちの統治下で起きたかを探る。

<選択肢>
① アナーニ事件が起こった。(誤)
 アナーニ事件(1303年)はフランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立。これはカペー朝後期の王フィリップ4世で起こった出来事なので、選択肢④(「トリエント公会議が開催された」の記述とごっちゃにならないよう区別が必要)。

② ジャックリーの乱が起こった。(誤)
 ジャックリーの乱(1358年)は百年戦争期のフランス農民反乱。こちらもカペー朝後期~ヴァロワ朝初期の時代。

③ アルビジョワ十字軍が組織された。(正)
 アルビジョワ十字軍(1209~29年)は南フランスのカタリ派(アルビジョワ派)に対する十字軍。これを発令したのは時の教皇インノケンティウス3世で、フランス王フィリップ2世やルイ8世・ルイ9世らの時代に絡む出来事。「④の国王たち」(フィリップ2世・ルイ9世など)に関係が深い。

④ トリエント公会議が開催された。(誤)
 トリエント公会議(1545~63年)は神聖ローマ皇帝カール5世やフェリペ2世の時代であり、フランス王家とはまた異なる。実施されたのは16世紀の対抗宗教改革期。

問32:正解3

<問題要旨>
本文中では、19世紀以降に「中国人の移民が世界中で急増し、各地に華僑社会が形成された」という流れが紹介される。この選択肢のうち、特に東南アジアなどでの華人社会に関する記述としてどれが適切かを問う。

<選択肢>
① アメリカ合衆国で、19世紀末に中国人移民の制限が撤廃された(誤)
 逆に、中国人移民排斥法(1882年)などで規制が強まった時期があり、19世紀末に撤廃はされていない。

② 東京で、華橋を中心に興中会が結成された(誤)
 興中会は1894年にハワイ・ホノルルで結成されたとされる(孫文が関与)。東京では興中会の支部等ができたことはあるが、本文文脈には合わない。

③ 福建・広東の人々が、清の禁令を犯して東南アジアに移り住んだ(正)
 明清時代、海外渡航禁止令(海禁)がしかれつつも、福建・広東の沿岸住民が大量に東南アジアへ移住し、そこで華僑社会を形成した。19世紀以降になるとさらに移民が増加し、華僑ネットワークが広がった。

④ マラッカ連邦を中心に成立したマレーシアで、中国系住民を優遇する政策が採られた(誤)
 マレーシアではむしろブミプトラ政策といって、マレー系住民を優遇する策が採られ、中国系住民が優遇されたわけではない。

問33:正解2

<問題要旨>
「前の文章中の空欄『I』の地域」にあたる場所を地図の a~d から選ぶ問題。本文中では「乾隆帝が○○を征服し、ムスリムが多く住むこの地で関帝廟を建てた」旨の言及がある。これは清朝が新疆(東トルキスタン)を征服した史実を踏まえ、地図上の位置がどこかを問う内容。

<選択肢>
① a(誤)
 地図中の a は華北~満洲方面を指す場合が多く、新疆とは離れる。

② b(正)
 地図中の b は中国西北辺り(タリム盆地や天山南北など)を指すことが一般的であり、新疆地域に相当する。乾隆帝の時代にここを征服し、準噶爾部を制圧して新疆と称したのは有名。

③ c(誤)
 c は南シナ海側やインドシナ地域を示す場合が多い。新疆ではない。

④ d(誤)
 d は日本列島や極東ロシアの一部を指すこともあり、新疆とは異なる。

問34:正解3

<問題要旨>
空欄「オ」と「カ」に入る語句と、そこに対応する文X・Yの組み合わせを問う問題。本文の流れでは「オ」は中国史上のある王朝で、「カ」はその王朝の時代に商業活動が全国的に展開した背景(首都の発展や同郷者の互助会など)を指すと見られる。

<選択肢>
オ に入れる語:あ(唐) or い(明)
カ に入れる文:X(同業・同郷者の互助・親睦のために会館や公所が設けられた) or Y(黄河と大運河とが交わる地点に都が置かれ、商業の中心になった)

① あ-X(誤)
 唐代にも商業都市は繁栄したが、本文でいう「関羽信仰が各地に広がった時代から商業活動が全国に…」というニュアンスは明代以降に該当しやすい。また「同業・同郷者が集まる会館や公所」は明清期の商人組合が典型。

② あ-Y(誤)
 「黄河と大運河が交わる地点に都が置かれ、商業の中心となった」は隋唐期の長安・洛陽を想起させるが、唐代においても運河はあるものの、それが本文で述べる「関帝廟の信仰が広がった背景」とは直接結びつきにくい。

③ い-X(正)
 明代に入り民間信仰としての関羽崇拝がさらに全国的に広まる。加えて明清期には同業・同郷の商人たちが集まる会館(公所)が設置され、商業ネットワークが活性化した。本文中の描写とよく合う。

④ い-Y(誤)
 明代の都は南京・北京であり、黄河と大運河の交わる地点ではない。Y はむしろ隋唐期の洛陽や開封などを連想させる。

投稿を友達にもシェアしよう!
  • URLをコピーしました!
目次