2024年度 大学入学共通テスト 追試験 日本史B 解答・解説

2024年度 大学入学共通テスト 追試験「日本史B」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。

目次
スポンサーリンク

解答

解説

2024年度大学入学共通テスト追試験の日本史Bは、第1問から第6問までの6つの大問、設問数32問(解答番号1〜32)で構成されています。満点は100点、試験時間は60分です。大問ごとの配点は第1問18点・第2問16点・第3問16点・第4問16点・第5問12点・第6問22点で、第1問・第2問・第3問・第6問はそれぞれA・Bの二つのパートに分かれています。

第1問は祭礼と行事をテーマにした高校生の会話文で、盆踊りが全国に広まった昭和初期から、その起源である中世の風流踊り・踊念仏、さらに原始・古代の祭祀までを一気にさかのぼります。第2問は古代の墓と葬儀、第3問は中世の中央権力と諸地域(鎌倉・室町の地方支配と蝦夷島・琉球)、第4問は江戸時代の自然と人との関わり、第5問は幕末から明治初期の東京、第6問は近現代の銅像の歴史です。いずれも会話文・レポート・班活動といった探究の場面に、絵画資料・古文書・法令・新聞記事・表を組み合わせる形が取られています。

この回の特徴は、資料の読み取りと年代の確定がほぼ全問で要求される点です。年代配列は5問(解答番号2・8・12・22・27)あり、どれも史料や記事の中の手がかりから出来事を特定してから並べる作業が必要です。組合せ型では、宗派と教えの取り違え(解答番号4)、機関と一族の入れ替え(解答番号13)、出来事の前後の逆転(解答番号23)など、一見もっともらしい文の一部だけがずらされています。さらに、条文のどこまでが並列の条件なのかを読む設問(解答番号9)、法令のただし書きが何を対象にしているのかを読む設問(解答番号20)、資料の一部が省略されたまま表だけで判断する設問(解答番号16)など、文章を正確に区切って読む力がそのまま点差になります。

第1問 祭礼と行事の歴史(配点18)

高校生のアスミさんとエイジさんが、夏休みの課題研究として祭礼と行事を調べている会話文です。Aでは東京音頭が全国に広まった背景と、江戸時代の民衆行事を描いた錦絵・幕府と加賀藩の法令を読み取り、Bでは盆踊りの起源にさかのぼって中世の風流踊りと踊念仏、原始・古代の祭祀、そして通史をまとめたメモを扱います。

A 問1:正解 ③(解答番号1/配点3)

<問題要旨>

会話文の空欄ア・イに入る語句の組合せを選ぶ設問です。アは1920年代半ばから30年代半ばに東京音頭が各地に伝わった背景、イは「体から抜け出した虫が天帝に罪を告げるのを恐れて、共同飲食しながら夜を明かす」という行事の名称にあたります。

<考え方>

空欄の前後に置かれた時期の指定と、行事の内容の説明に戻れば決まります。アは「1920年代半ばから30年代半ば」という年代が決め手で、同じ曲が全国に同時に届く手段が何かを考えます。イは庚申の夜の俗信にもとづく民間の講で、行事の中身そのものが手がかりです。どちらか一方を確定させれば選択肢は二つに絞られ、もう一方で決着します。

<選択肢>

ア=レコードの普及に加え、ラジオ放送網が拡大した【正】

ラジオ放送は1925年に始まり、以後放送網が全国へ広がりました。レコードとラジオによって同じ曲が各地で同時に聞かれるようになったことは、東京で作られた音頭が全国で踊られるようになった背景としてそのまま当てはまります。

ア=政治主張中心の新聞のほか、『太陽』などの雑誌が創刊された【誤】

『太陽』の創刊は1895年で、政論新聞が盛んだったのも明治期です。空欄の直前にある「1920年代半ばから30年代半ば」という時期と40年近くずれており、時期をずらした誤りです。

イ=庚申講【正】

庚申の夜には体内の三尸の虫が抜け出して天帝にその人の罪を告げると信じられ、それを防ぐために人々が集まって飲食し夜を明かしました。会話文の説明と内容が一致します。

イ=富突【誤】

富突は寺社が興行した富くじで、箱の中の札を錐で突いて当せん番号を決める賭事です。共同飲食して夜を明かす行事ではなく、言葉のすり替えにあたります。

正解【③】

時期の指定からアはレコードとラジオ、行事の内容からイは庚申講と決まります。

A 問2:正解 ①(解答番号2/配点3)

<問題要旨>

「当時の日本は、政治・外交や社会経済の面で様々な課題を抱えていた」という下線部に関連して、三つの史料Ⅰ〜Ⅲが制定・締結・表明された時期を古い順に並べる設問です。史料はいずれも法令・協定・声明の一節が引かれています。

<考え方>

年代配列は、選択肢を見る前に史料が何であるかを一つずつ確定させるのが確実です。Ⅰは結社の処罰を定めた条文、Ⅱは日本軍の駐屯を認めた協定、Ⅲは天皇を国家の機関とする学説を否定する声明で、いずれも文言そのものが名称を示しています。名称が決まれば年代は一意に決まります。

<選択肢>

Ⅰ=治安維持法(1925年)

「国体ヲ変革シ、又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ」という文言は治安維持法の第一条です。普通選挙法と同じ年に加藤高明内閣のもとで制定されました。

Ⅱ=日満議定書(1932年)

「日本国及満州国ハ…両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ル」「所要ノ日本国軍ハ満州国ニ駐屯スル」とあり、日本が満州国を承認し日本軍の駐屯を認めた日満議定書です。斎藤実内閣のときに結ばれました。

Ⅲ=国体明徴声明(1935年)

「統治権ガ天皇ニ存セズシテ、天皇ハ之ヲ行使スル為ノ機関ナリト為スガ如キハ…我ガ国体ノ本義ヲ愆ル」は、美濃部達吉の天皇機関説を否定した国体明徴声明の内容です。

正解【①】

1925年→1932年→1935年の順になり、Ⅰ―Ⅱ―Ⅲと並びます。

A 問3:正解 ③(解答番号3/配点3)

<問題要旨>

江戸時代の民衆の行事を描いた錦絵(図1『東都名所 高輪廿六夜待遊興之図』)と、盆の踊りを認めた1649年の幕府の法令(史料1)、踊りを禁じた1667年の加賀藩の法令(史料2)が示され、そこから読み取れる内容として誤っているものを選ぶ設問です。

<考え方>

図については画面に何が描かれているかだけを根拠にし、史料については命令の向きを確かめます。史料1は「盆にはいつも賑ひ踊り候まま踊り申すべく候」と踊りを認め、史料2は「踊り・辻相撲堅く御停止に候」と禁じており、二つは正反対の内容です。この向きの違いに気づけば、幕府と加賀藩が同じ方針だったとする選択肢がその場で外れます。

<選択肢>

①【正】

画面中央の輪の中には獅子頭をかぶった人物など仮装した姿が混じり、そのまわりで子どもや女性が一緒に踊っています。仮装した人が加わって遊興を楽しんでいたことが読み取れます。

②【正】

画面の左右には葦簀張りの店が並び、大きな鍋や品物を並べた台、値段を記した札が描かれています。食べ物を売る出店があったことが読み取れます。

③【誤】

史料2は加賀藩が「踊り・辻相撲堅く御停止に候」と踊りを禁止した内容です。盆の踊りを認めた史料1とは方針が正反対で、「幕府の法令通りに民衆の祭礼を認めていた」という読み取りは内容が逆転しています。

④【正】

史料1は踊りを認めたうえで「但し、喧嘩・口論これ無き様申し付くべく候」と付け加えています。幕府が踊りにともなう喧嘩・口論を心配していたことが読み取れます。

正解【③】

加賀藩の法令は踊りを禁じており、幕府が認めたのと逆であるため③が誤りです。

B 問4:正解 ②(解答番号4/配点3)

<問題要旨>

中世の風流踊りを描いた図2(『洛中洛外図屛風』)と踊念仏を描いた図3(『一遍聖絵』)、村人の風流踊りを見た公家の記録である史料3(『政基公旅引付』)、奈良の風流にかかる銭の割当てを記した史料4(『大乗院寺社雑事記』)が示され、これらについて述べた文a〜dから正しい組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

図は描かれているものだけ、史料は書かれている評価と事実だけで判断します。bは踊念仏を広めた僧の宗派という知識、cは史料3の評価の向き、dは史料4の負担の記述で決まります。bとcがともに外れると、選択肢の作りからa・dの組合せしか残りません。

<選択肢>

a【正】

図2では笠をかぶった人々が太鼓や鉦を打ち、扇をかざして輪になっています。図3では堂の中で僧たちが鉦を打ち鳴らしながら跳ねています。音を出す道具を持つ点は共通しますが、屋外で輪になる俗人の姿と、屋内で跳ねる僧たちの姿は大きく異なります。

b【誤】

図3の踊念仏を広めたのは時宗の一遍で、念仏によってすべての人が救われると説きました。「坐禅を組めば救われる」は禅宗の教えであり、宗派と教えを取り違えたすり替えです。

c【誤】

史料3は「田舎の土民の所行、比興たるべけんや」ととるに足りないものと思っていたところ、実際には「能作、風情と云い言詞と云い都の能者に恥じず」と、都の芸能者に劣らないと評価しています。つまらないと評したとするのは逆です。

d【正】

史料4は風流のために「懸銭・用銭等、法量なし」と過大な銭が割り当てられ、「地下人等迷惑せしむる時分なり」と百姓が困っている状況を記しています。

正解【②】

bは宗派の取り違え、cは評価の逆転で外れ、a・dの組合せとなります。

B 問5:正解 ④(解答番号5/配点3)

<問題要旨>

原始・古代の人々の信仰や祭祀について述べたX(縄文時代の抜歯)とY(古墳時代の祈年の祭)の正誤の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

どちらも「いつ、誰に対して、何のために行われたか」を押さえていれば決まります。抜歯は成人などの節目に生きている人に対して行う通過儀礼、祈年の祭は春に豊作を祈る祭りです。Xは行う時点と目的、Yは季節と目的が、それぞれ別の儀礼のものに置き換えられています。

<選択肢>

X【誤】

縄文時代の抜歯は、成人など人生の節目に生きている人の歯を抜く通過儀礼です。死者の霊がもたらす災いを恐れて死後に行うという説明は、対象も時点も置き換えられています。なお死者の霊を恐れた葬法として説明されるのは、手足を折り曲げて葬る屈葬です。

Y【誤】

祈年の祭(としごいのまつり)は、春にその年の豊作を祈る祭りです。秋に収穫した穀物を神に捧げて感謝するのは新嘗の祭であり、季節と目的が入れ替えられています。

正解【④】

X・Yとも、行う時期と目的が別の儀礼のものに置き換えられており、ともに誤りです。

B 問6:正解 ⑦(解答番号6/配点3)

<問題要旨>

祭礼と行事の流れを原始・古代から現在まで整理したメモが示され、メモの中のX(原始・古代に置かれた「信仰や思想」)・Y(祇園会の「一時断絶」)・Z(近現代の盆踊りの「一時禁止」)と、関連する文a〜fとの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

メモは線のつながりをたどって読みます。Xからは盂蘭盆と御霊信仰へ線が下りており、どちらも仏教の受容を前提とする行事・信仰です。Yは祇園会(祇園祭)の線上に置かれているので、京都が大きく焼けた戦乱を探します。Zは近現代の盆踊りの線上なので、明治期に盆踊りが受けた扱いを考えます。

<選択肢>

X=b(百済の聖明王から仏像・経典が贈られたことで公式に伝えられた思想)【正】

Xから下りる盂蘭盆は盂蘭盆会という仏教行事であり、御霊信仰も怨霊を鎮める仏事や読経と結びついて広まりました。仏教の公伝がこれらの前提にあたります。

X=a(山や樹木、巨大な岩などを精霊の宿る所と考え、祭祀の対象とする信仰)【誤】

アニミズムにあたる原始の自然崇拝で、メモでは左端の農耕儀礼の段階に位置づく内容です。盂蘭盆や御霊信仰を生み出す「信仰や思想」としては結びつきません。

Y=d(都で大きな戦乱が起こり、その大部分が荒廃した)【正】

祇園会(祇園祭)は応仁の乱で京都の大半が焼けたことにより約30年間中断し、のちに町衆の手で再興されました。メモの「一時断絶」に対応します。

Y=c(有力守護によって将軍が討たれた混乱のなかで、土一揆が発生した)【誤】

赤松満祐が将軍足利義教を討った嘉吉の変と、それに続く嘉吉の徳政一揆のことです。祇園会の断絶を招いた出来事ではなく、出来事の取り違えです。

Z=e(明治維新の風潮のなかで、西洋と異なる伝統的な風俗が排斥された)【正】

明治初期には文明開化の風潮のもとで、盆踊りが旧弊で野蛮な風俗とみなされ各地で禁止されました。メモの近現代の「一時禁止」に合います。

Z=f(明治新政府は当初、儒教道徳を説くとともにキリスト教を禁止した)【誤】

五榜の掲示によるキリスト教禁止の説明で、盆踊りの禁止とは対象が異なります。禁止の対象をすり替えた誤りです。

正解【⑦】

X=b、Y=d、Z=eの組合せになります。

第2問 古代の墓と葬儀(配点16)

アミさんとリセさんが日本古代の墓と葬儀について作成したレポートA・Bを読む大問です。Aは古墳の変化と薄葬令・火葬の採用、Bは令の規定にもとづく貴族の葬儀と墓、そして摂関期にかけての変化を扱い、令の条文と注釈書、唐令、『小右記』が資料として使われます。

A 問1:正解 ④(解答番号7/配点3)

<問題要旨>

レポートの下線部「古墳のあり方が変化し」に関連して、6世紀の古墳の変化について述べた文a〜dから正しい組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

古墳時代を前期・中期・後期に分け、副葬品・埋葬施設・墳形の三つの推移を押さえれば決まります。副葬品は前期の呪術的なものから中期の武具・馬具へ、埋葬施設は竪穴式石室から後期の横穴式石室へ、墳形は巨大な前方後円墳から後期の群集墳へと変わります。aとcはこの流れのどこにも当てはまりません。

<選択肢>

a【誤】

銅鏡や腕輪形石製品など呪術的な性格の副葬品が主体なのは古墳前期で、中期以降は鉄製の武器・武具・馬具が中心になります。6世紀の変化としては向きが逆転しています。

b【正】

6世紀には、遺体を追加して葬ることのできる横穴式石室が全国に広まりました。家族を続けて葬れる構造で、後期古墳を代表する特徴です。

c【誤】

甕の形をした大型土器に遺体を納める甕棺墓は、弥生時代の北部九州に特徴的な墓制です。数百年さかのぼる時期の墓であり、時期の改変にあたります。

d【正】

6世紀には、小規模な円墳などが一定範囲に密集して営まれる群集墳が各地に造られました。有力農民層にまで古墳の造営が広がったことを示します。

正解【④】

横穴式石室と群集墳という後期古墳の特徴を述べたb・dの組合せになります。

A 問2:正解 ①(解答番号8/配点3)

<問題要旨>

レポートの下線部「墓・葬儀の変化は統一国家の形成への動きに対応する」に関連して、墓や葬送にかかわる出来事を述べた文Ⅰ〜Ⅲを古い順に並べる設問です。

<考え方>

年代配列では、選択肢に当たる前に各文の主体と出来事を特定します。Ⅰは石人・石馬の伝承と新羅との結託から筑紫の豪族、Ⅱは「推古天皇の時代の大臣」という明示、Ⅲは「八色の姓を定めた天皇」という手がかりで、いずれも人物が一意に決まります。人物が決まれば年代も決まります。

<選択肢>

Ⅰ=磐井の乱(527年)

石人・石馬をともなう墳墓の伝承は、筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳のものです。新羅と結んでヤマト政権の軍と戦い敗死したという記述から、527年の磐井の乱にあたります。

Ⅱ=境部摩理勢の滅亡(628年ごろ)

推古天皇の時代の大臣は蘇我馬子です。その墓の造営をめぐって、新しく氏族の長となった蘇我蝦夷に反発した境部摩理勢が造営を放棄し、討たれました。

Ⅲ=天武天皇の殯(686年)

八色の姓を定めたのは天武天皇です。その没後、皇族・官人・隼人らが誄を奉る殯の儀礼が行われました。

正解【①】

527年→628年ごろ→686年の順になり、Ⅰ―Ⅱ―Ⅲと並びます。

B 問3:正解 ④(解答番号9/配点3)

<問題要旨>

墓の造営を許される身分を定めた日本の令の条文とその注釈書(史料群1)、および暑い時期に高官が亡くなった際の氷の支給を定めた日本と唐の令の条文(史料群2)が示され、a〜cの正誤を判定して正しい説明を選ぶ設問です。

<考え方>

条文は区切りを正確に読むことが決め手です。「凡そ三位以上、及び別祖・氏宗は、ならびに墓を営むことを得」は、三位以上という位階の条件と、別祖・氏宗という立場の条件を並べて示したもので、どちらかに当たれば墓を営めるという意味です。注釈書は四位以下が営めないことを確認したうえで「今行事、濫りに作るのみ」と実態が規定どおりでないことを述べ、史料群2は日本と唐の条文がほぼ同文であることを見せています。

<選択肢>

a【誤】

条文は三位以上と別祖・氏宗を並列で許可しており、三位以上であれば氏族の長でなくても墓を営めます。二つの条件を「かつ」で結んで読むのは要件の改変です。

b【正】

注釈書は「諸王・諸臣の四位以下は、みな墓を営むことを得ず」と確認したうえで「今行事、濫りに作るのみ」と述べています。実際には規定を超えて墓が造られていたこと、つまり令の規定が守られない場合があったことが読み取れます。

c【正】

史料群2では、日本の令の「凡そ親王及び三位以上、暑月に薨じなば、氷給え」と、唐の令の「諸そ職事官三品以上、散官二品以上、暑月に薨じなば、氷給え」がほぼ同じ文言で並べられています。日本の律令が唐の律令を手本として作られたことと合います。

正解【④】

aだけが条文の読み方を誤っているので、「bとcのみ正しい」となります。

B 問4:正解 ②(解答番号10/配点3)

<問題要旨>

藤原道長の邸宅である土御門殿の造営について記した『小右記』の記事が示され、X(受領が造営を負担したこと)とY(道長が太政官の組織を無視して政治を行ったこと)の正誤の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

史料に書かれていることと、摂関政治のしくみについての知識を分けて当てます。史料は「一間を以て諸の受領に配し、営ましむ」「伊与守頼光、家中の雑具、皆悉く献ず」と、受領の負担を具体的に記しています。一方の「当時の大閤の徳、帝王のごとし」は、記主の藤原実資が道長の権勢の大きさを評した言葉であって、政治機構についての記述ではありません。

<選択肢>

X【正】

受領は任国の徴税を請け負うなかで富を蓄え、その富で上級貴族の邸宅造営などを請け負って官職を得ました(成功)。史料の記述はその実例にあたり、内容と一致します。

Y【誤】

摂関政治のもとでも政務は太政官の公卿による会議(陣定)を通して行われており、道長が太政官の組織を無視したわけではありません。「帝王のごとし」は権勢の大きさへの評であって、機構を無視した証拠にはなりません。

正解【②】

受領の負担は史料どおりで正しく、太政官を無視したという説明は摂関政治のしくみと合わないため誤りです。

B 問5:正解 ④(解答番号11/配点4)

<問題要旨>

二人の発表を受けてクラス全体でまとめた、日本古代の墓と葬儀の歴史についての説明のうち、正しいものを選ぶ設問です。二つのレポートの内容を通して確認する位置づけになっています。

<考え方>

四つとも、時期か因果のどこかがずらされていないかを確かめます。方形周溝墓が造られた時代、薄葬令が出された年、最初に火葬された天皇が誰かは、いずれもレポートの記述か基本事項から確認できます。とくに②と③は、レポートAの本文と突き合わせるだけで外せます。

<選択肢>

①【誤】

方形周溝墓は弥生時代の墓制で、古墳時代のヤマト政権の拡大にともなって広まったものではありません。また北海道は古墳文化が及ぶ範囲ではなく、時期と範囲の両方が改変されています。

②【誤】

墓の大きさを規制したのは、レポートAにもある孝徳天皇の時代の詔(薄葬令、646年)です。百済の復興を目的とした白村江の戦い(663年)より前のことで、前後が入れ替えられています。

③【誤】

レポートAは、文献上最初の火葬が700年の僧道昭で、その3年後に天皇であった人物が火葬された最初の例が記録されるとしています。これは703年の持統太上天皇のことで、聖武天皇ではありません。

④【正】

11世紀には藤原道長が子孫の極楽往生を祈って一族の墓地の近くに浄妙寺を建てるなど、極楽往生を主眼とする浄土教の広がりが貴族の墓と葬儀のあり方を変えました。レポートBの記述とも合います。

正解【④】

浄土教の影響を述べた④だけが、レポートの内容とも時期とも矛盾しません。

第3問 中世の中央権力と諸地域(配点16)

アカネさんの班とイズミさんの班が、中世の日本列島の様子を調べた活動をまとめた文章です。Aでは鎌倉幕府の成立過程、建武の新政と室町幕府の地方機関、九州の国人一揆の契約状を扱い、Bでは蝦夷島の交易とアイヌの蜂起、琉球の中継貿易を扱います。

A 問1:正解 ⑥(解答番号12/配点3)

<問題要旨>

鎌倉幕府の成立過程と支配地域の拡大に関する史料Ⅰ〜Ⅲが示され、古い順に並べる設問です。いずれも当時の記録から引かれた短い記事です。

<考え方>

三つとも、源頼朝の権限がどこまで及んだ段階かで年代が決まります。頼朝の支配は、東海・東山道の公認、全国への守護・地頭設置、奥羽の制圧という順で広がりました。Ⅰは奥州の土地台帳を求めた記事、Ⅱは守護地頭の補任と兵粮米、Ⅲは東海・東山諸国の年貢を領家に戻す宣旨で、それぞれこの三段階に対応します。

<選択肢>

Ⅲ=寿永二年十月宣旨(1183年)

東海・東山諸国の荘園・公領の年貢を元のとおり領家に納めさせる宣旨で、「頼朝申し行うに依るなり」とあるとおり頼朝の申請によって出されました。頼朝が東国の支配権を朝廷から公認された最初の段階です。

Ⅱ=文治の勅許(1185年)

「諸国平均に守護地頭を補任し…兵粮米別五升を充て課すべき」と、北条殿(北条時政)が藤中納言経房に申し入れた記事です。全国への守護・地頭の設置が認められた段階にあたります。

Ⅰ=奥州合戦後の土地台帳の探索(1189年以後)

頼朝が奥州・羽州両国の省帳・田文を求めたところ、平泉館の炎上で焼失していたという記事です。奥州藤原氏を滅ぼして奥羽を支配下に入れた後のことになります。

正解【⑥】

1183年→1185年→1189年以後の順になり、Ⅲ―Ⅱ―Ⅰと並びます。

A 問2:正解 ②(解答番号13/配点3)

<問題要旨>

建武の新政や室町幕府による地方支配のあり方について述べた文のうち、誤っているものを選ぶ設問です。地方機関の名称と、その長官を務めた一族が問われます。

<考え方>

室町幕府には、中央で将軍を補佐する管領と、鎌倉府で鎌倉公方を補佐する関東管領という、名前の似た二つの職があります。前者は細川・斯波・畠山の三管領、後者は上杉氏の世襲です。この区別ができていれば、機関と一族を入れ替えた選択肢が浮かび上がります。

<選択肢>

①【正】

建武の新政は陸奥・出羽両国の統治のために義良親王を奉じた北畠顕家を派遣し、陸奥将軍府を置きました。関東には成良親王と足利直義による鎌倉将軍府が置かれています。

②【誤】

鎌倉府の長官は鎌倉公方(足利氏)で、これを補佐する関東管領は上杉氏が世襲しました。細川氏と交代で任命されたのは室町幕府中央の管領であり、機関と一族が入れ替えられています。

③【正】

室町幕府は九州に九州探題を置き、東北には奥州探題・羽州探題を置いて地方機関としました。

④【正】

室町幕府は守護に刈田狼藉の取締りや使節遵行、半済などの権限を与えたため、守護の中には国衙の機能を吸収して一国の支配権を確立する者が現れました。

正解【②】

関東管領は上杉氏の世襲であり、細川氏と交代で任命されたわけではないため②が誤りです。

A 問3:正解 ①(解答番号14/配点4)

<問題要旨>

肥前国の宇久島とその周辺の武士(国人)26名が結んだ一揆の契約状(史料1)が現代語で示され、これについて述べた文a〜dから正しい組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

契約状は条ごとに「誰が何を決めたか」を確かめます。最初の条は紛争が起きたときの決め方、二つめの条は所領の境での山野河海の利用、三つめの条は逃亡した百姓・下人の扱いで、いずれも一揆の構成員どうしの取り決めです。外部の権力や一人の長への服従は、どの条にも書かれていません。

<選択肢>

a【正】

契約状は「宇久浦中の御一族」「御一家の人々」と血縁的な言い方をしていますが、実際に結んでいるのは宇久島とその周辺という地域の武士26名です。血縁の表現を借りながら地縁で結びついた国人一揆の姿を示しています。

b【誤】

最初の条は「一同に相談し、正しい判断をする」と合議によることを定めています。一家の長の裁定に従うとするのは、決定のしかたのすり替えです。

c【正】

二つめの条で、所領の境の山野河海での狩りや漁、木・松・竹の伐採は認めつつ、境を越えてはならないと取り決めています。

d【誤】

三つめの条は「相互に取り決めたように、事情を調べた上で、もとの領主や主人のもとに返さなければならない」と、一揆の構成員どうしで処理することを定めています。守護は契約状に現れず、史料にない主体を持ち込んだ誤りです。

正解【①】

地縁的な結合を述べたaと、境での利用の取り決めを述べたcの組合せになります。

B 問4:正解 ②(解答番号15/配点3)

<問題要旨>

中世の蝦夷島とその周辺に関する二つの記事、X(1423年に安藤(安東)陸奥守が将軍へラッコ皮や昆布などを進上したこと)・Y(1457年のアイヌの蜂起)と、最も関係の深い語句a〜dの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

Xは進上品の中身から考えます。ラッコ皮や昆布は北方の産物なので、北方交易を握っていた勢力とその拠点を答えることになります。Yは年次と攻撃された館の名から戦いの名称を特定します。北海道で起きた二つのアイヌの蜂起は年代が200年以上離れているので、年で区別できます。

<選択肢>

X=a(十三湊)【正】

安藤(安東)氏は津軽の十三湊を拠点として蝦夷島との交易を掌握し、ラッコ皮や昆布など北方の産物を将軍に進上しました。

X=b(坊津)【誤】

坊津は薩摩半島の港で、南方との交易や中国との貿易の拠点です。北方の産物の進上とは結びつきません。

Y=d(コシャマイン)【正】

1457年に志苔館や箱館などを攻め落としたアイヌの蜂起はコシャマインの戦いで、蠣崎氏のもとにいた武田信広に鎮圧されました。

Y=c(シャクシャイン)【誤】

シャクシャインの戦いは1669年で、松前藩との交易条件をめぐる蜂起です。Yの1457年より200年以上あとの出来事で、時期が合いません。

正解【②】

X=a、Y=dの組合せになります。

B 問5:正解 ③(解答番号16/配点3)

<問題要旨>

琉球の中継貿易に関する史料2と、15〜16世紀に琉球と日本が明へ送った朝貢品を並べた表が示され、X(琉球で織られた布が明への朝貢品であったか)・Y(琉球の朝貢品の刀剣の出所)の正誤の組合せを選ぶ設問です。史料2は問題冊子では省略されています。

<考え方>

判断は表と中継貿易のしくみだけでつきます。表に並ぶ琉球から明への朝貢品は硫黄・蘇木・螺殻・刀剣で、布や織物は含まれていません。そのうち蘇木は注にあるとおり東南アジア原産の落葉樹、刀剣は表で日本の朝貢品の中心に挙がる品で、どちらも琉球で産するものではありません。産しない品が朝貢品に並ぶこと自体が、琉球が各地の産物を集めて明へ送る中継貿易を行っていた証拠になります。

<選択肢>

X【誤】

表に挙がっている琉球から明への朝貢品は硫黄・蘇木・螺殻・刀剣であり、麻や芭蕉の布といった織物は含まれていません。織物が明への朝貢品となっていたという後半が、表と合いません。

Y【正】

刀剣は表で日本から明への朝貢品の中心に挙がっており、琉球の産物ではありません。琉球が日本から入手して明へ送ったと考えるのが、東アジア・東南アジア諸国を結ぶ中継貿易で繁栄したという本文の説明とも合います。

正解【③】

琉球の朝貢品に織物は含まれないためXは誤り、刀剣は日本から得たものと考えられるためYは正しくなります。

第4問 江戸時代の自然と人(配点16)

江戸時代を「大開発時代」ととらえ、山野の利用と河川の治水、そして18世紀以降の資源保全への転換までを述べた文章です。農書に描かれた図、1720年の国役に関する幕府の法令、1805年の秋田藩の指示といった資料を読み取らせます。

問1:正解 ③(解答番号17/配点3)

<問題要旨>

江戸時代における開発について述べた文のうち、誤っているものを選ぶ設問です。四つとも「17世紀には」「18世紀には」と世紀が明示されています。

<考え方>

世紀が明示されている以上、その世紀に起きたことかどうかで判定します。鉱山については、17世紀に佐渡・石見などの金銀の産出が最盛期を過ぎ、代わって銅が主要な産物・輸出品になるという推移を押さえておくことが決め手になります。

<選択肢>

①【正】

17世紀には全国で城下町が建設され、五街道をはじめとする街道と宿駅・関所が整備されました。

②【正】

17世紀には幕府や諸藩が用水を引いて新田開発を進め、耕地面積は大きく拡大しました。

③【誤】

17世紀後半に佐渡・石見・生野などの金銀山が産出を減らし、代わって別子銅山などの銅が18世紀の主要な産物・輸出品になりました。衰退したものと盛んになったものが入れ替えられており、推移が逆転しています。

④【正】

田沼時代の1785年から、幕府は最上徳内らを派遣して初めての蝦夷地調査を行い、開発とロシアとの交易の可能性を探りました。

正解【③】

18世紀は金銀に代わって銅が中心になった時期であり、③は推移が逆になっています。

問2:正解 ④(解答番号18/配点3)

<問題要旨>

江戸時代における産物の調査や利用に関して述べたX(植物や鉱物の薬用効果を体系的に記した書物をまとめ、本草学を発展させた人物)・Y(殖産興業や専売制による藩の財政再建策を論じた人物)と、語句a〜dの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

四人の学問分野を分けて当てるだけで決まります。本草学は薬になる動植物・鉱物を調べる学問、藩財政の再建策は経世論の分野で、活躍した時期も18世紀初めと18世紀末から19世紀初めに分かれます。まぎらわしい二人はどちらも別分野の学者です。

<選択肢>

X=b(貝原益軒)【正】

貝原益軒は『大和本草』で植物・動物・鉱物を分類して薬用効果を記し、日本の本草学を発展させました。

X=a(渋川春海)【誤】

渋川春海は貞享暦を作り幕府の天文方となった天文暦学者で、本草学の人物ではありません。分野のすり替えです。

Y=d(海保青陵)【正】

海保青陵は『稽古談』で、藩が産物を専売して利益を上げることを説き、商売を卑しむべきでないとする経世論を展開しました。

Y=c(富永仲基)【誤】

富永仲基は『出定後語』で仏典を歴史的に批判した大坂の町人学者で、藩の財政再建策を論じた人物ではありません。

正解【④】

X=b、Y=dの組合せになります。

問3:正解 ②(解答番号19/配点3)

<問題要旨>

18世紀初めの農書『耕稼春秋』に描かれた図が示され、図が描いている場面(空欄ア)と、百姓や村々が共同で利用していた場所の呼び名(空欄イ)の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

図は、書き添えられた文と描かれた動作の両方で決まります。図には「山方刈草して田育に仕る」と記され、山の斜面で草を刈る人、草を背負う牛、草の束を付けた馬を引く人が描かれています。草は山から運び出されて田へ向かうのであって、その場所を田に変えているわけではありません。イは、その山野が村の共同利用地であることを指す語を選びます。

<選択肢>

ア=山野から、田の肥料として用いる草を刈り取る【正】

「田育に仕る」は田を育てるために用いるという意味で、刈った草を牛馬に負わせて運び出す姿が描かれています。刈敷として田に入れる肥料を山野で確保する場面です。

ア=山野の草を刈り取って、そこに田を開く【誤】

図では刈った草を山から運び出しており、その場に田を開く作業は描かれていません。図にない行為を加えた誤りです。

イ=入会地【正】

百姓や村々が共同で利用し、肥料用の草や薪炭材、まぐさなどを採った山野を入会地といいます。図の場面はまさにその利用にあたります。

イ=助郷【誤】

助郷は、宿駅の人馬が不足したときに周辺の村々が人馬を提供する負担、またはその村々を指します。共同利用の土地ではなく、負担の制度と土地の取り違えです。

正解【②】

図は刈敷用の草を山から運び出す場面で、その山野が入会地にあたります。

問4:正解 ①(解答番号20/配点3)

<問題要旨>

幕府が1720年に出して国役の制度を整備した法令(史料1)が現代語で示され、X(一国全体に及ぶ大名領が国役による工事の対象になるか)・Y(百姓が他の領主の所領の堤防工事にも負担を出すことがあるか)の正誤の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

史料1は、工事の費用を誰が持つかを領主の規模で線引きしています。一国全体を支配する大名と二十万石以上の大名は自力、それより小規模な領主の大規模な案件は国役で割り当てたうえ幕府が費用を加える、という二段構えです。ここで注意したいのが末尾のただし書きで、これは「二十万石以上の大名の、本国から離れた小規模な所領」についての例外であり、本国そのものの扱いを変えるものではありません。あとは国役が一国を単位に割り当てられる負担であることを押さえれば、Yも決まります。

<選択肢>

X【正】

史料1は「一国全体を支配しているか二十万石以上の所領を持つ大名は、これまで通り自力で行う」とし、国役の対象を「それより小規模な領主」の大規模な案件に限っています。ただし書きが扱うのは二十万石以上の大名の飛び地であって、一国全体に及ぶ本国領を国役の対象に戻すものではありません。

Y【正】

国役は一国を単位として石高に応じて割り当てられる負担です。そのため、その国の百姓は自分の領主の所領かどうかにかかわらず、国内で行われる堤防工事に費用や労働力を出すことになりました。

正解【①】

一国規模の大名領は自力普請で国役の対象外、国役は一国単位の割当なので、X・Yとも正しくなります。

問5:正解 ③(解答番号21/配点4)

<問題要旨>

1805年に秋田藩が森林管理・経営の実務を担う役人に出した指示(史料2)が示され、これについて述べた文a〜dから最も適当な組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

史料2が何を問題視しているのかと、何を命じているのかを分けて読みます。問題視しているのは、伐り尽くしによる田畑の荒廃、洪水と干ばつ、川筋の変化、そして材木薪炭の価格変動です。命じているのは「諸樹植え継ぎ」という植林と、その費用を藩が出すので申告せよということです。物価の引き下げも天然林の保護も、史料には命令として現れません。

<選択肢>

a【誤】

史料2は「材木薪炭価の高低、御国中一統に相係り」と価格変動の影響の大きさを述べているだけで、物価の引き下げは命じていません。認識を命令にすり替えた誤りです。

b【正】

「材木薪炭価の高低、御国中一統に相係り、一つとして軽からざる事に候」とあり、山林の伐採が建築資材や燃料の価格を動かし、藩領全体に影響すると認識していたことが読み取れます。

c【正】

「種実苗木取り立て等、御入方は指し出さるべく候間、追々取り調べ申し聞けらるべく候」とあり、苗木を育てる費用は藩が支出するので申告せよと述べています。藩が経費を出す意思を示して植林・育成を奨励する内容です。

d【誤】

命じているのは「諸樹植え継ぎ山沢繁茂致し候様に」という植林であって、手をつけずに天然林を保護することではありません。奨励の中身が置き換えられています。

正解【③】

価格への影響の認識を述べたbと、藩の費用支出による植林奨励を述べたcの組合せになります。

第5問 幕末・明治初期の東京(配点12)

自分たちが住む東京に着目して時代の変化を調べる、マサさんとミユさんの会話文です。ペリー来航後の政局から大政奉還、新政府と諸外国との関係、そして明治天皇の東京行幸までを、当時の記録や錦絵をもとにたどります。

問1:正解 ⑤(解答番号22/配点3)

<問題要旨>

ペリー来航以後の出来事について述べた文Ⅰ〜Ⅲを、古い順に並べる設問です。幕政改革・長州藩の出兵・貿易統制の三つが取り上げられています。

<考え方>

各文の主体と政策名を先に決めます。Ⅰは薩摩藩の要求による幕政改革と参勤交代の緩和、Ⅱは長州藩が京都に出兵して敗れた戦い、Ⅲは「貿易開始の翌年」という記述がそのまま年を示しています。幕末は出来事が密集するので、年号まで確定させてから並べるのが安全です。

<選択肢>

Ⅲ=五品江戸廻送令(1860年)

自由貿易の開始は1859年なので、その翌年の1860年です。江戸の物資不足に対応して、雑穀・水油・蠟・呉服・生糸の五品を江戸の問屋を経由して輸出するよう命じました。

Ⅰ=文久の改革(1862年)

島津久光の要求を受けた幕政改革で、徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職とし、参勤交代を3年に1度に緩和しました。

Ⅱ=禁門の変(1864年)

池田屋事件のあと、勢力の挽回をはかった長州藩が京都へ出兵し、会津・薩摩などの藩兵に敗れました。蛤御門の変ともいいます。

正解【⑤】

1860年→1862年→1864年の順になり、Ⅲ―Ⅰ―Ⅱと並びます。

問2:正解 ②(解答番号23/配点3)

<問題要旨>

徳川慶喜が政権の返上を申し出た文書(史料1)が示され、その内容について述べたXと、大政奉還前後の政治の動きについて述べたYの正誤の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

Xは史料の文言をそのまま確かめれば足ります。Yは大政奉還・王政復古の大号令・鳥羽伏見の戦いという三つの出来事の順序を正確に並べられるかが決め手で、前後が入れ替えられていないかを見ます。幕末の政局は月単位で動くので、年月まで押さえておきたいところです。

<選択肢>

X【正】

史料1は「当今外国の交際、日に盛んなるにより、愈朝権一途に出申さず候ては綱紀立ち難く候間…政権を朝廷に帰し奉り」と述べています。外国との交際が盛んになるなかで朝廷のもとに政権を統一する必要があるという内容で、説明と一致します。

Y【誤】

実際の順序は、大政奉還(1867年10月)→王政復古の大号令(同年12月)→鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)です。新政府の発足を宣言した王政復古の大号令は鳥羽・伏見の戦いより前であり、出来事の前後が逆転しています。

正解【②】

史料の読み取りは正しい一方、王政復古の大号令と鳥羽・伏見の戦いの前後が逆になっています。

問3:正解 ①(解答番号24/配点3)

<問題要旨>

明治政府と諸外国との新たな関係について述べたX(条約改正に取り組み襲われた外務大臣)・Y(明治政府が初めて対等な内容で結んだ条約)と、語句a〜dの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

Xは「外国人判事を大審院に任用する」という改正案の中身が人物を特定する手がかりです。Yは「相互に開港したうえ領事裁判権を承認し合う」という双務的な内容から、相手国と年代が絞れます。条約改正の交渉担当者と、締結された条約の性格を混同しないことが大切です。

<選択肢>

X=a(大隈重信)【正】

大隈重信は外国人判事を大審院に限って任用する案で条約改正を進めましたが、反対論が高まり、1889年に玄洋社員の青年に爆弾で襲われて片脚を失い辞任しました。

X=b(榎本武揚)【誤】

榎本武揚は外務大臣も務めましたが、外国人判事の任用案をめぐって襲撃された人物ではありません。人物の入れ替えです。

Y=c(日清修好条規)【正】

1871年の日清修好条規は、相互に開港し、互いに領事裁判権を認め合う双務的な内容で、明治政府が最初に結んだ対等条約です。

Y=d(日英通商航海条約)【誤】

1894年の日英通商航海条約は日本における領事裁判権を撤廃させた条約であり、互いに領事裁判権を認め合うものではありません。条約の内容のすり替えです。

正解【①】

X=a、Y=cの組合せになります。

問4:正解 ②(解答番号25/配点3)

<問題要旨>

1868年10月の明治天皇の東京到着を記した史料2(『増訂 武江年表』)と、同じ年の11月に制作された天皇の行列を描く錦絵が示され、これらについて述べた文a〜dから最も適当な組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

史料は書かれている情景、錦絵は制作年月という書誌の情報が決め手になります。史料は人々が道に「輻輳」して錐を立てる隙間もなかったと述べ、錦絵は行幸の翌月に作られています。あわせて、多色刷りの錦絵がいつ成立したかという基本事項が一つの選択肢の判定に効きます。

<選択肢>

a【正】

天皇が江戸城西の丸に入ったのは1868年10月13日です。旧幕府勢力の抵抗はその後も東北から蝦夷地へと移り、榎本武揚らの箱館の戦いが終わるのは翌1869年5月でした。

b【誤】

多色刷りの錦絵は1765年ごろ鈴木春信らによって始まったもので、開国後に外国文化の影響を受けて生まれたものではありません。成立時期を100年近くずらした誤りです。

c【誤】

史料2は「貴賤老稚道路に輻輳して拝し奉る。更に寸地を漏らさず、錐を立つべき所もなかりし」と記しています。身分も年齢も入り混じって道がすきまなく埋まった様子であり、整然と区分けされたという読み取りは逆です。

d【正】

行幸は10月13日、錦絵の制作は同じ年の11月と示されており、出来事の翌月には絵が出ていたことになります。錦絵が時事を伝えるメディアとして働いていたことがうかがえます。

正解【②】

a・dの組合せになります。

第6問 近現代の銅像(配点22)

銅像の歴史を調べているユウさんとリョウさんの会話文です。Aは西郷隆盛像・伊藤博文像・井伊直弼像など近代の銅像と、その建設をめぐる史料や新聞記事を扱い、Bは戦時期の金属供出から戦後の裸婦群像、そして科学技術の歩みへと話が進みます。

A 問1:正解 ③(解答番号26/配点3)

<問題要旨>

会話文の空欄ア(1889年に西郷隆盛が改めて正三位を贈られる契機となった出来事)・イ(ロダンに師事して彫刻を学び、高村光太郎と親しかった人物)の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

アは「1889年の」と年が指定されているので、その年の出来事かどうかだけで決まります。イは「ロダンに師事して彫刻を学んだ」という手がかりがあるので、彫刻家かどうかで分ければ足ります。どちらも一方が決まれば選択肢は二つに絞られます。

<選択肢>

ア=大日本帝国憲法の発布【正】

1889年2月11日の憲法発布にともなう大赦によって、西南戦争で官位を剝奪されていた西郷隆盛に正三位が追贈されました。会話文の年と一致します。

ア=国会開設の勅諭の発出【誤】

国会開設の勅諭は明治十四年の政変を受けて出された1881年のものです。会話文の「1889年の」と8年ずれており、時期をずらした誤りです。

イ=荻原守衛【正】

荻原守衛(碌山)はパリでロダンの作品に触れて彫刻に転じ、「女」などを残しました。高村光太郎と親交があった彫刻家です。

イ=島村抱月【誤】

島村抱月は文芸協会や芸術座で新劇を進めた評論家・演出家で、彫刻家ではありません。分野のすり替えです。

正解【③】

ア=大日本帝国憲法の発布、イ=荻原守衛の組合せになります。

A 問2:正解 ⑥(解答番号27/配点3)

<問題要旨>

明治・大正期の出来事を報道した新聞記事の一部Ⅰ〜Ⅲが示され、報道が発表された時期を古い順に並べる設問です。

<考え方>

記事の中にある手がかりを年に直します。Ⅰは米価暴騰と女性たちによる米屋への押しかけ、Ⅱは「十年前の二月十日」という日付と攻撃されている内閣の名、Ⅲは「新帝御践祚の初」と「桂公の内閣」という組合せです。とくにⅡは日露戦争の開戦日から10年を足すという計算で年が確定します。

<選択肢>

Ⅲ=第一次護憲運動(1912年)

大正天皇の践祚の直後に第三次桂太郎内閣が成立したことを「不祥なる政変」とし、閥族政治の打破を掲げています。第一次護憲運動が起こった1912年12月の報道です。

Ⅱ=シーメンス事件と山本内閣への攻撃(1914年)

「十年前の二月十日」は日露戦争の開戦(1904年2月10日)を指すので、報道は1914年2月です。海軍をめぐる汚職事件で第一次山本権兵衛内閣が攻撃された時期にあたります。

Ⅰ=米騒動(1918年)

米価暴騰のなかで漁師町の女性たちが米屋や米所有者に押しかけたという記事で、富山から始まり全国に広がった米騒動の報道です。

正解【⑥】

1912年→1914年→1918年の順になり、Ⅲ―Ⅱ―Ⅰと並びます。

A 問3:正解 ④(解答番号28/配点3)

<問題要旨>

井伊直弼像建設の沿革を記した史料1から抜き出した語句X「意外の障害」・Y「直弼公の遭難地」について、それぞれに関して述べた文a〜dの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

Xは明治十七(1884)年に記念碑の計画が突然中止になった事情なので、そのころ政府の中枢にいたのがどの藩の出身者かを考えます。Yは「日比谷公園は直弼公の遭難地に近接し」という位置の手がかりから場所を特定し、そこで起きた事件とその後の政局を結びつけます。井伊直弼が将軍継嗣問題でどちらの派にいたかも確認しておきたいところです。

<選択肢>

X=b(井伊直弼による弾圧で処罰者が出た長州藩出身者などの反発)【正】

安政の大獄では吉田松陰らが処刑されました。1884年当時の政府は長州・薩摩の出身者が中枢を占めており、直弼を顕彰する記念碑への反発が計画を中止させたと考えられます。

X=a(直弼も加わっていた一橋派に対し、かつて反対していた者たちの反発)【誤】

将軍継嗣問題で井伊直弼は徳川慶福を推す南紀派の中心人物であり、一橋派ではありません。人物の立場が入れ替えられています。

Y=d(この場所で遭難した後、幕府は公武合体政策を進め、和宮を徳川家茂の妻に迎えた)【正】

日比谷公園に近い遭難地は桜田門外です。1860年の桜田門外の変で直弼が殺害された後、幕府は公武合体策に転じ、和宮の降嫁が進められました。

Y=c(この場所で会津藩浪士に傷つけられたことにより、失脚した)【誤】

桜田門外の変を起こしたのは水戸脱藩の浪士らと薩摩藩士であり、会津藩ではありません。また直弼は負傷して失脚したのではなく、その場で殺害されています。主体と結果の両方が改変されています。

正解【④】

X=b、Y=dの組合せになります。

A 問4:正解 ①(解答番号29/配点4)

<問題要旨>

明治天皇が死去した年の新聞に掲載された、明治天皇の銅像建設に関する板垣退助の意見(史料2)が示され、その意見の内容と、この時期の板垣退助について述べた文a〜dから正しい組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

前半の二つは史料の主張の向き、後半の二つは1912年という時点での板垣の立場を問うています。史料は神宮だけでは物足りないから銅像も建てたいという主張であって、銅像不要論ではありません。また板垣は首相を務めたことがなく、元老にも加えられていません。

<選択肢>

a【正】

史料2は「民衆をして陛下に接するの思いあらしむるの必要ありと信ず」「必ず銅像を建立し御英姿を拝し得るようしたきもの也」と述べています。天皇を目の当たりにしているような思いを抱かせる銅像が必要だという主張で、説明と一致します。

b【誤】

史料2は「神宮のみにては如何にも物足らぬ心地せらるれば」と述べており、神宮だけでは足りないから銅像も建てたいという立場です。主張の向きが逆転しています。

c【正】

板垣が党首を務めた自由党(のちの憲政党)は、1900年の立憲政友会結成にともなって解党しており、明治天皇が死去した1912年の時点ではすでに存在していません。

d【誤】

板垣退助は内務大臣を務めましたが首相の経験はなく、元老にも列していません。元首相として元老に任じられ首相の選任に関与したという説明は事実と異なります。

正解【①】

a・cの組合せになります。

B 問5:正解 ①(解答番号30/配点3)

<問題要旨>

日中戦争の勃発(1937年)から敗戦(1945年)までの政治・社会について述べた文のうち、正しいものを選ぶ設問です。

<考え方>

四つとも、法律名・援助の相手・内閣名・時期のいずれかを確かめれば決まります。戦時統制の法令と戦後改革の法律を区別すること、援蔣ルートの相手が誰かを押さえること、「東亜新秩序」声明を出した内閣を確認することが焦点です。

<選択肢>

①【正】

戦争の長期化で米の生産と輸送が細り、1941年から米の配給制が始まりました。配給量は次第に減らされ、さつまいもなどによる代用食が主食の位置を占めるようになりました。

②【誤】

独占禁止法は1947年に制定された戦後改革の法律で、財閥解体に続く経済民主化の一環です。戦時期の統制法令ではなく、時期をずらした誤りです。

③【誤】

この時期に反英運動の的となったのは、イギリスが蔣介石の国民政府へ物資を送った援蔣ルートです。段祺瑞政権は1910年代の北京政府で、時期も相手も入れ替えられています。

④【誤】

「東亜新秩序」の建設を声明したのは1938年11月の第一次近衛文麿内閣です。米内光政内閣の成立は1940年で、声明を出した内閣が入れ替えられています。

正解【①】

代用食の広がりを述べた①だけが、日中戦争から敗戦までの時期の事実と合います。

B 問6:正解 ③(解答番号31/配点3)

<問題要旨>

国会議事堂前の寺内元帥銅像跡に建てられた裸婦の群像について報じた1950年の新聞記事(史料3)が示され、X(もとの銅像のモデルとなった人物を首班とする内閣が行ったこと)・Y(記事が裸婦像をどう位置づけているか)の正誤の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

Xは史料中の「寺内元帥銅像跡」から人物を寺内正毅と特定し、その内閣の事績を思い出します。寺内正毅内閣(1916〜18年)は西原借款やシベリア出兵、米騒動による総辞職で知られます。二十一か条の要求は1915年で、寺内内閣の成立より前の出来事です。Yは記事の言葉そのもので判断できます。

<選択肢>

X【誤】

二十一か条の要求は1915年、第二次大隈重信内閣のときに中国へ出されたものです。寺内正毅内閣の成立は1916年であり、内閣が入れ替えられています。

Y【正】

史料3は「まさに軍国日本から文化日本への脱皮を象徴する女神の像」「平和日本のシンボル」と書いており、裸婦像を軍国主義からの脱却の象徴としてとらえています。

正解【③】

二十一か条の要求を行ったのは大隈内閣なのでXは誤り、記事の位置づけを述べたYは正しくなります。

B 問7:正解 ②(解答番号32/配点3)

<問題要旨>

敗戦から1970年代までの科学技術について述べた文のうち、誤っているものを選ぶ設問です。

<考え方>

耐久消費財の普及については、1950年代後半の「三種の神器」と、1960年代後半の「3C(新三種の神器)」を分けて覚えているかが問われます。残りの三つは、受賞・建設・開催の年代を確かめれば足ります。

<選択肢>

①【正】

湯川秀樹は中間子の存在を予言した理論により、1949年にノーベル物理学賞を受賞しました。日本人として初めてのノーベル賞受賞です。

②【誤】

1950年代後半に普及した「三種の神器」は電気洗濯機・電気冷蔵庫・白黒テレビです。自動車(カー)・カラーテレビ・クーラーは1960年代後半に普及した「3C」であり、内容と時期がまとめて入れ替えられています。

③【正】

高度経済成長期には技術革新を背景に石油化学工業が発展し、四日市や岩国などで大規模な石油化学コンビナートが相次いで建設されました。

④【正】

1970年に大阪で開かれた日本万国博覧会では、電気自動車や動く歩道など当時の新しい技術が紹介されました。

正解【②】

1950年代の「三種の神器」の中身が1960年代後半の「3C」に置き換えられているため、②が誤りです。

※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

スポンサーリンク
投稿を友達にもシェアしよう!
  • URLをコピーしました!
スポンサーリンク
目次