2019年度 大学入試センター試験 本試験 倫理 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解3

<問題要旨>
高校生A・B・Cが「親からの干渉」「家族の血縁関係」「同居することの意味」などについて話し合う場面を読んで、青年期における「自立」をどう捉えるかを問う問題です。会話文では「親と離れて暮らしたい」「血縁でつながっているからこそ家族だ」といった意見が交わされ、現代社会における青年期の自立がどのように理解されているかを選択肢から判断することが求められます。

<選択肢>
①【誤】
「近代以前の社会では、子どもが青年期を経ずに大人とみなされていた」という説明を、青年期における自立の説明として提示している選択肢です。しかし、近代以前にも「元服」や通過儀礼など社会的な区切りは存在し、まったく青年期が無視されていたわけではありません。この文言は設問の文脈で扱う「青年期の自立」の主題を十分にとらえていないため、問題文の流れとは合いにくいと考えられます。

②【誤】
①と同様に「近代以前は子どもから大人になる際に通過儀礼が必要だった」とし、青年期を強調する説明です。これは青年期の存在自体を否定しない点では①と異なりますが、実際の本文では「青年期」そのものの要・不要を論じているわけではなく、親から離れるプロセスや精神的自立をどう評価するかがポイントです。この選択肢は記述が本文の本旨を捉えきれておらず、青年期論としてはやや的外れです。

③【正】
「青年期の人間が親による保護や監督のもとから離れて、精神的に自立していく過程」を中心に説明している選択肢。さらに、その際には「心理的離乳」という言葉が用いられるなど、青年心理学の文脈でも一般的な解釈があります。本文でもA・B・Cそれぞれが親からの独立や同居の是非を話しており、心の自立や精神面での親離れが焦点になっています。本文の議論に沿った説明として整合性が高い内容です。

④【誤】
「青年期の人間が親のもとから離れて自立し、子どもも大人の世界にも属さない状態で、心理的離乳は果たされている」とする説明ですが、「子どもにも大人にも属さない」状態をあえて肯定的に論じてはいません。問題文ではA・B・Cがそれぞれの暮らし方や血縁を論じており、「青年期=どちらの世界にも属さない中途半端な期間」という捉え方は、本文の流れからはずれていると考えられます。

問2:正解4

<問題要旨>
「家族関係を多様にする要因の一つとして生殖技術の発達がある」という下りを踏まえ、その是非や問題点に関する批判例を読み取り、もっとも適当なものを選ぶ問題です。選択肢では着床前診断、代理出産、第三者の精子・卵子提供など、生殖技術に伴う社会的・倫理的問題が取り上げられています。

<選択肢>
①【誤】
「着床前診断を用いれば胎児の異常を検査し、生まれない子どもを減らす」という記述ですが、問題文では「着床前診断は障害や異常を排除する選別になり得る」という批判や是非が示唆されています。一概に出生数の減少につながるとも限らず、また“検査すれば出生を控えられる”と短絡するのは論点がやや一面的であるため、該当の問題文の意図と合致しにくいです。

②【誤】
「親の望む遺伝子を組み込んだ“デザイナーベイビー”もあり得る」という主張を取り上げているような選択肢ですが、問題文では代理出産や着床前診断について具体的な批判や懸念が言及されている一方、「デザイナーベイビー」を強調した言い方はやや極端すぎる傾向です。実際にこのような問題提起はあるものの、問題文全体の論調で主眼とはなっていません。

③【誤】
「代理出産(代理懐胎)には複数の方法があり、遺伝上の両親である夫婦と代理母が親権を巡って争う場合がある」という内容。代理出産の是非が社会問題として挙がる点は本文中にもあるはずですが、「複数の方法」「親権争い」が本問で問うところの結論や論点には直結しません。あくまで論点は「生殖技術によって家族関係が複雑化する」ことであり、それをどのように評価するかが焦点となっています。

④【正】
「第三者の男女が提供した精子や卵子を用いた人工授精によって、女性が単独で子どもをもうけることも可能となっているが、将来子どもが遺伝上の父母について知るべきかどうかが問題になる」という趣旨。生殖技術に関わる一般的な論点として、子どもの出自を知る権利やアイデンティティが議論されるのは大きな争点です。本文の流れの中で、生殖技術の進歩と家族関係の変化をめぐる代表的な問題点を表しており、主眼と一致すると考えられます。

問3:正解2

<問題要旨>
「家族と同居している人」に対して「1週間のうちどのくらい家族と一緒に食事をとるか」を男女・年代別に調査したグラフを比較し、そこから読み取れる傾向を踏まえて選択肢を考察する問題です。ポイントは「男性・女性で傾向が異なる」「20~39歳・40~59歳・60歳以上といった年代別で差がある」という点です。

<選択肢>
①【誤】
「平成23年から平成28年にかけて、どの年代でも男性の『ほとんど毎日』の割合が上昇し、女性ではいずれも低下したため男女差が開いた」という趣旨。グラフをしっかり見ると、男性の割合が上がり女性が下がっているという一律の結果にはなっておらず、必ずしも“男女差が拡大”という結論には結びつきません。

②【正】
「20~39歳の年代では、ほとんど毎日家族と朝食をともにする人の割合が平成23年から平成28年にかけて男性は上昇、女性は低下し、その差は縮まった」という趣旨。グラフを見ると、男性がやや増加し女性が減少しているため、確かに差が縮まる方向になっていると読み取れます。記述内容と実際のデータの動きが合致します。

③【誤】
「週の半分以上家族と朝食をともにする人の割合は、いずれの年代でも男性より女性の方が少なく、女性が家族と食事をとる頻度は低い」という解釈。しかし多くの年代で家族と食事をともにする割合は女性の方が高いか、もしくは男性と差異が小さいケースもあります。逆の読みが多いので、この記述は誤りと言えます。

④【誤】
「60歳以上の年代では男性・女性ともに割合が最も低く、平成23年から平成28年にかけて急激に上昇した」とする記述。実際は、家で過ごす時間の多い60歳以上ほど“ほとんど毎日家族と朝食をとる”割合が他の年代より高い傾向がうかがえます。よって「最も低い」という点や「急激に上昇」も事実と異なります。

問4:正解1

<問題要旨>
「ステレオタイプ」に該当するか否かを判定する問題です。ステレオタイプとは、特定の集団や属性の人々について、根拠のない固定観念や思い込みによる一般化をすることを指します。選択肢が具体的な発言例となっており、それが偏見的な思い込みに当たるかどうかを見極めるのがポイントです。

<選択肢>
①【正】
「男性は物事を論理的に捉えるのが得意で、機械を分解して修理するのが好きだ」という発言は「男性ならこうあるべき」という固定観念による思い込みを伴った表現です。まさにステレオタイプ的な言説として指摘されやすい典型例です。

②【誤】
「塩分の多い食事は高血圧につながりやすいから、バランスの良い食事をした方がよい」というのは一般的な健康上の注意であり、特定の属性に対する固定観念ではありません。ステレオタイプではなく事実に基づく健康管理上の指摘なので、ステレオタイプ的表現とはいえません。

③【誤】
「昔、星座を考えた人がいたんだよね。電気がない昔は夜空に輝く星々が今よりずっとよく見えただろうね」というのは天体や歴史に関する感想であり、特定の属性の人に対する偏見や一般化ではありません。ステレオタイプ的思考と結びつきにくい内容です。

④【誤】
「初めて会った人にでも気楽に声をかけるよね。人と話すのが好きだと自分で言っていたしね」というのは、対象の個人がどう振る舞っているかを述べただけです。この個人に対して「◯◯人だからこうだ」などのステレオタイプ的主張は含んでいないため、該当しません。

問5:正解1

<問題要旨>
「社会における様々な支え合いの試み」に関する記述を読み取り、男女共同参画や子どもの権利、災害支援など多角的な社会的取り組みをどう評価するかを問う問題です。

<選択肢>
①【正】
「男女が対等な立場で協力し合う社会を築くために、女子(女性)差別撤廃条約などを推進し、日本でも性別に関する偏見の打破が求められている」とする内容は、現代社会での男女共同参画政策や国際条約の意義を正しく述べています。問題文中でもこうした社会的取り組みが取り上げられており、妥当です。

②【誤】
「世界の子どもの教育や福祉を充実させるため、国連でも子どもの権利条約を早急に採択すべきとの声が高まっている」という内容。しかし子どもの権利条約はすでに1989年に国連で採択されており、問題文の解説としては遅れている印象の記述です。すでに存在する条約を「早急に採択すべき」という表現は不正確です。

③【誤】
「災害復興支援などで、政府より先にNPOやボランティアが重要な役割を果たしており、それらの活動への国内の一層の協力が求められている」という文脈自体は、災害支援においてNPOなどが活躍している点を示していますが、問題文の「男女が対等な場で〜」という流れの主旨とは少しずれています。また“政府より先に”という断定も本文の記述とは異なる可能性があります。

④【誤】
「人が排外主義を防ぐために、各国や自治体の分担や協力を求める声が高まっている」という論調は確かに現代的な問題ではありますが、本問では男女共同参画や子どもの権利など、対等性・平等を目指す取り組みに関する記述が中心です。ここでは排外主義の克服が主題とはされておらず、焦点がやや外れます。

問6:正解2

<問題要旨>
「近代以降の日本における家族や結婚のあり方」に関して、歴史的変化の視点を踏まえた記述を判断する問題です。核家族化・多様化、事実婚やシングルの増加など、現代日本において家族観がどのように変遷してきたかがテーマとなっています。

<選択肢>
①【誤】
「高庭経済成長期以前の日本では、親子だけでなく、祖父母や親族が一緒に暮らす拡大家族(大家族)が一般的な家族形態であった」という内容。高庭(※おそらく“高度”の誤字)経済成長期以前、農村部などでは三世代同居が多かったのは事実ですが、時代や地域によって差もあります。伝統的にはそうした大家族が標準的とされていたともいえますが、本問では「親子だけでなく祖父母等と暮らす形が一般的」と決めつけられるほど単純ではない、というニュアンスがありそうです。

②【正】
「高庭経済成長期以降の日本では、家族が主要な家族形態として定着し、全世帯に占める核家族の割合は増加の一途をたどってきた」という趣旨。高度経済成長期以降、都市化とともに核家族が標準的な家族形態へと急速に広がったのは一般的な理解で、選択肢としては正しく本文とも合うと考えられます。

③【誤】
「現代の日本では、事実婚(非公式婚)による夫婦や子どもをもたない共働き夫婦など、夫婦の形態が多様化しており、結婚しない人も増えている」という内容。これ自体は昨今の社会状況を反映しており正しく見えますが、本問の文脈では「近代以降の家族形態の歴史的変遷」を問う中で、“事実婚や結婚しない人が増えている”点が直接的に「正しくない記述」とされる可能性があります。設問の論点との整合性が問われ、本文との微妙なずれが示唆されているので誤りとなるようです。

④【誤】
「現代の日本で、学業を終えて就職した後も結婚せず、親に依存して同居を続ける人々は、パラサイト・シングルと呼ばれている」という内容は社会学上言われることですが、“パラサイト・シングル”の定義は親の経済力をあてにして独身のまま暮らす若年層を指すなど、多少の限定的用法があります。本文が「結婚のあり方」と関連づけているのか、やや論点がずれているため誤りの扱いとなります。

問7:正解4

<問題要旨>
「自己のあり方」をめぐる哲学的・思想的主張を引用し、それぞれの人物(ヤスパース、トルストイ、小林秀雄、坂口安吾など)が提示する考え方を比べて、もっとも適当な説明を選ばせる問題です。死や苦難の克服、自由と責任の問題などがキーワードとなっています。

<選択肢>
①【誤】
「ヤスパースは、死や争いなどの困難を克服し、自己の無限の可能性にめざめた者が他者と対立することを『実存的交わり』と呼んだ」という主張。ヤスパースは、極限状況を通じて真の実存に目覚めることを説きますが、それを単純に“対立”と表現してはいません。実存的交わりとは、むしろ他者との対話を重視しあう関係です。

②【誤】
「トルストイは、三度の世界大戦を招いた文明の病理を克服するべく、『生命への畏敬に基づき自己をあらゆる生命の同胞とみなすこと』を説いた」という主張。これはアルベルト・シュヴァイツァーの思想(生命への畏敬)に近い表現で、トルストイ自身は社会改革・非暴力・愛の実践を説きましたが、ここで挙げられる“生命への畏敬”はシュヴァイツァー特有の概念です。

③【誤】
「小林秀雄は、戦前の日本の超国家主義を『無責任の体系』と批判し、自由と責任を内面化した自己を確立することが戦後の課題だと主張した」という記述。小林秀雄は文芸評論を中心に独自の思想を展開しましたが、超国家主義を直接にそう呼んだ主張で有名なのはむしろ丸山真男の論調等です。小林秀雄の批評姿勢とはややずれが見られます。

④【正】
「坂口安吾は、敗戦に戸惑う日本の人々に向かって『堕落論』を説き、目の前の道徳に囚われず、ありのままの自己と向き合うべきだと論じた」という内容は、坂口安吾の『堕落論』(1946年)が唱えた有名な思想と合致します。偽りの道徳や観念から解放されることを説き、人間の本質を見つめ直すよう促したのが坂口安吾の主張とされています。

問8:正解2

<問題要旨>
「構造主義から出発した○○」「個人の意識や行為が社会の規則や構造に規定される」という議論を念頭に、そこから展開される思想家の組み合わせを問う問題。具体的には「aにレヴィ=ストロース、メルロ=ポンティ、フーコーなどの名前」「bにも上記思想家の名前」が入り、テキストの流れに合う組み合わせを選ぶ構造になっています。

<選択肢>
①【誤】
「a レヴィ=ストロース、b メルロ=ポンティ」の組み合わせ。レヴィ=ストロースは構造主義を代表する人類学者ですが、メルロ=ポンティは現象学・知覚の哲学に重点を置いた思想家。本文で「構造主義から出発したb」と言うとき、メルロ=ポンティはやや位置づけが異なります。

②【正】
「a レヴィ=ストロース、b フーコー」の組み合わせ。レヴィ=ストロースが構造主義を代表し、そこから思想的影響を受けつつ、フーコーは構造主義やポスト構造主義と目される領域で独自の思想を展開しました。本文中の流れでは構造主義の人名としてレヴィ=ストロースが挙げられ、「構造主義から出発したb」としてフーコーが続くのは自然です。

③【誤】
「a メルロ=ポンティ、b レヴィ=ストロース」の組み合わせ。メルロ=ポンティを“構造主義の文脈で説明する側”に置くのは不適切です。先述のようにメルロ=ポンティは現象学的アプローチであり、構造主義者として代表的に括られることはありません。

④【誤】
「a メルロ=ポンティ、b フーコー」「a フーコー、b レヴィ=ストロース」「a フーコー、b メルロ=ポンティ」など、残りのパターンも本文の流れとは噛み合いません。構造主義の代表としてはレヴィ=ストロースの名が筆頭に挙がり、その流れからフーコーが派生するのが通説です。

問9:正解3

<問題要旨>
ロールズの文章を読み、「正義感覚とは何か」「愛や友情、家族関係と正義の原理との関わりはどう説明できるのか」を考えさせる問題です。愛する者同士の危険や痛みを引き受ける行為と、正義の観点で行う行為との関係に着目し、本文の主張を正しくとらえた選択肢を選ぶことが問われます。

<選択肢>
①【誤】
「人は、愛のためなら大きな危険を冒して互いに助け合い、傷つくことを恐れず、後悔もしない。つまり、人が正義感覚をもたらすにはまず互いに愛し合う必要がある」とする選択肢。本文では愛する者の危険を引き受ける行為を認めつつも、それを「正義の原理に従うためにはまず愛が不可欠」とは断定していません。

②【誤】
「人は、愛のためなら大きな危険を冒して互いに助け合い、傷つくことを恐れず、後悔もしない。つまり、人が正義感覚をもつとき、愛する者に対してのみ正義を行おうとする」という趣旨。これは“友人や家族など、愛する者だけへの正義”に限定しており、ロールズが想定する社会的な正義感覚とは異なる側面があります。

③【正】
「愛し合う者たちは、相手を助けて自分が傷ついても愛を後悔することがないように、正義感覚をもつ人は、正義の原理に基づいて行為することで不利益を受ける可能性があっても、正義の観点に立って行為しようとする」という説明。本文でロールズが述べる「正義の原理に基づいて行為する」ことと、「愛するがゆえにリスクを負う」行為を対比しながら、どちらも自発的行為として行われるという点を強調しています。ここでは両者を対比させつつ、共通する姿勢として示されています。

④【誤】
「愛し合う者たちが、相手を助けて自分が傷ついても愛を後悔することがないように、正義感覚をもつ人は、正義の原理に基づいて行為することで愛を失うことを欲し、正義のために愛を捨てると求める」という趣旨。正義のために愛を捨てる、という極端な主張は本文とは異なる論理です。ロールズの正義論は愛を否定するわけではありません。

問10:正解3

<問題要旨>
本文の締めくくりとして、「家族とは血縁ではなく共に暮らし協力し合う関係だ」とするA・Bの意見や、「血縁にもとづく感情的な結びつきが家庭の本質だ」とするCの主張などを踏まえ、「家族のあり方と個人の自由」に関する最終的な評価を問う問題です。

<選択肢>
①【誤】
「個人の自由を重視するAとBによれば、家族においても個々人の自由が尊重されるべきである。他方Cは、家族は社会全体の土台となる人間集団であり、その標準的な形態は核家族でなければならない、と主張している」という内容。しかし、問題文ではCが「血縁による家族のつながり」を重んじているものの、「標準的な形態は核家族でなければならない」とまでは断定していません。

②【誤】
「家族機能の内部化を肯定するAは、家族の社会的役割を強調するCの見方を批判することにより、個人の自由を最大限に尊重するためには家族そのものを否定することが必要だ、というBの主張にも反対している」という複雑な構成。本文の流れでは、A・Bが血縁を絶対視せず、むしろ個人の自由を尊重する立場を共有しており、そこからCと対立する要素があるとされます。この選択肢のようにAがCを批判しつつBにも反対、という図式は文脈上成立しにくいです。

③【正】
「AとCにとっては、家族を構成する者が協力して家事や育児を行うこと、血縁だけが要のつながりではないというBの主張など、家族形成の多様化を肯定するBの主張に従えば、家族が共に暮らして協力し合うことこそが重要であり、血縁関係ではない」という趣旨。会話文ではAもBも「血縁関係にこだわらず、一緒に暮らすことや互いに支え合うことこそが家族の本質」として議論し、Cも家事や育児の重要性を認めています。本文全体の論旨と合致する解釈です。

④【誤】
「Cは、血縁にもとづく感情的な結び付きが家族には不可欠であると主張しているが、AやBの考え方に従えば、重要なことは家族を構成する者が一緒に暮らして協力し合うことであり、血縁関係ではない」との結論だけを強調していますが、本文の最終的なまとめとしては、あくまでも「Cが血縁を強調しつつも、家族を構成する者の協力や関わりを無視しているわけではない」点を踏まえる必要があります。この選択肢はCの立場が単純に退けられている書きぶりで、本文の複層的な議論とはずれています。

第2問

問11:正解2

<問題要旨>
この問題は、「自然」について古代・中世・近世の哲学や宗教でどのように捉えられてきたかを踏まえ、提示された四つの説明のうち、最も適当なものを判断するものです。選択肢にはプラトン、アリストテレス、ストア派、キリスト教の考え方などが示唆されていますが、それぞれが「自然世界」をどう見るかがポイントとなります。

<選択肢>
①【誤】
「プラトンは、現象界に現れているものはすべてイデアを原型とすると考えたため、自然界の諸事物も真実在であるとした」という趣旨。しかしプラトンの思想では、自然界の物体や事物はイデアの模造や影のような存在とされ、必ずしもそれ自体を“真の実在”と断定しているわけではありません。イデアこそが真実在であり、自然界は派生的な存在です。

②【正】
「アリストテレスは、自然の世界では、種子が樹木に成長するのと同様に、すべてのものは可能態から現実態へと展開すると論じた」という趣旨。アリストテレスの『形而上学』や『自然学』では、有する“かたち(形相)”へ向かって現実化するプロセスが語られます。種子が成長して植物になるように、万物が本来の形相へと現実化していくというアリストテレスの自然観がここで反映されています。

③【誤】
「欲望に対する理性の優位を説いたストア派によれば、自然を支配する理法と人間理性は別物であり、人は後者にのみ従うべきである」という趣旨。しかしストア派は、自然界全体を貫くロゴス(理法)と人間の理性を同根のものとして捉え、人間は自然の理法に合致した生き方をすべきと説きます。ここでは自然理法と人間の理性を完全に切り離す言い方は不正確です。

④【誤】
「創世という概念を認めないキリスト教とは異なり、ユダヤ教では自然界のすべてのものは神によって創造されたと考えられている」という主張。しかし、キリスト教も旧約聖書を共有しており、神の創造を当然認めます。ユダヤ教とキリスト教の間で、「創世を認める/認めない」という区別は成立しません。

問12:正解4

<問題要旨>
「医者のモラル」について言及された文章(ヒポクラテスの誓いとも関連する文脈)を踏まえ、医学と医師が守るべき倫理や態度を読み解く問題です。患者の意思、治療上の判断、他者への秘密保持などが論点となっています。

<選択肢>
①【誤】
「医者は、患者が自らの死を望んでいるならば、その意思を尊重し、患者に致死薬を与えて安楽死に協力することも許される」という趣旨。ヒポクラテスの誓いでは、積極的に患者の命を絶つ行為は禁じられています。多くの伝統的医療倫理では、安易に“死を与える”ことを容認せず、患者を救命する立場に立つのが原則です。

②【誤】
「医者にとって重要なのは、患者を治療するための知識の有無であり、自身の私生活において倫理的な振る舞いができるかどうかは問われない」という趣旨。しかしヒポクラテスの誓いなどに見られるように、医師は社会から厳しく見られる立場にあり、私生活を含む倫理性も医師の資質の一部とされています。ここでは「問われない」と断じるのは不適切です。

③【誤】
「ある患者にとって利益になるのであれば、医者は、別の患者を医学実験の被験者にしてその患者に不利益を与えることも許される」という趣旨。しかし医の倫理の基本として、“他の患者の利益のために別の患者を犠牲にしてよい”という考え方は認められません。医学研究の倫理上も、被験者の尊重が必須です。

④【正】
「医療知識は医学を学ぶ者へ伝えていくべきだが、医者は、患者の守られるべき個人情報に関しては、いかなる場合にも他人にむやみに伝えるべきではない」という趣旨。ヒポクラテスの誓いにも、患者の秘密を守ることが厳格に求められています。医療知識の継承は大事ですが、患者のプライバシー保護も医師の重要な責務です。

問13:正解2

<問題要旨>
中国哲学(朱熹・朱子学)における「理」と「気」についての説明を比較し、世界の成り立ちをどのように考えるかを問う問題です。朱子学では万物生成を「理」と「気」の結び付きで説きますが、その二元論の捉え方が選択肢ごとに異なるので、正しい内容を判定します。

<選択肢>
①【誤】
「心のなかにのみ存在する理を規範とし、非物質的な気を媒介として、物質としての万物が形成される」という趣旨。しかし朱子学では理は全宇宙に内在し、心の中だけに閉じているわけではありません。理は万物に先立つ原理ですが、“心のなかのみ”にとどまるものとはされません。

②【正】
「万物に内在する理を規範とし、物質的な気が運動することによって、万物が形成される」という趣旨。朱子学では“理”が規範原理として先行し、“気”はそれを具体的に現実化する要素です。理と気が結び付くことで万物が成り立つ、という説明は朱子学に沿った正確な見解です。

③【誤】
「心のなかにのみ存在する理を規範とし、物質的な気が運動することによって、万物が形成される」という主張。②に似ていますが“心のなかにのみ存在する理”という限定が付いている点が間違いです。理は心内部だけでなく、宇宙全体を貫く普遍原理です。

④【誤】
「万物に内在する理を規範とし、非物質的な気を媒介として、物質となって万物が形成される」という趣旨。朱子学で言う“気”は物質的なものも含む広い概念であり、“非物質的な気”という表現は不正確です。朱子学では気を「エネルギー的・物質的要素」と位置づけることが多いため、この説明はやや不適切です。

問14:正解1

<問題要旨>
中国思想(道家・儒家)や仏教思想における心や身体についての考え方を比較し、どのように理想や修養を捉えるかを尋ねる問題です。ここでは荘子・孟子・仏教の特徴的な主張が選択肢となっており、身体や心の調和についてどのように説いたかを判断します。

<選択肢>
①【正】
「荘子は、心身を忘れて自然と一体化するあり方を説き、何にも囚われない、精神の絶対的で自由な境地を目指した」という趣旨。荘子は「心斎坐忘」などの概念を提示し、俗世間の価値から離れ、道(自然)と一体化する境地を重視しています。

②【誤】
「孟子は、仁・義・礼・智・信という五つの徳目(五常)を説き、それらを修養することで、俗務の気が身体に満ちあふれるとした」という趣旨。確かに孟子は四端や五常に言及しますが、それを“俗務の気”と結び付けて語るのは不自然で、孟子が説くのは“浩然の気”という道徳的な気であり、凡庸な俗務を肯定するという話ではありません。

③【誤】
「仏教では、人間を構成する色・受・想・行・識という五つの要素(五蘊)が説かれるが、その五つとも身体における物質的な要素のみを表す」という主張。五蘊は精神作用(想・行・識)も含めた人間存在全体を分析するものであり、物質的要素(色)だけに限りません。

④【誤】
「仏教では、心や身体が変わらないものであることを知ることで、煩悩の炎が吹き消された涅槃の境地に至るとされる」という趣旨。むしろ仏教では諸行無常が基本であり、心や身体が「変わらないもの」だとは説かれていません。すべては無常であることを悟るのが解脱(涅槃)の契機です。

問15:正解3

<問題要旨>
様々な思想における「死生観」についての説明を比較する問題です。古代インドに始まる輪廻・解脱の考え方、パウロによるイエスの死生観、イスラーム教の信仰生活と死、墨家の死生観などが取り上げられ、いずれもそれぞれの宗教・思想がどう死や来世を位置づけているかを評価します。

<選択肢>
①【誤】
「古代インドでは、ブッダをはじめとして、パラモン教の伝統に囚われない自由思想家たちはいずれも、輪廻からの解脱という考えを否定した」という趣旨。しかし実際は、ブッダは輪廻転生の前提を受け入れつつ苦から解脱する教えを展開しました。輪廻そのものを否定したわけではなく、そこから解放される教説を説いています。

②【誤】
「パウロは、イエスの死が神に背いたアダムへの罰としてもたらされたものだと考え、アダムを祖とする人間も皆、死を免れないと説いた」という趣旨。パウロの書簡では、アダムの原罪以後、人間は死を免れない存在とされる一方、イエスの死と復活によって救いがもたらされるという点を強調しています。「イエスの死=アダムへの罰」という図式は単純化しすぎで、そこが誤りです。

③【正】
「イスラーム教では、信徒は生活全般を規定するシャリーア(イスラーム法)に従って現世を生き、最後の審判にそなえなければならないとされる」という趣旨。イスラームにおいては、信徒は神(アッラー)の啓示をまとめたクルアーンとそれに基づくシャリーアに従い、最終的には最後の審判で善悪が裁かれると説かれます。これはよく知られたイスラームの死生観です。

④【誤】
「墨家は、生前の生活に関しては孝悌の徳を曰わたとし、中国の祖先祭祀の伝統に基づき、死者に関してできる限り手厚く葬るべきだと主張した」という趣旨。墨家の教えは「兼愛」「非攻」などを中心に説き、儒家のように祖先祭祀を重視するわけではなく、むしろ葬礼や喪礼の簡素化を唱えた立場として知られています。

問16:正解1

<問題要旨>
イエスが安息日に病人を癒やそうとした場面をどのように説明しているかを読み、イエスの律法理解や人間観を把握する問題です。ユダヤ教の安息日規定を厳守する立場と、イエスの「人を重んじる教え」との対比が問われます。

<選択肢>
①【正】
「イエスは、安息日に関する律法からあえて逸脱することで、律法が人々の間で形骸化しかねないことを批判し、神に対して忠実であることの本来の意味を明らかにしようとした」という趣旨。福音書の記述には、イエスが安息日に癒やしの行為を行い、律法に縛られるよりも人を救うことを優先すべきだと説く場面があります。形骸化した律法主義に対する批判が背景です。

②【誤】
「イエスは、安息日に関する律法からあえて逸脱することで、律法が神の意志そのものとは関係のないものであることを明らかにし、あらゆる律法が不要な状態を理想とした」という解釈。イエス自身は“律法が無用”とは説かず、“律法の精神”を重視します。律法廃棄ではなく“本来の意義”を取り戻すことが大事とされます。

③【誤】
「イエスは、安息日に関する律法を厳格に守り通すことによって、律法に別った正しい信仰のあり方を、自らの行いという実例を通して周囲の人々に示そうとした」という趣旨。むしろ安息日に病人を癒やすことは当時の律法解釈では“守り通す”とは逆の行動と見られ、むしろ“律法の目的”を説くための逸脱行為です。

④【誤】
「イエスは、安息日に関する律法を厳格に守り通すことによって、人々が重視していた律法を、人にしてもらいたいと思うことを人にもすべきだという黄金律と一致することを示そうとした」という説明。イエスの黄金律(「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」)の趣旨は、律法を“厳格に守り通す”方向ではなく、律法の根底にある隣人愛を実践する方向にあるため、この記述はずれています。

問17:正解3

<問題要旨>
「イスラーム教の概要」についての説明を比較し、クルアーン、六信五行、教義の特色などを正確に把握する問題です。イスラームの基礎事項として、預言者ムハンマド、クルアーンの位置づけ、信仰告白・礼拝・断食などの五行が取り上げられているかに注意を払います。

<選択肢>
①【誤】
「クルアーン(コーラン)は、ムハンマドと彼を取り巻く人々に下された神の啓示を、編集し、編集したものとされる」という趣旨。クルアーンは編者が勝手に編集したというより、預言者ムハンマドに下された啓示を口承や書き付けによって集めた聖典で、最終的に一本化されましたが、「編集した」と言う書き方だと少々誤解を生む表現です。

②【誤】
「イエスを救世主とみなすキリスト教の教えを継承し、ムハンマドを救世主として信じることは、六信の一つに数えられる」という趣旨。イスラームはキリスト教を継承する要素を持ちますが、イエスの神性を否定し、ムハンマドは最後にして最大の預言者とみなされます。「救世主」という言葉遣いは、イスラーム固有の概念と必ずしも一致しませんし、六信の内容(神、天使、聖典、預言者、来世、定命)にも当てはまりません。

③【正】
「五行などの実践によって神への信仰を体現することだけでなく、天の存在を信じることも信徒の義務であるとされる」という趣旨。イスラームでは六信(アッラー・天使・聖典・預言者・来世(終末)・定命)を信じることが基本であり、五行(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)の実践を通してその信仰を行動に移すとされます。「天の存在」を「天使」「来世」などに言い替えている可能性はありますが、少なくとも「見えない存在への信仰」もイスラームの義務の一つです。

④【誤】
「イスラーム教は、中東、東南アジアなどを中心に世界各地で信仰されており、少数派のスンナ派と多数派のシーア派に大別される」という趣旨。実際には世界全体で見ればスンナ派が多数派であり、シーア派が少数派です。ここでは真逆に言っているので誤りです。

問18:正解4

<問題要旨>
「仏教の実践」として説かれる「慈悲」についての説明を吟味する問題です。四苦八苦の苦しみからの解放、衆生を救済する菩薩行など、多くの仏教教義で「慈悲」が要として扱われる点が考察されています。

<選択肢>
①【誤】
「慈悲とは、四苦八苦の苦しみを免れ得ない人間のみを対象として、憐れみの心をもつことである」という主張。仏教の慈悲は人間だけでなく、あらゆる生きとし生けるものに向けられると解釈されることが多いので、人間のみを対象に限定するのは不正確です。

②【誤】
「慈悲の実践は、理想的な社会を形成するために、親子や兄弟などの間に生まれる愛情を様々な人間関係に広げることである」という説明。仏教の慈悲は人間関係に限らず、広く衆生を救おうとする普遍的な心を指し、“親子愛の拡張”に特化した話ではありません。

③【誤】
「慈悲の実践は、他者の救済を第一に考える大乗仏教で教えられるものであり、上座部仏教では教えられない」という主張。上座部仏教でも慈悲を説き、慈悲の瞑想なども古くから実践されます。大乗・上座部の違いに関わらず慈悲は仏教全般で重視される概念です。

④【正】
「慈悲の『慈』とは他者に楽を与えることであり、『悲』とは他者の苦を取り除くことを意味する」という説明。仏教で“慈(与楽)”と“悲(抜苦)”と呼ばれ、衆生の苦しみを取り除き、安楽を与えようとする心こそが慈悲の根幹とされます。

問19:正解4

<問題要旨>
本文全体の議論では、「病を癒やすこと」と「自然との関わり」「個人の存在と社会・他者との関わり」がどう結び付いているかが描かれています。先哲たちが説く「癒し」の概念において、単に身体的な治療だけでなく、人と自然や社会との関わり合いを再構築するという要素が強調されていることがポイントです。

<選択肢>
①【誤】
「先哲たちによれば、癒しとは、人間が自然の諸事物を自らに合わせて新しくつくり変え、病の原因をなくすことであり、また、病によって断たれた人間同士のつながりを結び直すことにも通じるものであった」という主張。自然を人間が改変・制御していく姿勢は、本文が説く“自然との調和”とはやや逆方向に思えます。

②【誤】
「先哲たちによれば、癒しとは、自然の絶え間ない循環のなかに自己を位置づけて生きることであり、また、社会のなかで他者に依存した状態から自己を解放し、未来の自己の存在を取り戻すことでもあった」という主張。社会的なつながりを絶つことを必ずしも勧めてはおらず、むしろ他者との関係を見つめ直すことが大切だというのが本文の主眼です。

③【誤】
「先哲たちによれば、癒しとは、あるべき自然の秩序に心身のあり方を調和させることであり、また、神や霊性に対する信仰をもつことで、各人が超越的存在との絆の回復を目指すことでもあった」という主張。確かに自然との調和や霊性と結び付ける要素は見られますが、本文では必ずしも宗教的信仰を必須とする論調とは限りません。

④【正】
「先哲たちによれば、癒しとは、各人が自然という全体の一部として生きているという視点をもつことと結び付くものであり、また、慈しみを通して他者や共同体との関係を築いていくことにも通じるものであった」という趣旨。本文の要点として、「自然の一部として自己を捉える視点」と「他者との関係の再構築を通じた“癒し”」が語られており、まさにこの選択肢が最も合致すると考えられます。

第3問

問20:正解5

<問題要旨>
古代の日本人が神に対してどのように心を重んじたかを説明する問題です。問題文では、神に対する態度として「真心」「清き明き心」「正直」などの言葉が挙げられ、それぞれがどのような意味をもつのかが示唆されています。ア・イ・ウの三つの記述の正誤の組合せを6パターン示し、そのうち最も適切な組合せを選ばせる形式です。

<選択肢> (※本問は6パターンあるため、ここでは簡潔に①〜⑥を示します)
①【誤】
(ア:正、イ:正、ウ:誤)
神に対する真心と清き明き心の両方を正しいとしつつ、ウを誤りとする組合せですが、本文の記述と照らし合わせるとアの内容に不正確な要素が含まれているため、この組合せは妥当ではありません。

②【誤】
(ア:正、イ:誤、ウ:正)
アを正、イを誤、ウを正とする組合せです。イの内容は古代の神観念としては一般的に正しく捉えられる面があり、むしろアのほうに問題が出る可能性があります。よってこの組合せも成立しません。

③【誤】
(ア:正、イ:誤、ウ:誤)
アを正としている点で、やはり本文の意図とずれが生じます。イとウをまとめて誤りとする理由づけも本文には見られず、全体として適合しません。

④【誤】
(ア:誤、イ:正、ウ:正)
アのみ誤りでイ・ウを正とする組合せですが、ウの記述内容は本文の古代日本人の態度とは必ずしも一致しません。そのためこの組合せも誤りと考えられます。

⑤【正】
(ア:誤、イ:正、ウ:誤)
アの内容に含まれる「道理によって神を理解しようとする心を真心と呼ぶ」などが本文の古代神観と異なり、イの「神を欺かない心を清き明き心とする」点は妥当性が高い。一方、ウは「従順な心が正直と呼ばれる」というような記述が本文の説明と食い違うため誤り。この三つの正誤の組合せが全体として最も適切です。

⑥【誤】
(ア:誤、イ:誤、ウ:正)
イを誤りにしてウを正とする組合せですが、イの「偽らない心を清き明き心と呼ぶ」という解釈を否定する根拠は薄く、ウを正とする根拠も本文では見当たりません。

問21:正解3

<問題要旨>
鎌倉時代の仏教、とりわけ新しい宗派の開祖たちがどのように教えを広め、教義を説いたかを問う問題です。選択肢には法然・親鸞・日蓮・時宗の一遍など、鎌倉新仏教の特徴的な開祖が登場し、その教化の方法や思想的特徴が比較されます。

<選択肢>
①【誤】
「日本に臨済宗を広めた栄西は、正式な僧となるには戒律が必要不可欠であるとの考えをもとに、東大寺に戒壇を設立して、僧を育成するための受戒制度を整えた」という趣旨ですが、栄西は宋(中国)で臨済禅を学び日本に伝えた人物であり、選択肢のように戒壇整備に注力したのは鑑真や奈良仏教の流れが中心です。栄西の活動の主軸とは合致しません。

②【誤】
「時宗の開祖である一遍は、寺院や説教場をもたずに全国を遊行し、踊り念仏などで衆生を救済することに生涯を捧げ、その教えの内容を『正正念仏論』と著して示した」という説明。一遍は“踊り念仏”などを通して全国を遊行したのは事実ですが、著書として『正正念仏論』という名は聞かれず、またそこまで体系的に執筆を残したわけではありません。

③【正】
「日本に臨済宗を広めた栄西は、末法の時代であろうと、禅の修行によって優れた人物が育つことが鎮護国家をもたらすと考え、その主張を『興禅護国論』を著して示した」という内容。栄西は『興禅護国論』を著し、坐禅によって人々を悟りに導き、それが結果的に国家を安定させると説きました。これは史実と整合します。

④【誤】
「時宗の開祖である一遍は、ただ一度だけでも『南無妙法蓮華経』と唱えれば、信・不信を問わず、すべての人が極楽へ往生できると主張し、行き合う人々に札を配って布教に努めた」という記述は、むしろ日蓮系の教えに似た内容であり、“法華経”を唱えるのが日蓮の強調点。一遍は「南無阿弥陀仏」を称える立場であって「南無妙法蓮華経」ではありません。

問22:正解2

<問題要旨>
中世から近世にかけての武士の心のあり方について、仏教的世界観における「無常」や「浄土」などの用語、また武士の生き方に影響を与えた儒教的観念などが取り上げられています。本文中では、戦いの中で勇猛さを示す武士にとって、死の捉え方や信仰の位置づけがどう語られたかが論点です。

<選択肢>
①【誤】
(a=無常、b=「自然真営道」)
無常を強調しつつ、bに示される著作名として『自然真営道』が挙げられていますが、『自然真営道』は山片蟠桃(やまがた・ばんとう)の近世の著作で、武士の死生観に直接対応するものではありません。この組合せは不自然です。

②【正】
(a=無常、b=『葉隠』)
『葉隠(はがくれ)』は江戸時代初期に書かれた武士道書で、「死ぬことと見つけたり」の言葉が有名です。本文中でも「生の執着を離れて、武士が死をいかに覚悟するか」を論じる例として『葉隠』が引かれる場合が多く、無常を背景とした武士の覚悟を説く文献として整合性があります。

③【誤】
(a=無常、b=『鈍阿弥宗』)
『鈍阿弥宗』という著作名は一般的に聞かれず、武士の生き方や死生観と関係する文献とも認められません。実在が不確かであるため妥当ではありません。

④【誤】
(a=浄土、b=『自然真営道』)
浄土教的な考えを武士道に結び付ける例としては、一向一揆や他力念仏への帰依などがありますが、『自然真営道』を当てはめる根拠には乏しく、史実と一致しません。

⑤【誤】
(a=浄土、b=『葉隠』)
『葉隠』は阿弥陀仏の浄土信仰を説く内容ではなく、武士が日常の中で死をどう意識するかを論じた書です。ここを浄土思想と直接結び付けるのは不適切です。

⑥【誤】
(a=浄土、b=『鈍阿弥宗』)
そもそも『鈍阿弥宗』という文献の信頼性も明確でなく、かつ浄土のキーワードとも結び付きにくい組合せです。

問23:正解4

<問題要旨>
日本の芸道や生活における「美意識」について問う問題です。幽玄・さび・わび・つう(通)など、古来の日本文化に根差した美意識の特徴を読み取り、記述内容が正しいか誤っているかを判定します。

<選択肢>
①【誤】
「幽玄は、世阿弥が大成した能楽において重んじられ、静寂のなかに神秘的な奥深さを感じとる美意識である」とする説明。能において幽玄が重視されること自体は正しいですが、それを“世阿弥が大成した能楽においてのみ”という限定はやや言い過ぎです。能以前の猿楽など、流れの上で幽玄は古来から一つの趣向として意識されていました。

②【誤】
「さびは、松尾芭蕉が俳句を詠むなかで追求した、閑寂・枯淡のなかに情趣を見いだして安らぐ美意識である」という趣旨。さび・しをり・閑寂などは確かに芭蕉も重視しましたが、これを“安らぐ美意識”という表現だと、やや一面的であり、寂しさに含まれる深い趣を強調するのが本義です。

③【誤】
「『つう(通)』は、世事や人情の機微を深く理解することを上品としようとする美意識であり、近世の町人の間に広まった」という説明。確かに「通人(つうじん)」という言葉が町人文化で用いられた面はありますが、それを“上品とする美意識”と規定するのはやや単純化しすぎです。

④【正】
「『いき(粋)』は、武士で荒涼な素材を良しとする美意識を意味するのではなく、むしろ艶やかさや洗練を重んじ、江戸の町人文化において生み出された概念である」とする説明。粋は江戸町人の間で育まれた美学で、無骨な武士的価値観とは対照的に、色気や洒落っ気を洗練させた美意識を指すのが一般的です。

問24:正解1

<問題要旨>
近世に儒学を学んだ藤原惺窩(ふじわらせいか)が「主君の心のあり方」について述べた文章を題材にして、主君の命や法度が守られるためには何が必要かを考えさせる問題です。ここでは「主君自身の行いが正しいかどうか」が家臣に受け入れられるかどうかを決める、という論点が重視されます。

<選択肢>
①【正】
「主君が偽りのない心で道理を明らかにしようとすれば、主君の行動は正しいものとなる。周囲は、主君の正しい行動を見て感化を受け、たとえ口で苦言をいわれなくても、心服して自然に主君の命令を守ろうとする」という趣旨。正しい行いがあれば下の者は自然に従う、という点は当該文章の主旨をよく捉えています。

②【誤】
「主君の心に偽りがあるならば、その行動は正しいものとはならない。周囲は、主君の行動が正しいかどうかにかかわらず、主君が口で正しいことを命令したときには、その命令を守ろうとする」という主張。偽りのある主君に対しては家臣は表面的に従うかもしれませんが、心服して従うわけではない、と本文で説かれています。

③【誤】
「主君の命を周囲が守るのは、その命令の内容が正しいからでもあるが、周囲は、主君の命が道理に合っていると思えば、たとえ主君の心に偽りがあっても、その命令を守ろうとする」という解釈。主君の心が偽りなら命令がいかに正しくとも心からは従わない、という点を本文が強調しているため、ここでは誤りとなります。

④【誤】
「主君の心が真実であっても、それが正しい行動として表れるとは限らない。周囲は、主君の行動が正しいかどうかにかかわらず、主君の心に偽りがなければ、心服して自然に主君の命を守ろうとする」という主張。本文によると主君の真実の心が行動に現れ、それを見た者が感化されて従う、という構図なので、“正しい行動として現れない”前提では合いません。

問25:正解2

<問題要旨>
幕末の思想家についての説明を比較し、それぞれがどのように日本の社会や政治の在り方を説いたかを問う問題です。吉田松陰や会沢正志斎(あいざわせいしさい)などが挙げられ、尊王論・攘夷論や公武合体への言及が論点となります。

<選択肢>
①【誤】
「吉田松陰は、仏教や儒学の影響を排除して、純粋な日本古来の神道の道を説く神道政治を目指し、尊王攘夷の立場から江戸幕府の政治を批判した」という趣旨。吉田松陰は確かに尊王論を唱えましたが、儒学も学び、古来の神道だけを純粋化するという主張とは異なります。

②【正】
「吉田松陰は、すべての民は身分にかかわらず、法などの枠を超えて大きな主体性をもって天君(天皇)に忠誠を尽くすべきだとする万民の思礎を訴えた」という趣旨。松陰は身分を問わず国のために尽くすべきと説き、その熱い思想は後の志士たちに受け継がれていきました。封建制を超えた民の主体性を重んじた点が特徴的です。

③【誤】
「会沢正志斎は、水戸学の立場から、論語などの平和な孔孟関係を主張し、諸外国との平和協調路線を目指した」という説明。会沢正志斎は『新論』などで「尊王攘夷」論を展開し、むしろ外国との和親に消極的な姿勢を示した人物です。

④【誤】
「会沢正志斎は、水戸学の立場から、国の危機に際し、国人と天皇の自覚と忠誠心を絶対視する大義名分論を唱え、公武合体を推進した」という主張。公武合体論は幕府が朝廷と融和して政治を進める路線であり、会沢らの水戸学はむしろ尊王攘夷を強調する傾向が強いです。

問26:正解4

<問題要旨>
近代日本のキリスト者についての解説を比較し、それぞれが「日本の近代化」と「キリスト教」をどう結びつけたかを問う問題です。新島襄や内村鑑三、植村正久などが登場し、キリスト教の受容や社会への影響が論点となります。

<選択肢>
①【誤】
「新島襄は、『代表的日本人』を著し、中江藤樹などの優れた先人が育んできた日本の文化的土壌にこそキリスト教が根付くと主張した」という趣旨。『代表的日本人』は内村鑑三の著書であり、新島襄の著作とは異なります。

②【誤】
「新渡戸稲造は、国際社会における地位向上のため、キリスト教に基づく教育者を育て、日本の西欧化に尽力することをとらえ、脱亜論を主張した」という説明。新渡戸稲造は『武士道』を著し、国際社会に日本の精神文化を紹介した人物ですが、「脱亜論」を唱えたわけではなく、むしろ東洋の道徳とキリスト教の融合を図りました。

③【誤】
「植村正久は、『武士道』を著し、武士道道徳を基盤として、キリスト教的人格を養成することが日本の近代化に必要だと主張した」という趣旨。『武士道』は新渡戸稲造の著作で、植村正久は教会形成や神学雑誌の発行などに力を注いだ人物です。

④【正】
「内村鑑三は、日清戦争を正義のための戦いと捉えて肯定したが、日露戦争に際してはキリスト教に基づく非戦論を主張した」という説明。内村鑑三は当初、日清戦争をやむを得ない戦争と見る立場をとりましたが、後に戦争の正当性を疑問視し、特に日露戦争に対しては非戦論を強く唱えたことで知られています。

問27:正解1

<問題要旨>
西田幾多郎の思想における「無の場所(絶対無)」がどのように哲学的に位置づけられるかを問う問題です。西田は西洋哲学の二元的思考を乗り越えようとし、「主観と客観」などの対立を超える場として「無」を論じました。その立場が選択肢ごとに記されています。

<選択肢>
①【正】
「すべての意識や実在の根底に『無の場所』を考え、『無の場所』の限定となる現実の世界においては、様々な事物や事象が絶対的な矛盾や対立を残したまま、統一されていると説いた」という趣旨。西田は現実における諸矛盾も根底の“無”によって統合される、といった議論を展開しました。

②【誤】
「西洋哲学における伝統的な二元的思考に基づいて、主観により生じる『無の場所』を否定し、現実世界においては、様々な事物や事象の間にいかなる矛盾も対立も存在しないと説いた」という説明。西田はむしろ二元的思考を乗り越えるために“無”を肯定しており、現実世界に矛盾や対立がないとはしていません。

③【誤】
「すべての意識や実在の根底に『無の場所』を考え、『無の場所』の限定となる現実の世界においては、様々な事物や事象の間にいかなる矛盾も対立も存在しないと説いた」という主張。西田は矛盾や対立が実在することを認めながら、それを根底で支える「無」があるとします。矛盾がないというのは誤解です。

④【誤】
「西洋哲学における伝統的な二元的思考に基づいて、主観により生じる『無の場所』を否定し、現実世界においては、様々な事物や事象の間にいかなる矛盾も対立も存在しないと説いた」という表現は②と同様の内容であり、もちろん誤りです。

問28:正解3

<問題要旨>
本文全体の内容を受けて、「古代の神への祭祀・儀礼」「道元や儒家の修行論」「山岳霊平・キリスト者の信仰」「中世武士の行為論」「荻生徂徠や西田幾多郎の学問論」など、多様な思想・立場が登場し、いずれも「心と行為(実践)」の結び付きに注目していた、という点が読み取れます。選択肢ではそれぞれの例を取り上げ、共通する論点が何かを問うています。

<選択肢>
①【誤】
「古代の人々は、手順通りに祭祀を行うことで神に対する自らの心を表し、朱子学者は、社会的行為の規範である礼に従って心を制御すべきだと説いた。いずれも、心そのものよりも、心の表れている行為の実践を重視している点では共通している」という説明。朱子学者が社会的行為を重視するという論点は一部正しい面がありますが、古代日本の祭祀は行為だけでなく、神への真心(まごころ)など内面的側面にも重きを置くとされます。「いずれも心の表れより行為を重視」と断定するのは行き過ぎです。

②【誤】
「道元は、悟りという目的に至る手段として坐禅という行為を発想し、近代のキリスト者たちは、信仰を実現するために社会的行為を実践すべきだと考えた。いずれも、心の問題を解決するための手段となる行為が大事だ、心そのものを看過している点では共通している」という趣旨。道元は行為(坐禅)と心が一体であることを説き、キリスト者も内面の信仰を重んじています。「心そのものを看過」というのは誤解です。

③【正】
「中世の武士たちは、理想的な心のあり方を一番格好よく具体的な功名の実現を一つのものと考え、幕末の志士たちは、国を思う行動を通して心の志識を表そうとした。いずれも、心と自らの行為とを結び付ける点を重視している点では共通している」という説明。武士道において「名こそ惜しむ」という精神や、幕末の志士の尊王攘夷行動など、心の在り方を行為によって示すという構図が確かに共通しています。

④【誤】
「荻生徂徠は、徳行を実践するためにはまず学問によって心を分析することが必要であると説き、西田幾多郎は、直接と行為との間に切り離し難い関係があることを説いた。いずれも、心と自らの行為との結び付きは重視している点では共通している」という主張。荻生徂徠は『先王の道』を説き、礼楽刑政など社会制度の整備を重視し、“心の分析”よりも制度・文辞による政治の実践を強調します。この選択肢は前半がややずれた解釈となっており、本文の総合的議論にはそぐいません。

第4問

問29:正解2

<問題要旨>
この問題は、近世ヨーロッパで活躍した政治思想家マキャヴェリの考え方を説明する選択肢を読み比べ、もっとも適当なものを選ぶ形式です。特にマキャヴェリが『君主論』などで論じた「現実の政治をいかに維持するか」といった観点がポイントになります。

<選択肢>
①【誤】
「国家は、統治者・防衛者・生産者の三つの階級がそれぞれ能力を発揮し、統治者のもとで全体としての秩序と調和が保たれることで成立する」という趣旨。これはむしろプラトンが『国家』で説いたような“階級ごとの徳”に対応するイメージで、マキャヴェリの現実政治論とは異なる内容です。

②【正】
「政治は、人間の現実のありようを踏まえた統治の技術であり、君主は、強さと賢さをもって国家統治を果たすべきである」という趣旨。マキャヴェリは人間を多分に利己的・移ろいやすい存在とみなし、それに対抗して君主が権謀術数を駆使しつつ秩序を保つことを提案しました。この記述はマキャヴェリの思想をよく表しています。

③【誤】
「王権は、神から授けられた絶対的なものとして正当化されるため、人民は君主に服従すべきであり、逆らうことは許されない」という趣旨。これは“王権神授説”のイメージで、ボシュエやフィルマーなど絶対王政期の神学的・権威的主張に近いです。マキャヴェリは神の権威を前提にせず、あくまで現実政治の手腕を説いています。

④【誤】
「人々は、権利を自由に行使することから生じる戦争状態を脱するため、自らの権利を放棄し、強大な統治者へ譲渡しなければならない」というのはホッブズの社会契約論に近い主張です。マキャヴェリは社会契約的な視点を採らず、統治者の「技術」や「実践力」を重視しています。

問30:正解4

<問題要旨>
フランシス・ベーコンによる「イドラ(偶像)」の四分類についての理解を問う問題です。ベーコンは、『ノヴム・オルガヌム』などで、人間の認識を妨げる偏見や先入観を四種類に分けて指摘しました。問題文中のア(人間相互の交わり・社会生活から生じる偏見)とイ(個人の資質や境遇に囚われることで生じる偏見)が、四イドラのどれに該当するかを見極めることがポイントです。

<選択肢>
①【誤】
(ア=種族のイドラ、イ=劇場のイドラ)
「種族のイドラ」は人間の感覚や本能といった生得的性質に起因する普遍的な錯覚を指し、「劇場のイドラ」は伝統や権威ある学説を鵜呑みにすることで生じる偏見を指すため、本選択肢の振り分けとは合致しません。

②【誤】
(ア=種族のイドラ、イ=洞窟のイドラ)
同様に、「ア=社会生活での人間関係から生まれる偏見」を「種族のイドラ」とするのは不適当です。また「イ=個人的境遇に由来する偏見」を「洞窟のイドラ」とする部分は正しいが、アが対応していません。

③【誤】
(ア=市場のイドラ、イ=劇場のイドラ)
「市場のイドラ」は言葉のやり取り(市場での売買のような場)で生まれる誤解や偏見であり、社会生活における言語上の混乱・誤用が原因とされます。一方「劇場のイドラ」は哲学者や権威ある学説を無批判に信じることで起こる偏見を指すため、イ(個人の境遇に基づく偏見)には当てはまりません。

④【正】
(ア=市場のイドラ、イ=洞窟のイドラ)
「市場のイドラ」は言語やコミュニケーションの場(市場)でのやり取りにより生じる一般的・社会的な偏見を指し、まさにアの「人々の間で生まれる誤解のような偏見」に合致します。
「洞窟のイドラ」はそれぞれの洞窟(生い立ちや個人的資質・好み)にこもることで生じる偏見であり、イの「個人の境遇や癖によって囚われる偏見」に対応します。

問31:正解6

<問題要旨>
ライプニッツの思想を含む「経験論と合理論」をめぐる論点について、本文でロックが経験論を代表し、その対立軸として合理論が説明される場面を読み取る問題です。ライプニッツが著した著作名と、彼が唱えた概念(「モナド」など)の組合せを判断します。

<選択肢>
①【誤】
(a=繊細の精神 b=『宰象』)
「繊細の精神」という表現はパスカルの『パンセ』での「繊細の精神と幾何学の精神」を想起させますが、ライプニッツ固有の主要概念とは言えません。また『宰象』という著作名は不正確です。

②【誤】
(a=繊細の精神 b=『エチカ』)
『エチカ』はスピノザの代表作です。ライプニッツではありません。また「繊細の精神」はパスカルに由来する概念ですから誤りです。

③【誤】
(a=繊細の精神 b=『モナドロジー(単子論)』)
「モナドロジー」は確かにライプニッツの主著ですが、「繊細の精神」はパスカルの概念なので、aとbの組合せとしては整合しません。

④【誤】
(a=白紙(タブラ・ラサ) b=『宰象』)
「白紙(タブラ・ラサ)」はロックが唱えた経験論の立場を端的に表す有名な言い回しです。一方『宰象』は不明な著作名で、ライプニッツを示唆しません。

⑤【誤】
(a=白紙(タブラ・ラサ) b=『エチカ』)
「白紙(タブラ・ラサ)」はロックの説ですが、『エチカ』はスピノザの作品であり、ライプニッツとは無関係です。

⑥【正】
(a=白紙(タブラ・ラサ)、b=『モナドロジー(単子論)』)
白紙(タブラ・ラサ)はロックの経験論を象徴する言葉、そしてライプニッツは合理論の立場であり『モナドロジー』(あるいは『単子論』)を著し、そこで“モナド”という概念を展開しました。本文の記述に合致する組合せです。

問32:正解2

<問題要旨>
ヘーゲルの歴史観における「絶対精神」の自己実現がどのように展開されるかを問う問題です。ヘーゲルは『精神現象学』『法の哲学』などで、歴史が“自由の発展”を実現する過程であると説きました。選択肢ごとに“法や道徳・国家・自由”の関係性の説明を比較します。

<選択肢>
①【誤】
「絶対精神は、歴史の発展過程において、道徳によって人間を外側から規制し、最終的に両者の対立を総合した大倫において、真の自由を実現する」という趣旨。ヘーゲルの観点で「道徳」による外側からの規制という表現は不十分です。道徳(モラル)は内面的な側面をもち、法と対立する領域もあり、“外からの規制”という要約は誤解を招きます。

②【正】
「絶対精神は、自己の抱く理念を実現する過程において、理性の叡知を発揮して、自らの意図に沿うように人間を操り、歴史を動かしていくことで、真の自由を実現する」という趣旨。ヘーゲルの弁証法的歴史観では、人間の行為はしばしば“理性の狡知(こうち)”によって利用され、最終的に自由が実現する展開をたどります。ここでは“人間を操る”という表現が少し強いものの、「理性の狡知」と呼ばれる概念を想起させ、ヘーゲルの主張と合致すると考えられます。

③【誤】
「絶対精神は、歴史の発展過程において、倫によって人間を外側からも内側からも規制し、最終的に両方の対立を総合した大法によって真の自由を実現する」という趣旨。用語が不明瞭(“大法”“倫”など)で、ヘーゲルの用語体系に則っているとは言いがたく、正確さを欠きます。

④【誤】
「絶対精神は、自己の抱く理念を実現する過程において、理性の叡知を発揮して、国家同士を争わせ、歴史を通してそうした対立状態を保ち続けることで、真の自由を実現する」という趣旨。ヘーゲルの歴史哲学では、国家間の対立や戦争も歴史を動かす契機ではあるものの、最終的には人類史の普遍的自由が高度に実現される方向へ向かいます。“対立状態を保ち続ける”のが最終的なゴールとはされません。

問33:正解4

<問題要旨>
九鬼周造が、ニーチェの「運命愛(アモール・ファティ)」を論じた文章を引用し、運命に対して人間がどう向き合うのかを解説する場面を読む問題です。選択肢には「偶然の出来事に意味を付与する」「自らが選んだものとして受け入れる」など、運命論にかかわる概念が示されています。

<選択肢>
①【誤】
「運命とは、起こることも起こらないこともあり得たような、取るに足りない偶然の出来事のことである。人は、そのような偶然を自分が選んだのだと考えることで初めて、その運命に重大な意味を与えることができる」とする主張。運命愛の概念では、偶然の事象を受け入れて自分の人生の必然とする点は正しい要素もありますが、「取るに足りない偶然」という言い回しはややずれがあり、主眼と合致しにくいです。

②【誤】
「運命とは、人生にとって重大な意味をもった偶然の出来事のことである。そのような出来事は起こることも起こらないこともあり得たのだと考えることで、人は、その運命を愛し、自らを救うことができる」という趣旨。偶然を“起きるかもしれなかったし、起きなかったかもしれない”と捉えた上で、それが起こった事実を肯定するのがニーチェ的運命愛に近いですが、この選択肢は運命への向き合い方の肝心な部分を取り違えている可能性があります。

③【誤】
「偶然とは、めったに起こらないことが起こったものであり、それが人にとって重大な意味をもつとき、運命と呼ばれる。人は、たとえ自分が選んだものでしろ愛せなくても、この運命に耐えねばならならない」という主張。“運命愛”においては、あくまでも「自らが選んだものとして愛する」のが肝要であり、「愛せなくても耐えるだけ」という消極的な立場はニーチェの趣旨と異なります。

④【正】
「偶然とは、起こることも起こらないこともあり得る偶然な出来事のことであり、ある人にとって重大な意味をもつとき、運命と呼ばれる。人は自らを変えるため、偶然を自ら選んだこととして捉え、運命と一体化しなければならない」という趣旨。ニーチェの“アモール・ファティ”では、偶然や運命を“自らが引き受けたもの”として愛する姿勢が大切で、そこに主体的な肯定があるからこそ自己が変容していくという発想がある。この選択肢が最もニーチェ的運命愛に近い説明といえます。

問34:正解4

<問題要旨>
サルトルの思想についての記述を比較し、どれが「適当でないか」を問う問題です。サルトルは「実存は本質に先立つ」という名高い主張で、人間が本来決まった本質をもたない存在だと説きました。そこから“自由”と“責任”が生まれ、自己を創り上げる主体性が強調されます。

<選択肢>
①【誤ではない=適当】
「人間は、自己と自己を取り巻く社会の現実に関わろうとする姿勢を得ながら、全人類への責任を自覚し、自ら進んで社会へ身を投じることで、現実を新たにつくりかえていく可能性に開かれている」という主旨。サルトルはアンガージュマン(社会参加)を重視し、各人が自由に自己を投企することが社会変革につながると説きます。

②【誤ではない=適当】
「人間は、絶えず自己らを意識しながら、自らを新たに形成しようと努める存在であるため、いかなる状況においても変化しうるし、同一の本質をそなえた事物とは異なっている」という要旨。サルトルが述べる“実存”は、固定された本質から出発しないため、状況の変化や自己の選択によって常に変容していくという考え方に合致します。

③【誤ではない=適当】
「人間は、自由であることから逃れられず、自由であることから生じる責任を他者に委ねることもできないため、不安に耐えて、自己と自己を取り巻く社会の現実に関わろうと努めなければならない」という主旨。サルトルは“人間は自由の刑に処せられている”と言うほど、自由と責任の不可避性を強調しています。これは整合します。

④【誤=不適当】
「人間は、あらかじめ自らの本質が定められており、その本質を実現するために自らを手段として活用することによって、未来の可能性を切り開いていく、自由な存在である」という趣旨。サルトルはむしろ“実存が本質に先立つ”と述べ、あらかじめ人間の本質が定まっているわけではないと主張します。この選択肢はサルトル的立場の否定といえるため、「適当でない」記述です。

問35:正解1

<問題要旨>
ダーウィン(進化論)とスペンサー(社会進化論)に関して、「自然選択(自然淘汰)」や「適者生存」のメカニズムがどう解釈されるかを比べる問題です。ここでは、人間社会の進化を「国家が統制するか/しないか」という点がスペンサーの議論と結び付けられています。

<選択肢>
①【正】
「ダーウィンによれば、あらゆる生物は共通の祖先から枝分かれしながら進化してきたのであり、自然選択(自然淘汰)によって環境によく適応した種が生き残っていく」という趣旨。これは『種の起源』で説かれたダーウィンの進化論の基本的な説明で、正しい内容です。

②【誤】
「ダーウィンによれば、あらゆる生物の種はそれぞれ固有の祖先から変化することはなく、自然選択によって環境によく適応した種が生き残っていく」という主張。ダーウィンは生物が共通祖先から分岐・変化を重ねたと考えているため、“変化することはなく”という部分は誤りです。

③【誤】
「スペンサーによれば、人間社会もまた自然選択(自然淘汰)の法則に従っており、適者生存のメカニズムを通じて軍事的指導者が支配する社会へと進化していく」という趣旨。スペンサーは“軍事的指導者”という方向に進化するとは説いていません。むしろ自由放任の中で社会全体の機能分化が進んでいくとする考えです。

④【誤】
「スペンサーによれば、人間社会もまた自然選択(自然淘汰)の法則に従っており、適者生存のメカニズムを国家が人為的に統制することで社会は進化していく」という主張。スペンサーは国家による介入をできるだけ最小化すべきと考える立場で、国家が統制することを肯定しません。よって誤りです。

問36:正解1

<問題要旨>
本文全体では、「運命」に対する多彩な思想家の立場が紹介され、それらを総合して「運命に抗う考え方」もあれば「運命を受け入れ積極的に捉える考え方」もあるとされます。選択肢では“前者がどう捉え、後者がどう捉えるか”に加え、両者に共通する要素があるのかを探るのが焦点となっています。

<選択肢>
①【正】
「先人たちの思想のうちには、やむなき運命に抗う立場もあれば、運命を自らのものとして引き受ける立場もある。前者が困難な状況において人間の自由を強調しているのに対して、後者は、無秩序な出来事や偶然的な状況を引き受ける人間の生き方を重視している」という趣旨。本文でも「運命を変えられる」と説く人がいる一方、「偶然を自己のものとして肯定する」ニーチェ的な姿勢を紹介しており、対比的によく表されています。

②【誤】
「先人たちの思想のうちには、やむなき運命を最善とみなす立場もあれば、運命を自らのものとして引き受ける立場もある。いずれにおいても共通しているのは、個人の不運は、依頼的に改善しようと試みなくても、いつかは好転するだろうと見方をする点である」という主張。本文では不運に対して“放置すれば好転する”という受動的姿勢は示していません。

③【誤】
「先人たちの思想のうちには、やむなき運命に抗う立場もあれば、それを最善とみなす立場もある。前者は、周囲の状況にかかわらず、人間の力によって運命は変わり得るとする立場であり、後者もまた、悲しき出来事も人間の力によってすべて最善の運命へと変え得るとする立場である」という記述。後者が「悲しき出来事もすべて最善の運命に変えられる」と説いているわけではありません。受容して肯定する姿勢と、万能に変えるというのは別です。

④【誤】
「先人たちの思想のうちには、やむなき運命に抗う立場もあれば、それを最善とみなす立場もあり、さらには、運命を自らのものとして引き受ける立場もある。いずれにおいても共通しているのは、運命の行く末全体はあらかじめ見通せるという宿命である」という主張。むしろ本文で述べられる思想家の立場には、「未来は予測不能」とする立場も含まれており、“見通せる”とするのは本文の流れから大きく外れています。

投稿を友達にもシェアしよう!
  • URLをコピーしました!
目次