2022年度 大学入学共通テスト 本試験 世界史B 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解①

<問題要旨>

リード文の「解剖学、植物学・薬学」 といった学問分野に対応する、中国での成果を特定する問題です。

<選択肢>

①【正】

李時珍は明代の学者で、『本草綱目』を著しました。これは薬物(薬草など)に関する総合的な書物(本草学)であり、「植物学」や「薬学」の成果に該当します。

②【誤】

司馬光は北宋の歴史家で、『資治通鑑』を著しました。これは編年体の歴史書であり、学問分野が異なります。

③【誤】

宋応星は明末清初の学者で、『天工開物』を著しました。これは農業や手工業などの産業技術を解説した書物であり、学問分野が異なります。

④【誤】

梁の昭明太子は、詩文集『文選』を編纂しました。これは文学作品であり、学問分野が異なります。

問2:正解②

<問題要旨>

シーボルトが日本に来る前に滞在したオランダの東南アジアにおける拠点(空欄ア) の地理的位置を特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

aはタイのバンコク周辺を指します。

②【正】

オランダの東南アジアにおける拠点は、ジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)でした。地図中のbはバタヴィアの位置と一致します。

③【誤】

cは中国南部の広州周辺を指します。

④【誤】

dはフィリピン諸島のルソン島を指します。

問3:正解②

<問題要旨>

下線部「朝鮮王朝(李朝)」 に関連して、中国と朝鮮半島との関係史について問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

朝鮮北部に楽浪郡などの郡を設置したのは、前漢の武帝です。唐ではありません。

②【正】

隋の第2代皇帝煬帝は、高句麗が隋への服属を拒否したため、3度にわたり大規模な遠征軍を送りましたが、失敗に終わりました。

③【誤】

清が南京条約(1842年)で独立を認めたのは朝鮮ではありません。(南京条約はアヘン戦争の講和条約です)。清が朝鮮の独立を認めたのは、日清戦争後の下関条約(1895年)においてです。

④【誤】

科挙は隋で創始(確立)された制度です。朝鮮半島では高麗時代に導入されました。明代に創始されたものではありません。

問4:正解②

<問題要旨>

資料を読み解き、9世紀のイスラーム学者ハサン=ブン=イーサーが分類される学者の呼称(イ)と、彼が専門とした学問分野(ウ)を特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

イ(あ:ウラマー)は正しいです。ウラマーはイスラーム諸学の学者を指します。ウ(X:神秘主義)は誤りです。神秘主義はスーフィー(い) の分野です。

②【正】

イ(あ:ウラマー)は正しいです。資料にはハサンが「法学者やハディース学者」 から評価されたとあり、イスラーム諸学の学者(ウラマー)であることが分かります。ウ(Y:ハディース)も正しいです。資料には彼が「ハディースを講じた」 とあり、ハディースとは「預言者ムハンマドの言葉や行為に関する伝承」 のことです。

③【誤】

イ(い:スーフィー) は神秘主義者を指します。資料には神秘主義に関する記述はなく、誤りです。

④【誤】

イ(い:スーフィー) が誤りです。

問5:正解②

<問題要旨>

資料中の下線部「キリスト教」 が、イラン(ペルシア)の歴史においてどのような展開をしたかを問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

サファヴィー朝(16世紀~)の国教となったのは、イスラーム教のシーア派(十二イマーム派)です。

②【正】

431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派は、ササン朝ペルシア(当時のイラン)に受け入れられ、保護されました。その後、中央アジアを経て唐代の中国へも伝わりました(景教)。

③【誤】

カニシカ王はクシャーナ朝(1~3世紀)の王で、仏教を保護しました。

④【誤】

イスラーム教とヒンドゥー教が融合してシク教が成立したのは、16世紀のインド(パンジャーブ地方)です。

問6:正解④

<問題要旨>

9世紀(アッバース朝時代)のイランでイスラーム教への改宗者が増加した背景として、アッバース朝の政策を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

バーブ教徒の反乱は、19世紀半ばのイラン(カージャール朝)で起こりました。

②【誤】

ダレイオス1世とペルセポリスの建設は、アケメネス朝ペルシア(紀元前6世紀~)の出来事です。

③【誤】

アフガーニーとパン=イスラーム主義は、19世紀後半のイスラーム改革運動です。

④【正】

アッバース朝は、ウマイヤ朝のアラブ人第一主義を改め、非アラブ人(マワーリー、特にイラン人)であってもイスラーム教徒であれば平等に扱う(アラブ人の特権を廃止する) 政策をとりました。これにより、税制上の優遇(ジズヤ免除)などを求めて、イラン人などの改宗が急速に進みました。

問7:正解①

<問題要旨>

資料中の空欄「エ」 に入る民族(『金史』の主題)の歴史について問う問題です。「契丹」 が遼を建てたことに対し、「エ」は金を建てた民族、すなわち女真族を指します。

<選択肢>

①【正】

金(女真族)は、猛安・謀克という独自の部族制度に基づく軍事・社会制度を用いて勢力を拡大しました。

②【誤】

ソンツェン=ガンポは、7世紀にチベットを統一した吐蕃の王です。

③【誤】

テムジン(チンギス=ハン)は、13世紀初頭にモンゴル帝国を建てた人物です。

④【誤】

冒頓単于は、紀元前3世紀末に匈奴を率いた君主です。

問8:正解③

<問題要旨>

下線部「モンゴル人がチベット仏教を篤く信仰した」 ことに関連し、チベット仏教の歴史について問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

ワッハーブ派は、18世紀にアラビア半島で起こったイスラーム教の改革運動です。

②【誤】

ガザン=ハンは、イル=ハン国の君主で、イスラーム教(スンナ派)に改宗した人物です。

③【正】

ダライ=ラマ14世は、チベット仏教ゲルク派(黄帽派)の指導者です。1959年のチベット反乱が中国によって鎮圧された後、インドへ亡命し、現在に至ります。

④【誤】

北魏(4世紀末~6世紀)が保護したのは、伝来間もない仏教(敦煌、雲崗、竜門の石窟寺院など)であり、チベット仏教(7世紀以降に成立)ではありません。

問9:正解①

<問題要旨>

「ある民族(A)について研究する際に、別の民族(B)が残した記録を史料とする」 という例に、研究「あ」 と「い」 が当てはまるかを判断する問題です。

<選択肢>

①【正】

あ:「邪馬台国(倭人)」 という集団(A)を研究するために、「中国(魏)」 という別の集団(B)が残した記録(『三国志』魏書東夷伝倭人条) を用いており、例に「当てはまります」。 い:「元朝」 という集団(A)を研究するために、「元朝」 自身が用いた「パスパ文字の命令文書」 を史料としています。これは別の集団が残した記録ではないため、例に「当てはまりません」。 したがって、「あのみ当てはまる」 が正しいです。

②【誤】 上記解説の通り、「い」は当てはまりません。

③【誤】 上記解説の通り、「い」は当てはまりません。

④【誤】 上記解説の通り、「あ」は当てはまります。

第2問

問1:正解③

<問題要旨>

資料にある「ナポレオンの侵略」(ア)と、「ジブラルタルを奪われた」(イ)という記述から、国名アとイを特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

ア(オランダ) が誤りです。

②【誤】

ア(オランダ)、イ(イタリア) ともに誤りです。

③【正】

ア(フランス):ナポレオンはフランス皇帝であり、彼のスペイン侵略(1808年) はフランスによるものです。 イ(イギリス):ジブラルタルは、スペイン継承戦争後のユトレヒト条約(1713年)によって、スペインからイギリスに割譲されました。

④【誤】

イ(イタリア) が誤りです。

問2:正解③

<問題要旨>

資料中の「スペインの最後の植民地がアメリカ合衆国に奪われた」 出来事(米西戦争、1898年)に関連する地域を、地図から特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

aはスペイン本国とその対岸の北アフリカ(モロッコなど)です。

②【誤】

bはフランス領インドシナ(ベトナムなど)です。

③【正】

cはフィリピン諸島です。米西戦争の結果、スペインはフィリピン、グアム、プエルトリコをアメリカに割譲し、キューバの独立を承認しました。フィリピンはスペインが最後まで維持していた主要植民地の一つでした。

④【誤】

dは南米大陸(パラグアイなど)です。南米のスペイン植民地は19世紀前半に独立しています。

問3:正解②

<問題要旨>

空欄「ウ」の国(ソ連がミサイル基地を建設しようとした国=キューバ) の歴史について問う問題です。この出来事はキューバ危機(1962年)を指します。

<選択肢>

①【誤】

北大西洋条約機構(NATO)は、アメリカを中心とする西側諸国の軍事同盟です。社会主義国キューバは加盟していません。

②【正】

1959年、カストロらの指導するキューバ革命により、アメリカが支援する親米的なバティスタ政権が打倒されました。これがキューバ危機の背景となります。

③【誤】

フランスから独立した黒人共和国はハイチ(1804年)です。

④【誤】

ナセルを指導者とする革命(クーデタ)が起こったのはエジプト(1952年)です。

問4:正解④

<問題要旨>

資料を参考に、キューバ危機の翌年(1963年)に米ソ首脳と条約締結交渉を行った「マクミラン首相」 の国(あ・い)と、締結した条約の内容(X・Y)を特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

国(あ:フランス)、内容(X:全面的な禁止) ともに誤りです。

②【誤】

国(あ:フランス) が誤りです。

③【誤】

内容(X:全面的な禁止) が誤りです。

④【正】

国(い:イギリス):マクミランは当時のイギリス首相です。 内容(Y:部分的な禁止):この交渉で締結されたのは、部分的核実験停止条約(PTBT)です。資料にも「大気圏内における核実験」 の禁止とあり、地下核実験は含まれていないため、「部分的」な禁止です。

問5:正解①

<問題要旨>

下線部「ソ連」(米ソ首脳交渉の当事国)の歴史について問う問題です。

<選択肢>

①【正】

1960年代にイデオロギーや路線をめぐって中ソ対立が深刻化し、1969年にはウスリー江のダマンスキー島(珍宝島)で両国の軍事衝突(中ソ国境紛争)が発生しました。

②【誤】

ソ連はサンフランシスコ講和会議(1951年)に出席しましたが、条約への調印は拒否しました。

③【誤】

クウェートに侵攻したのはイラク(1990年)です。

④【誤】

アメリカ合衆国がアラスカを購入したのはロシア帝国から(1867年)であり、ソ連時代ではありません。

第3問

問1:正解③

<問題要旨>

空欄「ア」の時期(ハンガリーの革命家コシュートが活躍した時期) に起こった出来事を問う問題です。コシュートが活躍したのは1848年革命(諸国民の春)の時期です。

<選択肢>

①【誤】

ロシアで臨時政府が樹立されたのは、1917年のロシア革命(三月革命)時です。

②【誤】

オスマン帝国で青年トルコ革命が起こったのは1908年です。

③【正】

1848年革命がヨーロッパ各地に広がる中、ドイツでも統一と憲法制定を目指すフランクフルト国民議会が開催されました(1848年5月)。

④【誤】

オーストリアで蜂起(ウィーン三月革命)が起こり失脚したのはメッテルニヒです。ディズレーリは19世紀後半のイギリスの政治家であり、関連がありません。

問2:正解④

<問題要旨>

空欄「イ」の人物(1881年にエジプトで民族運動を起こした) のスローガンと、その運動を鎮圧した国を特定する問題です。「イ」はウラービーであり、この運動はウラービー運動(1881-82年)を指します。

<選択肢>

①【誤】

人物(あ:エジプト総督に就任した) が誤りです。ウラービーは陸軍将校です。

②【誤】

人物(あ:エジプト総督に就任した) が誤りです。

③【誤】

鎮圧した国(X:イタリア) が誤りです。

④【正】

人物(い:「エジプト人のためのエジプト」というスローガンを掲げた) は正しいです。これはウラービー運動のスローガンです。鎮圧した国(Y:イギリス) も正しいです。イギリスはスエズ運河の権益保持のため、この運動に軍事介入し、エジプトを事実上保護国化しました。

問3:正解②

<問題要旨>

1880年代の日本が締結した「日本に有利な」条約(ウ)と、当時の外交課題(エ)を特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

エ(南樺太の領有) が誤りです。(日露戦争後の1905年)

②【正】

ウ(日朝修好条規):1876年に締結されました。朝鮮に対し、領事裁判権を認めさせるなど、日本に有利な(朝鮮にとって不平等な)内容でした。 エ(不平等条約の改正):1880年代、日本は欧米列強と結んだ不平等条約(領事裁判権の撤廃、関税自主権の回復)の改正を最大の外交課題として交渉を進めていました。

③【誤】

ウ(日清修好条規):1871年に締結されました。これは対等な条約であり、「日本に有利な」 という表現とは異なります。エも誤りです。

④【誤】

ウ(日清修好条規) が誤りです。

問4:正解③

<問題要旨>

表を参照し、各地域の人口の動きに関する記述の正誤を判断する問題です。

<選択肢>

①【誤】

マラッカ王国が繁栄したのは15世紀~16世紀初頭であり、「1850年」 ではありません。

②【誤】

ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位したのは1877年であり、「19世紀前半」 ではなく後半です。

③【正】

表によると、中国本土の人口は1700年(15,000万人)から1800年(32,000万人)にかけて2倍以上に増加しています。この背景には、アメリカ大陸原産のトウモロコシやサツマイモなどの新作物が普及し、食糧生産が増大したことがあります。

④【誤】

表によると、1900年のヨーロッパの人口(27,100万人)は、同じ年のインドの人口(28,000万人)を超えていません。

問5:正解②

<問題要旨>

本文と表から読み取れる人口密度の比較(あ・い)と、日本と東南アジアの関係史(X・Y)の正しい組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

・人口密度の比較(あ・い): 本文から1850年の日本の人口(3,071万人) と面積(約37.8万km²) がわかります。人口密度は 3071 / 37.8 ≒ 81.2 (人/km²) と計算できます。 表によると、1850年の東南アジアの人口密度は (10) (人/km²) です。 よって、「1850年の東南アジアの人口密度は、同じ時期の日本と比べて低い」(あ) が正しいです。

・関係史(X・Y): X:日本軍のフランス領インドシナ北部進駐(1940年9月)は、ドイツがフランスに侵攻しパリを占領(1940年6月)した後です。「侵攻する前に」 は誤りです。 Y:江戸時代初期、徳川幕府の許可(朱印状)を得た朱印船が東南アジア各地と貿易を行い、現地に日本町(日本人町)ができた のは事実です。

したがって、正しい組合せは「あ-Y」 です。

問6:正解④

<問題要旨>

オーストラリアの先住民(オ) とニュージーランドの先住民(カ) の名称を特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】 オはアボリジニー、カはマオリです。

②【誤】 オはアボリジニーです。

③【誤】 カはマオリです。

④【正】 オ(オーストラリアの先住民)はアボリジニー、カ(ニュージーランドの先住民)はマオリ です。ロマ はインド起源の移動型民族を指します。

⑤【誤】 オはアボリジニー、カはマオリです。

⑥【誤】 オはアボリジニー、カはマオリです。

問7:正解③

<問題要旨>

本文の会話に基づいて作成された、小野さんのメモ と本田さんのメモ の正誤を判断する問題です。

<選択肢>

①【誤】

本田さんのメモも正しいです。

②【誤】

小野さんのメモも正しいです。

③【正】

小野さんのメモ:本文に「オ [アボリジニー] は『土着のもの』を意味する英語に由来」 するとあり、オーストラリアがイギリスの植民地であった 史実と合致するため、正しいです。 本田さんのメモ:本文に「先住民は入植者を指して、『白人』を意味するパケハという呼称を用いました」「現在も用いられている」 とあり、ニュージーランドがイギリス領であった 史実と合致するため、正しいです。 したがって、二人とも正しいです。

④【誤】

二人とも正しいです。

問8:正解③

<問題要旨>

オセアニア地域の歴史に関する知識を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

オーストラリアの白豪主義(移民制限政策)が法的に廃止されたのは、第二次世界大戦後の1970年代です。

②【誤】

カメハメハが王国(ハワイ王国)を建てたハワイは、19世紀末(1898年)にアメリカ合衆国に併合されました。

③【正】

イギリスの探検家クックは、18世紀後半に太平洋地域(オセアニア)を航海し、オーストラリア東岸の領有宣言やハワイ諸島の「発見」など、この地域の地理的情報をヨーロッパにもたらしました。

④【誤】

カナダが自治領となったのは1867年、ニュージーランドが自治領となったのは1907年であり、ニュージーランドの方が後です。

第4問

問1:正解②

<問題要旨>

資料はスペイン内戦(1936年~)のさなかに書かれたもので、それ以前の「10年に満たない数年間」 に「容認されてしまった」「日本人の望むままの行動」(下線部) を特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

ノモンハン事件(1939年)はソ連に敗北しており、時期も遅いです。

②【正】

1931年の満州事変勃発と1932年の「満州国」建国 は、スペイン内戦の約5年前にあたり、時期的に合致します。国際連盟はリットン調査団を派遣しましたが日本の行動を実力で阻止できず、結果として「容認」 した形となりました。

③【誤】

台湾の獲得は日清戦争後(1895年)であり、時代が全く異なります。

④【誤】

真珠湾攻撃は1941年であり、資料 が書かれた時期(スペイン内戦中)よりも後です。

問2:正解①

<問題要旨>

ヒトラーの「政敵」 の一つと、下線部「ムッソリーニはアビシニア人を爆撃した」(エチオピア侵攻) に関連した文の正しい組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

ヒトラー(ナチ党)は、1933年の国会議事堂放火事件を口実に「共産党」 の弾圧を開始し、独裁体制を確立していきました。また、イタリアのエチオピア侵攻(1935-36年)に対し、国際連盟は経済制裁を行いましたが実効性がなく、侵略を阻むことはできませんでした。

②【誤】

九か国条約(1922年)は、中国の主権尊重等を定めたものであり、エチオピア侵攻とは無関係です。

③【誤】

「第1インターナショナル」 は19世紀の労働者組織であり、ヒトラーの「政敵」 として不適当です。

④【誤】

「第1インターナショナル」 が不適当です。

問3:正解①

<問題要旨>

日本の戦時体制をファシズムとみなす見方(あ) と、区別する見方(い) について、それぞれの根拠(W~Z) として適切な組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

あ-W:日本の戦時体制が「ソ連を脅威とみなし、共産主義運動に対抗する陣営に加わった」(日独伊防共協定など)点は、ドイツやイタリアのファシズム体制と共通しており、「ファシズムだった」(あ) とする根拠になります。 い-Y:日本にはドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニのような、単一政党を率いる強力な「独裁者」が存在せず、「政党の指導者が、独裁者として国家権力を握ることがなかった」 点は、ヨーロッパのファシズムとは「区別される」(い) 体制だったとする根拠になります。

②【誤】

X「国民社会主義を標榜」 したのはナチス・ドイツであり、日本ではありません。

③【誤】

あ-Yは「区別する」根拠、い-Zは「軍事力による支配圏拡大を行わなかった」 とあり史実に反します(日本は拡大を行いました)。

④【誤】

あ-Z、い-Xともに誤りです。

⑤【誤】

い-Zが誤りです。

⑥【誤】

あ-Yが「区別する」根拠であり、不適当です。

問4:正解④

<問題要旨>

空欄「ア」の人物(ロシアで初めてツァーリを称し、「雷帝」と呼ばれる)、すなわちイヴァン4世の治世(16世紀後半)の出来事を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

ステンカ=ラージンの反乱は17世紀後半(ロマノフ朝)の出来事です。

②【誤】

ギリシア正教が国教化されたのは10世紀末(キエフ公国)です。

③【誤】

キプチャク=ハン国からの独立(タタールのくびきからの解放)は、イヴァン3世(イヴァン4世の祖父)の時代(1480年)です。

④【正】

イヴァン4世は、コサックの首長イェルマークのシベリア遠征を支援(あるいは追認)し、シビル=ハン国を破るなど、ロシアのシベリア進出(領土拡大)の端緒を開きました。

問5:正解⑤

<問題要旨>

空欄「イ」の人物(明を建国した)、すなわち朱元璋(洪武帝)が徴税のために始めた政策(あ・い)と、世界史上の税制(X~Z)の正しい組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

・明の政策(あ・い): あ(一条鞭法の導入) は明代後半、万暦帝の時代に張居正の改革で全国化された税制です。 い(賦役黄冊の作成) は、洪武帝が定めた戸籍・租税台帳です。 よって、洪武帝が始めた政策は「い」です。

・税制の歴史(X~Z): X:ザミンダーリー制はインドの徴税制度ですが、農民から「直接」徴税するのはライヤットワーリー制です。 Y:共和政ローマでは、騎士身分(騎士階層)が属州の徴税請負人となって富を蓄積しました。これは正しいです。 Z:イギリス政府は、北アメリカ植民地の抵抗を受け、印紙法を「撤回」しました。「撤回しなかった」は誤りです。

したがって、正しい組合せは「い-Y」 です。

問6:正解②

<問題要旨>

ソ連で「ドイツ騎士団を撃退した」 英雄の映画が「1939年から41年まで」 上映禁止された(下線部) 理由を推測する問題です。

<選択肢>

①【誤】

ソ連は世界恐慌の影響をほとんど受けていません。

②【正】

1939年8月、ソ連はナチス=ドイツと独ソ不可侵条約を締結しました。映画が禁止された期間(1939-41年)は、この条約が有効であった期間(1941年6月の独ソ戦開始まで)と一致します。ドイツ(騎士団)を敵とする映画の上映は、友好国となったドイツを刺激するため、政治的に避けられたと推測するのが最も妥当です。

③【誤】

コメコンは第二次世界大戦後(1949年)に結成されました。

④【誤】

十月革命(1917年)後の内戦は1922年頃には終結しています。

第5問

問1:正解③

<問題要旨>

空欄「ア」の人物(800年にローマ皇帝として戴冠した)、すなわちフランク王国のカール大帝の事績を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

フン人を撃退したカタラウヌムの戦い(451年)は、カール大帝の時代よりはるか以前です。

②【誤】

イングランド王国を征服(ノルマン=コンクェスト、1066年)したのは、ノルマンディー公ウィリアムです。

③【正】

カール大帝は、イギリスの学者アルクインらを宮廷に招き、ラテン語文化の復興(カロリング=ルネサンス)を奨励しました。

④【誤】

フランク国王として初めてアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗したのは、メロヴィング朝のクローヴィス(5世紀末)です。

問2:正解②

<問題要旨>

本文と図を照合し、空欄イ(ルイ8世の父)とウ(カロリング家の王) に入る人物を特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

ウ(ロロ) はノルマンディー公国の創始者であり、カロリング家の王ではありません。

②【正】

イ(フィリップ2世):本文に「イングランド王ジョンと戦って大陸所領の大半を奪った イ は、……(中略)……ルイ8世をもうけた」 とあります。これはフランス王フィリップ2世(尊厳王)の事績と一致します。 ウ(ピピン(小ピピン)):図の南側(ウの側) には「カロリング家の王」 が配置されています。ピピン(小ピピン)はカロリング朝の創始者であり、適当です。

③【誤】

イ(ユーグ=カペー) はカペー朝の創始者ですが、ルイ8世の父ではありません。

④【誤】

イ(ユーグ=カペー) が誤りです。

問3:正解③

<問題要旨>

下線部「イ [フィリップ2世] からルイ9世までの3代の国王たち」 の治世(12世紀末~13世紀後半)に起こった出来事を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

アナーニ事件は、フィリップ4世(ルイ9世の孫)の時代(1303年)の出来事です。

②【誤】

ジャックリーの乱は、百年戦争中の1358年に起こった農民反乱です。

③【正】

アルビジョワ十字軍(カタリ派十字軍)は、南フランスの異端カタリ派に対し、1209年から1229年にかけて行われました。この時期はフィリップ2世、ルイ8世、ルイ9世の治世と重なっています。

④【誤】

トリエント公会議は、16世紀半ば(1545年~)の対抗宗教改革の一環として開催されました。

問4:正解③

<問題要旨>

下線部「中国人の移民が急増しました」 に関連し、中国人移民(華僑)の歴史について問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

アメリカ合衆国では19世紀末(1882年)、中国人移民を制限する法律(中国人移民排斥法)が制定されました。撤廃は第二次世界大戦後のことです。

②【誤】

興中会は、孫文がハワイのホノルルで結成しました(1894年)。

③【正】

清朝は台湾の鄭氏政権などへの対策から海禁(遷界令)をとり、中国人の海外渡航を禁止しました。しかし、福建・広東省など沿海部の住民が、生活の困窮などから禁令を犯して東南アジア(南洋)へ移住し、華僑社会の源流となりました。

④【誤】

マレーシアでは、中国系住民ではなく、マレー系住民を優遇するブミプトラ政策が採られています。

問5:正解②

<問題要旨>

乾隆帝が征服した「ムスリムが多く住む」 空欄「エ」 の地域を、地図から特定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

aはモンゴル高原(外モンゴル)です。

②【正】

bは東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)です。乾隆帝はこの地域のジュンガル部などを征服し、新疆と名付けました。この地域は古くからイスラーム化(ムスリムが多く住む) していました。

③【誤】

cは台湾です。康熙帝の時代に編入されました。

④【誤】

dはベトナム北部です。

問6:正解③

<問題要旨>

山西商人たちが全国的な活動を展開した時代(オ) と、その活動(カ) に関する正しい組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

オ(唐) が誤りです。山西商人(郷幇)が活躍したのは明・清代です。

②【誤】

オ(唐) が誤りです。カ(Y) は都(開封など)の説明であり、山西商人の活動とは直接関連しません。

③【正】

オ(明):山西商人は、明代から清代にかけて全国的に活躍しました。 カ(X):彼ら同郷・同業の商人たちは、活動拠点として各地に「会館や公所が設けられた」 のは事実です。これは彼らの活動を支える互助・親睦組織でした。

④【誤】

カ(Y) が誤りです。

投稿を友達にもシェアしよう!
  • URLをコピーしました!
目次