2022年度 大学入学共通テスト 本試験 日本史A 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解④

<問題要旨>

会話文 にある、1912年生まれの曾祖母が16歳で高等女学校を卒業した頃(1928年頃)の日本の社会的背景を問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

経済統制が強まって、ぜいたく品が禁止されていた のは、主に日中戦争から太平洋戦争にかけての戦時体制下(1930年代後半~1940年代前半)のことです。1928年頃の状況ではありません。

②【誤】

都市部での求人が増えて、集団就職が盛んだった のは、主に高度経済成長期(1950年代後半~1960年代)のことです。

③【誤】

空襲を避けるために、疎開が実施されていた のは、太平洋戦争末期(1944年~1945年)のことです。

④【正】

1927年(昭和2年)に金融恐慌が発生し、その影響を受けて中小銀行の整理が進められました。 1928年頃は、この金融恐慌の影響が残っていた時期にあたります。

問2:正解④

<問題要旨>

会話文 と履歴書 の空欄(イ:曾祖母が就職した1920年代末~1930年代の勤め先、ウ:駒場公三が明治30年代に従軍した戦争)に当てはまる語句の組合せを問う問題です。

<選択肢>

①【誤】

イ:近所で増えてきたスーパーマーケット が日本で普及し始めたのは、戦後の1950年代以降です。 ウ:履歴書 によると、駒場公三は明治36年~39年(1903年~1906年)の間に「ウ 戦争に従軍」しています。この時期の戦争は日露戦争(1904年~1905年)であり、日清戦争 (1894年~1895年)ではありません。

②【誤】

イ:スーパーマーケット が誤りです。ウ:日露 は正しいです。

③【誤】

イ:駅近くにあった百貨店(デパート) は、1920年代の都市文化(大衆消費社会)の象徴であり、会話文の時期 に合致します。 ウ:日清 が誤りです。

④【正】

イ:駅近くにあった百貨店(デパート) は、1920年代末の都市生活の様子として適当です。 ウ:履歴書 から、駒場公三が従軍したのは明治36年~39年の間と読み取れ、この時期の戦争は日露戦争 (1904年~1905年)です。

問3:正解②

<問題要旨>

会話文 (第一次世界大戦が終わった頃、満州で身分を隠し、ロシアでも測量)と、史料X (変名・護照使用)、史料Y (護衛兵・師団長隷下)の内容を照らし合わせ、正しい説明文を選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

史料Xは会話文 から満州での測量とわかります。シベリア鉄道の着工は1891年であり 、会話文の「第一次世界大戦が終わった頃」(1918年頃) とは時期が異なります。

②【正】

史料Xは、変名を用い、軍との関係を絶ち、領事館から護照(パスポート)を得ていること から、会話文 にある「満州では軍人の身分を隠していた」測量に該当します。この測量が行われたのは「第一次世界大戦が終わった頃」 であり、シベリア出兵の出征年(1918年) と時期が一致します。

③【誤】

史料Yは軍事行動下での測量(会話文の「ロシアを測量」 、すなわちシベリア出兵)と推測されます。「満州で」 という記述が誤りです。また、時期もシベリア鉄道着工年(1891年) ではありません。

④【誤】

史料Yは「護衛兵の掩護」や「第十二師団長の隷下」 とあることから、シベリア出兵(1918年~)におけるロシア領内での測量と考えられます。選択肢は「満州で」 行われた測量としており、誤りです。

問4:正解③

<問題要旨>

戦後の日米関係に関して述べた文I~III について、古いものから年代順に正しく配列したものを問う問題です。

<選択肢>

I :アメリカによる日本の防衛義務が明確化され、在日米軍の行動に関する事前協議制が定められたのは、1960年の日米新安全保障条約(新安保条約)です。

II :日本はアメリカの援助を受けるとともに、防衛力の強化を義務づけられたのは、1954年のMSA協定(日米相互防衛援助協定)です。

III:日本市場の閉鎖性を問題視したアメリカが、農産物輸入自由化を要求したのは、日米貿易摩擦が深刻化した1980年代以降のことです。

したがって、古いものから順に II (1954年) → I (1960年) → III (1980年代) となります。

問5:正解①

<問題要旨>

パンフレット にある優勝校に関して述べた文X・Y の正誤を判定する問題です。

<選択肢>

X:鞍山中学校がこの大会で優勝した1935年 には、満州には日本の関東軍によって満州国(1932年建国)が樹立されており、日本の影響下に置かれていました。 したがって、この記述は正しいです。

Y:京城師範学校 は、朝鮮総督府と同じ都市(京城、現在のソウル)にありました。 したがって、この記述は正しいです。

X・Yともに正しいため、①が正解です。

問6:正解④

<問題要旨>

表1 (戦後の耐久消費財の価格・世帯普及率と大卒男性の初任給)を読み取り、戦後の生活について述べた文の正誤を判定する問題です。

<選択肢>

①【誤】

いざなぎ景気は1965年11月から始まりました。表1 の1965年のデータを見ると、カラーテレビの価格は198,000円、大卒男性の平均初任給は24,102円です。198,000 ÷ 24,102 ≒ 8.2となり、初任給の約8.2ヶ月分に相当します。したがって、「6か月分で購入できる」 という記述は誤りです。

②【誤】

大阪で万国博覧会が開催されたのは1970年です。この年 の普及率は、電気洗濯機が88%、電気冷蔵庫が85%であり、ともに「世帯の9割以上」 には達していません。

③【誤】

自衛隊が発足したのは1954年、その翌年は1955年です。この年 の白黒テレビの価格は89,500円、大卒男性の平均初任給は12,907円です。89,500 ÷ 12,907 ≒ 6.94となり、初任給の約6.9ヶ月分に相当します。したがって、「6か月分で購入できる」 という記述は誤りです。

④【正】

最初の先進国首脳会議(サミット)が開催されたのは1975年です。この年 の普及率は、カラーテレビが90%、白黒テレビが49%であり、カラーテレビの普及率が白黒テレビの普及率を超えています。

問7:正解②

<問題要旨>

表2 (駒場公三の生没時=1880年と1970年の社会比較)に記載された①~④の記述のうち、誤っているものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

1970年(亡くなった時)は、高度経済成長を経て都市化が進み、家族形態として核家族が増えた時期です。

②【誤】

沖縄の施政権が日本に返還されたのは1972年(昭和47年)です。駒場公三が亡くなった1970年(昭和45年) 時点では、まだ返還されていませんでした。

③【正】

1880年(生まれた時)は、国会開設を求める自由民権運動が広がり、多くの結社や政社が作られていた時期です。

④【正】

1880年(生まれた時)は、欧米列強が競って植民地を獲得していた帝国主義の時代にあたります。

第2問

問1:正解①

<問題要旨>

幕末における日本と海外諸国との交流(X:海軍伝習、Y:和英辞典作成)について述べた文 と、それに該当する語句 の正しい組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

X:江戸幕府は、オランダ人の教官を招いて、長崎(a)で海軍伝習を始めました(長崎海軍伝習所、1855年設立)。

Y:幕末に来日したアメリカ人宣教師で、和英辞典(『和英語林集成』)を作成したのは、ヘボン(c)です。 (b 浦賀 はペリー来航地、d ベルツ は明治期のお雇い外国人で医学を教えた人物です。)

したがって、X-a、Y-c の組合せが正しいです。

問2:正解④

<問題要旨>

史料1(1871年の日本とハワイ王国との修好通商条約) に関して述べた文a~d について、正しいものの組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

a 【誤】

史料1 には「他国の臣民と交易するを許せる総ての場所、諸港、及び河々に」来ることができるとあり、相手国の国内を場所の制限なく往来したり、滞在・居住・商売したりすることができる、というわけではありません。

b 【正】

史料1 の末尾に「他国の臣民に巳に許せし、或いは此の後許さんとする別段の免許は、(中略)両国の臣民にも同様推及すべし」とあり、これは通商に関して他国の国民に認めた(あるいは今後認める)ことを、両国の国民にも適用する(最恵国待遇)ということを定めています。

c 【誤】

この条約(1871年)と同じ年に結ばれた日清修好条規 には、台湾での琉球漂流民殺害事件(1871年発生)の賠償金の規定は含まれていません。 この事件の処理(賠償金支払いなど)が決まるのは、台湾出兵(1874年)後のことです。

d 【正】

この条約(1871年)と同じ年に結ばれた日清修好条規は、相互の領事裁判権を認めるなど、対等な条約内容でした。

したがって、正しいものの組合せは b と d です。

問3:正解②

<問題要旨>

1885年から1894年までの10年間に生じた出来事(I~III)を、古いものから年代順に正しく配列したものを問う問題です。

<選択肢>

I :日本と清国との条約により、両国の朝鮮からの撤兵が定められたのは、天津条約(1885年)です。

II :日本とイギリスとの間で、領事裁判権の撤廃などを定めた条約(日英通商航海条約)が調印されたのは、1894年です。

III:朝鮮の地方官が大豆などの輸出を禁じたこと(防穀令)に対し、日本政府が朝鮮に損害賠償を求めたのは、1889年のことです。

したがって、古いものから順に I (1885年) → III (1889年) → II (1894年) となります。

問4:正解③

<問題要旨>

1885年から多くの日本人がハワイに渡航した理由や背景に関する史料2・3 について述べた文X・Y の正誤を判定する問題です。

<選択肢>

X:【誤】 史料2 によると、当時の外務卿は、日本の農民をハワイに送り「欧米式農業法を実習し」、帰国後に「我が農村の労働方法、大いに改良せらるべし」と期待しています。つまり、ハワイで技術を学んでくることを期待しているのであり、ハワイに技術を「伝え」 ることを期待していたわけではありません。

Y:【正】 史料3 によると、労働出稼ぎが増加する理由は、日本国内での「労働者賃金の薄利なる」ことや「事業の不振」により「労働者就業の困難」があったためとされています。これは、日本での賃金の低さや不況による生活苦が背景にあったことを示しています。

したがって、Xは誤り、Yは正しいです。

第3問

問1:正解⑤

<問題要旨>

明治後期から大正期にかけての労働運動・社会主義運動に関する出来事(I~III)を、古いものから年代順に正しく配列したものを問う問題です。

<選択肢>

I :友愛会が、鈴木文治らによって結成されたのは、1912(大正元)年です。

II :最初のメーデーが、開催されたのは、1920(大正9)年です。

III:社会民主党が、幸徳秋水らによって結成されたのは、1901(明治34)年です。

したがって、古いものから順に III (1901年) → I (1912年) → II (1920年) となります。

問2:正解③

<問題要旨>

資料(横山源之助の文章に関する解説)を読み、その内容に関する文X・Yの正誤を判定する問題です。

<選択肢>

X:【誤】 工場法(1911年制定)は、主に工場労働者の労働条件(労働時間や年少者・女性の保護など)を定めた法律です。資料にある人力車夫 は工場労働者ではないため、工場法の対象とはならず、この法律によって労働環境が改善されたわけではありません。

Y:【正】 資料には、都市スラムが「市街地中心部から、(中略)近郊へと下層居住民が流動して」 いった(郊外へ移動した)こと、そして主要な職業であった「人力車夫が、(中略)急減した」 こと(職業が変化した)が記されています。したがって、この記述は正しいです。

問3:正解①

<問題要旨>

表1(工場労働者の家計)と表2(「細民」の家計)を比較・分析し、その内容と要因について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【正】

表1 によると、1916年の工場労働者の実支出中の飲食物費の割合は43.7%ですが、1919年には56.6%に増加しています。1918年(大正7年)には、第一次世界大戦による好景気やシベリア出兵の影響で米価が急騰し、全国で米騒動が起きました。この米価急騰が、家計に占める食費の割合を押し上げた要因と考えられます。

②【誤】

1921年の工場労働者の家計は1919年に比べて実収入・実支出ともに増加していますが 、その要因とされる大戦景気(第一次世界大戦中の好景気)は主に1915年~1918年のことです。1920年(大正9年)には反動恐慌(戦後恐慌)が始まっており、1921年は不況期にあたります。

③【誤】

1921年の工場労働者の実支出中の飲食物費の割合は37.1% 、同年の「細民」の割合は61.5% です。工場労働者の割合は「細民」に比べて「低い」ため、記述が誤りです。(一般に、飲食物費の割合(エンゲル係数)が低いほど生活に余裕があるとされます。)

④【誤】

1921年の工場労働者の実支出中の住居費の割合は13.6% 、同年の「細民」の割合は7.9% です。工場労働者の割合は「細民」に比べて「高い」ため、記述が誤りです。

問4:正解②

<問題要旨>

1920年代後半の内閣(X:第1次加藤高明内閣、Y:田中義一内閣)と、その政策(a~d)との正しい組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

X:第1次加藤高明内閣(1924年~1925年) Y:田中義一内閣(1927年~1929年)

a :ソ連との間に国交を樹立した(日ソ基本条約)のは、1925年で、第1次加藤高明内閣の時です 。→ X-a

b :治安維持法が公布されたのは、1925年で、第1次加藤高明内閣の時です 。→ X-b

c :(都市へ移住した地主の貸付地を強制的に買い上げ、農家へ安く売った)これは戦後の農地改革の説明であり、この時期の政策ではありません。 d :治安維持法が改正され、最高刑に死刑・無期刑が加えられたのは、1928年で、田中義一内閣の時です 。→ Y-d

正しい組合せは、X-a と Y-d となります。

問5:正解②

<問題要旨>

1920年代から1930年代の生活・文化に関して述べた文X・Yの正誤を判定する問題です。

<選択肢>

X:【正】 1920年代、大都市の郊外では、洋風の応接間などを取り入れた和洋折衷の「文化住宅」 が建てられ、中流階級の憧れの的となりました 。

Y:【誤】 大衆娯楽雑誌である『国民之友』 は、明治期の1887年(明治20年)に徳富蘇峰によって創刊された雑誌であり、1920~30年代の創刊ではありません 。

問6:正解①

<問題要旨>

グラフ とメモ を照らし合わせ、a~dに該当するものの正しい組合せを選ぶ問題です。(注:この問題は、問題文中のメモと正解の間に食い違いがある可能性がありますが、解答 に基づいて解説します。)

<選択肢>

c(折れ線グラフ・実線)は、メモ の「労働争議件数は(中略)1931年以降,減少傾向を示した」という記述と、グラフの1931年のピークが一致します。したがって、cは「労働争議」です。

d(折れ線グラフ・破線)は、メモ の「小作争議件数は(中略)1930年代前半に急増した」という記述と、グラフの形状が一致します。したがって、dは「小作争議」です。 この時点で、正解は①か③に絞られます。 正解の①によれば、a(棒グラフ・薄い色)は「労働組合」、b(棒グラフ・濃い色)は「小作組合」となります。

問7:正解④

<問題要旨>

会話文 を踏まえ、明治後期から昭和初期にかけての社会に関して述べた文として正しいものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

都市と農村の生活格差は解消されていません。会話文 でも、農村から見た都市への「恨み」や農村の「貧苦」が言及されています。

②【誤】

大衆文化やデモクラシーの考え方は、農村でも受け入れられていました。会話文 に「農村の「自治」を強調していて、デモクラシー思想や大衆文化の影響も確かに見られる」とあります。

③【誤】

俸給生活者ら「新中間層」は増加しましたが、都市社会内部の格差が解消されたわけではありません。問3の表2 で示されたように、1921年時点でも「細民」と呼ばれる貧しい都市住民は存在していました。

④【正】

工業化の進展により全体の生活レベルは上昇しましたが、問3の表1(工場労働者)と表2(「細民」) を比較すると分かるように、1920年代初頭でも都市社会の内部には依然として大きな経済的格差が存在していました。

第4問

問1:正解③

<問題要旨>

明治初期の鉄道に関する文章 の空欄ア・イに入る語句の正しい組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

ア:横浜港から輸出された主要輸出品で、群馬県や長野県が主要産地だったものは「生糸」です 。

イ:九州で産出され、産業革命のエネルギー源として鉄道で積出し港まで輸送されたものは「石炭」(筑豊炭田など)です 。

したがって、ア=生糸、イ=石炭 の組合せが正しいです。

問2:正解②

<問題要旨>

改暦の詔書(1872年11月9日)と新橋ー横浜間鉄道の時刻表(1872年9月10日より)の史料 を読み、述べた文a~dから正しいものの組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

a 【正】 史料の時刻表は「九月十日より」 実施されたものですが、太陽暦採用の詔書が出されたのは「十一月九日」 です。したがって、この分刻みの時刻表は、太陽暦が採用される前(太陰暦使用時)に作られていたことになります。

b 【誤】 上記aの通り、時刻表が出された時点(9月)では、まだ太陽暦は採用されていません(詔書は11月)。

c 【誤】 この時代(1872年)の鉄道の動力源は「電気」ではなく「蒸気」(蒸気機関車)です。

d 【正】 史料には「発車時限を遅らせないため時限の三分前に「ステイション」の戸を閉める」 とあり、乗客に規律ある行動(時間厳守)を求めることで、定時運行を厳守しようとしていたことがわかります。

したがって、正しいものの組合せは a と d です。

問3:正解①

<問題要旨>

表1(鉄道の旅客輸送と営業距離の推移) に関して述べた文のうち、誤っているものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

1890年に民営鉄道の営業距離などが国鉄を上回っています 。この主な要因は、1881年に設立された日本鉄道会社(日本初の私鉄)などが路線を拡大したためです。しかし、日本鉄道会社は「官営事業の払下げ」を受けたのではなく、華族などの出資と政府の援助によって設立された会社です。(官営事業の払下げ例としては、北海道の幌内鉄道などがありますが、日本鉄道会社は該当しません。)したがって、この記述は誤りです。

②【正】

1900年から1910年にかけて国鉄が増加し民営鉄道が減少したのは 、1906年の鉄道国有法に基づき、主要な民営鉄道(日本鉄道など)が買収・国有化されたためです。

③【正】

1910年以降、民営鉄道が再び増加したのは、大都市と郊外を結ぶ私鉄(現在の東急、阪急、京王、小田急など)が発達し、沿線の住宅開発などを進めたためです。

④【正】

1920年代、特に立憲政友会内閣(原敬、田中義一など)は、地方の支持を得るために「我田引鉄」とも揶揄された積極的な地方路線拡大政策をとりました。これが国鉄の営業距離増加の一因となりました。

問4:正解④

<問題要旨>

20世紀以降の日本の対外関係における鉄道に関わる諸政策・事件(I~III)を、古いものから年代順に正しく配列したものを問う問題です。

<選択肢>

I :奉天郊外において、張作霖が乗っていた列車が爆破された(張作霖爆殺事件)のは、1928年です 。

II :南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立されたのは、日露戦争後の1906年です 。

III:段祺瑞政権に対して、鉄道建設費用なども含む巨額の経済借款を与えた(西原借款)のは、1917年~1918年のことです 。

したがって、古いものから順に II (1906年) → III (1917-18年) → I (1928年) となります。

問5:正解②

<問題要旨>

戦後10年(1945~55年)に撮影された写真X(買出し列車)・Y(松川事件) と、それに関する文a~dの正しい組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

a :写真Xは、深刻な食料不足のため、都市の住民が食料を求めて農村へ「買い出し」に行く様子 を示しています。これは敗戦直後の典型的な光景です。 したがって、aは正しいです。

b :写真Xを、恐慌(昭和恐慌など)の影響で都市から農村に戻る様子 とするのは、時期(1945-55年)も理由も誤りです。

c :写真Yは、1949年に起きた松川事件 を示しています。この時期は、ドッジ=ラインによるデフレ不況下にあり、「日本経済が急成長していた」時期(高度経済成長期、1950年代半ば~)ではありません。 したがって、cは誤りです。

d :写真Yの松川事件(1949年)が起きた時期は、cで述べた通り、ドッジ=ラインに基づく緊縮財政下で企業の倒産や人員整理(国鉄でも大規模な人員整理がありました)が相次ぎ、社会不安が高まっていた時期 にあたります。 したがって、dは正しいです。

したがって、正しいものの組合せは X-a と Y-d です。

問6:正解④

<問題要旨>

表2(高度経済成長期以降の輸送量・インフラの推移) について述べた文として正しいものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

表2 によれば、鉄道の旅客輸送(百万人キロ)は、1960年の「184,340」から1965年には「120,756」に減少しています。「減少したことはなかった」という記述は誤りです。

②【誤】

日本で最初のオリンピック(東京オリンピック)が開催されたのは1964年です。この年、東海道新幹線は全線開通しました 。しかし、東京-大阪(正確には西宮)間の高速道路(東名高速・名神高速)が全線開通したのは、東名高速が全線開通した1969年です 。

③【誤】

第1次石油危機は1973年です。表2 で1975年から1980年にかけての自動車の旅客輸送を見ると、「360,868」から「431,669」へと増加しており、「減少した」という記述は誤りです。

④【正】

表 によると、新幹線はまず太平洋ベルト地帯(東海道1964年、山陽1975年)に整備され、その後、東北地方(東北新幹線 1982年)や日本海側(上越新幹線 1982年)と首都圏を結ぶように延伸されています。この記述は正しいです。

問7:正解②

<問題要旨>

国鉄の民営化(JR化)に関して述べた文X・Yの正誤を判定する問題です。

<選択肢>

X:【正】 国鉄の民営化は、中曽根康弘内閣が掲げた「戦後政治の総決算」 のスローガンの下で行われた行政改革の一つです。この時、国鉄のほか、電電公社(→NTT)、専売公社(→JT)も民営化されました。

Y:【誤】 国鉄の民営化(1987年)が行われた時の首相は、上記Xの通り中曽根康弘です。小泉純一郎が首相の時に行われた大規模な民営化は、郵政民営化です 。

第5問

問1:正解③

<問題要旨>

近代日本の選挙制度に関する文X・Y と、それを定めた時の首相a~d の正しい組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

Xの「大政党に有利な小選挙区制が導入された」 のは、1919年(大正8年)の選挙法改正時のことです。この時の首相は原敬(b) です。 Yの「直接国税10円以上を納める25歳以上の男性に選挙権が認められた」 のは、1900年(明治33年)の選挙法改正(第4次改正)時のことです。この時の首相は山県有朋(c) です。 したがって、X-b、Y-cの組合せである③ が正解です。

問2:正解②

<問題要旨>

第17回・第18回総選挙の結果を示した表 に関連して、無産政党の動向について述べた文X・Y の正誤を判定する問題です。

<選択肢>

X:【正】 第16回総選挙(1928年、初の普通選挙)で無産政党から8名の当選者が出た直後、田中義一内閣は日本共産党員らに対する一斉検挙(三・一五事件)を行いました。 したがって、この記述は正しいです。

Y:【誤】 表 を見ると、第17回総選挙 では社会民衆党、日本大衆党、労働農民党から計5名、第18回総選挙 でも社会民衆党、全国労農大衆党から計5名の当選者が出ています。「当選者は出なかった」 という記述は誤りです。

問3:正解②

<問題要旨>

五・一五事件の減刑運動に関する史料1・2 と、事件そのものについて述べたトモさんの発言a~d のうち、正しいものの組合せを選ぶ問題です。

<選択肢>

a :【正】 史料1に「全国各地の愛国思想団体」 、史料2に「全国的に減刑嘆願の運動が更に炎をあげてゐる」 とあり、記述の通りです。

b :【誤】 史料1は1932年8月 、史料2は1933年9月 の新聞記事であり、運動が少なくとも1年以上続いていることがわかります。「三か月で終わっており」 という記述は史料と矛盾します。

c :【誤】 高橋是清大蔵大臣が殺害されたのは、1936年(昭和11年)の二・二六事件です。 五・一五事件 ではありません。

d :【正】 五・一五事件(1932年)では、犬養毅首相が海軍青年将校らによって首相官邸で殺害されました。

したがって、正しい組合せは a と d です。

問4:正解③

<問題要旨>

政党内閣の終焉後、1930年代に起きた学問や思想への弾圧 について述べた文として正しいものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

大杉栄はアナキスト(無政府主義者)であり、1923年に関東大震災後の混乱で殺害されています(甘粕事件)。 1930年代に獄中で転向声明を出したのは、日本共産党幹部の佐野学や鍋山貞親らです。

②【誤】

天皇を国家の一機関としてとらえる学説(天皇機関説)を唱え、批判されたのは美濃部達吉です。 河合栄治郎は自由主義的な経済学者で、彼も別途弾圧(河合栄治郎事件)を受けています。

③【正】

1933年、京都帝国大学法学部教授の滝川幸辰は、その自由主義的な刑法学説が軍部や右翼から攻撃され、政府によって休職処分とされました(滝川事件)。 これは学問の自由が弾圧された事件として知られています。

④【誤】

津田左右吉は、日本の古代史を実証的に研究した歴史学者であり、経済学者ではありません。 彼の研究が記紀神話批判として問題視されました。

問5:正解④

<問題要旨>

第1次~第3次近衛文麿内閣の動向 を記した文I~IIIを、古いものから年代順に正しく配列したものを問う問題です。

<選択肢>

I :日米交渉をめぐり、開戦を主張する東条英機陸軍大臣と対立したのは、太平洋戦争直前の第3次近衛内閣(1941年)の時のことです。

II :国民精神総動員運動が開始されたのは、日中戦争が始まった第1次近衛内閣(1937年)の時のことです。

III:新体制運動を展開し、大政翼賛会が成立したのは、第2次近衛内閣(1940年)の時のことです。

したがって、古いものから順に II (1937年) → III (1940年) → I (1941年) となります。

問6:正解④

<問題要旨>

1940年から敗戦までの国民が置かれていた状況 を調査するための史料として、適当でないものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【適当】

学徒出陣は1943年(昭和18年)から本格化し、多くの大学生が戦場に送られました。 その手記は当時の状況を知る貴重な史料です。

②【適当】

勤労動員により、高等女学校の生徒も労働力として軍需工場などで働きました。 その回想録は戦時下の生活を知る史料となります。

③【適当】

国民学校は1941年(昭和16年)に設立され、軍国主義的な教育が行われました。 その教科書は当時の教育実態を示す史料です。

④【不適当】

「自治体警察」は、戦後の1947年(昭和22年)に制定された警察法(旧警察法)に基づいて設置されたものです。 したがって、1940年から敗戦までの史料としては存在しません。

問7:正解③

<問題要旨>

敗戦後初の総選挙(1946年)における政党政治について、戦前からの変化を踏まえて述べた文 として正しいものを選ぶ問題です。

<選択肢>

①【誤】

この選挙には、戦前の既成政党の流れをくむ保守政党(日本自由党、日本進歩党など)だけでなく、新たに結成された革新政党(日本社会党、日本共産党)なども参加しました。

②【誤】

戦時下の政治家たちは、敗戦後に日本自由党や日本進歩党など複数の保守政党に分かれて参加しました。 「一つの保守政党に全員が参加」したわけではありません。

③【正】

戦前に非合法化されたり弾圧されたりしていた労働運動や農民運動の活動家たちは、敗戦後に釈放・復権し、新たに結成された日本社会党や日本共産党などの革新政党に参加しました。

④【誤】

戦前に公然と活動できなかった日本共産党などは活動を再開しました。 しかし、GHQによる公職追放は、主に軍国主義的な指導者や戦争協力者を対象としたものであり、日本共産党の議員が対象となったわけではありません。

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