解答
解説
第1問
問1:正解2
<問題要旨>
この小問は、近代以降の日本人移民の歴史を題材として、アメリカへの移民禁止の時期や、日露戦争(1904~1905年)後の満州移民の実態に関する正誤を問う問題である。アメリカにおける日本人移民がどのように制限・禁止されたか、また日本政府がどの時期に「国策」として海外移民を進めたかを確認することで正否を判断する。
<選択肢>
① X正・Y正
X(「1920年代なかばに、アメリカ国内への日本人の移民が全面的に禁止された」)は、1924年の排日移民法(排日移民条項を含む移民法)によって日本人移民が大幅に制限・禁止されたのは史実に近い。一方、Y(「日露戦争の終了直後に、満州移民が国策として開始された」)は、実際には満州への大々的な移民政策が本格化するのは1930年代に入ってからであり、日露戦争直後の1900年代後半には国策としての規模には至っていない。よって両方とも正しいとはいえず、この選択は誤りとなる。
② X正・Y誤
Xは上記の通り、1920年代半ばにアメリカで排日的な移民制限・禁止が進んだ史実と合致する。一方でYは、日露戦争のすぐ後ではなく、満州事変以降の1930年代に国策として満州移民を推進したことを踏まえると誤りといえる。Xが正しくYが誤りである組合せは歴史的経緯に合致する。
③ X誤・Y正
Xを誤り、Yを正しいとするには、1920年代半ばのアメリカの移民禁止が存在しなかったか、あるいはYの満州移民が日露戦争直後に国策として始まっていた事実があるかを確認する必要がある。しかし前者は史実として存在し、後者は史実として成り立たないため、この組合せは誤りとなる。
④ X誤・Y誤
Xを誤りと見るには、1920年代半ばに日本人移民が全面的に禁止されなかったとする根拠が必要だが、実際には1924年の法律によって日本人の新規移民は厳しく制限されているため誤りと言い難い。一方、Yを誤りとする判断は正しいものの、Xまで誤りとするのは史実に反する。このためこの選択も不適切である。
問2:正解4
<問題要旨>
この小問は、不平等条約の改正交渉に関わる外務卿・外相たちの交渉経緯を問うものである。19世紀後半から1890年代にかけて条約改正を試みた各人物の動きと、挫折に至った理由を正確に把握する必要がある。
<選択肢>
① 「寺島宗則外務卿による改正交渉は、アメリカの反対にあって挫折した」
寺島宗則の改正交渉は、むしろイギリスなど列強の反対により難航した経緯が知られている。特にアメリカのみが大きく反対したというより、イギリスが最終的に合意を拒否した点が大きいとされるため、ここで「アメリカの反対」とのみ特記するのは史実とややずれがある。
② 「陸奥宗光外相による改正交渉は、大審院に外国人判事の任用を認めたことで世論の反発を受け、挫折した」
陸奥宗光は領事裁判権撤廃を実現する条約改正に成功した外相として有名であり、具体的には日英通商航海条約(1894年)の締結などを成し遂げた。外国人判事の登用方針に対する反発が起こったのは大隈重信外相の交渉時期などと混同しやすく、陸奥の交渉を「挫折した」とするのは実情に合わない。
③ 「大隈重信外相による改正交渉は、鹿鳴館を建てるなどの欧化政策を進めたことで世論の反発を受け、挫折した」
鹿鳴館などの欧化政策を主導したのは井上馨外相の時期が代表的事例で、大隈重信が同様の欧化政策を進めたわけではない。また大隈外相が外国人判事を大審院に登用する案を示して暗殺未遂事件に遭ったのは有名であり、それによって辞任したことも交渉挫折の要因だが、ここで言う「鹿鳴館の建設による世論の反発」は井上馨と混同しているため誤り。
④ 「青木周蔵外相による改正交渉は、大津事件によって外相が辞任したことで挫折した」
1891年の大津事件(ロシア皇太子が滋賀県大津で警官に切りつけられた事件)の際に、ロシアとの関係悪化が懸念され、外交上の責任を感じた青木周蔵外相は辞任に追い込まれた。これにより改正交渉がとん挫した史実と合致する。
問3:正解1
<問題要旨>
この小問では、内地雑居(外国人が居留地外でも自由に居住・営業できるようにするか)をめぐる論争と、自由主義経済論者として知られる田口卯吉の見解を題材にしている。居留地制度の存続・廃止や人種観の言及などが論点であり、史料中の主張(a~d)がどれに当てはまるかを正しく読み取る必要がある。
<選択肢>
a 「将来的には居留地を廃止し、日本人と外国人の住み分けを改めるべきだと主張している」
b 「将来にわたって居留地を維持し、日本人と外国人の住み分けを継続すべきだと主張している」
c 「利害関係の一致によって人々の交流が円滑になるとしている」
d 「人種が同一であることによって人々の交流が円滑になるとしている」
史料では、田口卯吉が「内地雑居を認める方向」に比較的肯定的な見解を示しており、人種による明確な区別や恒久的な住み分けを続けるのには否定的である。また、人種は異なっても利害が一致すれば親和しうるという趣旨が見られ、「将来的には住み分けをやめ、利害関係の一致によって交流が進む」とする内容に近い。一方、「人種が同一だから交流が円滑になる」といった議論は見られないと考えられる。よってaとcが、史料の内容に近いと判断できる。
問4:正解4
<問題要旨>
この小問は、近代日本の学術・文化・建築・医学などに貢献した「お雇い外国人」の人物と、その功績に関する記述の組合せを問う問題である。記述X・Yをそれぞれ誰の事績か見極めることがポイントとなる。
<選択肢>
(X)「東京医学校の教師として来日し、近代日本の医学の発展に貢献した」
(Y)「鹿鳴館などを設計するとともに、辰野金吾らを育てた」
a モース
b ベルツ
c フェノロサ
d コンドル
- モース(a)は生物学・動物学の分野で貝塚の研究などを行った人物であり、医学とは関係が薄い。
- ベルツ(b)はドイツ人医師として来日し、東京医学校(のちの東京帝国大学医学部など)で指導を行い、日本の近代医学の発展に寄与した。
- フェノロサ(c)は哲学・美術分野での貢献が知られており、美術の保護や日本美術を欧米に紹介したことで有名。
- コンドル(d)はイギリス人建築家で、鹿鳴館やニコライ堂などの設計を手掛け、日本人建築家の育成にも影響を与えた。
したがってXはベルツ、Yはコンドルと対応し、組合せとしては(X → b, Y → d)が適切である。
問5:正解3
<問題要旨>
この小問は、大日本帝国憲法(明治憲法)における「臣民」に関する規定をめぐって、X・Yの正誤を問う問題である。大日本帝国憲法では、主権の所在や、臣民の権利(言論の自由など)がどのように定められていたかを踏まえて判断する。
<選択肢>
X 「大日本帝国憲法は、主権は『臣民』にある、と規定している」
Y 「大日本帝国憲法は、『臣民』には法律の範囲内で言論の自由がある、と規定している」
- 大日本帝国憲法では、主権は天皇に存するものと定められており(天皇主権)、臣民に主権があるとはされていない。そのためXは誤り。
- また、当時の大日本帝国憲法下においても、法律の範囲内での言論の自由や出版の自由が一応は規定されていた(ただし制限も多かった)。したがってYは概ね史実に合致しているといえる。
問6:正解5
<問題要旨>
この小問は、日本がサンフランシスコ平和条約(1952年)によって主権を回復した後も、アメリカの施政権下にあった島々(奄美群島、小笠原諸島、沖縄など)が日本に返還されていった順序を問う問題である。地図上のI~IIIの島の返還年代を正しく整理する必要がある。
<選択肢>
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I
⑤ III → I → II
⑥ III → II → I
- 奄美群島は1953年に返還され、比較的早い時期に本土復帰している(地図上のIII)。
- 小笠原諸島は1968年に返還された(地図上のI)。
- 沖縄本島を含む沖縄県全域は1972年に返還され(地図上のII)、もっとも遅い。
よって年代の古い順は「奄美(III)→小笠原(I)→沖縄(II)」となる。
第2問
問7:正解3
<問題要旨>
この小問は、幕末から明治前期にかけての日米間の条約と、明治初期の自由民権運動に関連する政社の名称を組み合わせる問題である。江戸幕府がアメリカとの間で締結した条約が「自由貿易を取り決める」条約として正しいかどうか、また「土佐」で結成された政社がどれに当たるかを見極める必要がある。
<選択肢>
① ア 日米和親条約 イ 立志社
(理由)日米和親条約(1854年)はペリー来航を受けて結んだ開国条約で、自由貿易の本格化までには至っていない。また土佐で結成された政社としては、立志社が有名だが、アに当たる条約の内容と符合しないため不適切。
② ア 日米和親条約 イ 交詢社
(理由)同上のとおり、アが自由貿易を取り決める条約という趣旨と日米和親条約は食い違う。また、交詢社は主として東京で結成された政社であり、「土佐の~」という記述には当てはまらない。
③ ア 日米修好通商条約 イ 立志社
(理由)日米修好通商条約(1858年)はアメリカ総領事ハリスとの交渉で締結され、開港と自由貿易を取り決めた条約として知られる。一方、土佐の政社は板垣退助らによる立志社が代表例であり、両者の組み合わせが本文記述に合致すると考えられる。
④ ア 日米修好通商条約 イ 交詢社
(理由)交詢社は東京で結成された政社であり、「土佐の~」には当てはまらない。このため本文の記述と一致しにくい。
問8:正解4
<問題要旨>
この小問は、幕末期の幕府による経済政策に関する記述を取り上げ、それが正しいかどうかを判断する問題である。特に、自由貿易の開始による物価混乱などに対処すべく幕府が実施した政策をめぐり、史実と照らし合わせながら検討する必要がある。
<選択肢>
① 「金貨の改鋳を行い、これによって物価が下落した」
(理由)幕末期の金貨改鋳は、むしろ金の含有量の減少から通貨価値の混乱を招き、物価の上昇を招いた例も知られる。「下落した」とするのは史実と合わない。
② 「株仲間が物価高騰の要因になっていると考え、それを解散させた」
(理由)株仲間解散は天保の改革などで見られるが、幕末期の経済政策として最も主要な施策だったかどうかを吟味する必要がある。いずれにせよこの策のみで物価が下がる決定的な効果はなかったとされる。
③ 「薪水などの日用品の価格高騰を抑えるため、薪水給与令を出した」
(理由)薪水給与令は主に異国船への薪水・食料補給の是非などを定めたもので、国内物価対策というよりは対外的な臨時措置だった面が大きく、ここで述べる経済政策としては不適切。
④ 「生活などを、産地から横浜へ直接出荷することを禁じた」
(理由)幕府は輸出品の流出を統制するため、「五品江戸廻送令」(1860年)などを出し、指定品を直接外国商館と取引されるのを防ごうとした。これによって江戸の問屋を通さず横浜へ直接出荷されることが禁じられた例が知られ、当時の混乱対策としては史実に近い。
問9:正解4
<問題要旨>
この小問は、幕末から明治前期に起こった民衆運動・事件を時系列に並べる問題である。提示された3つの出来事(I・II・III)について、それぞれ発生年代を把握した上で古い順に整理する必要がある。
<選択肢>(I~IIIの年代順を①~⑥の6通りで示す)
I 「生糸の値下がりなどで打撃を受けた農民たちが、困民党という集団を結成し、高利貸・警察を襲撃した」
II 「社会の先行きへの不安が募るなか、民衆が『ええじゃないか』と唱え乱舞した」
III 「『血税』とは人の生き血を絞り取ることだという噂が広がり、民衆が役所などを襲撃した」
- IIの「ええじゃないか」は1867年前後に流行し、幕末期の社会不安を背景に発生した。
- IIIの「血税一揆」は1873年の徴兵令発布前後に血税という言葉が誤解されて起こった騒動と関連し、明治初期の出来事である。
- Iの「困民党蜂起」は、たとえば1884年の秩父事件など、明治中期(1880年代半ば)に発生した社会運動と近い時期の例がある。
これらを時系列にすると、1860年代後半 → 1870年代 → 1880年代半ば、すなわち「II → III → I」と並ぶ。
問10:正解2
<問題要旨>
この小問は、前問で登場した激化する民権運動期(1880年代前半~中葉ごろ)とほぼ同時期に起こった出来事として、誤った記述を選ばせる問題である。当時の政治体制や外交・社会・文化面の出来事の年表と照合して判断する。
<選択肢>
① 「太政官制が廃止され、新たに内閣制度が定められた」
(理由)伊藤博文が初代内閣総理大臣となったのは1885年であり、激化する民権運動期(1880年代前半~中葉)とほぼ重なる。よって妥当といえる。
② 「洋画の分野で二科会が創立され、文部省美術展覧会(文展)に対抗した」
(理由)二科会の創立は1910年代初頭(正式には1914年)であり、1880年代の民権運動の時期とは大きくずれる。したがって同時期の出来事とするのは明らかに誤り。
③ 「三菱(三菱会社)と共同運輸会社が合併して、日本郵船会社が設立された」
(理由)日本郵船会社の設立は1885年で、上記①と同時期にあたる。このため激化する民権運動と並行して起こった出来事といえる。
④ 「朝鮮で甲申事変(中夜政変)が発生し、清軍によって鎮圧された」
(理由)甲申事変は1884年末に起こったクーデター未遂事件で、李氏朝鮮の開化派が清軍により短期間で鎮圧された。1880年代半ばという年代と合致するため正しい。
第3問
問11:正解1
<問題要旨>
この小問は、近代日本における地方制度整備の過程で影響を与えた外国人顧問の出身国(ア)と、日本国憲法施行とともに施行された法律(イ)の組合せを問うものである。明治期の地方制度は、中央集権的体制を整備しつつも西欧諸国の制度を参考にしており、特にドイツ(プロイセン)の制度を範にしたとされる。また1947年に日本国憲法と合わせて施行されたのは「地方自治法」である。
<選択肢>
①【正】 ア:ドイツ イ:地方自治法
(理由説明)明治期にはドイツ(プロイセン)を手本とした地方制度が整備され、戦後に日本国憲法とともに施行されたのは「地方自治法」であるため、この組合せは史実に合致する。
②【誤】 ア:ドイツ イ:市制・町村制
(理由説明)市制・町村制は大日本帝国憲法期に公布された法律(1888~1889年頃)で、1947年施行の法律ではない。アに関してはドイツで正しいものの、イに関しては当てはまらない。
③【誤】 ア:フランス イ:地方自治法
(理由説明)明治政府はプロイセン憲法やドイツ流の地方制度を範としたとされるので、「フランス」起源というのは一般的な説ではない。また地方自治法は上記①との組み合わせが正しい。
④【誤】 ア:フランス イ:市制・町村制
(理由説明)「市制・町村制」は1880年代の制度整備であるうえ、明治の地方制度はドイツ式の影響が大きい。フランス由来とする根拠は薄く、史実と合わない。
問12:正解4
<問題要旨>
この小問は、提示された地域(例:大阪・東京・京都など)で起こった出来事を年代や史実に照らして正誤を判断する問題である。明治以降に各都市で開催・発生した大きな出来事(博覧会、革新首長の誕生、国際軍事裁判、環境会議など)に関する正確な時期・場所の知識が問われる。
<選択肢>
①【誤】 「日清戦争の勝利を祝って、大阪で日本万国博覧会が開催された。」
(理由説明)日清戦争終結は1895年だが、「日本万国博覧会」という名称の大規模な博覧会は史実としては存在しない。1903年に「第五回内国勧業博覧会」が大阪で開かれたが、日清戦争勝利記念の万国博覧会という形ではない。
②【誤】 「造船疑獄事件の批判を受けて、東京でも革新首長が誕生した。」
(理由説明)造船疑獄事件(1950年頃)への批判やその結果の都政への影響は事実としてあるが、「革新首長」が誕生した都市や時期とは必ずしも直結しない。特定の大きな転換点としては鈴木都政(東京)などが挙げられるが、本選択肢は不正確といえる。
③【誤】 「サンフランシスコ平和条約発効を機に、極東国際軍事裁判が東京で開かれた。」
(理由説明)極東国際軍事裁判(東京裁判)は1946~1948年にかけて行われたもので、サンフランシスコ平和条約発効(1952年)より前に終了している。よって史実とは異なる。
④【正】 「京都で地球温暖化防止をめざす国際会議が開かれ、京都議定書が採択された。」
(理由説明)1997年に京都会議(COP3)が行われ、ここで京都議定書が採択されたのは史実に合致する。
問13:正解3
<問題要旨>
この小問は、東京での政治的な運動に関して述べた三つの出来事(I・II・III)を、古い順に並べる問題である。いずれも集会やデモが帝国議会や公園などで行われた事例であり、それぞれの年代を正確に把握して整序するのがポイントとなる。
<選択肢>
I 「閥族打破・憲政擁護を訴える多くの人々が帝国議会議事堂周辺に集まり、内閣退陣を要求した。」
II 「講和条約破棄を叫ぶ日比谷公園での集会から、暴動が発生した。」
III 「労働環境の改善などを求め、上野公園で第1回メーデーが開かれた。」
① I → II → III
(理由)時系列が事実と合うか検討が必要。
② I → III → II
(理由)メーデー(1920年開始)と日比谷焼打事件(1905年)や憲政擁護運動(1910年代)との前後関係が整合するかを確認。
③ II → I → III
【正】
(理由説明)
- II「日比谷焼打事件」は1905(明治38)年、ポーツマス条約への不満から発生。
- I「第一次護憲運動(閥族打破・憲政擁護)」は1912~13(大正元~2)年に展開され、桂太郎内閣に対する大規模な民衆運動が起こった。
- III「日本で第1回メーデーが上野公園で開催された」は1920(大正9)年である。
これにより古い順に II(1905年)→ I(1912~13年)→ III(1920年)が正しい。
④ II → III → I
(理由)メーデーが先に来る順は年号の上で誤り。
⑤ III → I → II
(理由)メーデーが1905年以前に来るのは誤り。
⑥ III → II → I
(理由)メーデー(1920年)と日比谷焼打事件(1905年)の前後が逆になるため不正確。
問14:正解3
<問題要旨>
この小問は、第一次世界大戦後の日本における高等教育制度や女性の社会進出を示す語句(ウ・イ)の組合せを問う問題である。1918年に制度改正が行われて私立の専門学校が大学に昇格し始めた時期と、働く女性の呼称として知られた語(良妻賢母や職業婦人など)が何を指すかがポイントとなる。
<選択肢>
① ウ:学校教育法 イ:職業婦人
(理由)「学校教育法」は第二次世界大戦後(1947年)に制定された法律なので、1918年に行われた制度改正とは合わない。
② ウ:学校教育法 イ:良妻賢母
(理由)同上の理由でウが不適切。さらに良妻賢母の思想は明治時代から広がるものであり、1918年当時の高等教育改正と直接的に結びつく語句かどうかを再検討する必要がある。
③ ウ:大学令 イ:職業婦人
【正】
(理由説明)
- 1918年に公布された「大学令」によって私立の専門学校が大学として昇格していく道が開かれた。
- 大正期に会社や官公庁で働く女性を「職業婦人」と呼び、良妻賢母とは別の新しい女性観として広まった。
④ ウ:大学令 イ:良妻賢母
(理由)良妻賢母は日清戦争前後に国民道徳として強調された理念であり、「大学令」と同時期に生まれた新称ではなく、また当時の女性労働者を指す呼称ともいえない。
問15:正解4
<問題要旨>
この小問は、大正・昭和初期の学問や芸術の動向をめぐり、民俗学の確立や新劇の拠点を築いた動きと、それを担った人物・団体との組合せを問う問題である。XとYの説明文を誰や何に対応させるかが鍵となる。
<選択肢>
X「庶民の民間伝承や風習などの研究を通じて、民俗学を確立した。」
Y「小山内薫らが中心になって組織し、新劇の拠点となった。」
a 柳宗悦
b 柳田国男
c 宝塚少女歌劇
d 築地小劇場
① X=a Y=c
(理由)柳宗悦は民芸運動の主導者として有名で、民俗学とはやや領域が異なる。宝塚少女歌劇は大正期に宝塚で歌劇を行った団体で、新劇拠点とは言えない。
② X=a Y=d
(理由)Xを柳宗悦とする場合、民芸運動の推進が主である。「民俗学確立」としては柳田国男が代表的。よってX=aでは不十分。またY=dは正しいがXが問題となる。
③ X=b Y=c
(理由)Xを柳田国男とするのは民俗学に合致するが、Yの宝塚少女歌劇を「新劇の拠点」とするのは誤りである。宝塚少女歌劇は大衆娯楽の一環として発展した劇団だからである。
④ X=b Y=d
【正】
(理由説明)
- X=b(柳田国男)は、『遠野物語』などを代表に庶民の伝承や風習の研究を行い、民俗学を築いた人物。
- Y=d(築地小劇場)は小山内薫や土方与志らが中心となり、新劇運動の拠点として1920年代に創設された劇場である。
問16:正解2
<問題要旨>
この小問は、1920年代の都市化の状況に関する記述の正誤を問うものである。大正~昭和初期の都市では、和洋折衷の文化住宅の普及や、コンクリート建築、交通機関の発達などが進んだ。一方で地下鉄の開通時期などを正しく捉え、当時として実際に存在したかどうかを確認する必要がある。
<選択肢>
①【正】 「東京で地下鉄が開通した。」
(理由説明)日本最初の地下鉄は1927年に上野~浅草間が開通しており、1920年代に実現している。
②【誤】 「伝統的な和式に徹し、洋式を排した文化住宅が建設された。」
(理由説明)「文化住宅」とは、むしろ和洋折衷の要素を取り入れた住宅を指す。洋式要素を排除するどころか、洋間やガラス窓などを取り入れた点が特色である。よって「洋式を排した」というのは史実と逆で誤り。
③【正】 「鉄筋コンクリート造りの建物が増加した。」
(理由説明)関東大震災(1923年)後の再建需要などにより、火災に強い鉄筋コンクリート造の建物が増えるのは史実に合う。
④【正】 「バス(乗合自動車)やタクシーが普及した。」
(理由説明)大正末期から昭和初期にかけて、都市交通としてバスやタクシーの利用が広まったことは史実に合致する。
第4問
問17:正解4
<問題要旨>
この小問は、明治期から大正期にかけて言論や報道を規制した法令(ア)と、政府が社会主義者などを大規模に検挙した事件(イ)を問うものである。1875年の言論弾圧法令には新聞紙条例や讒謗律・出版条例などがあり、1910年に社会主義者らが処刑・逮捕された事件として知られるのが「大逆事件」である。それらを適切に組み合わせることが求められる。
<選択肢>
①【誤】 ア:治安警察法 イ:三・一五事件
(理由説明)治安警察法(1900年制定)は社会運動・労働運動の取り締まりを強化する法律で、1875年の規制法令とは年代が合わない。また三・一五事件(1928年)は共産党員などの一斉検挙なので「1910年の事件」とは異なる。
②【誤】 ア:治安警察法 イ:大逆事件
(理由説明)アの治安警察法は1900年制定のため「1875年」に実施された新聞・出版規制とは異なる。一方、大逆事件(1910年)そのものはイとして適切だが、アの年代が合わず不適切。
③【誤】 ア:新聞紙条例 イ:三・一五事件
(理由説明)アの新聞紙条例(1875年)は正しいが、イの三・一五事件(1928年)は1910年の大逆事件ではないため、この組合せとしては誤り。
④【正】 ア:新聞紙条例 イ:大逆事件
(理由説明)1875年に制定され、新聞・雑誌などの報道を厳しく制限したのが新聞紙条例。1910年の社会主義者・無政府主義者に対する弾圧が大逆事件であるため、史実に合致する。
問18:正解2
<問題要旨>
この小問は、従軍記者と各戦争への従軍経験を示す三つの文(I・II・III)を、発生した時代順に配列するものである。岸田吟香・大羆毅(おおくまいさお)など、日清・日露・西南戦争・台湾出兵といった流れを確認し、どの記述が古い時期の戦争かを判断して並べる必要がある。
I 「『東京日々新聞』の岸田吟香が、台湾出兵に従軍した。」
II 「博文館から派遣された田山花袋が、日露戦争に従軍した。」
III 「『郵便報知新聞』の大養毅が、西南戦争に従軍した。」
<選択肢>
① I→II→III
(理由説明)台湾出兵は1874年、西南戦争は1877年、日露戦争は1904~05年。これでは台湾出兵→日露戦争→西南戦争の順になり、年代が不整合。
② I→III→II
【正】
(理由説明)
- Iの台湾出兵(1874年)が最初
- IIIの西南戦争(1877年)がそれに続く
- IIの日露戦争(1904~05年)が最後
よって時系列が合う。
③ II→I→III
(理由説明)日露戦争(1904~05年)が台湾出兵(1874年)より先に来るのは誤り。
④ II→III→I
(理由説明)こちらも日露戦争が先に来る順序なので不正確。
⑤ III→I→II
(理由説明)西南戦争(1877年)が台湾出兵(1874年)よりも先になるため誤り。
⑥ III→II→I
(理由説明)同様に順序が合わない。
問19:正解1
<問題要旨>
この小問は、日露戦争後(1905年頃)に日本がとった外交上の行動や国際関係の変化を題材に、正誤を問うものである。韓国併合への動き、ロシアとの協調かイギリスとの同盟かなどが論点となっている。
<選択肢>
①【正】 「日本は、韓国の外交権を奪った上かつ、漢城に統監府をおいて、伊藤博文がその初代統監となった。」
(理由説明)1905年の第二次日韓協約(乙巳条約)により韓国の外交権が奪われ、統監府が置かれて伊藤博文が初代統監に就任した事実と合致する。
②【誤】 「日本を中心とする列国の軍隊によって、清国内の民衆反乱が鎮圧され、北京議定書が結ばれた。」
(理由説明)義和団事件(1900年頃)のことを指すなら、これは日露戦争前に八カ国連合軍が出兵し、北京議定書(1901年)を結んだもので「日露戦争後の外交」ではない。
③【誤】 「日本は、軍艦を江華島付近に派遣して朝鮮を挑発し、これを機に開国させた。」
(理由説明)江華島事件(1875年)に関する史実であり、日清戦争よりも前の段階の朝鮮外交に当たるため、日露戦争後の外交ではない。
④【誤】 「日本は、韓国での権益を確保するために、ロシアと協調する外交路線ではなく、イギリスと同盟を結ぶ路線を選んだ。」
(理由説明)日英同盟は1902年に締結され、日露戦争突入前から存在していた。日露戦争後も英との同盟は継続するが、その目的を「韓国での権益確保」とするかはやや説明に不足がある。また選択肢全体として「日露戦争後に改めてイギリス同盟を選んだ」とする書き方は正確性に欠ける。
問20:正解3
<問題要旨>
この小問は、大正期の日本経済(特に第一次世界大戦前後)について述べられた4つの文から誤ったものを選ばせる問題である。大戦による好景気で輸出が増大し、重化学工業が伸びた一方、繊維産業も依然として外貨獲得の主力であり続けたなどが論点となる。
<選択肢>
①【正】 「物価の急騰が賃金の上昇を上回り、労働者の生活を圧迫した。」
(理由説明)大戦景気とインフレーションの進行で、実質賃金が伸び悩み、労働者の生活が苦しくなったのは史実に合致する。
②【正】 「債務国だった日本は、これを機に債権国になった。」
(理由説明)第一次世界大戦中に列強が軍需物資などを日本から調達したため、日本は急速に対外債権を拡大し、戦後には債権国化したとされる。
③【誤】 「造船業など重化学工業が拡大する一方で、繊維産業は衰退した。」
(理由説明)大戦期に重化学工業は拡大したが、繊維産業は決して衰退せず、むしろ輸出の主力として依然と大きな位置を占めていた。よってこれが誤り。
④【正】 「輸入超過であったそれまでの貿易収支は、一転して輸出超過となった。」
(理由説明)大戦特需で輸出が急増し、貿易収支が黒字化したのは史実と合う。
問21:正解2
<問題要旨>
この小問は、雑誌や著述家の思想的展開について、XとYの内容を誰(または何)に対応させるかを問うものである。Xでは植民地主義論(小日本主義)を掲げた人物が出てきて、Yでは民衆の政治意識を高める総合雑誌の発展が挙げられている。それを石橋湛山・北一輝・『自権』・『中央公論』などの語句と正しく対応させる。
X「『東洋経済新報』の誌上で植民地放棄論(小日本主義)を展開した。」
Y「民衆の政治意識の成長を促した総合雑誌として大きく発展した。」
<選択肢>
①【誤】 X=a(石橋湛山) Y=c(『自権』)
(理由説明)石橋湛山が『東洋経済新報』にて植民地放棄論を唱えたのは正しいが、『自権』という雑誌は大正初期に吉野作造が創刊した『中央公論』とは異なるので合わない。
②【正】 X=a(石橋湛山) Y=d(『中央公論』)
(理由説明)石橋湛山が『東洋経済新報』を拠点に小日本主義(植民地放棄論)を展開した事実は有名であり、吉野作造らが論陣を張った『中央公論』は大正デモクラシー期に民本主義などを掲げて民衆の政治意識向上に寄与した。よってこれが正しい組み合わせ。
③【誤】 X=b(北一輝) Y=c(『自権』)
(理由説明)北一輝は急進的国家改造論を唱えた人物であり、『東洋経済新報』で植民地放棄論を展開したわけではない。
④【誤】 X=b(北一輝) Y=d(『中央公論』)
(理由説明)Xが北一輝では植民地放棄論に合わない。Yに『中央公論』を当てる点は一部合うが、Xが誤りである以上この組み合わせも不適切。
問22:正解4
<問題要旨>
この小問は、大正期の政治・社会情勢に関連した出来事を列挙し、正しいかどうかを判断する問題である。護憲運動や内閣総辞職、シーメンス事件などの出来事を年代順や史実との整合性から正誤を見極める必要がある。
<選択肢>
①【誤】 「血のメーデー事件(メーデー事件)をきっかけに、破壊活動防止法が制定された。」
(理由説明)「血のメーデー事件」は1952年の皇居前広場デモを指す場合が多く、破壊活動防止法が制定されたのは1952年である。ただし、これを「大正期の政治・社会情勢」とは直接結びつけられず、年代的にも大きくずれる。
②【誤】 「第1次若槻礼次郎内閣は、ジーメンス事件の責任を問われて総辞職した。」
(理由説明)ジーメンス事件(1914年)で総辞職したのは第3次桂太郎内閣である。若槻礼次郎内閣は金融恐慌(1927年)などを背景に退陣しており、シーメンス事件とは無関係。
③【誤】 「労働組合が解散させられ、大日本産業報国会が結成された。」
(理由説明)大日本産業報国会は1938年に労働組合を戦時体制へ統合・解散させた組織であり、大正期を超えて昭和期の戦時動員体制の一端として発足したため、大正期の出来事とは合わない。
④【正】 「護憲三派の提携が成立し、第二次護憲運動を展開した。」
(理由説明)1924年、護憲三派(立憲政友会・革新倶楽部・憲政会)が連携し、第2次護憲運動が本格化したのは大正期末~昭和初期にかけての事実として合致する。
問23:正解1
<問題要旨>
この小問は、太平洋戦争期(アジア太平洋戦争期)における女性の動員や、国家総動員法に基づく国民徴用令による労働力の動員を扱ったX・Yの正誤を組み合わせる問題である。未婚女性を軍需工場などへ動員した女子挺身隊の事例や、国民徴用令による重要産業への国民動員などを踏まえて判断する。
X「アジア太平洋戦争(太平洋戦争)期には、未婚の女性が女子挺身隊に組織された。」
Y「国家総動員法にもとづく国民徴用令によって、重要産業への国民の動員が行われた。」
<選択肢>
①【正】 X正・Y正
(理由説明)
- X:女子挺身隊は、未婚の若い女性を中心とした勤労動員組織として成立し、軍需工場などで働かされた事実と合致する。
- Y:1938年の国家総動員法と1939年の国民徴用令によって、国民が強制的に重要産業などへ動員されたのは史実に合う。
②【誤】 X正・Y誤
(理由説明)Yも正しいので誤り。
③【誤】 X誤・Y正
(理由説明)Xが誤りということはないため不適切。
④【誤】 X誤・Y誤
(理由説明)どちらも戦時下の動員を示す正しい事実なので誤り。
問24:正解1
<問題要旨>
この小問は、1946年に発表された農地改革を風刺する漫画について述べた文(a~d)の中で、正しく組み合わせたものを問う問題である。GHQの指令を受けて地主制を解体し、自作農を増やすことを目指した農地改革の内容と、漫画に描かれている人物像(地主か小作人か)を見分けることがポイントとなる。
a 「図の人物は、地主を表している。」
b 「図の人物は、小作人を表している。」
c 「この改革は、自作農の増加を目指した。」
d 「この改革は、自作農の減少を目指した。」
<選択肢>
①【正】 a・c
(理由説明)風刺画では大きく肥え太った人物が農地改革指令に押さえつけられているように描かれており、地主を表したものと考えられる。また戦後の農地改革は小作地を強制的に買い上げて小作人に売り渡し、自作農を増やすことが目的だった。
②【誤】 a・d
(理由説明)農地改革は自作農を増やすことが目標だったため「減少させる」のは誤り。
③【誤】 b・c
(理由説明)図の人物を小作人とする解釈は誤り。かえって小作人が強い立場になっていく改革が描かれている。
④【誤】 b・d
(理由説明)いずれも誤りで、図の人物を小作人と見るのも、改革の目標を自作農減少とするのも誤っている。
第5問
問25:正解1
<問題要旨>
この小問は、明治期における炭鉱払い下げの受け手(ア)と、第二次世界大戦前に日本が主として石油を輸入していた国(イ)を問う問題である。殖産興業の時代に大きな利益を得た財閥(例:三井・三菱など)と、当時アメリカから大量に石油を輸入していた史実を正しく組み合わせる必要がある。
<選択肢>
①【正】 ア:三井 イ:アメリカ
(理由説明)三井は官営炭鉱の払い下げを受けて急速に発展し、財閥化を進めたことで知られる。また第二次世界大戦前、日本は石油をアメリカから大量に輸入していた事実と合致する。
②【誤】 ア:三井 イ:ドイツ
(理由説明)日本が石油を主にドイツから輸入していた史実はない。対米依存が顕著だったため不適切。
③【誤】 ア:三菱 イ:アメリカ
(理由説明)三菱も炭鉱経営を行ったが、問題文で例示される「三池炭鉱」や代表的払い下げ先との関係からすると、ここは三井がより典型的と言える。
④【誤】 ア:三菱 イ:ドイツ
(理由説明)同様に、ドイツからの石油輸入の史実は乏しいため不適切。
問26:正解2
<問題要旨>
この小問は、明治初期の政府が進めた経済政策に関する4つの選択肢から正しいものを一つ選ぶ問題である。製糸業や製鉄業など官営事業の設立・運営方法に加え、外部技術の導入といった施策が史実に沿っているかどうかを確認して判断する。
<選択肢>
①【誤】 「政府は、官営八幡製鉄所を民間に払い下げた。」
(理由説明)八幡製鉄所は1897年に建設が決定され、1901年に操業開始した官営製鉄所。大正時代後期以降に一部民営化の動きはあるが、明治初期とは時期がかけ離れている。
②【正】 「政府は、フランスの技術や機械を導入した官営富岡製糸場を設立した。」
(理由説明)富岡製糸場は1872年に操業を開始した官営模範工場で、フランスの技師や技術を導入して近代製糸業のモデルを示した史実と合致する。
③【誤】 「政府は、日清戦争の賠償金をもとに、日本銀行を設立した。」
(理由説明)日本銀行が設立されたのは1882年であり、日清戦争(1894~95年)後の賠償金とは無関係。
④【誤】 「政府が全額出資して、官営の日本鉄道会社を設立した。」
(理由説明)民間の日本鉄道会社は1881年に設立され、政府が全額出資したわけではない。鉄道国有法(1906年)による国有化などとは時期や内容が異なる。
問27:正解3
<問題要旨>
この小問は、日本とソ連(ソビエト連邦)との政治・外交関係に関する3つの文(I~III)を時系列に並べる問題である。日本が満州に兵力を集めた「関東軍特種演習」や、ソ連との国交樹立、対ドイツ参戦など、1930~1940年代の動きを正確に把握して年順に並べる必要がある。
I 「日本は、関東軍特種演習(関特演)と称して、約70万人の兵力を満州に集め、ソ連との戦争に備えた。」
II 「幣原喜重郎外相のもとでソ連基本条約が締結され、国交が樹立された。」
III 「ソ連のスターリン、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチルらによる会談が開かれ、ソ連の対日参戦が約束された。」
<選択肢>
① I→II→III
(理由説明)関特演(1941年)は、幣原外相のソ連基本条約(1925年)より後になるため誤り。
② I→III→II
(理由説明)1941年→1945年(ヤルタ会談)→1925年(ソ連基本条約)の順になり、年代が逆行してしまうため誤り。
③【正】 II→I→III
(理由説明)
- II:1925年、幣原喜重郎外相のもとでソ連と国交を樹立(ソ連基本条約)。
- I:1941年、関特演を実施して対ソ戦を想定。
- III:1945年、ヤルタ会談(首脳会談)でソ連の対日参戦が取り決められる。
これが年代順に合致する。
④ II→III→I
(理由説明)ヤルタ会談(1945年)の後に関特演(1941年)を配置するのは誤り。
⑤ III→I→II
(理由説明)会談(1945年)より前に関特演(1941年)を入れるのはともかく、最も古い1925年の国交樹立が最後に来るのは不自然。
⑥ III→II→I
(理由説明)同様に時系列が成り立たない。
問28:正解2
<問題要旨>
この小問は、戦後日本の石炭産業が衰退していく中で、高度経済成長を目指す政府の施策(傾斜生産方式など)と、それを指導・主導した首相、そしてその施策が資金・資材を集中させた具体的産業(鉄鋼業か綿紡績業かなど)の組み合わせを問うものである。
X 「この人物は、経済安定本部を発足させ、傾斜生産方式を開始した首相である。」
Y 「この産業には、傾斜生産方式の実施によって、資金・資材が集中された。」
<選択肢>
①【誤】 X=吉田茂 Y=綿紡績業
(理由説明)傾斜生産方式とは1947~48年にかけて石炭や鉄鋼など基幹産業を優先的に復興させる方針であり、綿紡績業は該当しない。吉田茂が経済安定本部を軸に政策を進めたのは事実だが、Yの業種が誤り。
②【正】 X=吉田茂 Y=鉄鋼業
(理由説明)戦後まもなくの吉田内閣期に、石炭・鉄鋼への集中的な資源投入(傾斜生産方式)が行われた。鉄鋼業はその主要対象の一つとなった。
③【誤】 X=芦田均 Y=綿紡績業
(理由説明)芦田内閣は短命(1948年)であり、本格的な傾斜生産方式を軸に経済政策を進めたのは主に吉田茂政権。加えて綿紡績業の優先度が低い点も誤り。
④【誤】 X=芦田均 Y=鉄鋼業
(理由説明)同じく芦田内閣ではなく吉田内閣期に大枠の経済復興策が進められたため不適切。
問29:正解3
<問題要旨>
この小問は、戦後日本を再建する過程で行われた政策・条約などに関する4つの文から、正しいものを一つ選ぶ問題である。国鉄民営化や消費税の導入は戦後相当の時期を要するし、日本国憲法の改正を唱えた動きや日韓基本条約の締結など、時期や施策の実態との対応を見極める必要がある。
<選択肢>
①【誤】 「国鉄民営化などの行財政改革を実施した。」
(理由説明)国鉄民営化は1987年であり、占領期~講和条約後すぐの戦後復興段階ではない。
②【誤】 「新たな財源として、消費税を導入した。」
(理由説明)消費税の導入は1989年であり、これも戦後直後の復興期ではない。
③【正】 「日本国憲法の改正を唱えた。」
(理由説明)占領期を経て日本が主権を回復した後、1950年代半ば以降には改憲論も少しずつ台頭していた。戦後間もなくから憲法改正論議は存在し、政治課題として浮上している。
④【誤】 「日韓基本条約を締結した。」
(理由説明)日韓基本条約は1965年に締結されたもので、占領期から直ちに行われた施策ではない。
問30:正解1
<問題要旨>
この小問は、日本のラジオ放送・テレビ放送について述べた4つの文のうち、誤っているものを選ばせる問題である。映画や演劇との対比、ポツダム宣言受諾の詔勅のラジオ放送、白黒テレビの普及状況、テレビアニメの登場などを踏まえて正誤を判断する。
<選択肢>
①【誤】 「ラジオ放送は、映画や演劇とともに明治期の大衆娯楽の一つであった。」
(理由説明)ラジオ放送が開始されたのは1925年(大正14年)であり、明治期(~1912年)には存在しない。よって明治期の大衆娯楽ではなく大正末~昭和期に登場するため誤り。
②【正】 「ポツダム宣言の受諾は、ラジオ放送を通じて天皇が国民に伝えられた。」
(理由説明)いわゆる「玉音放送」(1945年8月15日)はラジオを通じて日本国民に終戦が伝えられた事実と合致する。
③【正】 「白黒テレビは、電気洗濯機・電気冷蔵庫とともに『三種の神器』とよばれた耐久消費財の一つである。」
(理由説明)高度経済成長期に「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が三種の神器として流行したのは史実に合う。
④【正】 「高度経済成長期に、国産のテレビアニメーション(アニメ)の放送が開始された。」
(理由説明)1960年代初頭に国産テレビアニメ(『鉄腕アトム』など)が始まり、高度経済成長に伴って広く普及したのは正しい。
問31:正解1
<問題要旨>
この小問は、日本の原油輸入先と輸入量を示す資料(表)をもとに、「a~d」の文を正しい組合せで選ぶ問題である。1955年・1965年・1975年の各時点で、中東やインドネシア、ソ連などからどの程度原油を輸入していたか、また輸入合計に占める比率の推移を正しく読み取る必要がある。
a 「1955年の原油の輸入先には、アジア太平洋戦争(太平洋戦争)中に日本軍が占領していた地域が含まれている。」
b 「1965年の原油の輸入先は、冷戦下の西側諸国に限られている。」
c 「1955年と1965年を比べると、中東からの原油輸入量は増加しており、輸入量合計に占める割合も大きくなっている。」
d 「1965年と1975年を比べると、中東からの原油輸入量は増加しており、輸入量合計に占める割合も大きくなっている。」
<選択肢>
① a・c
【正】
(理由説明)
- a:1955年段階でインドネシアなど、大戦期に一時日本軍が進出していた地域を含むため事実と合う。
- c:1955年に中東からの輸入は643万キロリットル、1965年には7380万キロリットルに増加し、比率(A/B)も75.2%から88.3%へ拡大している。
② a・d
(理由説明)dについては1975年にも中東依存度は高いが、1965年時点と比較すると合計に占める割合はむしろやや減っている(88.3%→78.2%)。よってdは誤り。
③ b・c
(理由説明)b「1965年の輸入先が西側諸国に限られる」は表にソ連(257万キロリットル)のデータがあるため誤り。
④ b・d
(理由説明)どちらも不適切である(bはソ連があるため誤り、dは比率が下がっているため誤り)。
問32:正解3
<問題要旨>
この小問は、1973年の石油危機(第1次石油ショック)に関する4つの文について、正しいかどうかを判定する問題である。日本の高度経済成長にブレーキをかけた要因や、国際情勢との関連などを踏まえて正誤を判断する。
<選択肢>
①【誤】 「石油危機(石油ショック)にもかかわらず、日本の実質経済成長率は上昇し続けた。」
(理由説明)1973年の石油危機によって高度経済成長は大きく減速し、オイルショック後の経済成長率は低下したため誤り。
②【誤】 「石油危機(石油ショック)後、ニクソン=ショックが起こった。」
(理由説明)ニクソン・ショックは1971年のドルと金の交換停止通告を指すため、石油危機よりも前である。
③【正】 「石油危機(石油ショック)のなかで、人々がトイレットペーパーの買いだめに殺到するという騒ぎが起こった。」
(理由説明)1973年秋にオイルショックによる物価高騰・混乱が広がり、トイレットペーパー買いだめ騒動は当時の象徴的な出来事として知られる。
④【誤】 「石油危機(石油ショック)のきっかけは、アメリカを中心とした多国籍軍とイラク軍が戦った湾岸戦争だった。」
(理由説明)湾岸戦争は1991年のイラクによるクウェート侵攻を契機とするもので、1973年の第一次石油危機は第四次中東戦争(エジプト・シリア vs. イスラエル)勃発をきっかけとしている。