2025年度 大学入学共通テスト 本試験「国語」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。
解答
解説
2025年度の共通テスト国語は、200点満点・試験時間90分、大問5つ・解答番号は38か所です。大問ごとの配点は第1問45点・第2問45点・第3問20点・第4問45点・第5問45点となっています。2025年度から第3問(実用的な文章、20点)が新たに加わり、4大問・80分から5大問・90分に変わりました。
第1問は観光社会学の評論で、観光における「見る」ことと「する」ことの関係を論じた文章です。第2問は小説で、幼い「わたし」が、親戚から厄介者扱いされる「おじさん」の小屋に通った記憶が語られます。第3問は実用的な文章で、生徒がまとめた文章と、外来語に関する意識調査・言い換え提案・二時点の比較調査という三つの資料を組み合わせた設問です。第4問は古文で、『在明の別』と『源氏物語』若菜下の巻を読み比べます。第5問は漢文で、『論語』の一節とその注釈、さらに注釈者の弟子による読書論を読み比べます。
第1問・第2問では、本文の語句がそのまま入っている選択肢が誤答として置かれています。語句が本文にあるかどうかではなく、本文の記述の順序・因果に合うか、傍線部そのものの言い換えになっているかで切る必要があります。第3問は図の数値をそのまま主張の根拠にできるかが問われ、生まれた年を基準に同じ世代が同じ位置に並ぶ図4の読み方が山場です。第4問は二つの作品でもののけの描かれ方がどう違うかを、敬語の向きと人物関係から追います。第5問は返り点と句法(「不如」「莫所不」など)を正確にたどれば決まる設問がそろっています。
第1問
観光社会学の評論を読む問題です。漢字の書き取りに加えて、傍線部A〜Fの内容説明・理由説明が問われます。「見る」ことと「する」こと、まなざしとパフォーマンスという二つの対立軸が本文を貫いており、どの段落の記述に基づく説明なのかを見分けることが中心になります。
問1:正解(ア)③ (イ)② (ウ)② (エ)④ (オ)①
<問題要旨>
傍線部(ア)〜(オ)のカタカナに相当する漢字を含むものを、各群の①〜④から一つずつ選ぶ同音異字の問題です。
<考え方>
先に傍線部の語を漢字で確定させ、そのうえで選択肢に当てます。(ア)は観光みやげの「手作りザッカ」で雑貨、傍線部の音は「貨」。①価格・②稼動・③外貨・④転嫁のうち貨を含むのは③です。(イ)は「サンサク」で散策、音は「策」。①圧搾・②策謀・③添削・④模索のうち策は②です。(ウ)は「疑問をテイした」で呈する。①音程・②贈呈・③世間体・④前提のうち呈は②です。(エ)は「パフォーマンス的転回によってイッソウされたのではなく」で一掃。①改装・②荘厳・③捜査・④掃除のうち掃は④です。(オ)は「最もイまわしい存在」で忌まわしい。①禁忌・②鬼気・③危惧・④棄権のうち忌は①です。
問2:正解④
<問題要旨>
傍線部A「観光地住民の『戦略』は常に綱渡りである」がどういうことかを説明させる設問です。
<考え方>
「戦略」の中身は傍線部Aの前の段落に定義があり、観光者が期待し押しつけるイメージに合う役割を住民が再演すること、それによって自らの生活文化を守ることです。そして「綱渡り」の理由は傍線部Aの直後の一文で、観光者は演出に飽き足らず舞台裏を見たがるため、ありのままを見せる生活観光は出口の見えない隘路になり、まなざしが全域化していくと続きます。したがって、演技をするという戦略の中身と、裏側を求められて際限なく見せ続けることになる危険の二つが揃っているかで切れます。傍線部Aの直前に出てくる「おぞましい」「恣意」といった本文の語をそのまま含む選択肢が置かれているので、語の一致で選ばず、傍線部直後の因果に合うかで判定してください。
<選択肢>
①【誤】
観光者のまなざしが所属する社会の制度に規定されるという第1段落の内容を持ち出していますが、そこから「他者の文化の受容を強いられる」という帰結は本文にありません。傍線部Aの理由になっていません。
②【誤】
「恣意」という本文の語を含みますが、「まなざしにもてあそばれる」という説明は本文になく、生活文化を守るという「戦略」の目的も落ちています。
③【誤】
「おぞましい」という本文の語が入っているため選びたくなりますが、「戦略」を「ありのままの現実を見たがる観光者に寄り添おうとする」ものと捉えている点が誤りです。本文の「戦略」は、期待されたイメージを再演する演技のことです。
④【正】
生活文化を守るために期待に応えて演技をするという「戦略」の定義と、演出の裏側まで見ようとする観光者の欲望のために、期待されるものを際限なく生活のなかで見せていくことになるという傍線部直後の因果の両方に合います。
問3:正解③
<問題要旨>
傍線部B「観光において『見る』ことは問題含みであるだけでなく、とくに『する』こととの対比において、価値のないものとみなされてもきた」の説明を選ばせる設問です。
<考え方>
根拠は傍線部Bの直後から次の段落にかけての二つです。一つは、生活者の視点に重きを置く地域研究・観光研究が、覗くために訪れてそそくさと立ち去る観光者を「招かれざる客」と位置づけてきたこと。もう一つは、ブーアスティンが「する」から「見る」への転換を批判し、旅が無意味で空虚な商品に成りさがったとしたことです。この二つが正しく並んでいるかで切れます。
<選択肢>
①【誤】
ブーアスティンが旅人に意味を見出したという点までは近いのですが、結論が「『見る』主体の位置づけに変化が生じた」で止まっており、傍線部の「価値のないものとみなされてきた」の説明になっていません。
②【誤】
「観光で重視すべきは観光地住民の生活を体験することだ」は本文の観光研究の主張ではありません。また「『見る』ことの役割が後退した」では、価値の否定という傍線部の内容とずれます。
③【正】
当事者の視点を重視する観光研究が観光者をよそ者と位置づけたこと、能動的な旅を評価するブーアスティンが「見る」だけの観光を軽薄とみなしたこと、という二つの根拠を正しく押さえています。
④【誤】
観光研究とブーアスティンの見解が「重なる」という関係は本文に書かれていません。また本文でブーアスティンが無意味・空虚としたのは旅そのもののあり方であって、観光者という存在ではありません。
問4:正解②
<問題要旨>
傍線部C「ことはそれほど単純でもない」の理由を選ばせる設問です。ブーアスティンの観光論が後続の研究から理想の旅を求める幻想だと批判されている、という直前の文脈を受けます。
<考え方>
傍線部Cの後ろの二段落が根拠です。まず、表層的な観光への飽き足らなさや批判が現実に観光の形を変え、「見る」観光から「する」観光への転換を生んだこと。次に、観光現象だけでなく観光研究の視座までもが更新を迫られ、身体性やふるまいを重視するパフォーマンス的転回が生じたことです。本文は「研究対象としての観光が変化しただけではない」と述べているので、研究の更新を観光の変化の結果だけに帰する書き方は誤りになります。前半の変化の中身と、研究の更新を並行する出来事として述べているかで切れます。本文にある語(多様な感覚、観光商品など)を含む選択肢が並ぶので、語ではなく因果のつながりで判定してください。
<選択肢>
①【誤】
後半の「多様な感覚との連関において観光を捉える」はパフォーマンス的転回の説明として本文にある語ですが、前半を「人気の観光商品に押し上げる」とする点が本文の記述と合いません。さらに「こうした変化をふまえることで」研究が構想されたという因果は、「変化しただけではない」とする本文と食い違います。
②【正】
覗くだけの観光から観光地社会の実際を体験しようとする観光への転換という前半と、それと並行して観光者のふるまいに注意を向ける形で研究の着眼点が改められたという後半が、いずれも本文の順序と対応します。
③【誤】
後半の「『見る』ことだけで説明できる行為ではない」は本文にある認識ですが、前半の「かつての旅人による能動的な旅を再現する観光を要求する」は本文にありません。新しい観光の中身は体験・交流・学習です。
④【誤】
「観光地に対して観光者が正しくまなざしを向ける方法を探求する観光研究」は本文にない内容です。
問5:正解②
<問題要旨>
傍線部D(アーリとラースンからの引用)と、筆者が同じ表現を再度用いた傍線部Eについて、「ともに踊る」という表現が何を表しているかを選ばせる設問です。
<考え方>
傍線部Dの直前に「『見る』か『する』かの二者択一は不毛」とあり、まなざしと身体(パフォーマンス)が切り離せないことを言う比喩だと分かります。傍線部Eは、渋谷を訪れる若者がまなざしたのは資本が演出する記号だけでなく、それとともに動く身体だったという箇所で、都市を舞台としてイメージと人々の身体が場を作っていることを表します。二つの用例の両方に当てはまり、かつ見る者が同時に行為し見られてもいるという結論に至るものを選びます。
<選択肢>
①【誤】
傍線部Dを研究の視点の話と読むところまでは近いのですが、傍線部Eは若者が何をまなざしたかという場面の描写であって、研究の対象について述べた箇所ではありません。「新しい研究が可能になる」という結論も傍線部Eと結びつきません。
②【正】
傍線部Dをまなざしと観光者の身体の不可分として、傍線部Eを都市を彩るイメージと人々の身体が舞台を形作るものとして説明しており、見る者が行為する存在でもあり他者のまなざしの対象でもあるという結論も両方の文脈に合います。
③【誤】
「他の観光者とともにあることが観光地の価値を高める」は、集合的なまなざしを説明した本文の別の箇所の内容で、傍線部Dの説明ではありません。
④【誤】
「高度なやり取り」は儀礼的無関心を説明した本文の別の箇所の語です。傍線部Dはまなざしとパフォーマンスの関係を言うもので、主役と観客の区別も傍線部D・Eが直接述べている内容ではありません。
問6:正解②
<問題要旨>
傍線部F「観光における『見る/見られる』を考えるうえで、サファリパークは示唆的である」について、本文に示された他の事例との関係で、どのような意味で示唆的なのかを選ばせる設問です。
<考え方>
傍線部Fの直後で、人は車という檻に入って動物のまなざしの対象になり、見ているのはもはや人間ではないと述べられます。一方、本文前半の万国博覧会では植民地住民が「展示」され、見る主体と見られる客体が固定されていました。固定されていた関係が反転する点が「示唆的」の中身です。
<選択肢>
①【誤】
グアムの事例は「文化的なメガネ」を通したまなざしの例ですが、サファリパークの要点は人間の欲望と動物の欲望の違いではなく、見る側が見られる側に転じることです。
②【正】
植民地住民の「展示」では主体と客体が固定されていたのに対し、サファリパークでは見る主体である人間が客体にもなる、という反転を正しく押さえています。
③【誤】
観光研究が観光者をよそ者としたという傍線部B周辺の内容と結びつけていますが、傍線部Fの直後に述べられる、見られる側になるという反転が落ちています。
④【誤】
観光者相互のコミュニケーションは儀礼的無関心を扱った別の箇所の話題であり、傍線部Fの直後の内容ではありません。
第2問
小説を読む問題です。幼い「わたし」が、仕事をして稼がないために親戚から厄介者扱いされる「おじさん」の小屋に通った記憶が語られます。傍線部A〜D・波線部Ⅰ・Ⅱの心情に加えて、母と祖母の姿勢の違いや、表現の特徴も問われます。
問1:正解①
<問題要旨>
傍線部A「音を探すふりをする。心をこめるように爪弾く。」について、「わたし」がおじさんのどのような様子を捉えているかを選ばせる設問です。
<考え方>
傍線部Aの直前に、曲の続きが分からないことは二人ともに分かっている暗黙の了解なのに、おじさんは目を泳がせるとあります。つまり分からないことを取り繕う振る舞いです。「音を探すふり」が続きを思い出そうとする様子を装うこと、「心をこめるように爪弾く」が身を入れて弾くこと、この二点の言い換えになっているかで切れます。
<選択肢>
①【正】
途中までしか弾けないことを取り繕うために、弦を鳴らして曲の続きを思い出そうとしているように見せる、という説明で、傍線部の二文の両方に対応します。
②【誤】
「大切な曲であることを『わたし』に伝える」という目的は本文にありません。傍線部Aの直前は取り繕いの場面です。
③【誤】
「追憶にひたっているかのように」は曲名の「思い出」に引きずられた読みで、「音を探すふり」=続きを思い出そうとする様子の装いを説明できていません。
④【誤】
「体面を失った落胆」「あらためて丁寧に曲を弾こうとし」はいずれも本文に根拠がありません。おじさんは弾き直しているのではありません。
問2:正解④
<問題要旨>
傍線部B「そのとき、わたしのなかでむくむくと目を覚ましたのは、母に似たものだった。」について、このときの「わたし」に起こった心の動きを選ばせる設問です。
<考え方>
傍線部Bの直前で、ステンドグラスの鶴には子どもの目にも欠けたところが見えるのに、おじさんは「悪くないよね」「悪くないでしょ」と肯定を求めています。直後で「わたし」は思ったままを口にし、「いいと思わないものをいいとはいえない」と続きます。目を覚ました「母に似たもの」は、相手に現実を率直に告げる働きなので、肯定を求める相手に感じたことをそのまま伝えようとした、という説明になっているかで切れます。
<選択肢>
①【誤】
おじさんを「情けない」と感じたとする根拠はなく、「反省を迫りたい」という説教の姿勢も傍線部直後の行動と合いません。
②【誤】
おじさんは出来の良さを疑わずに高い評価を期待しているのではなく、肯定してほしいのか本当の意見を待っているのか分からない様子で描かれています。また「相手を傷つけてでも」は、直後に「取り返しのつかないことをした」と感じる「わたし」の心情とずれます。
③【誤】
「いらだち」「失望感」は本文に書かれていない感情です。
④【正】
完成度が高くないのによい評価を求めるおじさんに現実を突きつけたい気持ちが生じ、感じたことを率直に伝えようとした、という説明で、傍線部Bの前後の流れに合います。
問3:正解③
<問題要旨>
本文22行目から27行目(母が声を上げて怒り、祖母がそれに応じる場面)と、51行目から56行目(陶芸を始めたおじさんについて祖母と母が語る場面)の二箇所から、おじさんの生き方に対する母と祖母の姿勢の違いを選ばせる設問です。
<考え方>
母の言葉は、22〜27行目では親に頼って暮らしていることへの怒り、51〜56行目では習わずに我流でやっていては仕事にならないという否定で、いずれもおじさんのしていることの価値を認めず、稼ぐことを求めるものです。一方、祖母は母のいないときに限って器用さを認め、少しは活かせばよいのにと呟いており、素質が仕事に結びついていないことを惜しんでいます。母が祖母に何か言うよう迫る場面も22〜27行目にあるため、そちらを母の姿勢とまとめた選択肢が置かれていますが、設問が問うのは「おじさんの生き方に対する」姿勢なので、ここで切れます。
<選択肢>
①【誤】
母が我流を否定する点は51〜56行目に合いますが、祖母が「いつかは実力を見せるだろうと期待している」とする根拠はありません。祖母の言葉はむしろ諦めと、惜しむ気持ちです。
②【誤】
「家族の負担」という論点は、二箇所のどちらにも出てきません。
③【正】
母がおじさんのしていることの価値を認めず収入を得るよう求めているのに対し、祖母は器用さという素質を認めつつ、それが仕事につながらないことを惜しんでいる、という対比が二箇所の発言に合います。
④【誤】
母が祖母に何か言うよう迫るのは祖母に対する要求であって、おじさんの生き方に対する姿勢の説明になっていません。また祖母は器用さを活かせばよいのにと言っており、叱ることを諦めたという一点にはまとめられません。
問4:正解④
<問題要旨>
波線部Ⅰ(おじさんが曲を弾き終えられないことへの「がっかり」)と、波線部Ⅱ(たくさんのオカリナを見せられた場面の「がっかり」)の違いを選ばせる設問です。
<考え方>
波線部Ⅰは、いつも途中で止まってしまうおじさんに対する「かわいそうだ」という憐れみを含む落胆です。波線部Ⅱは直後に理由が書かれており、自分の手でオカリナを作れるのに、作れない他の大人たちから怒られ続け文句を言われ続けるのか、という落胆です。前者は中途半端さへの憐れみ、後者は作れるのに認められないことへの残念さ、という組合せで切れます。
<選択肢>
①【誤】
波線部Ⅱの理由を「優れた作品を生み出して人を感動させられないため」としている点が誤りです。本文で怒るのは、オカリナを作れない大人たちです。
②【誤】
波線部Ⅰを「意志の弱さを情けなく思う」とするのは「かわいそうだ」という本文の語と合わず、波線部Ⅱの「何かに絞って完成させようとしない」も本文にありません。
③【誤】
「向上しなくてもよいと思っている」「母や祖母に理解させようとしない」は、いずれも本文に根拠がありません。
④【正】
中途半端に終わることを気の毒に思う段階から、自分の手で作り上げられるのに自活していないために叱責され価値を認められないことを残念に思う段階へ、という変化の説明が、二つの波線部に対応します。
問5:正解①
<問題要旨>
本文の表現に関する説明として適当でないものを選ばせる設問です。比喩、現在形の用法、語り手の視点、擬人法が取り上げられています。
<考え方>
19行目の「繭に籠り」は、自分で建てた小屋を繭にたとえたもので、おじさんが自ら選んで籠る場です。また22〜23行目の「耳が聞こえなくなった鳥のように」は、母の怒りを自ら無視して母屋から抜け出す様子の比喩です。したがって、三つの比喩を一括して不本意な状況に置かれていることの比喩だとまとめる説明は成り立ちません。
<選択肢>
①【正】
「繭に籠り」は自分で建てた小屋についての比喩であり、「耳が聞こえなくなった鳥のように」も自ら無視して立ち去る様子の比喩です。いずれも不本意な状況に置かれていることの比喩とは言えないので、これが適当でないものです。
②【誤】
26〜27行目は短い現在形の文が連なり、小屋を訪ねた出来事をその時点に立って描いています。説明は本文に合っているので、適当でないものを選ぶ本問では答えになりません。
③【誤】
48〜49行目は、幼い日の出来事に「教えられていたのだ」と後から意味づけを与える言い方で、現在の視点からの解釈が加わっています。説明は本文に合っているので答えになりません。
④【誤】
73〜74行目は「息を殺して」が擬人法、「夜明けの玉子のように」が比喩で、おじさんの作品を印象的に表しています。説明は本文に合っているので答えになりません。
問6:正解①
<問題要旨>
傍線部C(触角の取れた虫、方向感覚を破壊された鳥という比喩を並べ、おじさんの心配をしながら自分も晴れない霧につつまれたと述べる箇所)での「わたし」の心情を選ばせる設問です。
<考え方>
傍線部Cの直前に、他人から見れば意味が薄いことを自分の熱意だけで続け、どこへ繋がっていくのかも分からないままだという記述があります。傍線部Cはその生き方を比喩で言い直したうえで、末尾で「自分も」霧につつまれたと述べており、おじさんの現状を自分の側の問題としても受け止めた戸惑いだと分かります。
<選択肢>
①【正】
行き先が見えないまま進むおじさんの生き方を問いながら、それを他人事ではなく自分自身の生き方にも関わることとして受け止めて戸惑っている、という説明が傍線部の末尾に対応します。
②【誤】
比喩を知覚の一部を失った生き物と押さえる点は正しいのですが、「おじさんのためにできることはないか悩んでいる」という内容は本文にありません。
③【誤】
「衝動に突き動かされて迷走している」「振り回されることになる自分たち」は、いずれも本文の記述から外れます。
④【誤】
おじさんは熱意をもって続けているのであって、本当にやりたいことが見つからずにもがく姿としては描かれていません。
問7:正解④
<問題要旨>
傍線部D(誰もいない場所でオカリナを吹き、曲にはならないばらばらの音だと述べる箇所)をもとに、結末部分の「わたし」の心境を、冒頭部分と対比させて選ばせる設問です。
<考え方>
冒頭の1〜4行目では、ギターを鳴らしてもどんなメロディーにもならず、自分が撒いた音に自分が不安になって、すぐに返してしまいます。これに対して傍線部Dでは、曲にならないばらばらの音であっても吹き続け、身体の表面が剝がれ落ちる感覚を拾い集めるべきか分からないとあります。すぐ手放した冒頭と、吹き続けている結末という対比を正しく置いているかで切れます。
<選択肢>
①【誤】
冒頭でおじさんに弾くよう頼む場面はありますが、結末を「自分を保護してくれる存在がいることの安心感を手放そうとしている」と読む根拠は本文にありません。
②【誤】
冒頭の「わたし」は小屋で充足感を得ていたのではなく、自分の鳴らした音に不安になっています。前提が本文と食い違います。
③【誤】
「興味が持てるかどうかにこだわらずに挑戦する必要がある」という迷いは本文に書かれていません。
④【正】
メロディーにならない音に不安を覚えてすぐ手放した冒頭と、音がばらばらでも吹き続け、剝がれ落ちるものを拾うべきか分からないとする結末の対比になっており、心もとなさを抱えながら自分の見方が揺らぎ始めていることの自覚として説明できます。
第3問
「わかりやすい言葉づかいについて自分の考えを書く」という課題に取り組んだUさんの【文章】(4段落)と、外来語に関する意識調査【資料Ⅰ】、「インフォームドコンセント」の言い換え提案【資料Ⅱ】、2002年と2022年を比べた調査【資料Ⅲ】が与えられます。資料の数値をそのまま主張の根拠にできるか、文章の構成を整えられるかが問われます。
問1:正解②
<問題要旨>
【文章】第1段落の空欄に、「インフォームドコンセント」という語に注目する理由を明確にする一文を書き加える設問です。【資料Ⅰ】の図1は語をそのまま使うほうがよいかを、図2は言い換え語ともとの外来語のどちらが分かりやすいかを、図3は図2のうちこの語についての年代別回答を示しています。
<考え方>
図1で、インフォームドコンセントを外来語のまま使ったほうがよいとは思わない人は54.7%で、シミュレーション35.2%・リハビリテーション19.8%より高くなっています。図2でも「言い換え語がわかりやすい」が65.5%で、デイサービス40.8%・グローバル56.3%より高いです。二つの図から、この語では言い換えを肯定的に捉える人の割合が他の語より多いと言えるので、それがこの語に注目する理由になります。
<選択肢>
①【誤】
図1で「外来語のまま使ったほうがよい」と答えた割合は、インフォームドコンセントが15.2%で、シミュレーション40.8%・リハビリテーション66.5%より低く、三語中で最も低い値です。数値に反します。
②【正】
図1の54.7%、図2の65.5%はいずれも三語中で最も高く、言い換えを肯定的に捉える割合が他の語より多いと言えます。この語に注目して言い換えの意義を考えるという第1段落の流れにもつながります。
③【誤】
図3はインフォームドコンセントだけの年代別回答なので、年代ごとの意識の差を他の語と比べることはできません。
④【誤】
図3の「もとの外来語がわかりやすい」は10代20.1%・20代22.3%・30代21.9%・40代19.5%・50代15.6%・60歳以上11.2%で、10代が20代・30代より低く、年代が下がるほど高いとは言えません。
問2:正解④
<問題要旨>
【文章】の傍線部A「意義があった」を、どのような意義だったのかが具体的に分かる表現に修正する設問です。
<考え方>
傍線部Aを含む第2段落は、この語が、医師の十分な説明をもとに患者が納得し同意して医療に臨むことを表す語であるのに、当時その概念は浸透していなかったと述べています。【資料Ⅱ】の手引きにも、重要概念として普及定着が望まれるが意味を理解している人は少ないこと、患者の納得を前面に出すことが概念の普及に役立つことが書かれています。説明と納得の重視と、概念を社会に定着させることの二点が揃うものを選びます。
<選択肢>
①【誤】
「外来語を身近な日本語に言い換えるという発想を広める」ことは第2段落の論点ではありません。段落が問題にしているのは、概念そのものの浸透です。
②【誤】
「医師の責任を明確にして患者を安心させる」は本文にも資料にない説明で、「外来語を患者が適切に理解した場合の効果」も第2段落の内容から外れます。
③【誤】
患者の訴えを医師が理解するという向きは、医師が説明し患者が納得するというこの語の意味と逆になっています。
④【正】
医師の説明と患者の納得の必要性を重視する点と、この外来語が表す概念を社会に定着させようとする点の両方を押さえており、第2段落と【資料Ⅱ】の手引きの内容に合います。
問3:(ⅰ)正解④
<問題要旨>
【文章】第3段落の傍線部B(時代が進んでも社会全体として外来語の増加を当然だと考える人が大きく増えるとは限らない、という主張)の根拠として、【資料Ⅲ】から読み取れるものとして適当でないものを選ぶ設問です。図4は「外来語が増えるのは当然だ」とする人の割合を2002年と2022年で比べたもので、横軸は生まれた年を基準に同じ世代が同じ位置に並びます。
<考え方>
2002年の60歳以上は42%で、2022年の60代60%・70代49%・80歳以上44%はいずれもそれより高い値です。したがって「低くなっている」という読み取りは図の数値に反し、これが適当でないものになります。
<選択肢>
①【誤】
同じ年代どうしで比べると20代は86%と85%、30代は76%と77%、40代は78%と74%、50代は64%と69%で、大きな変化はありません。図から読めるので答えになりません。
②【誤】
回答者全体では2002年が63%、2022年が64%でともに六割程度、著しい差はありません。図についてのメモに示されているので答えになりません。
③【誤】
生まれた年を基準にした同じ世代では、2002年20代86%に対し2022年40代74%、2002年30代76%に対し2022年50代69%などと下がる場合が多くなっています。図から読めるので答えになりません。
④【正】
2002年の60歳以上42%に対し、2022年の60代60%・70代49%・80歳以上44%はいずれも高い値です。「低くなっている」とは言えないので、これが適当でないものです。
問3:(ⅱ)正解 21=② 22=⑤
<問題要旨>
【文章】全体を読み直し、加筆と修正を行う設問です。①〜③から加筆の方針を、④〜⑥から修正の方針を選びます。
<考え方>
加筆は、用いる資料の性質と加筆する段落が合うかで決まります。【資料Ⅱ】には用例・意味説明・手引きが載っているので、言い換えの提案がどのような形で示されたかを説明でき、【資料Ⅱ】を扱う第2段落への加筆として適します。修正は、Uさんに与えられた課題が「わかりやすい言葉づかいについて自分の考えを書く」ことである点から決まります。第4段落末尾は外来語への関心を述べるだけで課題に対する結論になっていないので、言葉づかい一般についての結論に置き換えます。
<選択肢>
21=①【誤】
【資料Ⅰ】は2003年、【資料Ⅱ】は2006年の資料で、いずれも提案当時のものです。その後どれだけ定着したかや、意識の変化を示すことはできません。
21=②【正】
【資料Ⅱ】には用例が挙げられ手引きも添えられており、言い換えの提案がどのような形で実践されようとしていたかを示せます。加筆先が【資料Ⅱ】を扱う第2段落である点も整合します。
21=③【誤】
【資料Ⅲ】が示すのは「外来語が増えるのは当然だ」とする人の割合であって、外来語を頻繁に使う人の増加ではありません。その割合も2002年63%から2022年64%とほとんど変わっていません。
22=④【誤】
一つ一つの外来語の意味を理解するという内容にとどまり、わかりやすい言葉づかいについての結論になっていません。
22=⑤【正】
第1段落で、わかりやすく伝えるためには語句を言い換えたほうがよいことがあると述べているので、伝える相手や目的に応じて語句を使い分けることが重要だという結論は、与えられた課題に対する結論として適します。
22=⑥【誤】
医師の用語が患者に伝わるかという医療の場面に限られており、課題に対する結論としては範囲が狭すぎます。
第4問
【文章Ⅰ】は『在明の別』、【文章Ⅱ】は『源氏物語』若菜下の巻で、いずれも病で生死の境をさまよう女性ともののけが描かれます。右大臣(父殿・父大臣)とその娘の大君、右大臣の妹である女君、大君の夫である左大臣という人物関係を押さえたうえで、語の意味・敬語・二作品の読み比べが問われます。
問1:正解(ア)② (イ)① (ウ)③
<問題要旨>
【文章Ⅰ】の傍線部(ア)「いはけなくより」・(イ)「なかなか」・(ウ)「呼ばひののしる」の、ここでの意味を選ばせる設問です。
<考え方>
(ア)の「いはけなし」は幼い意で、「より」は起点を表します。右大臣が娘の大君について仏に訴える場面なので「幼いころから」となります。(イ)の「なかなか」は古語で「かえって・むしろ」の意です。大君がわずかに目を開けたという好転の直後に、居合わせた人々が落ち着くのではなく慌てふためいて「誦経よ、何よ」と騒ぐ流れに合います。(ウ)は「呼ばふ」が大声で呼び続ける意、「ののしる」が古語で大声で騒ぎ立てる意で、悪口を言う意味ではありません。もののけが小さき童に移された直後の場面で、【文章Ⅱ】の「呼ばひののしる」と同じ使い方です。
<選択肢>
(ア)①【誤】
「かわいらしいので」は「いはけなし」の意味ではなく、理由を表す形にもなっていません。
(ア)②【正】
「いはけなし」は幼い意で、幼いころから比類なく思ってきたという父の訴えに合います。
(ア)③【誤】
「言い表せないほど」は「いはけなし」を「言ふ」と結びつけた誤りです。
(ア)④【誤】
「他の子よりも」は「より」を比較と取ったものですが、ここの「より」は起点を表します。
(イ)①【正】
「なかなか」はかえって・むしろの意で、目を開けたのに人々がかえって慌てるという流れに合います。
(イ)②【誤】
「ひたすら」という意味は「なかなか」にはありません。
(イ)③【誤】
「たちまち」は時間の速さを表す語で、「なかなか」の意味とは異なります。
(イ)④【誤】
「一斉に」は人数のそろい方を表す語で、「なかなか」の意味ではありません。
(ウ)①【誤】
「ののしる」を現代語の悪口を言う意味で取った誤りです。古語では大声で騒ぎ立てる意です。
(ウ)②【誤】
泣きながら恋い慕うという意味は「呼ばひののしる」にはありません。
(ウ)③【正】
「呼ばふ」=大声で呼び続ける、「ののしる」=大声で騒ぎ立てる、を合わせた意味になります。
(ウ)④【誤】
祈禱しているのは僧であって、ここで声を上げているのは、もののけが移された童です。
問2:正解②
<問題要旨>
【文章Ⅰ】の波線部a〜cの敬語について、敬語の種類と敬意の向きの組合せを①〜⑤から選ぶ設問です。
<考え方>
aは読経している主体が山の座主なので、地の文に置かれた「たまふ」は書き手から座主への尊敬語です。bは「今はけしうおはせじ」という座主の発言の中にあり、「おはす」は「あり・をり」の尊敬語で、主語は病の大君ですから、座主から大君への尊敬語になります。cの「きこゆ」は補助動詞の謙譲語で、守り申し上げる相手である大君に敬意が向き、地の文なので敬意の主は書き手です。この三つを満たす組合せに絞れます。
<選択肢>
①【誤】
aの判断は正しいのですが、bの「おはす」は丁寧語ではなく尊敬語で、敬意が向かうのも右大臣ではなく主語の大君です。cも地の文の謙譲語なので、敬意の主は人々ではなく書き手です。
②【正】
aは書き手から座主への尊敬語、bは座主から大君への尊敬語、cは書き手から大君への謙譲語で、三つとも語の種類と敬意の向きが合います。
③【誤】
aとcの判断は合いますが、bを丁寧語とし、敬意の向かう先を右大臣とする点が誤りです。
④【誤】
aの「たまふ」が付くのは読経する座主の動作であって、左大臣への敬意ではありません。bの判断も誤っています。
⑤【誤】
aを左大臣への敬意とする点が誤りで、cも地の文の謙譲語なので、人々からの敬意ではありません。
問3:(ⅰ)正解④
<問題要旨>
生徒たちの話し合いの空欄Xに入る発言を選ぶ設問です。【文章Ⅱ】で童に移されたもののけが何と言っているかを説明したものを選びます。
<考え方>
【文章Ⅱ】のもののけの言葉は、長く祈禱で責められるのがつらく、同じ思いを知らせようと思ったけれども、院が身を砕くほどに思い乱れるのを見て、その心苦しさを見過ごせずについに現れてしまった、決して知られまいと思っていたのに、と結ばれます。知られたくなかったという後悔と、見過ごせずに現れたという経緯の二点が揃うものを選びます。
<選択肢>
①【誤】
まわりの者がみな去ってしまったという状況は本文にありません。人を去らせるよう求めたのはもののけ自身です。反省を分かってほしいという内容でもありません。
②【誤】
昔の心が残っているという点に触れるところは近いのですが、謝ろうとする光源氏を憎らしく思うという内容は本文にありません。
③【誤】
本文のもののけは妻が苦しむ様子を間近で見たいとは言っておらず、光源氏の苦しむ姿を見過ごせなかったと述べています。
④【正】
自分がもののけとなって取りついていることを知られたくなかったのに、光源氏のいたわしい姿を見過ごせずに現れてしまった、という本文末尾の二点に対応します。
問3:(ⅱ)正解②
<問題要旨>
空欄Yに入る発言を選ぶ設問です。【文章Ⅰ】で詠まれた和歌が誰の歌でどのような内容かを、生徒Cが和歌の表現から説明します。
<考え方>
和歌の直前に、大君の目つきが妬ましげであること、詠む気配が少しも大君のものではないことが書かれています。和歌は、朝夕胸を焦がす思いをどこで晴らそうかという内容なので、もののけ(女君の思い)の歌で、嫉妬のつらさと、それを向ける先を求める内容として説明できます。
<選択肢>
①【誤】
退治される無念という内容は和歌に詠まれていません。この時点ではまだもののけは駆り移されていません。
②【正】
「朝夕こがす胸のうち」が嫉妬のつらさ、「いづれのかたにしばし晴るけむ」がそれを向ける先を求める言い方に当たり、詠む気配が大君のものではないという直前の記述とも合います。
③【誤】
詠み手を大君とする点が、詠む気配が大君のものではないという本文の記述に反します。左大臣への愛情という内容も和歌からは読み取れません。
④【誤】
詠み手を大君とする点が誤りで、熱にうなされる苦痛という内容も和歌に詠まれていません。
問3:(ⅲ)正解④
<問題要旨>
空欄Zに入る発言を選ぶ設問です。和歌の前後を含めて、【文章Ⅰ】でもののけをめぐる状況がどう描かれているかを説明したものを選びます。
<考え方>
根拠は和歌の前後の二点です。まず、大君の姿は変わってその人とも見えず、左大臣はその違いを見分けないのに、父大臣だけが思いもよらぬ人に似ていると感じ、詠む気配も間違えようがないのに繰り返し不審に思う、とあります。次に本文末尾で、もののけが童に駆り移された後に大君の心が戻り、人々が守り申し上げているのを「はしたなし」と思って御衣を引きかぶります。誰が気づき誰が気づかなかったかという非対称と、正気に戻って気恥ずかしがるという結末の両方が揃うかで切れます。ここでは、二人とも怪しんだとする選択肢や、亡くなってしまうとする選択肢が置かれているので、本文で気づいたのが父の右大臣だけであることを確認するのが決め手になります。
<選択肢>
①【誤】
右大臣が一命をとりとめたと思い、左大臣がもののけに気づくという関係が本文と逆です。出家を決意する場面も本文にありません。
②【誤】
左大臣が女君の仕業だと気づいたという記述はありません。また大君は亡くならず、正気を取り戻します。
③【誤】
左大臣はその違いを見分けていないので、右大臣と左大臣の二人が怪しんだとする点が本文に反します。
④【正】
大君が別人のようになり、左大臣は気づかず父の右大臣だけがそれを女君のものと察したという非対称と、もののけが移された後に正気を取り戻して見られることを恥じたという結末の、両方に合います。
第5問
【文章Ⅰ】は『論語』の一節(孔子が子貢に「予一以貫之」と語る場面)と、江戸時代の漢学者皆川淇園による注釈、【文章Ⅱ】はその弟子である田中履堂の読書論です。語の意味・返り点・句法に加えて、二人の学問観の共通点が問われます。
問1:正解(ア)③ (イ)① (ウ)④
<問題要旨>
波線部(ア)「女」・(イ)「非与」・(ウ)「毎」の、ここでの意味を選ばせる設問です。
<考え方>
(ア)の「女」は「なんぢ」と読む二人称で、孔子が門人の子貢に問いかけている場面ですから「あなた」です。(イ)の「非与」は「非ずか」で、断定を確かめる言い方です。子貢が「然」と答えたうえで問い返し、孔子が「非也」と否定する流れから、違うのですかと確かめる意味になります。(ウ)の「毎」は「〜するごとに・つねに」の意で、「毎謂読書曰」は読書について語るたびにいつも言っていたという文脈ですから「つねづね」です。
<選択肢>
(ア)①【誤】
「かれ」は三人称で、孔子が子貢に直接呼びかけている場面に合いません。
(ア)②【誤】
「だれ」は疑問詞で、「女」の読み「なんぢ」と対応しません。
(ア)③【正】
「女」は「なんぢ」と読む二人称で「あなた」。子貢に向けた問いかけとして通ります。
(ア)④【誤】
「むすめ」は「女」の字面に引かれた読みで、ここでは人称代名詞として用いられています。
(イ)①【正】
「非与」は「非ずか」で、違うのですかと確かめる言い方です。直後に孔子が「非也」と答える流れに合います。
(イ)②【誤】
「そむく」は「非」の意味ではなく、前後の文脈にも合いません。
(イ)③【誤】
受身の「けなされる」に当たる語は原文にありません。「非」は否定の語です。
(イ)④【誤】
「まちがわれた」と過去の出来事のように述べる形は、「非与」という確かめの言い方と合いません。
(ウ)①【誤】
「たまたま」は偶然を表す語で、「毎」の意味ではありません。
(ウ)②【誤】
「ときおり」は頻度の低さを表す語で、「〜するごとに」という「毎」の意味と合いません。
(ウ)③【誤】
「とりわけ」は程度を表す語で、「毎」の意味ではありません。
(ウ)④【正】
「毎」は〜するごとに・つねにの意で、読書について語るたびにいつもそう言っていたという文脈に合います。
問2:正解④
<問題要旨>
傍線部A「夫子擬言其意、以訊之也」について、孔子が子貢の考えを推し量って問いかけた理由を、注釈の筆者がどう推測しているかを選ばせる設問です。
<考え方>
傍線部Aの直前が根拠です。孔子はふだん、子貢が自分をほめる言葉を聞いていて、それが、多くの経書を学び、さらによく暗記してその文を覚え、それによって徳を成し得た人だと言っているように聞こえた、と注釈は述べています。「多学」「強記識其文」「得成其徳」の三つがそろって説明されているかで切れます。
<選択肢>
①【誤】
注釈は、子貢が孔子について多く学び覚えたことで徳を成したと見ていた、と推測しています。子貢が人徳の完成の追求を重く見ていた、という向きにはなっていません。
②【誤】
学者としての名声という要素は注釈にありません。注釈が挙げるのは徳を成し得たという点です。
③【誤】
有徳者を心服させたという内容は注釈にありません。
④【正】
古典を多く学び内容をよく覚え、それによって人格を完成させたと子貢が見ていた、という注釈の推測にそのまま対応します。
問3:正解②
<問題要旨>
傍線部B「日読了数紙、不如日知得数字」の解釈を選ばせる設問です。
<考え方>
「不如」は「〜に如かず」で、前を後に及ばないとする比較の句法です。したがって、日に数紙を読み了えることより、日に数字を知り得ることのほうが上だ、という順序になります。「読了数紙」は数ページ分を読み通すこと、「知得数字」は数文字を確かに自分のものにすることですから、量を読み通すよりも少ない文字を理解するほうがよいという形に落ちます。
<選択肢>
①【誤】
「字」を「句」に、「知り得る」を「覚える」に置き換えています。音読を何度も繰り返すという要素も原文にありません。
②【正】
読み通す量より、数文字の漢字の意味や用法を理解していくことを上とする形で、「不如」の比較の向きと「知得数字」の内容に合います。
③【誤】
「不如」の比較の向きが逆で、多読するほうを上としています。
④【誤】
こちらも比較の向きが逆で、数ページを繰り返し読むほうを上としています。
問4:正解②
<問題要旨>
傍線部C「博者莫所不通達之謂」について、返り点の付け方と書き下し文の組合せを選ばせる設問です。
<考え方>
「莫所不〜」は「〜せざる所莫し」と読む二重否定で、通じないところが一つもない、という意味になります。したがって読む順序は通達→不→所→莫→之→謂で、「博とは通達せざる所莫きの謂ひ」と書き下せます。返り点も、達に一点・不に二点を付けて「通達せず」とし、所と莫にレ点を付けて一字ずつ返る形になっているものを選びます。これなら「精通一書、亦可称博学」と続く文脈、つまり一書に精通することも博学と呼べるという結論にも合います。
<選択肢>
①【誤】
莫に下点、謂に上点を付けて最後に莫へ返る形で、「通達せざる所の謂ひ莫く」と読むことになります。二重否定「莫所不」の読み方から外れ、意味も通りません。
②【正】
達に一点、不に二点、所と莫にレ点が付き、通達→不→所→莫→之→謂の順で読めて「通達せざる所莫きの謂ひ」となります。二重否定の読みにも、一書の精通も博学だという続きにも合います。
③【誤】
謂に一点があるため通達之謂までを先に読み、「通達の謂はざる所莫く」となります。これでは「莫所不通達」の二重否定が崩れます。
④【誤】
返り点は③と同じで、之を「これ」と読んで「通達を之れ謂はざる所莫くして」としますが、やはり通じないところがないという二重否定の意味になりません。
問5:正解 36=④ 37=③
<問題要旨>
二重傍線部a「又」とb「亦」が、ここではどの「また」と同じ意味で用いられているかを、①〜④の例文から選ばせる設問です。同じものを繰り返し選んでもよいとされています。
<考え方>
aは、経書を多く学んだように見えるうえに、さらによく暗記もできた、と積み重ねる箇所なので、事柄を付け加える「そのうえ」の用法です。bは、一巻に精通するやり方は狭く見えるが、それもまた実は博達である、という箇所なので「〜もまた」の用法です。付け加える用法か、前の事柄と並べる用法かで切れます。
<選択肢>
36=①【誤】
「またとない」は他に例がないという意味の慣用表現で、付け加える用法ではありません。
36=②【誤】
「または」は選択を表す接続語で、添加の「又」とは異なります。
36=③【誤】
「運もまた実力のうち」は前の事柄と並べて「〜もまた」とする用法で、これはbの「亦」に当たります。
36=④【正】
「友であり、そのうえまたライバルである」は事柄を付け加える用法で、多く学ぶうえにさらに暗記もできたという「又」に対応します。
37=①【誤】
「またとない」は他に例がないという意味で、「〜もまた」の用法ではありません。
37=②【誤】
「または」は選択の接続語で、「亦」の用法ではありません。
37=③【正】
「運もまた実力のうちである」は「〜もまた」の用法で、狭く見えるやり方もまた博達であるという「亦」に対応します。
37=④【誤】
「そのうえまた」は事柄を付け加える用法で、aの「又」に当たります。
問6:正解④
<問題要旨>
【文章Ⅰ】から読み取れる皆川淇園の学問に対する考え方と、【文章Ⅱ】から読み取れる田中履堂の読書に対する考え方を説明したものを選ばせる設問です。
<考え方>
【文章Ⅰ】の注釈の末尾は、多さや広さを貪れば雑然としてかえって知を暗くするとし、ただ一つの要となる道を得てそれを主とせよ、と結びます。【文章Ⅱ】の田中履堂は、万巻を大ざっぱに目を通すよりも一巻に精通するほうがよいとし、多読する者を博学と讃える世間の見方を退けて、通じないところがないことこそ博だと述べます。二人とも量の多さに価値を置かない点で一致するので、そこを共通点としてまとめているものを選びます。
<選択肢>
①【誤】
淇園を演繹、履堂を帰納として対立させていますが、履堂は多くの具体的な事柄からそれを貫く法則を発見せよとは述べていません。むしろ多読そのものを退けています。
②【誤】
淇園は要領よく学ぶことを説いているのではなく、一つの要となる道を主とせよと述べています。二人の考えを効率の是非で対立させる整理も本文と合いません。
③【誤】
履堂は様々な分野に関係する書物の熟読を勧めているのではなく、一書に精通することを説いています。
④【正】
淇園が雑多な知識に惑わされないよう基軸となる要点を把握せよと説き、履堂が乱読より一書の深い理解を説く点を正しくまとめ、多くの知識を得ることに重きを置かない点で両者が通底するとしています。
※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

