2026年度 大学入学共通テスト 本試験 歴史総合 解答・解説

2026年度 大学入学共通テスト 本試験「歴史総合」の解答と解説です。全設問の正解と考え方を一問ずつ解説し、公式の解答PDFもあわせて掲載しています。大学受験の森が独自に作成した、無料で読める解説です。

目次

解答

解説

「地理総合,歴史総合,公共」は地理総合・歴史総合・公共の3分野から2分野を選択して解答する100点の科目で、試験時間は2分野あわせて60分です。このうち歴史総合分野は50点満点で、第1問・第2問の2大問がともに必答、配点は第1問25点・第2問25点です。解答する項目は全16項目で、冊子全体の通し番号が使われているため、解答番号は1ではなく101から始まり、101〜116となります。なお第1問Aの問3は(1)と(2)に分かれ、解答番号103・104の2つにまたがります

第1問は「災害の歴史」を主題に、Aでマラリアをめぐるモノ・人・病原体の移動と帝国主義的な進出の関係、各国のマラリア研究の動向、1896年から1897年のインドと1984年から1985年のエチオピアで起こった飢饉の要因の比較、1986年のチョルノービリ(チェルノブイリ)原子力発電所事故による環境汚染の広がりを扱います。Bでは災害への対応と災害後の社会に視点を移し、明治期日本の水害と森林保全、関東大震災に対する諸外国からの支援額とその内訳、被災地で歴史資料の保全にあたる民間団体と政府の動きが取り上げられました。第2問は「近現代における都市の変容」を主題に、Aでフランス第二帝政下のパリ改造と社会階層による住み分けの変化、江戸から東京への都市構造の変化、1955年から2000年の東京都の新規住宅着工戸数と公定歩合の関係を、Bで植民地化されたアジアの都市として1880年代のサイゴン、1930年代の京城、1950年代の香港の住民構成を扱っています。

この分野で押さえておきたいのは、2つの大問がどちらも他科目とまったく同一の出題であるという点です。第1問(解答番号101〜108)は「歴史総合,日本史探究」の第1問(解答番号1〜8)と同一第2問(解答番号109〜116)は「歴史総合,世界史探究」の第1問(解答番号1〜8)と同一で、リード文・図・史料・選択肢の文言、設問の区切り、A・Bの分かれ方まで一致しています。つまり歴史総合分野だけの固有の出題はありません。したがって、この分野の演習は「歴史総合,日本史探究」および「歴史総合,世界史探究」の第1問をそのまま使って進めることができ、逆にそれらを選択する受験生にとってもこの2大問は共通の得点源になります。

つまずきやすいのは資料の読み取りの精度が問われる設問です。解答番号107では円グラフの凡例で淡い網かけが「在留邦人」、濃い網かけが「本国人など」に対応しており、この対応を取り違えるとブラジルの3.6%とアメリカ合衆国の11.0%の比較を誤ります。解答番号104ではエチオピア北東地域の降雨量の棒グラフで1984年が少ない側に振れており、最も多い年は1950年であることを見落とすと判断が逆になります。解答番号112のグラフは左右で単位が異なる二軸で、実線が公定歩合(右軸の%)、破線が新規住宅着工戸数(左軸の千戸)ですから、どちらの線をどの軸で読むかを先に決めておく必要があります。解答番号114では朝鮮総督府の移転先が景福宮内の北部で、日本人住民の割合が小さい地域であること、南部にあるのが「旧朝鮮総督府」であることを地図上で押さえれば、移転の方向を入れ替えた選択肢を落とせます。

第1問 災害の歴史(配点25)

歴史総合の授業で、現代的な諸課題の一つとして災害の歴史に着目し、班ごとにまとめの活動を行うという枠組みです。Aは疫病・飢饉・環境汚染を取り上げて災害の要因や開発との関係を考察し、Bは災害への対応と災害後の社会を、パネル・表・レポート・グラフを手がかりに発展的に考えます。

問1:正解 ③(解答番号101/配点3)

<問題要旨>

マラリアをめぐるモノ・人・病原体の移動を矢印で示した図と、矢印S・X・Y・P・Qの説明が与えられ、4つの文のうち正しいものの組合せを選ばせます。矢印は白抜きがモノ、中間の網かけが人、濃い網かけが病原体の移動を表します。

<考え方>

矢印ごとに「どこからどこへ」「いつのことか」を先に確定させます。Sはアンデス地方原産のキナノキをヨーロッパへ持ち帰った17世紀前半のモノの移動、Xは大西洋三角貿易で労働力として移動させられた人々で16世紀以降、Yはキナノキを原料とする治療薬を活用してアフリカ分割を推し進めたヨーロッパ人の移動で19世紀後半です。PとQはいずれも南アメリカへの病原体の移動で、Pはアフリカからの人の移動に、Qはヨーロッパからの人の移動に伴います。年代が確定すれば前後関係は機械的に決まります。

<選択肢>

あ【誤】

Yのアフリカ分割は19世紀後半、Xの大西洋三角貿易による人の移動は16世紀に始まっています。YはXの開始より後であり、時期の前後が逆になっています。

い【正】

Sは17世紀前半、Yは19世紀後半です。SはYより前に起こったことになります。

う【正】

Pはアフリカから南アメリカへの病原体の移動で、同じ向きの人の移動Xが奴隷として送られた人々を表しています。Pはこの人の移動に伴って起こったと考えられます。

え【誤】

Qはヨーロッパから南アメリカへの人の移動に伴う病原体の移動です。ヨーロッパ人が南アメリカへ渡るのはコロンブスの西インド諸島到達より後のことで、これも時期の前後が逆です。

正解【③】

年代を確定させた矢印どうしを比べると、正しいのは「い」と「う」の組合せになります。

問2:正解 ③(解答番号102/配点3)

<問題要旨>

イギリス・日本・アメリカ合衆国が19世紀末以降に行ったマラリア研究の動向をまとめた表が与えられ、日本の研究対象地域を示す空欄と、各国の研究が何のために利用されたかを示す空欄に入る語句・文の組合せを選ばせます。

<考え方>

空欄は1つずつ独立に決めます。前半は下関条約で日本が獲得した地域を問うもので、条約の内容を思い出せば足ります。後半は表に並ぶ研究対象地域、すなわちアフリカやインド、パナマ運河開削時のラテンアメリカの共通点から決まります。いずれも各国の勢力圏・植民地・運河開削地にあたり、時期が19世紀末から20世紀前半であることが判定の決め手です。

<選択肢>

ア=台湾【正】

下関条約で日本が獲得したのは台湾・澎湖諸島・遼東半島です。表の日本の研究対象地域として台湾が入ります。

ア=朝鮮【誤】

下関条約で清は朝鮮の独立を認めましたが、日本が朝鮮を獲得したわけではありません。韓国併合は1910年で条約とは別の出来事です。獲得地と独立の承認の取り違えです。

イ=自らの勢力圏や植民地を維持・拡大する【正】

表に挙がる研究対象地域はいずれも各国の勢力圏・植民地・運河開削地です。マラリア撲滅を目指した研究がその支配の維持・拡大に利用されたと読めます。

イ=第三世界の台頭に対抗する【誤】

第三世界が国際政治の場で台頭するのは1950年代以降です。表が示す19世紀末から20世紀前半という時期と合いません。

正解【③】

獲得地は台湾、研究の目的は勢力圏・植民地の維持拡大にあたるため、この組合せが正解です。

問3(1):正解 ④(解答番号103/配点3)

<問題要旨>

1896年から1897年にインドで発生・拡大した飢饉と、1984年から1985年にエチオピアで発生・拡大した飢饉をまとめた2つのパネルが与えられ、それぞれの飢饉の時期に起こった出来事を述べた2つの文の正誤の組合せを選ばせます。

<考え方>

パネルに明記された年代を押さえ、文中の出来事の年代と突き合わせるだけで決まります。一方は1896年から1897年、他方は1984年から1985年です。出来事の年代がこの範囲から外れていれば誤りと判断できます。

<選択肢>

あ【誤】

非暴力・不服従運動はガンディーが1919年以降に指導し、1920年代に本格化した運動です。1896年から1897年の飢饉の時期からは20年以上離れており、時期が合いません。

い【誤】

イタリアによるエチオピア侵略は、1895年に始まる戦争と、1935年に始まる侵攻です。1984年から1985年の飢饉の時期に始まったものではありません。

正解【④】

2つの文はいずれも飢饉の時期と出来事の年代がずれているため、ともに誤りとなります。

問3(2):正解 ②(解答番号104/配点3)

<問題要旨>

2つのパネルを比較した結果をまとめた2つのメモが与えられ、その正誤について述べた文を選ばせます。一方のパネルには飢饉が発生した地域と年間降雨量1,000mm以下の地域を重ねた地図、他方には1945年から2000年までの降雨量の指数を示した棒グラフが付いています。

<考え方>

棒グラフには、灰色の部分が平均的な降雨量を示し、棒が灰色より上だと例年より雨が多かった年、下だと少なかった年を意味すると注記されています。まず矢印が付された年の棒がどちら側に伸びているかを確認します。1984年を指す矢印の棒は灰色より下に伸びており、少雨の年です。灰色より大きく上に突き出た棒には1950年の矢印が付いています。これで一方のメモの後半が崩れます。もう一方のメモは両方の事例に共通する要因を問うもので、各パネルに書かれた要因を並べれば判定できます。

<選択肢>

メモ1【誤】

後半の記述が棒グラフの読みと合いません。矢印で示された1984年の棒は平均を示す灰色の部分より下に伸びており、雨が少なかった年です。最も多雨の年を指す矢印は1950年に付されています。目盛りと注記に従えば、最も降雨量が多かった時期に発生したという読みは否定されます。

メモ2【正】

一方のパネルには「不作にもかかわらず穀物の輸出が継続され、食糧価格が高騰した」という経済的な要因が、他方には隣国との戦争や国内政治の混乱という政治的な要因が記されています。どちらの事例でも経済または政治の状況が飢饉の深刻化に影響したと言えます。

正解【②】

棒グラフの読みで一方のメモが崩れ、他方は両パネルの記述から成り立つため、メモ2のみ正しいとする選択肢が正解です。

問4:正解 ④(解答番号105/配点3)

<問題要旨>

1986年4月26日に起こった原子力発電所事故に由来する放射性雲の一部が5月8日までに移動した経路を矢印で示した地図を含むレポートが与えられ、発電所があった国が当時属していた国家を示す空欄と、地図から分かることを示す空欄に入る語句・文の組合せを選ばせます。

<考え方>

前半は事故が起こった1986年という年で決まります。ウクライナを構成国としていた国家がこの年に存在していたかどうかを確認します。後半は矢印の到達範囲を見ます。矢印は発電所の位置から西へ大きく蛇行し、西ヨーロッパや北ヨーロッパにまで達しています。当時の東西の陣営の境界をまたいで広がっていることが読み取れます。

<選択肢>

ウ=ソ連【正】

1986年当時、ウクライナはソヴィエト社会主義共和国連邦の構成共和国でした。

ウ=独立国家共同体(CIS)【誤】

独立国家共同体が発足したのはソ連解体に伴う1991年です。1986年にはまだ存在せず、時期が合いません。

エ=政治体制の違いにかかわらず、広い地域において見られた【正】

矢印は東側の発電所から西ヨーロッパ・北ヨーロッパへ及んでおり、当時の東西両陣営にまたがって環境汚染が広がったことが地図から読み取れます。

エ=特定の政治体制の地域においてのみ見られた【誤】

矢印が東側の地域にとどまらず西ヨーロッパまで達している点と矛盾します。「のみ」という範囲の限定が地図の読みで否定されます。

正解【④】

1986年の時点ではソ連の構成国であり、汚染は政治体制を越えて広がったと読めるため、この組合せが正解です。

問5:正解 ①(解答番号106/配点4)

<問題要旨>

江戸時代以来の森林伐採とはげ山、明治時代の大規模な洪水、オランダ人技師デ=レーケをはじめとするお雇い外国人の意見を聞いた森林・河川の保全、そして1900年頃からの燃料用木材の生産量の減少を述べたレポートが与えられ、そこから読み取れる事柄やその背景として最も適当なものを選ばせます。

<考え方>

レポートの「産業革命の過程で主要なエネルギー源が変化した」という一文が、どの転換を指すのかを具体化するのが筋道です。日本の産業革命期に主要な燃料が何から何に替わったかを思い出せば、燃料用木材の生産量が減った理由が説明できます。ほかの選択肢は、レポートに書かれている内容と時期や範囲が食い違うかどうかで落とせます。

<選択肢>

①【正】

産業革命の過程で主要なエネルギー源が木材から石炭へ転換したため、燃料用木材の需要が減り、生産量が減少しました。これが森林資源の減少に一定の歯止めがかかった理由にあたります。

②【誤】

気候変動に対する国際的な関心が高まるのは20世紀後半以降です。お雇い外国人が招かれた明治初期の背景としては時期が合わず、背景の取り違えです。

③【誤】

生糸は当時の最大の輸出品で、生産の拡大は輸出の増加と結び付いています。そのほとんどが国内で消費されたというのは事実に反します。

④【誤】

レポートは森林の伐採が進んだのを「江戸時代以来」としています。森林破壊が明治維新の後に始まったとするのは、示された記述と時期が食い違います。

正解【①】

エネルギー源の木材から石炭への転換が燃料用木材の減少を説明するため、①が正解です。

問6:正解 ⑤(解答番号107/配点3)

<問題要旨>

ブラジル・中華民国・アメリカ合衆国からの関東大震災への支援額とその内訳を示した3つの円グラフが与えられ、グラフから読み取れる事柄3つと、グラフに示されたいずれかの国の当時の状況2つの組合せを選ばせます。円グラフの上には各国の支援額の合計が、下には「在留邦人」と「本国人など」を区別する凡例が付いています。

<考え方>

円グラフは凡例の網かけの濃さを先に確定させます。淡い網かけが在留邦人、濃い網かけが本国人などです。次に、問われているのが割合か実数かを区別します。円の中の百分率は割合、円グラフの上に示された合計額は実数で、この2つを混同すると読みを誤ります。ブラジルは淡い網かけが96.4パーセント、中華民国は濃い網かけが71.2パーセント、アメリカ合衆国は濃い網かけが89.0パーセントを占め、合計額は順に306、2,599、30,930(単位1,000円)です。

<選択肢>

あ【誤】

ブラジルの「本国人など」は濃い網かけの3.6パーセント、アメリカ合衆国の「在留邦人」は淡い網かけの11.0パーセントです。3.6は11.0より小さく、「高い」は成り立ちません。凡例の濃淡を取り違えると逆に読んでしまう箇所です。

い【誤】

中華民国は淡い網かけの「在留邦人」が28.8パーセント、濃い網かけの「本国人など」が71.2パーセントです。在留邦人の支援額は本国人などを上回っていません。

う【正】

円グラフの上の合計額を比べると、アメリカ合衆国30,930に対し中華民国2,599、ブラジル306(いずれも単位1,000円)です。3か国の中で最も多額でした。

X【正】

アメリカ合衆国では1924年の移民法により日本からの移民が事実上禁止され、排日的な動きがありました。グラフに示された国の当時の状況として適当です。

Y【誤】

五・四運動は1919年に起こった運動で、1923年の関東大震災より前の出来事です。震災後に発生したとするのは時期の前後が逆になっています。

正解【⑤】

合計額の比較から「う」が、グラフに示された国の当時の状況としてXが成り立つため、この組合せが正解です。

問7:正解 ②(解答番号108/配点3)

<問題要旨>

1995年から2012年までの、被災地で歴史資料の保全活動を行う民間団体(史料ネット)の結成と政府の動きを並べた表と、検討委員会のまとめの一部が与えられ、2つの震災名が入る空欄の組合せと、表から読み取れる事柄2つの組合せを選ばせます。

<考え方>

空欄は震災の発生年で決まります。1995年と2011年に起こった大震災をそれぞれ当てはめます。読み取りの方は、表に並ぶ史料ネットの結成年を1つずつ確認するのが筋道です。震災の発生年と一致しない結成年が1つでもあれば、「いずれも」という言い切りは崩れます。もう一方は、民間団体が保全した対象と、まとめが定めた政府側の保全対象を突き合わせて判定します。

<選択肢>

あ(オ=阪神・淡路大震災/カ=東日本大震災)【正】

阪神・淡路大震災は1995年、東日本大震災は2011年の発生で、表の年次と一致します。

い(オ=東日本大震災/カ=阪神・淡路大震災)【誤】

2つの震災の発生年が入れ替わっています。

X【誤】

表には2005年の岡山県、2010年の福島県、2012年の徳島県での結成が挙がっており、これらは大きな震災で被害が発生した年ではありません。「いずれも」という言い切りに反例があります。

Y【正】

史料ネットは国などから指定を受けていない文化財を含む歴史資料を保全しており、まとめも保全対象を未指定の文化遺産も含めたものと定めています。民間団体と政府の双方で、指定の有無によらず地域の文化財を保全する動きが見られたと言えます。

正解【②】

震災名の組合せは「あ」、読み取りはYが成り立つため、この組合せが正解です。

第2問 近現代における都市の変容(配点25)

「近現代における都市の変容」を主題とする班別学習の報告という枠組みで構成されています。Aは第二帝政期パリの都市改造と江戸・東京の近代化を、集合住宅の図版・地区別の階層分布図・パネル・グラフで比較する内容、Bは植民地化されたアジアの都市(サイゴン・京城・香港)を取り上げ、会話文・地図・円グラフから住民構成と都市の性格を読み取らせる内容です。

問1:正解 ④(解答番号109/配点3)

<問題要旨>

19世紀前半のパリの集合住宅を階ごとに描いた図版と、1872年のパリで地区ごとの社会階層の構成を円グラフで示した分布図、そしてそれらをまとめたノートが与えられます。ここから読み取れる事柄やその背景について述べた文として、最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

二つの図が示す「住み分け」の軸が入れ替わっていることに気づけば決まります。集合住宅の図版は、同じ建物の中で2階・3階が間取りも広く調度も豪華、4階・5階は狭く調度も少ないという上下の差を描いており、これは建物内での垂直的な住み分けです。一方1872年の分布図は、地区ごとに労働者層・中間層・富裕層の構成が異なることを示しており、こちらは地域的な住み分けにあたります。ノートは都市改造の結果として前者のあり方が「次第に姿を消していった」と述べているので、変化の方向は垂直的から地域的へ。背景は19世紀半ばに進んだ工業化であり、高度情報化社会は20世紀後半以降の現象なので当てはまりません。

<選択肢>

①【誤】

変化の方向(地域的から垂直的へ)が逆であるうえ、背景を「高度情報化社会が成立するなかで」としている点も時期が合いません。高度情報化社会は20世紀後半以降の現象で、19世紀半ばの都市改造の背景にはなりえません。

②【誤】

変化の方向(垂直的から地域的へ)は正しいのですが、背景を「高度情報化社会が成立するなかで」としているのが時期の誤りです。

③【誤】

背景の「工業化が進展するなかで」は正しいのですが、変化の方向が逆です。集合住宅の図版が示すのが垂直的な住み分け、1872年の分布図が示すのが地域的な住み分けであり、姿を消していったのは前者です。

④【正】

工業化が進むなかで、同一建物内の上下による住み分け(垂直的)から、地区ごとの住み分け(地域的)へ移行した、という二つの図とノートの読み取りに一致します。

正解【④】

集合住宅の図版が垂直的な住み分け、1872年の分布図が地域的な住み分けを示しており、姿を消したのが前者だと押さえれば変化の方向が確定します。

問2:正解 ②(解答番号110/配点3)

<問題要旨>

ノート中に登場する「フランス皇帝」が在位している間に起こった、フランスの対外関係上の出来事について述べた二つの文の正誤の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

まず「フランス皇帝」がだれかを確定します。19世紀半ば以降に積極的な対外政策とともにパリの大規模な都市改造を主導したのはナポレオン3世で、在位は1852年から1870年までです。あとは二つの文が述べる出来事の年代を一つずつ確定し、この範囲に収まるかどうかで判定します。長州藩への報復砲撃は1863年から1864年、イギリス・ロシアと結んでオスマン帝国領の分割を取り決めた協定は第一次世界大戦中の1916年です。

<選択肢>

あ【正】

1863年に長州藩が下関海峡で外国船を砲撃したことへの報復として、フランスは砲撃と陸戦隊の上陸を行いました。翌1864年の四国艦隊下関砲撃事件にも、イギリス・アメリカ合衆国・オランダとともに加わっています。いずれもナポレオン3世の在位中の出来事です。

い【誤】

イギリス・フランス・ロシアがオスマン帝国領の分割を取り決めたのはサイクス=ピコ協定(1916年)で、ナポレオン3世の退位(1870年)より半世紀近く後のことです。時期の前後による誤りです。

正解【②】

皇帝をナポレオン3世(在位1852〜1870年)と特定し、1863〜64年の下関砲撃は在位中、1916年の協定は在位後と年代で切り分けます。

問3:正解 ④(解答番号111/配点3)

<問題要旨>

江戸・東京における都市構造の変化を、江戸の状況・旧町人地での文明開化・旧武家地での都市計画・郊外の宅地化という4項目でまとめたパネルが与えられます。その中の四つの下線部から、誤っているものを選ぶ設問です。

<考え方>

下線部が指す事象の時期をひとつずつ確定するのが最短です。郊外に建てられた文化住宅は、和風の住まいに洋風の応接間を組み込んだ住宅で、都市の中間層が郊外へ移り住んだ大正期(1920年代)に広まったものです。日露戦争(1904〜05年)までにはまだ現れていません。残る三つは、物資の輸送路、煉瓦街の建設時期と場所、鹿鳴館の目的と立地のいずれも実態に合っています。

<選択肢>

①【正】

18世紀に人口100万人を超えた江戸へは、大坂から江戸へ向かう南海路の菱垣廻船・樽廻船や、東北地方から太平洋を回る東廻り航路によって、各地の物資が運ばれていました。

②【正】

1872年の大火の後、東京では銀座に煉瓦街が建設され、文明開化の象徴となりました。そうした動向が旧町人地の中でもごく一部の地域に限られたという記述も実態に合っています。

③【正】

鹿鳴館は1883年に旧武家地に建てられ、欧米諸国との条約改正の実現をねらう欧化政策の一環でした。市区改正という都市計画事業で道路が整備され、旧武家地の都市化が進んだという記述も正しいです。

④【誤】

文化住宅が郊外に広まるのは大正期(1920年代)で、日露戦争(1904〜05年)までではありません。時期を前にずらした誤りです。

正解【④】

文化住宅は大正期の郊外住宅であり、「日露戦争までに」という時期の指定が誤っています。

問4:正解 ③(解答番号112/配点3)

<問題要旨>

公定歩合(日本銀行が市中銀行に貸し出す際の金利)と東京都の新規住宅着工戸数を、1955年から2000年まで重ねて示したグラフが与えられます。そこから読み取れる事柄二つと、その背景の説明二つとの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

二本の線をどちらの軸で読むのかを先に決めます。実線が公定歩合で右側の%の目盛り、破線が新規住宅着工戸数で左側の千戸の目盛りです。左の250と右の10が同じ高さに並んでいるので、実線の高さを25で割れば%に直せます。実際、1955年の実線は180の高さ、すなわち7%台で、1995年以降は12前後の高さ、すなわち0.5%前後と読めます。この読み方で1970年代を追うと、1971〜72年は公定歩合が下がる一方で着工戸数は増えて22万戸台の山をつくり、1973〜74年は公定歩合が9%まで上がる一方で着工戸数は12万戸前後まで落ちています。つまり両者は逆向きに動いており、「同じ向きに変化した」は成り立ちません。1990年代は公定歩合が6%前後から0.5%前後まで下がり続けるのに対し、着工戸数は15万〜17万戸で横ばいです。背景は、地価・株価の急落から始まる低成長期が1990年代、「列島改造」を掲げた内閣の公共投資が1970年代前半の話だという時期の区別で決まります。

<選択肢>

あ【誤】

1970年代は、公定歩合が下がると着工戸数が増え、公定歩合が9%まで上がると着工戸数が12万戸前後まで落ちるという逆向きの動きになっています。「同じ向きに変化した」は読み取りとして成り立ちません。

い【正】

1990年代は、実線の公定歩合が6%前後から0.5%前後まで下がり続けるのに対し、破線の着工戸数は15万〜17万戸の幅で横ばいのまま推移しています。金利が下がっても着工が伸びなかったという読み取りです。

X【正】

地価や株価の急落による低成長期、いわゆる平成不況は1990年代の状況です。金利を下げても住宅着工が伸びない背景として、読み取り「い」に対応します。

Y【誤】

「列島改造」を掲げた内閣が公共投資を拡大したのは1970年代前半で、1990年代の横ばいの背景にはなりません。時期のずれによる誤りです。

正解【③】

1990年代に公定歩合が下がっても着工戸数が伸びなかったという読み取り「い」に、低成長期という背景Xが対応します。

問5:正解 ③(解答番号113/配点3)

<問題要旨>

「東南アジア各地は、ヨーロッパ諸国によって植民地化されています」という発言の下線部について述べた文として、最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

選択肢ごとに、宗主国と植民地の対応、そして品物や人の流れの向きを確かめます。ビルマは3度のビルマ戦争を経て1886年にイギリスに併合され、英領インドの一部として統治されました。残る三つは、貿易の流れの向き、拠点をおいた国、独立を保った国のいずれかが入れ替えられています。

<選択肢>

①【誤】

オランダが強制栽培制度でインドネシアに導入したのは、コーヒーやサトウキビなどを本国へ輸出するための単一栽培でした。「オランダから輸入される農産品への依存」では流れの向きが逆になります。

②【誤】

マラッカを拠点としたのはポルトガル、続いてオランダ、さらにイギリスで、スペインではありません。スペインがアジアで拠点としたのはマニラです。主体の入れ替えによる誤りです。

③【正】

ビルマはビルマ戦争の結果1886年にイギリスに併合され、英領インドの一部として植民地統治を受けました。

④【誤】

英仏植民地の緩衝地帯として独立を保ったのはタイ(シャム)です。カンボジアは1863年にフランスの保護国となり、のちにフランス領インドシナに編入されています。主体の入れ替えによる誤りです。

正解【③】

ビルマが英領インドに組み込まれたという対応が正しく、ほかは貿易の向きや宗主国・独立国が入れ替えられています。

問6:正解 ①(解答番号114/配点3)

<問題要旨>

1930年代半ばの京城(現ソウル)の中心部を示した地図と、人口構成・地名の付け方・総督府の建物についての説明を並べたパネルが与えられます。これに関して述べた四つの文について、正しいものの組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

地図の中央を東西に流れる河川を境に、南北で地名の型と人口構成が分かれていることを押さえます。パネルは、朝鮮人が多い居住地には朝鮮式の「洞」、日本人が多く居住する地区には日本式の「町」の名称が使われたと述べ、1936年の日本人の割合を南部52%、北部8.7%と示しています。地図では河川の南側に日本式の町名と日本の百貨店の支店が並び、北側には「洞」の地名と、王宮の敷地内に新しく建てられた総督府があります。年代の判定は、三・一独立運動が1919年、政府開発援助(ODA)が第二次世界大戦後の枠組みであることから機械的に決まります。

<選択肢>

あ【正】

地図では河川の南側に日本式の町名が並び、日本の百貨店の支店も置かれています。日本人が多く居住する地区には日本式の「町」の名称が使われたというパネルの説明とも一致します。

い【誤】

総督府の建物が新たに建てられたのは王宮の敷地内、すなわち河川の北側で、日本人の割合が8.7%の地域です。移転前の建物が南側にあったのですから、移転先は日本人住民の割合が小さい地域になります。割合の大小を取り違えた誤りです。

う【正】

三・一独立運動は1919年で、1930年代半ばはその後の時期にあたります。

え【誤】

政府開発援助(ODA)による援助は第二次世界大戦後の枠組みで、1930年代半ばには存在しません。時期の誤りです。

正解【①】

河川の南側に日本式の地名と百貨店が見えること、1930年代半ばが三・一独立運動より後であることの二つが成り立ちます。

問7:正解 ②(解答番号115/配点3)

<問題要旨>

第二次世界大戦後の香港の経済発展を支えた背景として、1950年代に着目してまとめたノートが与えられます。ノート中の二つの空欄に入る語句の組合せを選ぶ設問です。

<考え方>

一つめの空欄は「中国の人民義勇軍が介入した」戦争を問うものです。人民義勇軍が参戦したのは朝鮮戦争で、1950年のことです。二つめの空欄はノート全体の結論にあたるので、ノートが挙げている事実を数えます。ノートは、人口が1945年8月の60万人から1955年の250万人へ急増したことと、繊維製品やプラスチック製品を生産する労働集約型製造業が発展したことを挙げており、豊富な労働力が発展を支えたという筋になります。重工業への優先投資はノートのどこにも出てきません。

<選択肢>

ア=朝鮮戦争【正】

人民義勇軍が介入したのは1950年の朝鮮戦争です。これを受けてアメリカ合衆国がイギリスに対中貿易の停止を求め、香港と中国との貿易が途絶えたという流れもノートに合います。ベトナム戦争が本格化するのは1960年代以降で、1950年代に着目するノートの枠組みと合いません。

イ=周辺からの労働力の流入【正】

ノートが挙げているのは人口の急増と、繊維・プラスチックという労働集約型製造業の発展です。安価で豊富な労働力の流入が発展を支えたという結論になります。「重工業への優先投資」は資本集約型の産業の話で、ノートの記述とは方向が逆です。

正解【②】

人民義勇軍の介入から朝鮮戦争を、人口の急増と労働集約型製造業の発展から労働力の流入を選びます。

問8:正解 ②(解答番号116/配点4)

<問題要旨>

1880年代のサイゴン、1930年代の京城、1950年代の香港の住民構成を示す三つの円グラフが与えられ、どのグラフがどの都市にあたるかを推定した二つのメモが示されます。それぞれのメモの正誤について述べた文として、最も適当なものを選ぶ設問です。

<考え方>

三つの円グラフの数値と、会話文・ノート・パネルが示す数値を突き合わせます。1936年の京城は人口約68万人のうち日本人が約13万人で、割合にすると19%前後。これは宗主国の人が18.7%を占めるグラフに対応します。香港については、1931年の調査で非中国人が人口全体の約3%にとどまり、その後も内戦から逃れた中国人が流入して人口が急増しているのですから、現地の人の割合は減っていません。現地の人が98.1%を占めるグラフが1950年代の香港にあたります。残る一つ、華僑・華人が38.2%を占めるグラフがサイゴンで、華僑・華人が植民地官僚や商人であったフランス人より多かったという会話文の指摘とも一致します。

<選択肢>

メモ1【誤】

宗主国の人が18.7%を占めるグラフは、1936年の京城(人口約68万人のうち日本人約13万人で19%前後)に対応します。また香港では1931年に非中国人が約3%にとどまり、その後も中国からの流入で人口が急増しているので、現地の人が占める割合が1931年より減少しているという前提そのものが成り立ちません。もっともらしい理由づけが実際とは逆向きになっています。

メモ2【正】

華僑・華人が38.2%で宗主国の人7.9%を上回るグラフは、華僑・華人の方が主に植民地官僚と商人であったフランス人よりも多かったという1889年のサイゴンの人口構成に一致します。残る二つのグラフに華僑・華人の区分がないことも根拠になります。

正解【②】

宗主国の人18.7%が京城、現地の人98.1%が香港、華僑・華人38.2%がサイゴンという対応が数値から決まり、メモ2だけが正しいことになります。

※ 本記事の解答・解説は当サイトが独立に作成したものです。公式の正解および配点は大学入試センターの発表をご確認ください。

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