2023年度 大学入学共通テスト 追試験「世界史A」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。
解答
解説
2023年度(令和5年度)大学入学共通テスト 追試験「世界史A」の全問解説です。第1問が30点、第2問が20点、第3問が30点、第4問が20点で、あわせて100点満点。すべて必答で、解答番号は1〜30です。各設問の見出しをタップすると、その問題の要旨と、選択肢ひとつひとつがなぜ正しい(誤っている)のかが開きます。まちがえた設問だけを選んで確認してください。
第1問
配点30。Aは遊牧民の軍事と文化(ティムール朝の細密画)、Bは20世紀アジア・アフリカの政治指導者の服装、Cは中国の纏足とその反対運動という三つの文章からなります。問2の年代配列と問8の地図が取りどころです。
問1:正解 ②(解答番号1/配点4)
<問題要旨>
会話文の空欄 ア に入る人物について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。ア は「モンゴル帝国やその一部を継承した王朝」の君主で、遠征の勝利を祝う酒宴を描いた細密画に登場し、「15世紀初頭にアンカラの戦いでオスマン帝国に勝利した」と説明されています。
<考え方>
「15世紀初頭」「アンカラの戦い」「オスマン帝国に勝利」の三つがそろえば、ティムールと決まります。アンカラの戦いは1402年で、ティムールがオスマン帝国のバヤジット1世を捕らえた戦いです。
<選択肢>
①【誤】
キプチャク=ハン国の支配(「タタールのくびき」)から脱したのは、モスクワ大公国のイヴァン3世です(1480年)。ティムールはキプチャク=ハン国を攻撃してはいますが、その支配から「脱した」人物ではありません。
②【正】
ティムールは1370年にティムール朝を建て、サマルカンドを都としました。サマルカンドは中央アジアの交易の要衝で、ティムール朝のもとで壮麗なモスクやマドラサが建てられ、細密画をはじめとするイラン=イスラーム文化が花開きました。
③【誤】
マムルーク朝(エジプト)を滅ぼしたのは、オスマン帝国のセリム1世です(1517年)。ティムールはシリアに侵攻してマムルーク朝を破りましたが、滅ぼしてはいません。
④【誤】
フランスにカピチュレーション(治外法権などを認める恩恵的特権)を与えたのは、オスマン帝国のスレイマン1世です(16世紀)。ティムール朝とは関係がありません。
問2:正解 ⑤(解答番号2/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓐ「遊牧民による諸国家」について述べた文あ〜うを、年代の古いものから順に配列する問題です。あは「モンゴル高原を支配したが、ウイグルに取って代わられた」、いは「ビザンツ帝国を圧迫し、十字軍遠征のきっかけを作った」、うは「武帝の時代の前漢から攻撃を受けた」。
<考え方>
三つの文がそれぞれどの遊牧国家を指すかを先に決めてしまえば、年代はすぐ並びます。「ウイグルに取って代わられた」「前漢の武帝」「十字軍のきっかけ」がそれぞれ決め手です。
<選択肢>
あ【—】
ウイグルが744年にモンゴル高原の覇権を奪った相手は突厥です。突厥は552年に建国し、東西に分裂したのち、東突厥がウイグルに滅ぼされました(6〜8世紀)。
い【—】
ビザンツ帝国を圧迫し十字軍遠征のきっかけを作ったのはセルジューク朝です。1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ皇帝を捕らえ、その救援要請が1095年のクレルモン宗教会議と第1回十字軍につながりました(11世紀)。
う【—】
前漢の武帝が大規模な攻撃を加えた遊牧国家は匈奴です。張騫の西域派遣や衛青・霍去病の遠征が行われました(前2世紀)。
⑤【正】
古い順に、う(前2世紀・匈奴)→ あ(6〜8世紀・突厥)→ い(11世紀・セルジューク朝)となります。
問3:正解 ①(解答番号3/配点3)
<問題要旨>
会話文の空欄 イ に入る語え〜かと、下線部ⓑ「15世紀までにユーラシア東西の盛んな交流があった」について述べた文X・Yとの組合せを選ぶ問題です。イ は「西アジア産の青いコバルト顔料で文様を描いて絵付けをした」器で、「元朝の時代に生産が盛んになった」と説明されています。
<考え方>
イ は「青いコバルト顔料」「元代」の二語で決まります。X・Yは、下線部が「15世紀まで」の交流を指していることに注意して、時代が合っているかを見ます。
<選択肢>
え(染付)【正】
コバルト顔料(呉須)で白磁に青い文様を描く技法が染付(青花)です。コバルトは西アジア産で、元代の景徳鎮で本格的に生産され、中国から内陸アジア・西アジアへ広く輸出されました。ティムール朝の細密画に描かれた器としても、時代・産地ともに合致します。
お(伊万里焼)【誤】
伊万里焼は17世紀以降の日本(肥前)で焼かれた磁器です。元朝の時代の中国からもたらされた器ではありません。
か(赤絵)【誤】
赤絵(五彩)は上絵付けで赤を主体とする多彩な色を焼き付ける技法で、明代に発達しました。「青いコバルト顔料」という説明に合いません。
X【正】
モンゴル帝国は駅伝制(ジャムチ)を整備して陸路を安全にし、あわせて海路の交易も活発になりました。陸海のネットワークが結ばれたことで、東西の人・物・技術の往来が飛躍的に増えました。
Y【誤】
イエズス会が創設されたのは1534年で、宣教師が東アジアに来るのは16世紀以降です。しかも彼らが用いたのは主に海路でした。「15世紀までに」という下線部の時代に合いません。
①【正】
したがって え―X の組合せになります。
問4:正解 ④(解答番号4/配点3)
<問題要旨>
会話文の空欄 ウ に入る人物の名あ・いと、その人物について述べた文X・Yとの組合せを選ぶ問題です。ウ は「インドネシア国民党を結成した」人物で、「スーツに黒い帽子を合わせた服装」をしていたと説明されています。
<考え方>
インドネシア国民党の結成者を決めてから、その人物の事績としてX・Yのどちらが正しいかを判定します。
<選択肢>
あ(ホー=チ=ミン)【誤】
ホー=チ=ミンはベトナムの独立運動指導者で、ベトナム独立同盟(ベトミン)を組織し、ベトナム民主共和国の初代主席となりました。インドネシアの人物ではありません。
い(スカルノ)【正】
スカルノは1927年にインドネシア国民党を結成し、1945年にインドネシアの独立を宣言して初代大統領となりました。洋服に現地の帽子(ソンコ)を合わせた服装で知られます。
X【誤】
順序が逆です。スカルノが先に大統領となり、1965年の九・三〇事件を経てスハルトが実権を握りました。
Y【正】
スカルノ大統領の時代、1955年にインドネシアのバンドンでアジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開催され、平和十原則が採択されました。
④【正】
したがって い―Y の組合せになります。
問5:正解 ②(解答番号5/配点4)
<問題要旨>
下線部ⓒ「綿をめぐる歴史」について述べた文として誤っているものを選ぶ問題です。
<考え方>
「誤っているもの」を選ぶ設問なので、三つは正しい記述です。産業革命期の紡績機は発明者と機械名の組合せが狙われやすいところです。
<選択肢>
①【正しい】
アメリカ合衆国南部では、1793年のホイットニーによる綿繰り機の発明を機に綿花栽培が急拡大し、黒人奴隷を使う綿花プランテーションが成立しました。
②【誤り】
ハーグリーヴズが発明したのはジェニー紡績機です。ミュール紡績機を発明したのはクロンプトンで、ジェニー紡績機とアークライトの水力紡績機の長所を組み合わせたものでした。発明者と機械名が入れ替わっています。
③【正しい】
明代の中国では江南を中心に綿花の栽培と綿織物業が広がり、商品作物として重要な地位を占めました。
④【正しい】
イギリスの機械制綿工業が発達すると安価な綿製品がインドへ流入し、ダッカのモスリンに代表されるインドの伝統的な手織り綿織物業は壊滅的な打撃を受けました。
問6:正解 ②(解答番号6/配点3)
<問題要旨>
前の文章を参考にしつつ、アジアやアフリカの政治指導者について述べた文う・えの正誤の組合せを選ぶ問題です。うは「ムスタファ=ケマルが服装の改革を行ったのは、ローマ字の採用と同じ政策の一環である」、えは「ンクルマが現地の衣装を着たのは、シオニズム思想に基づくものである」。
<考え方>
うはトルコ革命の政策がどんな方向を向いていたか、えはシオニズムという語の意味を確認します。
<選択肢>
う【正】
ムスタファ=ケマルはトルコ共和国で、カリフ制廃止、女性参政権、太陽暦の採用、文字改革(アラビア文字からローマ字へ)など一連の西欧化・世俗化政策を進めました。トルコ帽の廃止など服装の改革も、その同じ近代化政策の一環です。
え【誤】
シオニズムは、ユダヤ人がパレスチナに国家を建設しようとする運動です。ンクルマ(エンクルマ)はガーナ独立を導いた指導者で、その思想はパン=アフリカ主義とアフリカ=ナショナリズムです。現地の衣装(ケンテ布)を着たのも、それに基づくものでした。
②【正】
したがって う―正、え―誤 の組合せになります。
問7:正解 ②(解答番号7/配点4)
<問題要旨>
文章中の空欄 エ の王朝の歴史について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。エ は資料1の「我が王朝の エ では八旗の女性は皆纏足せず」という一節に現れます。
<考え方>
「八旗」という語が決め手です。八旗は満洲人の軍事・社会組織なので、エ は清と決まります。あとは選択肢の出来事がどの王朝のものかを仕分けます。
<選択肢>
①【誤】
租庸調制に代わって両税法が施行されたのは唐です(780年、徳宗の時代に楊炎が建議)。
②【正】
清は、モンゴル・青海・チベット・新疆といった藩部を統轄するために理藩院を置きました。直轄領を六部が管轄したのに対し、藩部は理藩院が監督し、現地の有力者による統治を認める間接統治がとられました。
③【誤】
『清明上河図』は北宋の都・開封のにぎわいを描いた絵巻です。清の作品ではありません。
④【誤】
マカオがポルトガルから返還されたのは1999年で、返還先は中華人民共和国です。清の時代の出来事ではありません。
問8:正解 ③(解答番号8/配点3)
<問題要旨>
文章中の空欄 オ の位置を示す地図中の a〜c と、中国に対するイギリスの政策について述べた文あ・いとの組合せを選ぶ問題です。オ は「南京条約で開港された港の一つで、長江河口付近にある」と説明されています。
<考え方>
オ は「長江河口付近」の一語で上海と決まります。地図では a が北(渤海湾付近)、b が長江河口、c が南(広州付近)です。あわせて、あ・いのうちイギリスの政策として正しいものを選びます。
<選択肢>
a【誤】
華北の渤海湾に面した位置で、天津などにあたります。長江河口ではありません。
b【正】
長江が海に注ぐ位置にあり、上海にあたります。上海は南京条約(1842年)で開港された五港(広州・厦門・福州・寧波・上海)の一つで、その後、中国最大の貿易港へと発展しました。資料2のイギリス人が拠点とした場所として合致します。
c【誤】
華南に位置し、広州などにあたります。南京条約の開港場ではありますが、長江河口付近ではありません。
あ【正】
イギリスは1793年、貿易制限の撤廃と自由な通商を求めてマカートニーを乾隆帝のもとへ派遣しました(要求は拒否されました)。
い【誤】
膠州湾を租借したのはドイツです(1898年)。イギリスが同じ年に租借したのは威海衛と九龍半島(新界)でした。
③【正】
したがって b―あ の組合せになります。
問9:正解 ③(解答番号9/配点3)
<問題要旨>
前の文章を参考にしつつ、纏足の歴史について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
資料1・資料2に書かれていることと照らし合わせるのが基本です。史実の知識より、資料の記述と矛盾しないかどうかを優先して判定します。
<選択肢>
①【誤】
資料1に「殷や周の時代を調べ、儒学の経典などを見ても、纏足が良いとは一言も書かれていない」とあります。孔子の教えに基づく風習ではないことが、資料の中で明確に否定されています。
②【誤】
資料1は「北京や山西などの足の小ささは甚だしく」と述べています。北京も山西も華北であり、華北で纏足が行われていなかったという記述は資料と矛盾します。
③【正】
太平天国の滅亡は1864年です。資料2は「それから間もなく義和団の運動が起こる」と述べているので、1899年前後、つまり滅亡から約35年後の蘇州の様子を記しています。そこでは「蘇州でも最も古典の教養を持ち、詩文を書く能力のある女性」が両足の解放を申し出ており、それまでは纏足をしていたことがわかります。
④【誤】
義和団の運動は山東省で起こり、華北一帯に広がりました。蘇州は江南に位置し、義和団の中心地ではありません。資料2も、義和団の運動が起こって「蘇州でも動揺が走った」と、遠方の出来事の影響として書いています。
第2問
配点20。Aは「国民化(ナショナリゼーション)」という歴史用語の翻訳をめぐる資料、Bは梁啓超が1901年に発表した「中国史叙論」を題材にした授業の場面です。どちらも資料に書かれていることを丁寧に拾えば答えが決まります。
問1:正解 ④(解答番号10/配点3)
<問題要旨>
文章中の空欄 ア の際に出された宣言の名あ・いと、空欄 イ に入れる語句X・Yとの組合せを選ぶ問題です。会話文では「ア の際に出された宣言では、第一条で自由と平等が掲げられている」「第三条の イ という語句が、ナチ党の訳語とも関係している」と述べられています。
<考え方>
手がかりは「第一条」「第三条」という条文番号です。条文の形をとっている宣言はどちらかを考え、その第三条の内容を思い出します。
<選択肢>
あ(アメリカ独立宣言)【誤】
アメリカ独立宣言(1776年)は条文に区切られた形式ではなく、前文と本文からなる文章です。「第一条」「第三条」という言い方は当てはまりません。
い(フランス人権宣言)【正】
フランス人権宣言(1789年)は全17条からなり、第1条が「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と自由と平等を掲げています。会話文の説明と一致します。
X【誤】
「新しい政府を設けることが、人民の権利である」は、アメリカ独立宣言に見られる革命権(抵抗権)の表現です。フランス人権宣言の第三条ではありません。
Y【正】
フランス人権宣言第3条は「あらゆる主権の根源は、本質的に国民(ナシオン)に存する」と定めています。ここで用いられた nation こそが、資料のいう「国民(ネイション)」であり、ナチ党の訳語をめぐる議論につながります。
④【正】
したがって い―Y の組合せになります。
問2:正解 ⑥(解答番号11/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓐ「19世紀からファシズム台頭期にかけての『国民』に関連する歴史」について、図Ⅰ〜Ⅲに描かれている事柄を年代の古いものから順に配列する問題です。Ⅰは第一次世界大戦中のドイツで作られた総動員のポスター、Ⅱはドイツ統一を果たした首相が中央に描かれた絵画、Ⅲは自由主義運動と国民主義運動の高まりのなかで起こった革命を描いた絵画です。
<考え方>
三つの図がそれぞれどの出来事を描いたものかを特定します。説明文の「同盟国側のドイツ」「ドイツの国民主義を利用して統一」「自由主義運動と国民主義運動の高まり」が決め手です。
<選択肢>
Ⅰ【—】
「国民が総動員された戦争中に、同盟国側のドイツで作成された」とあるので、第一次世界大戦(1914〜18年)のポスターです。
Ⅱ【—】
「中央に描かれている首相は、ドイツの国民主義を利用して統一を果たした」とあるので、ビスマルクです。ヴェルサイユ宮殿でのドイツ帝国成立宣言(1871年)を描いた絵画です。
Ⅲ【—】
ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」で、1830年のフランス七月革命を描いた作品です。
⑥【正】
古い順に、Ⅲ(1830年)→ Ⅱ(1871年)→ Ⅰ(1914〜18年)となります。
問3:正解 ③(解答番号12/配点4)
<問題要旨>
下線部ⓑ「ナチ党と大衆文化、特にメディアやプロパガンダとの関わり」について、年表に示した a〜d の時期のうち、ヒトラーの率いるナチ党が第一党になった時期として正しいものを選ぶ問題です。年表には1895年(リュミエール兄弟の映画上映)、1920年(アメリカ合衆国でのラジオ公共放送開始)、1936年(ベルリン=オリンピック)が示されています。
<考え方>
ナチ党が国会第一党になった年を思い出し、年表の三つの区切りのどこに入るかを見ます。
<選択肢>
a(1895年より前)【誤】
ナチ党の前身が結成されるのは1919年であり、1895年より前にはそもそも存在しません。
b(1895〜1920年)【誤】
ヒトラーが党に加わったのは1919年、党名がナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)となるのは1920年で、この時期はまだ弱小政党でした。
③(c=1920〜1936年)【正】
世界恐慌後の1932年7月の総選挙で、ナチ党は第一党となりました。翌1933年にヒトラーが首相に任命され、全権委任法によって独裁体制を固めます。1920年と1936年の間にあたるので c です。
d(1936年より後)【誤】
1936年のベルリン=オリンピックは、すでに独裁体制を確立したナチ党政権が国威発揚とプロパガンダの場として利用したものです。第一党になったのはそれより前です。
問4:正解 ④(解答番号13/配点4)
<問題要旨>
下線部ⓒ「日本に亡命します」の要因となった出来事と、その出来事を説明した文との組合せとして正しいものを選ぶ問題です。梁啓超は「政治改革運動に失敗した後、日本に亡命」したと述べられています。
<考え方>
梁啓超が関わった政治改革運動と、それが失敗に終わった政変の名を組み合わせます。甲申政変と戊戌の政変を取り違えないことが要点です。
<選択肢>
①【誤】
甲申政変は1884年に朝鮮で金玉均らが起こしたクーデタで、中国の政治改革運動ではありません。また洋務運動は「中体西用」を掲げた技術中心の近代化で、梁啓超が関わったものでもありません。
②【誤】
変法運動の説明は正しいものの、出来事の名が甲申政変となっています。朝鮮の政変であり、梁啓超の亡命の要因ではありません。
③【誤】
出来事の名は正しいですが、戊戌の政変で挫折したのは洋務運動ではなく変法運動です。洋務運動は日清戦争(1894〜95年)の敗北によってその限界が明らかになりました。
④【正】
康有為・梁啓超らは光緒帝のもとで日本の明治維新にならった制度改革(変法自強運動)を進めましたが、1898年に西太后らの保守派がクーデタを起こして光緒帝を幽閉しました(戊戌の政変)。康有為・梁啓超は日本へ亡命し、梁啓超は横浜で雑誌を刊行しました。
問5:正解 ③(解答番号14/配点3)
<問題要旨>
文章中の空欄 ウ に入れる文として最も適当なものを選ぶ問題です。会話文では「『中国』という言葉は異民族や周辺勢力との区別を示す場合にもよく使われました」という先生の説明を受けて、白井さんが「それなら、ウ こともあったでしょうね」と述べています。
<考え方>
「異民族や周辺勢力との区別を示す使い方」の例として成り立つかどうかを見ます。あわせて、各選択肢の歴史事項そのものが正しいかどうかも確認します。
<選択肢>
①【誤】
秦の始皇帝が万里の長城を修築したのは匈奴に備えるためです。西夏は11世紀にタングートが建てた国で、秦とは800年以上へだたっています。
②【誤】
金に支配されたのは華北で、江南に逃れたのが南宋です。「江南が金によって支配された頃、華北に逃れた宋」は南北が逆になっています。
③【正】
明はモンゴル高原の勢力を「北虜」と呼び、東南沿海の倭寇を「南倭」と呼びました(北虜南倭)。周辺の勢力を「虜」「倭」と呼んで区別し、それに対して自らを「中国」と称したわけで、まさに異民族との区別を示す使い方にあたります。
④【誤】
ネルチンスク条約(1689年)を結んだのは康熙帝です。乾隆帝ではありません。またこの条約はロシアとの国境画定であり、「中国」という語の使い方の例としても適切ではありません。
問6:正解 ③(解答番号15/配点3)
<問題要旨>
前の文章から読み取れる梁啓超の立場について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
資料は「中国史叙論」(1901年)の要約です。梁啓超が何を批判し、どの呼称をなぜ選んだのかを、資料の言葉に即して読み取ります。
<選択肢>
①【誤】
資料は「民族がそれぞれの建てた国を尊重することは、今では世界共通の大義である」と述べていますが、当時の王朝は満洲人の建てた清であり、「漢人によって建てられた」ものではありません。また梁啓超は「漢人」「唐人」といった王朝名由来の呼称そのものを退けています。
②【誤】
資料が書かれたのは1901年で、中国共産党の成立(1921年)より20年前です。
③【正】
資料は「漢人」「唐人」は王朝名にすぎず、「震旦」「支那」は外国からの呼び名、「中国」「中華」は尊大だと、三者すべての欠点を認めています。そのうえで「三者いずれも欠点はあるが、やむなく、やはり我々の口になじんだ言葉で『中国史』と呼ぼう」と結論づけました。会話文でも「中国」は儒学の経典や『史記』など古い文献に見える語だと説明されており、王朝の区切りを超えた一貫した歴史を描こうとする立場が読み取れます。
④【誤】
「漢人」「唐人」については「特定の王朝の名を用いたものである」として退けています。新たな国名として採用しようとする立場ではありません。
第3問
配点30。20世紀を動かした政治家がテーマです。Aはロシア革命を目撃した音楽家の回想録、Bはムッソリーニの『自叙伝』、Cはマルタ共和国に置かれたチャーチルの胸像をめぐる会話。いずれも資料の書き手がどの立場からものを見ているかを読み取る設問が含まれます。
問1:正解 ②(解答番号16/配点4)
<問題要旨>
下線部ⓐ「国会(ドゥーマ)」がロシアで開設された経緯について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
ドゥーマの開設は、ロシアで議会政治が始まった画期です。どの出来事を受けて皇帝が譲歩したのかを思い出します。
<選択肢>
①【誤】
エカチェリーナ2世(在位1762〜96年)は啓蒙専制君主として法典編纂などを試みましたが、プガチョフの反乱やフランス革命の影響を受けて反動化し、議会は開設していません。
②【正】
1905年の血の日曜日事件をきっかけに第一次ロシア革命(ロシア第一革命)が起こると、ニコライ2世は十月宣言を発してドゥーマ(国会)の開設と憲法の制定を約束しました。首相ウィッテのもとで出されたこの譲歩によって、ロシアで初めて議会が置かれました。
③【誤】
ピョートル1世(在位1682〜1725年)の西欧化政策は、軍制改革、官僚制の整備、ペテルブルク建設などで、議会の開設は含まれません。
④【誤】
ゴルバチョフのペレストロイカは1980年代後半の改革で、ドゥーマの開設(1906年)より80年ほど後の出来事です。
問2:正解 ②(解答番号17/配点3)
<問題要旨>
資料中の空欄 ア と イ に入れる人物の名と、下線部ⓑ「その後に起きたこと」に対するアウアーの評価について述べた文あ・いとの組合せを選ぶ問題です。資料では、ア は「7月から首相として率いることになる臨時政府」の人物、イ は「10月にトロツキーと権力の座につく」人物と説明されています。
<考え方>
ロシア革命の1917年を月ごとに追えば、二人の人物は確定します。評価については、書き手が誰であり、革命で何を失ったのかに注目します。
<選択肢>
ア=ケレンスキー【正】
二月革命後の臨時政府で司法相・陸海軍相を歴任し、1917年7月に首相となったのがケレンスキーです。連合国と協調して戦争を継続する方針をとりました。
イ=レーニン【正】
四月テーゼで臨時政府への反対と「すべての権力をソヴィエトへ」を訴え、十月革命でトロツキーとともに権力を握ったのがレーニンです。
あ【誤】
「大衆に活力を与えるもの」という表現は、資料の中では ア(ケレンスキー)の演説について使われたものです。新しい政府=ボリシェヴィキ政権への評価ではありません。
い【正】
資料の最後で、アウアーは「ボリシェヴィキの台頭が意味したのは、49年間にわたって自分が夢見てきたもの、望みをかけていたもの全ての崩壊である」と述べています。1868年からロシアで音楽家として活躍してきた彼にとって、革命は自分が築いたものを台無しにする出来事でした。明らかに批判的な評価です。
②【正】
したがって ア=ケレンスキー、イ=レーニン、評価=い の組合せになります。
問3:正解 ③(解答番号18/配点3)
<問題要旨>
資料で描かれている事柄のうち、4月の状況について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
1917年の二月革命から十月革命までの間、ロシアの権力がどのような状態にあったかを思い出します。資料も「臨時政府」と「大衆に向かって大演説をぶちあげていた」勢力の両方に触れています。
<選択肢>
①【誤】
ボリシェヴィキが権力を握るのは十月革命(現在の暦で11月)以降です。4月の時点では、資料にも「イ は自分たちが ア の人気に太刀打ちできないことを理解していた」とあるとおり、少数派にすぎませんでした。
②【誤】
立憲民主党は臨時政府の中心となった政党ですが、資料には「社会主義者が数多くいた」ともあり、一党独裁ではありません。
③【正】
二月革命で皇帝が退位した後、ブルジョワ中心の臨時政府と、労働者・兵士の代表からなるソヴィエトが並び立つ二重権力の状態が続きました。4月はまさにこの時期にあたり、レーニンが四月テーゼを発表して臨時政府打倒を訴えたのもこの状況下です。
④【誤】
皇帝ニコライ2世は二月革命(3月)で退位しており、4月にはすでに皇帝政府は存在しません。
問4:正解 ⑤(解答番号19/配点4)
<問題要旨>
文章中の空欄 ウ と エ に入れる国の名の組合せとして正しいものを選ぶ問題です。資料では ウ が「ベルギーに侵入した」国、エ が「東部地域への侵攻」を受けた国で、イタリアが第二次世界大戦で「降伏寸前の エ に宣戦布告」した相手とされています。
<考え方>
ウ は第一次世界大戦の開戦時にベルギーへ侵入した国、エ は第二次世界大戦で1940年に降伏寸前だった国です。あわせて、19世紀のイタリア統一の際にどの国へ何を割譲したかも思い出します。
<選択肢>
ウ=ドイツ【正】
ドイツはシュリーフェン計画に基づき、1914年に中立国ベルギーを侵犯してフランスへ侵攻しました。これがイギリスの参戦理由となり、ベルギーでの行為は連合国側で大々的に報道されました。
エ=フランス【正】
ドイツ軍は1940年5月にフランスへ侵攻し、6月にはパリが陥落します。ムッソリーニはその降伏寸前の6月10日にフランスへ宣戦布告しました。
割譲した地域【—】
イタリア統一の過程で、サルデーニャ王国は1860年にサヴォイアとニースをフランスへ割譲しました(フランスの支援の見返り)。ムッソリーニが要求したのはこの地域です。
⑤【正】
したがって ウ―ドイツ、エ―フランス の組合せになります。
問5:正解 ②(解答番号20/配点3)
<問題要旨>
地図中に示した a〜d のうち、下線部ⓒ「19世紀のイタリア統一の際に割譲した地域」に含まれる地域の位置として正しいものを選ぶ問題です。
<考え方>
イタリア統一の際にフランスへ割譲したのはサヴォイアとニースです。どちらもイタリア北西部のフランス国境地帯にあります。
<選択肢>
a【誤】
イタリア半島の北東部で、ヴェネツィアや南チロルにあたります。ヴェネツィアは1866年に、南チロルは第一次世界大戦後にイタリアが獲得した地域で、割譲したのではなく獲得した側です。
②(b)【正】
イタリア北西部、フランスとの国境地帯で、サヴォイアとニースにあたります。1860年、サルデーニャ王国はフランスの支援を得る見返りとしてこの地域を割譲しました。
c【誤】
コルシカ島です。18世紀にジェノヴァからフランスへ譲渡された島で、19世紀のイタリア統一の際の割譲ではありません。
d【誤】
シチリア島です。1860年にガリバルディが千人隊(赤シャツ隊)を率いて占領し、サルデーニャ王に献上した地域で、イタリア王国に組み込まれた側です。
問6:正解 ③(解答番号21/配点3)
<問題要旨>
ムッソリーニが植民地化を目指して侵略したアフリカの国または地域の歴史について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
ムッソリーニが1935年に侵略したのはエチオピアです。エチオピアの近代史の特徴を思い出します。
<選択肢>
①【誤】
ベルリンで開催されたアフリカ分割に関する国際会議(ベルリン会議、1884〜85年)が扱ったのはコンゴの領有問題です。エチオピアではありません。
②【誤】
ファショダ事件(1898年)はスーダンで起きたイギリスとフランスの衝突です。
③【正】
エチオピアは1896年のアドワの戦いでイタリア軍を撃退し、アフリカ分割が進むなかでも独立を保ちました(リベリアとともに数少ない独立国)。この敗北の記憶が、ムッソリーニによる1935年のエチオピア侵攻の背景にもなっています。
④【誤】
セシル=ローズにちなんで名付けられたのはローデシア(現在のザンビア・ジンバブエ)です。イギリスの勢力圏であり、エチオピアとは関係がありません。
問7:正解 ①(解答番号22/配点4)
<問題要旨>
前の文章を参考にしつつ、1945年のマルタ会談に参加せず、ヤルタ会談に新たに参加した人物について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。
<考え方>
会話文から、マルタ会談の参加者はチャーチルとフランクリン=ローズヴェルトの2名、ヤルタ会談は「戦勝国の首脳3名」でそのうち2名が同じ、と読み取れます。残る1名が誰かを考えます。
<選択肢>
①【正】
ヤルタ会談に新たに加わったのはソ連のスターリンです。スターリンはレーニンの死後、世界革命を唱えるトロツキーに対して一国社会主義を唱えて党内闘争に勝ち、1929年にトロツキーを国外追放しました。
②【誤】
上海クーデタ(1927年)を起こして共産党員を弾圧したのは蔣介石です。
③【誤】
キューバ危機(1962年)でミサイルを撤去してアメリカに譲歩したのはフルシチョフです。
④【誤】
「炉辺談話」のラジオ放送を行ったのはフランクリン=ローズヴェルトで、マルタ会談にもヤルタ会談にも参加しています。「参加せず、新たに参加した人物」には当たりません。
問8:正解 ②(解答番号23/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓓ「冷戦の終結」に関連して、冷戦後の世界情勢について述べた文章中の空欄 オ と カ に入れる語の組合せを選ぶ問題です。オ は「北大西洋条約機構(NATO)に対抗してソ連と東欧諸国により1955年に結成され、1991年に解散した」組織、カ は「2009年にアメリカ大統領に就任し、核兵器の廃絶を主張した」人物です。
<考え方>
オ は結成年と解散年、カ は就任年でそれぞれ一つに決まります。
<選択肢>
オ=ワルシャワ条約機構【正】
西ドイツのNATO加盟に対抗して1955年に結成された軍事同盟で、東欧の社会主義体制の崩壊を受けて1991年に解散しました。
オ=経済相互援助会議(コメコン)【誤】
コメコンは1949年に設立された経済協力機構で、軍事同盟ではありません(解散は1991年)。「NATOに対抗して1955年に結成」という説明に合いません。
カ=オバマ【正】
2009年に就任し、同年のプラハ演説で「核兵器のない世界」を訴えてノーベル平和賞を受賞しました。
カ=クリントン【誤】
クリントンの大統領就任は1993年です。
②【正】
したがって オ―ワルシャワ条約機構、カ―オバマ の組合せになります。
問9:正解 ③(解答番号24/配点3)
<問題要旨>
下線部ⓔ「ヨーロッパ連合、いわゆるEUに加盟します」に関連して、ECの発足以降、EC・EUに加盟した国を示した図 a〜c を、年代の古いものから順に配列する問題です。
<考え方>
それぞれの図で塗られている国を読み取り、その国々がいつ加盟したかを思い出します。会話文の「イギリスやスペイン、ポルトガルなどの加盟を経て拡大」「マルタ共和国と同時期に加盟したのが、冷戦後に民主化が進んだ旧社会主義圏の東欧の国々」がヒントになります。
<選択肢>
a【—】
スウェーデン・フィンランド・オーストリアが塗られています。3か国が加盟したのは1995年です。
b【—】
スペイン・ポルトガルが塗られています。両国が加盟したのは1986年で、独裁体制が終わった後の加盟でした。
c【—】
ポーランド・チェコ・ハンガリーなど中東欧の国々が塗られています。マルタとともに加盟した2004年の東方拡大にあたります。
③【正】
古い順に、b(1986年)→ a(1995年)→ c(2004年)となります。
第4問
配点20。統計資料の読み取りが中心です。Aは1500年から2003年までの人口と世界GDPの地域別割合、Bはアフリカ4か国の輸入額の推移を主要貿易相手国別に表したグラフ。数字そのものより「表やグラフに書いてあることと合っているか」を見る設問が並びます。
問1:正解 ④(解答番号25/配点3)
<問題要旨>
表から読み取れる事柄あ・いと、その要因として考えられる最も適当な事柄X〜Zとの組合せを選ぶ問題です。あは「1600年から1700年に西ヨーロッパの人口が減少している」、いは「1820年から1913年に南北アメリカの人口が増加している」。
<考え方>
まず、あ・いが表の数字と合っているかを確かめます。合っている方だけが答えの候補になり、次にその要因を選びます。
<選択肢>
あ【誤】
表では西ヨーロッパの人口は1600年が73778、1700年が81460で、減少ではなく増加しています。表の読み取りとして誤りです。
い【正】
表では南北アメリカの人口が1820年の32822から1913年の192336へと、およそ6倍に増えています。表の読み取りとして正しい記述です。
X【正】
19世紀はヨーロッパからアメリカ大陸への移民が急増した時代です。アイルランドの飢饉、ドイツ・イタリア・東欧からの移住などにより、南北アメリカの人口が大きく伸びました。いの要因として適切です。
Y【誤】
ペストの大流行は14世紀のヨーロッパで人口を激減させました。時期も地域も、いには当てはまりません。
Z【誤】
トウモロコシやサツマイモは新大陸原産で、大航海時代以降に旧大陸へ伝わって中国などの人口増加を支えました。南北アメリカの人口増加の要因としては適切ではありません。
④【正】
したがって い―X の組合せになります。
問2:正解 ①(解答番号26/配点4)
<問題要旨>
下線部ⓐ「歴史上の経済や生活の変化」について述べた文として誤っているものを選ぶ問題です。
<考え方>
「誤っているもの」を選ぶ設問です。大航海時代・産業革命・19世紀後半の重化学工業・20世紀後半の情報化と、時代順に並んでいます。
<選択肢>
①【誤り】
向きが逆です。大航海時代以前のヨーロッパ商業の中心は地中海沿岸(ヴェネツィア・ジェノヴァなど)でしたが、新航路の開拓によって中心は大西洋沿岸(リスボン・アントウェルペン・アムステルダムなど)へ移りました。これを商業革命といいます。
②【正しい】
蒸気機関はワットの改良を経て、スティーヴンソンの蒸気機関車やフルトンの蒸気船に応用され、長距離・高速・大量の輸送を可能にしました。
③【正しい】
19世紀後半のドイツでは、鉄鋼業や化学工業などの重化学工業が急速に発展し、第2次産業革命の中心となりました。
④【正しい】
20世紀後半以降、インターネットや携帯電話などの情報通信技術が発達し、経済のグローバル化を加速させました。
問3:正解 ①(解答番号27/配点3)
<問題要旨>
グラフから立てられる問いと、その問いに対する仮説について述べた文章中の空欄 ア と イ に入れる語の組合せを選ぶ問題です。問いは「1820年以前の世界経済において ア が世界GDPの最大を占めていたが、1870年以降は西ヨーロッパと南北アメリカの合計が ア を上回ることになった。それはなぜか」、仮説は「産業革命期にエネルギー資源として普及した イ が豊富に存在し…」というものです。
<考え方>
ア はグラフの1820年以前の各年で最も大きい割合を占める地域を読み取ります。イ は産業革命のエネルギー源です。
<選択肢>
ア=東アジア【正】
グラフでは1500年から1820年まで、東アジアが最も大きな割合を占めています。1820年の時点でもインドを上回り、世界GDPの最大部分を占めていました。
ア=インド【誤】
インドもかなりの割合を占めていますが、1820年以前を通じて東アジアの方が大きく、最大ではありません。
イ=石炭【正】
産業革命期のイギリスでは、蒸気機関の燃料および製鉄のコークス用として石炭が大量に用いられました。イギリスに炭田が豊富にあったことが工業化を後押ししました。
イ=石油【誤】
石油が主要なエネルギー資源となるのは19世紀末以降、内燃機関の普及に伴ってのことです。産業革命期のエネルギー源としては当てはまりません。
①【正】
したがって ア―東アジア、イ―石炭 の組合せになります。
問4:正解 ③(解答番号28/配点3)
<問題要旨>
文章中の空欄 ウ と エ に入れる国の名の組合せとして正しいものを選ぶ問題です。ウ は「20世紀初頭にかけて3B政策の推進など、列強による海外進出」を行った国で、タンザニア(タンガニーカ)の輸入相手としてイギリスを上回る国。エ はアルジェリアの主要な輸入相手国です。
<考え方>
旧宗主国と植民地の結び付きが、貿易相手国に強く表れるという文章の趣旨を使います。3B政策という語も決め手です。
<選択肢>
ウ=ドイツ【正】
3B政策(ベルリン・ビザンティウム・バグダード)を推進したのはドイツです。タンガニーカは第一次世界大戦前まではドイツ領東アフリカであり、グラフ2で1910年ごろまでドイツからの輸入額がイギリスを大きく上回っているのは、この宗主国との関係を反映しています。
ウ=フランス/イタリア【誤】
3B政策はドイツの政策です。またタンガニーカはフランス領でもイタリア領でもありませんでした。
エ=フランス【正】
アルジェリアは1830年のフランスによる侵攻以来、フランスの支配下にありました。グラフ3で1920年以降に輸入額が突出しているのは、宗主国フランスです。
エ=ドイツ/イタリア【誤】
アルジェリアはドイツ領でもイタリア領でもありません(イタリアが領有したのは隣のリビアです)。
③【正】
したがって ウ―ドイツ、エ―フランス の組合せになります。
問5:正解 ④(解答番号29/配点3)
<問題要旨>
生徒たちがまとめたメモの正誤について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。佐藤さんは「グラフ2でドイツからの輸入額が1910年から1920年にかけて増加している」、工藤さんは「グラフ3でフランスからの輸入額が1930年から1935年にかけて減少しているのは、ドイモイによってフランスの経済活動が打撃を受けたから」と書いています。
<考え方>
メモの正誤は、①グラフの読み取りが合っているか、②理由づけが史実として成り立つか、の二段階で確かめます。
<選択肢>
佐藤さんのメモ【誤】
グラフの読み取りが逆です。グラフ2でドイツからの輸入額は1910年に約20000で最大となり、1920年以降はほぼゼロになっています。増加ではなく激減です(第一次世界大戦の敗北でドイツはすべての海外植民地を失い、タンガニーカはイギリスの委任統治領となりました)。植民地を失ったという指摘自体は正しいのですが、グラフの読み方が誤っています。
工藤さんのメモ【誤】
ドイモイ(刷新)は1986年にベトナムが打ち出した市場経済化政策で、1930年代のフランスとは何の関係もありません。1930年から1935年にかけての減少は、世界恐慌による貿易の縮小によるものと考えるのが自然です。
④【正】
したがって二人とも誤っている、が正解です。
問6:正解 ①(解答番号30/配点4)
<問題要旨>
文章中の空欄 オ に入れる国の名として正しいものを選ぶ問題です。グラフ4は、イギリス・ドイツ・ポルトガルを主要貿易相手とするアフリカの国の輸入額を示しており、「これまでのグラフ1〜3に共通していた傾向から、この国は オ と考えられる」と述べられています。
<考え方>
グラフ1〜3に共通していた傾向とは「旧宗主国からの輸入額が最も大きい」ということです。グラフ4でどの国が最大かを読み取り、その国を宗主国とするアフリカの国を選びます。
<選択肢>
①【正】
グラフ4ではポルトガルからの輸入額が一貫して最も大きくなっています。旧宗主国がポルトガルであるアフリカの国は、選択肢の中ではアンゴラです(ほかにモザンビークなど)。
②【誤】
エジプトは19世紀末からイギリスの支配下に置かれました。ポルトガルとの結び付きはありません。
③【誤】
東ティモールは確かにポルトガルの植民地でしたが、アフリカではなく東南アジアの島です。文章では「アフリカ4か国」と限定されています。
④【誤】
リベリアはアメリカ合衆国の解放奴隷が入植して建てた国で、19世紀以来の独立国です。ヨーロッパの宗主国を持ちません。
※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

