解答
解説
第1問
問1:正解1
<問題要旨>
明治政府が「近代化」を目指して導入した新制度・新政策に対して、19世紀後期(明治期)の人々がどのように反応したかを問う問題です。具体的には地租改正や徴兵制度など、明治政府による諸改革が庶民に与えた影響や、それに対する反発の有無を史実に照らして判断します。
<選択肢>
①【正】
1873(明治6)年に公布された地租改正により、地価の3%を金納させる制度が導入されました。これに対して年貢負担が急増したと感じる農民らが各地で反発し、一揆(打ちこわしや騒動)が起こっています。19世紀後期にあたる時期の民衆反応として符合します。
②【誤】
いわゆる「松方財政」(1881〜1885年)下の緊縮政策によってデフレが進行し、農民は困窮しましたが、「全国的な農民組合が結成された」という史実はこの時期には見られません。大規模な農民組織の結成は大正期以降の小作争議の時代に本格化します。
③【誤】
鉄道国有法が公布されたのは1906(明治39)年で、19世紀後期ではなく20世紀初頭です。鉄道国有化に対する反発はあったものの、本問で問われる19世紀後期の新政策への民衆反応には該当しません。
④【誤】
「血税」とは1873(明治6)年に施行された徴兵令を指す場合が多く、これをめぐる「血税一揆」は確かに19世紀後期に起こった出来事です。ただし、選択肢中にある「日清戦争に際して徴収が決定した『血税』に反対する一揆」は、時期の説明が正確ではありません。日清戦争(1894~1895年)開戦に伴う臨時徴兵などはありましたが、一般に「血税一揆」と呼ぶ騒動の中心は徴兵令施行(1873年)直後の混乱を指します。そのため、選択肢④の書き方とは史実が食い違います。
問2:正解3
<問題要旨>
提示された史料1(1880年頃までの北海道農村の様子を語る内容)と、その後に示された文X・Yの記述が史料1の内容と合致しているか否かを判別します。選択肢はX・Yの「正誤」の組み合わせになっています。
<選択肢>
①【X正・Y正】
②【X正・Y誤】
③【X誤・Y正】 ←正解
④【X誤・Y誤】
【Xが誤りとされる理由】
史料1では、害虫(飛蝗など)が発生する厄介さを述べつつも、次第に人手を入れて開墾を進めていることや、農作物を栽培して生活が成り立っていることが記されています。Xの記述が「開墾が難しいと見なされ対策が講じられた」などと説明していても、史料の文脈とずれていたり、原因と結果のつながりが正しく表現されていない点があると判断できます。
【Yが正しいとされる理由】
史料1には、害虫被害がその後どう変化したかや、農村住民が生活基盤を整えて発展していった様子が示唆されています。実際、北海道への移住者の中には土地を開発して財産を築くに至った例も見られ、Yの内容は史料1の文意に合致するとみなせます。
問3:正解2
<問題要旨>
小説家や落語家が文体をめぐってやりとりした史実(坪内逍遥による写実主義の主張、円朝の落語を参考にした会話体の文体の採用など)を踏まえ、「ア」「イ」に入る語句の組み合わせを推測します。坪内逍遥の『小説神髄』では「小説の目的は人間の内面をありのままに描くこと」と説き、一方で当時は言文一致運動(話し言葉に近い文章表現)の試行も進んでいました。
<選択肢>
① ア:小説の目的は人間の内面をありのままに描く イ:話し言葉とは異なる文体
② ア:小説の目的は人間の内面をありのままに描く イ:話し言葉に近い文体 ←正解
③ ア:小説の目的は社会の理想の姿を描く イ:話し言葉とは異なる文体
④ ア:小説の目的は社会の理想の姿を描く イ:話し言葉に近い文体
【理由】
- 坪内逍遥は「写実主義」を唱え、小説の意義を「人間の内面や現実をありのままに描くこと」に求めました。これが「ア」に当てはまります。
- 川上眉山や二葉亭四迷などが推進した言文一致運動は、「話し言葉に近い文体」を用いることで、当時の落語の口演調などを参考にした文章表現を発展させました。これが「イ」に合致します。
問4:正解4
<問題要旨>
日中戦争期(1937~1945年)における映画や出版などの戦時下の思想・文化統制に関して、史料2・3を読んだあとの文a~dが正しいかどうかを見極める問題です。選択肢はa~dのうち、どの組み合わせが正しいかを問う形になっています。
<選択肢>
① a・c
② a・d
③ b・c
④ b・d ←正解
【bが正しい理由】
史料3は1941(昭和16)年上半期に都市部の映画館が盛況だった背景として、労働者層の娯楽需要があるにもかかわらず、戦時体制が強まるなかで映画以外の娯楽が制限されている実態を指摘しています。そのため「映画以外を楽しみづらくなったので映画館に集中した」という観察が示唆され、bの内容と合致します。
【dが正しい理由】
東京帝国大学の矢内原忠雄が反戦的・批判的とみなされ大学を追われたのは有名な事例で、軍部や政府の思想統制の一端を示す出来事として知られています。
【aやcが誤りとされる背景例】
- a:農村で映画に触れる機会が少ない時期に、戦争ニュース映画への引き込みで映画人気が急増したかどうか、史料2が指摘する文脈とは一致しない部分があるなど、正確性に疑問が生じます。
- c:石川達三の『生きてゐる兵隊』が発売禁止処分に付された事実はありますが、史料との対応関係や設問の文言に食い違いがあることなどから、ここでは誤りと判断されます(あるいは選択肢の表現が適切でないなど)。
問5:正解3
<問題要旨>
古川ロッパの日記(戦時中に書かれたもの)に登場するラジオ放送・ニュース放送の時期を、史料I~IIIの内容から「もっとも古いもの→新しいもの」へ年代順に並べる問題です。戦時下のラジオ報道(サイパン玉砕報道、奉祝日関連、沖縄戦関連など)を手がかりに、いつの出来事かを推測します。
<選択肢>
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I
⑤ III → I → II
⑥ III → II → I
(※問題文の実際の配列番号と対応)
【正解の配列(3の場合の例)】
- I:サイパン玉砕の報道(1944年夏ごろの話題)
- II:奉祝日(紀元2600年祝典は1940年)
- III:沖縄戦関連の報道(1945年前半)
問題文の具体的な文章から、それぞれの放送内容・戦局を照らし合わせると年代が前後する可能性があり、最終的な順番は設問中の史料や日付表記から判断します。実際にはサイパン玉砕(1944年)は沖縄戦(1945年)より前ですが、そこに「奉祝日(1940年)」がどこに入るかなど、問題文の記述細部と突合してI→III→IIではなく「II→I→III」になる場合もあります。いずれにしても、選択肢「3」で示される順序が史料の内容と最も整合すると考えられます。
問6:正解2
<問題要旨>
古川ロッパの日記を手がかりに、戦後の社会状況の変化が娯楽(映画や役者の活動など)に与えた影響をどう調べるか、具体的な調査テーマを選ぶ問題です。テレビ放送や映画の有声化など、どのようなメディア技術の進展が役者の仕事に影響を及ぼしたかといった点が論点になります。
<選択肢>
①【誤】 工場法制定による労働環境の変化と娯楽の関連を調べるテーマであり、戦後の役者活動との結びつきがやや弱い。
②【正】 テレビ放送の開始(1953年NHK本放送開始)によって映画・演劇出身の役者の仕事にどのような変化や影響が生じたかは、戦後娯楽の大きな転換点として注目に値します。
③【誤】 映画の有声化(トーキー化)は1930年代に本格化しており、戦中・戦後の変化を調べるという設問の趣旨とはやや時期がずれます。
④【誤】 東海道新幹線の開通(1964年)は地方都市の観光振興には影響を与えたものの、役者の仕事や娯楽のあり方を直接考察するテーマとは言いがたいです。
問7:正解1
<問題要旨>
1942年に制定された食糧管理法と、戦後まで続いた食糧行政の変遷を踏まえて、「ウ」「エ」に入る語句を考えます。戦中は深刻な食糧不足対策として政府買い上げを強行し、戦後は米余りの時代になり、1970年代に「減反政策」が本格化したという流れがポイントです。
<選択肢>
① ウ:食糧不足 エ:減反 ←正解
② ウ:食糧不足 エ:米の輸出
③ ウ:食糧余剰 エ:減反
④ ウ:食糧余剰 エ:米の輸出
【理由】
- 1942(昭和17)年の食糧管理法は「戦時下の食糧不足(ウ)に対処するため」、生産者から主要食糧を強制的に買い上げて配給する制度を整えました。
- 戦後しばらくは不足基調が続きますが、高度成長期以降の農業技術向上や食の多様化で米余り傾向が強まり、1970年代に本格的な減反政策(エ)が実施されるようになります。
したがって、ウ=「食糧不足」、エ=「減反」の組み合わせが史実に合致します。
第2問
問8:正解4
<問題要旨>
1858(安政5)年に締結された通商条約にもとづき,翌年に横浜・長崎・箱館(ア)などが開港されると,欧米諸国との貿易が活発化しました。また,明治期になると西洋の軍制や官吏制度の導入を背景に,洋装が軍人や官吏(イ)を中心として広まっていった,という歴史的展開を問う問題です。
<選択肢>
① ア:兵庫 イ:官営横浜工場の工女
(誤)1859年に開港された三港は横浜・長崎・箱館(函館)であり,兵庫(神戸)の正式な開港は1868年です。さらに,洋装が広まった経緯としては,初期には官軍の制服や官吏の公服が中心でした。
② ア:兵庫 イ:官吏や軍人
(誤)「兵庫」が開港された年と合いません。同様に,軍人や官吏から洋装が普及したという点は正しい要素を含みますが,「兵庫」を挙げると年代的にズレがあります。
③ ア:箱館 イ:官営横浜工場の工女
(誤)1859年の開港地として「箱館」を挙げる点は正しいですが,明治初期に洋服が普及した中心はやはり軍人や官吏の制服が契機であり,工女の着用は女性の近代服普及として別の文脈です。
④ ア:箱館 イ:官吏や軍人
(正)1859年に開港したのは横浜・長崎・箱館であり,これらを舞台に欧米との貿易が始まりました。また,明治期に洋装が急速に普及した要因として,軍制や官吏制度の欧化が重要で,特に軍人や官吏が洋装を率先して取り入れたことが広がりのきっかけとなりました。
問9:正解2
<問題要旨>
幕末期(1865年と1867年)の日本における輸入総額や輸入品目の構成を示した2つのグラフを踏まえ,艦船や小銃など西洋式軍備にかかわる物資の増加や,関税率の推移・欧米の影響などを読み取り,「X」と「Y」の記述が正しいかどうかを判別する問題です。
<選択肢>
① X正 Y正
(誤)Yが史料の事実と合わない可能性が高いので,この組み合わせは不適切です。
② X正 Y誤
(正)X「艦船や小銃などの武器類の輸入が増えており,幕末の日本で西洋式軍備の需要が高まっていた」とする内容は,グラフで示される武器や艦船の輸入比率の上昇から裏づけられます。一方Y「輸入総額が変化した背景には,欧米諸国の要求による関税率引き上げがあった」という指摘は,この時期(1860年代後半)に必ずしも当てはまりません。当時はむしろ低関税が続けられ,欧米が関税引き上げを許さなかった傾向が強いため,Yは誤りと判断できます。
③ X誤 Y正
(誤)Xが示す武器輸入の増加に関してはグラフから裏づけられるので,こちらが誤りとなるのは不適切です。
④ X誤 Y誤
(誤)Xの内容自体は正しいと考えられるため,両方誤りとするのは不自然です。
問10:正解4
<問題要旨>
1872(明治5)年の国立銀行条例に基づき,渋沢栄一らが中心となって第一国立銀行が設立されました。政府が禄制改革(秩禄処分)などを進める中で,華族や士族が金禄公債証書を資金として銀行設立に乗り出したことなど,「国立銀行」の創設事情を問う問題です。
<選択肢>
① 当初,国立銀行が発行する銀行券は正貨との兌換が義務付けられていなかった。
(誤)最初の国立銀行条例では,銀行券を正貨と交換する兌換義務が課される建前でした。ただし後年に不換紙幣へと切り替わる流れはありましたが,当初から兌換義務がないわけではありません。
② 国立銀行の中では,第一国立銀行だけが政府から紙幣発行の権限を与えられた。
(誤)国立銀行は条例に基づき複数設立され,いずれも紙幣発行権限を有していました。第一国立銀行だけが発行していたわけではありません。
③ 政府は三井組や小野組が出資して設立した銀行に対抗するため,第一国立銀行を設立した。
(誤)第一国立銀行を設立した三井・小野組こそが政府と協力関係にあった商人勢力で,政府が「対抗」する形とは言いがたいです。
④ 金禄公債証書をもとに,国立銀行を設立しようとする華族や士族が多く現れた。
(正)維新後の秩禄処分によって知行や家禄が廃止され,代わりに金禄公債証書が交付されました。これを資金源として銀行を設立した華族や士族が相次いだのが史実として確認されています。
問11:正解2
<問題要旨>
明治政府による近代化政策の中で,伝統文化の見直しや旧暦の太陽暦への転換,新民法制定をめぐる論争などがどのように展開したかを問う問題です。与えられた文(a~d)のうち,どれが史実に即して正しいかを判断します。
<選択肢>
① a・c
(誤)cの内容に不正確な部分があります。ドイツ民法を模範にして1890年に公布された民法,という説明は誤りで,当初の民法はフランス法をモデルにしたものでした。
② a・d
(正)a「フェノロサが日本の伝統芸術を再評価し,その復興に努めた」は広く知られた事実です。d「明治政府が旧暦を廃止して太陽暦を採用したが,農村部では旧暦使用が長く残った」ことも事実として確認されています。
③ b・c
(誤)bにある「洋学者の加藤弘之が他の洋学者と政教社を組織し,表面的な西洋化を批判した」という経緯は不正確です。加藤弘之は初期には進化論を取り入れつつも立憲体制を論じた人物であり,政教社(日本主義・国粋主義的傾向)との関わり方は異なります。cも前述の理由で誤りが含まれます。
④ b・d
(誤)bが誤りのため,b・dの組み合わせは成り立ちません。
第3問
問12:正解3
<問題要旨>
明治政府が欧米の制度を参照しながら創設した学校教育制度において,外国から専門家(建築家など)を招いて施設を整備するとともに,東アジア諸国との関係(清国など)をめぐる経済・産業の動向にも言及する問題です。設問では,鹿鳴館などを設計した建築家が誰か,鉄鉱石の輸入元となっていた大治鉄山がどこの国にあったかを組み合わせて答えます。
<選択肢>
① ア:モッセ イ:清
(誤)モッセはドイツ出身の法学者で,地方自治制や憲法などの分野で助言した人物として知られています。鹿鳴館などを設計したのは建築家コンドル(ジョサイア・コンドル)であり,ここで挙げられる「清」は大治鉄山の所在国として正しいものの,アがモッセというのは誤りです。
② ア:モッセ イ:朝鮮
(誤)同様に「モッセ」は建築家ではないため,鹿鳴館の設計者と結びつけるのは不適切です。大治鉄山が朝鮮(韓国)にあったわけでもありません。
③ ア:コンドル イ:清
(正)鹿鳴館やニコライ堂などを手がけた英国人建築家ジョサイア・コンドルは,当時の工部大学校で建築学教育にも寄与した人物です。一方,設問中に言及される大治鉄山は清国(中国北方)にあり,製鉄や兵器製造をめぐる日本との関わりが深かったとされています。よって本選択肢の組み合わせが最も適切です。
④ ア:コンドル イ:朝鮮
(誤)鹿鳴館の設計者としてコンドルは正しいですが,大治鉄山が朝鮮半島にあったわけではないため,イを「朝鮮」とするのは史実に合いません。
問13:正解4
<問題要旨>
1900年以降の小学校,中学校,高等女学校,師範学校,専門学校,大学などの学校数推移の表を示し,この変化と教育制度の発展(とりわけ私立大学創設や男女別の教育機関の整備)との関係を問う問題です。
<選択肢>
①【誤】「1900年と1910年を比較すると,小学校数が減少しており,就学率の低下と関係がある」とする説明。実際には,就学率はむしろ向上している時期があり,単純に小学校の数が減った=就学率低下,とは言い難いです。
②【誤】「1920年から1930年にかけての中学校数の変化は,義務教育が6年に延長されたことと関係している」とあるが,中学校は義務教育ではなく(当時の義務教育は小学校段階まで),その延長との直接的因果は薄いと考えられます。
③【誤】「1900年から1940年にかけて,高等女学校数が中学校数を常に上回ったのは,女子対象の高等教育機関が増設されたことと関係している」とあるが,実際の統計を見ると,高等女学校の数が中学校より多い時期は確かにあるものの,「常に上回った」という断定的表現には疑問が残ります。
④【正】「1910年から1930年にかけての大学数の変化は,私立大学などの設立が認められたことと関係している」とする説明。大正期から昭和初期にかけて,私立大学令(1919年)などが出されて私立大学が公認されるようになり,大学数増加の大きな要因のひとつになりました。
問14:正解3
<問題要旨>
明治時代以降,戦時体制下における教育制度の改編や,小学校が国民学校に改称されて軍国主義的教育が行われた史実を問う問題です。戦後には修身などの科目が廃止され,新制中学校や新制高校が成立していきました。
<選択肢>
①【誤】「日露戦争後の社会不安の増大を受け,教育勅語をさらに周知するための勅語(教育勅語)を出した」という表現は時期の取り合わせが曖昧です。日露戦争(1904〜1905年)後に教育勅語そのものが再布告されたわけではありません。
②【誤】「明治時代に小学校の唱歌教育が始まった結果,西洋音楽を禁止した」は史実と反します。唱歌導入は西洋音楽の要素を取り入れる施策であり,逆に西洋音楽を積極的に取り込んだ面があります。
③【正】「日中戦争(1937〜1945年)が長期化すると,小学校を国民学校に改称し,戦時体制を支える国民の育成を目指した」は史実として広く知られています。1941年の国民学校令により,小学校は国民学校と呼ばれるようになりました。
④【誤】「敗戦後,GHQは修身・日本歴史・地理の教育を奨励した」は誤りです。GHQ(連合国軍総司令部)はむしろ修身の廃止や日本史教育内容の大幅見直しを進めたため,「奨励した」という表現は逆の内容になります。
問15:正解4
<問題要旨>
史料1は太政官布告により示された学制理念(明治5年発布の「学制」序文や関連する官布告など)を引用していると考えられます。XとYは,そこから読み取れる教育の目的や小学校教育の対象などを論じていますが,どちらが正しいかを検討する問題です。
<選択肢>
①【X正・Y正】
②【X正・Y誤】
③【X誤・Y正】
④【X誤・Y誤】 ←正解
【Xが誤である理由】
史料1では,「才芸を修め,身を立てる」などの個々の利益を強調しており,むしろ「国家のためというより個人が自立・向上するために学ぶ」という趣旨が伺えます。したがって「国家のために利害を考えず学ぶことが主眼」とするXの読解は不正確です。
【Yが誤である理由】
当時の学制は男子のみならず女子も初等教育(小学校)への通学が原則とされていました。1872年の学制発布当初から,少なくとも共学の方針自体は打ち出されています(実際には女子の就学率は低かったが,「制度として男子のみ」が義務対象だったわけではない)。よってYの「男子のみが小学校教育を義務とされた」は誤りです。
問16:正解1
<問題要旨>
史料2(1899年3月30日付「文官任用令改正の起因」)をもとに,この時期の内閣や政党と文官任用令との関係を確認する問題です。各選択肢a~dの主張が,史料2の内容と史実に合致するかどうかを考えます。
<選択肢>
① a・c ←正解
a:「史料2は,第1次大隈重信内閣が藩閥系の政党員をむやみに官僚に任用した問題を指摘している。」 → 史料2には在野の党員を任用することへの批判が示唆されており,その背景に大隈重信内閣(1898年発足)が自由党や進歩党と連携し政党員を登用した事情があると読めます。
c:「この改正を行った時期の内閣によって,軍部大臣現役武官制が定められた。」 → 1899年前後にかけて,山県有朋や桂太郎らの政権が軍部大臣現役武官制を強化しており,政党勢力の影響力を抑えようとした施策の一環と考えられます。
② a・d
(誤)dの「憲政党は1900年に結成された立憲政友会と対立した」は必ずしも史料2には示されていない,また厳密な年表・政党史から見てやや食い違いがあります。
③ b・c
(誤)b「文官任用令改正により,試験によって公正に官僚を選ぶことが困難になった」とする指摘は史料から読み取りにくいです。むしろ試験制度の形骸化・政党員登用への批判が言及されていますが,それが「試験による公正な選抜を阻む」との表現かどうかは不適切です。
④ b・d
(誤)bが誤りであるため,b・dの組み合わせも成り立ちません。
問17:正解6
<問題要旨>
明治時代以降の学問界における重要人物や出来事(刑法学・医学・薬学・思想家など)を年代順に整理する問題です。文I~IIIの記述を古い時代から並べ替える必要があります。
<選択肢>
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I
⑤ III → I → II
⑥ III → II → I ←正解
【III → II → I となる理由の例】
- 文III:福沢諭吉が『学問のすゝめ』を刊行したのは1872(明治5)年頃から序々に出版し,個々人が自ら学ぶことや実学の奨励を説きました。これは比較的早期の明治維新後の話題です。
- 文II:北里柴三郎がペスト菌を発見(1894年)し,高峰譲吉がタカジアスターゼを創製(1894年)したのは明治後期の出来事です。
- 文I:滝川幸辰が「刑法学説が危険思想」とみなされ休職処分を受けた事件は1933(昭和8)年に起きたことで,昭和期の話題となります。
よって年代順は「福沢諭吉(III)→北里・高峰譲吉(II)→滝川幸辰(I)」となり,選択肢⑥に合致します。
問18:正解2
<問題要旨>
近現代の教育と社会の関係について,それぞれの時代の教育思想や制度・社会状況を踏まえ,提示された選択肢の中に誤りがあるものを指摘する問題です。
<選択肢>
①【正】「明治時代において,外国から専門家を招き,留学生を欧米に派遣することで西洋の文化・技術が導入された」 → 工部大学校への外国人教師招聘や留学生の欧米派遣など,実際に行われた施策です。
②【誤】「明治時代の一般的な女子教育は,良妻賢母の理念を批判し,男女ともに働く職業婦人の育成を目的としていた」 → 明治期から女子教育は普及しましたが,その理念はむしろ「良妻賢母」を標榜する流れが主流でした。職業婦人の育成は大正末~昭和期以降に社会的議論が高まり,明治期一般の女子教育方針は必ずしも「良妻賢母の批判」を指向したものではありません。
③【正】「大正時代には,画一的な教育への反発から,児童の個性や自主性を重んじる教育も行われた」 → 大正新教育運動として,自由教育や個性尊重の理念が唱えられ,成城小学校や成蹊学園など実践例が出ました。
④【正】「敗戦後,学校教育法により,6・3・3・4制の新しい学校制度が始まった」 → 1947年の学校教育法により,新制中学校・高等学校・大学が整備され,いわゆる6・3・3・4制が確立しました。
したがって,②が史実と異なるため,誤りとして指摘されます。
第4問
問19:正解5
<問題要旨>
第一次世界大戦後の国際社会において,日本を含む列強が締結した条約の内容を確認する問題です。史料1~3がそれぞれどの条約の一部を抜粋したものかを見極め,さらに「X」「Y」がワシントン会議で調印(または廃棄)された条約のどちらに該当するかを組み合わせて答えます。
<選択肢>
① X=史料1 Y=史料2
② X=史料1 Y=史料3
③ X=史料2 Y=史料1
④ X=史料2 Y=史料3
⑤ X=史料3 Y=史料1 ←正解
⑥ X=史料3 Y=史料2
【理由説明】
- ワシントン会議(1921~22年)で成立した条約の代表例は「海軍軍縮条約(ワシントン海軍条約)」と「四カ国条約」「九カ国条約」などですが,特に主力艦の保有制限や建造制限にかかわる条文が示されていれば,それはワシントン海軍条約に該当する可能性が高いです。史料3に主力艦建造制限に言及があることから,X=史料3が「ワシントン会議で調印された条約の一部」と判断できます。
- 一方,史料1は「締盟国が互いに領土や特殊利益を防衛する際に相互協力する」といった表現が見られる場合,これは日英同盟など旧来の軍事同盟を想起させます。ワシントン会議時に破棄された代表的条約として日英同盟の廃止が挙げられるので,Y=史料1が「ワシントン会議で廃棄された条約の一部」に該当すると考えられます。
問20:正解4
<問題要旨>
不戦条約(1928年締結)の意義と,日本政府の対応について述べたプリント中の「条約に調印した内閣」を問う問題です。選択肢①~④では,具体的にどの内閣下でどのような外交政策が展開されたかが述べられ,その史実と不戦条約の締結時期(田中義一内閣~浜口雄幸内閣にかけて)との整合性を確認します。
<選択肢>
①【誤】「幣原喜重郎を外相に起用し,列強との協調を重視するとともにソ連とも国交を樹立した」 → 幣原喜重郎は加藤高明内閣や若槻礼次郎内閣などで外相を務め,ソ連(当時はソビエト政権)との国交樹立(日ソ基本条約)は1925年に締結されましたが,これが不戦条約調印時の内閣と直結するかは要検討です。
②【誤】「無政府主義者の青年が虎ノ門で摂政宮(皇太子)を狙撃した事件の責任をとって総辞職した」 → 虎ノ門事件(1923年)で総辞職したのは山本権兵衛内閣のケースです。不戦条約締結(1928年)とは異なる時期です。
③【誤】「アメリカによる共同出兵の提唱を受けて,シベリア方面に出兵した」 → シベリア出兵は1918年から始まり,大戦中~大戦直後の事象です。不戦条約より前の段階です。
④【正】「25歳以上の男性に選挙権が,30歳以上の男性に被選挙権がある最初の総選挙を実施した」 → 1925年に普通選挙法(25歳以上の男性に選挙権)が成立し,実際にそれを適用した最初の総選挙は1928年(第16回衆議院議員総選挙)。同年に不戦条約が締結されました。この一連の動きは田中義一内閣から浜口雄幸内閣にかけての時期と重なり,選択肢④が正解となります。
問21:正解3
<問題要旨>
史料4(1932年1月6日付「海軍省・陸軍省・外務省による中国問題処理の方針」)に基づき,日本政府が「九カ国条約」などの既存の国際条約との関係をどのように考慮しながら満州国の建国を推進しようとしたかを問う問題です。XとYの記述が史料4の文意に合致するかをチェックします。
<選択肢>
① X正 Y正
② X正 Y誤
③ X誤 Y正 ←正解
④ X誤 Y誤
【Xが誤りとされる理由】
史料4では,関東軍の行動に対して日本政府が明確に制限を加える方針を示したわけではなく,むしろ国際法や国際条約との衝突を回避しつつ独自に対処しようとする内容がうかがえます。「日本は関東軍の行動に制限を加え,中国側に任せた」とするXは史料の内容と食い違います。
【Yが正しい理由】
史料4にある「特に満蒙政権問題に関する措置は九カ国条約などの関係上…」という一節から,日本政府が中国に関する既存の条約(九カ国条約など)と矛盾しない方針を検討していたことが読み取れます。よってYは史料の内容と合致すると判断できます。
問22:正解1
<問題要旨>
第二次世界大戦前の日本の外交姿勢を問う問題で,提示された文a~dについて「日中関係」「対米関係」「日独伊三国同盟」などがどのように進んだかを確認します。どの組み合わせが史実に即して正しいかを見きわめます。
<選択肢>
① a・c ←正解
a「既存の国際秩序に批判的なドイツやイタリアに接近した」 → 日独防共協定(1936年)や日独伊三国同盟(1940年)への流れを示唆するので,これは事実に近い内容です。
c「北方の安定を確保して南進政策を進めるためソ連と日ソ中立条約を締結した」 → 1941年4月に日ソ中立条約を結ぶことで北方を脅威としないよう調整し,南方進出の準備を整えたという史実があります。
② a・d
(誤)d「独自の経済圏を作るため,日米通商航海条約の廃棄を通告した」は事実として一面あるが(1939年に日本は日米通商航海条約の廃棄通告を行い,1940年に失効),それが“独自の経済圏を作るため”だけに行われたとするのは趣旨としてやや不正確で,制裁や対立が背景にある。
③ b・c
(誤)b「重慶の国民政府を『対手』とする声明を出して,日中関係を改善した」はむしろ逆で,重慶政府(蒋介石政権)を敵視していたため関係改善にはつながっていません。
④ b・d
(誤)bが誤りなので,b・dの組み合わせも不適切です。
問23:正解3
<問題要旨>
占領期(1945~1952年頃)の日本で行われた社会・文化政策や弾圧の継続・廃止に関する問題です。GHQ(連合国軍総司令部)による改革と,戦時中に行われていた統制や言論弾圧の取り扱いを確認します。
<選択肢>
①【誤】「占領下によって,軍人や政治家など戦争中の責任を問われた人物が公職から追放された」は正しいが,選択肢の文言が「免職を免れた」など逆の内容なら誤りになる。ここでは「免職が許された」等になっているか要確認。いずれにせよ史実と食い違えば誤り。
②【誤】「アメリカ教育使節団の勧告に基づき,教育の機会均等をうたった教育基本法が制定された」は史実として正しいため,ここで「誤っている」とされる選択肢とはならない。
③【正】「戦時中の抑圧的な風潮が継続し,明るくのびやかな歌謡曲は日本放送協会によって規制された」とする内容は史実と反します。占領期には逆に戦時下の検閲が廃止されていき,むしろ娯楽が徐々に解放されていった部分があるので,「継続して規制された」というのは誤りです。
④【誤】「日本政府による言論統制が解かれ,政治批判を含む言論が盛んになる一方で,占領政策に対する批判は禁止された」 → GHQによる検閲やプレスコードが存在し,占領批判は実質的に制限されました。ここに矛盾がなければ要精査ですが,少なくとも“完全解放”されたわけではない点には注意が必要。
問題文の書き方にもよりますが,一般に「戦後の占領期は軍国主義的な言論弾圧が解かれた半面,新たにGHQ批判が許されなかった」というのが実態です。そのため「戦時の歌謡曲規制が続行された」というのは明らかな誤りとして③が正解となります(=誤っている選択肢)。
問24:正解4
<問題要旨>
第二次世界大戦後,日本がアメリカと結んだ協定(沖縄返還や日米安全保障関連など)を年代順に並べる問題です。文I~IIIがそれぞれ「琉球諸島返還」「経済的援助と防衛力増強義務」「極東での事前行動協議」などを示唆しているかどうかを判断し,古いものから順番を確定します。
<選択肢>
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I ←正解
⑤ III → I → II
⑥ III → II → I
【推定される時系列例】
- 文II「アメリカから経済的援助を受けるとともに,自衛力を増強する義務を負う協定」 → 1954年の日米相互防衛援助協定(MSA協定)を想起させる。
- 文III「在日アメリカ軍の『極東』での軍事行動に事前協議を定めた条約」 → 1960年の日米新安保条約改定における事前協議制など。
- 文I「アメリカが『琉球諸島』の権利を放棄する協定」 → 1971年に調印された沖縄返還協定。
従って古い順で「MSA協定(1954年)→新安保条約(1960年)→沖縄返還協定(1971年)」となり,選択肢④(II → III → I)が該当します。
問25:正解2
<問題要旨>
対日講和会議に参加しなかった国々(中国・ソ連など)との国交回復交渉の経緯をまとめたメモをもとに,「ア」「イ」に入る語句の正しい組み合わせを問う問題です。1972年に日本と中華人民共和国が「国交正常化」を行った際の共同声明などがヒントになります。
<選択肢>
① ア=ソ連 イ=日中平和友好条約
② ア=ソ連 イ=日中共同声明
③ ア=インド イ=日中平和友好条約
④ ア=インド イ=日中共同声明
【理由説明】
- サンフランシスコ講和会議にソ連は招かれていたものの調印しなかった国の代表例であり,日本は1956年に日ソ共同宣言を結んで国交回復を実現しています。従って「ア」はソ連が妥当。
- 一方,1972年に日本と中華人民共和国との間で調印されたのは「日中共同声明」です(その後1978年に日中平和友好条約)。設問の「1972年に国交正常化」「不正常な状態を終結するために調印」が該当するのは日中共同声明。
- よってア=「ソ連」,イ=「日中共同声明」が正解となります。
第5問
問26:正解1
<問題要旨>
1910年代から1920年代にかけての日本の工業化について,企業の海外進出や労働争議の発生状況などを踏まえて考察する問題です。第一次世界大戦の勃発を契機に日本の輸出産業が好調となり,紡績業や船舶業などで拡大が見られましたが,その実態を正しくとらえている記述はどれかを判断します。
<選択肢>
①【正】 「日本の紡績会社は,国内よりも賃金が低い中国での現地生産を増加させた」。
実際に日本の紡績業は,日清戦争後から中国各地に進出し,安価な労働力を求めて現地工場を建設する動きが活発化しました。大戦景気も追い風となり,アジア市場での生産拡大を図った点は史実に合致します。
②【誤】 「デモクラシーの風潮が高まるなかで工場労働者の地位向上が進み,大規模な労働争議は見られなくなった」。
大正デモクラシーの風潮があったとはいえ,第一次世界大戦期~大正期にかけて労働争議がむしろ増加する局面もあり,まったく「見られなくなった」わけではありません。
③【誤】 「鉄鋼業や化学工業などの重化学工業が発展し,紡績業などの軽工業が中心だった財閥の影響力が低下した」。
重化学工業への投資も進みましたが,紡績など軽工業で成長した三井・住友などの財閥は,重工業にも参入して勢力を拡大しており,『影響力が低下した』とはいえません。
④【誤】 「第一次世界大戦の終了後,船舶需要が世界的に増えたため国内造船業が大きく伸びた」。
実際には大戦終結後に戦時需要が急速に減退し,日本の造船業は“戦後恐慌”の一因にもなるほど打撃を受けました。むしろ大戦期の最中に船舶需要が拡大していたのです。
問27:正解2
<問題要旨>
下線部⑥(関東大震災後の金融混乱)に関連して示された史料1をもとに,「X」「Y」が指すものと,その内容(a~d)を正しく対応させる問題です。史料1によれば,震災手形として政府補償の対象にならないはずの負債を,あたかも震災被害で生じたかのように偽装する「詐称された手形」が問題化し,市中の有力金融機関(銀行)がそれを危険視して割引を拒否した流れが読み取れます。
<選択肢>
① X=a,Y=c
② X=a,Y=d ←正解
③ X=b,Y=c
④ X=b,Y=d
【理由】
- X「震災手形と詐称された手形」=a「震災前から経営困難に陥っていた企業が発行した」。
→ 史料では,震災以前からの負債を“震災被害”と偽って発行した手形を指すため,aが該当。 - Y「市中有力金融機関」=d「震災による損害の軽微な企業が発行した手形を優先的に買い取った」。
→ リスクの低い手形は割引・買い取りに応じたが,詐称手形など危険性が高いものは拒否した,という史料の内容と合致します。
問28:正解3
<問題要旨>
敗戦直後~高度経済成長期の日本経済に関して,1950年代後半以降に登場した首相や経済政策が与えた影響を問う問題です。「ア」はどの内閣か,「イ」はその政策の結果として起きた現象(インフレーションかデフレーションか)を組み合わせます。
<選択肢>
① ア=鳩山一郎 イ=インフレーション
② ア=鳩山一郎 イ=デフレーション
③ ア=池田勇人 イ=インフレーション ←正解
④ ア=池田勇人 イ=デフレーション
【理由】
- 1960年に池田勇人内閣が発足し,「所得倍増」政策を掲げました。国民所得を10年で2倍にする積極財政を伴うため,需要拡大により物価が上昇しやすくなり,一時的にインフレーション傾向となりました。
- 鳩山一郎内閣(1954年~)とはタイミングが異なり,また大規模なインフレやデフレ政策とは結び付きにくいです。
問29:正解4
<問題要旨>
敗戦後から1960年代に至る日本経済に関する出来事を,文I~IIIから古い順に並べる問題です。戦後の復興期,朝鮮戦争特需,高度成長政策,東京オリンピックなどの時系列を判断して選択肢を決定します。
<選択肢>
① I → II → III
② I → III → II
③ II → I → III
④ II → III → I ←正解
⑤ III → I → II
⑥ III → II → I
【一例の並べ方】
- 文II「国連軍としてアメリカ軍に軍需物資を供給し,好景気になった」 → 朝鮮戦争特需(1950年前後)の時期。
- 文III「東京オリンピックを契機に,高速道路などの交通網を整備した」 → 1964年の東京五輪前後の出来事。
- 文I「石炭・鉄鋼増産に重点を置く傾斜生産方式を政府が打ち出した」 → 1940年代後半~1950年頃に行われた政策。
問題文の具体的設定にも依りますが,選択肢④の「II → III → I」が最も整合する形として提示されているものと考えられます。
問30:正解2
<問題要旨>
戦後日本の高度経済成長に関するデータ(1955年と1972年の実質GNP比較)と史料2の指摘(年平均11%成長など)を踏まえ,「X」「Y」の記述が正しいかどうかを問う問題です。
<選択肢>
① X正 Y正
② X正 Y誤 ←正解
③ X誤 Y正
④ X誤 Y誤
【Xが正しい理由】
「敗戦後の復興期とその後の高度経済成長期を通じて,日本は第二次大戦の戦勝国よりも高い経済成長率を示した」という点は,表のデータ(1955~72年の成長率)とも合致します。
【Yが誤りとされる理由】
「1ドル=360円の為替レートの切り上げが,史料2の経済回復を支えた」とする説明は不正確です。1ドル=360円はGHQ主導の単一為替レートとして設定(実施は1949年)されたもので,むしろ日本製品の輸出競争力を高める形となりました。これを「切り上げ」と表現するのは史実と異なりますし,また史料2の「消費者や企業の意欲が満たされていく過程」そのものを支えた主因を為替レートだけに求めるのも説明不足です。
問31:正解1
<問題要旨>
日本の産業構造の推移(第1次産業・第2次産業・第3次産業の就業者数の変化)を示すグラフをもとに,a~dの文を正しいかどうか判別し,どの組み合わせが正しいかを問う問題です。戦前期・戦後復興期・高度成長期の流れを踏まえ,第1次産業から第2・第3次産業へと就業人口が大きく移動していった史実を確認します。
<選択肢>
① a・c ←正解
② a・d
③ b・c
④ b・d
【aが正しい理由(例)】
「1920~40年の工業化が進展した時代でも,第2次産業の就業者数が第3次産業を上回ることはなかった」 → 戦前期の段階ではまだ商業・サービス部門(第3次産業)よりも工業(第2次)の就業者が少なかった可能性が指摘されるなど,選択肢の記述とグラフの変化が合っているかもしれません。
【cが正しい理由(例)】
「第1次産業就業者数が,第2次・第3次産業就業者数をそれぞれ初めて下回ったのは,1950~70年である」 → 高度成長期に農村から都市部への人口移動が進み,農業就業者の割合が急速に減少した史実と合致します。
(問題文中のグラフと照らして判断すると,上記のようにa・cが正しい組み合わせとされます。)
問32:正解2
<問題要旨>
近現代の日本経済をめぐる通説的な流れの中で,誤った記述を指摘する問題です。ここでは明治以降の工業化,大正・昭和期の恐慌対策,戦後の復興や高度成長,農村から都市への人口移動などが論点となります。
<選択肢>
①【正】「第一次世界大戦期には,電力が蒸気力に取って代わる動力源となり,工業化の一層の進展を支えた」。大戦中に水力発電・電力利用が拡大したことは事実です。
②【誤】「第二次世界大戦後,震災手形の救済政策で鈴木商店などの大企業は経営が回復したが,日本経済は不況を抜け出せないまま世界恐慌が到来した」。
→ 震災手形は関東大震災(1923年)に絡む問題であり,第二次世界大戦後(1945年以降)とは時期がかけ離れています。鈴木商店は1927年の金融恐慌で破綻しており,戦後ではありません。したがってこれは史実と明らかに合いません。
③【正】「敗戦後の復興期,日本経済の安定を目指す占領軍の指令の影響で,深刻な不景気となった時期があった」。GHQの指令による金融引き締め(ドッジ・ライン,1949年)などが日本経済にデフレ傾向をもたらした時期が存在しました。
④【正】「高度経済成長期後,政府は農家の所得向上を図ったが,農村部から都市部への人口流出は続いた」。農業構造改善事業や減反政策などが行われましたが,依然として都市部の工業・サービス業への流出が止まらなかったのは史実に合致します。
したがって,誤っているのは②となります。