2023年度 大学入学共通テスト 追試験 世界史B 解答・解説

2023年度 大学入学共通テスト 追試験「世界史B」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。

目次
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解答

解説

2023年度(令和5年度)大学入学共通テスト 追試験「世界史B」の全問解説です。第1問が18点、第2問が28点、第3問が18点、第4問が18点、第5問が18点で、あわせて100点満点。すべて必答で、解答番号は1〜33です。なお、第3問Bと第5問Bで用いる図は、公開されている問題PDFでは著作権上の理由により省略されています。この記事では、本文や会話文に書かれている説明から筋道をたどれる形で解説しました。各設問の見出しをタップすると、その問題の要旨と、選択肢ひとつひとつがなぜ正しい(誤っている)のかが開きます。

第1問

配点18。世界史上の女性の権力者がテーマです。Aはヨーロッパの女性君主をめぐるゼミの議論、Bは西安(華清池)を舞台に楊貴妃と西太后を扱う会話。問3は「教授が出した条件」を満たす人物を選ぶ、資料読解型の設問です。

問1:正解 ④(解答番号1/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 ア の人物の治世に起こった出来事について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。ア は「名誉革命を通じて夫と共同で王位に就いたイギリス」の女性君主と説明されています。

<考え方>

ア はメアリ2世です。夫のウィリアム3世(オラニエ公ウィレム)と共同で即位した、イギリス史上唯一の共同統治の例です。あとは選択肢の出来事がどの君主の治世かを仕分けます。

<選択肢>

①【誤】

第1回ロンドン万国博覧会は1851年で、ヴィクトリア女王の治世です。

②【誤】

ホイッグ党のウォルポールが事実上の初代首相となったのは1721年、ジョージ1世の治世です。「王は君臨すれども統治せず」の慣行が生まれた時期にあたります。

③【誤】

スペイン王フェリペ2世と結婚し、カトリックの復活を図ったのはメアリ1世(在位1553〜58年)です。同じ「メアリ」でも別人で、時期も150年ほど離れています。

④【正】

名誉革命の結果、1689年に議会が提出した「権利の宣言」をウィリアム3世とメアリ2世が承認し、「権利の章典」として制定されました。議会主権を確立した、まさにこの二人の治世の出来事です。

問2:正解 ③(解答番号2/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓐ「オーストリア継承戦争があり、その後に七年戦争が起こっています」に関連する出来事について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

18世紀のヨーロッパ国際関係の設問です。オーストリア継承戦争(1740〜48年)と七年戦争(1756〜63年)で、どの国とどの国が組んだかを整理します。

<選択肢>

①【誤】

オーストリア継承戦争を終結させたのはアーヘン(アークラシャペル)条約(1748年)です。ユトレヒト条約(1713年)はスペイン継承戦争の講和条約です。

②【誤】

七年戦争でプロイセンを支援したのはイギリスです。スペインはフランス側に立ちました。

③【正】

七年戦争を前に、それまで敵対関係にあったオーストリア(ハプスブルク家)とフランス(ブルボン家)が同盟を結びました。数百年にわたる対立の逆転であったため、外交革命と呼ばれます。マリア=テレジアの宰相カウニッツが主導しました。

④【誤】

マリ=アントワネットはマリア=テレジアの娘で、フランス王ルイ16世の王妃となりました。フリードリヒ2世はプロイセン王で、しかも生涯を通じてオーストリアと敵対しています。

問3:正解 ③(解答番号3/配点3)

<問題要旨>

ゼミでの議論を踏まえ、中井さんが後日もう一度発表するときに選んだ題材として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

教授は「16世紀以降に活躍した、君主でもその配偶者でもない女性」を調べてくるよう指示しています。この二つの条件(時期・立場)で候補をふるいにかけ、残ったものについて記述内容が正しいかを確かめます。

<選択肢>

①【誤】

ジョゼフィーヌはナポレオンの皇后、つまり君主の配偶者です。教授が挙げた条件から外れます。

②【誤】

時期と立場の条件は満たしますが、記述が誤りです。ストウの『アンクル=トムの小屋』(1852年)は奴隷制を告発した小説で、擁護したものではありません。

③【正】

ローザ=ルクセンブルクは20世紀初頭のドイツで活動した社会主義者で、カール=リープクネヒトとともにスパルタクス団を指導しました。君主でもその配偶者でもなく、記述内容も正しいので、条件をすべて満たします。

④【誤】

ジャンヌ=ダルクがオルレアンを解放したのは1429年で、15世紀の出来事です。「16世紀以降」という条件に合いません。

問4:正解 ①(解答番号4/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 イ の人物の治世に中国で起こった出来事について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。イ は華清池で楊貴妃の寵愛を与えた人物で、「その一族が イ の晩年に政治の実権を握った」と説明されています。

<考え方>

楊貴妃を寵愛し、その一族(楊国忠)が実権を握った皇帝は唐の玄宗です。あとは選択肢の出来事がどの王朝・どの時期のものかを仕分けます。

<選択肢>

①【正】

玄宗の治世に、それまでの府兵制が崩れて募兵制が採用されました(722年)。均田制の崩壊で兵役を担う農民が確保できなくなったためで、この募兵制のもとで置かれた節度使が、やがて安史の乱を引き起こすことになります。

②【誤】

塩の密売人の黄巣が起こした黄巣の乱(875〜884年)は唐末の僖宗の時代で、玄宗より100年以上あとの出来事です。

③【誤】

焚書・坑儒は秦の始皇帝が行ったものです。

④【誤】

新法党(王安石ら)と旧法党(司馬光ら)の対立は北宋の出来事です。

問5:正解 ②(解答番号5/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓑ「西太后も清の同治帝時代以降に実権を握りました」に関連して、西太后が実権を持ち始めて以降の時期に清朝が行った事柄について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

西太后が実権を握るのは1861年(同治帝の即位)以降、亡くなるのが1908年です。この約半世紀のあいだの出来事かどうかで判定します。

<選択肢>

①【誤】

キャフタ条約は1727年、雍正帝の時代にロシアと結んだモンゴル方面の国境画定条約です。

②【正】

会話文にもある光緒新政の一環として、1908年に憲法大綱が発布されました。日本の明治憲法にならって皇帝の大権を定めたもので、9年後の国会開設を約束しています。西太后が亡くなる直前の出来事にあたります。

③【誤】

軍機処の設置は1729年、雍正帝の時代です。

④【誤】

中国が関税自主権を回復したのは1930年代で、中華民国の時代です。清朝は南京条約以来の不平等条約に縛られたままでした。

問6:正解 ④(解答番号6/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 ウ に入れる人物の名あ・いと、下線部ⓒ「ある宣言」の内容の一部を示す資料X・Yとの組合せを選ぶ問題です。ウ は「1935年に中国共産党によってある宣言が出された後、率いる部隊があの建物を襲い、そこに滞在していた蔣介石を捕らえた」人物です。

<考え方>

蔣介石を捕らえた事件は西安事件(1936年)です。その実行者を確定し、あわせて1935年に中国共産党が出した宣言の内容を選びます。

<選択肢>

あ(張作霖)【誤】

張作霖は奉天派の軍閥で、1928年に日本の関東軍によって列車ごと爆殺されています(張作霖爆殺事件)。1936年の西安事件の時点ではすでに世を去っています。

い(張学良)【正】

張作霖の子で、東北の軍を引き継ぎました。抗日を優先すべきだと考え、1936年12月に西安で蔣介石を捕らえて内戦停止と抗日を迫りました(西安事件)。会話文の「共産党と国民党が接近するきっかけになった」という指摘とも一致します。

X【誤】

中国人民政治協商会議の第1回全体会議は1949年9月、中華人民共和国建国の直前に開かれたものです。1935年の宣言ではありません。

Y【正】

1935年に中国共産党が出した八・一宣言(抗日救国宣言)の内容です。内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を呼びかけたもので、西安事件を経て第2次国共合作へとつながりました。

④【正】

したがって い―Y の組合せになります。

第2問

配点28。君主を中心とする秩序のあり方がテーマで、この試験の最大の大問です。Aはハンガリー王国の王冠、Bはインドのヴィジャヤナガル王国、Cは1439年にシャルル7世が出した王令。Cは資料の条文を読み取る設問が中心です。

問1:正解 ④(解答番号7/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓐ「ハンガリー王国」の歴史について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

ハンガリーの近現代史を年表にして、選択肢の出来事が本当にハンガリーのものかを確かめます。似た名前の人物・条約に注意します。

<選択肢>

①【誤】

1848年革命の際にハンガリーで独立政府を率いたのはコシュートです。コシューシコは18世紀末にロシアに対する蜂起を指導したポーランドの人物で、名前が似ていますが別人・別の国です。

②【誤】

ハンガリーの第一次世界大戦の講和条約はトリアノン条約(1920年)です。ヌイイ条約はブルガリアとの講和条約です。

③【誤】

ミュンヘン会談(1938年)でズデーテン地方をドイツに割譲させられたのはチェコスロヴァキアです。

④【正】

1956年のハンガリー事件(ハンガリー動乱)です。首相ナジ=イムレがワルシャワ条約機構からの脱退と中立化を表明したのに対し、ソ連軍が介入して政権を倒し、ナジは処刑されました。

問2:正解 ①(解答番号8/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓑ「代々の国王」に関連して、ヨーロッパにおける君主について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

王朝の名前、称号、継承の順序といった基本事項が問われています。一語ずつずらされているので、細かく確認します。

<選択肢>

①【正】

1848年の二月革命後に大統領となったルイ=ナポレオンは、1851年のクーデタを経て、1852年の国民投票(人民投票)で圧倒的な支持を得て皇帝ナポレオン3世となりました(第二帝政)。

②【誤】

カール=マルテルの子ピピン(小ピピン)が開いたのはカロリング朝です。メロヴィング朝はそれ以前の王朝で、ピピンはその最後の王を廃して王位に就きました。

③【誤】

カール4世の金印勅書(1356年)は、7人の選帝侯による皇帝選挙の手続きを正式に定めたものです。廃止したのではなく、確定させました。

④【誤】

1871年に成立したドイツ帝国の皇帝位を兼ねたのはプロイセン王です。ザクセン選帝侯ではありません。

問3:正解 ①(解答番号9/配点3)

<問題要旨>

前の文章から読み取れる内容あ・いと、空欄 ア に入れる人物について述べた文X・Yとの組合せを選ぶ問題です。ア はマリア=テレジアの息子と説明されています。

<考え方>

あ・いは本文に書いてあることと照らし合わせるだけです。ア はヨーゼフ2世と決まるので、その事績としてX・Yのどちらが正しいかを判定します。

<選択肢>

あ【正】

本文に「18世紀に、男子の継承者が見込めない状況で、マリア=テレジアがハンガリー王に即位することができた」とあります。「聖イシュトヴァーンの王冠」を女性が継承した例にあたります。

い【誤】

本文では、王冠が「聖イシュトヴァーンの王冠」と呼ばれるようになったのが13世紀以降、ハプスブルク家の人物が国王に即位したのは16世紀とされています。ハプスブルク家が継承したのは13世紀ではありません。

X【正】

マリア=テレジアの息子ヨーゼフ2世は、典型的な啓蒙専制君主として宗教寛容令(1781年)と農奴解放令を発しました。ただし急進的な改革は貴族の激しい抵抗を招き、本文の「貴族の激しい抵抗に直面することとなった」という記述と合致します。

Y【誤】

フランス王フランソワ1世と対立したのは神聖ローマ皇帝カール5世です(イタリア戦争)。16世紀の出来事で、ヨーゼフ2世より200年以上前です。

①【正】

したがって あ―X の組合せになります。

問4:正解 ④(解答番号10/配点4)

<問題要旨>

下線部ⓒ「インド洋の海路」に関連して、文あ・いと、本文で言及されている「シャー=ルフによる使節派遣」を含めて、年代の古いものから順に配列する問題です。あは「ヴァスコ=ダ=ガマが、カリカットに到達した」、いは「チョーラ朝が、東南アジアに遠征した」。

<考え方>

三つの出来事の年代を確定します。シャー=ルフはティムールの子で、ウルグ=ベクの父にあたる人物です。

<選択肢>

い【—】

チョーラ朝は南インドのタミル系王朝で、11世紀にシュリーヴィジャヤなど東南アジアへ海上遠征を行いました。

シャー=ルフによる使節派遣【—】

シャー=ルフはティムール朝の第3代君主(在位1409〜47年)です。使節派遣は15世紀前半にあたります。

あ【—】

ヴァスコ=ダ=ガマがインド西岸のカリカットに到達したのは1498年です。

④【正】

古い順に、い(11世紀)→ シャー=ルフによる使節派遣(15世紀前半)→ あ(1498年)となります。

問5:正解 ③(解答番号11/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 イ に入れる王朝または国の名う・えと、下線部ⓓ「イクター制」に関する説明として最も適当な文X・Yとの組合せを選ぶ問題です。イ は「鄭和の遠征を経て交易拠点として発展した東南アジアの」国で、「君主がイスラーム教に改宗した」と説明されています。

<考え方>

イ は「鄭和の遠征」「東南アジア」「君主がイスラーム改宗」の三つで決まります。イクター制は西アジアの土地制度で、何を与える制度だったかを思い出します。

<選択肢>

う(パガン朝)【誤】

パガン朝はビルマ(ミャンマー)の王朝(11〜13世紀)で、上座部仏教を保護しました。イスラーム教への改宗はしておらず、鄭和の遠征(15世紀前半)よりも前に滅んでいます。

え(マラッカ王国)【正】

マラッカ王国は鄭和の遠征を機に明の保護を受けて発展し、15世紀に君主がイスラーム教に改宗して、東南アジアにおけるイスラーム化の中心となりました。

X【正】

イクター制は、ブワイフ朝が始めセルジューク朝が広めた制度で、軍人に俸給の代わりとして一定地域の徴税権を与えるものです。本文にある「イクター制に類似した制度」がヴィジャヤナガル王国で施行されたという記述と対応します。

Y【誤】

奴隷を用いた大規模な農場経営はプランテーションの説明です。イクター制とは関係がありません。

③【正】

したがって え―X の組合せになります。

問6:正解 ②(解答番号12/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 ウ に入れる語句として最も適当なものを選ぶ問題です。ヴィジャヤナガル王の称号の一つに「ヒンドゥー王たちの中のスルタン」と訳せるものがあり、本文の方針を踏まえてこの称号が何を意味するかを推測します。

<考え方>

本文は「歴代の王たちは、ムスリム中心の地域から文化や制度を選択的に取り入れ、独自のやり方で用いる方針を採っていた」とまとめています。称号もその方針の表れとして読むのが筋です。

<選択肢>

①【誤】

ヴィジャヤナガル王国はデリー=スルタン朝と対抗しましたが、これを滅ぼしてはいません。デリー=スルタン朝最後のロディー朝を倒したのはバーブル(ムガル帝国)です。

②【正】

「スルタン」はムスリム君主の称号です。それをヒンドゥー教徒の王が自らに用い、「ヒンドゥー王たちの中のスルタン」と称したのは、ムスリム世界の権威ある称号を借りて、インドの諸王の中で自分が抜きん出た存在であることを示そうとしたものと読めます。本文の「選択的に取り入れ、独自のやり方で用いる」という方針そのものです。

③【誤】

アッバース朝は1258年にモンゴルによって滅ぼされており、ヴィジャヤナガル王国の成立(14世紀)より前に存在しません。

④【誤】

「スルタン」はイスラーム世界の称号であり、ヒンドゥー教の権威を借りたものではありません。

問7:正解 ②(解答番号13/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 エ の戦争がフランスとイングランドとの間で起こった原因について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。エ は「戦いの初期はイングランド軍が優勢であったが、最終的にはイングランド王の大陸所領はカレーのみとなる」戦争です。

<考え方>

エ は百年戦争(1339〜1453年)です。開戦の原因として、王位継承問題と経済的な利害の二つを押さえます。

<選択肢>

①【誤】

イングランド王家(プランタジネット家)がフランスに持っていた所領はギエンヌ(ギュイエンヌ)など南西部です。東部ではありません。

②【正】

フランドル地方はイングランド産羊毛を原料とする毛織物工業の中心地で、イングランドにとっては最大の輸出先、フランスにとっては王権を及ぼしたい地域でした。この経済的な利害の対立が、百年戦争の重要な原因の一つです。

③【誤】

断絶したのはカペー朝です(1328年)。ヴァロワ朝はその後を継いだ王朝で、イングランド王エドワード3世はカペー朝の血縁を理由にフランス王位継承権を主張しました。

④【誤】

重商主義政策がとられたのは17〜18世紀の絶対王政期です。百年戦争より300年ほどあとの話です。

問8:正解 ③(解答番号14/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓔ「フランスでの絶対王政(絶対主義)」の体制下で即位した国王たちの治世に起こった出来事について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

フランスの絶対王政はおおむねアンリ4世からルイ16世まで、16世紀末から18世紀末までの時期です。選択肢の出来事がこの範囲に入るかを見ます。

<選択肢>

①【誤】

トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)は、フランク王国の宮宰カール=マルテルがウマイヤ朝軍を破った戦いです。絶対王政より900年近く前です。

②【誤】

第3回十字軍(1189〜92年)に参加したフランス王はフィリップ2世です。12世紀の出来事です。

③【正】

フランスは1635年、宰相リシュリューの主導で三十年戦争に介入しました。カトリック国でありながらハプスブルク家に対抗するためプロテスタント側について参戦したもので、ルイ13世の治世、まさに絶対王政の確立期にあたります。

④【誤】

総裁政府が倒れて統領政府が成立したのは1799年のブリュメール18日のクーデタです。フランス革命によって絶対王政はすでに倒れています。

問9:正解 ①(解答番号15/配点3)

<問題要旨>

前の文章を参考にしつつ、資料から読み取れる内容あ・いと、この資料の内容を受けて起こった出来事X・Yとの組合せを選ぶ問題です。資料は1439年にシャルル7世が出した王令の一部です。

<考え方>

あ・いは資料の条文と突き合わせます。X・Yは、王令が出された1439年より後の出来事かどうかがまず問われます。

<選択肢>

あ【正】

資料の第一段落に「国王によって選任されたいずれかの隊長の下でなければ、そして彼に命じられた人数内でなければ、何人も武装したり、いずれかの隊長などの部隊に加わってはならない」とあります。読み取りとして正しい記述です。

い【誤】

資料の第二段落は「国王から与えられた権限や許可もなく、自分の所領に保護税を課してはならない」と、まさにその逆を禁じています。

X【正】

この王令の後、シャルル7世は軍事改革を進めて勅令部隊と呼ばれる常備軍を創設しました。貴族が私兵を持つことを禁じ、国王だけが軍隊を持つようにしたことが、本文の「フランスでの絶対王政を支える組織の発展」につながります。

Y【誤】

三部会が初めて招集されたのは1302年、フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世と対立したときです。1439年の王令より130年以上前の出来事で、「この資料の内容を受けて起こった」ものではありません。

①【正】

したがって あ―X の組合せになります。

第3問

配点18。人の移動の歴史がテーマです。Aは朝鮮王朝から明への使節が陸路から海路に切り替わった事情、Bは歴史家ブローデル『地中海』を用いた授業。なお公開されている問題PDFでは、Bで使う図(ヴェネツィアへ書簡が届くまでの日数を示した等時線の図)は著作権上の理由で省略されています。ここでは距離と本文の記述から筋道を追える形で説明します。

問1:正解 ①(解答番号16/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 ア の国の歴史について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。ア は「1621年、後に清と国号を改めた」国で、遼陽を占領したと説明されています。

<考え方>

ア は後金です。ヌルハチが建て、その子ホンタイジが国号を清と改めました。

<選択肢>

①【正】

後金は1616年にヌルハチによって建てられました。ヌルハチは女真(のちの満洲)諸部を統一し、八旗を編成して1621年に遼陽を占領します。

②【誤】

骨品制は新羅の身分制度です。

③【誤】

パスパ文字はフビライがチベット仏教僧パスパにつくらせた文字で、元の時代のものです。

④【誤】

渤海を滅ぼしたのは遼(契丹)です(926年)。

問2:正解 ①(解答番号17/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓐ「明の朝貢国」の歴史について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

明は1368年から1644年までの王朝です。その期間に存在し、かつ明に朝貢していた国の出来事かどうかで判定します。

<選択肢>

①【正】

琉球王国は明への朝貢によって中継貿易で栄えました。1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて服属し、以後は日本と中国の両方に従う「両属」の状態となりますが、明・清への朝貢は続きました。明の時代の出来事として合致します。

②【誤】

シャイレンドラ朝がボロブドゥールを建てたのは8〜9世紀で、明の成立より500年以上前です。

③【誤】

コンバウン朝(1752〜1885年)がイギリスとの戦争(ビルマ戦争)で滅んだのは1885年で、明はすでに滅亡しています。

④【誤】

ベトナムの黎朝は明の支配を退けて独立した後、むしろ儒学(朱子学)を国の学問として重んじました。禁じてはいません。

問3:正解 ④(解答番号18/配点3)

<問題要旨>

図中に示した、賀登極使呉允謙の出発地の都市の位置 a〜c と、その目的地の都市の歴史について述べた文あ・いとの組合せを選ぶ問題です。

<考え方>

出発地は「自国の都」なので朝鮮王朝の都、目的地は「明の都」です。地図では、鴨緑江の河口にある義州を基準に、朝鮮半島を南へ下る形で a・b・c が並んでいます。

<選択肢>

a【誤】

義州のすぐ南東、朝鮮半島の北部にあたります。平壌のあたりで、都ではありません。

b【正】

半島がくびれる位置の西側にあり、漢城(現在のソウル)にあたります。朝鮮王朝の都です。義州が北緯40度付近、半島南端が北緯34度台であることを踏まえると、北緯37度台にあたるのが b です。

c【誤】

半島の南東部にあたり、慶州や釜山のあたりです。

あ【誤】

太平天国の都(天京)が置かれたのは南京です。明の都は洪武帝の時代には南京でしたが、永楽帝が北京へ遷都しており、1622年の使節が目指した「明の都」は北京です。

い【正】

元の都である大都が置かれたのが現在の北京です。明の永楽帝はここを北京として都を移しました。

④【正】

したがって b―い の組合せになります。

問4:正解 ④(解答番号19/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓑ「北イタリアの諸都市の商人が、それぞれの都市を拠点に広く活動し、またムスリム商人も、地中海を含め、広範囲に活躍していた」について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

中世の東方貿易とムスリム商人の交易圏についての設問です。商品の種類、十字軍の主導者、都市の位置がそれぞれ狙われています。

<選択肢>

①【誤】

イタリア諸都市の東方貿易(レヴァント貿易)の主力商品は、香辛料・絹織物・宝石といった奢侈品です。木材などの生活必需品ではありません。

②【誤】

第4回十字軍(1202〜04年)がコンスタンティノープルを攻撃したのは、ヴェネツィア商人の要求によるものです。ジェノヴァではありません。

③【誤】

トンブクトゥはニジェール川流域にある都市で、マリ王国・ソンガイ王国のもとで岩塩と金の交易で栄えました。ザンベジ川流域ではありません。

④【正】

マリンディ、ザンジバル、モンバサ、キルワといったアフリカ東岸の港市は、ムスリム商人によるインド洋交易の拠点として栄えました。この交易を通じてスワヒリ語やイスラーム文化が広まりました。

問5:正解 ①(解答番号20/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓒに関連して、図で扱った時期(15世紀末から16世紀前半)において、図中の a〜c のいずれかの都市で起こった出来事あ・いと、その都市からヴェネツィアに送られる書簡の到着に要する平均期間V〜Xとの組合せを選ぶ問題です。Vは1週間未満、Wは1週間以上2週間未満、Xは2週間以上です。

<考え方>

まず、あ・いがそれぞれどの都市の出来事かを特定します。その都市とヴェネツィアとの距離を考えれば、書簡の所要日数のおおよその区分が決まります。会話文にある「イスタンブルからヴェネツィアまでが平均5週間余り」という値が、距離と日数の目安になります。

<選択肢>

あ【—】

『君主論』を著したマキャヴェリが、メディチ家の拠点であるこの都市を中心に活躍した、とあるのでフィレンツェです。マキャヴェリはフィレンツェ共和国の書記官を務めました。

い【—】

ユーグ=カペーが王朝(カペー朝)を開いた都市なのでパリです。ただしユーグ=カペーの即位は987年で、「図で扱った時期(15世紀末から16世紀前半)において起こった出来事」という条件から外れます。

①【正】

条件を満たすのは あ(フィレンツェ)です。フィレンツェとヴェネツィアはどちらも北イタリアにあり、直線距離でおよそ250 kmしか離れていません。イスタンブルまでの約2000 kmで5週間余りかかっていたことから逆算しても、フィレンツェからの書簡は1週間未満(V)で届いたと考えられます。

②〜⑥【誤】

② ③ は あ に対する期間の区分が長すぎます。④ ⑤ ⑥ は い(パリ)を選んでいますが、上に述べたとおり出来事の時期が図の対象時期に当たりません。

問6:正解 ⑥(解答番号21/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 イ に入れる語う〜おと、空欄 ウ に入れる文Y・Zとの組合せを選ぶ問題です。イ は「スペインとヴェネツィアなどからなるヨーロッパ諸国の連合艦隊がオスマン帝国の艦隊を打ち破った」海戦です。

<考え方>

イ は海戦の名を三つから選びます。ウ は、その海戦の結果として力関係がどう動いたかという、やや踏み込んだ理解が問われます。

<選択肢>

う(アクティウム)【誤】

アクティウムの海戦は前31年、オクタウィアヌスがアントニウスとクレオパトラの連合軍を破った戦いです。古代ローマの出来事です。

え(プレヴェザ)【誤】

プレヴェザの海戦(1538年)は、逆にオスマン帝国のバルバロス=ハイレディンがスペイン・ヴェネツィア・教皇の連合艦隊を破った戦いです。勝敗が逆になります。

お(レパント)【正】

レパントの海戦(1571年)です。スペインのフェリペ2世が主導し、ヴェネツィア・教皇と結んだ連合艦隊がオスマン帝国艦隊を破りました。

Y【誤】

レパントの海戦は華々しい勝利でしたが、オスマン帝国は翌年までに艦隊を再建し、1573年にはキプロス島の領有を認めさせています。ヨーロッパ諸国が地中海全域の制海権を握ったわけではありません。

Z【正】

上のとおり、この海戦の後もしばらくはオスマン帝国の優位が続きました。ブローデルが『地中海』で強調したのも、この戦いが「決定的な転換点」とは言えないという見方です。

⑥【正】

したがって お―Z の組合せになります。

第4問

配点18。「資料の内容だけでなく、作成者が生きた時代や立場も考慮する」という視点が主題です。Aはインド総督カーゾンがアフガニスタンについて書いた文章、Bはモンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』を論じた文章。どちらも「誰が、どの立場から書いたのか」を意識して読むと答えが見えます。

問1:正解 ③(解答番号22/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓐ「ロシアのくびき」について、著者はなぜロシアの歴史を踏まえたこの表現を用いたのか、その背景を説明する文章中の空欄 ア に入れる語あ・いと、著者がこの表現を用いた意図として考えられる事柄X・Yとの組合せを選ぶ問題です。

<考え方>

「くびき」はロシア史の有名な言い回しから来ています。あわせて、著者カーゾンがイギリス側の人物であることを踏まえて意図を判断します。

<選択肢>

あ(ノルマン人)【誤】

ノルマン人(ルーシ)はノヴゴロド国・キエフ公国の建国に関わりましたが、それは9世紀のことで、「支配されていた歴史」として揶揄の対象になる出来事ではありません。

い(モンゴル)【正】

13〜15世紀、ロシアはキプチャク=ハン国の支配下に置かれました。これをロシア側は「タタールのくびき」と呼びます。本文の「14世紀にロシアが支配されていた歴史を揶揄しつつ」という説明とも合致します。

X【正】

著者はイギリスのインド総督となる人物です。本文にも「資料がイギリス本位の記述になっていることには注意を要する」「イギリス側が過度に警戒していたことがうかがえる」とあります。かつて自分たちが受けた「くびき」を今度はアフガニスタンに押し付けようとしている、という含みでロシアを批判したものと読めます。

Y【誤】

資料は「ロシアの進出が併合そのものを意味する」と述べ、イギリスは「アフガンの自由に干渉しようと望んでいない」と対比しています。ロシアを容認する意図はまったく読み取れません。

③【正】

したがって い―X の組合せになります。

問2:正解 ②(解答番号23/配点3)

<問題要旨>

前の文章に見られる、イギリスのロシアに対する態度の背景になったと考えられる19世紀の出来事について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

本文の「19世紀のグレートゲーム」「南下して中央アジアへの支配を進めるロシア」という記述が手がかりです。19世紀の出来事であること、中央アジアに関わることの二つで絞ります。

<選択肢>

①【誤】

三国干渉(1895年)は19世紀の出来事ですが、東アジアの遼東半島をめぐるもので、アフガニスタンをめぐるグレートゲームの背景としては直接結び付きません。

②【正】

ロシアは1860〜70年代に中央アジアへ本格的に南下し、ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国を保護国とし、1876年にコーカンド=ハン国を併合しました。この南下がインドに迫ることを、イギリスは強く警戒しました。まさにグレートゲームの背景です。

③【誤】

ロシアがバルト海に進出してペテルブルクを建設したのはピョートル1世の時代(18世紀初頭)です。

④【誤】

ロシアがクリミア半島をオスマン帝国から奪ったのは1783年、エカチェリーナ2世の時代で18世紀の出来事です。

問3:正解 ④(解答番号24/配点3)

<問題要旨>

アフガニスタンの歴史について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

アフガニスタンの地に興った国や文化を、古い順に並べて確認します。自立した相手や時代の取り違えが狙われています。

<選択肢>

①【誤】

ガズナ朝が自立したのはサーマーン朝からです(10世紀末)。セルジューク朝はガズナ朝より後に台頭し、逆にガズナ朝を破ってホラーサーンを奪っています。

②【誤】

バクトリアが自立したのはセレウコス朝からです(前255年ごろ)。アケメネス朝はその前にアレクサンドロス大王に滅ぼされています。

③【誤】

クシャーナ朝(1〜3世紀)はカニシカ王のもとで仏教を保護し、ガンダーラ美術が栄えました。トルコ=イスラーム文化が発展するのは10世紀以降で、時代が大きく違います。

④【正】

1979年にソ連軍がアフガニスタンに侵攻しました。これに対するムジャーヒディーンの抵抗が続き、ソ連は1989年に撤退します。

問4:正解 ①(解答番号25/配点3)

<問題要旨>

前の文章には、ローマで独裁官または皇帝となった複数の人物が出てきます。そのいずれかの人物の事績について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

本文に登場するのはカエサル、アウグストゥス、ディオクレティアヌスの三人です。この三人のいずれかの事績かどうかを確かめます。

<選択肢>

①【正】

カエサルは前58年からガリア遠征を行い、その記録を『ガリア戦記』として著しました。本文でも「カエサルに代表される特定の人物に権力が集中した」と言及されています。

②【誤】

アントニウスが結んだのはプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラです。セレウコス朝ではありません(前31年のアクティウムの海戦でオクタウィアヌスが勝利しました)。

③【誤】

帝国内の全自由人にローマ市民権を与えたのはカラカラ帝(212年、アントニヌス勅令)で、本文には登場しません。

④【誤】

ディオクレティアヌスの四帝分治制(テトラルキア)は、正帝2人・副帝2人の計4人で統治する体制です。「4人の正帝」ではありません。

問5:正解 ③(解答番号26/配点3)

<問題要旨>

前の文章では、ローマの衰退の原因が複数言及されています。そのいずれかの背景として推測される歴史上の出来事について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

本文が挙げる衰退の原因は、(1)無産市民の軍への動員と将軍への権力集中、(2)軍隊が皇帝の地位を左右したこと、(3)重税による富裕層の弱体化、(4)軍隊への異民族の利用、です。これらの背景にあたる出来事を選びます。

<選択肢>

①【誤】

第1回三頭政治を結んだのはポンペイウス・カエサル・クラッススです。レピドゥスはオクタウィアヌス・アントニウスとともに第2回三頭政治を結んだ人物で、組合せが誤っています。

②【誤】

軍艦の漕ぎ手として参加した無産市民の発言力が高まったのは、古代アテネの話です(サラミスの海戦後、民主政が完成する背景となりました)。ローマの衰退とは関係がありません。

③【正】

本文の「軍隊が皇帝の地位をも左右する力を持つようになったことで、軍人皇帝時代の混乱が生じた」に対応します。3世紀の軍人皇帝時代には、帝国各地の軍団がそれぞれ自分たちの司令官を皇帝に擁立し、約50年間に20人以上の皇帝が乱立しました。

④【誤】

本文は「ディオクレティアヌス以降は、軍隊の維持費のために重税が課されたため、政治を担っていた富裕層が弱体化した」と述べています。重税の対象として本文が挙げているのは政治を担う富裕層であって、「農村」ではありません。

問6:正解 ②(解答番号27/配点3)

<問題要旨>

前の文章を参考にしつつ、『ローマ人盛衰原因論』の著者について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。

<考え方>

本文に「この評価は、彼の後の著作『法の精神』に通じる」とあります。『法の精神』の著者が誰かを思い出せば決まります。

<選択肢>

①【誤】

王権神授説を唱えたのはボシュエやフィルマーです。モンテスキューはむしろ権力の集中を批判しました。

②【正】

『ローマ人盛衰原因論』(1734年)と『法の精神』(1748年)の著者はモンテスキューで、18世紀フランスの代表的な啓蒙思想家です。本文末尾の「歴史を論理的に説明しようとする著者の姿勢は、彼が生きていた時代に隆盛した思想潮流を反映している」という一文も、啓蒙思想を指しています。

③【誤】

「国際法の祖(国際法の父)」と呼ばれるのはグロティウスです。

④【誤】

フランス第三共和政は1870年に成立したもので、モンテスキュー(1689〜1755年)の没後100年以上あとの体制です。

第5問

配点18。世界史上の人権侵害や差別がテーマです。Aはダッハウ強制収容所跡の展示をめぐる会話、Bはアメリカ合衆国のキューバ支配を描いた風刺画を用いた授業。なお公開されている問題PDFでは、Bで用いる風刺画は著作権上の理由で省略されています。会話文に画の内容が丁寧に説明されているので、そこから読み取れます。

問1:正解 ②(解答番号28/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 ア と イ に入れる語の組合せとして正しいものを選ぶ問題です。ア は「『労働を通じた矯正』という初期の段階の背景」にある法で、「この法の制定をきっかけに、他の政党が排除されていき、イ が確立した」と説明されています。

<考え方>

ダッハウ収容所は「ナチ政権の成立と同年」(1933年)に開設されました。同じ1933年に成立し、他党の排除につながった法を選びます。

<選択肢>

ア=全権委任法【正】

1933年3月に成立した全権委任法(授権法)です。政府に立法権を与えるもので、これにより議会は無力化し、7月には他の政党がすべて解散させられて一党支配が完成しました。ダッハウ収容所の開設(1933年3月)はまさにこの過程と重なります。

ア=社会主義者鎮圧法【誤】

社会主義者鎮圧法はビスマルクが1878年に制定したもので、時代が55年ずれています。

イ=独裁体制【正】

他の政党が排除されて成立したのは独裁体制です。

イ=民主主義体制【誤】

他党を排除した先に民主主義体制が確立することはありません。

②【正】

したがって ア―全権委任法、イ―独裁体制 の組合せになります。

問2:正解 ④(解答番号29/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓐ「移動の自由や職業選択の自由などの人権が制限された労働」に関連して、移動の自由や職業選択の自由を含む人権の歴史について述べた文として誤っているものを選ぶ問題です。

<考え方>

「誤っているもの」を選ぶ設問です。三つは正しいので、年代の前後関係が入れ替わっているものを探します。

<選択肢>

①【正しい】

国際労働機関(ILO)は1919年、ヴェルサイユ条約に基づいて国際連盟に付置されました。労働条件の改善を目的とする機関です。

②【正しい】

日本国憲法は1946年11月3日に公布され、基本的人権の尊重を三大原則の一つに掲げています。

③【正しい】

ドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国は1949年、ベルリンの壁の構築は1961年で、順序も正しい記述です。

④【誤り】

順序が逆です。南アフリカ共和国が成立したのは1961年(イギリス連邦を脱退して共和国化)で、アパルトヘイトが法的に撤廃されたのは1991年、全人種参加の選挙でマンデラ政権が誕生したのが1994年です。

問3:正解 ③(解答番号30/配点3)

<問題要旨>

グラフ(ナチ強制収容所に収容されていた人数)を基に学生がまとめたメモ中の空欄 ウ に入れる文として最も適当なものを選ぶ問題です。メモは「『ガス殺などを通じた絶滅』の段階は、巨大な収容所が本格的に稼働した時期と一致し、大量死が生じた。この時期についてグラフから分かるのは、ウ ことである」と述べています。

<考え方>

まず「絶滅」の段階がいつ始まったかを会話文から特定し、次にその後の収容人数がグラフでどう動いているかを読み取ります。二つの要素の組合せで決まります。

<選択肢>

①②(オーストリア併合時)【誤】

会話文で秋山さんが「スターリングラードの戦いで知られる東部での戦争が開始されると…『ガス殺などを通じた絶滅』が実行されました」と述べています。東部での戦争、つまり独ソ戦(1941年6月開始)が起点です。オーストリア併合(1938年3月)は、その前の「労働を通じた殺戮」の段階にあたります。

③【正】

グラフでは独ソ戦開戦後、42年春の約7万人から、42年8月に約11万人、43年8月に約22万人、44年8月に約52万人、45年1月に約71万人へと収容者数が増え続けています。「絶滅」段階に入ったにもかかわらず人数が増えているという、会話文が言う「矛盾した状況」がグラフに表れています。

④【誤】

グラフの向きが逆です。減少ではなく増加しています。

問4:正解 ①(解答番号31/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 エ の戦争後の、ラテンアメリカにおけるアメリカ合衆国の影響拡大について述べた文として最も適当なものを選ぶ問題です。エ は「これをきっかけにアメリカ合衆国はキューバを保護国化した」戦争です。

<考え方>

エ はアメリカ=スペイン戦争(米西戦争、1898年)です。その後の出来事かどうか、そしてラテンアメリカでの影響拡大にあたるかどうかで判定します。

<選択肢>

①【正】

アメリカはコロンビアからのパナマ独立を支援して1903年に運河地帯の権利を得て、1914年にパナマ運河を開通させました。セオドア=ローズヴェルトの「棍棒外交」の代表例で、米西戦争後のカリブ海政策そのものです。

②【誤】

アメリカがメキシコからカリフォルニアを獲得したのはアメリカ=メキシコ戦争の結果で、1848年のことです。米西戦争より50年前です。

③【誤】

プエルトリコは米西戦争の結果アメリカに割譲された地域で、独立していません(現在もアメリカの自治領です)。

④【誤】

相互の勢力圏を定めた条約をポルトガルと結んだのはスペインで、1494年のトルデシリャス条約です。アメリカ合衆国が成立するはるか前の出来事です。

問5:正解 ②(解答番号32/配点3)

<問題要旨>

文章中の空欄 オ に入れる語あ・いと、空欄 カ に入れる語句X・Yとの組合せを選ぶ問題です。オ は「海外に植民地を獲得する対外政策を採っていた」時期を指し、カ は「当時の欧米諸国には、カ 義務があるという考えがありました」という文脈です。

<考え方>

オ は対外政策の呼び名、カ は当時の欧米諸国が植民地支配を正当化するために持ち出した論理です。会話文の「ウッド将軍は、キューバに自分たちの文明を広げようとしている」という説明が、そのままカ の手がかりになります。

<選択肢>

あ(帝国主義)【正】

19世紀末から20世紀初頭にかけて、欧米列強が競って海外に植民地を獲得した政策・時代を帝国主義といいます。

い(孤立主義)【誤】

孤立主義はヨーロッパの紛争に関与しないというアメリカの伝統的な外交姿勢で、「海外に植民地を獲得する対外政策」とは正反対です。

X【誤】

植民地を経済的に自立させることは、宗主国の利益に反します。当時の欧米諸国がそのような「義務」を唱えた事実はありません。

Y【正】

「文明化の使命」と呼ばれる考え方です。自分たちの文明は優れており、それを未開の地に広めることが義務である、として植民地支配を正当化しました。会話文の、入浴させることでキューバに文明を広げようとするウッド将軍の姿と重なります。

②【正】

したがって あ―Y の組合せになります。

問6:正解 ④(解答番号33/配点3)

<問題要旨>

下線部ⓑ「他の人種・民族には自分たちの文明を受容する能力がない」に関連して、アメリカ合衆国における差別やその解消について述べた文として誤っているものを選ぶ問題です。

<考え方>

「誤っているもの」を選ぶ設問です。移民、先住民、黒人という三つの領域が扱われています。とくに「法的な平等」がいつ実現したのかに注意します。

<選択肢>

①【正しい】

19世紀後半以降に増えた東欧・南欧出身の移民は「新移民」と呼ばれ、先に定着していた西欧・北欧系の「旧移民」から差別を受けました。

②【正しい】

西海岸に流入した中国人労働者に対して排斥運動が高まり、1882年に中国人移民禁止法(排華移民法)が制定されました。

③【正しい】

1830年の強制移住法(インディアン強制移住法)により、チェロキーなどの先住民はミシシッピ川以西の保留地へ追放されました(「涙の道」)。

④【誤り】

南北戦争後、憲法修正第13条で奴隷制は廃止されましたが、南部では19世紀末からジム=クロウ法と総称される人種隔離法が次々に制定されました。1896年のプレッシー対ファーガソン判決は「分離すれども平等」としてこれを合憲としており、20世紀初頭に法的な平等が獲得されたとは言えません。実際に是正が進むのは1950〜60年代の公民権運動を待つことになります。

※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

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