2021年度 大学入学共通テスト 本試験 日本史A 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解1

<問題要旨>
この問題は、本文中に登場する「A」と「I」に入れる語句の組合せを問うものです。会話文からは、日中戦争期における服装や外見に対する規制・変化が話題となっており、「パーマネントが禁止された」「男は国民服を着用することになった」といった歴史的事象との照らし合わせがポイントになります。

<選択肢>
① A=パーマネント I=国民服が制定されたよ
 (正)
 日中戦争~太平洋戦争期には、女性が美容院でパーマをかけることが「ぜいたく」とみなされ、資源統制の観点から制限・自粛が促されました。一方で男性向けには、1940(昭和15)年に「国民服令」が公布され、標準服としての国民服の着用が奨励・半ば義務化されました。本文中の「Aは日中戦争が始まってしばらくすると禁止になった」「男に対してはI」という言及と合致します。

② A=パーマネント I=ざんぎり(ザンギリ)頭が強要されたよ
 (誤)
 「ざんぎり頭」は明治初期に散髪奨励令が出され、ちょんまげを切り落とす髪型が広まった際の俗称です。問題文で言及される「戦争期の外見への影響」とは時期が大きくずれており、ここで「ざんぎり頭が強要された」とするのは不適切です。

③ A=もんぺ I=国民服が制定されたよ
 (誤)
 「もんぺ」は戦時下の女性用作業ズボンとして普及しました。ただし本文では「Aは日中戦争が始まってしばらくすると禁止になった」とあるため、「むしろ推奨されていたはずのもんぺが禁止になる」という史実とは矛盾します。

④ A=もんぺ I=ざんぎり(ザンギリ)頭が強要されたよ
 (誤)
 ③同様、「もんぺ」は禁止ではなく推奨の方向で導入されたものであり、また「ざんぎり頭」は明治期の風潮ですから、戦時下の外見規制としては整合性がありません。

問2:正解2

<問題要旨>
家系図と教科書資料を突き合わせて、「X:日露戦争に出征した人物がこの家系にいるか」「Y:曾祖母(ウメノ)は選挙権を持たなかったか」についての真偽を問う問題です。家系図の該当人物の生没年や、女性参政権が得られた年(1945年)との関係を検討することがポイントになります。

<選択肢>
① X=正 Y=正
 (誤)
 女性の参政権は1945(昭和20)年の法改正で認められ、1946(昭和21)年の総選挙から実際に行使可能となりました。ウメノ(1899~1949)が存命中に女性参政権が始まった可能性があるため、「Y=ウメノが選挙権を有した時期はない」は成り立ちにくいと考えられます。

② X=正 Y=誤
 (正)
 家系図からは、該当する人物が「日露戦争(1904~1905)に出征した」形跡が見当たらないため、Xは正となります。一方ウメノは1899年生まれで1949年まで生きているので、1945年の改正後には女性参政権を行使できたはずです。そのため「ウメノが選挙権を有した時期はない」というYは誤となります。

③ X=誤 Y=正
 (誤)
 Xを誤とすると、家系図上に日露戦争の従軍者がいるという主張になりますが、系譜からは確認できません。またウメノに関しては②で説明したように参政権を得られた時期があるのでY=正とも言えません。

④ X=誤 Y=誤
 (誤)
 Xを誤としても実証が難しく、さらにYまで誤とすると「ウメノが参政権を得た時期がある」という意味になるため、X・Yともに誤であるという結論にはならないと考えられます。

問3:正解3

<問題要旨>
家系図のうち、二重線(二)で示された婚姻関係について、どの民法・婚姻制度下で行われたかを問う問題です。明治民法(1898施行)では戸主権が強く、戦後の新憲法下(1947年施行民法改正後)では「両性の合意による結婚」が明文化されました。この変化を踏まえて、曾祖父母と祖父母の婚姻がどのような法制度で行われたかを推測します。

<選択肢>
① X=ボアソナードが起草した民法 工=両性の合意
 (誤)
 ボアソナードは明治初期に民法起草に関わったものの、実際に施行された1898(明治31)年の民法は修正を重ねた別案でした。また戦前の結婚は必ずしも「両性の合意のみ」を強調した規定ではありません。

② X=ボアソナードが起草した民法 工=親
 (誤)
 同上の理由で、ボアソナード原案の民法がそのまま施行されたわけではありません。さらに「親の同意」を必要とするという点も、戦前民法での婚姻手続きはあり得ますが、選択肢全体の流れとはかみあいにくいです。

③ X=戸主の強い権限を定めた民法 工=両性の合意
 (正)
 1898(明治31)年施行の旧民法(戦前民法)では家長(戸主)に強い権限があり、家の承諾が婚姻に大きく関わっていました。一方、戦後は1947(昭和22)年の民法改正により「両性の合意のみに基づく」婚姻が保証されています。問題文では、曾祖父母(明治期)の婚姻と祖父母(戦後期)の婚姻を区別していると考えられ、時代に合致します。

④ X=戸主の強い権限を定めた民法 工=親
 (誤)
 「親の同意」は戦前民法にも関係しますが、戦後民法(祖父母の結婚に該当)を「親の承諾」によるものとするのは、1947年以降の民法改正内容(両性の合意)と矛盾します。

問4:正解1

<問題要旨>
カオルさんが作成した人口動態のグラフ(棒グラフと折れ線グラフ)をもとに、a~dがそれぞれ「出生数」「死亡数」「乳児死亡率」「婚姻率」などに対応するかを問う問題です。明治・大正・昭和期を通じての人口動態統計(出生数・死亡数・婚姻率・乳児死亡率)を、グラフの上昇・下降の特徴から見極める必要があります。

<選択肢>
① a=出生数 b=死亡数 c=乳児死亡率 d=婚姻率
 (正)
 グラフの形状を見ると、aは戦後すぐに大きく伸びている(いわゆるベビーブーム)ので出生数と合致します。bは長期的に減少傾向を示しつつ、戦争期には一時上昇も見られるため死亡数の動きと一致します。cは戦前高く、戦後急激に低下する乳児死亡率に対応し、dは戦後すぐに高まり1988年頃まで変動している婚姻率との変遷に近い動きをしています。

② a=出生数 b=死亡数 c=婚姻率 d=乳児死亡率
 (誤)
 婚姻率は戦後に高くなる傾向があり、グラフの折れ線と照合するとcが婚姻率ではなく乳児死亡率に近い推移をしているため、当てはまりません。

③ a=死亡数 b=出生数 c=乳児死亡率 d=婚姻率
 (誤)
 aとbを入れ替えると、戦後の急増が死亡数ということになり整合性が取れません。

④ a=死亡数 b=出生数 c=婚姻率 d=乳児死亡率
 (誤)
 同様に戦後の急増・減少の特徴を踏まえると、死亡数と出生数が逆転してしまい不自然です。

問5:正解2

<問題要旨>
カオルさんの持ち帰った箱には、帝国大学・尋常小学校・高等女学校・中学校の卒業証書が入っており、近代教育制度の変遷に関する記述(a~d)が正しい組合せかを問う問題です。それぞれの学校の設立目的や教科書検定、高等女学校の進学事情、旧制中学校の位置づけなどを整理することが求められます。

<選択肢>
a 帝国大学は当初、国家の指導的な人材養成のために創設された。
b 尋常小学校では創設時から一貫して検定制の教科書が使用された。
c 高等女学校の証書に名が記された曾祖母(ウメノ)は、中学校を卒業し高等女学校に進学した。
d 祖父(竹次)の名が記された証書における中学校とは、学校教育法のもとに発足した新制の中学校である。

① a・c
 (誤)
 帝国大学(東京帝国大学など)は国家のエリート育成を目的として設立されたのは正しいが、高等女学校は尋常小学校修了後に入学するのが一般的であり、「中学校を卒業したあとに高等女学校へ進学」という形は男子校・女子校の制度上あまり想定されません。

② a・d
 (正)
 aは帝国大学の創設意図として正しく、dの「祖父の名が記された証書にある中学校が新制中学校」であるのは、戦後の学校教育法(1947年施行)によって旧制中学校が廃止され新制中学校が発足したため説明がつきます。

③ b・c
 (誤)
 尋常小学校の教科書は創設時点で統一教科書が用いられた時期もありますが、「一貫して検定制」という表現には注意が必要です。またcの進路も前述のように不自然です。

④ b・d
 (誤)
 bについて前述の理由があり、dは正しいもののbが誤りとなるため、組合せとしては成立しません。

問6:正解3

<問題要旨>
示された史料(昭和19年6月16日付の新聞号外)を読み取って、その記事内容がどのように報じられているかを問う問題です。記事中には「北九州に敵機来襲」「被害は極めて軽微」「サイパンに上陸企図を撃退中」などの文言があるため、どの選択肢が実際の記述に合致するかがポイントです。

<選択肢>
① 「B29」とは、中国の爆撃機の種類である。
 (誤)
 B29はアメリカ軍の大型戦略爆撃機であり、中国の爆撃機ではありません。

② 「大本営」とは、戦局を伝える新聞社の連合組織である。
 (誤)
 大本営は天皇を中心とする統帥機関で、軍の最高指揮中枢を指す語です。新聞社の連合組織ではありません。

③ 史料では、日本軍がサイパンに上陸しようとした米軍を2回撃退したと報じられている。
 (正)
 新聞号外の文面に「サイパンに上陸企図三度来襲今なお激戦中」「数機撃墜」などとあり、当時の報道として「敵を撃退している」といった姿勢が強調されています。実際には戦況を過小報道した可能性がある点が、この史料の特徴といえます。

④ 史料では、空襲による北九州の深刻な被害が強調されている。
 (誤)
 むしろ「被害は極めて軽微」と書かれており、深刻さを強調しているわけではありません。

問7:正解5

問7:正解5
<問題要旨>
カオルさんが図書館で読んだ手記や手紙の抜粋(I~III)が、いつ書かれた出来事かを年代順に並べる問題です。抜粋には、(1)首相の演説が行われた日付、(2)原子爆弾による被害が記された日付、(3)イタリア無条件降伏の報を知った日付などが具体的に記されています。それらの日付を時系列に正しく配列する必要があります。

<選択肢>
(I)10月20日 小磯首相の演説
(II)8月25日 原子爆弾の負傷記録
(III)9月9日 イタリア無条件降伏の報

① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I
⑤ III → I → II
⑥ III → II → I

第2問

問8:正解1

<問題要旨>
景山英子(後に福田英子)の生い立ちや自由民権運動への参加、さらに大阪事件(1885年)に関与して逮捕された経緯などを踏まえ、本文中の「ア」「イ」に入る語句の組合せを問う問題です。大阪事件は、朝鮮の内政改革を図ろうとして急進的な自由党系の人士が蜂起を企図し、失敗に終わった事件でした。また、景山英子は幸徳秋水らが創設した平民社の活動にも影響を受けています。

<選択肢>
① ア=朝鮮の内政改革 イ=平民社
(正)
 1885年の大阪事件は、朝鮮の内政改革(いわゆる朝鮮問題への干渉)を試みた自由民権運動家らが計画し、失敗した事件です。景山英子がこれに関与し逮捕されたことと合致します。また、彼女は獄中から出てのち、幸徳秋水や堺利彦らが主宰した「平民社」まわりの活動にも参加し、社会主義に近づいていった経緯が本文から読み取れます。

② ア=朝鮮の内政改革 イ=政教社
(誤)
 政教社は三宅雪嶺や志賀重昂らによる国粋主義団体であり、景山英子の運動路線(社会主義寄り、女性解放を掲げる)とは方向が異なります。大阪事件の文脈とも無関係です。

③ ア=台湾の支配 イ=平民社
(誤)
 日本による台湾経営(1895年~)とは、大阪事件の背景や景山英子の逮捕理由とは関係しにくいです。彼女が朝鮮問題に直接かかわったのが大阪事件の本質であり、「台湾の支配」と置き換えるのは事実と異なります。

④ ア=台湾の支配 イ=政教社
(誤)
 ③と同様、「台湾の支配」は大阪事件や景山英子の逮捕経緯と結び付きません。また政教社も景山英子の活動文脈には当てはまりません。

問9:正解2

<問題要旨>
幕末維新期の武士についての記述(X・Y)と、それに対応する語句(a~d)を正しく組み合わせる問題です。ここでは、「下級武士出身の人物が藩政を主導し、やがて長州藩と同盟を結んだ薩摩藩の動き」(=西郷隆盛)と、「旧幕府軍を率いた榎本武揚が降伏した場所」(=箱館)などの事例が題材となっています。

<選択肢>
【X】下級武士出身のこの人物が藩政の主導権を握った薩摩藩は、幕府批判の姿勢を強め、長州藩との間で同盟を結んだ。
【Y】旧幕府軍の武士たちを率いた榎本武揚が、この地で新政府軍に降伏した。

a=西郷隆盛 b=木戸孝允 c=新潟 d=箱館

① X=a Y=c
(誤)
 「新潟」は戊辰戦争期に激戦地になったわけではありますが、榎本武揚が最終的に降伏した場所は箱館(函館)ですので一致しません。

② X=a Y=d
(正)
 薩摩藩の中心となった下級武士出身の人物は西郷隆盛(a)です。戊辰戦争後期、榎本武揚は箱館(d)五稜郭で新政府軍に降伏しましたから、Yには箱館があてはまります。

③ X=b Y=c
(誤)
 木戸孝允(桂小五郎)は長州藩士であり、Xの説明文で「薩摩藩を主導した」と言及している点とそぐいません。またY=c(新潟)も不整合です。

④ X=b Y=d
(誤)
 X=bにすると長州藩の木戸孝允となりますが、問題文の「薩摩藩を主導した」人物像と合いません。

問10:正解4

<問題要旨>
景山英子が女子向けの新しい学校(角屋女子工芸学校)を設立した理由、および当時の教育事情を示す史料に関し、「a~d」の記述を組み合わせて問う問題です。ここでは女性に刺繍・裁縫など生計の助けとなる技能を学ばせたい意図、あるいは明治末期に義務教育年限が延長された事実などが史料と照合されます。

<選択肢>
a 史料によれば、英子は新設の学校で、女性に優美な技術を教えたかったと考えられる。
b 史料によれば、英子は新設の学校で、女性に生計の助けになる技術を教えたかったと考えられる。
c この学校が設立された後で、教育勅語が出され忠君愛国の精神が強調された。
d この学校が設立された後で、義務教育の期間が4年から6年に延長された。

① a・c
(誤)
 史料には「優美な技術」という表現よりも、どちらかといえば具体的な裁縫・手工業技術を重視し、「実際生活の助けになる」といった記述が示唆されます。また教育勅語はすでに1889年(明治22)に発布済みであり、学校設立後との因果関係は微妙です。

② a・d
(誤)
 aはやや抽象的に「優美な技術を教える」としており、むしろ「生計を助ける実用的技能」とは趣旨が異なります。d自体は1907年(明治40)の小学校令改正で義務教育が4年から6年に延長されたため正しい方向性ですが、aと組み合わせる根拠に乏しいです。

③ b・c
(誤)
 bは史料の主旨と合致しやすいものの、cの「教育勅語が出された後」というタイミング説明はすでに時系列的に大きく前後があるため、設問における適切な組み合わせとはいいにくいです。

④ b・d
(正)
 bで示された「女性に生計の助けになる技術を教えたかった」という方向性は、本文の「中流以下の家政を取る賢婦人を出すに足る」「実際生活の助けになる技能」などの表現に一致します。dの義務教育延長(4年から6年へ)は1907年の小学校令改正に対応し、景山英子の学校設立時期とも符合するため、同時代の教育改革として整合的です。

問11:正解3

<問題要旨>
本文(下欄部③)の書かれた時期の社会状況として、「X:女性解放を唱える新婦人協会が活動していた」「Y:女性が政治集会に参加することは禁止されていた」の真偽を問う問題です。新婦人協会の結成(1920年)は大正期に入ってからであり、また明治末期から大正初期にかけては女性の政治結社参加等が公安警察条例や集会及政社法などによって制限されていました。

<選択肢>
【X】女性解放を唱える新婦人協会が活動していた。
【Y】女性が政治集会に参加することは禁止されていた。

① X=正 Y=正
(誤)
 新婦人協会(平塚らいてう・市川房枝ら)は1920年に設立されるため、本文の時期(1907年前後の雑誌『世界婦人』創刊や社会主義への弾圧が厳しいころ)にはまだ存在していません。よってXを正とするのは不適切です。

② X=正 Y=誤
(誤)
 Xは上記理由で誤と考えられますし、Yは当時の警察令などで女性が政治集会に参加することが実質的に制限されていたため、誤とはいえません。

③ X=誤 Y=正
(正)
 1900年代初頭には新婦人協会はまだ結成されておらず、Xは成り立ちません。一方、明治期には治安警察法(1900年制定)による女性の政治集会参加禁止条項などがあり、Yは当てはまります。

④ X=誤 Y=誤
(誤)
 Yを誤とする根拠が乏しく、実際には女性の政治活動は大きく制限されていました。

第3問

問12:正解3

<問題要旨>
幕末から明治初期にかけて、政府が海外渡航を解禁し、「知識を世界に求める」という基本方針を示した詔勅や宣言はどれか、さらに伊藤博文らが憲法制定に際して主に参考とした外国がどこかを問う問題です。明治政府が掲げたスローガンのうち、「王政復古の大号令」は政体変革の宣言であり、一方「五箇条の誓文」は“広く会議を興し、智識ヲ世界ニ求メ”と国の基本姿勢を示すものであったことがポイントとなります。また伊藤博文が憲法調査のために訪れ、憲法典を主に手本としたのはドイツ(プロイセン)です。

<選択肢>
① ア=王政復古の大号令 イ=ドイツ(プロイセン)
(誤)
 「王政復古の大号令」は1867年末に朝廷の政権回復を宣言した布告であり、「智識を世界に求める」という文言は含んでいません。ドイツ(プロイセン)の憲法を参考にしたのは正しい流れですが、「ア」に当てはめる史料としては不適切です。

② ア=王政復古の大号令 イ=清国
(誤)
 「王政復古の大号令」同様、海外渡航解禁や“知識を海外に求める”方針を示すものではありません。さらに明治憲法制定の参考としたのは清国ではなく、主にドイツ(プロイセン)でした。

③ ア=五箇条の誓文 イ=ドイツ(プロイセン)
(正)
 1868年に発布された「五箇条の誓文」には“智識ヲ世界ニ求メ”という文言があり、明治政府が海外留学や欧米の制度を積極的に導入していく方針を宣明しています。また、伊藤博文はヨーロッパ視察の後、特にプロイセンの憲法制度を範にして大日本帝国憲法(1889年)を起草しました。

④ ア=五箇条の誓文 イ=清国
(誤)
 「五箇条の誓文」を海外知識の導入を示す詔勅として用いる点は適切ですが、伊藤博文が参照した外国は清国ではなくドイツ(プロイセン)であったため誤りとなります。

問13:正解2

<問題要旨>
「下線部C」に関連して、いずれも海外留学などの経験を有する人物4名についての記述が列挙され、その中で誤っているものを選ぶ問題です。ここでは、金子堅太郎(ハーバード留学)、美濃部達吉(ドイツ留学)などが知られていますが、記述された内容と各人の実績や思想が食い違っているかどうかがポイントです。

<選択肢>
① 金子堅太郎は、大日本帝国憲法の草案作成に当たった。
(正)
 金子堅太郎はハーバード大学に留学し、伊藤博文らとともに憲法起草に関与した人物です。その点から見ても矛盾はありません。

② 市川房枝は、社会主義を掲げる社会民主党を結成した。
(誤)
 市川房枝は女性参政権運動のリーダーとして著名で、海外での女性解放運動を視察するなどの経歴はありますが、直接社会民主党の結成に深くかかわったわけではありません。もともと社会民主党(1901年)は幸徳秋水らが中心で、市川房枝が「創設者」のように扱われるのは誤りです。

③ 美濃部達吉は、憲法学者として天皇機関説を唱えた。
(正)
 美濃部達吉はドイツ留学の経験をもち、天皇機関説(天皇を国家の最高機関とする憲法学説)を提唱しました。記述に誤りは見当たりません。

④ 田中義一は、首相として山東出兵を行った。
(正)
 田中義一は陸軍出身で、首相在任中(1927~1929年)に山東出兵を断行しました。留学経験としては陸軍留学生として海外に赴いています。

問14:正解4

<問題要旨>
「日清戦争後から第一次世界大戦勃発までの時期」の日本の国内事情として、XとYの記述が正しいか誤りかを問う問題です。典型的には、日露戦争後に大きな軍縮が行われたわけではなく、また新興財閥の急成長が本格化したのは主に日露戦争直後よりも、むしろ第一次世界大戦中の大戦景気であったことなどが重要な検討材料となります。

<選択肢>
【X】日露戦争後、新興財閥が急成長した。
【Y】日本は日露戦争に勝利した後、軍備を縮小した。

① X=正 Y=正
(誤)
 日露戦争後、対露賠償が得られなかった日本は財政難に苦しみつつも、完全な軍縮へは踏み切らず、むしろ軍拡路線への動きも見られました。また、いわゆる新興財閥が大きく伸びるのは、後の第一次世界大戦期の好景気がきっかけでした。

② X=正 Y=誤
(誤)
 新興財閥の急成長が「日露戦争後」すぐに進んだとは断定しにくく、本格的な発展は大戦景気によるところが大きいです。

③ X=誤 Y=正
(誤)
 逆にYを正とすると「日本は日露戦争勝利後、軍縮に踏み切った」となりますが、必ずしもそうとは言えません。日露戦争後も軍拡方針を堅持する動きがありました。

④ X=誤 Y=誤
(正)
 新興財閥の本格的発展時期は日露戦争後というより、第一次大戦期の好景気であったためXは誤。さらに日露戦争後の軍備は縮小されなかったと見るのが相応しいのでYも誤。

問15:正解1

<問題要旨>
本文中で加藤高明らが関与したパリ講和会議(1919年)や国際協調路線についての記述があり、そこに登場する「ウ」という内容が、どのような方針を示していたかを問う問題です。日本が国際連盟の設立に賛同し、世界の平和維持を希求する外交姿勢を示したことが背景となります。

<選択肢>
① 万国が是とするところに従い、世界の大きな法則にのっとり、それによって国際連盟が平和の実績をあげることを願う
(正)
 パリ講和会議後、日本も国際協調の一員として国際連盟に加盟し、「世界の法則に従って平和を維持しよう」という主張を掲げました。本文中で「天皇の名により国の方針として……」という趣旨と合致します。

② 満州国の建国について国際連盟と所見を異にすることから、政府に離脱する措置をとらせる
(誤)
 満州国問題で国際連盟を脱退したのは1933年であり、パリ講和会議直後の文脈とは大きく時期がずれます。

③ 世界の大勢が有利に働いていないため、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4か国に対してその共同宣言を受諾する
(誤)
 これは第二次世界大戦期の「四カ国宣言」などを連想させる内容で、1919年当時の状況とは異なる記述です。

④ アメリカとイギリスの両面は東アジアの混乱を助長し、平和の美名に隠れて東洋を制圧しようとしている
(誤)
 当時の日本はアメリカやイギリスとの協調・同盟関係(英日同盟など)を重視しており、列強との対立を明確に表明するような方針ではありません。

問16:正解3

<問題要旨>
「第一世界大戦の勃発から1920年代までの国内政治や社会の変化」に関連して、XとYの出来事・人物に対応する語群(a~d)を組み合わせる問題です。ここでは原敬内閣による選挙制度の改革(小選挙区制)や、プロレタリア文学として「太陽のない街」を執筆した徳永直の存在がポイントとなっています。

<選択肢>
【X】原敬内閣は選挙に関する改革を行い、この制度を導入した。
【Y】労働者や農民の立場に立つプロレタリア文学が盛んになり、担い手の一人であるこの人物は『太陽のない街』を書いた。

a=比例代表制 b=小選挙区制 c=徳永直 d=武者小路実篤

① X=a Y=c
(誤)
 原敬は衆議院議員選挙法を改正して、小選挙区制を採用しました。比例代表制を導入したのは戦後のことです。また『太陽のない街』を書いたのは徳永直で、cのほうは合っていますがX=aは不適切です。

② X=a Y=d
(誤)
 武者小路実篤は白樺派の文士であり、『太陽のない街』とは無関係です。さらにaは比例代表制なので原敬の選挙改革とも合いません。

③ X=b Y=c
(正)
 原敬内閣は1919年に衆議院議員選挙法を改正し、小選挙区制(b)を導入しています。一方、『太陽のない街』(1929年刊)は徳永直(c)の代表的プロレタリア文学作品で、Yと対応します。

④ X=b Y=d
(誤)
 bは小選挙区制で合っていても、d=武者小路実篤はプロレタリア文学とは系統が異なるため誤りです。

問17:正解4

<問題要旨>
大正期~昭和初期にかけて議会制度の改革が論じられる中、議会の上院として存在した「貴族院」をどう変えていくかや、普通選挙制度をどう扱うかが検討されました。問題文では馬場恒吾が「華族の集まりである上院を改革せよ」と述べつつ、さらに選挙の年齢制限や婦人参政権などの問題を含む衆議院改正の必要性を論じています。

<選択肢>
【イ】…(議会を改革するにあたって衆議院に〇〇を導入)
【オ】…(華族が中心となる上院=〇〇 をどうすべきか)

① イ=翼賛選挙 オ=元老院
(誤)
 翼賛選挙とは1942年の総選挙を指し、戦時体制下の特殊な事例です。また明治初期の「元老院」とは大日本帝国憲法制定以前の立法機関であり、大正~昭和初期の議論とはずれがあります。

② イ=翼賛選挙 オ=貴族院
(誤)
 「翼賛選挙」を改革に絡めるのは不自然です。貴族院は上院として機能していましたが、「イ」として普通選挙を問題にする文脈が多く見られるため、この組合せは合致しにくいです。

③ イ=普通選挙 オ=元老院
(誤)
 普通選挙は確かに衆議院選挙の改革として大正末~昭和初期に導入されましたが、上院を「元老院」とするのは明治初期にしか存在しない機関です。

④ イ=普通選挙 オ=貴族院
(正)
 1925年に普通選挙法(男性普通選挙)が成立しました。「イ」にこれを当てはめるのが適切です。また上院としての「貴族院」改革が当時の大きな論点で、華族が必ずしも国民の代表とは言えないという主張とも合致します。

問18:正解2

<問題要旨>
第一次世界大戦後の国際秩序の変容に伴い、世界でブロック経済が形成されたり、ドイツではヒトラー政権が誕生して一党独裁体制を築いていく過程があった。そうした海外情勢(X・Y)に対して、日本がどのような動き(a~d)をとったかを組み合わせる問題です。1930年代前半には管理通貨制度への移行や、為替レート切り下げを活用した輸出振興策が進められました。一方、ナチス政権成立後には日本はドイツ・イタリアとの連携を深め、日独伊三国防共協定(1937年)を締結します。

<選択肢>
【X】ブロック経済圏が形成された。
【Y】ヒトラー政権が誕生し、一党独裁体制が敷かれた。

日本の動き
a 管理通貨制度に移行し、円安を利用した輸出が伸びた。
b 工部省を設置して、産業振興に努めた。
c 日ソ基本条約を結んだ。
d 日独伊三国防共協定を結んだ。

① X=a Y=c
(誤)
 確かに世界恐慌後、日本は管理通貨制度を採用したが、ヒトラー政権誕生に対して日ソ基本条約を結ぶ流れとは結び付きにくいです。日ソ基本条約は1925年の締結であり、ヒトラー政権成立(1933年)とは時期が異なります。

② X=a Y=d
(正)
 欧米列強が保護貿易政策でブロック経済化するなか、日本は管理通貨制度で円を切り下げて輸出を促進しました(X→a)。またドイツにヒトラー政権が誕生し、ファシズム体制に移行する流れを背景に、日本は1937年に日独伊三国防共協定を締結して連携を強化(Y→d)しています。

③ X=b Y=c
(誤)
 工部省の設置は明治初期の殖産興業策なので、世界恐慌期のブロック経済への対応とはまったく時代が合いません。さらに日ソ基本条約は1925年に国交回復したものであり、ヒトラー政権の成立時期とは無関係です。

④ X=b Y=d
(誤)
 bは前述のように明治政府による近代化施策であって、戦間期のブロック経済対応としては不適切です。Yとdを組み合わせる点は正しいが、Xとbが合わないため誤りです。

第4問

問19:正解3

<問題要旨>
明治期に形成された大地主制と小作人の関係について、「X:大地主は一般に小作料を現金で受け取っていた」「Y:小作人の中には子どもを工場などへ働きに出す者がいた」の真偽を問う問題です。大地主が受け取る小作料の形態(現金納か現物納か)や、貧困に苦しむ小作層の実情が検討ポイントとなります。

<選択肢>
① X=正 Y=正
(誤)
 明治期には、小作料を米などの現物で受け取る形が広く見られました。「大地主は一般に小作料を現金で受け取っていた」とするのは行き過ぎで、Xを正とするのは適切ではありません。一方、小作人の子どもが工場労働などに出る事例は確かにありましたが、X=正を前提とする以上、この選択肢は誤。

② X=正 Y=誤
(誤)
 Xが正だとすると「小作料は現金納が一般的」となるため、やはり史実とずれがあります。さらにYを誤とするのは、実際には貧困対策として子どもを工場へ出すケースが多く見られたので矛盾します。

③ X=誤 Y=正
(正)
 明治期・大正期にかけては小作料の現物納が多く、Xの「現金で受け取っていた」という一般化は誤。Yについては、小作人の貧困により子どもを工場などに出す例があったことは当時の社会事情としてよく知られています。

④ X=誤 Y=誤
(誤)
 Xを誤とするのは妥当ですが、Yまで誤とすると「子どもを工場などに働きに出す者がいなかった」ことになるため、史実と合いません。

問20:正解1

<問題要旨>
1920年代に活動した組織としてもっとも適切なものを問う問題です。大正デモクラシー期には社会運動や農民運動、部落解放運動など、さまざまな団体が活躍しました。選択肢の年代や目的と照合して、1920年代に結成・活発化した団体を見極める必要があります。

<選択肢>
① 全国水平社
(正)
 全国水平社は1922年に部落解放運動を掲げて結成され、1920年代に活発に活動しました。

② 日本社会党
(誤)
 最初の「日本社会党」は1906年に結成されていますが、直後に禁止されるなど、1920年代に継続的に活動したものとしては当てはまりにくいです(時期や組織形態に変遷があります)。

③ 明六社
(誤)
 明六社は1873年(明治6年)に結成された啓蒙団体であり、活動期間は明治初期が中心です。1920年代とは直接結び付きません。

④ 翼賛政治会
(誤)
 翼賛政治会は1940年に結成された戦時体制下の組織であり、1920年代の団体ではありません。

問21:正解4

<問題要旨>
空欄「ア」に入る語句X・Y(「発展」か「動揺」か)と、その語句が入る理由(a・b:小作料の引上げが実現したか/小作料の引上げを求める動きが広まったか)を組み合わせる問題です。1920年代の小作争議が活発化した結果、農村社会がどのような状態になったかがポイントとなります。

<選択肢>
X=発展、Y=動揺
a=小作料の引上げが実現した
b=小作料の引上げを求める動きが広まった

① X=a
(誤)
 「発展=小作料の引上げが実現」に直結するのは不自然で、むしろ引上げ要求は小作人側の闘争が激化し、農村に緊張が走った場面とも考えられます。

② X=b
(誤)
 「発展=小作料の引上げを求める動き」となるのも噛み合いにくいです。争議の活発化はむしろ「動揺」を示す可能性が高いです。

③ Y=a
(誤)
 Yを「発展」と読んで「a=引上げが実現した」としても、あまり噛み合いません。

④ Y=b
(正)
 1920年代の農村では、小作争議が広まり小作料引上げを求める動きが盛んになりました。それは農村社会の「動揺」として表現できるため、Y=「動揺」、理由b=「小作料の引上げを求める動きが広がった」と捉えるのが妥当です。

問22:正解1

<問題要旨>
戦時下の物資統制に関して、X・Yの記述が正しいか誤りかを問う問題です。国家総動員法(1938年)に基づいて政府は生活必需品の流通を厳しく管理し、切符制・配給制の導入や価格等統制令の公布などを進めました。

<選択肢>
【X】砂糖・マッチなどの消費を制限する切符制が開始された。
【Y】国家総動員法にもとづき、価格等統制令が出された。

① X=正 Y=正
(正)
 戦時下では砂糖・マッチをはじめ生活必需品全般が配給制・切符制となり、さらに1939年「価格等統制令」が国家総動員法に基づいて施行されました。この2つはどちらも実施された事柄です。

② X=正 Y=誤
(誤)
 Yも実際に公布されたため、誤にはできません。

③ X=誤 Y=正
(誤)
 砂糖・マッチの切符制も実施されており、Xを誤とする根拠はありません。

④ X=誤 Y=誤
(誤)
 両方ともに史実として実施されたので、誤りです。

問23:正解2

<問題要旨>
「イ」に入る2つの政策(XとY)と、それぞれの目的(a・b)の組み合わせを問う問題です。戦時期においては、政府が「小作人を優遇する政策」をとるか、あるいは「地主を優遇する政策」をとるかによって狙いが異なります。(a)は「寄生地主制を強化するため」、(b)は「食糧の生産を奨励するため」。どの政策がどの目的を有したかを整理することがポイントです。

<選択肢>
X=小作人(耕作者)を優遇する政策
Y=地主を優遇する政策

a=寄生地主制を強化するため
b=食糧の生産を奨励するため

① X=a
(誤)
 小作人を優遇して寄生地主制を強化する、というのは矛盾します。

② X=b
(正)
 小作人を優遇する政策は、生産者(耕作者)のモチベーション向上を狙っており、「食糧の生産を奨励するため」のbと結び付きます。一方でY=地主優遇策は、寄生地主制の維持・強化が目的であるaと結び付きます。

③ Y=a
(誤)
 Y=aは正しいが、Xの組み合わせが間違っていると成立しません。

④ Y=b
(誤)
 地主優遇策が「食糧生産を奨励するため」とするのは必ずしも筋が通りません。

問24:正解4

<問題要旨>
戦後の農地改革を取り上げたスライド3を参考に、農地改革の過程と実績に関して述べた文のうち正しいものを選ぶ問題です。1946年の第二次農地改革によって、多くの農地が政府に買い上げられ、小作人に売り渡されました。その結果、1945年当時と比べると自作農が大幅に増加し、兼業農家の割合も時期を追って大きく変化していきます。

<選択肢>
① GHQは、日本の軍国主義の原因の一つに寄生地主制があると考えていた。
(正しい史実だが、本問で正解かどうかは他の選択肢との比較が必要)

② 第一次農地改革案は不徹底であるとみなされ、寄生地主制の除去を求めるGHQの指示により、第二次農地改革が開始された。
(これも事実として正しいが、最終的に「一つだけ正解」を比較)

③ 1965年の農家の9割以上は経営規模2ha未満で、1935年時点と比べて経営規模の小規模性は大きく変化していない。
(戦後の農地改革で自作農化が進んでも、農家の平均耕地面積は依然小さいままでしたが、「9割以上が2ha未満」という数値が正しいかの検証が必要)

④ 1965年の農家の約8割は兼業農家であり、1935年時点と同様に、専業農家の割合は低いままである。
(正)
 戦後の高度経済成長期に、農村人口の兼業化が急速に進んだ結果、1960年代には兼業農家が大半を占めました。グラフを見る限り1935年当時より兼業率はかなり上がっているため、「同様に専業の割合が低い」という要旨は、「ずっと多数派でない」ことを指すとも読めます。ここで問題文は「正しいものを一つ選べ」とされているため、この記述全体を確認すると、統計上1965年には約8割が兼業農家となっており、専門農家は少数だったことは確かに成立します。結果的に(4)が最適解となります。

問25:正解1

<問題要旨>
戦後の農業政策の展開について、a~dの文を組み合わせて正しい内容を問う問題です。ここでは主に減反政策(米の生産過剰を防ぐために政府が生産調整を行う)と、農業基本法(1961年制定)による農業経営の近代化・改善を図る狙いがポイントです。

<選択肢>
a 米の生産調整のため、減反政策が開始された。
b 米の輸入量を減らすため、減反政策が開始された。
c 農業の経営改善を図るため、農業基本法が制定された。
d 自作農を創設するため、農業基本法が制定された。

① a・c
(正)
 1970年以降、米の過剰生産対策として減反政策が始まり(a)、また1961年には農業基本法が制定され、農家の所得向上・経営改善を目指してさまざまな施策を打ち出しました(c)。これら2つの組み合わせは戦後農業の概要と一致します。

② a・d
(誤)
 農業基本法は「自作農創設」を目的としたわけではありません。自作農創設は戦後直後の農地改革の主眼でした。

③ b・c
(誤)
 減反政策は米の輸入量を減らすためではなく、国内での過剰生産を抑えるために実施されました。

④ b・d
(誤)
 bもdも趣旨を取り違えており誤りとなります。

第5問

問26:正解3

<問題要旨>
年表の空欄「ア」(1873年)と「イ」(1937年)に入る語句の組合せを問う問題です。明治初期(1873年)に設置されたのは「内務省」であり、また1937年に起こった全面戦争の相手は「中国」(いわゆる日中戦争)です。

<選択肢>
① ア=農商務 イ=中国
(誤)
 農商務省の設置は1881年であり、1873年には当てはまりません。また1937年の全面戦争の相手は中国なので、「イ=中国」は正しいものの、アが不一致です。

② ア=農商務 イ=アメリカ
(誤)
 農商務省の設置年とずれている上に、1937年の全面戦争の相手国はアメリカではありません。

③ ア=内務 イ=中国
(正)
 1873年に設置されたのが内務省であり、地方行政や衛生・警察などを所管しました。1937年には日中戦争が始まり、全面戦争へと突入した相手は中国です。この組合せが史実と合致します。

④ ア=内務 イ=アメリカ
(誤)
 1937年時点で日本が本格的に戦争状態に入ったのは中国に対してであり、アメリカではありません。

問27:正解2

<問題要旨>
年表の下線部「@(1911年制定の工場法)」が成立した背景として挙げられる二つの文(X・Y)の真偽を問う問題です。労働条件の改善を目的とした工場法が制定されたのは、低賃金・長時間労働などの問題が顕在化していたからですが、日本労働総同盟(1921年結成)が全国規模で大きく発展していくのは工場法成立後の大正期~昭和初期の流れと関連します。

<選択肢>
【X】労働者が低賃金や長時間の労働を強いられていたことが問題になった。
【Y】労働者の地位向上を目的に結成された日本労働総同盟が全国的に発展した。

① X=正 Y=正
(誤)
 工場法成立(1911年)と日本労働総同盟の全国的発展(1920年代)をともに正とするなら、両者の結びつきを正確に示す必要がありますが、問題文のニュアンス的にもう一段の検討が要ります。

② X=正 Y=誤
(正)
 工場法が制定された根本理由の一つに劣悪な労働環境があったのは確かなのでXは正。また日本労働総同盟は確かに1921年に発足し、労働運動を進めていきましたが、「全国的組織として大きく発展」したかどうかについては、当時の各種労働運動の分立・弾圧などを踏まえると、必ずしも一貫して全国的に発展したわけではないとされます。ここではYを誤とするのが問題の意図です。

③ X=誤 Y=正
(誤)
 Xを誤とする根拠はなく、劣悪な労働環境は実際に問題化していました。

④ X=誤 Y=誤
(誤)
 Xは明らかに正しいため、両方誤とはなりません。

問28:正解2

<問題要旨>
年表にある「恤救規則(1874)・救護法(1929)・日本国憲法(1946)・生活保護法(1950年全面改正後)」などの条文や要旨を示す選択肢から、どれが「恤救規則」の一部(要旨)にあたるかを問う問題です。恤救規則は貧民救済に関して当時の地方公共団体に一定の公的扶助を認める最初期の規則でしたが、その条文(要旨)はどのように規定していたかが焦点になります。

<選択肢>
① 国はすべての生活面で、社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上と増進に努めなければならない。
(誤)
 これは日本国憲法第25条を要約した趣旨に近いです。恤救規則にはこうした国の義務を包括的に定めた条文はありません。

② 貧困者の救済方法は、人びとの相互の助けあいの精神によって定めるべきものである。
(正)
 恤救規則は当時、国の直接負担というよりは、県や市町村などの財政・民間の相互扶助的な仕組みで行われる公的救済を認める立場でした。要旨としては「家族や地方公共団体の助け合い」の色彩が強かったと言えます。

③ 生活に困窮するすべての国民に対して、国はその困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障する。
(誤)
 これは戦後の生活保護法(1950年)の理念に近い文章です。

④ 道府県・市町村・民間人が負担する救護費用に対し、国庫がその二分の一以内を補助する。
(誤)
 「救護法(1929)」には、国庫補助の規定がありますが、1874年の恤救規則にはここまで明確な国庫補助の仕組みはありません。

問29:正解2

<問題要旨>
年表のA時期(大正末~昭和初期)における生活文化の変化として、選択肢a~dから正しい組合せを選ぶ問題です。1920年代にはラジオ放送(1925年開始)や、円本(1冊1円程度の廉価本)の普及が起き、一方でテレビ放送の本格開始は戦後(1953年)なので注意が必要です。また中村正直による西洋思想の訳本は明治初期(1870年代)なので、A時期とは合いません。

<選択肢>
a 娯楽の分野で、ラジオ放送が開始された。
b 娯楽の分野で、テレビ放送が開始された。
c 出版の分野で、中村正直によって西洋思想の訳本が出された。
d 出版の分野で、「円本」と呼ばれる1冊1円の本が誕生した。

① a・c
(誤)
 cは明治初期の動きです。大正末~昭和初期にはそぐいません。

② a・d
(正)
 aは1925年にラジオ放送が始まり、dは1920年代半ばから「円本」が数多く出版されました。A時期に合致する組合せです。

③ b・c
(誤)
 b(テレビ放送開始)は1953年なのでA時期ではありません。cは明治初期に当たります。

④ b・d
(誤)
 bは時期が戦後になるため誤りです。

問30:正解4

<問題要旨>
下線部の史料は1942年12月に刊行された『国民健康保険』に関する小泉親彦(当時の厚生大臣)の文章で、「ウ」に入る文として最も適当なものを選ぶ問題です。要旨としては、「戦時下において、内では生産力を高め、外では敵と戦うために、健康な国民を大量に育成することが急務である」という思想が示唆されます。

<選択肢>
① 国内では治安を維持するために、国外では日本人の穏やかさを印象づけるための健康…
(誤)
 この史料は戦時下の総力戦体制を想定した内容なので、「日本人の穏やかさ」を印象づける目的という説明は不自然です。

② 国内ではぜいたくをしないために、国外では戦場での飢えをしのぐために健康な心身を…
(誤)
 ここでは国民全体の健康増進を、外での飢え対策としてだけ述べてはいません。

③ 国内では少数精鋭の人材をつくるために、国外では移民となって働くために健康な心身を…
(誤)
 戦時下に移民を想定するのは筋違いです。

④ 国内では生産力を高めるために、国外では敵に打ち勝つために、健康な心身をもつ国民の育成が急務とされたからなんだって
(正)
 引用史料には、内外での総力戦への対応として健康な兵・国民を育成し、「一億国民総兵士」のような発想が述べられています。これが最も史料の文脈に合致します。

問31:正解1

<問題要旨>
年表のBの時期(戦時下)には学問・思想への統制が強まり(X)、年表のCの時期(戦後)には憲法により学問・思想の自由が保障された(Y)とする文について、それぞれの出来事(a~d)と正しい組み合わせを問う問題です。戦時中には「人民戦線事件」や「内閣情報局の設置」などによって思想統制が行われ、戦後には「日本学術会議」が設立されて学問の自由を象徴する動きとなりました。

<選択肢>
a 人民戦線事件
b 二・二六事件
c 日本学術会議の発足
d 内閣情報局(情報局)の設置

① X=a Y=c
(正)
 戦時下の統制強化の具体例として「人民戦線事件(1937年)」があり、戦後の学問の自由を象徴する動きとして「日本学術会議の発足(1949年)」があります。よってX=a、Y=cが最も適切です。

② X=a Y=d
(誤)
 dの内閣情報局は戦時下の統制機関なので、戦後の学問の自由保障と結び付けるのは不適切です。

③ X=b Y=c
(誤)
 二・二六事件(1936年)は青年将校のクーデター未遂事件であり、直接「学問・思想統制」とは主旨がやや異なります。

④ X=b Y=d
(誤)
 いずれも戦時下の統制側面を示す出来事で、X(戦時下)とY(戦後自由保障)の対比が成り立ちません。

問32:正解4

<問題要旨>
男女平等や男女共学、男女の職場での平等推進などに関する法整備の年代順(I~III)を正しく配列する問題です。典型的には、戦後すぐ(1947年)に教育基本法が制定(II:男女共学の原則)、1980年代半ば(1985年)に男女雇用機会均等法が制定(III:職場での男女平等推進)、さらに1999年に男女共同参画社会基本法(I)が制定、という流れが一般的です。

<選択肢>
I 男女共同参画社会基本法が制定された。
II 男女共学の原則を規定した教育基本法が制定された。
III 男女の職場での平等を推進する法律が、女子差別撤廃条約の批准をうけて制定された。

① I → II → III
(誤)
 男女共同参画社会基本法(1999年)は教育基本法(1947年)より後になります。

② I → III → II
(誤)
 Iを最初に置くと、1999年が最初になってしまい、戦後すぐの教育基本法よりも早いという矛盾が生じます。

③ II → I → III
(誤)
 教育基本法(1947)を最初に据えるのはよいが、そのあとにI(1999)とIII(1985)の順が逆転してしまいます。

④ II → III → I
(正)
 まず1947年に教育基本法(II)、次に1985年に男女雇用機会均等法(III)、最後に1999年に男女共同参画社会基本法(I)という年順が史実に合致します。

投稿を友達にもシェアしよう!
  • URLをコピーしました!
目次