2022年度 大学入学共通テスト 本試験 日本史A 解答・解説

目次

解答

解説

第1問

問1:正解4

<問題要旨>

近代から昭和初期にかけての日本社会の動向を踏まえ、「当時の社会的背景」を問う問題です。会話文の中で指摘される年号や出来事から、経済・社会状況がどのようになっていたかを推測し、当てはまる選択肢を判断します。

<選択肢>

①【誤】 ぜいたく品の統制が強化されるのは、戦時体制が深まった時期(太平洋戦争期など)が典型的です。問題文の会話からは、まだ本格的な戦時統制期というよりも、国内の経済・金融の混乱がテーマになっていると考えられます。

②【誤】
都市部の求人増や集団就職が盛んになるのは、高度経済成長期(昭和30年代以降)のイメージが強いです。問題文にある祖母の時代背景や、戦後ではなく戦前の就職をうかがわせる会話内容とはやや時代がずれるため、当てはまりにくいと考えられます。

③【誤】
空襲を避けるための疎開は、太平洋戦争末期の日本国内で行われた施策です。問題文に出てくる時代は第一次世界大戦後から第二次世界大戦にかけての時期を含みますが、「疎開」というキーワードが登場するほどの本格的な空襲は太平洋戦争期ですので、時期が合わないと判断できます。

④【正】
昭和初期、世界恐慌の影響を受けた日本では、金融恐慌が起こり中小銀行の整理や統合が進行しました。大正期末から昭和初期にかけての状況として、金融機関の整理などが実施された史実と一致しやすい点がポイントになります。

問2:正解4

<問題要旨>

会話中の空欄イ・ウに入る語句や場所を、時代背景や社会状況に照らして正しく組み合わせる問題です。戦前~戦中期の都市部における商業施設・消費生活の様子と、国際関係(特に日露戦争・日清戦争など)の順序や呼び方を見極める必要があります。

<選択肢>

①【誤】
「近所で増えてきたスーパーマーケット」は、戦後の高度経済成長期に普及が進むものです。戦前にイとして入るのは不自然と言えます。

②【誤】
ウを「日 清」とする場合、日清戦争は明治27~28年(1894~1895)です。会話内容と照らし合わせると、主に満州やロシアとの関わりが強調されているため、「日 清」の組み合わせには違和感があります。

③【誤】
イを「駅近くにあった百貨店(デパート)」、ウを「日 清」とする組み合わせも、ウに関しては②と同様に時代のずれが生じるため妥当とは言えません。

④【正】
戦前の日本で大都市部の商業施設としては、すでに百貨店が存在していました。昭和初期でも主要都市の駅前には百貨店があり得るため、イとして「駅近くにあった百貨店」が妥当です。また、会話における「満州やロシア」への派遣等に絡み、戦争としては「日 露(戦争)」を想起させる文脈が読み取れるため、ウを「日 露」とするのが自然です。

問3:正解2

<問題要旨>

「外邦測量」や満州・ロシア方面への派遣といった、軍事測量に携わる人々の実態を示す史料X・Yの内容を読み取り、その正しい解釈を選ぶ問題です。測量作業における偽名使用や護照(旅券)の取得などがキーワードになっています。

<選択肢>

①【誤】
シベリア鉄道の着工年などとの関連を示唆する場合、日露戦争後の時期で本格化することはあり得ますが、問題文の会話に含まれる年次とはやや食い違う可能性があり、そのままでは根拠に乏しいです。

②【正】
満州やロシアでの測量活動が、測量隊の出征年や当時の軍事任務と重なっていたことを説明する史料が多く、会話文にも「満州やロシアを測量した」という表現が見られます。X・Yを「出征年との対応」として位置づける史実と合致すると考えられます。

③【誤】
シベリア鉄道の完成年との関連を直接示す史料であれば、Xに当たる内容が具体的に言及されるはずですが、設問や会話文からは直接的な言及がなく、誤りと判断されます。

④【誤】
これも③と同様、「シベリア鉄道の着工・完成年」との直接的な関連を示すには、問題文の史料との整合性に欠けるため誤りと考えられます。

問4:正解3

<問題要旨>

戦後の日米関係に関する重要な出来事(在日米軍の活動、安保条約や農産物輸入自由化要求など)を、時系列に沿って正しく並べる問題です。戦後の日本がアメリカとの関係でどのように防衛義務や経済交渉を進めていったか、年表的に整理する力が試されます。

<選択肢>

① I → II → III
【誤】 防衛義務の明確化から農産物の自由化要求までの順序が正しいか検証すると、時系列が合わない可能性があります。

② I → III → II
【誤】 日米安保関連の議論とアメリカの農産物輸入自由化要求の順序が逆になるため、矛盾が生じます。

③ II → I → III
【正】
まず日本がアメリカの援助を受けつつ防衛力の強化義務を負う形が進み、その後在日米軍の活動に関わる新たな取り決め(防衛義務の明確化)がなされ、最後に農産物輸入自由化問題が深刻化していくという流れが歴史的に符合します。

④ III → II → I
【誤】
農産物輸入自由化に関する交渉が先行すると、在日米軍の動向や防衛義務の明確化との時系列が逆転するため不自然です。

⑤ および⑥
【誤】
いずれも戦後の日米関係の重要課題の順序を誤っていると判断されます。

問5:正解1

<問題要旨>

パンフレットにある全国中等学校ラグビーフットボール選手権大会の優勝校と、その当時の地域統治(満州が日本の影響下にあった時代や、朝鮮総督府の所在地)に関する説明を組み合わせる問題です。1930年代の東アジア情勢と、各学校の所在地を照らし合わせることが鍵となります。

<選択肢>

① X 正 Y 正
【正】
「1935年に鞍山中学校が優勝した当時、満州は日本の勢力下に置かれていた」ことは、満州事変(1931年)後の状況として史実と合います。また「京城師範学校があった京城(現ソウル)は、朝鮮総督府と同じ都市」というのも史実どおりです。

② X 正 Y 誤
【誤】
Yを誤りとすると、京城師範学校が朝鮮総督府と同じ都市にあった事実と矛盾するため不適切です。

③ X 誤 Y 正
【誤】
Xが誤りである場合、「鞍山中学校が1935年に満州の影響下で優勝」という歴史的事実と合わなくなります。

④ X 誤 Y 誤
【誤】
両方を誤りとすると、パンフレットの史実に反します。

問6:正解4

<問題要旨>

戦後の耐久消費財(家電・自動車など)の普及率と、大卒男子の初任給推移を示した表をもとに、生活水準や消費行動の変化について読み解く問題です。各年の数値を正確に捉え、その背景となる経済成長や万博開催・サミット開催などの大きなイベントと対応させる力が求められます。

<選択肢>

①【誤】
「いざなぎ景気が始まる前年に、カラーテレビが大卒男子の平均初任給6か月分で買えた」というのは数値上合わない可能性が高いです。

②【誤】
「大阪で万国博覧会が開催された年に、電気洗濯機や電気冷蔵庫が世帯の9割以上に普及していた」かどうか、表から見ると当時の普及率はそこまで高くないように読み取れます。

③【誤】
「自衛隊が発足した翌年に、白黒テレビが大卒男子の平均初任給6か月分で買えるようになっていた」というのも、提示された表の値や時期と食い違いがあるため妥当とは言えません。

④【正】
「先進国首脳会議(サミット)が開催された年に、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回った」あるいはそれに近い普及率推移を表から読み取れる可能性が高いです。数値や時期を丁寧に突き合わせると、他の選択肢よりも整合性があります。

問7:正解2

<問題要旨>

表2に示された「生まれた時(1880年前後)」と「亡くなった時(1970年前後)」での家族観・地方・政治・世界情勢の変化を考察し、どの記述が誤っているかを問う問題です。明治期から昭和中期までの家族制度や、沖縄施政権の返還、政党政治の状況などを総合的に整理する必要があります。

<選択肢>

①【誤】
家族の状況について「亡くなった時(1970年頃)には核家族化が増えた」という記述は、戦後の高度成長期以降、核家族が進んだことと合致しており、誤りではありません。

②【正(誤りを指摘している選択肢)】
「地方の状況」で「沖縄の施政権が日本に返還されていた」というのは1972年の返還が実施年なので、1970年時点ではまだ実現していません。したがって「1970年に返還されていた」とするなら史実と食い違いがあるため、この項目が誤りであると判断できます。

③【誤】
明治期には自由民権運動が盛り上がり、多くの結社や政社が作られていたことは史実と合致していますし、1970年頃の自由民主党政権も符合するため、特段の誤りはありません。

④【誤】
世界の状況に関して、1880年前後は帝国主義列強が植民地を獲得していた時期であり、1970年頃は米ソ中心の冷戦構造下にあったため、この変化は史実に合います。したがって誤りではありません。

第2問

問8:正解1

<問題要旨>

幕末期の日本が外国との交流を拡大していく過程で、具体的にどこでどのような人材を招へいしたか、あるいはどの外国人が日本に来て教育活動などを行ったかを問う問題です。ここでは、江戸幕府が海軍伝習を実施するためにオランダ人の教官を迎えた地と、来日したアメリカ人宣教師の人物名を正しく組み合わせる必要があります。

<選択肢>

①【正】 Xを「長崎」、Yを「ヘボン」と組み合わせる説です。幕末期、江戸幕府は長崎にオランダ人の教官を招いて海軍伝習を行った史実があります。また、来日したアメリカ人宣教師で和英辞典を編纂し、日本の英語教育にも大きな影響を与えた人物はヘボン(ヘップバーン)で知られます。これらの事実と一致するため正しい組み合わせといえます。

②【誤】 Xを「長崎」、Yを「ベルツ」と組み合わせる説です。ベルツは明治期に来日したドイツ人医師で、医学教育を中心に日本に貢献しましたが、英語辞典や宣教師としての活動とは無関係です。

③【誤】 Xを「浦賀」、Yを「ヘボン」と組み合わせる説です。幕末期に浦賀でペリー来航など外国船と関わりがあったのは事実ですが、オランダ人教官を招いて海軍伝習を行ったのは長崎で行われたのが中心でした。そのためXを浦賀とするのは不適切です。

④【誤】 Xを「浦賀」、Yを「ベルツ」と組み合わせる説です。③の指摘同様、浦賀は海軍伝習所と結び付きにくく、ベルツも海軍伝習や英語教育とは直接関係がありません。

問9:正解4

<問題要旨>

日本とハワイ王国の間で結ばれた「修好通商条約」の史料をもとに、同じく1871年に結ばれた「日清修好条規」との比較や、条約に盛り込まれた原則がどのようなものであったかを判定する問題です。提示された文言a〜dが、それぞれ条約の内容に照らして正しいかどうかを吟味します。

<選択肢>

a【誤】 「両国の国民が相手国の国内を無制限に往来・滞在・商売できる」と断言するのは、この種の条約としてはやや拡大解釈です。港や居住地には一定の制限が設けられるのが通常であり、無制限という表現は不適切と考えられます。

b【正】 「通商に関して他国の国民に認めたことを、日本とハワイの国民にも適用する」という趣旨は、当時の最恵国待遇や国際慣行に沿った規定とみなせます。史料にも“他国へ一般に許容するものは両国の臣民にも推及”する旨が示されています。

c【誤】 「この条約と同じ年に結ばれた日清修好条規に、台湾での琉球漂流民殺害事件の賠償金の規定が含まれた」とするのは事実と異なります。日清修好条規(1871年)そのものには、直接的に台湾事件の賠償規定は盛り込まれていません。台湾出兵(1874年)との経過も別の過程で進行しました。

d【正】 「この条約と同じ年に結ばれた日清修好条規は、相互の領事裁判権を認めるなど対等な内容の条約であった」というのは史実に近いです。日清修好条規は清とのあいだで初の対等条約と位置づけられ、領事裁判権の相互承認などが盛り込まれました。

問10:正解2

<問題要旨>

1885年から1894年までの10年のあいだに日本や周辺国とのあいだで締結された条約・事件を、古いものから年表順に並べる問題です。朝鮮半島をめぐる日本と清国の関係、さらに日本と欧米諸国との条約改正などが含まれ、正確な年代把握が必要です。

<選択肢>

I「日本と清国との条約により、両国の朝鮮からの撤兵が定められた」
 → 1885年に締結された天津条約で、甲申政変後の日本・清の撤兵が規定されました。

II「日本とイギリスとの間で、領事裁判権の撤廃などを定めた条約が調印された」
 → 1894年に陸奥宗光の尽力によって日英通商航海条約が結ばれ、治外法権の撤廃などが実現しました。

III「朝鮮の地方官が大豆などの輸出を禁止したことに対し、日本政府が朝鮮に損害賠償を求めた」
 → 1889年前後に問題化した日本・朝鮮間の摩擦の一つです。
  ① I → II → III
【誤】 Ⅱ(1894年)がⅢ(1889年頃)より先にくるのは時系列が逆転します。

② I → III → II
【正】 まず1885年に天津条約(I)があり、その後1889年前後に大豆禁輸問題(III)が起こり、最終的に1894年に日英通商航海条約(II)が調印されたという時系列と符合します。

③ I → Ⅱ → Ⅲ
【誤】 Ⅱを1894年より前に置くのは正しいですが、その後にⅢを配置すると1894年以降の流れと矛盾する可能性が高いです。

④ 〜 ⑥
いずれも順序が誤っているため不適切です。

問11:正解3

<問題要旨>

1885年からの約10年間に多くの日本人がハワイへ移民した背景について、史料2・3を読み解き、そこから導かれるX・Yの記述を正しいかどうか判定する問題です。外務卿(当時)や地方行政(山口県)による移民政策の意図、および海外渡航者の経済的事情などが論点となります。

<選択肢>

X「史料2によると、当時の外務卿はハワイに欧米式農業の技術を伝え、移民たちがその対価を得て帰国することを期待していたと考えられる。」
Y「史料3によると、ハワイに渡航した人々の中には、日本での賃金の低さや不況により生活苦に陥っていた人が少なくなかったと考えられる。」

① X 正 Y 正
【誤】
Xにおける“欧米式農業を伝えて移民が対価を得て帰国することを期待”という内容が、史料2の文面と必ずしも一致しない可能性があります。史料2はむしろ、欧米農業を実践することで日本国内でも農業改革が行えるのではないか、といった視点を含んでいますが、移民が帰国して対価を得ることを明確にうたっているわけではありません。

② X 正 Y 誤
【誤】
Yが誤りだとすると、賃金の低さや不況が海外移民の要因になっていた史実に反します。史料3では労働就業の困難さから渡航を選んだ人の多さを示唆しており、それと矛盾するため妥当ではありません。

③ X 誤 Y 正
【正】
Xについては、移民による海外での技術習得と帰国後の効果を期待する話よりも、むしろ“日本国内での労働事情”を踏まえた渡航促進という面が強調されているため、史料2にある記述とXの文言が微妙に齟齬をきたす可能性があります。一方Yは、賃金や不況による生活苦から海外に活路を求めた人々が少なくなかったことを示す史料3の分析と合致するので正しいと判断できます。

④ X 誤 Y 誤
【誤】
Yは史料3の内容と一致しており誤りではないため、この組み合わせは不適切となります。

第3問

問12:正解5

<問題要旨>

明治後期から大正期にかけての労働運動・社会主義運動の発展に関する出来事を、古いものから正しく年代順に並べる問題です。選択肢として提示されているのは「友愛会の結成(I)」「最初のメーデー開催(II)」「社会民主党の結成(III)」であり、それらの年号の正確な把握が必要になります。

<選択肢>

① I → II → III
【誤】
「友愛会(1912年結成)→最初のメーデー(1920年)→社会民主党(1901年)」となるため、社会民主党の結成がもっとも古い時期なのに最後に配置してしまい年代が逆転します。

② I → III → II
【誤】
「友愛会→社会民主党→メーデー」の順ですが、実際は社会民主党(1901年結成)が友愛会(1912年結成)より古いので、この並びも正しくありません。

③ II → I → III
【誤】
「最初のメーデー(1920年)→友愛会(1912年)→社会民主党(1901年)」と、さらに時系列が大きく逆転しています。

④ III → II → I
【誤】
「社会民主党(1901年)→最初のメーデー(1920年)→友愛会(1912年)」となり、友愛会が最後に来るのは時系列が合いません。

⑤ III → I → II
【正】
「社会民主党(1901年)→友愛会(1912年)→最初のメーデー(1920年)」の順で、最も古いのが幸徳秋水らによる社会民主党の結成(1901年)、次に鈴木文治らによる友愛会の結成(1912年)、そして大正期末の1920年に日本で初のメーデーが開催されました。この時系列が正しいため正解です。

⑥ II → III → I
【誤】
「最初のメーデー→社会民主党→友愛会」の並びは成立しません。

問13:正解3

<問題要旨>

日露戦争後から第一次世界大戦期にかけての東京の下層社会(都市スラムなど)の変化を論じた資料について、その内容を説明する文X・Yが正しいかどうかを判定する問題です。人力車夫の労働環境や都市スラムの膨張と居住者の職業変化が主題となっています。

<選択肢>

X「工場法の対象となったことで、資料にある人力車夫の労働環境は改善された。」
Y「資料によれば、都市スラムは市の郊外へ移動していき、下層民の主要な職業は次第に変化していった。」

① X正 Y正
【誤】
人力車夫は製造業や大工場の労働者とは異なり、工場法(1911年公布・1916年施行)の対象外とされることが多かったです。よってXの「工場法の対象となった」という部分が不自然です。

② X正 Y誤
【誤】
Xは上記理由で正しいとは言えません。Yについては、資料が指摘するように市街中心部の再開発やスプロール化で下層民が周辺部へ流動し、さらに主要な職業も日雇い労働・雑業へ変化した事例が読み取れます。Yを誤りとは言い難いです。

③ X誤 Y正
【正】
Xは「工場法により人力車夫の環境が改善」という趣旨が資料の内容と合わず誤り。一方Yは、資料が示す都市スラムの拡散や職業の変化に合致します。ゆえにXのみが誤り、Yが正しい組み合わせです。

④ X誤 Y誤
【誤】
資料の内容からYは正しい可能性が高いので、両方誤りは適切ではありません。

問14:正解1

<問題要旨>

工場労働者や「細民」と呼ばれた都市下層民の家計を対比して、実収入・実支出や費目ごとの割合を考察する問題です。表1・表2のデータ(1916年~1921年)を比較し、物価高騰や米価高騰、大戦景気などの社会背景と家計の変化を関連付けて正しい選択肢を選びます。

<選択肢>

①【正】
1919年の工場労働者の家計が1916年に比べ、食費(飲食物費)の割合が増加した理由としては、1916年から1919年にかけて米価が急騰した(米騒動などを想起)ためと考えられます。表中の支出構造を見ても、その傾向が読み取れます。

②【誤】
「1921年の工場労働者の家計は1919年に比べて大幅な増収増支」として、その原因を「1919年から1921年にかけて大戦景気があったため」とするのはややずれがあります。1919年~1920年あたりに戦後恐慌の兆しもあり、必ずしも大戦景気一辺倒ではありません。

③【誤】
「1921年の工場労働者の家計では飲食物費の割合が高いのは、1916年から1919年の米価急騰のため」とする説明は、すでに1919年段階で急騰が見られるため、1921年時点を同じ理由でそのまま高いと結びつけるのは一面的です。加えて、細民との比較なども含め総合的に判断が必要です。

④【誤】
「1921年の工場労働者の家計で、同年の細民より住居費の割合が低いのは、1919年から1921年にかけての大戦景気の影響」などと説明するのは、表から読み取りにくく、論拠に乏しいです。

問15:正解2

<問題要旨>

1920年代後半の内閣X・Yと、それぞれの政権において実施された政策(a~d)との組み合わせを問う問題です。ここでは、加藤高明内閣や田中義一内閣など、政党内閣期の諸改革・立法(治安維持法の改正、労働組合合法化の動きなど)との関連がテーマになっています。

<選択肢>
X:第1次加藤高明内閣
Y:田中義一内閣

a 社会主義国であるソ連との間に国交を樹立した
b 労働者の団体交渉権を法律に明記すると同時に治安維持法も公布された
c 都市へ移住した地主の貸付地を強制的に買い上げ、農家へ安く売った
d 治安維持法が改定され、死刑・無期刑が罰則に加わった

① X―a Y―c
【誤】
加藤高明内閣(1924~1926)の外交面としては日ソ基本条約の締結(a)が該当するが、その一方で田中義一内閣(1927~1929)で地主の貸付地買い上げなどの政策は行っていないためcとの組み合わせは不自然です。

② X―a Y―d
【正】
第1次加藤高明内閣期(1925年)に日ソ基本条約が結ばれた(a)。田中義一内閣期(1928年)には治安維持法の改正が行われ、罰則に死刑・無期刑が追加された(d)。この組み合わせが正しいといえます。

③ X―b Y―c
【誤】
bの「労働者の団体交渉権を法律に明記しつつ治安維持法を公布」は、普通選挙法や治安維持法が成立した1925年前後を想起させますが、“労働者の団体交渉権”を明記した法律としては労働組合法が検討されるものの、当時実現が難航していました。またcの強制買い上げ政策も含めて史実と合致しにくいです。

④ X―b Y―d
【誤】
Xにbを当てはめるのは上記の通り誤り。Yのdは田中義一内閣が治安維持法を改正した点は正しいが、Xとbの組み合わせは疑問があります。

問16:正解2

<問題要旨>

1920年代から1930年代にかけての生活・文化の変容に関する記述X・Yを正しいかどうか判定する問題です。大都市郊外の住宅事情や大衆娯楽雑誌の創刊状況が論点となっています。

<選択肢>

X「大都市の郊外に、和洋折衷の文化住宅が建てられた。」
Y「大衆娯楽雑誌である『国民之友』が創刊された。」

① X正 Y正
【誤】
Xは大正期から昭和初期にかけて都市郊外に和洋折衷の「文化住宅」が多く建てられたのは史実としてほぼ正しい。しかし『国民之友』は徳富蘇峰が明治期(1880年代)に創刊した評論雑誌であり、「大衆娯楽雑誌」と呼ぶのは時代や性格が合わない。

② X正 Y誤
【正】
Xは合致するが、Yは誤り。『国民之友』は自由民権運動の流れで創刊された思想雑誌(1887年創刊)であり、大正期~昭和初期の「大衆娯楽雑誌」というほどの位置づけではありません。

③ X誤 Y正
【誤】
Xは事実に近いので誤りとするのは不自然です。Yも「国民之友」を大衆娯楽雑誌とみなすのは誤りに近いでしょう。

④ X誤 Y誤
【誤】
Xはおおむね正しいので、両方誤りは成り立ちません。

問17:正解1

<問題要旨>

1918年から1941年にかけての労働組合数・小作組合数・労働争議件数・小作争議件数の推移を読み取り、それを示すグラフ(a~d)と解説メモを照合して正しい組み合わせを選ぶ問題です。大戦景気や不況、また農地や賃金をめぐる紛争の時期的ピークがポイントになります。

<選択肢>

① a 労働組合 b 小作組合 c 労働争議 d 小作争議
【正】
メモにあるとおり「労働組合数は大戦景気を受けて増え、1935年がピーク」「小作組合数は1933年にピーク」「労働争議件数は不況で賃金引下げや倒産があったため1920年代後半から上昇、1931年以降は減少傾向」「小作争議件数は土地の貸借をめぐって1930年代前半に急増」という時系列を正しく図示すると、aに当たる線が労働組合数、bが小作組合数、cが労働争議件数、dが小作争議件数という対応が最も自然です。

② a 労働組合 b 小作組合 c 小作争議 d 労働争議
【誤】
cとdを入れ替えるとメモの上昇・下降時期との対応が合わなくなります。

③ a 小作組合 b 労働組合 c 労働争議 d 小作争議
【誤】
aに小作組合、bに労働組合を置くと、それぞれのピーク年とメモが対応しなくなります。

④ a 小作組合 b 労働組合 c 小作争議 d 労働争議
【誤】
こちらも(③)同様の理由で不整合が生じます。

問18:正解4

<問題要旨>

大正デモクラシーや都市文化の影響が農村に及んだかどうか、あるいは都市内部での社会階層格差が解消したかどうかなどを問う問題です。1920年代初頭の段階で、農村と都市の生活格差や都市内の社会格差がどの程度縮まったかを読み解き、正しい選択肢を判断します。

<選択肢>

①【誤】
「大衆文化やデモクラシーの考え方が農村にも波及し、農村と都市の生活格差が解消された」と言うには、当時の現実としては早計です。農村部には深刻な貧富格差も残りました。

②【誤】
「大衆文化やデモクラシーの考え方が都市で広がったが、農村では受け入れられず、都市への人口集中を促すことになった」という断定はやや過剰です。農村から都市への移動はあっても、必ずしもデモクラシー思想の拒絶だけが理由ではありません。

③【誤】
「俸給生活者(新中間層)が増加し、1920年代初頭には都市社会内部の格差が解消された」かのように述べていますが、都市下層民やスラムの存在などから、社会格差がすぐに解消されることはなかったのが実情です。

④【正】
「工業化の進展で生活レベルは上昇したが、1920年代初頭でも都市社会内部の格差は依然存在していた」というのは、下層民やスラムの拡大がまだ見られた史実と合致します。大正末〜昭和初期にかけて都市部の格差が解消されないまま、新中間層や農村との対比が広がっていく現実がありました。

第4問

問19:正解3

<問題要旨>

明治初期に開通した新橋~横浜間の鉄道を例に、当時どのような産品が鉄道で輸送されていたかを問う問題です。文中では横浜と結ばれた群馬県や長野県からの主要輸出品(「ア」に入る語句)と、九州で採掘された工業・産業革命のエネルギー資源(「イ」に入る語句)をそれぞれ選択する必要があります。

<選択肢>

① ア「綿織物」 イ「石炭」
【誤】
群馬や長野の主要輸出品として著名なのは当時の「生糸」(製糸業)で、綿織物ではありません。

② ア「綿織物」 イ「石油」
【誤】
「石油」採掘が九州で大規模に行われたわけではなく、当時の九州で代表的なのは石炭鉱山です。さらにアに「綿織物」を当てるのも不適切です。

③ ア「生糸」 イ「石炭」
【正】
群馬県や長野県では製糸業が盛んで、生糸の主要輸出が横浜港経由で行われていました。一方、九州の重要なエネルギー資源は筑豊炭田などで採掘される石炭が中心だったため、最も妥当な組み合わせです。

④ ア「生糸」 イ「石油」
【誤】
九州を石油とするのは代表的なエネルギー資源とは言えず、史実と食い違います。

問20:正解2

<問題要旨>

1872年に出版された改暦を定めた布告書や、新橋~横浜間が開業した9月の時刻表の史料を読み、その内容を論じた文a~dの正否を組み合わせて判断する問題です。太陽暦の導入時期と鉄道運行をめぐる事情(蒸気機関車の運行・乗客へのアナウンスなど)が論点となります。

<選択肢>

a【正】
史料のような分刻みの時刻表は、太陽暦が公に採用される1873年より前、すなわち1872年に鉄道が開業した当初から作成されており、旧暦(和暦)の時期ながらも分刻みの時刻管理が始められていました。

b【誤】
時刻表が出された当時(1872年)は、まだ公式には旧暦が用いられており、太陽暦が本格的に施行されるのは1873年1月1日からです。よって「この時期に太陽暦が採用されていた」とするのは史実と異なります。

c【誤】
1872年時点の鉄道は蒸気機関を用いており、電化(電気)とは無関係です。動力源が電気ではなく、電気の供給不足が定時運行の障害となったわけではありません。

d【正】
時刻表では「○分前までに駅に来て切符を購入するように」など、乗客に対し厳格な行動を求める記述が見られます。定時運行を守るには乗客側の時間厳守が重要だったため、こうした呼びかけを行っていました。

よって正解は a と d の組み合わせが正しい選択肢となります。

問21:正解1

<問題要旨>

1885年から1930年までの国鉄・民営鉄道の旅客輸送と営業距離の推移を示した表に関して、そこから読み取れる変化とその要因を考察する問題です。明治期〜大正期にかけて鉄道国有化や都市と郊外を結ぶ路線網の拡張が行われ、国鉄と民営鉄道の双方で旅客数・営業距離がどう増減していったかが鍵となります。

<選択肢>

①【正】
「1890年に民営鉄道の旅客輸送と営業距離が、国鉄を追い越した主な要因として官営事業の払下げを受けた日本鉄道会社が設立されたことが挙げられる」という内容は、明治20年代の日本鉄道会社など私設鉄道の台頭を説明するにあたり、史実と合致します。

②【誤】
1900年から1910年にかけて国鉄が伸びる理由を「鉄道の国有化政策が挙げられる」とするのは一部正しいものの、その時期に民営鉄道がむしろ減少したとは断定しにくいです。民営鉄道も各地で路線拡張を図っており、一方的に減少したわけではありません。

③【誤】
1910年から1930年にかけての民営鉄道の増加要因を「大都市と郊外を結ぶ鉄道の発達や沿線開発の進展」とするのは正しい面がありますが、選択肢の表現がデータとの乖離などを含め、「旅客輸送が大幅に増加した時期と要因」の文脈と合わない恐れがあります。

④【誤】
1920年から1930年にかけて国鉄の営業距離が増加した要因の一つを「立憲政友会内閣による鉄道拡大政策」とするのは時期があいまいで、具体的な政権や実際の鉄道敷設の動きと整合性が取りにくいです。

問22:正解4

<問題要旨>

20世紀以降の日本の対外関係における「鉄道関連の政策・事件」を年表順に並べる問題です。与えられた選択肢は、奉天郊外での列車爆破事件(満州事変との関係)、南満州鉄道株式会社の設立、段階軍閥政権への大規模経済借款(中国大陸への鉄道敷設支援など)の順序に着目します。

<選択肢>

I 奉天郊外において、張作霖が乗っていた列車が爆破された。
II 南満州鉄道株式会社が設立された。
III 段祺瑞政権に対して、鉄道建設に関わる巨額の経済借款を与えた。

① I → II → III
【誤】
張作霖爆殺事件(1928年)は南満州鉄道設立(1906年)よりも後なので、この順序は逆転しています。

② I → III → II
【誤】
同様に張作霖爆殺事件を一番先に置くのは時系列に合いません。

③ II → I → III
【誤】
1906年に南満州鉄道設立、1928年に張作霖爆殺事件なので、ここまでなら合っているが、段祺瑞政権への大規模借款(1917年あたりの西原借款など)は張作霖爆殺より前の時期に当てはまります。

④ II → III → I
【正】
南満州鉄道設立(1906年)→ 段祺瑞政権への借款(西原借款など1917年前後)→ 張作霖爆殺事件(1928年)という流れが正しい時系列です。

問23:正解2

<問題要旨>

戦後10年(1945~55年)頃に撮影された写真X・Yと、それらを説明する文a~dの対応を問う問題です。写真Xは「食料不足を補うため、買い出しに行く人々が押し合いへし合い乗車している様子」、写真Yは「事故により横転した列車と多くの見物人が集まっている様子」と推測されます。それぞれの写真が何を示しているかが焦点です。

<選択肢>

a「写真Xは、深刻な食料不足の影響で都市から農村へ買い出しに行く人が多くなったことを示している」
b「写真Xは、恐慌の影響で都市から農村に戻る人が増えたことを示している」
c「写真Yは、平均して前年比10%ほどの伸び率で日本経済が急成長していた時期の出来事を示している」
d「写真Yは、企業の倒産や失業者の増大が社会不安となっていた時期の出来事を示している」

① X―a Y―c
【誤】
写真Yが高度成長期(平均して年10%程度の成長)というよりも戦後復興期1950年代前半の事故写真と考える方が自然かどうかを検証すると、本格的な「年10%程度の経済成長」は高度経済成長(1955年後半〜1973年)なので、やや時期がずれます。

② X―a Y―d
【正】
Xは闇市や買い出し列車の混雑を想起させる写真(食糧不足への対応)であり、aの説明と合致します。Yは企業倒産や失業増の社会不安が残る戦後直後期にもさまざまな事故が起きて見物人が集まる混乱の時代といえるため、dの説明に近いものと判断できます。

③ X―b Y―c
【誤】
Xを「恐慌の影響で都市から農村に戻る」の図とするのは昭和恐慌(1930年前後)を想起させるため、戦後1940年代後半~1950年代前半の写真には適切ではありません。

④ X―b Y―d
【誤】
Xの写真説明をbにするのは不自然です(戦後まもなくの買い出し列車の実態と合いません)。

問24:正解4

<問題要旨>

高度経済成長以降における鉄道・自動車の旅客輸送量や、乗用車保有台数、高速道路延長、新幹線・高速道路の開通年をまとめた表2を読んで、そこから得られる変化の要点を問う問題です。オリンピックや新幹線開業、石油危機など社会的背景も踏まえて、どの選択肢が正しいかを判断します。

<選択肢>

①【誤】
「表2によれば鉄道の旅客輸送が減少したことはなかった」かどうか、実数では増え続けている面がありますが、一時的な伸び悩みもあるためこの表現は微妙です。選択肢の表現を厳密に検討する必要があります。

②【誤】
「東京〜大阪間にオリンピック開催までに新幹線・高速道路が全線開通した」かどうか、東名高速道の全通は1969年、新幹線は1964年に開業しましたが、他の高速道路や全線開通との関係などで誇張があるかもしれません。

③【誤】
「表2によれば、第1次石油危機後、自動車の旅客輸送は減少した」かどうか、石油危機後も自動車の保有台数や旅客輸送量が極端に減ったわけではなく、むしろ増加傾向で推移していきます。

④【正】
「表2によれば、太平洋ベルト地帯が整備された新幹線は、その後、東北地方や日本海側・首都圏などを結ぶ路線も次々に整備された」というのは、1964年東海道新幹線から山陽新幹線・東北新幹線・上越新幹線など、順次全国へ拡大した史実と合致します。

問25:正解2

<問題要旨>

戦後政治の総決算を掲げた改革により、電電公社や専売公社が民営化された時期と、国鉄の民営化がいつ行われたかに関する問題です。中曽根康弘内閣下での国鉄分割民営化(1987年)と、小泉純一郎内閣下での郵政民営化(2005年)などの知識が必要となります。

<選択肢>

X「『戦後政治の総決算』を掲げた改革で、電電公社も民営化された」
Y「国鉄の民営化は、小泉純一郎が首相の時に行われた」

① X正 Y正
【誤】
国鉄の民営化(JR発足)は1987年、中曽根康弘政権時代であり、小泉純一郎政権(2001~2006年)ではありません。

② X正 Y誤
【正】
電電公社の民営化(NTT化)は中曽根内閣期に行われました。小泉政権期ではなく、まさに「戦後政治の総決算」をスローガンとした改革路線の一環です。一方で国鉄民営化は中曽根内閣時代で、小泉政権ではありませんからYは誤りとなります。

③ X誤 Y正
【誤】
Xを誤りとすると、電電公社の民営化が中曽根改革路線でなかったことになり矛盾します。Yを正とすると国鉄民営化が小泉政権となるため、これも事実に反します。

④ X誤 Y誤
【誤】
電電公社が民営化されたのは間違いなく中曽根政権の時期ですので、Xまで誤りとするのは不適切です。

第5問

問26:正解3

<問題要旨>

近代日本の選挙制度をめぐる改正や導入された要件を、歴代首相(a〜d)との対応で問う問題です。問題文中で示されるX・Yの内容は、Xが「大政党に有利な小選挙区制が導入された」、Yが「直接国税10円以上を納める25歳以上の男性に選挙権が認められた」というもので、どの首相の時期に行われたかを正しく組み合わせます。

<選択肢>

① X―a Y―c
【誤】
a(西園寺公望)とc(山県有朋)の組み合わせでは、小選挙区制導入や直接国税10円などの選挙改正との対応がずれます。

② X―a Y―d
【誤】
Xを西園寺公望、Yを黒田清隆とすると、それぞれの選挙制度改正との史実的タイミングが合致しません。

③ X―b Y―c
【正】
Xを「原敬」、Yを「山県有朋」に対応させると、小選挙区制の導入(1919年原敬内閣による選挙法改正)・直接国税10円以上かつ25歳以上の男性に選挙権を認める(1899~1900年ごろの山県有朋による選挙法改正)との組み合わせが史実に合います。

④ X―b Y―d
【誤】
Yを黒田清隆に当てるのは、直接国税10円制限の選挙法改正とつながりが薄いと言えます。

問27:正解2

<問題要旨>

第16回総選挙(1928年)で無産政党から複数の当選者が出たことと、その後に行われた日本共産党員への一斉検挙との関係、および第17回・第18回総選挙での無産政党の当選状況を検討する問題です。X・Yそれぞれの文が正しいかどうかを見極めます。

<選択肢>

X「第16回総選挙で無産政党から当選者が複数人出た後、日本共産党員に対する一斉検挙が行われた。」
Y「第17回と第18回の総選挙では、無産政党から当選者は出なかった。」

① X正 Y正
【誤】
第17回(1930)・第18回(1932)総選挙でも、無産政党から当選者がまったく出なかったわけではありません。

② X正 Y誤
【正】
1928年の総選挙で無産政党が当選し、これに危機感を抱いた当局が共産党員に対して大量検挙(いわゆる三・一五事件など)を行った、というXは正しい。一方、Yは「第17回・第18回総選挙で無産政党から当選がなかった」というのは誤りです。

③ X誤 Y正
【誤】
Xは史実として正しいため、誤りにするのは不適切です。

④ X誤 Y誤
【誤】
Xは正しいので両方誤りにはなりません。

問28:正解2

<問題要旨>

昭和初期に起きた「五・一五事件」などの減刑嘆願運動に関して、史料1・2から読み取れることと、発言a〜dを組み合わせる問題です。史料には全国各地の愛国思想団体などによる減刑嘆願が広がった様子や、将校夫人を中心とした署名運動の詳細が報道されています。

<選択肢(a〜dのうちどれが正か誤か)>

  • a:史料によると、減刑嘆願は愛国思想団体などにより全国各地で展開された
  • b:史料によると、減刑嘆願は全国各地で展開されたが、その動きはごく短期で終わった
  • c:この事件で、高橋是清大蔵大臣が殺害された
  • d:この事件で、首相犬養毅が殺害された

問題文で取り上げられる「五・一五事件」(1932年)は犬養毅首相が海軍青年将校らに殺害された事件として有名です。一方、高橋是清が殺害されたのは「二・二六事件」(1936年)であり、時期が異なります。したがって、

  • a は史料から読み取れる「全国で激しい嘆願運動が起こった」ことと合致し正しい可能性が高い。
  • b の「短期的に終わった」という記述は史料の動きとは必ずしも言い切れず、むしろ継続的な署名運動・嘆願が行われた様子がうかがえますので誤りと思われます。
  • c の「高橋是清大蔵大臣が殺害された事件」は二・二六事件に該当し、五・一五事件ではありません。
  • d の「首相犬養毅が殺害された」は五・一五事件の事実そのもの。

よって a(正)と d(正)の組み合わせが適切になります。

① a・c
【誤】
cは五・一五事件の被害者としては不適切です。

② a・d
【正】
「愛国団体などによる嘆願運動が全国各地で展開(a)」と、「首相犬養毅が殺害された事件(d)」はいずれも五・一五事件の史実と合致します。

③ b・c
【誤】
bもcも誤りです。

④ b・d
【誤】
bは不適切、dは正しいが両方セットでは正解になりません。

問29:正解3

<問題要旨>

昭和初期の学問や思想に対する弾圧の具体例を挙げ、どれが史実として正しいかを問う問題です。滝川事件(1933年)などの大学教授弾圧、天皇機関説問題(美濃部達吉の学説への批判)、経済学者の検挙などが取り上げられます。

<選択肢>

①「日本共産党幹部の大杉栄らが獄中で転向を声明した」
【誤】
大杉栄はアナキストであり、日本共産党幹部として転向を声明した人物ではありません。さらに大杉栄は1923年の亀戸事件で殺害されており、獄中で転向という経緯も異なります。

②「天皇を国家の一機関としてとらえる美濃部達吉の学説が批判され、政府から明確な声明が出された」
【誤】
天皇機関説問題は1935年前後に大きな論争となり、美濃部達吉の著作は発禁処分されましたが、この記述がそのまま“正解”かどうかは選択肢全体との兼ね合いを見ます。

③「滝川幸辰は自由主義的な刑法学説が批判され、休職処分に追い込まれた」
【正】
1933年の滝川事件で、京都帝国大学法学部の刑法学者・滝川幸辰が休職処分を受けたのは史実です。

④「労働組合の関係者に続き、経済学者の津田左右吉が検挙された」
【誤】
津田左右吉は歴史学者(国史研究)としてその著作が発禁処分になるなどの弾圧を受けましたが、それを「労働組合関係者に続き」とまとめるのは不自然で、タイミング的にも誤りが大きいです。

よって③が正解となります。

問30:正解4

<問題要旨>

「第1次〜第3次近衛文麿内閣」における時期ごとの動向(文中ではI〜III)を古いものから年表順に正しく並べる問題です。たとえば、近衛首相による「日米交渉の打ち切り」「国民精神総動員運動」「新体制運動」などを、実際の年次順で整合するように配列します。

<選択肢>
I 近衛首相は日米交渉の打ち切りと開戦を主張する東条英機陸相と激しく対立した
II 国家主義を唱え、節約・貯蓄など国民の戦争協力を促す国民精神総動員運動を開始した
III 全国民の戦争協力への動員を目指す新体制運動を展開し、大政翼賛会が成立した

① I → II → III
【誤】
日米交渉打ち切り問題(1941年末近い状況)は比較的後期、また大政翼賛会の成立(1940年)よりもややあとになります。順番が逆転します。

② I → III → II
【誤】
さらに整合しません。

③ II → I → III
【誤】
国民精神総動員運動(1937年近衛内閣成立後まもなく)→(Iの打ち切り対立は1941年)→(IIIの大政翼賛会成立は1940年)となると、IIIを1940年に据えたほうがI(1941年)より前ですから、I→IIIの順番が混乱します。

④ II → III → I
【正】
(II)国民精神総動員運動(1937年)→(III)新体制運動で大政翼賛会発足(1940年)→(I)日米交渉打ち切りを巡る対立(1941年末頃)という年次的流れが正しいです。

問31:正解4

<問題要旨>

「1940年から敗戦までの状況を調査する際に、適した史料はどれか」を問う問題です。戦時下の教育・国民動員・プロパガンダ・自治体警察の動きなどを確認し、どのような一次資料が有効かを考えます。

<選択肢>

① 学徒出陣した大学生の手記
【適切】 当時の学生の具体的な体験を知る一次資料。

② 勤労動員に参加した高等女学校生の回想録
【適切】 動員の実態を知るにふさわしい資料。

③ 軍国主義的教育をしていた国民学校の教科書
【適切】 当時の国民思想形成・教育内容の実証資料となる。

④ 国民思想の取り締まりを担当した自治体警察の報告書
【不適切】
「自治体警察」は戦後(1947〜1954年)に発足した警察組織形態です。終戦直前の日本には国家警察と地方警察制度はまだ実施されておらず(戦前〜戦中は内務省警察などの形態)、この時点の“自治体警察の報告書”というのは存在しないか、少なくとも1940年時点の戦時資料としては不自然です。

問32:正解3

<問題要旨>

敗戦後の初めての総選挙における政党政治の再編と、戦前からの運動家たちがどのように行動したかを問う問題です。戦後はGHQの指令下で公職追放などが行われる一方、新しく結成された政党に旧来の社会運動の担い手が参加した事例なども論点となります。

<選択肢>

①【誤】
「戦前の既成政党のみが戦後の総選挙に挑んだ」わけではなく、新興政党も登場しています。

②【誤】
「戦時中の政党政治家たちは一つの保守政党に全員が参加し、議会で最大勢力となった」かどうかは定かではなく、戦前からの政治家は公職追放を受けたり分裂したりしています。

③【正】
「戦前の労働運動や農民運動の活動家の中には、革新政党となった政党に参加した者もいた」というのは、日本社会党などに戦前の社会大衆党や無産政党系の活動家が合流するケースなど史実と合致します。

④【誤】
「戦前に公然と活動できなかった政党が活動を始め、GHQによって公職追放処分を受けた」かというと、逆に戦前に弾圧されていた社会主義勢力などは戦後に合法化され、公職追放の対象になったのは主に軍国主義を支持した政治家や官僚です。したがってこの文は誤りと考えられます。

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